日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

頭山満「英雄ヲ語る」吉田松陰(1)松下村塾、国體観

2020-04-30 15:35:26 | 頭山 満

 
  頭山満述『英雄ヲ語ル』「吉田松陰」
 

  

 吉田松陰
 吉田松陰が勃々たる勤王討幕、日本革新の大精神を蔵しながら小塚原で刑せられたのは、安政六年の秋、松陰三十の歳だ。

 尊皇、攘夷、鎖國、世論紛々たる矢先、米艦四隻が江戸港に来て通商を迫った。

 此頃、松陰は、

「北方外夷四面より、我寡隙を窺ふ、此時に當って、六十州の人心を一塊石となし、以て彼小醜を懲らし、海波を靖めんこと、尤も願ふ所なり」と叫び、當今の所謂、米英撃滅、世界の皇道化を高唱して居る。

彼小醜は痛快ヂジャ。これが八十年前の話だから一層愉快ぢゃ。
事實松陰の眠中、米國の如きは小醜としか見えなかったであらう。


松陰は更に、

「聞く近世海外の諸蛮、各其賢を推擧し、其の政治を改革し、駸々然として、上國を凌侮信するの勢なり。我何を以てか是を制せん、他なし、前に論ずる所の我國體の、外國と異なる所以の大義に明にし、闔國の人は闔國の爲に死し、臣は君の為に死し、子に父の為にする志確乎たらば、何ぞ諸蛮を畏れんや、願くは諸君と茲て從事せん。」と激勵し國民の士気を撥作せんとしゐる。

 我皇國には一貫せる世界無比の道がある。君臣の義、父子の情。
此君臣、父子の情義が確然とし、殉國の志さへあれば、諸外國など畏れることはない。
之は今日も同じだ。微々たる東海の小島國であった當時、意気があったのだから松陰の見識は敬服に値する。

松陰門下第一の快男児、高杉東行は松陰を賛し眞個 關西志士魁英風鼔舞我邦来と言ってをるが、關西志士の魁だけちゃあるまい。日本志士の魁ぢゃ。
東湖、象山、素行、其他幾多の先進はあるが、典型的志士、革新的日本男児の典型として松陰を先づ第一に推すべきであらう。


松下村塾  
 彼の門下よりは幾多、日本精神の具現者を輩出した。久坂玄瑞然、高杉東行然り、面して多くの俊傑を出し、後明治政府に重きなしたものが多い。

 木戸孝尢、山縣有朋、伊藤博文、品川彌二郎、など悉くこれ松陰門下の駿足である。
 而して今日知彌々益々、松陰の烈々たる勤王愛國の大精神が國民に偉大なる感化を興へてをるのは偉とすべきである。

 松陰の一生は僅かに三十年の短い命であったが、彼が精魂を打ち込んだ著述、数十巻、勤王愛國、日本革新の大論策は實に萬古不減のものである。

 彼が嘗て胸中の熱血を歌った
   斯くすれば斯くなるものと知りながら
     やむにやまれぬ大和魂  
の歌は汎く人口に膾炙して居るが、これが日本情神の眞骨頂を歌ったものだ。

 一身一家の利害、榮辱、いはんや、肉體上の不自由や苦病など問題でないのだ。

勤皇愛國の大至誠の前には、直ちに身に振りかかる苦痛など毫末も意とすべきでない。
これが日本人全般の心意気であらねばならぬ。 

  

松陰の国體観
 
 自分が松陰に敬服するところは其國體論である。
松陰は山鹿素行に私淑して居ったと思ふが、松陰が素行に學んだのは主として兵學だと信ずる。

 素行の、「國は民を以て本と爲す。社稷亦民の爲めに立つ、而れば、君なるもの尊きは二者の存亡に繋がるが故なり、其軽重斯の如く爾り、故に天下は天下の天下にして、一人の天下にあらず」との主張に對し、松陰は明確に天皇中心主着を高調し、皇國の大義を宣明した。

「苟も日本帝國に在て、その國民を指導し、その方伺を誤らしめざるところの根本的の力は、即ち、天皇の存在である。天皇あっての國家であり、天皇あっての國民である。苟も、それは國民あっての天皇事であり、國家あっての、天皇であってはならない」と明言して居をる。

 これは當然のことであるが、浅薄なる學者どもは往々、此誠に分明なる我國體の大義を誤るから馬鹿々々しい。

 松陰は、又「國體と言ふは、神州は神州の體なり、異國は異國の體なり、異國の書を讀めば、兎角異國の事のみを書と思ひ、我をば却て賤み、異國を羨む様に成行くこと、學者の通弊にて、是れ神州の體は、異國の體と異なるを知らぬ故なり」と喝破して居る。

 我國昨今の曲學阿世の學者どもは慚死すべしだ。只に學者のみでない。

 近來、為政者なども、ややともすれば、我尊貴なる國體を忘却し、徒らに英、米、の勢力に依存し、彼の軽侮を招来しつつあるのは遺憾至極である。

 更に又、獨逸が強い、ヒットラーーが豪いと言って、只一途にナチスを礼賛し、直ちに之を我國に眞似んとし、ムッソリーニの智謀と敢為を見ては、直ちに之を羨み、ファッショにかぶれ、我國に直あに之を行はんとするが如き經率なる政治家が居る。

 實に思はざるも甚だしい。

 「豊葦原の瑞穂國は、わが子孫の君たるべき地なり。汝皇孫ゆいて是を治めよ」と仰られた、あの御神勅は、萬世不易、不動のものである。

 天下は天下の天下にあらずして、實に天皇の天下であるのだ。松陰は此大道を明にした。
彼の有名な「士規七則」は安政二年とかに、松陰が誌しのであるが、その中に、「君臣は一體、忠孝は一致、唯吾國を然りとなす」と断じて居る。 

 これを吾々一家に於て寛觀ても父母あっての子供であり、家族であって、決して家族あっての父母ではない。

 天皇中心主義は我國にあつては絶對至上のものであつて忠君は絶對不可欠缺のものである。

 從って孝行も絶對のものであることも自ら分明だ。

 「日本を家となし、君を父に比ふ、億兆斉しく仰ぐ一家の君、義は乃ち君臣、情は父子、親に孝ならんと欲する者は、須く君に忠なるべし。國を愛せんと欲する者は、須く君を愛すべし。

忠孝一致、君國一なり。」とは無比の情を吟じたものだ。

 知己、徳富蘇峰は、「松陰三十年の生涯は功利的に是を観れば、誠に失敗の連續であった。併しながら其烈々たる、忠肝義膽は燦然として後世に輝くべきだ。而も明治維新後世田ケ谷の松陰神社などは誠に寂、寥々たるものであった」と述べて居る。 

 徳冨(蘇峰)は鄕里熊本の大江義塾にて明治十五年頃、松陰「幽室文稿」を塾生に講義した。其頃徳冨は十数歳の少年だった。

 徳富は自分より九ッ下であるが仲々の早熟で、自分が二十四歳の頃熊本に出かけた時、徳富は十四五歳位の美少年であったが、其頃一かどの學者で演説などを堂々とやって居った。

 徳富はたしか明治二十四年頃、東京で吉田松陰を講演し、松陰の大精神を紹介し、其後「吉田松陰傳」を刊行し、廣く天下に松陰の勤皇、愛國の至誠を傳へた。

 松陰の眞骨頂が汎く天下に知られたことはこの時からだ。
 徳富は確かに松陰の知己たるを失はぬ。




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