Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現代人の衛生観⑤

2008-03-04 12:53:30 | 民俗学
(跡見学園女子大学大学院人文科学研究科日本文化専攻の教授と院生による論文「明治期女子教育における衛生観の形成―『女学世界』を読む―」(『信濃』60-1)から読み取る現代人の衛生観その5である。)

5.清潔な人はどこへゆく

 ポスターが不快感を与えるといってJRがその掲示を認めなかった黒石寺の蘇民祭はまだ記憶に新しい。ポスターのどこが不快と感じるのかというところでテレビなどでも議論にあがった話題であるが、街角のインタビューで女性たちが天を仰ぐ男性のヒゲと胸毛たりの雰囲気に違和感を持っているという意見があったことは事実である。背景にふんどし姿の男性が何人も写っているがそれらも問題部分は細工されているというから、やはりメインの人物の著し方に待ったがかかったということになるのだろう。

 跡見学園女子大学の大学院生も、論文のなかで脱毛のことに触れている。「多くの男性が、女性は肌がツルツル、長くてサラサラしている髪の毛、細い身体であるが、出る部分は出て引き締める部分は引き締める身体といった、女性を好む」と女性視点の男性意識を捉えている。そして「女性は露出部分の身体に毛があるべきではないという考えまで生じ、毛の処理をしていない女性を「だらしない」という認識を作り出してしまったのではないだろうか」と女性たちの美容意識に触れる。さらに「男性が好む女性像の影響で、身体に生える毛(顔・腕・足・脇・ビキニライン・指・背中・腹)を嫌う女性は多いが、髪の毛を嫌う女性はいない。髪の毛は、長い方が女性らしいと、これも男性の理想とする女性像の影響で、髪の毛を伸ばすことを好む女性は非常に多い。しかし、自分の頭から抜け落ちた髪の毛は嫌いで、「汚い」と感じてしまう。例えば、洗面台に落ちてしまった髪の毛・お風呂場に浮いている髪の毛を「汚い」「不潔」だと考える人は非常に多い。」と続ける。

 男性の意識と違っていて当たり前である。しかし、現代の男性にもこれら女性と同じ意識の人がいても不思議ではない。自らのものであっても身体から一度離れてしまえば、不潔なものとなりうる。長い髪の毛が女性らしさだとしても、それがそこらに落ちていれば、不快感を覚えるのは男性も同じである。この髪の毛というものについては、かなりの人が意識するものである。触れられているように、風呂の湯に浮いている髪の毛は、自らのものとわかっていてもできれば浮いていてほしくないものである。目に見えるモノというのもその意識を生む原点にあり、食べ物屋さんで髪の毛でも混ざっていれば全く食べる気はなくなる。ところが、どこかのギョーザではないが、致死量の農薬が入っていたからといって、不快感は持たない。それは見えないからであって、農薬はともかくとして、小さなゴミが混ざっていたとしても何も思わないだろう。

 触れる、見える、臭うといった人にとってはかつてに比較すると鈍くなってしまった道具なのに、わたしたちはその鈍った道具で人とのかかわりを避けているわけである

 さてこれほど人と触れなくなった人間は、いったいどこへ行くのだろうなどと考えたりする。これほどの衛生観をもちながら、若者は裾を引きずって歩く。以前にも触れたように、電車のなかはもちろん、路上にバックを置き、そのまま自宅のベットの上にそのバックを置くかもしれない。このアンバランスの現実を見るに、彼女たちも触れているように、身なりなり姿形だけを意識した衛生観なのかもしれない。それは人と乖離しているからこそ大きくなる意識ともいえる。接しない人、時代、すべてにおいて孤立化していく時代に、人間としての知恵は生まれない。

 終わり
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