1985年8月12日の夕刻、羽田から伊丹に向かう日本航空123便が
群馬県の御巣鷹山に墜落しました。
客席後部の圧力隔壁が補修工事のミスによる金属疲労のために
破裂し、垂直尾翼を損傷、制御用の油圧装置も機能しなくなり
ダッチロール状態で墜落し、乗客乗員520名死亡、奇跡的に4名生存という
驚愕の事故が起こりました。
あれから今年で37年です。
新聞では小さな扱いでしかありません。
あのときを振り返っておきたいと思います。
・日本航空123便墜落事故 - Wikipedia
・日航機墜落事故 写真特集:時事ドットコム
1985年の当時の前にその3年前に遡っておきたいと思います。
1978年に入社し、西宮の阪神支社に配属になった私は、1982年10月に
当時の大卒配属の一般的な期間より少し早めに本社部門に転勤になりました。
その配属先は事務屋にしてはとても変わっていて、機器開発部門でその中でも
「技術開発チーム」という要素技術開発をベースに次世代の機器開発部署でした。
チームの構成員は、東大、京大、阪大、神大、東北大、九大など難解大学や大学院出身で
まるで学生時代の部活のような雰囲気の若いチームでした。
その技術屋集団に技術のことがわからない事務屋が入ったので最初は戸惑いましたが、
楽しく過ごしていまいた。
現場に配属されたときは毎日が本当に忙しくて、仕事を処理するのに苦労し、
残業も多かったですが、新しい職場では、「近未来住宅プロエクト」に配属され、
1990年代の住宅のあり方を考え、その住宅に相応しい設備を開発し、実際に立てた住宅で
実証検証するというチームでした。
その中で、色々検討し、自分で考えた設備は、家族の団らんを促進させるものとか
機能だけでなく情緒に訴える気持ちの良さと安全、省エネを実現するようなものなど
いくつかあり、特許も申請したりしたモノもありました。
前置きが長くなりましたが、研究を重ね、メーカーさんともうつ合わせを重ねて、
試作機を作り、2×4工法で戸建住宅を立て、実証データーを取得する準備を
していたのが8月12日です。
準備を終えて、先輩と実験住宅の近所の居酒屋で酒を飲んでいました。
その時に、店内のテレビで事故が発生し、日航機が行方不明になっているという
ニュースが流れていました。
帰宅すると、テレビは日航ジャンボ機の事故の報道で終止していました。
翌日は、朝から一人でデーターを取得する担当になり、直接実験住宅に行きました。
30点のデータをプロットする記録計の用紙を2時間毎に交換するだけの仕事です。
実験住宅には当時としては非常に珍しかった50インチくらいのテレビを置いており、
ずっとニュースを観ながら仕事をしていました。
別の部署の先輩からは、定期的に電話が入り、御巣鷹山の捜索状況の確認があり、
生存者が発見されヘリコプターに救助される状況を電話口で先輩に実況していました。
日航機事故の背景に、当時の労組と経営陣との争いがあったとも言われており、
それをテーマにした山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」は何度か観ました。
※WOWOW連続ドラマ「沈まぬ太陽 (全20話)」 - KOfyの「倍行く」人生 2020年05月16日
※沈まぬ太陽(映画版)の2度目の視聴 - KOfyの「倍行く」人生 2021年02月03日
8月にデータを取得したり、近未来住宅の見学対応したりしている中、
その年の10月に転勤になり、商品を開発する立場から、商品の販売企画を
する部署に移動になり、再び、残業の連続になる超多忙の部署になりました。
あの日航ジャンボ機の墜落事故の時代が私の会社生活の一つの転機になった時期でした。
群馬県の御巣鷹山に墜落しました。
客席後部の圧力隔壁が補修工事のミスによる金属疲労のために
破裂し、垂直尾翼を損傷、制御用の油圧装置も機能しなくなり
ダッチロール状態で墜落し、乗客乗員520名死亡、奇跡的に4名生存という
驚愕の事故が起こりました。
あれから今年で37年です。
新聞では小さな扱いでしかありません。
あのときを振り返っておきたいと思います。
・日本航空123便墜落事故 - Wikipedia
・日航機墜落事故 写真特集:時事ドットコム
1985年の当時の前にその3年前に遡っておきたいと思います。
1978年に入社し、西宮の阪神支社に配属になった私は、1982年10月に
当時の大卒配属の一般的な期間より少し早めに本社部門に転勤になりました。
その配属先は事務屋にしてはとても変わっていて、機器開発部門でその中でも
「技術開発チーム」という要素技術開発をベースに次世代の機器開発部署でした。
チームの構成員は、東大、京大、阪大、神大、東北大、九大など難解大学や大学院出身で
まるで学生時代の部活のような雰囲気の若いチームでした。
その技術屋集団に技術のことがわからない事務屋が入ったので最初は戸惑いましたが、
楽しく過ごしていまいた。
現場に配属されたときは毎日が本当に忙しくて、仕事を処理するのに苦労し、
残業も多かったですが、新しい職場では、「近未来住宅プロエクト」に配属され、
1990年代の住宅のあり方を考え、その住宅に相応しい設備を開発し、実際に立てた住宅で
実証検証するというチームでした。
その中で、色々検討し、自分で考えた設備は、家族の団らんを促進させるものとか
機能だけでなく情緒に訴える気持ちの良さと安全、省エネを実現するようなものなど
いくつかあり、特許も申請したりしたモノもありました。
前置きが長くなりましたが、研究を重ね、メーカーさんともうつ合わせを重ねて、
試作機を作り、2×4工法で戸建住宅を立て、実証データーを取得する準備を
していたのが8月12日です。
準備を終えて、先輩と実験住宅の近所の居酒屋で酒を飲んでいました。
その時に、店内のテレビで事故が発生し、日航機が行方不明になっているという
ニュースが流れていました。
帰宅すると、テレビは日航ジャンボ機の事故の報道で終止していました。
翌日は、朝から一人でデーターを取得する担当になり、直接実験住宅に行きました。
30点のデータをプロットする記録計の用紙を2時間毎に交換するだけの仕事です。
実験住宅には当時としては非常に珍しかった50インチくらいのテレビを置いており、
ずっとニュースを観ながら仕事をしていました。
別の部署の先輩からは、定期的に電話が入り、御巣鷹山の捜索状況の確認があり、
生存者が発見されヘリコプターに救助される状況を電話口で先輩に実況していました。
日航機事故の背景に、当時の労組と経営陣との争いがあったとも言われており、
それをテーマにした山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」は何度か観ました。
※WOWOW連続ドラマ「沈まぬ太陽 (全20話)」 - KOfyの「倍行く」人生 2020年05月16日
※沈まぬ太陽(映画版)の2度目の視聴 - KOfyの「倍行く」人生 2021年02月03日
8月にデータを取得したり、近未来住宅の見学対応したりしている中、
その年の10月に転勤になり、商品を開発する立場から、商品の販売企画を
する部署に移動になり、再び、残業の連続になる超多忙の部署になりました。
あの日航ジャンボ機の墜落事故の時代が私の会社生活の一つの転機になった時期でした。