コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

如月の雪 おしょう抜き とは・・・?

2020-02-15 | life

  ただひとり墓前に立ちて経を読む 我が墨染めに如月の雪  筆者拙詠

昨暮れの母の一周忌を機に、長年の風雪に耐えながらも少し傷んできたお墓の修繕を石材屋さんにお願いした。
「雪の季節を避けて、お彼岸までには完了させて頂きます。」とのことだったが、この冬は殆ど積雪がないので、早く工事にかかることになった。
先日、電話があり「おしょう抜きをしておいて下さい。」とのことであったので、お墓に参り、ひとりでその「おしょう抜き」をしてきた。
「おしょう抜き」とは「お性根ぬき」と書き「おしょうね抜き」或いは「お魂(たま)抜き」などとも呼ばれる。浄土真宗では「おしょう抜き」などとは言わずに「遷座(仏)法要」と言う。お墓を移動したり、仏壇を入れ替える際などに勤める法要のことを言う。
しかしながら、考えてもみれば、たとえ僧侶であっても人間が「お性根」や「お魂」、つまり仏さまを入れたり出したり出来る筈がない。考えてみなくても分かることだけど・・・。
だが、寅さんではないが「それを言っちゃおしまいよ」である。石材店の職人さんたちが、鎮まっている他家のお墓を動かすのだから、少しの不安もなく作業が出来るようにと思い、心を込めて読経した。
積雪こそ無けれども2月の冷たい風が粉雪に変わった。それは恰も、散華のように私に降りかかって、とても清々しい気分であった。
車の中で一休みをしていて、ふと親鸞聖人の言葉が脳裏を過った。

「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。・・・」であった。ご存じ歎異抄第五章である。 
「孝養」とは「きょうよう」と読み「追善供養」を意味する。「(私)親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏を申したことは一度もない」と仰ったのである。なので、浄土真宗では追善供養とは言わない。さまざまな法要は故人への追善ではないのである。これまた、シャバの人間が故人へ追善など出来ない。残された者が、故人とのご縁を通して仏法に逢わせて頂くためのものであるわけだ。故人はすでに阿弥陀さまのお浄土に往生されたからである。

以前にも記したと思うが、親鸞聖人は幼くして両親を亡くされ、父母のことを想わぬ日は無かったと思う。私は、その言葉の中に聖人のすすり泣きが聞こえてくる。追善の心は人間の真心でもあり偽らぬ気持である。
だが、それは自力の行になってしまう。阿弥陀様に救い摂られている私たちは、ただ有り難く感謝のお念仏を申すのである。それが他力回向である。自分の力で励む善ではないのである。歎異抄第三章に、
「・・・しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。」とある。
教行信証には、
「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ・・・」と。
「前に生まれた方は、後のものをお念仏の道へと導き、後から生まれし人は、前に生まれた方にお念仏の道をお訪ねして行く」のである。

  あれこれとなすべきことの多かれど 今この時を愛おしみ生く  筆者拙詠
                            
                今宵はこれにて。<称名> 念仏者yo-サン

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涙枯れるまで・・・。再びGrief careをと思うこの頃。

2020-02-03 | life

以前はチョーハードの中にも、このようなプログラムもお引き受けしていた。もう老境の私だが、老骨を労わりつつ、ほんのちょっぴりでも世のお役に立てたらと思うこの頃のこと。

午後から、福井市内のクリニックを定期受診した。3ヶ月に一度の検査受診だが、もう20年にもなる。Drは勿論、ナースさん達も皆笑顔のいい人ばかりである。予約制ではないので時には待ち時間が長引くこともあるが、開業医さんとしては概ね妥当な時間である。

診察を終え、会計も済ませて帰ろうとしたら、後から「米沢先生」と呼ばれた。振り向くとひとりのご婦人が「勤労婦人センターでお習いしたSですが・・・」と。咄嗟に思い出せなかった。勤婦センターを辞してからやがて20年にもなる。受講生の方々は数えきれない程であった。如何に記憶力のいい(?)私でも。このクリニックへ来るのも、当時ここにお勤めの方が受講生であったからである。その方も退職して久しい。

ところで、彼女は「昨年、実家の父が亡くなりました。婦人センターで米沢先生の講座を半年間受講させて頂きました。その時、先生は『親には一度でも多くお顔を見せてあげて下さい。訃報を聞いて走るのではありません』と仰いました。私はずっとそのお言葉が胸にありましたが、長年、仕事や子育てに追われて、なかなか実家の両親を訪ねませんでした。もっと父の顔を身に行けばよかったと思って・・・」と目を潤ませていた。

実はクリニックで私はずっとマスクをかけていたので、彼女は私には気が付かなかったのだが、会計から私の名前を呼ばれたことと、私が職員の方と一言二言の会話を聞いて気が付いたそうだ。
思えば、長らく福井市勤労婦人センターの常任講師として「親子家族学」を講じ、或いはカウンセリングもさせて頂いた。確かに講座の中でそのような発言はした。しかしながら、彼女は嫁がれた身である。そう頻繁には実家へ行くことは出来ないのが、こちら北陸の片田舎の封建的な実態でもある。

話しているうちに講座の同期生の方のお名前や、修了式の後の懇親会などの話題も出てきて、記憶の糸が繋がった。私は「そのことが気にかかっておられたのですね。亡くなられてから、あれこれと思い出されることが多くありますね・・・。」と。私だって亡き母にもっと優しくすればよかったと悔やむこの頃である。自分の身にも重ね合せながらであった。

彼女は「先生、今から相談室へお帰りでしょうか?」と尋ねた。実は長年、このクリニックから近いところに相談室「コミュニケルーム」をもっていたが、引き払ってもう20年近くにもなる。彼女は、もし私が相談室に戻るのなら「帰りにお寄りしたい」とのことだった。
もう相談室は無いことを伝えると、「あの頃、週1回、婦人センターに行くことが私の心の安定剤でした・・・」と。私は「また皆様とあれこれ語り合える機会を持てるといいですね。」と応じた。婦人センターの講座も終了後何年も自主サークルを続けていたグループも幾つかあったが、それも殆どが終わった。本当に「時は過ぎて行く」のを実感する。

帰り際に彼女は「先生のお顔を拝見しただけで涙が溢れてきて、御免なさい・・・」と。私は「涙はいっぱい流せばいいんですよ。涙が枯れるまで。」と応えると彼女の涙のお顔が一瞬輝いた。「有難うございました。ここでお目に掛かれましたのは仏さまのお導きだった思います。」と言ってくれた。【少し離れたところでの会話であったが、もしかして周囲の人には私が女性を泣かせているように見えたかしら?なーんちゃって。まさか・・・。】
<閑話休題>
しかしながら、私にはもう新しく研究会や学習会をやるパワーはない。だが、一つだけやりたいと思っていることがある。それは、先ほどのSさんのように、身近な方を亡くされて、なかなか悲しみの癒えない方々のための語らいの場を作りたい。思い切り涙を流せる場であっていい。。「グリーフ(悲嘆)ケア」を大事にするが、必ずしも私がお一人、お一人にカウンセリング出来る訳ではないが、安心できる場で、ご参加の方々が自分の思いを自由に語り合える時と場所である。私が同席することで予期せぬ展開もフォローできると思っている。
また「心理学だ、カウンセリングだ、文学だ、はたまた仏教だ。」などと言わずに、語り合いの場であり、時には啄木も藤村も、或いは歎異抄あれこれも話題になればよい。
Old ParrならぬOld yo-サンの最後のお役にたてる場になるかとも思っている。実はこのような場はカウンセリングでは「グループエンカウンター」と呼び、長年に亘り実践してきたが、それよりも、ずっと小さい規模で、もっと、もっと「心のふれあい」に迫るものにしたいと思う。
会場も〇〇センターとか△△会館などと大仰な所ではなく、古民家辺りだといいと思う。

昨年、ある方とさる茶店でデート?した。そのお店の奥に、そのような感じのお部屋があった。昔の日本の家の一室を思わせるものだった。ママさんが「私もカウンセリングのお話には関心があるし、どうぞ使って下さい。」とのことであった。コーヒー代ぐらいで参加できるようにしたいと思っている。

(お店の入り口付近。ママさんや内部はまだ秘密のアッコちゃんに。どなたか今度お茶しませんか。)
今日は、以前から心の中で温めていることを言語化してみた。クリニックでSさんに出会ったことが一層その思いを強くした。
やはりその土台としてNPO創設の心に今一度思いを致し実現したいと思う。ひとり去り、ふたり去りとメンバーも少なくなった。ご一緒にして下さる方を切望している。このブログ左上部の「メールを送る」からでも、お電話でも、お手紙でも歓迎です。それではつづきはまた。




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