コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

友・朋あれこれ・・・。 再編集

2021-01-24 | Weblog
有朋自遠方来、不亦楽乎 
  元はと言えばブログで知り合った方、所謂ブロ(グ)友であったが、ほどなく本物の友となった方である。以前にも書いたが、リアルな畏友として交流頂いている東京の、
くりのみさんこと鈴木新太郎氏クリックOKです)からニュースレター「落穂拾い」が届いた。便宜上「友」と記しているが、彼と私は「朋」である。共通点が多い。とてもよく似たことをやっている。彼の主催するワークショップにも伊豆は稲取へお招き頂き一宿一飯の恩義(ちょっと使って見たかった言葉です)でもある。
敢えてお名前を記したが、彼は(私も同様だが)ご自身のブログでも、お名前やお住まい等も公表されている。カウンセリングをする人間にとって【自己開示】は極めて当然である。何処の誰だか分からない他人(ひと)に、自分の人生や心を語れないからである。また、匿名で書いているカウンセラーなんて私は信用しない。たまにそのようなものに出くわしても、大したことなど書いていない。何処かで聞いたような受け売りばかりである。

「有朋自遠方来、不亦楽乎」は論語の「学而編」の中にあるが、一般的な読み下しは「朋有り、遠方より来たる、また楽しからずや」なのだが、便りが届くのも「朋来る」と同様に楽しいものである。
「友」と「朋」とは少しニュアンスが違っている。「友」とは気が合う、趣味が同じなどの感じ。つまり、友人、お友達である。
「朋」は同門、或いは「志を同じゅうする仲間」って感じかしら。まあ、その両方合わせて「朋友」なんて呼んでいるが。(出来の悪い元・束の間の高校国語教師の成れの果て。漢文は苦手ときているからご寛容に。)

親鸞聖人は常に「御同朋」「御同行」と呼びかけて下さった。同じお念仏に生かされているからに他ならない。ということで、くりのみさんと私は「同朋」「同行」であり「一味同心」とも言える。

いずれにしても英語ならfriendだろう。
友、友人、とてもいい言葉だ。私のカウンセリングも常にfriendlyな姿勢でやってきた。それはまたrapport(ラポール)でもあるから。
ブログのご縁で、友子さんという方との交流もある。とても佳いお名前だといつも思う。名は体を表すと言うが正にfriendlyな佳人である。

名前に因んでもうお一方。本ブログと他の会員制交流サイトでの「友達」に幸子さんと言う方がある。そちらでは本名や顔写真もupするシステムである。そのお顔が頗るいい。にこやかで幸せそうで、さすが!
「幸子」さん。
長年、講演や法話の中で【幸せそうなお顔でいると幸せになる。反対に不幸せそうなお顔だと幸せはやってこない】と話してきた。この幸子さんはお名前やお顔は勿論のこと、生き方もとても素敵な方だ。
それでは今宵ひと時、頬笑みのレッスンなど如何かしら。

ようやく雪害から解放されて、久々にゆっくり日曜を過ごしたyo-サンでした。 Let's take a tea break.



感謝!雪害お見舞い

2021-01-13 | Weblog

どうも有難うございます。
沢山の方々より温かな応援メッセージを頂戴致しました。心より感謝申し上げます。 
若干の不自由はありますが無事に過ごしておりますので他事ながらどうぞご安心下さい 
少しばかり近況をup致しました。(画像は2、3日ぶりの新聞です)
 






 幹線道路も少しずつ復旧しております。しかしながら路面状況が極めて悪い上に、放置車両(立ち往生でドライバーが脱出)もあり渋滞は顕著です。
  私も4駆ジムニーで数日ぶりの外出をしてきました。ふ だんなら10分程度の道のりですが、1時間ほど掛かりました。脇道に入ると、車は荒波の小舟のようです。でも、さすがジムニーです。雪路の段差も難なく乗り越えます。雪国では冬には4駆は必要です。私は56豪雪以来、冬期間はずっと4駆です。 
                                 
私宅は昔から食料や様々な物の備蓄が多い家なので特に困ることはないのですが、生鮮食品や日配物は限度がありますので、早い回復を願っています。   
大切なことはBe prepared 、「備えよ常に」という意味です。ボーイ・スカウトやガール・スカウトのモットーです。長年、そのリーダー研修等をさせて頂きましたが、私の方が学ばせて頂くことばかりでした。「いつ如何なる時・場所で、如何なることが起こった場合でも対処出来るように、常々準備を怠らないこと」なんですね。   


私の事務所前(本宅のお店の駐車場と併用)も重機が入りきれいに除雪されました。
スタンバイOKのジムニーとタント(フルタイム4駆・通年街乗り乗りです) 
今回の大雪は18年以来約3年ぶりですが(クリックしてみてね)
私の場合38豪雪(昭和38年)、56(昭和56年)豪雪も経験して来ました。38の時は家の2階の窓から出入りしたほどの積雪でした。   
56の時には、その前年に初めてジムニー(4駆)を買いました。冬用なのであまり乗らない(3シーズンはセダンに乗ります)ですが3度入れ替えています。   

  

  この道路状況では常用のセダンはしばらく乗れません。








           


 お店(本宅)の前はまだ雪がいっぱいです。当分は休業です。







    ということで、
    近況でした。今宵はこれにて。Thank you again.



淡い溜息

2021-01-11 | Weblog
(画像はWikipediaより拝借)

五十年経てなお慕う人がありスノードロップの淡いためいき       海昭子 
               
「雪の花」の別名を持つ、かれんな花です。半世紀を経てもなお大切に想う人がいます。うつむいた優しい花の姿は「初恋のため息」をついているようにも見えました。

再び(2018年2月以来の)大雪に振り込められて途方に暮れ、或いは寂寞感を覚えた昨日今日である。そんな時、ふと脳裏をかすめたのが冒頭の、ラジオ深夜便の誕生日の花と短歌の故・鳥海昭子さんの歌である。
このような歌を想ひ出すというのも、ほんのちょっぴり心の余裕が出てきたのだろうか。

それは、拙ブログ開設以来、互いにフォローしあっているM.mさんから大雪お見舞いのメールが届いたことに起因するのかも。
彼女は折々にお手紙やお心尽くしのお品を頂く。他のSNSでも交流があるが、未だお会いしたことはない。でも本当にお心のやさしい方である。
私が生涯かけて提唱してきたカウンセリングマインド「他人(ひと)の痛みの解る」心をお持ちの方である。とても感謝している。
北陸の大動脈である北陸道も国道8号もストップ、鉄道もバスも運休、昨日も今日も新聞は来ない。スーパーもコンビニも商品棚はガラガラだと言ふ。されど人々は黙々と除雪作業をしている。

冬はまだこれからなのだが、ひたすら春を待ち侘ぶyo-サンでした。
しんしんと雪降る夜に。




年末年始 近況・心境 (補筆修整)

2021-01-03 | life
何となく啄木の歌 口遊む大森浜の初恋の歌
(本文とはまるで関係がありません。いつも勝手に啄木の歌が口から出てしまうのです。)

昨年(12月)最後のリモート・オンライン講義が無事終了した。画像左上が講義中の私。マスクをしてパソコン画面に向かって講義している。他の5画面は各会場でご参加風景。

終活の日々(ひび)、日々(にちにち)の終活に勤しんでいる私にとって、ブログを書くこと、或いは他者のそれを読むことも、その優先順位は随分と後方に遠ざかった。昔から他人(ひと)様の私生活には関心が薄いこともあるのだが。人皆等しく与えられている1日24時間の「時」の配分がブログにはあまり使えなくなった。やっておきたいこと、やらねばならないことが限りなく多いのである。

近年は年相応に目も見えにくくなり、右手指が第2関節変形症で痛くなり字が書きにくくなった。それでも愛用の万年筆は離せない。紙の上をすべるように、なめらかな書き心地は何とも言い難い。手紙や葉書は勿論、短歌や俳句もワードで打っても始まらない。
スマホやパソコンで字を書く(打つのだが)ばかりだと、漢字のゲシュタルトが崩壊する。私は字を書いていて、ある字が思い出せない時は躊躇わず辞書を引く。若い頃から辞書を買うのが好きであった。広辞苑や大言海からポケットサイズまで大小様々なものを持っている。最近は辞書を見るのにルーペを使うこともあるが、件の字をメモ紙に写して、序でにその前後の字を読むのも面白い。
長年多くの研究会・勉強会や講演会の講師をしてきた。いつもご参加の方より「何でもよくご存じですねぇ」なんて言われたが、未だに知らないことの多さに内心忸怩たる思いである。
今更遅きに失したが、それでも辞書は元より膨大な蔵書を読み漁っている。

閑話休題
近年、賀状は極力出さないことにしてきた。今年は往時の10分の1にも満たない程度で殆どを失礼した。生来、手紙や葉書を書くのは好きだ。特に昨年はメールなどのやり取りの無い方々に便りを認めた。頂いた返信も沢山あり、やはり自筆の便りは味わい深くよいものだ。

(この画像は12月に届いたもの)



中には巻紙に毛筆で認められたお便りもある。墨痕鮮やか、墨絵調の冬木立にも趣がある。スマホの画像も悪くはないが、このような人の心や温もりには程遠い。



私にとっては、このような方々が「友」と呼ぶに相応しい。ブログのコメントなど、どのように書いた(打った)としても、お顔は勿論、名前も住所も分からないのは何だか寂しい。所詮はバーチャル、何かの弾みに瞬時に消えてしまう。まあ、匿名性の中の慰みであるのかも。
「ブロ(グ)友」等と言う言葉があるようだが、私にとってそのように表現できる方はごく少数である。そのいずれの方もお顔(写真)は勿論、住所氏名も名乗り合っている。時にはお便りやメールでの交信もある。(私なりに)友と呼ぶにはその辺りが必須条件と思っている。当然のことながら、それは皆それぞれなので一向に構いはしない。
末筆ながら、冒頭の啄木の歌は
   砂山の砂に腹這(はらば)ひ
   初恋の
   いたみを遠くおもひ出(い)づる日
ご存じ「一握の砂」の1首である。

何故か、年が改まっても殊更何の感慨もなきこの頃のyo-サンでした。
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