日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

菊池寛『大衆維新史読本』池田屋襲撃 近藤勇の最後

2024-06-02 19:27:37 | 坂本龍馬

『大衆維新史読本』

池田屋襲撃

菊池寛




   新撰組結成

 新撰組の母胎とも云ふべき、幕府が新に徴募した浪士団が家茂いへもち将軍警護の名目で、江戸を出発したのは、文久3(1863)年の2月8日であつた。
      
 総勢凡そ240名、23日に京都郊外壬生みぶに着いたがこれを新徴組と云ふ。隊長格は庄内の清河八郎で、たけのすらりとした面長の好男子、眼光鋭く人を射る男だつたと云ふ。
   
 幕府は初め、浪士の人員を50名位といふ方針であつた。しかし、実際は、風雲を望んでゐた天下の浪士達が、旗本位にはなれると云ふ肚で、続々集つてきた。
 甲州の侠客祐天仙之助が、仔分20名を引き連れて、加はり、すぐに五番隊の伍長として採用された事などを見ても、大体この浪士団の正体が判る。  
  
 これが、京都に止ること20日ばかりで分裂し、芹沢せりざは、近藤等13人が清河に反き、宿舎八木源之丞の邸前へ「壬生村浪士屯所」の看板を出したのが、所謂新撰組の濫觴らんしやうである。
 

 隊員永倉新八こと、杉村義衛翁(大正4年=1915年まで存命)の語り誌すところに依ると、総勢13名の新撰組も、初めはひどく貧乏だつた。3月に隊が出来て、5月になると云ふのに、まだ綿入れを着てゐる者が多かつた。
 いろ/\考へた末、芹澤が真先に立つて、8名の浪士がわざ/\大坂まで行き、鴻池を脅して200両借りて戻つた。体のいゝ暴力団だ。


 これで麻の羽織に紋付の単衣ひとへ、小倉の袴を新調して、初めて江戸以来の着物を脱いだわけである。しかもその羽織たるや大変なもので、浅黄地の袖を、忠臣蔵の義士の様に、だんだら染めにした。


 これが当時の新撰組の制服になり、後に池田屋襲撃の時も、隊員一同この羽織を着て、奮戦したのである。
 
 新撰組結成6ヶ月で、近藤勇、土方歳三ひぢかたとしざうは、その隊長芹沢鴨を、その妾宅に襲つて斬つた。

 芹沢は水戸の郷士で、本名を下村継次と云ひ、水戸天狗党の生き残りである。
 天狗党に居た時は、潮来いたこの宿で、気に食はぬ事があつて、部下3名を並べて首を斬つたり、鹿島神宮へ参詣して、拝殿の太鼓が大き過ぎて目障りだと云つて、これを鉄扇で叩き破つたと云ふ程の乱暴者であつた。


 芹沢亡き後の新撰組は、当然近藤、土方の天下で、幕府の後押しもあり、京都守護職、松平容保かたもりの信頼もあり、隊の勢は日ならずして隆々として揚り、京洛に劃策する勤皇の志士にとつて、陰然たる一大敵国を成すに到つた。
 
 
   
   近藤勇


 新撰組隊長、近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。
 剣術のよく出来る反動的武士といつた処である。極く贔屓目ひいきめに見ても、3代相恩の旗本8万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力をつくしたのは偉い、と云ふ評がせい/″\である。   
 
   
 しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽してゐないし、彼の為にも気の毒である。
 近藤の刑死は、慶応4(1867)年4月25日であるが、此の年6月6日発行の「中外新聞」には――閏4月8日、元新撰組の隊長、近藤勇といふ者の首級、関東より来つて三條河原に梟せられたり。其身既に誅戮を蒙りたる者なれば、行の是非を論ぜず、其の勇に至りては惜む可き壮士なりと云はざる者なし――とある。

 この頃賊軍として死刑に処せられた者は、今日の共産党被告以上に見られてゐたのであるから、出版物にこれだけ書くだけでも容易でない。賊軍であつても彼の評判は当時に於て、非常によかつた事は、この記事でも分ると思ふ。

 勇が生れたのは、天保5(1834)年で、近藤周斎の養子となり、新徴組に加はつた頃迄は、剣術も学問も、特に目立つて云ふ程のこともなかつた。  
   
 新徴組から分離した時から、勇は漸次頭角を顕して来た。 

 会津藩鈴木丹下の「騒擾さうぜう日記」には、

「其内、近藤勇と云ふ者は、知勇ちゆう兼備かねそなはり、何事を掛合に及候ても無滞とゞこほりなく返答致し候者の由」
 とあり、この頃から、智勇兼備と云ふやうな讃辞が捧げられてゐる。
  
 彼は東州と号して、相当立派な字を書いてゐる。学問は大したものではないが、当時の剣客としては、人後に落ちない位の素養はあつたのであらう。

 その政治上の主義としては、彼の上書に、
「全体我共は尽忠報国の志士、依而今般御召相応じ去2月中遥々上京つかまつり、皇命尊戴、夷狄攘斥之御英断承知仕り度存ずる志にて、滞京罷存候まかりありさふらふ云々」(文久3年10月15日上書)
 とある。

 また、祇園一力楼で、会津肥後守の招宴で、薩、土、芸、会等の各藩重職列席の会合でも、彼は堂々とその主張を披瀝し、

つら/\愚考仕り候処、只今までは長藩の攘夷は有之これあり候へども、真の攘夷とは申されまじく候、この上は公武合体専一致し、其の上幕府において断然と攘夷仰せ出され候はゞ、自然国内も安全とも存じ奉り候」(近藤の手紙の一節)
 と述べてゐる。

 近藤の意見では、公武合体、即ち鞏固なる挙国一致内閣で攘夷すべしと云ふのである。勤皇攘夷、公武合体説であつた。
  

 彼はこの主義の為に、一死報国の念に燃えてゐたのであるから、新撰組が単なる非常警察と考へられるのには、大いに不満でもあつたらしい。
「私共は昨年以来、尽忠報国の有志を御募おつのりに相成あひなり、即ち御召に応じ上京仕り、是迄滞在仕り候へども、市中見廻りの為に御募りに相成り候儀には御座なく候と存じ奉り候」(元治元(1864)年5月3日 上書の一節)とある。

 彼にもまた耿々かう/\たる志はあつたのだ。時勢を憂へ、時勢を知ることに於て、立場こそ異なれ、敢へて薩長の志士に劣るものではなかつたのである。


 殊に近藤の光栄とすべきは、宮中第一の豪傑であらせられる、久邇宮朝彦親王くにのみやあさひこしんわうとの関係である。親王の日記には、彼の名前も見え、慶応3(1867)年9月13日の項には、「幕府の辣腕家、原市之進に替るべきものは近藤である。余自身近藤を召し抱へたい」と、畏れ多くも仰せられてゐるのである。
  
 暴力団の首領と云ふよりも、時流の浪に乗り損つた志士と云ふべきだらう。
    

 

   池田屋斬込み

 新撰組結成の翌年、元治元(1864)年6月5日は、彼等にとつて、最も記念すべき日であつた。
 即ち、この為に、明治維新が一年遅れたと云はれる。有名な三條小橋、池田屋惣兵衛方斬込み事件が、行はれた日である。  
  
 四條小橋に、升屋喜右衛門と云ふ、古道具屋があつた。主人は38、9歳で、使用人を2,3人使つて、先づ裕福な暮し振りであつた。
 
 余りに浪士風人間の出入が激しいので、新撰組では、予てからその様子に不審を懐き、6月5日に思ひ切つて踏み込んでみると果して甲冑10組、鉄砲23挺、その他長州人との往復文書が数通発見され、その中には、「機会は失はざる様」とのすこぶる疑はしい文句があつた。 
 
 取り敢へず、武具類を土蔵に収めて封印して主人喜右衛門を壬生の屯所に引致して、拷問したところ、驚く可き陰謀が発見されたのである。

 喜右衛門と云ふのは、仮名でその実は江州の浪人古高こだか俊太郎と云ひ、8月18日の政変に就て、深く中川宮と松平容保かたもりを怨み、烈風の日を待つて、火を御所の上手に放ち、天機奉仕に参朝する中川宮を始め奉り、守護職松平肥後守を途中に要撃しようとする、計画である。
 
 而も古高は、三條通り辺の旅宿客は、いろ/\の藩名を掲げてゐるが大抵は長州人であることまで自白した。

  
 愕然としてゐる新撰組にとつて、続いて、第2、第3の警報が町役人の手に依つてもたらされた。

「升屋の土蔵の封印を破つて、武具を奪ひ去つた者がある!」
「三條小路の旅宿池田屋惣兵衛方、及び縄手なはての旅宿四国屋重兵衛方に、長州人や諸浪士が集合して何やら不穏の企みをしてゐる」 

 京都市中見廻役として、治安の責任の一半を担つてゐる新撰組は、取り敢へず、黒谷なる京都守護職松平肥後守邸に、応急の措置を求むる為速報した。
  
 守護職は所司代、松平越中守と協力して、遂に会津、桑名、一橋、彦根、加賀の兵を始め、町奉行、東西与力、同心を動員して、祇園、木屋町、三條通り、その他要所々々を戒厳して、その人員無慮3000余人と称された。空前の警戒陣であつた。

 
 斯くて、会津藩と新撰組は、午後8時を期して、祇園会所に集合する筈であつたが、会津側が人数の繰出しに時間がかゝり、午後10時近くなるのに、約束の場所に参着しない。

   
 血気の近藤勇は、一刻を争ふ場合と考へ、独力新撰組を率ゐて、検挙に向ふことになつた。

 隊員30名を2分して、近藤勇自ら一隊を随へて、池田屋へ、他の一隊は、土方歳三統率して、四国屋へ向つた。
 恰度、祇園祭りの前の夜で、風はあつたが、何となく蒸す夜であつた。
   

 その時、池田屋では、長州の吉田稔麿としまろ、肥後の宮部鼎蔵ていざう等総勢20余名が集合し、
「今夜は壬生に押寄せて、古高俊太郎を奪ひ還さう」
 と、云ふので酒を飲みながら、夜の更けるのを待つてゐた。
  
 彼等は、粛々としてその身に迫る死の影を知らず、尚も三策の評議に余念がなかつた。
三策とは即ち次の三つだ。
○壬生屯所を囲み、焼討して新撰組を鏖殺あうさつし、京都擾乱に乗じて、長州の兵を京都に入れる。
○成功の場合には、宮中を正論の公卿を以て改革する。
○京都一変の上は、中川宮を幽閉し奉り、一橋慶喜よしのぶを下坂せしめ、会津藩の官職を剥奪し、長州を京都の守護職に任ずる。


 
   血河の乱闘

 近藤勇は玄関から、
「主人は居るか、御用改めであるぞ」と、堂々と声をかけて、上り込んだ。

 主人は直ぐに二階に向つて、
「皆様、来客調べて御座います」と、大きな声で叫んだが、もう遅い。

 「何だ/\」 同志でも来たのかと思つて、うつかり一番先に出て来た北副佶摩きたぞへきちまの頭を、勇の虎徹がずばりと割つた。
 火の出る様な乱闘が続いた。
  
 この事件に就ては、勇自身が近親に与へて書いた手紙に、詳しい。

「局中手勢の者ばかりにて、右徒党のもの、三條小橋縄手に2ヶ所屯致たむろいたし居候処へ、二手に別れ、夜四つ時頃打入候処、一ヶ所は一人も居り申さず、一ヶ所は多数潜伏し居り、兼て覚悟の徒党故、手向ひ戦闘一時いつとき余の間に御座候」
  
 局中とは新撰組のことだ。一時余りとは、今日では2時間余である。2時間余も入乱れて、戦つたのであるから、その激闘振りも察せられよう。

「打留7人、手疵おはせる者4人、召捕2人、右は局中のはたらきに候。
 漸く事済み候跡へ、御守護職、御所司代の人数3000余人出張に相成り、
 夫より屯所へ打入うちいられ候処、会侯の手に4人召捕、1人打取る。桑侯手に1人召捕。

 翌6日昼九つ時(正午)人数引揚申候。前代未曾有みぞうの大珍事に御座候」

 以上のとほり、池田屋襲撃は、殆んど新撰組の独擅場どくせんぢやうで、彼等が得意になるのは当然だらう。

  
 近藤の家書は、以下続いてゐる。

下拙げせつ僅かの人数引連れて、出口に固めさせ、
 打込候者は、拙者始め、沖田、永倉、藤堂、倅周平、右5人に御座候。

 一時余りの戦闘にて、永倉新八の刀は折れ、沖田総司、刀の帽子折れ、
 藤堂平助刀はさゝらの如く、倅周平は槍を斬折られ、下拙刀は、虎徹故にや、無事に御座候」
  

 何れも新撰組切つての剣客揃ひである。僅か5人で斬込んだのであるから、その力戦振りも思ひやられる。
 その中に、縄手から引返した土方歳三の一隊が加つて、こゝに稀代の大捕物陣が展開されたわけである。
 
「実に是迄、度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は、稀に覚え候。
 今度の敵、多数とは申しながらも孰れも万夫の勇士、誠に危き命助かり申候」
 

 これが勇の欺かざる述懐である。
 新撰組もく力闘したが同時に勤皇諸有志が如何に勇戦したか、これで判る。
 人を斬るのに、最も豊富な経験を持つ、近藤勇をして、この嘆声を発せしめたのであるから、殉難の志士も以て瞑すべしだ。公論は常に、敵側より発せられるものである。
  



   殉難の諸士


 飜つて、志士側の当夜の観察は何うか。
当時長州藩、京都留守居役、乃美織江のみおりえの手記によれば、形勢緊迫と共に、有志等に軽挙を戒めること痛切であつた。


 桂小五郎、久坂義助など幕吏の追跡頻りなので、長藩としては彼等に帰国の命を下し、邸内の有志等にも外出を慎しませてゐた。

 吉田稔麿としまろに対しても、市中の宿屋に泊らず、藩邸に起臥するやうに、勧告したが、容れられず、宮部鼎蔵等にも外出を極力制止してゐたのである。

 当夜の手記に依ると、

「乃美すなはち杉山松助、時山直八をして、状を探らしむ。
 二人帰り報じて曰く、俊太郎逮捕の為め、或ひは不穏の事あらん。
 宜よろしく邸門の守を厳にすべし、と同夜有志多く池田屋に集ると聞く、
 其の何人たるをつまびらかにせず」

 
「夜に入り杉山松助、ひそかに槍を提げ、外出すと云ふ。
 未だ久しからずして、松助片腕を斬られ鮮血淋漓として帰邸し、急変ありと告げ、
 邸門を閉ざし、非常に備へしむ。
 乃美、何故に外出せしやと問ふ。
 池田屋に赴かんとして、途中かくの如し、遺憾に堪へずと答ふるのみ」
  

 杉山は、途中で要撃されたのであらう。
「邸の近傍に吉田稔麿の死屍を発見す。
 宮部は池田屋に死し、其の弟傷を負ひ邸に帰る。
 池田屋女主即死。桂小五郎は屋上より遁れて、対州邸の潜所に帰る」
  
 この池田屋事変で、勤皇方にとつて、最も大きな損害は、宮部鼎蔵と吉田稔麿の死であらう。


 吉田稔麿は、脇差をとつて力戦し、裏庭で沖田総司と、一騎討ちになつた。その腕は相当のものであつたが、剣を把つては天才的と云はれた沖田には、敵はない。

  
 肩先を斬られたまゝ逃れ、隣家の庭前に監視してゐた、桑藩士本間某を斬り、黒川某に重傷をかうむらせ、馳せて河原町の藩邸に向つた。併しこの時は、門の扉は固く鎖してあり、稔麿は入ることが出来ない。その身は重傷であり、遂に進退きはまつて、門外に自決したのである。
 この時、年齢二十四であつた。

    
 吉田稔麿は松陰門下の奇才で、この時は長幕調停案の一案を劃して、帰国の途中、京都に寄つて殉難したのである。

 この日も、留守居役の乃美織江が頻りに止めると、
「いや直き帰つて来る」
 と云つて、殿様からの下され物の小柄等を乃美に托して、出かけて行つたのである。
 この時、自分で髪をつたが、元結もとゆひが三度も切れたので、

   結びても又結びても黒髪の
     乱れそめにし世を如何にせん

 と云ふ歌を詠んで、乃美に示したと云ふ。これが遂に、その辞世となつたわけである。
 宮部鼎蔵は、乱戦の中に池田屋に於て斃れた。一説には、進退谷まつて階段の下で屠腹して果てたとも云ふ。年は四十五であつた。
    

 宮部は肥後の産、吉田松陰とは親友の仲であり、尊攘派の錚々たる一人で、同志からは先輩の一人として推服された人物である。
 松陰嘗て宮部を評して、
「国を憂へ、君に忠、又善く朋友と交はりて信あり、其の人懇篤にして剛毅、余もとよりその人を異とす」
 と云つてゐる。
  
 三條実美さねとみの信頼篤く、その使命を奉じて四方に使ひし、真木和泉まきいづみと共に年齢手腕共に長者であり、志士の間に最も重きをなした人物であつた。
 生き残つてゐたら、子孫は侯爵になつたかも知れん。

  
 乃美の手記に依ると、桂小五郎は池田屋から対州の邸へ遁げこんで、危き命を拾つたとなつてゐるが、事実は違ふらしい。


 この夜、小五郎は一度池田屋を訪れたが、まだ同志が皆集らぬので、対州の藩邸を訪うて、大島友之丞と暫く対談してゐると、市中がにはかに騒々しくなつた。


 何事か、と、人を出して様子を探らせると、新撰組の池田屋斬込みだと云ふ。
桂が、刀を提げて、その場に馳せつけようとするのを、大島が無理にこれを引止めて、その夜の難を免れたのだと云ふ。


 この時、せめて木戸孝允の命をあましたゞけでも、長藩のため、引いては明治維新のために、不幸中の幸と云はねばならない。 

 桂小五郎も、この事件に就ては、簡単ながら手記を書き、
「天王山に兵を出す、此にもとづけり」と結んでゐる。

 簡潔ながら、流石さすがによく断じてゐる。
 池田屋に於ける幕府方の暴挙が、如何に長州藩士をして激昂せしめたか。
8月18日の政変以来、隠忍に隠忍を重ねて来た長藩も、遂に堪忍袋の緒を切つたのである。遂に長軍の上洛となり、天王山に本拠を進め、蛤御門はまぐりごもんの戦闘となるのである。


 少くとも、池田屋事変は、禁門戦争の導火線に、口火を切つたと云ふべきであらう。




   近藤勇の最後


 この外、池田屋で死んだ志士の中には、大高兄弟、石川潤次郎等、有為の勤皇家がゐた。
   
 いづれも、その屍体は捕方の手に依つて、三條縄手の三縁寺境内へ運ばれて、棄てゝ置かれた。
 何しろ、暑い頃なので、後にはこの屍が何人のものか、判明しない程腐つてしまひ、池田屋の使用人を呼び出して、「これは宮部さん、これは大高さん」と識別させたと云ふ話である。
  
 池田屋事変を期として、新撰組は更に一大飛躍を遂げてゐる。

 隊員も不足なので、近藤は書を近親に寄せて、隊員の周旋を依頼し、「兵は東国に限り候と存じ奉り候」と、気焔を上げてゐる。
 東国人の近藤勇としては、尤もな言ひ分で、けだし池田屋事変は、当時兎角とかく軽視され勝ちの、関東男児の意気を、上方に示したものと云つてよい。
 

 これから、伏見鳥羽の戦までは、新撰組の黄金時代である。
 蛤御門の戦には、先頭に赤地に「誠」といふ字の旗を立てゝ、会津の傑物林権助の指揮の下に奮戦してゐる。
  
 土佐藩の大立物、後藤象二郎に、或る日、近藤勇が会ふと、象二郎は直ぐに、

「拙者は貴公のその腰の物が大嫌ひで」
 とやった。

 勇は、苦笑しながら、その刀を遠ざけたと云ふ話があるが、多分この頃のことだらう。
  
 それ程、近藤勇の名は、響きわたつてゐたのである。しかも勇は単なるテロリストとしての自分に飽き足らず、政治的にもぐん/\守護職、所司代、公卿の中へも喰ひ込んで行つたが、順逆を誤つた悲しさ、時勢は日に日に非なりである。
 
 伏見鳥羽のたゝかひは、幕軍に対して、致命傷を与へたと同時に、新撰組に徹底的な打撃を与へた。
大部隊を中心とする、近世式な砲撃戦に対して、一騎討の戦法は問題でなく、虎徹は元込銃に歯の立つ道理はないのである。

  
 江戸に逃げ帰つた、近藤は、その後色々と画策したが、一度落目になると、する事なす事後手となつて、甲州勝沼の戦に敗れ、下総流山で遂に官軍の手に捕へられた。

  
 この時、政敵である土佐藩の谷守部(干城)は、

「猾賊多年悪をなす。有志の徒を殺害することかぞふるにたへず、一旦命尽き縛に付く。
 其の様を見るに三尺児といへどなほ弁ずべきを、頑然首を差伸べて来る。
 古狸たくみに人をたぶらかし、其極終に昼出て児童の獲となること、古今の笑談なり。
 誠に名高き近藤勇、寸兵を労せず、縛に就くも、亦狐狸の数の尽くると一徹なり」と思ひ切つた酷評を下してゐる。

 いかに、近藤が官軍側からにくまれてゐたかゞ分るし、谷干城の器量の小さいかも知れる。


 人間も落目になれば、考へも愚劣になる。
 甲陽鎮撫隊で大名格にしてもらひ、故郷へ錦を飾つた積りの穉気振りなど、往年の近藤勇とは別人の観がある。
 然し、これも必ずしも近藤勇だけの欠点ではない。けだし、得意に、失意に、淡然たる人は、さうあるわけはないのだ。
  

 尤も、近藤勇が五稜郭で戦死してゐたら、をはりを全うした事になるのは勿論である。
 真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であつたやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。
 大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。


 しかし、近藤勇の人気は、映画と大衆文芸の影響で、この両者がなかつたら、今ほど有名ではないだらう。地下の近藤勇も、この点は苦笑してゐるだらう。



「大衆維新史読本」モダン日本社
   1939(昭和14)年10月16日
  初出:「オール讀物」文藝春秋
   1937(昭和12)年8月号

海援隊商事秘記『海援隊商事秘記』(2)

2024-06-01 16:29:02 | 坂本龍馬



坂本龍馬関係文書
  『海援隊商事秘記』(2)

丁卯九月十四日蘭商ハットマンと條約ライフル一千三百挺買入之事を談す


尤も四千兩入置余分は當日後九十日に拂渡す筈

同月十五日左之條約書及ひ金子四千兩持參陸奥陽之助及び請人鋏屋與一郎
廣世屋丈吉(某外商人三四人)通事未永猶太郎同道にて出島ハットマン商會に至り
昨日約束通りライフルを請取る

談し直に引替たり其節ハットマン商會より

ライフル目録書付 品位請合書を出せり末永氏飜譯書も相添へり 


  此間種々に混じたる事あり

ハットマンニ出せる證文左に記す
     證文之事
一 ライフル       千三百丁
     但し九十日延拂之事
      代價壹万八千八百七拾五兩
       内金四千兩入
        又金三百六拾兩 (九十日分歩引)
     差引殘り
       金壹万四千四百九十兩
右ハ今般入用に付其許より買請候處實正也九十日限り皆納可申候以上
  ―――三年         松平土佐守内
   九月十四日             才谷梅太郎印
      ハットマン商社

前書之通り相違無御座候若萬一延引及ひ候節は我等より相辨可申候爲

其請印仕候以上
                     廣 瀬 や 丈 吉印
                     鋏 屋 與 一 郎印

一 卯九月中旬長崎商人八幡屋兵右衞門を以て隆州藤安喜石衛門へ大坂爲

  替金四千兩を相談す則ち才谷梅太郎借主にして佐々木三四郎奠印す其
  始末左に記す

一 金四千兩 
   右はハットマンにライフル代價之内へ拂入 


一 金一千兩 

   内五百兩   田邊藩松本檢吾に相渡す證書別に有之候
   又金貮百兩  南長崎に於て隊長才谷梅太郎に相渡す
   又金百五拾兩 長ニ於て口人料として菅谷吉田右八轎や兵右衛門へ
                    遣す云々 
   又金百五拾兩 菅谷陸奥兩人上坂之人用持參細記者別に有之但し末
          永井商人謝義等相遣置且積舟入用も相籠居り候

一 才谷梅太郎取入候ライフル千三丁之内百挺丈け長崎商人鋏屋與一郎

    廣瀬屋丈吉兩人相預り置候始未
      覺 
一 先日才谷梅太郎買主を以て蘭人ハットマン商社を取入候一千三丁之
  ライフル銃之内百挺丈け其許御兩人に御任せ申候間惣金拂入之期限迄
  に可然御取揃被下度候爲念證書 如件 

                       陸奧源二郎 印
                       菅野覺永 無印
                        似し此節不居合
                               故に印影無之候


 右之通り相渡し又鋏屋廣瀬屋兩人 預り一札を取る

同十月二日 無事にて大坂に着す
同廿七日夜 陸奥菅谷 與 僕三人上京 阿菊伏水迄來る
同廿八日  着京次チ室町譯治
同三十日  與松本定約發京期明朝此夜誘松本離杯於祗園花街白峯亦會
      焉前後陸奥翁之周旋也 
 










坂本龍馬関係文書『海援隊商事秘記』 (1)

2024-06-01 16:15:23 | 坂本龍馬

 坂本龍馬関係文書 
 『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』


 
  
 


  海援隊商事秘記(1)
         海援隊
          商事   

 今度丹後國田邊と商法取結び之事は當秋八月比其藩士松本檢吾より我が 
 隊士菅野渡邉陸奥等に示談に及べり 夫に依て互に條約替たる文言 

         條 約  
 一 今般貴藩と商方御取組致候上者以後永續して互に平等公道を守り真實に
   取斗ひ可致に付左之條目を相定候 
 一 貴藩御産物長崎へ御出に相成候節は賣捌等此方屋敷にて一切引請御世
   可申候若又品物に付時價不當之品有之候はば其品物代價に應じ
   世界
定則之歩割金を指出置直段引合之上惣會計を和立可申候

 一 貴藩御産物御仕入に付金子御人用之節此方に於て御相談可申候
   尤も
品物長へ到着之上にて會計相立可申候

 一 貴藩より御産物御蓮送に相成候に者此方に商船等御用立可申候 

 一 二丹州井但若兩國之産物等此方に買入致度節は御隣國之譯を以て
   貴藩
より御世話被成下度候 

 一 貴藩に於て西洋器械及び諸品物等御入用之節は此方兼て取引之洋人よ
   買入可指出候 

  右之通り互に相守違背有之間敷仍 定約件

   慶應三年           松平土佐守内   
     卯九月               才 谷 ――――――
      牧野豊前守樣御内 
       松 本 ――――――殿 

 右之通り我か隊長 条約を出し又松本 假定約を請取る其文言左に相記候

        條 約
 一 今般貴藩と商方御取組致候上は向後永續して互に平等公道を守り信實
   に取斗可致候に付左之條日相定候

 一 弊藩産物長崎へ差出候節は賣捌等貴藩御屋敷に 一切御引請御世話被
   下度候乍然品物時價不當之品有之候ハバ、其品物代價に應し
   世界定則之
歩割金御差出置被下直段引合之上惣會計相立可申候

 一 弊藩産物仕入に付金子入用之節は貴藩に御相談被下度尤も品物長崎
   着之上にて惣會計相立可申候 

 一 弊藩 産物運送仕候節は貴藩御商船御貸被下度候 
   
 一 
二丹州井但若兩國之産物等此方に買入致度節は御隣國之譯を以て貴藩
   より御世話被成下度候 

一 貴藩に 西洋器械及び諸品物等御入用之節は此方兼 取引之西洋人 御周
  旋被下度候

   右之通り互に相守違背有之間敷仍 定約件   
    ―――――        牧野豊前守内 
     ―――――            松本檢吾 
       松平土佐―――――         書判 
        才谷 ―――――殿                 

如右互に取替たるに付約絛之通り産物仕入金を松本に渡すことを約し先
長崎にて金子五兩相渡し猶殘り金之處ハ大坂にて相渡し候筈依て松

請取證書を取る左に記す 

             證 書

一金五百兩也 
  右者此度商方御取組相願候に仗産物仕入金之内借用仕候處實正也然
  上は大坂表に於て御融通に相成候分と共に十一月中旬迄に産物長
崎表へ
  指出し御返金可仕候條明白に御座候爲後日證文仍 如件
    丁卯九月十四日      牧野豊―――――内
      松平 士――             松本―――――印
       才―――――殿 


同九月十八日藝州蒸気船震天丸借受け此之修約を結ぶ爲に菅谷眞之助
奥陽之助田邊藩士松本檢吾同作して長崎出帆し丹後に趣く

同月廿四日長州下之闢に着す此處に於て無余義仕儀有之震天丸 直様土佐に
相廻り菅谷陸奥松本外に兩人(商人壹人 下僕壹人)別に早船仕立大坂に出帆す 
  

 
  
  
  

〔続〕
海援隊商事秘記『海援隊商事秘記』(2)






坂本龍馬関係文書 『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』 毛利家乗抄録

2021-01-19 22:05:09 | 坂本龍馬

坂本龍馬関係文書
 『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』

       



毛利家乗抄録

慶應二年正月廿三日藩士三吉愼藏伏水の旅舎に闘ふ
 是より先き命して京懾間の情を細作せしむるなり
 附記 士佐の人坂本良馬曾て赤馬關に来寓し愼藏之と交る
 是夜良馬と供に伏水の旅舎に投す寇あり
 暗に舍を圍む二人樓上に在て之を覺らす

 良馬の妾會ま浴室に在り變を見て裸體馳せ報す
 數人從ひ登る愼藏槍を操り之を拒かんとす 
 敵燭を掲く其光り我を射て梁れ見えす 

 槍暗中を鏦(刺す、ほこで刺す)す 
 敵火盆を擲つ火散し敵を認む 頗る衆多なり
 良馬も亦た短銃を發し之を狙す
 機輸一回六弾既に盡く 再ひ装はんとす 輪墜っ
 之を索む敵白刄薄り擎っ
 良馬爲めに手を傷つく
 愼藏槍を揮ひ叫闘し敵披靡す 
 良馬も亦た隻手銃を装ひ追て階下に乱發す
 敵死傷し退く 

 二人急に樓壁を穿ち屋瓦を傳ひ他の二戸を鑚り遁れて木材の積む所あるに會ひ
 其架際に潜匿す
 敵も亦た大炮を引き再ひ來て旅舍を圍み二人を索む
 獲す遺す所の一囊を攘めて去る
 時に夜已に闌はなり

 愼藏曰く到る處道路目を以てす
 逃避術なし徒らに敵手斃れんよりは寧ろ茲に潔死せんとのみと
 良馬曰く否然らす
 予は直ちに當地の薩邸に行け
 途中敵に遭ひ、奮死し止むのみ
 天殆んと白からんと遲疑すへからす 
 予は姑らく茲に潜み若し敵の踪するあらは命を抛たんと
 
 愼藏其言に從ひ架を下り竊かに衣血を川流に澣き弊鞋を拾ひ穿ち旅客に扮して辭し別る
 行く五町許薩邸の門を叩き名を通す 
 留監大山彦迎へ入れ 
 曰く昨夜の變嚮きに良馬か妾来り状す
 未たその後況如何んを知るを得す
 兄今ま此厄を免れ来る
 實に天幸と謂っへしと 

 乃ち愼藏を邸に留め急に舟を艤し薩徽の〇(不明?)を樹て
 壯士兩三名と共に櫓して良馬の潜處に抵り迎へ還り
 亦た邸に留む愼藏佩ふる所の囊金を悉くして良馬に投し醫治の資に供す
 邸監更に其門を嚴守せしめ直に使を馳せて西郷吉之助に京師に報す
 吉井幸補馬を馳せ来り訪ふ 倶に京の事情を語る 

 尋て西郷氏兵一小隊に醫師を附し来て二人を療衛せしむ 
 留監は更めて新衣を服せしむ 
 午後に至り伏水市尹數吏を邸に差し二人を索む
 留監〇(不明?)を答へて在らすと為す

 二月朔日幸輔西郷氏の旨を承け來り夜に乗じて二人を京師の邸に伴ひ遠還る
 亦た護送するに一小隊を以てす 
 西郷氏即ち迎へ入れ晤語する舊識の如し
 時事の得失奏議の可否及ひ志士懇接等の談論一も薀秘する所なし
 二人居ること久し

 矣遂に薩長兩藩同心協力王政復古の準備を謀るか爲め
 西郷小松桂等の諸氏を首とし各自先っ疾く其國に歸るに決し
 二人を伴ふて大坂より出帆す

 三月七日愼藏は馬關に揚り良馬は薩州に向ふ 
 八日愼藏 勝山に復命し経歴する所の情状を具す

 九日愼藏に命し徑ちに山口に怟り慶親公に謁し時事を上具せしむ
 公之を嘉みし親しく新刀一振を賜フ 

 十六日勝山に復命す 公賞祿貳拾石を増給す

追録 
 良馬は明年十一月十五日を以て其徒石川淸之助と共に京師に暗殺に遭ふ
 曩に多年勤王の大志を抱き東走西馳國事に鞅掌す 
 特に海軍諚置の急務なるを慮り
 同志を募りて海援隊を長崎に編制し軍艦を購して其術を廣張す

 挫來必す馬關港に由り屡しは有志に就キ慷慨時事を説く
 公之嘉賞し贈るに短刀(備前吉光)を以てし且つ扶助する所あり
 又た愼藏の家に留寓す淸之助も亦た屡しは來藩す 
 良馬死するに及んで遺言に因り其妾愼蔵に来寄す
 愼藏厚く之を遇す因て扶持米を補給す

 後ち海援隊の諸士愼藏等と相謀り妾を上佐の國良馬か姉の家に護送せり 
 維新の後に至り朝延二人の生前に功あるを賞し其遺族に恩禄を賜ふ 




 

 


坂本龍馬関係文書『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』日記抄録 慶應二年 二月朔日

2021-01-18 11:11:28 | 坂本龍馬

坂本龍馬関係文書 

 『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』

         

 

      日記抄録 

慶應二年二月朔日 

一 西郷大人の命にて兩人共上京可致とのこと付
    吉井幸輔乗馬にて兵士一小隊を引き迎へとして來る 

  同夜坂本一同扞に妾附添京師薩邸西鄕大人の宿處に到る 
  大人出迎ひ直に居間に坐し事情を語る

  拙者は初めての面會なれも其懇情親子の如し
  又た一室を設け坂本兩人扞妾とも三人の休處とせらる

  是より日々時勢の動灘
  或は諸建白尚ほ西鄕大人の他人へ尋間等の伜々迄懇論を受く
  諸有志二三名宛晝夜休所に來り慰勞して相語たる 

  此時小松帯刀 島津伊勢 桂右衛門三名は大夫西郷吉之助は中老の取扱なり 
  大久保市蔵 岩下左夫右衛門 伊地知正治 村田新八 中村半次郎
  西郷新吾 大山彌助 内田忠之助 伊集院金夫郎 中路權右門 野津七左衞門
  鈴木武彌 兒玉四郎吉 醫師木原秦雲等の人々日々來話懇情至らさることなし

  時に薩長和解彌ョ王政復台の爲め盡力兵備の手當をなすに決し  
  西郷 小松 桂を始め一と先ず歸国の事と定め
  二月廿九日京師出立に付坂本兩人妾とも同船にて拙者馬關へ
  坂本は鹿兒島へ同行すとの事なり
  依て附添ひ同夜伏見に着す
 
  數人の有志伏見に来る
  三月日大坂藏屋敷へ着し
  四日朝川船にて下り薩藩蒸気船三邦丸に乗る
  五日朝大坂沖出帆 
  七日夜馬関へ着す 
  直通船にて拙者は上陸し鶏其他赤間關硯等を購し
  西郷を始め諸氏へ離別の寸志として船に持参す
  間なく出因を厚謝して別る
  又た坂本へは他日馬關に來ることを約す

  夫れより拙者陸揚陸し常宮屋六左衛門方へ暫時休息の内伊藤九三來訪す
  夜半長府まて通船を雇ひ歸る 


同月八日
一 勝山御殿へ出頭京師の事情薩長和親の件々君公に言上し
  且つ之を重役
のみに談す

 

同月九日
一 命に依り長府出立山口に到る十四日宗家君前に召出され左の達書の通り賜ものを拜す

          新身刀一振 
           長府 三吉愼蔵 
  右先達て時情探索として薩藩坂本龍馬 同道京攝間へ罷登種々辛苦之折
  柄於伏見不慮之儀致出事其砌〇(不明、絵文字?)艱難を経 
  龍馬とも相扶罷歸上國之模様
  委細に及于報知不容易遂苦勢神妙之事に候 
  依て右之通拜領被仰付候事 


同月十五日 
一 山口御用相済み出立 十六日歸府ス 
  十九日勝山御殿に御用召左ノ通御覧賞賜を蒙る
三吉愼藏へ申渡覺 
  其方儀當正月御用に付村京師へ被差登候途中於齢伏見宿危難有之候處 
  遂 
其の節候段被聞召不辱家名全兼〇(不明、絵文字?)武門之嗜宜奇特之至被思召候依て御
  藏米貳拾石被増下都合六拾石被和仰付旨候以上

 

一 龍馬妾、携へ薩州より馬關に来るや伊藤九三方を寄留處と定め   
  妾を同家に留めて東西に奔走し時勢を慮り、國事を勤む
  往来必す關に滞り福原 福田 品川 熊野 梶山等の諸子を勧誘し
  且つ長防の國難を解き君民勤王の素志を遂けしめんことを圖る

  藩主之を嘉みして短刀(備前吉光)を恵贈し
  且臨時の費用を扶くることあり
  其海援隊を長崎に組織するに當りては有志等往て懇論を受るものありし
  龍馬又た慎藏の宅に滞留あり寄書數通載せて別冊とす
  其徒石川清之助亦た屡は来藩周旋する所多し
  其手簡の別録にあり
  我か藩士の龍馬に交るは印藤聿を最初とす 

 

一 慶應三年丁卯月十一月十五日
  京都瓦町四上る近新と云ふ家に龍馬淸之助及僕藤吉止宿の處に
  四ッ時過き賊三人虚に乗し不意に切込み殺害す
  龍馬は同夜死し
  淸誠之助は十七日に死し
  直次郎は十六日に死す 

  右付長崎なる海援隊より
  浦田軍次郎飛報として十二月二日馬關来着事を告けて直ちに歸府す
  此報を得て即時馬關伊藤九三に到り有志に滞るもの擧て上京を計れり

 

一 妾於良は遣言に因り十二月十五日愼藏宅に引受け同居す 
  就ては藩主其情を憐み抉助米あり 
  且つ於良の妹(キンメイ)事兼て龍馬の内意にて菅野覺兵鵆へ娶はすへきの約あり
  故に同女も姉と共に同居せしむ 

 

一 明治元年戊辰   
  王政復古 正月五日 中島作太郎来藩 
  訪間に預る時に他出して面話し得す 
  一書を遣こして馬關に到り泊す 翌日出關會話す

 

一 海援隊の諸士協議の上上州へ於良引取の事に決し  
  終に馬關より士佐る坂本の住處に護送す
  時に明治元年三月なり 

一 龍馬の遺物として正宗の刀を受く 中島氏より之を贈るなり

一 後藤氏よりも謝儀として 土佐國産の美紙を贈るを愛く 





坂本龍馬関係文書 『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』

2021-01-17 12:23:04 | 坂本龍馬

坂本龍馬関係文書
 『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』
     
 

       日記抄録

慶應二年同月廿三夜
一 坂本氏のみ京師より來着に付き兼て約し置きたる通り手當て致し夜半迄
    京師の様子尚ほ過る廿一日桂小五郎 西郷との談判
   (薩長兩藩和解して王政復古を企圖すること)
    約決の次第委細坂本氏より聞取此上は明廿四日出立にて入京の上薩邸に
  同道と談決したり

  されは王道回復に至るへしと一酌を催ほす用意をな

  懇談終り夜半八ッ時頃に至り坂本の妾二階下より上り店口より
  捕縛吏入込むと告く
  
  直に用意の短銃を坂本氏へ付し拙者は手槍を伏せ
覺悟す
  此時一士刀を携へ兩人の休所に來り不審の儀有之尋問すと
  案内
なる押入る兩人誰何し薩士の止宿へ不禮すなと叱れは
  彼れ僞名なり
と云ふ故に
  疑ひあれは當所の薩邸へ引合ふべし明自なりと云ふに

  彼れ
又た云ふ
  兩人共武器を携へ居るは如何と是れ武士に常なりと答へしに 
  彼れ階下に去る此機に乗し樓上の建具を一口に打除ケ拙者は手槍を搆
  坂本氏を後立て必死となる
  
  忽ち階下より數人押し上り各々得物を
携へつ、
  肥後守より上意に付き愼み居れど彝高く呼に立つるに因り
  我れは薩人なり上意を受くべき者に非すと云ふを相圖に
  兼て約せる覺
悟の通り一同銃槍を以て發打し
  突立つる彼れに死傷あり階下に引退く 

  其際一名坂本氏の左脇に來り刀を以て拇指より拇指より持銃に切り付く
  坂本氏
傷を負ふ此時槍を以て防きしも坂本装薬叶はさる由を告くるに由り
  此上は拙者必死に打ち込ぬと云ふを坂本氏引止め
  彼れ等退きし猶豫の
間に裡手に下り此場を切り拔け去ると云ふ

  其意に任せ直に坂本氏
を肩に掛け
  裏口の物置を切り扱け兩家程の戸締りを切り破り挨拶して
  小路に遁れ出て暫時兩人とも意気を休め
  夫より又走る途中寺あり此圍
板を飛ひ越んとするに
  近傍多數探索者ある様子に付路を轉じて川端の
材木貯蔵あるを見付け
  其棚の上に兩人とも密に忍ひ込み種々死生を語
り最早逃路あらす
  此處にて割腹し彼れの手に斃るを免かるに如かすと
云ふ

  坂本氏曰く
  死は覺悟の事なれは君は是より薩邸に走附けよ
  若し途
にして敵人に逢は、必死夫れ迄なり
  僕も亦た此所にて死せんのみと時
既に皢なれは猶豫むつかんと云ふ

  其言に從ひ直に川端にて染血を洗ひ
草軽を拾ふて旅人の容貌を作し走り出ッ
  其際市中の店頭に既に戸を開
くものあるを以て
  尚ほ心急きに貳町餘り行く幸ひに商人体の者に逢ひ
  薩宅のある所を問ふに是より先き一筋道にて三丁餘りなりと云ふ

  即ち
到る留守居大山彦八出迎へ昨夜の様子は坂本氏の妾來りて注進す
  行違
如何やと煩念の處天幸なるかな此に遁れ来るとは
  今ま坂本氏は無事に
連れ歸るへし
  三吉氏は是に止り居るへしと云ひ捨て
  大山氏自ら船に印
を建て有志兩三名と棹して坂本氏の潜處に到り迎へて還る
  一同閧然偸
快の聲を發す

  爾後門の出入を厳守せしめ急に京師西郷大人の許に報す
  因て吉井幸輔乗馬にて走せ付け尋問す具さに事情を語る
  又た西鄕大人
より兵士一小隊醫師一人差添
  坂本氏の療治手當方兩人守衛の為め差下
す由にて來着す
  實に此仕向けの厚き言語に盡す能はす

  夕刻に至り兩人
共に衣服の仕向け有之然處薩邸へ走り込みたる段
  奉行所よリ留守居所
に糺問になり
  兩人共に可和渡と申來り候得共右樣の者は邸内には無之
と申し切り候
  夫より人數の手配をなし探索更に厳なり

  或は京坂へ人相
書を廻し頻りに薩邸を窺へとも
  邸内には一小隊兵士のある故妄に
手を着くること能はす
  扨寺田屋には變動の翌日探索者至り家内を檢し
  遣こし置きたる銃槍及ひ書類用金等を拾ひ揚ケ奉行所に取歸リ候由

  寺
田屋儀も引合となり糺問嚴重なる旨歸邸の後ち告け來り坂本氏は追々
  快方にて本月廿九日迄伏見薩邸に滯在す






坂本龍馬関係文書『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』日記抄録慶應二年丙寅正月元日~同月廿二日 

2021-01-16 15:50:50 | 坂本龍馬

坂本龍馬関係文書
 『三吉愼蔵日記抄 坂本龍馬に係る件』
    

  
 
       
        日記抄録
          (注)原文はカタカナ表記であるが、ひらがな表記とした。

慶應二年丙寅正月元日
一御内命を以て常時勢探索の爲め土州藩坂本龍馬へ被差出京之義被仰
   付候に付部刻長府出立にて馬関に至り竊永専助宅に於て初めて坂本氏
  へ面會に付印藤聿,より引合せ三名一同方今の事情懇一夜にして
  足らず翌二日よリ同宿し協議の上至急登京の事に決し出船の用意を爲
  す時に急便なく止むを得ず五日迄滯關す

 

同月六日 
一日切船へ乗組み同十日出帆す風潮不順同十六日神戸へ着直に上陸す比
  地へ一泊し入京のことを計る

同月十七日
一 神戸湊川には岡藩(中川氏)の警固あり神戸より通船にて上陸す細川左馬介
  寺内新左衛門は坂本氏へ随行に付同件す兩名も毛土佐の人なり

同月十八日
一 大坂薩州邸へ坂本氏に同到る留守居木場傳内へ面會し事情聞取候處入
  京成り難き趣に由り木場氏より藩の船印しを借受け坂本氏を始め
  薩
摩人と假稱して人京の用意を爲す夜に入り大坂城代大久保越中守宿所
  へ坂本氏訪問付同行す越中守よリ内密示談の趣は坂本等事はハ探素嚴
  密にて目下長州人同行にて人京の旨相知れ其沙汰あり手配り致したる
  に付早々立退き候方然るべしとのことに因り坂本氏一同切迫の情態を
  察して直に宿所歸り用意の短統は坂本氏本込銃は細川氏拙者は寺町地
  方にて手槍を求め各々約を定め速に上京と相決す

同月十九日
一 薩州藩士坂本龍馬上下四人と船宿へ達し川船印し相建て伏見へ通船す
一 八軒屋には幕府新選組出張にて人別改む
一 八幡淀の間は淀藩之を固め山崎の方は津藩之を固め川中には所々船番
  所を設け往来を改む伏見豊後橋邊は水口藩より固む右の如く嚴重の警
  固の處一同無事に伏見船宿寺田屋方に著す

 

同月廿日

一 坂本氏及び細川寺内等先達て入京し日今の事情探索し後れて拙者は上
  京し事に約し三名出立す因て拙者は薩藩士の都合にして寺田屋へ潜伏
  し京情の報を待つ 

同月廿一日 
  幕府新選組廻番晝夜嚴重人別を改む因て北時は二階夜具入れ物置き等
  に其場を避く

同月廿二日 
一 一橋公宇治へ進發用意として伏見市中戸別調らべ嚴重にて進退切迫
  處彌よ一名潜伏と見認めを受けしが頓て内達ありて寺田屋、薩人一名
  止宿の樣子に付追々取調へ候得共不審無之者に付着置可然との由報知
  を受け益す寸暇も油断不和成に付用意の銃槍臥蓐中に臟し覺悟す


 


三田村鳶魚『話に聞いた近藤勇』

2021-01-16 10:07:17 | 坂本龍馬

話に聞いた近藤勇
                             三田村鳶魚 
 
    

 この頃はとんだ人間がはやるので、その一人は唐人お吉という淫売女、早く外国人に春を鬻ひさいだということが景物になっている。売淫が景物になるような人間は、あまり披露されては迷惑であります。が、これは別にお話し申すこととして、それとともに持て囃されている近藤勇、これは淫売を景物にするほどではないが、決して立派な代物ではない。
 近藤については、別段調べたのではありませんが、かねて聞いておりますところによって、その人柄のおおよそは知れております。 

〔新徴組(しんちょうぐみ)清河八郎
 新徴組と申すのは、文久三年の五月からの名前で、その前には浪士取扱というものに属しておったのであります。これは清河八郎が画策して出来た浪人団体でありまして、前年の十二月に、小川町の講武所、それが後に筋違外へ移りまして、近い頃まで芸者屋などがありました。

 明治の中頃には、講武所芸者といって、ちょっと知られてもおりました。まだそこへ移りません小川町に講武所がありました時に、幕府は諸家の家来及び浪人で、武芸のあるものを召集して、この講武所の教官にしたのであります。幕府が浪人を採用することは、まことに久しぶりのことでありまして、江戸入部以後、これほど大きく浪人召集の手をひろげたことはなかったでありましょう。もっとも徳川氏が江戸へ入って来ました時分には、随分多くの浪人を採用しておりましたが、その後はほとんど浪人を採用することはなかったと申していいくらいであります。 

 その講武所の師範役になりました一人に、越後少将忠輝の末孫で、三州長沢に無高で引っ込んでおりました松平主税介(ちからのすけ)という人がありました。この人は名を信敏と申しまして、徳川家の立派な親類筋であったのですが、例の越後騒動以来、本国の片隅に引っ込んでいなければならないような境遇にあったのが、武芸を申し立てて講武所の師範役になったのであります。

 その主税介を清河八郎が説いて、説き落した。そこで主税介は本供で登城いたしました。無高ではありましたが、大名の格式を持っておりましたから、主税介は仰々しい様子で本丸へ乗り込んだ。そうして老中に面会を求めましたので、板倉周防守が出てこれに会いました。何しろ国家の一大事というのでありますから、一応聴き取らなければなりません。 

  その要旨は、浪士があばれて、とかく世間が騒がしい。それには浪士を浪士としておくからいけないので、これを集めて幕府の管轄の下において、そうして諸方から来る浪人どもを制御することにしたらいいだろう、その仕事は不肖ながら、かく申し立てるところの、自分がお引受け致そうということでありました。

〔板倉周防守〕
 幕閣の上席におりました板倉周防守は、この人が後に江戸城を引き渡した人でありますが、当時の権力者でありました。当時の浪士騒ぎというのは、今日で申しましたら、まあ暴力団とでも申していいのでしょう。ですからこっちにも浪士を集めて、あばれっこをさせればいい。
 暴をもって暴を制するというやつで、御用の暴力団を作ることがおもしろかろうというように考えましたから、早速これを聴き届けました。それからその趣を主税介が清河に伝えましたから、清河はすぐ浪士募集に着手しました。

 けれども清河といったところが、浪人者でありますから、信用が乏しいために、何分しかるべきものは集まってまいりません。けれども集まらないといっては、話にならない。折角の仕事もそれで壊れるのですから、何でも構わないから沢山集めるがいいということで、種々雑多なものを掻き集めて、そうして二百人以上集めることが出来ました。

〔浪人と浪士〕
 自体、浪人という言葉と、浪士という言葉とが違っている通りに、これは同じではないのであります。浪人と申せば失業者・失職者のことでありまして、百姓でも町人でも、それに構いはないのでありますが、浪士と申すと、扶持離れの侍でなければならない。ただぶらぶらしているものということではない。
 この差別は、幕末においては、ほとんど滅茶苦茶になっておりまして、誰でも構わず刀をさして、浪人ともいえば浪士ともいうありさまであったのです。
 清河が集めた浪士と申したところが、やはり浪士・浪人の区別はないので、百姓もあれば神主もあり、博奕打(ばくちうち)もある。小泥坊さえあったのであります。従来刀をさしていなかった者どもが、この募集に応じて、はじめて刀をさすというものも大分ありました。

 清河八郎はその発頭人でありましたが、その人も武士ではなくって、奥州の百姓の子でありました。ですから藩というような足溜りもなく、殿様という背景もないので、志を当世にほしいままにしようとしてもやり方がない。そこで幕府を道具にして、自分の考えを世の中に行おうという腹なのです。
  

〔尊王攘夷論〕
 それからまた、当時尊王攘夷論、これは幕臣のうちにも、諸大名の手を借りずに幕府自身攘夷を決行すれば、それでよろしいのである。そうすれば何も諸大名から騒がれるようなことはない。幕府の当局があまり因循姑息だから攘夷が出来ないのだ、と考えているものもありました。
 そういう機会でありましたから、清河は攘夷論をもって、幕府側に割り込んでゆこうとする。幕臣のうちにも、幕府に攘夷を決行させようという心持のある際でありますから、清河が割り込んできても、自分の考えと同じもののように思う者もあった。清河の内心は、それとは違っておるのでありますけれども、分量は少うございましたろうが、幕臣中にも多少清河に同情するものもなくはなかったのであります。

 しかし清河は風雲児であります。意気の盛んな、功名心の高いものではありましたけれども、生きんがための勤王党、生きんがための佐幕党というようなものとは違っている。腹をよくするためなら、何でも食う、物食いのいい人間どもとは、一緒になりません。大変に策略を用いますから、清河の人格を疑うことがないでもないが、しかしまたその策略に腐心する彼の心持から申せば、穢いものではないということが知れないこともありません。しかしここに集められたものは、そういうこととは全く懸り合いのないものであって、随分物食いのいいのもいたのであります。

〔浪人等の取締り〕
 糾合されたところの浪人等は、軍用金の調達をするといって、随分市中を荒しました。そうしてその取締りというものは、もうなかなか松平主税介には出来ません。本尊様の主税介は置物になって、働き手の清河が表に出るのみならず、末派末流が無法なことを働く、その始末も立たなくなりましたから、そこで主税介をやめて、浪士取締りとして、鵜殿民部少輔・中条金之助・山岡鉄太郎・松岡万などというものを任命して、浪士団を統率するように致しました。

 この時丁度家茂将軍の御上洛がありました。これは文久三年の二月に出発されるのであります。その御警衛というわけで、浪士等は鵜殿民部少輔以下の人に率いられて、中山道を先発したのでありますが、それはその当時と致しましては、江戸で浪人があばれるということよりも、京都にいる浪人どもがあばれる。西国九州から出て来た浪人等があばれる。お公家様をおどかしたり、幕府の有司をおどかしたりして、始末がつかない。

 そこで関東で浪士を募集して、御用の暴力団を拵え対抗させる。これは板倉周防守が、主税介の申立てを聞いた時に思いついたことだったので、それを実行したのでありました。
しかし出発を命ぜられたところの浪人達というものは、沢山お手当を貰えることと思っていたところが、ほんの旅費だけだったので、衣服や大小を新調した、その払いさえ出来ません。いずれ御用が済んで帰って来てから払う、というわけで、借り倒して江戸を立った。

 そうして上京を致しましたが、御所のうちに新しく建てられました学問所、これへ建言するというわけで、清河八郎等が出かけて行く。どうして、西国九州から来ている浪士を防ぐどころでなく、幕府は自分で集めた浪士を持て余すありさまになった。京都でこの手合が攘夷論を煽るのですから、幕府は非常に迷惑しました。

〔生麦事件〕
 この時あたかも島津三郎が生麦で外国人を斬りまして、大騒動が起ったので、この一件は随分危険なところまで進行しておったので、江戸の状況も甚だ心配されるようなありさまになった。そこで江戸の人心が恟々きょうきょうたる様子もあり、ここを付け込んで不逞の徒が跳梁する。これを鎮撫させるという名義を拵えて、御用の暴力団を江戸へ返しました。

 それから帰って来た人達というものは、攘夷の先鋒を承ったなどといって大威張りで、なかなかの騒動をやったのでありますが、近藤勇はここまでで、この御用の暴力団との関係が一きりになるのであります。

〔近藤の舞台は京都〕
 近藤の舞台は京都でありまして、ここで大変な評判の男になれたのである。一体は清河の募集に応じて出て来た人間でありますけれども、教授方とか、組頭とかいう位置についたのでありません。全く一兵卒の位置で、新見錦(しんみにしき)という人の手に属しておった。
 清河八郎に最も近かった数人を除けば、いずれも腹の減った、物食いのいいやつが多いので、皆估うらん哉の人間どもでありましたから、そこからいえば、近藤だっても悪くもいわれない。
 近藤は京都にまいりまして間もなく、京都守護職であった会津侯と結託して、芹沢鴨(せりざわかも)・土方歳三(ひじかたとしぞう)等数人と一団になって、清河等と分離しまして、京都に居残ったのであります。

〔芹沢鴨の暗殺〕
 これは近藤一人では、なかなか京都に踏みとどまるの、分離するのということがうまくゆきませんから、頭立っていますところの芹沢を担いで、それをお頭にして、数人踏みとどまるというようなことになったのであります。が、そうきまるというと、この芹沢という者を近藤の手で暗殺してしまった。

 芹沢という人は、随分素行のよくない人であったといいますけれども、別に分離後に素行が悪くなったのではない、前から悪いのでありますが、都合のいい時は、素行が悪くても大将に押し立てるし、都合によっては素行を論じて排斥の理由ともし、それだけではまだ不十分なので、ついに暗殺する。かなり陰険な働きをするものである。

〔新選組〕
 さて最初は十二三人であったのが、後には百人余りになって、壬生浪士といわれておりましたが、それが新選組ということになって、近藤はそのお頭になったのであります。ここの手際の最もよかったことは、三月の三日に清河等が江戸へ帰りますと、七八日たった十日の日には、所司代に属することになって、新選組という名前も出来た。

 これは、会津侯は前月すでに、「在京有志の徒にして、主家なきものを守護職に属せしむる」ということを申し立ててもおりますし、のみならず、この前後に浪人を懐柔することについて、ちっとも油断なくやっておられたのでありますから、江戸から御用の暴力団が来るということを聞くと、直ちにこれを物色して、得意の懐柔手段を用いられたということは、十分想像することが出来ます。
 会津に属することが決定したから、近藤等は京都に踏みとどまることにしたのでもありますし、踏み止まることが出来たのでもあります。それが幾日もたたぬうちに、新選組というものになった。

 ここらの手際というものは、実に巧妙なものである。自体近藤というものは、小才の利く男でありまして、妥協とか、折合とかいうようなことは、最も得意な人だったのです。

〔近藤勇を会津藩はどう使ったか〕
 それでは会津藩が近藤を用いて、どういう効能があったかというと、会津の人達は、近藤がしきりに薩長その他の秘事を内通して来るのを褒めた。探偵の技量のえらいことを感心している。探偵の上手な人間などというものは、明るい人間ではない。
 影の暗い人でなければならない。そうしてそれにはまことに相応した暗殺上手である。随分沢山人を斬っている、というその一面には、会津に上手な使い手があって、近藤等を煽動し、使嗾(しそう)してうまく働かせた。それだから、あれだけの男があれだけに売れるような働きが出来たのであります。
   
〔近藤勇の人柄〕
  近藤は決して晴れ晴れした、近頃皆が喜ぶチャンバラなどというような、あっさりした、あどけないようなわけの人間じゃない。もっと粘りっ気のある、毒々しいところのある人間なのであります。
 彼が人を多く斬って世間から注目された蛤御門の合戦、これは御築地の陰のところに隠れては、行き過ぎる敵をうしろから斬っては、またもとの位置に隠れている。そうしてまた敵の行き過ぎるのを見ては、そこから出て斬った。

 それから三条小橋の升屋喜右衛門のところに、西国筋の浪士が五六十人もおりますところへ、二十人ばかりで押しかけて行って、そのうち七人を斬って、追い飛ばしてしまったなどということは、人におぼえられている仕事だったのでありますが、近藤の人を斬ったのに、前から斬ったのは一つもない。必ずうしろから斬っている。
 御築地の陰から出て斬るとか、隣座敷へ呼び出して斬るとか、二階から呼びおろして斬るとかいう行き方をする。いずれにも人を沢山斬ったなどというと、剣術の腕前の凄じいように思うものもありましょうが、彼の剣道は決して立派なものではない。

 私の祖父は剣術が好きでありまして、近藤とも立ち合ったことがあるといって、よく近藤の剣術の話をしました。ナニあれは強くはない、しかしいかにも粘った剣術であった、三本に一本は取れる、と申しておりました。
 私の祖父なるものは、びっくり仰天するだけの人間であって、真剣なんぞを持って斬り合うなんていう肚胸のある人間ではありませんから、何のお話もないが、竹刀を持って立ち合ってみても、その人の根性が出ないことはありません。

 私の大伯父になります谷合量平というものがございまして、それも近藤の剣術の話を致しましたが、やはり祖父が申すのと違っておりません。先日新徴組の一人でありました千葉弥一郎さんから承りますのに、近藤の剣術はさまでのものじゃない、ということを言っておられました。
 そういうふうでありますから、近藤が剣術の道場を持っておったなどという話は、私は聞いていない。とても剣道の指南などをするほどの腕前があった人ではないのであります。
 しかし粘っこいだけに、臆面もなく道場を出していないともいわれない。明治の初めに、漢学教授・英学教授の看板を出しておりましたのが、皆学者かといえば、そうじゃない。時の流行だから、随分怪しいのが多かった。
 近藤が道場を持っていたとしたところが、そういうわけでありましたらば、それが立派な剣客であったという早呑込みをしては、大きな間違いが出来るだろうと思います。

〔用心深い、後ろ盾がないと動かない〕
 それからまた近藤は、決して一人で出歩かない。必ず数人の同行者がなければならなかった。これは用心深いためでありましたろうか。彼は当時京都に大勢力のある会津侯に取りついて、会津党になった、あれこそ忠実なる御用の暴力団でありました。
 彼がおだてられて得意に探偵をやるだけでなしに、暗殺を盛んにやりましたために、何程西国九州の連中に幕府を怨ませることをしでかしたか。なかには必ず斬らなければならぬ人でない人までやっておりはしないか、そんなことのわかるような男じゃない。

 彼が京都に居残ります時、清河等と別れる場合に何とも言わないで、芹沢にものを言わせて、黙々として手持無沙汰の姿でいたなんていうことは、何と解釈してよろしいか。彼は楯を持たずに戦争に出られない男である。京都におった時は、立派ないい楯があった。すなわち会津侯であった。京都から去って江戸へ来ては、もう前のような働きは出来ない。

 殊に滑稽に感ずるのは、彼が明治元年になって、甲府城を乗っ取るといって、江戸を出かけた。その時に若年寄の格というので、裏金の陣笠を被って出かけた。生れ故郷をその扮装いでたちで、いい心持で通過する。ところの者からえらい御馳走を受ける。この時になってみると、もう若年寄も何もあったものじゃない。

 幕府はあれどもなきがごとしというありさまなのですから、裏金も裏銀もあったものじゃない。しかるにそれがたいそううれしかった、というのは、江戸へ帰された後に、浪人取締りが新徴組になったのですが、それから庄内の酒井左衛門尉に属せしめられた、清河のない後ですから、浪人等もついに庄内侯の家来になった。清河がいたら、そうはゆきますまい。

〔新選組の相場、伊賀者次席〕
 幕府のきめた新徴組の相場というものはどんなかというと、伊賀者次席というのです。御家人の下級のものです。それですから、新徴組の平の者が二十五両四人扶持、伍長となりまして二十七両五人扶持、肝煎(きもいり)というのになって三十両六人扶持、取締りになって三十五両七人扶持、こういう俸給なのである。それで唯々として新徴組であるといっていたほど、清河等数人を除けば、ありがたからぬ廉売の代物なのである。それがぶちこわれた幕府にしても、若年寄の格――今日でいえば政務次官か、事務次官か知らないが、ともかく次官というわけで出かけたのですから、近藤はうれしかったのでしょう。

  
〔甲府城攻撃に進軍したが〕
 そういうことから考えても、彼の人柄がわからないことはない。そのぶちこわれた幕府でも、それが背景なり、持楯なりで、甲府城を乗っ取って、上方からの軍勢と戦うという元気を出せたのでありますが、御馳走酒に酔っ払って、もう甲府へ十七里という与瀬というところへまいりました時分に、敵はすでに信州の下諏訪まで来ている。この方は甲府へ十三里しかない。そうしてこの手には、いくさ上手である土佐の板垣退助さんが、兵を率いておられる。 
  

 そういう内報を受けながら、近藤は疲れているからもう行かれないといって、与瀬へ泊り込んでしまった。その翌日は大雪で出て行かれない。また逗留している。ようやく笹子峠を越した時には、敵はすでに完全に甲府城を占領している。
 笹子を下りて柏尾というところで戦うようなことになっては、一溜りもあるものではない。わけもなく敗走してしまった。

 戦争のことでありますから、負けるも勝つもそれはよろしい。負けたからといって、その人間に甲乙がきっとつくものではないが、しかし彼の志を見ると、裏金の陣笠がうれしく、御馳走酒に酔っ払って、敵迫れりと報告されても、向って行けないほどにうれしくなってしまってはしようがない。この方向から見れば、よくその人柄がわかるように思う。

  

 下らない、つまらない、小才の利く、おだてられれば思いもよらない働きをもするというような人間が、何がおもしろくって、この頃持て囃すのか、どこに興味があるのか、今日近藤勇をおもしろがって、皆が楽しむということを見て、我が国の今のありさまを悲しむのみならず、その心が続いていったならば、近い将来がどんなであるかと思うと、まことに悲しみが深い。

 

初出:「日本及日本人」日本及日本人社
1930(昭和5)年10月1日号 






『坂本龍馬 關関係文書 第二』 坂本と中岡の死 二十五 刺客は果して誰ぞ=首領佐々木只三郎=下手人渡邊吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助 

2021-01-14 21:08:20 | 坂本龍馬

『坂本龍馬 關関係文書 第二』   
     坂本と中岡の死  
      岩崎鏡川

二十五 刺客は果して誰ぞ=首領佐々木只三郎
      =
下手人渡邊吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助 
 是て萬事は解決せり。即ち、これに據る時は、近江屋に向かひしは、見廻り組のももにて、佐々木只太郎、渡邉吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、櫻井大三郎、今井信郎の七人にて、更に同日八ッ時(午後二時)頃、一回訪問したるの新事實を得たり。

 さて其時、龍馬不在(?)なりければ、東山邊にて日を暮らし、佐々木まづ偽名の名刺を渡し、取次のものの後に尾して、渡邉、高橋、桂の三人二楷に上り、佐々木は二楷に上り、口を警戒し、土肥、櫻井、今井の三人は其邊に在りも、案内の者騒立つるより、取り鎮め置、再び楷段の上り口に来りし時、高橋、渡邉、桂等の既に楷を下り来るに會せるなり。電光石火の間の事なりしこと、想像に餘りあり。

 この三人の内、誰が僕藤吉を斬り仆し、誰々が坂本中岡に向ひしかは、今判断に苦しむも、兎も角も、一人は藤吉に當り、二人は龍馬と慎太郎に迫りしは、想像に難からざるなり。

 されば、今井は楷上の實戰者にあらざれば、勿論實際の模様を知るべき様もなく、高橋等三人のものと雖も『龍馬其外兩人計、谷宿之者有之、手に餘り候に付き、龍馬は討留め外貳人之者切疵為負候得共、生死は不見』といへるに徴しても、狼狽の状想ふべし。特に名刺の一段に『松代藩と歟認有之』といへる歟の一字、大に味あふきことなり。
 この口書を手にして、予が前に記せる坂本中岡遭難の記事を讀む時は、所謂疑問も鑿々(サクサク、あざやかなさま。議論が確実なこと)刀を迎へて解くるが如く感あるべし。この口書は、官府の記録にて、外間に流布すべきものにあらず。
 否風々兩々、三十の春秋を閲し、彼はこの口書の存在さへも、忘れしなるべし。ここに至てか、彼は自己の書籍に於て見、若しくは他人より聞く所と、自己の實歴とを混淆して、一場のローマンを捏造し、自己を鼓大に吹聴せむと試み
しより、かくも抐鑿相容れざる談話を産み出せるなり。・若し谷子にして早くこの口書を入手せられしならんには、恐らく辨駁を費す迄もなく、點頭せられしなるべし。

 同年九月二十日に至り、刑部大補佐々木高行より信郎への申書左の如し。
 
      

  さるにても、佐々木を何人の命令によりてこの事を決行したるや、勝海舟日記明治ニ年月十五日の條にいふ。
 松平甚太郎に聞ク、今井新郎糺問に付、去ル卯之暮、於京師、坂本龍馬暗殺ハ、佐々木只三郎首トシテ新郎抔ノ輩乱入ト云、尤佐々木モ上ヨリ指圖有之ニ付擧事、或ハ榎本對馬の令歟,不可知ト云々。
と勝はいふ迄もなく龍馬とは、師弟の關係あり。その刺客については、深甚の注意を拂ひ居たりしや論なし。

 松平甚太郎は、大隈守信敏(又兵庫頭河内守)にして、慶應三年正月、大阪町奉行より大目付に轉じ、同年十二月また大阪町奉行となりしが、坂本中岡遭難の際は、大目付在職中なりき。榎本對馬守道衛(始享三)は、慶応二年八月二十一日、一橋家附用人より、目付に轉せしものにして、信敏の下僕たり。
 以て這般の機徴を伺ふべし。されど其原因果して今井のいへる如く、伏見に於て同心を襲撃したる問罪の為ならしか、または坂本が後藤を援けて、大政返上の事に斡旋せしを啣めるに依りしか、はた明光丸、イロハ丸、衝突一軒よりして、三浦久太郎といくばくの關係ありしやは、于今不明なり。

 予の知れる味岡成泰氏は、手代木直右衛門の姻戚なるが、嘗て手代木翁より、佐々木氏の最期の状などを聞きて、予に、第りしことありき。佐々木は戊辰の際、見廻組を率ゐて、伏見に於て薩兵と決戰し、一時兄手代木の寓に潜服し、其分抱を受けたるが、手代木は佐々木の耳に口を寄せ『貴様も随分人を斬ったから、これ位の苦痛は當然だらう』といへば、佐々木は苦笑するのみなり帰途ぞ。

 かくて、佐々木は紀州に逃れ、終に創の為めに詩せり。墓は三井寺に在りとぞ。翁は坂本、中岡刺客の一條についてはより智悉せるものの如くなりしも、話頭、偶々これに及べば、語るを好まざるものの如く、他に轉ずるを常とせりといへり。往事茫々、恩讐兩ら存せず。筆を惜て空しく長嘆せむ哉。




『坂本龍馬 關関係文書 第二』坂本と中岡の死 二十三 刺客は果して誰ぞ=今井の自告に對する谷子爵の駁論 二十四 刺客は果して誰ぞ=刑部省の口書

2021-01-13 10:14:20 | 坂本龍馬

『坂本龍馬 関係文書 第二』
   坂本と中岡の死
    岩崎 鏡川

二十三 刺客は果して誰ぞ
    =今井の自告に對する谷子爵の駁論

 この記事を讀みたる故衆議院議長片岡健吉は、嘗て其の聞く所と相違せる點少からざるを以て、當時、坂本中岡遭難の現場に立會へる、故子爵谷千城にかの雑誌を寄せて、共實否を質問したり。
  
予も一讀其の事實に違ふものあるを憤慨し、明治三十九年京都東山招魂社にて、一場の演舌を試み、これを辯駁したり。

 流石當時の實歴者とて、論旨確然大にに信すべきものあり。
今其要領を摘記せむに
『第一に、今井は、刺客を四人といへども、自分(谷子自ら云う)が翌々十七日迄生存したる中岡より聞きし處にては、刺客は確かに二人なりきといへり。渡邊、桂の二人は死せりといひ、生存者の名前をいはぬも訝かし、死人に口なし。如何に虚言をなしたりとて、證明するものなきを如何にせむ。

 第二に、書生三人居合はせたりといふも、岡本健三郎の菊屋峯吉を拉し去りたる後は、残れるものとては、坂本の僕藤吉のみなり。しかも、藤吉は斬殺せられたるにもらず、今井は、書生は窓の方に、屋根傳ひにて逃げ去れりといへり。假りに逃げ去らしとせむか、この家には普通京都の家にて見る如く、町側に面せる窓には、泥塗の大なる柱ありて、押すとも、突くとも動くものにあらず。若しまた八畳の方の窓より逃げしとせむか、其處には坂本中岡が、賊と鬪爭中にて逃けらるるものにあらず(前掲家屋圖面参照)
 
第三に、松代藩士云々といひて、面會を求めたりといふも、坂本中岡共に常に警戒を怠らず、十津川の者と名乗ればこそ、平生懇意なるものもあれば(前田力雄、中井庄五郎共に十津川人なり)僕藤吉も、取次ぎしなれ。松代藩士など云むには藤吉も取次ぐものにはあらず。
 
第四に斬懸けたる所作、如何にも芝居の仇討染みて、事實とは思へず。坂本中岡の兩人机を挟みて坐せりといふも、現場に机あるを見ざりき。且つや兩人共に、武邊の場數者、特に坂本は槍術の秀逸なれば、顔を見合して、話をしつつヲメヲメ、斬らる如き痴鈍感者にあらず。

第五に彼が斬り付けし兩人の創所は、實地予の目撃せし所とは、大なる相違あり云々』と子は、なは今井の語中に、紀州の光明丸と、土佐の夕顔丸と衝突云々のことあるも、衝突せし船は、紀船明光丸と海援隊の大洲藩より借り入れたたるイロハ丸とにて、且つ三浦坂本共に直接其衝に當れるにあらずして、紀藩よりは岩橋徼輔、海援隊よりは中嶋作太郎(後男爵信行)長崎に出張して折衝せるなり。また坂本の宿所を蛸薬師の油屋とせるも、醤油屋近江屋新助方なることを附記せむとす。
 
 然るにこの今井の自白による時は、兩人暗殺の原因は、彼等兩人が、天下の為め生存せしむへからずといふにありて、全く自發的の計晝に出でし如くなるも、後に今井が明治四十二年十二月十七日附を以て、大阪新報記者和田天華子に答へたる所にては、

一 暗殺に非す。幕府の命令に依り、職務を以捕縛に向、格闘したるなり。 
二 新選組と關係なし。予は當時京都見廻り組與力頭なりし。
三 彼れ曾て伏見に於て、同心三名を銃撃し、逃走したる問罪の為めなり。
四 場所は京都蛸薬師角、近江屋といふ醤油店の二階なり。
と訂正し、公命に出でたる如く告白せり。而して一言も前には捕縛の目的を以て向ひしことを言はざるも甚だ疑はし。

二十四 刺客は果して誰ぞ
  =有力なる資料=刑部省の口書
 谷子爵は、前記の理由によりて今井を以て一種の賣名の徒なりとなし、彼が眞正刺客たることを否定せられたり。されど、彼が自白の内に曖昧にして甚だ徹底せざる所あり。多少の誤謬ありたりとはいへ紀州と海援隊との葛藤を云々し、近江屋室内の搆造のことに及び、坂本中岡對話の位置を語り、刺客の一人が刀鞘を忘れ去りしを説ける如き、無關係の人の構造し得らるべきにあらず。

 されば予は彼が實際の下手人にあらざる迄も、よし何人よりか聞き込みたり、とするも、或る人は、必ずこの事件に何等かの關係なからざるべからずとの疑問を懐抱せるうち、端なくこれを解決すべき有力なる資料を得たり。

 そは實に明治三年二月より九月に渡れる兵部省及び、刑部の口書判決文の抜粋なりき。即ちこれに據る時は、戊辰の戰役後、新政府に於ては、特に坂本中岡刺客の發見に焦心し、野州流山に於て、近藤勇を捕縛の際も、糺問を試みたるも要領を得ず。
 その後、舊新選組は函館に於て、幕兵と共に降伏せしかば、刺客は必ず其内にあるべしとて、横倉甚五郎、相馬主殿等を鞠訊したるも、これ亦刺客にあらざること判明せり。

 然るに舊新選組の一人大石鍬次郎問いへるものを、薩兵の手に捕へしかば、隊長加納伊豆太郎なるものにこれを責問したるに、彼は近藤等と共に、坂本中岡を暗殺したる旨自白せしも、
後にこれを取り消し、『兼々勇(近藤)の咄に、坂本龍馬討取候ものは、見廻り組今井信郎、高橋某當少人數に豪勇之龍馬刺留候儀ハ、感賞可致抔、折々今井信郎も函館降伏人の中にありしかば、即ちこれを刑部省の手に移し、中解部小嶋充均、小判事宮崎有終等の掛りにて、これを鞠訊したるに、其自白せる所は左の如し。