コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

如何に死ぬるか・・・。三たび親鸞に遇う。

2021-05-10 | life

最初に親鸞に出遇ったのは、もう半世紀も前の若き日に「歎異抄」を手にしたとき、次いで「得度」をしたとき、そして三たび目は「親鸞全集」10巻を読み返した今日この頃である。コロナ禍と言ふもこれぞまた転禍為福

既に晩年と言って聊かの年の不足もない自分だが、本当に親鸞聖人との出逢いにしみじみと感謝と喜びを感じている。

親鸞の主著「教行信証」の総序の一節に、

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」とある。

「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」正にその通りなのだ。幾たび生まれかわり、死にかわり、どれだけの時を経ても「まことの信心」は得難いのである。今、それを得ることが出来たことは宿縁なのである。

人間誰しも平等に与えられているのは、1日24時間という時間である。趣味に生きるのも、グルメや旅行(まあ、これらも趣味の範疇なのだが)もいいだろう。はたまたブログの明け暮れも悪くはないだろう。
だがしかし、好むと好まざるとに関わらず人は皆、日々刻々と人生の終焉に向かっている。命の残りを刻む秒針の音が聞こえてきはしないか。

「そんなこと考えたこともないわ」という声も聞こえてきそう。それはそれで幸せかも。いやいや、考えるのが怖いからだろう。私をして言わしむれば「如何に生きるか」とは「如何に死ぬるか」と同義語にも等しい。死は待つものではない。見つめていくものである。

「コロナは怖い」「ガンはイヤだ」。コロナやガンで死ぬのではない。命があるから死ぬのである。
子の曰く「朝(あした)に道を聞けば、夕べに死すとも可なり。」

 読了し気分も清し青葉風         いつもの私なんだけど何故か新鮮!

                        yo-サン元気です。今宵はこれにて。


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