日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

松岡洋右『少年に語る』日露戦争と国威の発揚 

2023-12-09 20:21:32 | 政治家

松岡洋右『少年に語る』  

日露戦争と国威の発揚  

 それまでのことを大あらましに纏めて一寸話しましょう。

 団匪事変をとおして、それから飽くことなきヨーロッパの大国は、支那に踏み込んできた。イギリスは何の関係もないのに威海衛を占領した。またたった今日本が遼東半島を取っちゃいかぬ。それは東洋の平和を乱だすものであると言うたロシアが、今度は自分がとってもいいと言い分なのだ。そして満州をだんだん南に下って、此の大連(当時はここは何もない所だった)ここに不凍港を造る事になった。 

 ロシアはご存じの通り、ペートル大帝の時から、一年中凍らない港は無いかというてそれを探して居ったのです。ウラジオストックに来たが、ウラジオストックは凍る。そこで大連に眼を着けて取った。 

 そして旅順に難攻不落の要塞を築きだした。次に矢張り日本が遼東半島を取っては相ならぬと言うた。もう一人の先生、それはどいつですが、之がわずか二人の宣教師が殺されたと言いがかりにして、青島の租借地を造った。あれは取ったのではない、借りたのだと言うかもしれぬが、借りて返さねば取ったことになる。一寸貸してくれと言うて永久に返さぬ、これは取ったのと同じだ。そういう上手い事を言って取った。そして鉄道を済南というどころ迄敷いた。

 イギリスもただ見ておれぬから、又、南の方で租借地を取った。フランスも取った。だんだん取っていくと支那は累卵の危うきになった。何時分割されるかも判らぬようになった。

 こういう形勢の中に遂にロシアが満州の南に端、此の大連、旅順迄占領し、それだけで満足せずに鴨緑江を渡って朝鮮に踏み込みだした。ある時は危なく釜山の近辺、群山辺に海軍の根拠地を造ろうとした。そして朝鮮の王室を手に入れて攪乱して税金を抑えようとまでした。  

 朝鮮はあれは御存知の通り地図で見ると、日本の横っ腹に向かって矢を突き出すような形になっている。お子を抑えにかかった。この朝鮮に出て来られてはもう、日本も黙ってみているわけにはいかぬ、この上ぐずぐずして居たら危うくなる。否、現に危うくなりつつあった。ところがロシアから見るとあの小さな日本で、まだまだ日露戦争の始まりました明治三十七年頃の日本、なにがしのことがあろう。軍隊など全くなっていやしない。日本人中にロシア軍と戦うなんて抜かす気じるしがあるが、戦う気が本当にある訳が無い。が、兎に角もというのでロシアの皇帝は、有名なクロパトキンを態々日本に視によこされた。 

 クロパトキン将軍は日本を視て帰って日本はとてもロシアに盾突く実力はない、その気もないと、皇帝におっしゃったらしい。当時旅順に居ったアレキセーエフという極東太守もそういうような報告をした。

 そうすると一日、旅順を東郷大将がいきなり突いた。実に驚いたのはロシアだ。ロシアよりも世界だ。以て提灯に釣り鐘、その頃のロシアは世界第一の陸軍国としてヨーロッパの最も強い国々でも恐れをなしていた程の国、それに向かってちっぽけな日本がいきなり喰ってかかった。

 丁度ニューフォンドランドやマスティフに狆ころがキャッツキャッツと吠え付いたという位にしか欧米人の眼には映らなかったろう。無頓着な奴がおるものだ。今に酷く引っぱたかれて、とうとう日本の国は、半分位はロシアにとられるだろう、と思って居った。

 

之も亦、意外、戦うとどんどん勝っていく。その当時、私は既に大きくなって、戦争の真ん中ごろ、初めて外交官になったのでありますが、私は最初上海に参りましてご奉公いたしました。で、之から私は自身、内幕を一部知っておるのであります。

 とても戦うものでないと思ったのが、あべこべ、どこの戰にも負けない。連戦連勝、またたく間に鴨緑江を渡った。そうして遼陽の戦いとなり、沙河の戦いとなり、次いで奉天の大会戦となった。その一寸前に難攻不落と言われた旅順を、あれだけの犠牲を払ったが、兎も角落としてしまった。次いで間もなく起こったのが奉天の大会戦、それから日本海大海戦、これは貴方方皆知っているでしょう。

 日露戦争を通じて日本の武器よりかロシアの武器の方がずっとよかった。それでも勝った。愈々以て欧米人は不思議でたまらなくなった。そうして今の新京、即ち昔の長春、あれから東西に至る線を引いた所で、ロシアと日本の軍隊が長い距離に亘ってにらみ合った。ここで戦争が終わったのであります。 

 これは今日はもうお話ししても秘密ではあるまい。あそこ迄は攻めて行ったが、残念な事にはあれから北に突進して、ロシアを逐い拂うだけの力は、あの当時の日本にはなかったのであります。

 あったらもっと行っている。その時も亦、日本の当時の先輩はなかなか思慮があって、国民は真相が判らぬので日比谷公園で有名な焼き討ちまでして慷慨しましたが、主な人たちは、そこは八分目で留めておかねばならない、これ以上やっては将来の日本が危うくなるかも知れぬ、と言うて憾みをのんで、ロシアと仲直りしたのであります。

 そこで、初めて欧米人が、にほんという国を全体対等に扱わなければならないものだ、という事を悟った。

 その前に治外法権を止めて呉れましたが、事実中々対等国民として付き合いをしてくれないなかった。対等条約を結ぶためにも、幾多の我々の先輩が非常な骨を折り、又犠牲にもなった。外務大臣をしてた時に大隈さんが暗殺されかけて、脚を片っ方無くされたような事もありました。

 日露戦争が終わった頃は、一般欧米の国々と平等だという事を通りこしても、日本はまあまあ一等国だろうという事になった。併しその頃はまだ、本当には一等国だとは思ってくれなかった。まあまあ一等国の仲間入りが之なら出来るだろうという位に、渋々白人がそこまで認めたのであります。



松岡洋右『少年に語る』支那分割論と団匪事変  

2023-12-05 16:08:51 | 政治家


松岡洋右『少年に語る』   



支那分割論と団匪事変
    

 さあ、それから大変な事が始まった。それ迄は餘り支那をいじめるたりすると、どんな事ぬなるかとかも知れぬと思い、少々怖がって居たのを日本と戰をしてたわいもなく負けたのである。ハハアこの象の足は土で出来ている、だから点で立ち上がることが出来ないのだ、それじゃ殺してしまおうか、そして皆が寄ってたかって体をバラバラに切って分けようじゃないか、と云う事になった。


 之から貴方方は難しい言葉だが支那分割論と云うものが、愈々真剣に考え始めたのであります。支那の何処かをぶん取ろうじゃないか、貴方はあの辺をとれ、俺は此の辺を取る、之を切って分けてしまおうじゃないかと云う事になった。そうするとどうも日本はたまらぬことになった。

 支那には勝ってみたけれども、ヨーロッパやアメリカの強い国が、支那にどんどん出張っていって、直ぐお隣の支那を殺して、そうして分けてしまひ、其処に自分の国の出張所を出してくれた日には、日本はたまらぬ。日本はそういう事を起こさす為に戰をやったので何でもない。支那が餘り酷いことを云うて、日本と結んだ条約を無視して朝鮮に這入って、我物顔をするものだから、しかも日本の国を危うくするものだから、やむを得ず之を懲らす為に起って戦ったのだが、支那が参ったと云うものだから、これで日本は目的を達した。

 ところがそれだけでは治まらなくなった。今云うた通り欧米の列強、事にヨーロッパの強い国がどんどん出張って来だした。余り支那に出張って来たから、支那の人達もたまらなくなってきた。これじゃ殺されてしまう、どうかそういうような事が無いように、かねてから心秘かに心配していたのが日本でありあます。然しそれがお隣の支那の人達にはようわからぬ。

 日本は、それから、何とか支那を叩き殺して分けるという事を防ぐ道は無いか、と思うて、一生懸命盡したのでありますが、何しろヨーロッパの強い国の勢いは、日をおうて盛んになった。それが明示33年の有名な団匪事変というものになったのだ。

 
  
 団匪事変とは、難しい事は略しておきますが、一言で云うたら、支那人が、之ではたまらぬから、支那から毛唐を追っ払えという運動を盛んにやるようになった。そこへ迷信家が出て来て、俺たちの体には銃砲は当たらぬ、当たっても死にやしないと言う、そうして起こったのが団匪事変問うものです。そして西洋人を見つけ次第、叩き殺すというえらい運動が巻き起こったのであります。


この団匪事変というものの成り行き如何では最早今日支那という国は地球上に、地図の上でもなくなってしまった訳である。とうとうこの騒ぎが激しくなり、北京、今は北平と言っている彼処に各国の公使館が集まっている場所があって、そこを公使館区域と言ってるが、その公使館のあるところを囲んで、各国公使館以下外人を皆殺しにかかったのである。


 そこで欧米の国々は、兵隊を支那に送って、一時も早く北京に居る自分達の行使その他を救おうとした。そうして日本政府に、貴下も仲間に這入ってくれぬか、という事を言ってきた。

 この時に日本でもこの仲間に這入るべきか、入るべからざるか、と、相当議論があったのでありますが、遂に日本でも矢張り日本の公使もおり、他に日本人もその中に居るので、これを救い出さなければならないのみならず、万一にも各国講師たちを救い出すことが出来ないで支那人が彼らを皆殺しにするようになったら、これを口実に、支那という国はそれこそ欧米諸国が寄ってたかって分割してしまいに違いない殺してしまうに違いない、がそれはさすがに出来ぬという考えから、日本は支那が憎いから兵隊を送ったのではない、支那を救いたいから為に、兵隊を送る事にしたのであります。そうして日本軍が何時も第一線に立って戦った。  

 北倉の戦いなんて言うものは非常に壮烈な戦いであった、各国連合軍が北倉を突破する事は不可能と思われていた。その時に日本軍は先頭第一に進んだ。その後にも思った事でありますが、欧米の兵と日本兵が一緒になると、何時も日本兵が一番先に行って一番先に死ぬのである。一方から言うと馬鹿なやうに思われるが、それは私共日本人の正直な偉い所なんです。


 日本軍が居ったればこそ北倉を突破し、そうして遂に各国の公使その他を皆殺しにしない内に、連合軍と云うものが北京に着き得たのであります。もう北京に居る公私其の他は命旦夕に迫った、あすにもやられるかという有様であったのを、やっと間に合って、そうして之を救うた、其の時には支那では、皇太后という方が、宮廷の方々を率いて西安に逃げて行かれたのである。


 そこで連合軍はしばらくの間、北京を占領して居った。それから此の後、始末の談判が始まった。この時の公使が有名な、後に侯爵になられた小村寿太郎とう人であったが、談判が始まるや日本の全県として談判に当たられた。この人の談判を通じて一つの大きな考えは何であったかと云うと、何とか支那と各国の間に立って執り成してやって、支那にひどい傷が付かぬように、之がために支那が分割されるようなことのないように、と心配されたのである。

 その心配のみとは申しませぬが、併しそれが余程力になって、支那は相当ひどい罰金を取られましたし、又此の運動の發頭人と見られた親王さん其の他が酷い罰を受けて、銃殺された人も多少ありましたが、大体に於ては分割もされず、再び起てぬよう疵もつかずに済んだのであります。

 そこで団匪事変に就いて日本はどうなったか。世界灰の人々の眼にどう映ったかというと、初めて白人以外のものが、即ち白人とは顔色の異なっている日本人が・・・・・・元来白人とは顔色の異なっている日本人が・・・・・・元来白人は顔色が白うなければ劣等民族と思う癖があるが・・・・・世界の歴史始まって以来初めて、白人に非れば人でないと思って居るその白人の兵隊とも肩を並べて対等で戦ったのであります。

 之は偉いことで、少なくとも戦場では平等と認められたのみならず、やってみると此奴が一番強いという事を、一緒に戦った欧米の兵隊さん共は思った。然しそのことが欧米の本国でも判ったかと云うと、どうも彼奴は強いぞとは思ったが、まだまだ白人より強いとは思って居なかた。

 ただ前の日清戦争で勝った時よりも、少しは余計尊敬するようになった。人間らしいと思い出した。  


 それからどうなったか。支那はともかく分割はされなかったが、ヨーロッパの強い国が取りたいものを取らずに居る訳けがない。ここにおいて外交戦というものが酣になった。兵隊で取る代わりに今度は外交で、手練手管で支那の利権を取ろう、一例を言えば、あすこに鉄道を敷設しよう、何れは分割されるのだから、此処が取りたいと思えばそこに都合の良いように鉄道線を敷こう、というような運動が次第に激しくなって来たので有ります。


 当時の日本人は、東洋全体のために、殊に畏れ多くも我が、明治天皇様は、日本だけとお考えではない。支那を初め、支那以外の国も、即ち東洋全体を安寧してやりたい、こういう思召であった。之がまた日本の大方針で、そこで日本は非常な心配をして来たのであります。

 


松岡洋右『少年に語る』日清戦争ころの日本

2023-12-03 11:51:58 | 政治家

松岡洋右『少年に語る』   


日清戦争ころの日本 

 私は十四の時に、今の言葉で言えばルンペン、このルンペンはちつと大きくなって石灰的なルンペンになってアメリカに渡った。私の家はご維新後だんだんつぶれて参りまして、とうとう私は14歳の春アメリカニ渡って行ってアメリカでルンペンをやりました。すると15の時に日清戦争と言うものが始まった。ああなた方は学校でもう日本の歴史は大体先生からお習いになったとおもうが、日清戦争は明治27年、28年にやったんだ、ということだけは沿っておいでになりましょうが、それ以外は餘り感じはあるまいと思う。

 

 ところが明示27年に日清戦争が始まりました頃は、世界はにほんという国がどこにあるかさへ、知っている人は僅かしかなかった。それは支那とか日本医来た西洋人は知っていた。中には書物を読んで知っている人も多少はあったろうが、ヨーロッパやアメリカでは、大部分の人は日本という国は何処にあるかさえ知らなかった。

 私は覚えておりますが、14歳の時のアメリカの小学校、私の通っていた小学校に視学官がきました。学校の受け持ちの先生が私を呼び出して、にほんという国に就いて説明しろと言われて、地図について説明したことがあるのであります。そうすると初めて、成程、地図に赤く書いてある小さな島国があるという位を認めてくれたらしい。

 

 日清戦争が始まりますと、多くの人は日本という国があることを知らぬのであるから一体どういう戦争が始まったのだろうかと云う訳なのであります。そうすると、支那に日本と名の付く省が、即ち地方が一つある。それが支那の中央政府に叛旗を翻した。それが日清戦争というのだ、こういう話をしていた人もあった。  
   

   

 ヨーロッパで可成りの公法学者のその当時著した書物にもそうぁいてあるのが有ったそうです。嘘のようであるがこんな訳だった。日本人は初めから俺の国は偉いと思って自惚れているけれども、アメリカやヨーロッパでは、日本という国は何処にあるか知らない者が、多かったという有様でありましたが、さてそれからどうなったか。

 

 私は15歳でありましたが、子供心に残念でもあり心配ででもありました。日本という国がある事を知っている人でも、あの支那というあの大きな国の脇に海の中にあるちょこっとした日本の島がある。第一これを見ただけでもこれは戰にならぬ。可哀そうに今に支那に酷い目に遭わされるぞという見方であった。まるで提灯に釣り鐘だ。日本というやつは馬鹿なやつであんな大きな国にどうして喰ってかかったというような話、私は日本人でありますからそうは思わぬが、こういう米国の中に居ると、子供心にも竟心配であった。

 それから後日新聞を見ると、天津とか上海とかいうところから来る戦争の電信が載っている。大概日本軍が負けたという電報です。とうとう鴨緑江を渡る戰の時に私は餘り心配だから支那人の町に子供ながら言ってみた。それは支那人の町に行ってみますと、漢文で戦争の電報が掲げられているからである。

 

 今でも覚えておりますが、鴨緑江の戰は支那軍が大勝です。日本軍は大部分撃滅された。その日本人の血で鴨緑江は為に紅になっている。その鴨緑江の河に充満している日本の将卒の屍、山の如くであって、為に徒して渡るべしと書いてある。偉いことだ支那の兵隊が、日本人の屍で鴨緑江が埋まっているので、その上を歩いて渡る事が出来ると書いてある。これは例の漢文、「白髪三千丈」の類とは思ったが、それでもそれを読むと餘り良い気持ちはしなかった。そんなに負けた訳はあるまいと思うたが、ともかくそれが鴨緑江の戰の第一報である。

 

 是は少し挿話的なことでありますが、面白いことには、始めは頻々と支那からくる電報が先、日本から来るのは何時でも遅れる。先に支那から来る電報では、何時でも日本軍が負けている。二三日するとやっと、日本から新聞電報が来る。それによると支那の電報は嘘という事になっている。そこで後には私共は上海や天津から日本軍が日本軍が酷く負けたという電報が来ると、それは必ず支那の軍隊が酷く負けたという事であるとして、安心するようになった。 
  

 

 そいうような訳であるが、驚いたのはヨーロッパ人とアメリカ人、日本は其の後、連戦連勝、牙山というところで本当の戰らしい戰があった。これが世界を第一驚かした。

 

 それからその中に従軍記者から日本が勝ったという電報が来る。そうすると最初は見くびって居ただけに反動を起こして、あべこべに極端に走って、日本軍は素敵に強いというこのとになりました。

 

 ある外国の従軍記者の電報の中に、日本軍の行動はまるで時計の機会のようだ。きちっとして一分の狂いもなく、きちきちと動いている。之には支那の軍隊も敵うはずがない。という事が書いてありました。それ位今度は西洋人が驚いた。

 

 数は日本軍は必ずしも多くない。支那の兵隊は却々多い。その頃の支那の軍隊は、いまから考えると名将軍が海軍にも陸軍にも居た。海軍などは支那の方がずっと大きかった。日本尾軍艦は小さかった。軍艦の大きい小さいから云ったら日本が負けるのが当たり前。それが勝つ、何べん戦っても勝つ。茲に世界が非常に驚いたのであります。

 

 そういうと貴方方は早合点して、それは日本の強いのには驚いたろうと鼻をなさろうがそうじゃない、実は支那があまりにも弱いのに驚いたのです。成程、初め思ったより日本軍というものは強い、あのどうも小さな身体、脚は曲がっておって余り風采の良くない人間だ。然し戦争をやると存外強いそれ位に感じたが、まだまだ日清戦争位では日本軍が本当に強いとか、日本人は本当に偉いとかは思わなかった。あの大きな体をしている支那があまりにも脆いのでそれに驚いたのであります。

 

 それ迄は欧米の強い国でも、支那を侵しては参りましたけれども、半分は怖がっていた。あの大きな図体の国、その頃でも人口は三億以上も人口があった、そうして四千年の歴史を持っている。欧米人が未だ野蛮人であった時代、既に中国人というものはそれは偉い文明をもって居った。それであるからして、この頃は保守的で頑固で改めぬから余程遅れてはきたけれども、併しなかなか底力のある国であると思って居った。

 

 餘り支那をいじめると、元来居眠りをしている象と同じであるから、この象が眼を覚まして飛び上がったら大変だ。大事になるかも知れぬぞ。これが当時欧米人が想像していた支那出会って、欧米は秘かに半ば怖がって居たのであります。所が、小さな日本と太刀打ちしたら、たわいもなく負けた。それじゃ是は象ではないという話になった。眠れる象であると普通言っていたが、これはぞうかと云う話、いや象は象だ。その象がこうして立ち上がって日本と戦って脆くも負けたのだろう。ここに疑いが出て来た。

 そこでよく考えてみたら、象は象であるけれども、脚は土で居ったのだ。それで立ち上がったら土の足が脆くも崩れてしもうたのだ、という話になった。即ち欧米人はこういう事に気が付いた。

  

 これは私が形容して貴方方に話すのではありませぬ。今話した通りのことが、当時欧米の新聞、雑誌に載せられて居たのを読んだのである。

  
 

〔関連記事〕
 松岡洋右『東亜全局の動揺』第一 序章 一、外交とは何ぞや 


  
    


大隈重信「東亜の平和を論ず」 (1907(明治37)年11月)

2019-07-08 16:30:45 | 政治家


 大隈重信   

「東亜の平和を論ず」
 
  
 


〔今日の世界と東アジア〕

 諸君、近来支那朝鮮という問題がよほど世間の注意をひくことになった。ことに満韓という問題は政治家、学者は勿論、事業家の間などにも、よほど注意せらるることになったのは甚だ喜ぶべきことであります。

 我輩はほとんど十数年以来支那の問題を研究している。しかし今までは社会はあまりこれに耳を傾けなかった。然しかるに近来は全社会を通じて、この問題によほど重きを置くということになったのは、諸君と共に最も喜ぶべき事である。
 

 そもそもこの問題を解釈するために最も必要なる事件は、目下起っているところの我が国家の安危栄辱に関するこの(日露)戦争である。この戦争の結果がどうなるかということが先決問題である。もしこれが負ければ清韓どころではない。我が海岸線を守らなければならぬという事になる。これは実に容易ならぬ問題である。国民の頭上に臨んでいるところの最も大なる問題である。

 しかしこの戦争には必ず勝つと信じている。当局者も無論信じている。ことに軍隊は最も大なる自信力を以て戦いつつあるのである。日本の勇敢なる軍隊と、智勇兼備の将校の力に依って必ず勝つに違いない。しかしながら、戦争の勝利によりてすべての事は決せられぬのである。

 

 今日の世界は決して日露で支配している訳ではない。日露以外、世界に強国、大国が存在しているということを忘れることはならぬ。今日世界に如何いかなる大国があるか、如何なる強国があるかといえば、是非七つ八つ指を屈せねばならぬ。

 

 あたかも支那の春秋戦国の時代、戦国七雄というような有様である。ヨーロッパに於ては英、仏、独、ロシア、オーストリア、イタリア、この六大国がある。これに北米合衆国を加えて七大国である。戦国七雄に比しても、まさか現在戦国ではないが、ほとんど戦国の有様を現している。而して今まさに極東の日本帝国がこの七大国に加わって、第八国にならんとする時であるから、このたびの戦いは日露のみで解釈は出来ない。世界の問題である。

 

 そこで私が今日議論をする問題は、まず「世界に於ける日本の地位」という演題にしても宜いかと思う。しかしこれではあまり大き過ぎる。今少し縮めて「日本の大陸に於ける勢力」、大陸というても少し漠然としている。「アジアに於ける勢力」としようかとも考えたが、アジアというてもあまり大き過ぎる。そこで私は「東アジアに於ける日本の勢力」、こういう問題にした方が適当であろうと思う。

 

 そこでこの世界の強国に、今や日本がその一とならんとしつつある、――まだなった訳ではない。自ら強国なりというても戦いに勝っただけで強国になるものではない。種々の強国が日本を強国なりと認識(レコグナイズ)して初めて強国となる。自分一人で豪えらがっても、世界の強国がこれを認めなければ強国とはなれない。言い換れば、世界の問題に発言権を持するに至って、初めて世界強国の間に立つことが出来るのである。自分一人豪(えら)がっていても何処どこからも相談をされない。世界の大なる問題を決するには、他の世界強国の間で決してしまって、ただ通告を受けるというのみでは強国とはなれない。果して日本がそういう地位に達するや否や。そこでこの戦いだ。

 

 この戦いはどういう有様であるかというと、私は軍人でないからこれを軍事上からは論じないが、まずごく簡単にこれを説明しますると、ロシアはほとんどヨーロッパの中古時代の国である。私は昨年の十一月にある所で演説をしたが、その時にロシアは全く蒙古と同じ事である、ロシアの武力は蒙古的武力である、ロシアの軍隊の組織は蒙古的である、ロシアの君主専制も蒙古的である、こういう事を言った。

 蒙古の勢力はもはや五世紀も前になってしまったのに、今日までそれと同じロシアの勢力が残っているというは如何にも不思議である。およそ進化の理を以て論ずるも、またかくの如き中古時代のものが今日まで存在しているということは頗(すこぶ)る疑問である。これは全く一種の外交的関係から来ているのであろう。即ち国際的関係、勢力平衡の上からロシアという国が世界に大なる勢力を現しているので、その実力はすでに無くなっている。実勢は既に過去って惰力的の勢力が存在しているというに過ぎぬ。

 

 ところが日本は如何なる勢力であるか。即ち新勢力である。新たに勃興したところの勢力である。世界の文明、世界のあらゆる科学を応用して、而して中古的、専制的、封建的の羈絆(きはん)を脱却してついに立憲の政治を行い、憲法を制定し宗教の自由を認めたという国柄である。歴史を読んでみても、フランスの大革命以来専制の勢力は次第に消耗して、尠(すく)なくとも千八百四十八年以後は専制の勢力はほとんど全く消滅したのである。今日の流行語を以ていえば、頑強に立憲的運動に反抗したオーストリアもプロシアもゲルマン列国もことごとく敗北して立憲政治を施(し)くに至った。

 この時にロシアという一国のみは依然としてその制度を改めない。これは国が僻在(へきざい)しておって守旧に便利なのと、「スラーブ」民族が元来政治思想に乏しきが故であるが、その地勢が守るに易やすく攻むるに難かたく、ナポレオンの失敗なぞのためにヨーロッパの国々が勢力を買いかぶったに原因すると思う。

 

 しかしながらかくの如き勢力が新勢力に競争して勝つということは進化の理に戻(もと)っている。中古の遺物として蒙古的勢力、アジア的勢力がヨーロッパに存在している。然しかるにアジアにありながら世界の最も進んだる文明を有する日本がこれに打ち勝つ。即ちヨーロッパに国しておるところの「スラボニック」民族がアジア的の働きをして、アジアに国しながら新文明の空気を呼吸する日本に打撃されるとは如何いかにも不思議なる現象であるが、これけだし真理である。進化の原理に符合するのである。故にこの戦いは必ず勝つと思う。

 

 しかし勝つということになった暁(あかつき)、我輩の言うところの世界に於ける日本の地位は如何なる変化をなすか。我輩をしてごく露骨に自分の理想、自分の希望を言い現さしめば、世界のすべての問題に日本帝国が発言権を十分に占めたいと、こう思うのである。しかし一時にそういう勢力を得るということは如何(どう)であるか、これは疑わしいのである。そこで数歩を譲って、まず日本という国が東亜細亜アジアに対して十分なる権力を持ちたいのである。かく謙遜したならば、諸君の中にはあるいは大隈老いたりということを言うかも知れぬが、私はまずそこまで譲りたいと思う。

 

 ご覧なさい、アメリカ合衆国が英国より独立して段々国が勃興するに付いてどういう地位をもつに至るか。かの国が今日世界に対してどういう地位をもっているかということを諸君に考えてもらいたい。諸君の知らるる通り、米国の大統領の「モンロー」がかつて宣言書を出した。これは「モンロードクトリン」というてアメリカ合衆国ではほとんど神聖視している。

 

 これは即ちアメリカ合衆国は自分の勢力範囲にヨーロッパの干渉は断じて許さないと同時に、ヨーロッパの事件に関係しないということを宣言したのである。アメリカ合衆国でさえ、なおかつかくの如きものである。日本の突然勃興したところの勢力で、世界の発言権を持ち世界のすべての問題に権力を振いたいということはあまり空想である。しかし疑いも無くこのたびの勝利に依り、東アジアに於ては日本政府の意に戻(もと)って如何いかなる強国も我儘(わがまま)をやることは出来ないというだけの点には、必ず目的を達するに相違ない。

 

 しかしこれも漠然としておっては目的を達しないのである。歴史も教えている通り、自分の国の地位は既にある点に達したに拘かかわらず、外交がそれに伴わなければ思う様に往かぬ事がある。しかしながら国民が十分に進歩して、国民的勢力が常に政府の後(しり)えにあれば必ずこの国の外交は成功する。国民の対外観念の発達に伴う外交は、着々功を奏するに相違ないと信ずるのである。

 

 そこでまず日本の勢力がアジア大陸に於て、支那朝鮮もしくはシベリアに於て十分に実現されたということは、日本国民が十分知覚しなければならぬ。同時に国民の熱心が世界をしてこれを認めしむる、日本の勢力は如何なる強国もこれを認めねばならぬという事になって、初めて東洋に起った問題に付いては日本の一言一行というものが世界を動かす力を持つに至るのである。

 

 そこで日本の地位が定まると同時に、問題が諸君の常に論ずる清韓という区域に移って来る。日本は勝つ、必ず勝つ。何故に勝つかというと、世界文明の潮流に乗じて世界文明に反対するものを打つからである。孔子のいわゆる仁者仁道を以て立つという訳である。先方は不仁をいうに此方(こなた)は仁を行う。仁道を以て隣国に臨む。その隣国とは如何なる国であるかといえば、ほとんど大患に罹(かか)っている気の毒なる国民が吾人の周囲に存在しているのである。これをどうするかというに、少年客気(かっき)の人は侵略論を唱えるそうである。そういう人達の議論はどうかというと、まず個人の上には道徳はよほど進んだが、国際的道徳は少しも進まない。いわゆる権謀術数、春秋に義戦なし、何でも強い者が勝つ。日本が強くなったから隣国を侵略して引き奪ってしまうという、これは実に驚き入った訳である。抑々(そもそも)国際的道義が成り立たぬということは大なる間違いである。ある場合に権謀術数を弄(もてあそ)ぶものがあれば、その一、二の場合を挙げて全体の国際的道義甚だ幼稚なるものと断定するのは大早計である。

 

二十世紀の今日に於ては、もはや「マキャベリー」の権謀術数は許さぬ。

 また人の国を侵略すれば必ずその復讐として自分がまた他から侵略されることが起る。古(いにしえ)より、武力を以て人の国を侵略したという国の結果は何時いつも宜よいことはない。ロシアが無闇に侵略をする。この侵略に日本が反対をした。隣国を扶植してこれを進歩せしめる、こういう言葉を以て戦いをなすや否や、直にかの侵略を真似まねて自分が侵略するというは何事ぞ。覇者もなおかくの如きことは為さぬ。況や王者をや。実に人間の欲望は驚くべきものである。

 露帝は何と宣言したか。支那の現状維持、支那の保全のために支那の開放ということを宣言された。一度ならず何度も宣言した。千九百年に露帝は宣言した。露帝の外務大臣「ラムスドルフ」はアメリカの国務卿に向って同様の返事をやった。前の「マッキンレー」大統領が支那の開放という事について列国に廻文を発した。それに「ラムスドルフ」は熱心に同意を表した。然しかるに当時は露帝も外務大臣も内閣も、ことに参謀本部では地図へ線を引いて、これは皆ロシアの地面にしてしまうといって、支那に対する侵略の計画は熟していた。それでもなお且つ表面は支那の現状保全を唱えて、少しも侵略ということは言わない。実に畏(おそ)るべき国である。

 

〔「支那保全」論〕

 我輩はこの場合に於て支那問題に関する我輩の従来の主張を、繰返す必要を切に感ずるのである。明治三十一年に我輩は東邦協会に於て一場の演説を試みた。その筆記は東邦協会の雑誌に出て、翻訳されて欧米の新聞にも出た。その議論は、国というものは外部の圧力に亡ぼさるべきものではない、外から亡ぼされずして自滅するのであるというが骨子である。その時私は獅子身中の虫ということをいうた。 

 獅子というものは実に猛獣で百獣の王とも言う。一度咆哮すると百獣皆懼おそれるという。それがどうして仆(たお)れるかというと体に虫が出来る。するとその猛獣が自然に仆れる。これが獅子身中の虫というのである。支那という世界無比の大帝国、四億万という大民族はなかなか亡びるものではない。

 

 ナポレオンさえ将来世界は支那が支配するか知らんと心配をしたくらいの国である。そういう国が容易に亡びるものではない。如何いかなる強国もこれを亡ぼすことが出来るものでない。ところが支那が地を失うこと日に千里、こういう訳だ。僅わずかに一世紀間に地を失うこと千里。かつて二百年前にピョートル大帝というロシアの豪傑、侵略家がついに支那の北部の方を侵略しようとした。すると支那の康熙帝は直ぐ兵を送ってこれを追払った。ロシアは散々に失敗をした、閉口した。かの「ネルチンスク」の条約はロシアにとっては非常に屈辱なものである。

 支那にとっては最も名誉なる条約で、ピョートル大帝は支那の国民にとって名誉あるその条約を、自分の恥を忍んで結ぶに至った。その時侵略を免まぬかれたという国が、その康熙帝の子孫に至ってどういう事になったというと、百年の後には「アムール」河を取られ、五十年の後には沿海洲も取られ、続いてロシアは支那の困難に乗じて更にまたかのウラジオストックに近い処を取ってしまった。

 

 そういう様な訳で、別に武力を加えられたでもなければ、戦った訳でもなくして、日に千里を失うということになった。而しかして既に取られたところの地方はすべてまず百年間に日本の二十倍くらいな大きさを取られた訳だ。戦って取られた訳ではない。皆外交の上で取られたので、兵を用いずして取られたのである。なかなかロシアの外交というものは御偉(おえら)い。かくの如く国家は皆自ら亡ぼす。

 

 他動的でない、自動的に亡びる。亡ぼされるのでない、亡びるのである。ローマの亡びたのも蛮族が亡ぼしたというが、決してそうではない。もうローマが腐敗した。そこで北狄(ほくてき)が侵入したまでである。物まず腐って虫これに生ず。これは亡ぼされるに非ずして亡びるのである。国の亡びるのは皆そういう訳であると、大体そういうことを我輩は言ったのである。

 

 それからその当時、支那の分割という議論がよほど盛んであった。そこで私が支那の分割の不可能なることを信じて、支那の保全を唱えた。支那を励まして亡びぬようにしろという注意を与えた。その時にちょうど勢力範囲ということが唱えられ、分割ということが唱えられた。その時代に私はこれは世界の人達がよほど過(あやま)っている。ことに外交家が最大なる過ちをやっている。全体手品師のように、人の物を勝手に紙の上に図を引いて奪うということが出来る理屈のものではない。

 かつてベルリンに於て列国会議を開いてアフリカの分割をやった事がある。その時に初めてこの「スフウェア・オブ・インフリュエンス」という字が出来た。そういう外交上の言葉が出来るようになった。これは外交官達が「ビスマルク」の前に大きな「テーブル」を置いて、自分が持っている鉛筆で地図に筋を引いて、これは英国、これはドイツ、これはフランスと、その取るべきところをきめた。またこのところを取るとよほど面倒だから中立にしておこうなどと、そういう様な事をした。こういう様に紙の上に鉛筆で引いたところの線がそれぞれ事実の上に出現した。これは不思議はない。

 

 アフリカという国は、諸君も地図でご覧の通り、白くしてある所が多い。あまり黒くなっておらぬ。黒くないのは書くことが少ないからだ。あるいは探検をしない所は皆白くしてある。こういう所を分割するには外交家達が地図の上で勝手に極められるが、支那は四千年の歴史を持っており、四億万の大民族が住居している所である。最も機敏な外交家達がそれを忘れたということはよほど不思議である。アフリカとは大いに違う。そういう馬鹿な事が出来るものでない。

 そこで私はその当時、いわゆる各国の勢力範囲なるものは実印を押さぬ証文同様であると評した。ところがその当時日本は福建省の不割譲を約束してあったのも併(あわ)せて罵倒した様な訳で、各新聞などから甚だ相済まぬという批評を受けた。我輩はその当時外務大臣で当局者であったから一層世間の攻撃が八釜(やかま)しかったが、私は正直だから思った通りを述べたのである。事実その通りだ。大切な証文に捺印がしてないのに己の権利があると、そんな馬鹿な話はない。そんならばどうするかというと、支那の様なああいう大国は、騒がすと蜂の巣のようなもので面倒だ。そっとして世話をしておく。そうして支那を誘導して開発するということが必要であると、こういう議論を唱えたのである。

 

 而しかして支那を開発し支那を誘導するには如何いかなる国が先生となるか、あるいはこの大病人を診察をしてこれを治療する医者になるか、看護婦になるかという問題が大問題である。これは英国が古くから交際があるから宜よろしかろう、もしくは境を接しているからロシアが宜しかろう、もしくは米国が友誼的に先生となって指導した方が宜しかろうかという事があったが、これまた不可能の事である。支那を文明に導き得る国は世界に無い。支那という大病人を治療して復活させる国は世界に無い。もしそういう国があれば世界にただ一つあって二つない。一つのみだ。その一つは如何いかなる国か。即ち日本だ。日本を除くの外ほかには無い。これは外務大臣として予告しておいた。

 

〔日本と中国の関係〕

 昨今ちょうどその時が近付いて来たようである。いかんとなれば、日本が大なる勢力をアジア大陸に及ぼす時に当って、而しかして世界に対して日本の働きが尊敬されるという時になって、日本は初めて親切に支那の治療に取掛ることになるのである。何故に日本が支那を誘導しかつ開発し、死に瀕したる支那の病気を治療する任務に適しているかというと、我々の先祖は支那人と大なる違いはない。ある人は日本人は「アリアン」種族だという。「アリアン」はさほど有難いものか我々は疑う。何というても我々の血は「アリアン」とは違う。我々の血の中に多少「アリアン」の血も交っているか知れぬが、それがために日本民族が「アリアン」人種だというのは少し乱暴な断定である。

 そこで支那人の口調で言えば、同種同文、同種とは同民族ということだ。次に我々は千五百年以来、支那の文学、美術、宗教もしくは政治、学芸、ことに倫理というものに於ては支那に負うところがよほど多いのである。平たく言ってみれば、諸君の父さんは孔子様の門人であったに相違ない。そうでないならば土百姓か、無学文盲の人に違いない。五千万という大民族は大概(たいがい)孔子さんの門人である。孔子さんの感化を受けて、口を開くと仁義をいう。この仁義ということは皆これ支那の哲学から導かれたところのもので、この感化力は実に広大なるものである。近来支那を悪く言う者はよほど通人のようになっているが、これは意外の事である。近来の支那はあまり宜しくは無いが、それがために孔子まで悪(あしく)いうのは不都合である。

 

 例えば中古時代のキリスト教に於て、ローマ法王の権力で腐敗した。これを以てキリスト教を悪くいうが、決してキリスト教は悪くいうべきものではない。キリストは尠すくなくとも聖人である。人類を罪悪から救わんと企てた人である。ところがローマの坊主どもが一時権力が大になるに随ってあらゆる罪悪を犯した。普通の俗人よりも余計犯すに至った。ローマの坊主どもこそ沢山地獄へ往ったであろうと思う。しかしそれがためにキリスト教を非難するのは気の毒である。それと同じく孔子さんの子孫の支那人が多少堕落したために、孔子さんを悪くいうのは実に勿体もったいない。

 

 それはとにかくとして日本人は孔子さんの門人である。そうすると支那人とは同門だ。同種同文、而して御師匠(おししょう)さんまで同一であるから、日本に依って支那を開発させるのは至当である。日本人は支那人と同種同文にして同門、支那の哲学を学び、支那の文学を学び、支那の政治を学び、あらゆる支那の学芸を学んだ。今日諸君の家庭に行われる風俗習慣というものも、多く支那に依っている。この国民が支那開発に最も適当だというのは、何人(なんぴと)も異論のあるべからざる事柄である。

 

 そこで日本人が支那人に向って、君は仏教の中毒と儒教の中毒で大病に罹っている、我等も同じ病気になった事があるが、西洋舶来の良い薬を服のんだために病気が治って、前よりも百倍増した健康になった。そこで君達にもこの薬を上げるから飲むが宜しいと勧める。これは親類同士で初めて出来ることである。人種が違い、風俗が違い、文明の源が違う人であると、ごく友誼的にもって往っても、人類の弱点として猜疑の心が起る。粗末な宣教師がやって来て毎度騙だましたことがあるから、またその伝だろうという疑いが起る。ところが日本人は同種族で、同門で、一番近い親類だから、ごく真実に世話をしてやる。また支那人も信用を置くことになる。我輩が思うには、今日支那に欠けているところのものは政治の能力である。すべて政治が悪いために風俗が悪くなる。政治が悪くなったために、到頭とうとう国民を堕落さしてしまう結果になる。

 

 かの朝鮮の如き千五百年前に於ては日本よりも何かがみな進んでおった。文学も工芸も進んでおった。例えば高麗焼と称する陶器の如き、今日残っているのは実に宝である。かくの如き陶器を造るところの技倆というものは容易でない。あれを見ても他にも巧妙なる工芸があったに相違ない。その他文学に於てもなかなか大著述がある。それが何故に今日の有様になったか。全く政治が悪いために堕落したのである。

 支那もそれと同じ事、政治が悪いために、文学も技芸もその他すべての物が段々衰微したのである。支那の織物、陶器、彫刻、絵画その他種々の工芸品というものはなかなか盛んなものであったけれども、僅わずかに二百年ばかり前から段々下って来て、今日では非常に衰えた。そこで支那を開発するに、まず政治の改良から先に為さねばならぬ。それを誘導するのが日本の天職である。而しかして今、日本がその天職を尽すのに適当な時期が来ったのである。支那を治療するについて、支那を誘導するについて、ほとんど一の妨害を受くるを要さない時になったのである。またある意味からいえば、支那を誘導するは日本が支那に対する報恩である。

 かかる時期の到達したるに拘かかわらず、侵略的の議論を唱導して支那人をして嫉妬猜疑を起さしむるは最も不都合である。日本の政治家、学者たるものはこの際言葉の上に於ても、行為の上に於てもよほど気を付けなければならぬ。既に宣戦の詔勅にある如く、日本は勿論、北米合衆国も英国も、支那の保全ということを主義として発表している。支那の開放ということは決して独り日本の主義に非ずして、世界の主義になっている。ほとんど世界の根本主義になっている。この主義に背くということは、支那をしてせっかく日本に頼るところの意を失わしむることになる。これを失えばどうなるかというと、支那の不利益、日本の不本意、平和の攪乱という結果を生ずる。即ち支那人は反く、反けば余儀なく政治上では黙っておられぬ事になる。

 

 朝鮮もそうだ。朝鮮の君臣がもし寛仁大度(かんじんたいど)なる天皇陛下の聖意に背いて、土地を奪われるなどいう誤解から陰謀をやって敵に通ずる、あるいは野心ある国に籠絡されるということがあれば、余儀なく朝鮮を取るという様なことが起らぬとも限らぬ。これは果して日本が他国を亡ぼすのであるか。決してそうではない。朝鮮が自ら亡ぶるのである。

 

 そういう訳であって、支那に於てもその通りだ。日本が支那に対して充分なる友誼を尽すに拘わらず、支那の君臣が猜疑心を以ていわゆる野心ある国の権謀術数に掛って日本に害を与えるということになれば、その時には決して許すことは出来ない。如何なる寛仁大度の君主も、姑な事をしてこれを捨てておく訳に往かぬ。ある場合には国を取り人を殺すということも必要である。無道を征するは必要である。 

 

 しかしながら侵略ということを日本は主義としている訳ではない。無論、寛仁大度の陛下に統治されたる国民は、友誼的に支那を取扱わなければならぬ。支那と日本とは同種同文、而して同先生のもとに千五百年来感化を受けたところのものである以上は、日本は友誼上何処までも支那を文明に進めてやらなければならぬという、この精神は十分に支那に通ずるようにしなければならぬ。然しからざれば大なる過ちが起るのである。それ故なるだけ猜疑を避けるということが必要であろうと思う。

 

〔日露の講和条件〕

 かく論じ来れば、日本の東アジアに対する責任は最も重大なるものとなるのである。それ故にこのたびの戦争の結果に付いて講和うわの条件を述ぶることが最も必要なることと感ずる。講和の条件を今日論ずるのは早計の如くではあるが、早晩講和の時期が来るに相違ない。冒頭に論じた如く、この戦いの結果は必ず日本が勝つ。日本はこの戦の目的を充分達することが出来ると信ずるのである。然しからば今日より講和条件を攻究することは、決して無用の業ではないと信ずる。東洋の平和の目的を将来日本が保障する地位に立つ以上は、講和の条件に最も重きを置かなければならぬ。決してこのたびの戦いの目的は地を略し民を奪うという如き覇者の目的ではない。既に宣戦の詔勅にある如く、ほとんど王者の師である。平和を得るために戦いを起したならば、またたびたびこの戦いを繰返すという如き事を未然に防ぐのは、終局の大目的でなければならぬ。

 

 およそ世界の勢力が国際的に交渉する上に付いては多少の混雑はある。国際的利益の競争もある。しかしながらロシアが「ウラル」を越えて東洋に及ぼすところの勢力は、普通文明国互い互いの間の国際的競争、もしくは国際的紛議とはよほど性質が違うのである。これは数世紀以前から、力の弱い薄弱なる所に向って圧力を加え、侵略の手段によりて得たところの勢力である。かかる勢力はもし強い力に出遇と其処で止まる。あたかも水が岩か山かに出遇うと其処で屈折して流れを転ずる、西せんとするのが東に戻るということがあると同様である。ロシアの北の方は天然に限られている。即ち北氷洋という所がある。そこで西の方はどうなったかというと、ゲルマンという強い力に出遇うて止まってしまった。

 

 そこで一方は黒海に向った。トルコの勢力は弱い。薄弱なる所に向って直すぐ圧力を加えた。とうとう「クリミヤ」半島、黒海沿岸を皆取ってしまった。更に転じて一方は「バルガン」に向った。「バルガン」に向うや否や、初めは英国の力に制せられ、続いて列国の共力に依りて制せられた。ここに於てロシアの西に向い南に向うところの膨脹力は全く止められてしまった。そこでこの勢力は転じて中央アジアに向った。更に転じてアフガンからインドの方へ及ぼした。一方は中央アジアからペルシャに向いペルシャ湾に出でんとする。何でも薄弱なる所に暴力を用いて圧迫したところが、これもまた英国の反抗に出遇ってなかなか容易に志を達することが出来ない。それ故にロシアのあらゆる力はシベリア蕃族を征服して支那の北部を圧迫し、ついに満州朝鮮を圧迫するに至った。また団匪(だんぴ)の乱に乗じて全く満州を軍事的に占領した。

 

 かくの如くロシアの膨脹はヨーロッパ文明の国際間競争と性質が違っている。いつも強い所を避けて弱い所に向い、機の乗ずべき時があれば直ちに占領する。これロシアの政策である。ここに於てロシアは東洋に勃興するところの日本という新勢力に出遇って、日露の衝突がここに起った。かつて「ポーランド」を亡ぼしてゲルマン、オーストリアハンガリーに向った時の勢力、もしくは「バルガン」に向った時の勢力、インドに向った時の勢力を、英国、ドイツ、その他ヨーロッパ列国に防ぎ止められたと同様に、ロシアの極東に於ける膨脹力は、東洋の日本という新勢力に出遇って防ぎ止められつつある。しかしこの膨脹的運動は一回二回では止まらぬ。機の乗ずべき時があれば、また再び起るのは「バルガン」の例を見ても明らかである。あの「バルガン」の問題というものが列国の「コンフェレンス」の上に成立っているが、列国の利害関係が何時いつでも同一ではない。

 

 時勢に依っては、列国の勢力平衡の上に於て多少変更が起る。利害の衝突が起るというために、列国共同の力は強く見えて、その実甚はなはだ薄弱である。これが即ち外交の乗ずべきところで、ややもすればロシアは「バルガン」に向って往く。ロシアが西の方に向うところの力は、全く噴火力を失ってしまったのであるが、「バルガン」に向うところの力は今噴火が休んでいるので、機の乗ずべき時があれば直ぐまた燃え出るのである。何となればこれを防止するのは一国の力ではない、数国の力であるから、数国の力が合一する時に於てはこの働きは止まるが、これが薄弱になると直ぐ起って来るのである。

 

 東洋に於てもその通り。ロシアの東洋に勢力を奮うのは世界の商業国は喜ばぬ。英国も米国もドイツも決して喜ばない。何故に喜ばぬかというと、ロシアが勢力を奮えば商業は衰えてしまう。ロシアの勢力が盛んになれば、世界の商業市場たる支那はほとんどロシアの禁止的重税に苦しめられてしまうのである。それ故にこれは皆反対するのである。反対がどういう形式で現われたるかというと、即ち支那の保全、門戸開放。この門戸開放という議論が何故に起るかというと、門戸を閉すものがなければこれを開放する必要が起ろう道理はない。知るべし、ロシアの国旗の翻る所には必ず商業を閉すということがある。それ故に世界文明の国、世界商業の盛んな国は、東洋に於けるロシアの侵略には皆反対である。

日本がロシアに向って戦いをなすについて、諸外国が熱心な同情を表せらるるというはこのためである。

 

 果して然らば列国協同してロシアの力を制すというが一番宜いようであるが、「バルガン」と同じく列国協同ということはその形の大きくして、実勢はそれほど固いものではない。例えば、英仏同盟してロシアを討った事がある。ロシアの擅ほしいままに人の国を侵略するということに付いて、英仏はロシアに向って戦いを開いたのである。それは有名なる「クリミヤ」戦争であって、前後三年の後についにロシアは屈して和を講じた。

その当時、英仏連合してロシアに向ったが、僅わずかに40年の後は、露仏は東洋に於て同盟して日本の遼東の占領に干渉した。「クリミヤ」戦争から30年の後には露仏は同盟した。こういう訳で、列国協同なるものは国際的の利害、列国間の勢力平衡の上から、時に依っては変化する。それ故に一番利害の密接なる関係のものが、世界の利益を代表して余儀なく一国限りの力を以て剣を取らなければならぬということになる。将来に於てもこの東に於ては、日本が平和を保つの任に当らなければならぬ。世界の平和の保障とならなければならぬというは国の地位の上から生ずる天職であって、実にやむを得ぬことである。それ故に講和条件は、将来の東洋に於ける災いの元を絶つということが第一の主義でなければならぬ。

 

 この戦いの結果はどうなるか知らぬが、長く続くに従って日本の要求は次第に大きくなる。しかしながら、まだ一、二の大戦はあるか知れぬが、その内に旅順も陥落する。あるいはウラジオストックも陥落する。奉天は自ら棄て北の方に走るというような事になって、この平和が成立つということになれば、まず満州全部は全くロシアの勢力からこれを区別して、ロシアに棄てさせるということになる。また将来ウラジオストックの軍港に大軍艦を繋ぐということは支那海、日本海の安全を保つ上に甚はなはだ危険である。

 

 既にパリの「コンフェレンス」に於て「ボスフォラス」海峡の通行を止め黒海艦隊を制限したと同様に、支那海、日本海に優勢の艦隊を置くという事はよほど危険である。ウラジオストックをロシアの手にそのまま保存しておくことはよほど危険であるから、戦勝の権利としてこの軍港を収むる。沿海州の割譲、樺太を取る。その外ほかは数世紀掛ってロシアの新経営をしたところのシベリア。これは無論日本はことさらに地を侵略する目的はない。将来の平和のために危害の虞(おそ)れのない以上は無論日本に割譲を望む必要はないと思う。そうなれば無論東清鉄道は日本に収めなければならぬ。 

 

 しかしながら日本に東清鉄道もしくはウラジオストックに達するところの西シベリア鉄道を収むるにしても、これは世界交通の道であるから、日本は決してこれを閉ざして自分のものにするという意は少しもない。その代りにロシアもシベリアを閉ざすということは甚宜くない。貿易上相互的の利益を増進するを目的とし、極端な重税を課することを止めることが必要である。同時にシベリアの無限の富、驚くべき広漠なる不毛の土地もひとしく世界に開いて、種々の法令を設けて外国の事業家を妨げるということを禁ずることが必要である。そうなれば自由の空気は一般に瀰漫(びまん)する次第であるから、シベリア地方も甚だ繁栄に赴くに相違ない。商業も盛んになる。而しかして将来の日露というものの交際は必ず親密になる。これが最も将来の東洋平和を保つ上に有益なる手段である。

 

 日本は決して好んで国の威厳を張り、戦勝の威を奮って人を苦しめるという意思はない。一度平和に復する以上は露国になるたけ文明の政治が行わるることを望み、その国家の繁栄、「スラブ」民族の繁栄を望むのである。この望みはいわゆる相互の利益である。その相互の利益は平和よりして導かれるのである。永遠の平和は支那のみならず、ロシアもまた門戸を開放して世界の文明を入れるというのみによりて得らるる。かくの如くにして交通が盛んになり、世界の商業が盛んになれば平和を保障する力は益々ますます増進するのである。

 

〔満州問題への対応〕

 而しかしてかくなった暁あかつきに満州というものを、日本政府は如何いかに処分するかという問題がここに起って来る。これはロシアに対するに非ずして、支那に対する問題である。この満州は広漠なる土地であって、ほとんど日本の二倍半という大なる面積を持っており、且つ三千年以来の歴史を持っており、また日本とも二千年来よほど関係のある土地であるにも拘かかわらず、人口は疎であって、すべて経済上の発達はよほど幼稚である。

 これは何に原因するかというに、前にも言った如く政治が悪い。秩序が立たぬ。かの馬賊というものは今日起ったものでない。あれはほとんど支那の歴史と同時に発達したものである。いわゆる支那北部の旧族、いわゆる支那の歴史あって以来周狄の後に匈奴(きょうど)となり、それから種々の変遷を経て遼、金、また元となり、ついに愛新覚羅氏が起った。こういう訳で、常にこの北部から起った勢いは支那を圧迫している。たびたび支那を征服した。全く全部を征服しないでも、匈奴の盛んなることなどは実に驚くべきものであった。

 漢の武帝が常に匈奴に苦しめられ、始皇(しこう)が六国を亡ぼしても北部の蕃族、即ち匈奴を防ぐがために万里の長城を築くという有様であった。その時から北部の遊牧の民は馬に跨(またが)って争闘を好み、なかなか強大なるものであった。馬に跨って侵略を擅(ほしいまま)にする時にはほとんど猛火の原野を焼く如き勢いである。金、元の鉄騎(てっき)というものは実に宋の君臣を戦慄させた。

 

 一度馬に跨って南の方へ下ると、もう決して支那人のいう中国の兵はこれに当ることは出来なかったのである。戦いが止むとどうなるかというと、馬から下おりて遊牧の民となる。もしくは農業の民となる。饑ると直ちに馬に跨り賊となる。そこで乗れば兵、下りれば農、馬に跨ると即ち賊、馬賊は決して今日起ったものではない。支那の歴史有りてより支那北部の民は常に馬に跨って奪掠をする、侵略をする。これが盛んになったのがかの匈奴となり、契丹(きったん)となり、金、元となったものと思われる。

 そういう訳で、秩序が立たぬ。それ故に文明が進歩せぬ。人文が発達しない。これはどうしても政治が悪いからである。王者が国を治むる術を得なかったために乱れたのである。その極、ついにロシアの有とならんとしたのである。

 されば今このままで以て支那に還付してみたところが、支那の政府はこれを能よく治むることが出来るや否や。もしこれを治むることが出来なければ、その混雑からしてついに外国の圧迫を受け種々大なる災いを惹起す。即ち東洋の平和に害がある。日本は何処どこまでも友誼を以てこれを支那に戻す。支那に戻すはたびたび繰返す通り、寛仁大度なる我が皇帝陛下の支那皇帝陛下に対する恩恵である。
 しかしそれと同時にこれを支那に還付するに付いて、よほど多く条件が無ければならぬ。独り満州のみならず、全支那もまた同様で、今日の如く秩序が紊(みだ)れておっては、隣国の災いは直ちに引いて日本に及ぶのである。日本が絶東に於ける平和の保障者となる大責任を持つ以上は、すべての平和維持のために相当の権利を行うということが即ちその責任から起って来るのである。これが冒頭に日本の東アジアに於ける地位を論じたゆえんである。

 

 日本は数万の生命を犠牲にし、数十億万金を費やして得たところの土地であるに拘かかわらず、これを支那に還付するに躊躇しない。しかしこれを還付するに付いては、満州も勿論もちろん、支那全体に充分なる秩序を保ってもらわねばならぬ。これを言い易かえれば、支那皇帝は善政を行いて支那の秩序を確立し、同時に国の文明を進めて制度文物を世界の文明と同化せしめ、列国との生存競争場裡に立ちて適者として生存するを得るに至るまでの間は、日本は東に於ける平和の保護者たる責任として、支那に対し後見者たる地位に立つ必要がある。故に支那皇帝は勿論、すべて支那の大官、地方の総督巡撫に至るまで、日本皇帝及び日本国民の友誼あるこの心を十分に体して、支那を文明に導き善政によりて国を盛んにすることが最も必要である。これを行う上に付いては、日本の力の及ぶ限り友誼的助力を与えるということが日本の義務である。これが即ち満州を還付するについて国民全体の希望である。

 

 かくする時は世界列国の商工業者は安全に支那到る所に居住し、到る所に事業を営み、毫(ごう)も危険を感ぜぬことになる。かくする時は世界列国、ことに支那を侮(あなど)りこれを苦しめた国民までも、自ずから支那人に相当の尊敬を与えるようになる。而して平和は期せずして来るのである。支那の尊厳は期せずして現れ来るのである。

 これ即ち日本国民がその同種同文の国民に対し、千五百年の友誼ある国民、孔夫子の同門者たる国民に対するところの希望である。而してかくの如くにして得られたる泰平の賜物は、引いて世界に及ぶという訳である。

 

 返す返すも我が日本は戦勝の威を仮(か)りて侵略を努め、または強を頼んで弱を凌ぐという意志はないのである。この一事は独り支那政府、支那国民に向って宣言をするのみならず、世界に向って宣言して少しもはばからぬのである。従来欧米列国が支那朝鮮、即ち絶東に於て得たところの権利、既得の権利は国家として個人として得たるすべての権利は、日本に於て何処どこまでもこれを尊重せねばならぬ。また平和の克復と共に、世界の商業が我が東洋に於て繁昌を極めんとするに当り、ことさらに一国に利益を与えて他の利益はこれを妨ぐるというが如き手段を取ることは、日本政府は必ず避くるところであろうと信ずる。
 また日本国民全体は何処までも自由競争の下もとに、列国共同の利益の下に、この東の文明を開発してその富を増進することを希望するのである。国際的猜忌、民族的嫉妬、宗教的悪感が釈然として解け、世界協同の利益を増進し、平和の光明遍(あまね)く我が東諸国民を照らすの時一日も早く到達せんこと、この結果の我が皇軍の勝利によりて来らん事、実に日本国民の希望である。我が大和民族はこの目的を達するを以てその終生の事業、本来の天職なりと信ずるのである(拍手大喝采)。

           「外交時報 第八号」1904(明治37)年11月 

 

 


幣原喜重郎 『新憲法に関する演説草稿』

2016-07-16 22:26:56 | 政治家
 日本の前途は寔に多難でありますが、暗闇ではありませぬ。我国当面の悩みは病気の兆しではなく、産前の陣痛であります。陣痛が始まると、健全な、元気溌溂たる新日本が生まれ出ずることを信じます。永く平和の恵みと、文化の潤いに浴する国家が、茲に固い基礎を据えんとしているのであります。

 その新日本は厳粛な憲法の明文を以て戦争を放棄し、軍備を全廃したのでありますから、国家の財源と国民の能力を挙げて、平和産業の発達と科学文化の振興に振り向け得られる筋合であります。従って国費の重要な部分を軍備の用に充当する諸国に比すれば、我国は平和的活動の分野に於いて、遙に有利なる地位を占めることになりましょう。

 今後尚若干年間は我国民生活に欠乏と不安が続くものと覚悟しなければなりませぬけれども、国家の生命は永遠無窮であります。人間万事は塞翁さいおうの馬であります。この理を悟ってみれば、当分の受難時期は偶々我々並びに我々の子孫に貴い教訓を垂れるものとして、禍を福に転ずるの意気込が茲に湧いて来るのであります。



 然らば他日若し外国より我国の軍備が皆無なるに乗じ、得手勝手の口実を構えて、日本領土を侵かすことがあらば、我国として之に処すべき自衛対策如何。この問題は当然我国民の最大関心事であります。之が対策に就いては追々締結せらるべき講和条約又は国際協定中、或は日本が行く行くは何等か相当の自衛施設を有つことを認められるような取極が望ましいとか、或は永久局外中立国たる保障を求むべきであるとか、或は又何ずれかの国より事態の必要に応じて、兵力的掩護を受ける約束を取付けられたいとか、種々の意見があるように聞こえます。この際私一己の考えを卒直に述べることを許されますならば、かかる意見は何れも現実の政策として適切なものとは思われませぬ。


 第一に我国に於いて自衛に必要なる施設を保有せしむることを希望する意見も、固より自衛なる名義の下に、又々軍国主義に奔はしって、外国と事端を構えんとするが如き不純の動機に出でたものでないことは十分了解せられます。


 併し我憲法の条規は一切軍備を禁ずるのみならず、積極的に侵略国の死命を制するの力なくして、唯消極的に敵軍の我領土に上陸侵入することを禦ふせぐに足る程度の中途半端な自衛施設などは、却て侵略国を誘びき出す餌となるに止まり、侵略国を引掛ける釣針にはなりませぬ。或は比較的に弱勢の兵力でも全く無いよりも優るであろう。
 少くとも或期間は侵入軍を阻止するだけの効果があるであろうなどと想像せられるかも知れませぬが、近代の歴史は寧ろ反対の事実を示すものがあります。先般の世界大戦に於いて独逸は電光石火的戦争(ブリッツクリーク)と称して、比較的弱勢の隣国を瞬く間に薙ぎ伏せたではありませぬか。

 若し又我国の保有せんとする兵力が如何なる強国又はどの同盟国にも拮抗して、一切の侵入軍を徹底的に駆逐するに足るようなものであるならば、連合国側に於いて我国のかかる軍備を承認する筈はなく、又仮令これを承認するとも我が国力は之に堪え得られるものではありませぬ。強て軍備の過大な充実を試みるならば、外部よりの侵略に先だって、内部の疲弊困憊に依り、国家の破滅を来たすことになりましょう。



 第二に永久局外中立制度の効果も亦頗る疑わしいものがあります。ここに大正三年独逸は仏国との開戦を決意するや否や、白耳義ベルギーの永久局外中立を保障する条約の規定を無視して咄嗟の間に白耳義国内に侵入し、それより第一次世界大戦の幕は明けたのでありますが、爾来永久中立制度の価値は俄然暴落して、世界の人心は最早真面目に之を信頼しなくなったように思われます。我国も欧羅巴の前世紀時代に行われた旧制度に倣って、自国の安全を図らんとするが如き望を繋いではなりませぬ。



 第三に我国が他国の侵略に遇った場合に、何ずれかの第三国より兵力的掩護を受けんとする構想に至っては、凡そ一国が何時でも優勢なる兵力を東洋方面に集中しうる体制を整えて日本を掩護することは、固より容易ならざる犠牲を伴うものであります。
 従って我国が予め特定の第三国と条約を結び、その第三国自ら現実の利害関係を有っていない場合でも、有らゆる犠牲を忍んで、日本を掩護すべき義務を引受けんことを期待するが如きは元来無理な注文と謂わざるを得ませぬ。

 加之かかる兵力的掩護条約の存在それ自体が侵略国を刺戟し、その敵対行動の口実を仮かすことになりましょう。他の一方に於いて日本が他国から侵略せられた結果、直接又は間接に自国の緊切な利益を脅かさるる第三国に取っては、条約上の義務がなくとも、又日本の懇請がなくとも、自国の利益を擁護し、且国際的秩序を維持せんが為め、日本に対する他国の侵略を排除する手段を極力講ずるのは必然であります。


 以上述べました私一己の考えを縮めて言えば、我々は他力本願の主義に依って国家の安全を求むべきではない。我国を他国の侵略より救う自衛施設は徹頭徹尾正義の力である。我々が正義の大道を履んで邁進するならば、『祈らぬとて神や守らん』と確信するものであります。その所謂正義の規準は主観的の独断ではなく、世界の客観的な公平な与論に依って裏附けされたものでなければなりませぬ。これは迂濶な遠路のように見えても、実は最も確かな近道であります。私は我国の対外関係が終始これを基調として律せられんことを切望して已まぬものであります。
 

      幣原平和財団発行『幣原喜重郎』 六九五~六九七頁