Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

町の自動車屋さん

2008-03-19 12:42:44 | ひとから学ぶ
 先ごろ車検に出して懇意にしている営業さんと話しをする機会があった。わたしにとって現在乗っている車は、6台(代)目である。今の若い人達なら初めから新車に乗るのだろうが、わたしの時代にはそんな若者はそうはいなかった。「最初は中古車」という合言葉のようなものまであった。当時なら中古車で100万円は高級車。買えるのはせいぜい4、50万といったところだった。ということは中古といっても5年落ちくらいのもので、当時としては故障が出始めるころになる。わたしなどは昭和48年車だったからそれ以上経過していた車である。今も地元にある中古車を中心にした販売会社で購入したものだが、すでに下回りには錆が出ていて、後にそこに穴が開いたものである。海岸端で利用されていた車なのかどうかは解らないが、当時ちまたに走っている車をみると、けっこう錆びの浮き出た車は多かった。そして当然のようにマニュアル車のわけだが、今のようなスムースなギアのチェンジはできず、そのたびに車に衝撃が走ることもしばしばだった。ようは今の車のように誰でも運転上手のように感じる車は少なかったといえる。それだけ個々の運転の仕方で違いが出るわけで、運転の上手下手ということが言葉で聞こえる時代だった。

 今のように5年以上経過した車でも故障をあまりしない時代ではなく、そのくらいになると頻繁に故障することも当たり前だっただけに、いわゆる町の自動車屋さんというのは身近になるわけである。当時豪雪地飯山に5年暮らし、車との生活の始まりをそこで暮らした。まだまだ駆け出しのドライバーは、「故障」と日々付き合いながらの5年であった。当然のようにそこに町の自動車屋さんとの付き合いが始まる。そしてその自動車屋さんは住んでいたアパートへの帰り道にあって、特別な用事がなくとも立ち寄っては世間話をしていたものである。故障はもちろんのこと、消耗品の交換といえば、部品を購入しその交換の仕方を教わったり、また故障の詳細を聞いたりと、ずいぶんと当時の車はシンプルで、今とは違いわたしにも理解できる世界であったわけである。そんな付き合いがあっただけに、車をきっかけにした付き合いは深いものになっていた。

 そして飯山を離れるとともに、そんな町の自動車屋さんとの付き合いはいまだにない。しばらくの後、新車を購入してそうした故障とはとりあえず無縁な時代に入った。それでもかつてのそんな付き合いが欲しくて、新車を購入したディーラーさんにはたびたび足を運んだものである。会話をするからお互いのことも知る。ところが、やはり町の自動車屋さんとは違う。それは営業さんと整備屋さんを兼ね備えていた町の自動車屋さんに対して、ディーラーの営業さんは、整備屋さんではないのだ。したがって故障に対する技術的なことは解らない。もちろんその理由や経緯、そしてどういうことをするとそういう現象が起きるということも、営業さんにはあまり知識はない。もちろん故障しないからそんなことを聞くこともないのだが、どこかそんな関係は、かつての町の自動車屋さんとは違うわけである。

 さて、車検での営業さんとの会話で、整備工場の窓口には行きづらいということを話した。縦割りされた空間では、営業という顔と、整備だけを担当する顔にはどうしても違いが出てくる。もちろん営業さんの顔が冷たければ、その営業さんは実績を上げられないだろうから、そんな顔をすることはない。いっぽう整備屋さんにとっては、指示された通りの仕事をこなしていくのだから、あまり顔を気にすることもない。そんな分けられた空間、ようは落差のある空間がわたしには馴染めない。それは今のディーラーさんだけではなく、これまで経験したいくつかのディーラーさんに共通する。もちろん、もっと安くやってくれるチェーン店など今はあるが、あくまでもわたしには町の自動車屋さんとのかかわりが欲しいのである。そんな付き合いをかつてしてきたことを、営業さんと話しをしたわけである。現在では、そういう苦情もあって、整備フロントでは気を使っているということだが、どうしてもわたしはかつての付き合いと比較せざるをえない。

 ちなみにかつて世話になった飯山の自動車屋さんを検索してみたら、現在も営業されているようだ。わたしよりは10歳以上は年上だったから、だいぶ年をとられたこととは思う。
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