コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

近況・心境 文は人なり

2022-09-07 | Weblog

ある会の文芸誌が本年で終刊となる。私は会員ではないが乞われて創刊以来20年書いてきた。いよいよ最後の原稿を脱稿した。バックナンバーを繙いてみると、故人となられた方が何人もある。皆それぞれ生きてきたことの一つの証でもある。

創刊号の巻頭には、もう故人となられたが福井の詩壇をリードされた広部英一氏(詩誌・木立同人)より詩「夏空」が寄せられた。なぜか私のエッセイが次に。

その次の福田強氏は会の創立者であり、中野重治記念丸岡町立図書館(現・坂井市立)館長をされた。亡くなられてやがて7年になるが、私は長年氏の薫陶を受け恩人でもある。

この誌のネーミングは丸岡町(現・坂井市)出身の内田忠(大正、昭和前期頃の詩人、昭和19年39歳で没)の同人詩集「山桐」からとった。福田氏の本心は山桐本来の詩集にとの思いであったが、詩は簡単そうに見えても、とても才能のいる文芸なので書き手があまりいなかったようだ。私自身、詩は好きだがその才なく書けない。

私は生来、文を書くことは好きであった。小学生の頃の綴り方に始まり、読書感想文、青春時代は当時流行っていた若者向け月刊誌や抒情文芸誌に投稿。長じては新聞の随想等の連載、著書出版等。書くことは私の自己表現であり、常にアイデンティティの確認でもあった。

この頃は殆どの原稿は編集者の方からの要望で、パソコン打ちした原稿をEメールに添付送信する。以前は原稿用紙に書いていた。愛用の万年筆で升目を埋めて行くのがとても快い作業でもあった。勿論今でも筆記用具は万年筆である。漢字などを忘れると即辞書を引き、まずはメモ紙に書く。何よりのボケ防止でもある。ネットで一発で分かるが又すぐに忘れる。と言うか正確に書けなくなる。所謂、漢字ゲシュタルトが崩壊してしまうのである。読めても書けない人は多い。

近年は遅筆も著しくなった。今回も締め切りはギリギリ延ばして頂きながら推敲も十分出来ず終いであった。しかしながら書き終えた後の安堵感の中で飲む久々のビールの味は格別であった。ふだんはあまりアルコールはやらない。

<閑話休題>

長年、多くの方々の文章を読んできたが、読むほどに書き手の人柄、性格、或いは価値観等が解って面白い。文章とは必ずしも纏った作品に限らない。手紙やハガキ、或いはEメール、ブログもまたしかりである。取り分け私の専門のカウンセリング心理学からも裏付けられる。当に文は人そのものである。

締め切りまでに何日間もの時間をかけて書き上げた作品などは、書き手にある程度の文学的素養や文章作法も備わっている。また推敲も重ねているのでピタリと当たると言う訳ではないが、当たらずとも遠からずである。

日々更新されるブログの類は、前者のような背景はあまりなく、思いのままに書き連ねていることが多いので、その人の行動傾向がよく見えてくる。勿論、文章の巧拙を論じている訳ではない。多くのブログなるものを読んできたが、その書き方や内容を分析・考察して「ブログ人間模様」なんて書いても面白いかなと思っているこの頃である。今宵これにて。