コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

お涅槃に因んで。 明恵上人追慕(終段です)。

2019-02-24 | life
前号よりのつづきです。
明恵上人追慕
明恵上人は治承4年(1180)数え9歳の時、母を亡くし、その年11月に父・平重国(たいらのしげくに)を戦で喪いました。
身寄りのない上人は、京都洛西は高雄にある神護寺におられたた叔父、上覚師を頼り、その師であられた文覚師のもとで得度されました。その後前述のように紀州でご修行され、再び京都に戻られました。後鳥羽上皇より栂尾の地を賜って、華厳の道場・高山寺(こうさんじ)を建立されたのです。
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「きょうと栂尾高山寺・・・♪」、久しく訪ねていませんが。

あるとき、明恵上人は山辺の路に居眠りする子犬を跨いだ後に、両親の生まれ変わりではないかと思い直し、振り返って拝んだと「伝記」にもあります。上人は子犬を可愛がり、その子犬を模した運慶作(快慶作とも)の「木彫りの子犬」も高山寺にあります。志賀直哉は「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と言われたそうです。

上人は、早くに両親を亡くされたのですが、特にお母さまへの想いは篤いものがありました。高山寺に「仏眼仏母像」(国宝です)という絵像があります。上人の持仏でした。白く何段にも重なった沢山の連弁の上に、白く美しい女性をイメージする仏さまの絵像です。上人にとっては幼くして別れたお母さまであったのでしょう。その仏像の絵の右側には
モロトモニ アハレトヲホセ ミ仏ヨ キミヨリホカニシルヒトモナシ と書かれ、更にその横に「无耳法師之(みみなしほうしの)母御前也(ははごぜんなり)、哀愍我(われをあいびんしたまえ)、生々世々(しょうじょうぜぜ)不暫離(しばらくもはなれず)、南無母御前、々々」そして、左側には「南無母御前、々々、釈迦如来滅後遺法御愛子成弁、紀州山中乞者敬白」と記されています。

上人は、「何度生まれ変わっても私はあなたから離れることはありません。お母さま、お母さま」とお呼びかけになられたのです。学徳兼備にして眉目秀麗の明恵上人、お心の中には、いつも、お釈迦様と、お母様がおられたのですね。
序でに「モロトモニ」歌は、「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」、そうです。百人一首の前大僧正行尊の歌の本歌取りになっています。
明恵上人の母の遺品と言われている櫛が高山寺にあります。金泥で南無阿弥陀仏と書いてあります。お母様の形見として大事になさっていたのでしょう。
閑話休題
実はこの話の途中、私自身が感情移入してしまい、不覚にも涙ぐんでしまいました。会場はと言いますと、水を打ったような静寂の後、すすり泣きが聞こえて来ました。講話が終わった後、一人の妙齢のご婦人が私の控の間においでになり、「私も昨年、母を亡くしました。お話しをお聞きしているうちに、泣けてきてしまったのです。」と話されました。
故・高田好胤師が、よく「亡くなってから本当の対話が始まる」と仰っていました。そのようなことをお伝えしながら、しばらくの時間を過ごさせて頂きました。

講話はまだ、私が「お念仏に行きついた」ところへと続くのですが、それはまたの機会に致しましょう。お粗末でした。
今年辺り、どなたか高山寺に参りましょうか。旅は道連れとか。長年一人旅派のyo-サンでしたが、加齢の所為か気の弱りかしら。今宵はこれにて。
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お涅槃に因んで その2 明恵上人

2019-02-23 | life
こんにちは。通称yoーサンこと 仏教者にしてCounseling Supervisorの米沢豊穂です。
今回もチョイ難しいお話なので、ご関心無き方はスルーして下さい。

前号からのつづきです。
お釈迦様を敬慕なさった方の一番は、やはりこの方栂尾の明恵上人だと思います。
ご自分を釈尊遺愛の子と称されて、何度もお釈迦様の国、印度(インド)への旅を思われました。印度の仏跡参拝が悲願であられたのです。何度もその計画を立てられましたが、この間、種々の出来事があり、ついに叶うことはありませんでした。明恵上人の高弟・義林坊喜海師の記された。「明恵上人伝記」の中に
  遺跡(ゆいせき)を洗へる水も入海(いるうみ)の石と思へばなつかしき哉
というお歌があります。
紀州は白上山(湯浅町の山)に草庵を結ばれご修行をなさいました。ここから眺望する湯浅湾が美しく、鷹島、刈磨(藻)島をこよなく愛されました。栖原海岸からこの島々をシルエットに沈みゆく夕陽は絶景と言われています。(私も一度は行きたいと思いつつ未だ・・・。)
上人は、その二つの島の浜辺で小石を拾われ、終生大切に持たれました。この海の水は釈尊のおられた印度の海とも繋がっているという思いから、その小石をお釈迦様とも思われたのでもあります。いつも身から離さず愛撫されていたと伝えられています。その「鷹島石」、「蘇婆石」と呼ばれる、この二つの小石は今も高山寺に保存されています。

明恵上人は本当に釈尊を敬慕して、いやいや、お釈迦様を好きで好きで堪らなかった方でした。私などが親鸞さんや、啄木を好きだなんて言うのとは、ぜーんぜん、全くその比ではありません。

印度へ渡れなかった上人は、毎年「涅槃会」(お涅槃の日に営まれるお釈迦様を追慕する法要)を行われました。
紀州は星尾(有田市)でご修行の時にされた涅槃会の時に「涅槃経」をお読みの途中、その一節

「青蓮の眼(まなこ)閉じて、永く慈悲の微咲(みしょう)を止(や)め、丹菓の唇黙(もだ)して、終に大梵の哀声を絶ちき。」私流の意訳ですが、それは
お釈迦様の青い蓮華のような美しい目は閉じられてしまい、情け深い微笑みも消えてしまい、赤い果実のような唇は閉ざされて、ついに梵天(仏教の守護神)のような静かな悲しみのお声も途絶えたのです。

このところにきますと、上人は感極まりと申しますか、悲しみのあまりお声も出なくなり、お弟子さんが後を続けられたました。
当にそれは、私どものカウンセリングでいう共感(Empathy)であり、「感情移入」そのものであります。
近年、このようなお坊様はあまりお見かけしなくなりました。あまりにも型通りのような気がしてなりません。それが仏教離れの一因かとも。或いは世間がそのようにさせるとも言えましょうか。(このことについては、また別の機会に)

先に、西行法師について申しましたが、奇しくも西行さん(さん付け呼称でごめんなさい)と明恵上人(明恵上人は、どうしても明恵さんとはお呼び出来ません)は、お二人とも紀州のご出身です。また、同時代の人、と申しましても、西行さんの方が50歳も年長です。上人18歳の時に西行さんは亡くなられています。
しかし、「伝記」には、以下のようなお二人が会っておられ、和歌のお話などされたとの記述があります。素敵なお坊様お二人の会話を想うだけでもワクワクしてくるyo-サンです。

 身は限りあり ことは尽きせず (伝記21)
「西行法師常に来りて物語して云はく、我歌を読むは、遙かに尋常に異なり。 華、郭公、月、雪 都て万物の興に向ひいても、凡そ所有相皆是虚妄なること眼に遮り耳に満てり。 又読み出す所の言句は皆是真言にあらずや。華を読むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず只此の如くして、縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空いろどれるに似たり。白日かゞ やけば虚空明かなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず、又色どれるにもあらず。我又此の虚空の如くなる心の上にをいて,種々の風情を色どると雖も、さらに蹤跡なし。此の歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我れ此の歌によりて法を得ることあり。若しこゝに至らずして、妄りに此の道を学ばゝ邪路に入るべし と云々。」さて読みける 
  山ふかくさこそ心はかよふともすまであはれは知らんものかは
喜海、其の座の末に在りて聞き及びしまま、之を注す

私の拙い訳など止しましょう。そのままに味わってみるのもよきかと。

明恵上人はは寛喜4年(1232年)1月19日、弥勒の宝号を唱えながら遷化されました。享年60歳(満59歳)でした。奇しくも、私の父と同じ没年齢でした。
「其の期近付たり、右脇に臥すべし」とて臥し給ふ。面貌観喜の粧、忽ちに顕はれ、微笑を含み、安然として寂滅し給ふ(伝記)とあります。釈尊のお涅槃のように、「頭北面西」であられたのでした。
お涅槃に因んで、西行法師と明恵上人、ひたすら釈尊を敬慕されたお二人のことをしみじみと思われるのでありました。

あれあれ、もう日付が変わってしまいました。これぞ「下手の長談義」。つづきはまた。

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お涅槃に因んで 西行法師

2019-02-20 | life
前号のつづきです。講話の中で西行法師の歌にも触れました。
以前にも書いていますが、如月は、お涅槃の月。まず頭に浮かぶのが西行法師です。
そして、思い出すのは「北上河原♪」ではなく(w)、この歌です。
  ねがはくは花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月のころ
 如月・2月と言っても当時は旧暦なので、現在の太陽暦ですと3月の中旬頃かと。
釈尊のお涅槃はその日、望月は満月の意味なので、ちょうど2月15日になります。
拙訳しますと「私の願いは2月15日の満月、つまりお涅槃の頃に、桜の花の下で死のう」という歌です。ちょうど桜が花盛りを迎える時期です。実際はお釈迦様に遅れること1日でしたが、時空を超えて、敬慕して止まない釈尊の後を追われたのです。建久元年(1190)2月16日と伝えられています。南大阪は河南町にある、弘川寺という、桜や紅葉の美しいお寺で73歳の生涯を閉じました。
ご存じ百人一首のこの歌も西行さんの代表的な歌ですね。
  嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな
読み手が「なげけとてー」と発するや、絵札の「かこち顔なる」を、さっと取りましたね。今は昔、私の娘も百人一首の北陸大会などに出場していた頃が懐かしく想われます。
「月が私に、嘆けと言って物思いに耽らせるのだろうか。いや、そうではなくて月のせいにして 流れる出る私の涙なのです」。まあ、そのようなところかしら。
そうなんです。この涙は失恋の涙なのです。西行法師は出家前は北面の武士で、鳥羽上皇の御所を守っていました。その頃、17才年上の中宮(璋子)に思いを寄せていました。彼女は恋多き女性だったとも。でも、叶わぬ恋、それが出家の一因とも言われています。出家後も中宮の夢を見たことから作られた歌だそうです。西行さんは文武両道に勝れ、なかなかのイケメンだったと言われています。
ところで、yo-サンの出家のきっかけは?って。もう昔のことなので・・・。もし、失恋がきっかけでしたら、何度も出家していないといけなくなりますが。
・・・つい、脱線してこのような恋の話も。ご参会の皆さま、お顔キラキラ、まさに光顔巍巍( こうげんぎぎ)でした。仏法の話よりいいって。それでは、つづきは次回に。
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雪の果ては涅槃

2019-02-16 | life
こんにちは。通称yoーサンこと 仏教者にしてカウンセリング・スーパーバイザーの米沢豊穂です。
涅槃雪 亡き母偲ぶ忌明けかな

亡き母の四十九日や雪の果(はて)

母の四十九日の忌明けも終えて、昨日はお涅槃でした。昔、母が「雪の果ては涅槃」と言っていたことを想い出しました。もの心ついて「雪の果」や「涅槃」の意味が分かるようになりました。
母の詠んだ句や歌も沢山あるのですが、「遺稿集など作らないで」と言っていた母に逆らわないようにと思うこの頃です。 
  (画像は奥琵琶湖慕情  筆者撮影)
閑話休題
1月に、真宗寺院さんから「仏教婦人部の新年の集いに」と、お招き頂いていたのですが、忌服中でもあり失礼をさせて頂いておりました。坊守様より「浄土真宗ではそのようなことには拘りませんので」とのことでしたが、私自身、あまりパワーもなかったのが本音でした。その後再び「皆さまがどうしてもお話をお聞きしたいので、2月に月遅れの小正月ということで是非に」とのお言葉を頂き、本日お伺いしてきました。
ちょうど「お涅槃」の頃でもありましたので、まずはそのお話を少しさせて頂きました。涅槃とは「火が吹き消された」状態のことです。火とは人間の心に燃え盛る煩悩の火です。実は、お釈迦様が亡くなられた日が2月15日であります。釈尊が涅槃に入られたとも申すわけです。つまりお釈迦様のお命日であります。

お釈迦様が亡くなられた様子を描いた涅槃図という絵があります。お釈迦様の周りには菩薩やお弟子や、沢山の動物たちまで嘆き悲しんでいます。天上にはお釈迦様のお母様であるマーヤ様の悲しみのお姿が描かれています。
マーヤ様(摩耶夫人)はお釈迦様をご出産七日後に亡くなられています。ご難産であったのではないかと思います。その面影さえお知りにならなかったお釈迦様ですが、心の中では終生お母様をお慕いではなかったでしょうか。
ふと、
十億の人に十億の母あらむも 我が母にまさる母ありなむや
を思い出しました。暁烏敏師の歌です。松任(白山市)は明達寺さんの境内にその碑があります。もう少し温かくなったら明達寺さんへもお参りしたいと思っている私でした。
記したいことは多々あるのですが、今一つパワー不足なので、つづきはまた。今宵はこれにて。
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ひとの心

2019-02-01 | life
こんにちは。通称yoーサン こと、カウンセリング・スーパーバイザー(Counseling・Supervisor)の米沢豊穂です。

UPが少し遅れてしまったが、今年も誕生日のお花が届いた。母が身罷った時にも、その方から白くて清楚なお花を頂いていたので、今年の誕生日は固くご辞退のつもりだったが、すっかり失念していた。いつもより控えめなお花だが、春の野に光を浴びるようで癒される。この方はカウンセリング・マインドの持ち主である。つまり、共感的理解「もし、自分が相手だったら」と考える。私の心境を察して下さって余りある。贈り主に心の中で何度もお礼申している。母が好んだ水仙の花の横に置いた。

賀状を頂いていた方や、失礼させて頂いた方などに寒中見舞いを出した。すると、ある方から「喪中お見舞い」にと、私の好物が届いた。お悔みのメールも頂き、歌が一首添えられていた。 
   水仙の仄かに香る仏壇に二人の母の冥福祈る  である。この方も同様に昨年お母様を亡くされている。
彼女は「短歌や俳句などは知らないのですが・・・」と謙遜されるが、時々歌や句を添えて下さる。歌人や俳人然とした人よりも、彼女のように気負わず自然に詠める人が私は好きだ。この方は若狭地方・風光明媚な三方五湖の近くにお住まいである。お目に掛かることは多くはないが、いつも笑顔で、お話しぶりもとてもやさしく、お会いするとホッとするような、「和顔施」の方である。私は、
  み仏となりましし母 お浄土の苑に聞くかな水仙の香を などと詠んだものの、イマイチなのでまだ返歌も出来ずにいる。
人生、辛さや哀しみの時にこそ他人(ひと)の心、情けが身に沁みるものである。
 閑話休題 
<ご質問のお返事に代えて>
ある方からメールで「米沢先生は最近よく、清沢満之先生についてお話しされますが、清沢先生とはどのような方でしょうか?」とのご質問を頂きましたので、ちょっと記させて頂きます。
私は、若い頃「歎異抄」を読み、親鸞聖人の教えに導かれました。その後、暁烏敏(あけがらす・はや)というお坊様を知りました。(書籍を通してですが)その暁烏師の師が清沢先生でした。勿論、お二方のお名前はよく存じてはいました。
長くなりますので簡単に申しますと、清沢先生は、近代的な意味において、親鸞を再発見された方と言われています。しかし私は、清沢先生は親鸞よりも親鸞らしい方(パラドクスでゴメンナサイ)だと思っています。私の辿ってきた仏道行脚の行き着いたところです。

以前にも記していますが、ご縁とは不思議なもので、先年、私の畏友から「絶対他力道」、続いて「清沢満之文集抄録」をご恵贈に与りました。画像は、彼がその「抄録」に書いた「あとがき」の一部です。彼とは、時にはお酒を酌み交わす間柄でもありますが、彼は谷大時代に晩年の暁烏師の講演を聞いたことがある言います。私はずっとそのことを羨ましく思っています。


清沢先生の「他力の救済」の一文です。いずれの文も私には難しいですが、読書百遍何とやら、で読み続けています。

下の画像は「絶対他力道」の目次面です。この本も決して易しくはないですが、清沢先生の「お文」を理解するのにはとても役に立ちます。執筆者は、曽我量深師、暁烏敏師、そして金子大栄師など錚々たる方々です。こちらも「読書」は未だ30遍にも及びませんが・・・。


曽我量深師は清沢先生のことを「先生の御恩は祖聖親鸞に匹敵」、「真宗再興の上人たる蓮如を遥かに上回って超え」とも言われます。私はこの文面に接して、我が意を得たりと、しみじみと味わった次第でした。
本書は清沢先生50回忌の時の記念講演録的なものなので、先生讃仰(さんぎょう)でもありますが、貴重な一冊であり、正に読書は邂逅(かいこう)だと再認識致しております。
十分なるお返事には至りませぬが、これからまた、折々にお話しさせて頂きたいと思います。立春は間近となりましたが、本当の春はもう少し先かと存じます。どうぞ皆様、お身体一入お健やかにと念じております。どうもありがとうございました。