Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

限界家族

2008-03-07 12:27:50 | 農村環境
限界集落といって高齢者比率の高いムラに対して危機感を扇いでいるが、そんな集落は山間だけにあるものではなく、都会にもあるというのは知られている。そうした集落という位置づけがどう意味があるかは解らないが、山間にあっては、家が点在しているから都会のそれとは明らかに違うものだといえる。ようは集落間の距離もあるだろうし、隣近所との距離もある。ようは住んでいる人がまばらということは、そこに連絡すべく情報も減少しかねないということである。そうした地域で連絡の綱ともされてきたかつての有線放送というものも今や枯渇している。ケイタイ時代への変化は、遠くにいても密接に連絡が取れるという錯覚を抱いているわけである。しかし、そうした意識があるはずなのに、例えば災害でも起きると、声だけではその状況が把握できない。いや、そうした情報が得られないような地域もある。人は、ふだん耳から得る情報からどれだけ映像を想像しているか、あまり意識をしたことはないはずだ。そして今や声ではなく、文字という情報が日常化してきている。ようはメールである。そこからどう背景を想像できるか、そしてそうした情報伝達時代に適応できているのか、おそらく大きな情報格差というものがあるということを薄っすらと覚えるわけである。

 わが家から駅までを歩いていて、とくに暗闇の中で気がつくことがある。もちろん毎日のように歩いているから、その道沿いにある家々の風景が見えてくるのだが、家々の明かりが乏しいことである。それが温室ガス低減のための施策で乏しいというのならまだしも、そんな動きがまだあるはずもないのに乏しいのだから、理由は違う。家構えが大きくとも小さくともさほどそこに変わりはない。ようは家ごとの住人が少ないということである。おそらくという推定ではあるが、毎日のようにその家の様子が目に入ると、どうみても「この家は1人暮らし」と解る家がいくつか目に入るわけだ。構えは大きくとも1人しか見たことがないともなると、そこには「家族」という顔が浮かんでこない。冒頭の社会問題にもなっている集落も課題は多いのだろうが、けして農村はそれだけではなく、限界ではない地域においても大きな問題を抱え始めている。とはいってもこれは長野県内のある地域のことであって、どこでも同じ状態であるとは言わないが、純粋な農村地帯にあって、農業を見放している人が多いとこんなものなのである。あくまでも「農」という字が冠せられる「地方」である。長野県内をみて「農」という字が適当でない地域など地方都市の中心部だけであり、そう誰もが思っている。しかしいまだ「農」という形容が当たり前にあることに不思議さも覚える。そこには「農」なるものを見放している人々が住んでいる。その人々はその地域を「農」村地帯といわれてもちっとも不思議だとは思っていない。

 さて、1人暮らしの家の顔もあるが、普通なら夫婦揃っているはずなのに、と思われる子どものいる家でも女の顔しか見えない家もある。ひとそれぞれの事情をもっているのは言うまでもないが、農村地帯から「家族」という形が絶滅状態にあるようにも感じられる。
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