コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

近況心境・歌日記 「一枝の桜花」

2017-04-25 | Weblog

爛漫の桜花(さくら)の画像は多けれどこの一枝に勝るはなけれ 
この春は花見もせぬうちに若葉が萌え出してきた。まあ花見はせぬとも不都合はないのだが。
しかしながら、ネットでは爛漫の桜花の画像が溢れていた。いずれもよく撮れているが、私が気にいったのがこの1枚である。ネットの友人である和歌山のTさんがupされたものを拝借した。
Tさんは絵も描かれる方で、さすがそのセンスが偲ばれる。
画像の背景はよく分からないが、岸辺の桜である。並木なのか、それともこの1本だけなのか、
想像するのもおもしろい。水面に映る魚影がまたいい。

あれこれと思い煩う日々なれど季(とき)は静かに移ろいてゆく
3年前に断捨離だ、やれ終活だと身辺をあれこれ整理し始めたが、いつの間にやら元の木阿弥。
山頭火の句に「捨て切れぬ荷物の重さ前後ろ」がある。何もかも捨てきった漂泊の俳人にも重たい物が残っていた。果してそれは何だったのだろうかと考えてみる。
ふと、彼の句「いつとなくさくらが咲いて逢うてわかれる」を思い出した。春は季節の始まり、出会いの時かもしれないが、加齢とともに別れの方が多くなった私である。会者定離、無常は人の世の無情でもある。
前号で、静御前の「しづやしづ・・・昔を今になすよしもがな」を記したが、叶うものならば本当に、昔を今になしたいものだと思う。

疲れてくると海や湖に無性に合いたくなる。ゆったりとした水面を日がな1日眺めていたいとしきりに思うこの頃。少し前に、出張の帰路に束の間だが日本海の海と近隣の町にある湖(池かな)を眺めてきた。







立ち寄りし港の町の賑わいにふと見かけたる懐かしき顔  
ふと立ち寄ったSCでの出来事である。そう言えば、かのひとはこの町の近くに住んでいたのである。
人違いかなと振り返ってみた。声を掛ける勇気もなくその後ろ姿を見送っていた。やや白くなった髪が過ぎ去った時を感じさせるのであった。春なのにセンチ物語は似合わないかな・・・。
もう少し余裕が出来たら琵琶湖へ行こう。新緑のメタセ並木にも合いたい。今宵はこれにて。


コメント (1)

ヒトリシズカの花の咲く頃

2017-04-07 | Weblog
(画像はWikipediaより拝借)
藪陰にひっそりとしてすがやかに一人静の花咲きました  故・鳥海昭子さんの歌

今はむかし、「ヒトリシズカ」という花の名前は知っていたが、実際に見たことはなかった。
ある日のこと、野遊びが趣味の方と北潟湖を望む山里の道を吉崎御坊に向かっていた。
その方はふと道端に車を止めて、「降りてみませんか。ヒトリシズカです」と指差した。
その時に初めて本物を見た。花言葉は、「静謐」とか「隠された美」だそうだ。義経の愛した静御前の舞姿に擬えて名付けられたといわれるが、清楚で、ひっそりと野に咲く姿は、「吉野静」(ヒトリシズカの別名)。さもあらん。
義経と静御前の吉野山での別れから「吉野静」とも呼ばれる。静御前は京の白拍子、さぞや美しい女性であったのだろう。
9日から鎌倉祭が始まる。毎年、鶴岡八幡宮の舞殿で「静の舞」が演じられる。一度は鑑賞したいものである。「しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな」、静御前の声が聞こえてくるようだ。

やがて、吉崎御坊の蓮如忌も始まる。越前の春の風物詩である。この頃になるとあの山里で見たヒトリシズカを思い出す。案内してくれた方とは今は疎遠になっているが、いつかまたあの道を訪ねたいと思うこの頃である。

閑話休題
先日、金沢の方から送って頂いた新聞記事(北陸中日)。yo-サンのまあ近影かな。近年、色々とあって心身共に万全とは申せないが、激ヤセからは快復しているようだ。皆さまからのお心遣いに感謝している。



コメント (2)