日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

石原莞爾著『非常時と日本の国防』 山口白雲 『我觀 石原莞爾』

2022-09-05 11:36:42 | 石原莞爾

   
  

 我觀石原莞爾 山口白雲 
  


人を知るといふことは容易の事でない。面談二三回を以て、石原氐のやうな巨材を云為することは、無責任であって自らの軽薄を世に廣告するやうなものだ。私は彼をば寧ろ驚異の眼をみはつて、其の將來を嘱望してゐるだけである。

 

圖南榊原政雄氏は、私の最も尊敬する大先輦であるが,一昨年の春,岡由氏は私に「是非石原君に會って見てくれ、彼位の巨材は現代日本に稀有だたから」とすすめてくれたので、たうとう其の氣になって靑山の寓居を訪ねた。

 

それは石原氏が滿洲事變に大功を樹て、凱旋し、更に壽府に使ひして、その大任を果たして帰朝した直後である。青山の寓居は圖南氏から聞かされた通り驚く可き簡素なものであった。これが世界的雷名を轟かした石原参謀の宅かと思ふと、敬畏の念が先立って、未如の人物ながらも喜ばしく思へた。

 

案内された二階の客室でいよく談話を交はして見ると、何処かにたつぶりしたゆとりがあって、のびのびした氣分が、先づ甚だ私の気に入った。浪人肌で書生氣質で、一切虚飾虚勢をぬきにしたザックバランの中にも、風雲を喚んで、事を一擲に間に决めつけやうとする英雄児の気魄か流露して來る。「体じゆうう皆な何うかしてゐるらしいので医者通ひです」と二三度腹をなでて、時局の事、政界の事をぽつりぽつり談る。

 

渡欧中各地から買込んで來たといふナポレオンに関する十枚か、数百枚かの写真や繪画を座敷ーぱいに拡げて整理していたが、私は、其の前に聞いたが、大ナポレオン研究者だといふ。ナポレオンは理知性の大英雄だが、石原氏の性格はどうもナポレオンのそれとは違って居るらしいなどと考へながら、用談と雑談で思はず時間をつぶした。

これが初對面、その後をまた訪問したが、多く談る機会を得ず、先達來鶴した時も一寸挨拶をかはしただけで別れてしまった。 其後手紙をやつたり、貰ったりしたが、氏と私の間柄はただそれだけのものである。

 

ところが此の間、私の一先輩たる住藤啓代議士から「講演の友」といふ一雑誌を送ってくれた。それに添えた一文の中に「英雄、英雄を知るとは即ちこちとれか」とある。といふのは、これも私の先輩で長い間交際して來た中野正剛氏の教育家の一團に講演した畤の速記中に、偶々石原氏に関する逸話に言及して居る一段についてである。此の中にしみじみと考へさせらるる所があったので、茲に詳解して置かう。

      ×  

昨秋の陸軍大演習は、あらゆる意味に於て最もすぐれた新戰術の応用として注目されたものである。石原氏は第四聯隊長として東軍の阿部信行大將の軍に属した。戦况が漸次高調して、戦雲萬化して行くと、石原軍は一畫夜に亘る強行長駆をなし、疾風迅雷の勢ひを以て敵の中央突破を敢行した。しかもこれは大成功となって、敵軍の行動の自由は奪ひ、赫々たる偉動を奏したのである。然るに此の石原軍の行動は、指令宮の〇〇通りにしなかったといふので問題を惹起した。これに對し氏は次ぎの如くに釈明した。

 

我が第四聯隊は素より指令官の〇〇通りにしやうと心がけてゐたが、刻々變化して行く目前の戦況が、遂に我が軍をして敵の中央突破を敢行させてししまったのである。あの場合、聯隊長たる自分の軍治的良心が、〇〇通りにする事を許さなかったものである。

 

これに對して上官は如何樣に取計らつたかは知らないが、當時各武官は悉く舌を卷いて其の大胆果敢なるに驚いたといふ事である。こんなことは石原氏としてはケロリとやってのけたのであらう。しかも戦ひは右の如く大成功に終はったのだからケチのつけやうがない。

        ×

また此の演習中に石原軍は、糧食を農民に與へたといふことが傳へられた。これも問題となって質問されると、氏は「自分は聯隊長としてそんな命令を下さなかった」といふ。そこでだんだん調べて見ると、さういふ命令は下ってゐないが、部下の將士が農家に泊って非常な優遇を受けた。が、よく見ると農家は極度の窮狀で氣の毒でたまらない。これに感激した將士達は、これでは相済まねといふわけで糧食を分けてやったものと判った。

 

石原軍には常にさういふ精神的調練が徹底されてゐて、農民をあはれむ、農民を助けたい、そして彼等と一枚になって行かないと戦爭には勝てない。從って一毫と雖も農民を侵してはならぬ、寧ろ積極的に庇ふといふ精神が、石原軍の建前となって居たので、それがたまたま糧食問題となってあらはれたものらしい。
更に氏の部下を思う眞情は,荒木大將が特命検閲使として第四聯隊を検閲した時に,遺憾なく事實となって物語られた。

          ×

荒木大將がいよいよ第四聯隊に行って見ると,聯隊の空地に藥草が植えられ,アンゴラ兎が澤山飼育されて居る。そして兵隊にそれ等の栽培法や飼育を教へて居るのであった。石原氏は笑ひながらそれ等を紹介して「軍隊でかういふ様なことをやってゐるのは,何うか思ひますが、ととに角當聯隊ではやって居ります」とありのままに検閲を請ふた。氏は兵が隊を出て家に帰ってからも斯ういふこと位は知って居るがいいと思ったらうし,戦争が長びくゆや、滿洲のやうな土地に駐在するときに役立つとも考へてやった事であらう。が、軍隊としては破天荒のことで、果してそんなことが規定上許されるか、どうかわからないとすると隠して置くのが普通の人情たが、氏は頓着なしに赤裸々に見て貰ったのである。

其の他色々質問を受けたが、すべてザックバランである。荒木大將はいよいよ「將校の成績表は?」とうながした。これは聯隊内の全將校の成績性能を書いた表であって、検閲使にとって最も大切な資料の一つである。

           ×  

ところが「ハイ」といって早速持ち出したのを見ると全くの白紙である。さすがの荒木大將も驚いて「これはどうしたことじゃ,白紙でないか」といへば、「ご覧の通り白紙であります」と答へ、次いで説明する所によると次ぎのやうであった。

 

『親であっても予供の性能を知悉することは非常に困難である。まして自分がこの聯隊に 赴任してから一二年しかたってゐない。この短日月で聯隊中の將校全部の性能を知り悉くすことは出來なかった。かりに前任者の調査したものを其の儘提出するとせば、誠に簡単あるが、それは到底自分には出來ない。且つ自分は何十人といふ將校に對して、眞にその性能にマークを打って誤まる所なき程の見識を持ってゐないし、それで居て無理にマークを打つて人の一生の運命をわやまらしてはならぬと信じたので、此の通りに白紙にして置く外はなかった。今暫くジッとして見て居たいと思ふが、強いて申上げやうものなら當聯隊の気風は少し鈍重ではあるが、精神も紀律も確かりして居る』
体、右のような説明をして平然として居る。この型破りの報告を受けた検閲は、さすがは荒木大将であった。
「うん,さうであるか」とたった一言いつた切りで、白紙の成績表を畳んだ。そして最後にに於ける講評に於いて大将は次の如く結論した。

『第四聯隊の訓練法はすべて尋常一様でなく,常規を以て律すべからざるものあるも、其 の成績抜群なるもあるをを思はざるを得ない』 
荒木大将は夙に石原氏の巨材なるを知って居る。特に満洲事變第一の殊勲者として敬意も払って居るし、それに大將それ自身がまたあの通りすぐれた人物だったから事なきを得たたであらうが、もし兩方のうちどちらかが間違ったら大燮な事になったかも知れない。だが自分をまげて都合のいい樣な事を報告する人物とは全くケタが違う。しかもこれなども部下を思ふ至情から出發したものであって、一つの美談として永遠に傳へてもいいことである。中野氏が感激して之を教育家の一群に話したのも、よき引例として私は敬服した。

                X

白井重士氏は、時々私に石原氏のことを話してくれるが、白井氏はいふ迄もなく石原氏の叔父さんだ。その叔父さんの白井氏のいふには

『石原は、甥ではあるがすぐれた男だと思ってゐる。滿洲事燮前などは、長い間行衛を家人にすら晦まして画策してゐた。書物も非常に讀むが、一讀してこれはいい本だと思ふと友人や部下にわけてやる。蔵って置くなどといふ事は殆んどしない。無慾で片端から自分のものをどしどし呉れてやって、遺して置くといふやうなことはしない。思った事は飽く迄で実践断行する。だから上官の覚えなどはよからうはずがないし,自由経済打倒といふ建前から、現時代の支配階級、特に財閥からは睨まれてゐる。戦爭中は働くが戦爭が濟むと敬遠されて了ひさうた。それは止むを得ない』

と氏の將來を案じながら觀てゐるやうである。事責あのやうな非凡な人物になると「髙木風あたり強し」で、運命の波に非常な高下あるは免れ難いだらう。人物が偉ければ偉いほど,無限に高く飛躍し、またときには底なしの谷に落ちる、石原氏の崇敬してゐるナポレオンなども,實をいふとその好模範だった。人間それでよろしい。石原氏などは志にして容れられずんは、去って更に別天地に自由な活躍をして皇國の爲めに盡くすだらう、それもいいことであり、事實さういふ肚で居るかも知れない。少將となり,中將となり、大將となって大きな風のやうな勲章をブラ下げて見たいなどといふやうな子供らしい考えを持って居ない所に、石原莞爾の本領がある。

           ×

前述したやうに當代政界の風雲児中野正剛氏などは、随分と石原氏に接近し、到る所で氏の億材なる所以を吹聴して居るやうだがその中野氏をすら石原氏は「あの男にもっと勇氣があるとよいが……」と白井の叔父さんに談ったさうだ。あの無類の豪傑の中野氏がこれを聞いたら何と云ふだらうと思ふと愉快なことである。それ程石原氏は勇断の士でもあるのだ。情・知・勇の三つがとに角に兼ね備なはつている。天才的軍人ではあるが、普通の天才でない。いな軍人としての天才としてよりも、私は人側として彼は巨材だと思ってゐる。それは恐らくここ十年と立たずに,事實となって世に現はれるだらうことを私は信じてゐる。   
 
    (完)


石原莞爾述『非常時と日本の国防』

2022-09-04 23:40:31 | 石原莞爾

   石原莞爾述『非常時と日本の国防』
    

  

 (註)記事の〇記号は、原文の文字が〇で表示されていることを示す。
 
       序 
 

 四月二十三日鶴岡でなされた石原莞爾大佐の講演は、聴衆三千を突破して、眞に庄内未曾有の壯観を呈した。これ大佐の英名の然らしめた事は勿為であるが,祖國日本の非常時の本質とは果して如何なるものであるかを、事變以來一躍世界的人物となれる大佐によって、確知せんと欲した地方大衆の熟意の現はれであったとも云ふ可きであらう。

 

 從って大佐の講演は、聽衆に深大なる感動を與へた。これを聴いて、或者は驚き、或者は恐れ、而して或者は戒めた。彼の講演は驚く可きザック・バランであった。直裁鮮明、些の餘りも衒ひ気もなく、まっすぐと所信を述べただけだ。

 

 彼は非常時の本質と以て、春が來て花が咲き、秋が來て木葉黄はひが如く、現在世界を支配して居る自由主義の必然的没落による。そして次ぎの新時代に移って行く過程的大陣痛であって斷じて不可避の大勢であると説いた。結局彼は、眞の平和出現は一個の至聖、至强、至大の力によって世界が統制せられざる限り不可能であって、日、米、英、露がその選手権爭奪者の如く見えるが、後二者は今や問題でない。最後の争覇は前二者によって演ぜられる事、鏡にかけて見るが如く、而して此の大爭覇は恐らく人類最後のX X 〇〇となって現はれるであらうと斷言した。故に日本の非常時は此の人類最後の〇〇〇〇終結を告ぐるまで継続すると云ふのである。

 

 彼の所說が餘りにも直裁鮮明である爲め、一部には狂と評した者さへある。併し乍ら、彼の所說に對し眞を穿たずと反證をあげて駁し得る者、恐らく世界を通じて一人もないだらう。况んや彼の予言・予見が、着々として事實となって現はれたりし過去の實跡を辿り見るに於いてをや。廣く世界を觀るの炯眼に於いて、また事物の判斷を誤まらざる明晰の頭脳に於いて、部分的事象に累はさるゝ事なくして克く大局を逸せざる胴察力に於いて、多士齊々の軍部中嶄然一頭角を拔く石原莞爾の豫言は、苟も國家の現狀を深憂する者にとって、斷じて聞きもらすべからざるものである事を思ひ、アサヒ印刷所主人奥田旦山君の企てに賛し、こゝ其の講演の概要を整理して、一般に頒たんとする所以である。

 

 實は此講演速記を掲載せし二三の新聞が、内務省の命令によって發禁の厄にあったが、恐らくこれ國際問題を惹起するを恐れたる政府の老婆心によるのであらう。

 今此の小册子を発行するに當り、所々伏せ字を使用するの止むを得ない事を諒とされ度い。卷尾には、大佐の年譜と其の為人を如實に物語るニ三の逸話を記した「我觀石原莞爾」をも錄して斯の人を知らんとする大方諸君子の便宜に供した次第である。  

   昭和十年五月  
                          鶴陵白雲山房にて  
                            山口戌吉識  

 


石原莞爾大佐年譜 
  
 
 曾祖父  友右衛門(現秋保親孝家ヨリ養子)。

 祖 父   友太夫(現久留福彌家ヨリ養子)      
      戊辰役前後赤澤源彌白井重遠等ト共ニ新微組取扱ヲ命ゼラル。
      維新役後岩城平へ移封セシレントスルヤ先發シテ平ニ赴ク。  
      後東京ニ出デ専ラ藩ノ外渉係リトナリ、 明治二年東京庄内藩邸エテ没ス。

 父     啓介(友太夫長男) 巡査ヨリ警部ニ昇進、後加茂町長、
            鶴岡町衛生係リヲ勤メ晚年代書ヲ業トセリ。  

 母     鈺井(白井重遠次女即チ現白井重七姉)。  

  妻       銻子(東京國分家ヨリ迎フ)。
       明治二十二年一月十八日鶴岡市(當時町)日和町ニ生ル。  

仝二十七年四月  西田川郡温海海小學校ニ入學。
仝三十年四月   東田川郡狩狩高等小學校ニ入學。 
仝三十一年五月  東田川那彦島高等小學校ニ轉學。  
仝三十二年十月  鶴岡朝晹高等小學校ニ轉學。    
                  幼少ヨリ斯ク轉々セシハ父ノ公職上一所ニ安定シ得ザリシニヨル。
仝三十三年四月  庄内中學校ニ入學。  
仝三十四年九月  仙臺陸軍地方幼年學校ニ入學、幼年來ノ軍人志望漸く酬ヒラル。
仝三十六年九月  東京中央幼年學校ニ入學。  
仝三十八年四月  陸軍士官學校ニ進學。  
仝四十二年十二月 陸軍歩兵少尉二任ゼラレ山杉步兵第三十二聯隊付朝鮮守備仰付ケラル。
仝四十三年八月  若松歩兵第二十五聯隊仰付ケラル。  
大正元年十二月   陸軍歩兵中尉ニ昇進。  
仝四年十二月   陸軍大學校ニ入學、在校中ノ成績抜群ナリ。  
仝七年十二月    陸車大學校卒業、恩師ノ軍刀ヲ授ケラル。 
仝八年四月    陸軍歩兵大尉ニ任ズ。教育総監部仰セ付ケラル。  
仝九年四月    支那漢口駐箚ヲ仰セ付ケラレ,
                  頻リニ奥地ヲ跋渉シテ支那ノ研究・調査ヲナス。 
仝十年八月    帰朝ヲ命ゼラレ陸軍大学校教官ヲ拝命ス。  
仝十一年八月    選抜セラレテ獨逸留学ヲ命ゼラル。   
全十四年八月   陸軍歩兵少佐ニ昇進、帰朝シテ再ビ陸軍大學攻教官ヲ拝命。
昭和三年八月   陸軍歩兵中佐ニ昇進。  
仝三年十月    愈々関東軍参謀ヲ命ゼラル。  
         之ヨリ満蒙支那ノ研究ニ鋭意シ我ガ國策樹立ニ資スルコト大ナリ。  
         特ニ満州事變ニ際シテ作戦主任ノ大役ヲツトメ満州國獨立ニ威功樹ツ。 
全七年八月    陸軍步兵大佐ニ昇進、兵器本廠付仰セ付ケラル、  
                  間モナク國際聯盟会議ノジュネーブニ派遺サル。
仝八年八月     帰朝後仙臺歩兵第四聯隊長ニ任ズ。  
仝十年四月    満州事變ノ論功行賞ニ於イテ殊勲甲、勲三等功三級ニ叙セラル。
當年四十七歳、盖シ我ガ軍部ノ一至寶ナリ。

 

非常時と日本の國防  

 石原莞爾氏講演   

  

私は今から約五十年前この鶴岡に生まれました。幼少の時から軍人たらんと志望しましたが、貧乏士族の悲しさ學資がなく困ってゐたところ、鍛治町の富樫治右衛門翁の厚意にあづかるを得、月。學資の補助を受けて幼年學校に學びましたが、今だに何の報恩もしないで心苦しく思って居る次第であります。聴業は云ふ況もなく軍人でありますから講演等とは全く柄でなく折角の御依頼を受けて心苦しく思って居たところ師団から是非行けと申されましたので、止むなく参りましたわけであります。途中汽車の中で講演の内容を整理するつもりだったが、居眠りしてしまってそれさへ出來なかったので、首尾一貫するやうやなお話は致しかねるから予め御承知を仰ぎます。


一 次の新時代を生む不可避の陣痛期が非常時  
 昨年の暮、臨時議會で廣田外務大臣は極東露領と滿洲國との間に非武装地帯を設置する事について交涉を致しましたところ、露國外相リトミノフ氏は絶對これに反對なりと云ふ手强い態度を示しました。私がもし露國人でしたら軍事的見地よりして不同意なりとするのが當然だと見て居たのであります。然るに其後右の如き强硬意見を持って居た露國は突然「これに賛成する用意を有する」などと云ふて來たり、停頓して居た北鐵譲渡を實現するなど、それはそれは大變あとなしくなって來ました。これは當然露國としてさうせねばならなくなったのであります。
 と云ふのは獨逸のヒットラー君は、ベルサイユ條約を一方的に棄てて了って軍備平等を主張し、獨露の關係に危機をはらむに至りました爲めであります。露園と致しましては日獨を敵に廻はすと云ふ事は非常な損である、それで急角角度を以て日露の國際關係を緩和する必要にせまられた次第でありまして、かく日露の關係が緩和致しましたのは實はヒットラーのおかげであります。我が廣田外相は內心ひそかに彼に感謝して居るでありませう。

 

 然らば一方支那はどうか。私の最も尊敬して居る第一人板垣少將が關東軍副參謀長として渡滿されましたが、蒋介石はこれを聞いて驚き恐れまして之また急角度を以て日支親善に相槌をうったたのである。かゝる狀態なるが故に所謂非常時と云ふ一九三五年に入つても、日本は平和な狀態を續けて居る次第で、滿洲事變後初めて見る現象であるが、これは何も廣田外交の手柄でもなく政府の功労勢でもない、第三國の關係が然らしめたのである。一体一九三五、六年の非常時と云ふやつは、恰も「風雨強かるべし」と云ふ天氣予報のやうなものであって、必ずしも當らなくないが、また必ずしも當るものでもない。私の信じて毫も迷ふ事なき非常時は、そんな非常時を指して云ふのでない。實に春來りて花咲き、秋ふけて木葉黄はみ落ちるが如く不可避のものだ、絶對性のものであります。

 

 即ちハッキリ申上ぐれは人類の歴史上絶對不可避なる世界的一大轉換期が步一步近づいて來る。現在までの時代は旧時代となって滅び、次ぎの新しい時代が生まれ出で、安定するまでの過程に現出する世界未曾有の大動揺、それが真の非常時であるのであります。長い間世界を支配して居た自由主義が、諸君の見るが如き積弊を生みて滅び、さらにその自由主義の産物たる國際競爭が殘忍苛烈を加へ、それに科學の偉大なる進歩が手傳って、國際競争最後の幕たる戰爭が拡大され深刻化される。

 そしてそれが一遇してこゝに新しい次ぎの時代が生まれるのであるが、そ問題の時代の出現までの陣痛、それこそ絶對免れ難い生死を堵する大陣痛が、私の云ふ非常時であります。だからさきの「風雨強かるべし」と云ふが如き天氣豫報式の一九三五・•六年の非常時予想とは全くケタが違ふのである。

 

二、世界爭覇線上の選手権を掌握すべき日本  
 凡そ人類歴史の重大なる變化は戰術上の重大なる變化と一致する。戦術の變遷を見まするとギリシャ、ローマ時代は密集戦術、それが中世紀の暗黒時代にはいると影をひそめ、今日より百五十年前までは横隊戦術、フランス革命を限界として欧州戰争までは散兵戦術と云ふのであります。然るに日支、滿洲兩事變を中心として四年間でまた變った。即ち戰術は点上り線へ、線より面へ、更に面から体への重大革命期に到着して、戦術の變化は正しく幾何學的變化を示して居る。この戦術の變化は必然人類の歴史そのものの變化に重大なる影響を及ぼすのであります。

 然らば現在の世界勢力關係は何うなって居るかと申せば、イタリー、フランス、ドイツの諸國は最早や日本の相手に非ず、日本、米國、イギリス、ロシアの四つの大きな塊りが争覇線上に立って居ると云ってよいが、紳士の仮面を被って居る英國は己に落日の國で、凡ゆる方面に於いて問題にならぬのであります。

 

 露國は如何と云ふと此國は面白い國で農事試験場の様な國である。次ぎの新しい畤代への試験をなかなか大胆にやって居て、偉い所、考へさせらるゝ所も少くないが、更に愚劣でもある。私は先年ソビエートの參謀長をモスクワに訪ひまして、色々話を致したが、當時人類の一員として、此の試驗の労を多とし、謝意を表して參りました。乍併、此の露國人と雖も全部が愚劣だと云ふわけではなく中には我々日本人と雖も學ぶ可き点があるのであります。かく考へますと當然最後に残って世界の覇權を争う両雄は日本と米國とであります。此の二大國家が世界最後の争覇線上に立って〇〇、遂に〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇演ずることになるのは、間違ひない事である。

 しかも世界の文明は交通に、通信に其の他あらゆる方面に驚異的進歩をとげて、世界の距建を短縮して行くから,日米の爭覇が〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。

 

 これ世界歴史の避け難き自然的歸趨でありまして、此の大非常時の襲來に對し我々國民はあらゆる方面に於いて備ふ處なければなりませぬ。〇〇〇〇〇〇〇〇と見て油斷したらモウ取返へしがつせぬ。

 

三、自由主義經濟下に於ける農村沒落は必至   
 更に飜って國内的に於いて如何と見れば、最早や我が大衆には「稼ぐに貧乏追ひつかず」と云ふが如き古い格言rは通用しなくなった。稼がんと欲するも職がなく、働かんと欲するも仕事が持てぬ失業群は数百萬人を以て敷へられ、(世界の失業者は正に数億の多きに達している)。よし職業にありついた者でも懸命に労働を続けてさえも一家を支え切れぬものが無数にある。働いても稼いでも貧乏はどんどん迫っかけて來る,拂はうにも拂はれぬ。私は鶴岡に来て初めて流線型自働車に乗ったが、三四年型の旧式自動車や群衆をぐんぐん追って、追ひ越して行く。

 そのやうに我が國の無産者群労働者群農民群は貧乏から追ひまくられて生活苦のどん底に追ひ込まれて行くと云ふのが
現状であります。故に忠行爱國の至情に燃えて居る者であっても自個の私欲私利を営まないと死んで了うのだから思想はみだれ、國民精神が麻痺して行く。この状態から一日も速かに大衆を救はないと日本はつぶれる。だが今日の自由主義経濟のもとに於いては絶對に之れをどうすることも出來ないのであります。従って日本の非常時はこれによって更に一Wの拍車をかけられるのである。特に農村疲弊の深憂せねばなりませぬ。これが救濟は焦眉の急でありまするが、今農村と都會と、農業と商業とを比較して見ますと、そこに當然農村没落の眞因を見出す事が出来る。

 

 米一升から酒二升出来るのに、農民が一升の酒を買ふのに幾升かの米を賣って行かねばならぬ。ビール一本の原価僅か七銭と云ふのに之れに幾層倍する値段となって居る。僅か原価八銭のツカモトが幾ら割引いても売って居りませぬ。

 

 然るに一方農民は如何であらうか。昨年農林省の調査によると一石の生産費参拾圖のものが、弐拾何圓かの安価で買取られ、大規模の都市工場の製品は原価の五倍位で売出されるのと比較すると實に驚くべき相違である。農民は嫌でも応うでも、さう云ふ髙い物を買はねはならぬのに唯一最大の收入たる米価がこの通りではどうして立て行かれませう。此の如き搾取階級と被搾取階級の對立が長く続くと被搾取階級は滅亡するにきまって居る。従って現狀のまゝで行きますと農村の滅亡は當然で不可避であります。農村滅ぶと都市商人も食はれなくなって、遂には諸倒れになり、此の自由競争の結果は極く少敷の極大富豪と無限に多い極貧階級との二つになって、國家は危機に瀕する。自由主義経済の滅亡もこゝに至って必然であります。秋が来て木の葉が散るのと何ら異なる所なき不可避の沒落である。そして次ぎの新たなる経済組織を生むのであるが、ことれから二十年内外はその陣痛期であります。

 

 かくの知く内外ともに避け難い非常時は世界を量ひ、日本を襲うて來て、遂には最後になると〇〇〇〇〇〇の生れる時で、これ私の云ふ不可避の非常時だ。

 併しながら私は過去の政治経濟組織に對して徒らに悪口を叩きつけるのではありませぬ。時代は時代に適したる政治と経済を要求する。既に古くなって弊害だけが多く残るやうになって封建制度は滅んだが、その封建制度にも偉功があった。つまり其の時代は封建制度を必要としたのである。今日偉くなって居る國家はいづれも此の封建政治を経験した國である。日本がよく清露に大勝し、國運隆同じたるに至りましたのも此の封建制度を経験したのが與つて力がありました。

 だがその封建制度も當代に適しなくなつて滅んだのである。これに代った資本主議もその通りであります、
思ふに神武天皇建國以来、大化の革新、建武の中典、明治の維新と云ふが如き、革命的大激變のありましたのも結局は時代の要求であり、旧時代が亡びて新時代が生まれる不可避の現象であります。それの如く今日の行積った自由主義社會の萬般の組織が減んで、新しい次ぎの時代の生まれる事に何の不思議もないのである。それまでには猶ほ十年、二十年の歲月を要するであらうが、此の必然の變革は不可避である。

 

四、戰術の變化に伴ふ今後の國防に全國民的   
 さて私の常識より見て、これからの世界戦爭の單位は各個人に移って行く。即ち老若男女を問はず、國民全部が戦線に立つようになる。これより益々旺んになる空中からの爆撃は、相手國の兵隊をのみ狙ふのではなく、相手の全國民を狙ふのである。都市のまん中に恐ろしい爆弾を投下して都市を燒く、國民を掩殺する。從って今後の戰爭は比較的短年月を以て勝敗を决定するが、其の被害は深刻を極めるであらう。故に今後の戦術は体あたりの戰術となり、老若を問はず、男女を問わなくなる。全國民を敵としてやって來るのであります。從つて全國民は一致して戰爭に備へなくてはならないわけで、軍隊にのみまかせて置けないのである。

 

 永遠の平和、眞の平和、戰爭絶滅の平和、それは人類の望む所のものであるが、世界が一つに統制されない限り、實現は全く不可能であります。世界を一つに統制するにはこれ迄のやうな低い文化、科學の幼稚な時代では不可能であったが、科學が急激に進歩して其の威力が遺憾なく發揮さるゝ時が來ると世界を一つに統制し得らるゝのである。豫想さるる〇〇〇〇〇〇は或る意味に於いて、どちらが世界を統制するかを决定づける世界最後の〇〇である。私はこれは世界を一つに統制して、真の平和を招來する時であることを信じて居る。

 

 然らは共の時期は何時か。それは飛行機が無着陸で自由に世界を一週し得る曉であらう。此世界歷史上嘗て見ざる大變化、即ち世界を一つに統制する〇〇〇こそは我が國にとって真の大非常時なりと叫びたいのである。かくして初めて我が至聖至髙の天皇陛下が人類の眞の平和の為めに〇〇〇〇〇し給ふことが出來るのである。

 

 世界の人類はその時になって理想的幸福を享樂し得るのであります。而して前述の如く飛行機が無着陸で自由に世界を一週し得る時は何時か。何年後であらうか。それは决して遠い事ではありませぬ。

 

五、驚異すべき化學の進步と日本人の頭の良さ   
 私は曾てベルリンに滞在中懇意して居た一獨逸婦人で耶蘇教信者がありました。彼の女は來る可き一九六十年(今からザット二十五年後)代には必ず世界人類の未だ経験せざる大發明が完成される、それは全く驚異すべき大發明であってポケットにもはいる程の小さな機械ではあるが、それを持つて居ると世界中のあらゆる出來事を感知することが出來ると云ふのだ。かうなると秘密外交も何もあったものでない、力で正面より押して行くよう外はない。その大發明が出來る時、世界に於ける最後の戦争が始まると云ふ豫言をなしたのである。

 私は徒らに豫言などを信ずるものでないが、しかし今日の科學の進歩からすればそれは當然あり得る事である。テレヴィジョン、人造人間、殺人光線、更に一層極度に進步した偉大なる空想的大發明の實現。此等の発明國こそ世界のルーラーとなるのであるが、それは我が日本の外に果して何れにあるか。科學日本の最近の躍進ぶりを見て諸君は肯定して然るべきであらう。

 元來日本人は世界に於いて最も頭のいゝ國民である。日本人程あらゆる方面に於いてすぐれた民族は世界にない。一例として日本は世界一の自殺国だ。動物の本能として生に對する執着の為めに自殺を嫌悪をするのが當然である。然るに此の本能をふり切って自殺をやらうと云ふ事は頭脳がすぐれて明晰である一っの景視でなければならぬ。
 支那や露國には最も自殺が少い。犬や猫に至ると全然自殺する者のない事から見ても自殺は頭脳の明晰を立証して居る。此の日本人のすぐれて頭脳のよさは更に之れに伴ふカと相待って必然に目的を建成させるであらる。况んや我等日本人は世界無二の國体を奉じ、至徳至高の天皇御一人を戴き奉って居る。世界人類が最も幸顧となる合理的社會の施 我、真の永遠の平和宣現の爲めに一切の力を合して、我々日本人は堂々と踏み出さなければならぬ。

 

六、先づ東洋に於ける經濟的地位皆確保せよ   
 以上の如く、私は非常時の本質と之れに對する愚感の一端を述べたが、更に日本の國防について私見を披歴して見たい。元來國防とはその國家の國策を武力を以て護る事である。然るに現代日本の政治家にはこれぞと云ふ國策がない、恰も舵を失った小船が太平洋のまん中に漂ふて居るやうな形ちだ。「美濃部學說」の浪がやって來ると木の葉の如くグラついて騒ぐやうで何うする。

 

 斯様な小船に大なる國策を任かせて置くことは遺憾に堪えない。然らは國策とは果してそんなにむづかしいものであるか。私は信ずる。日本の國策は速かに東洋の選手權を掌握することである、その第一步として日本を中心とする日滿支三國の大同團結であって、歐米の悪事を知らざる貪慾に對し東洋の大聯盟を完成し、次いで來たる可き世界の大非常時を切乗る事であると。これが我が日本の國策だ、此の國第を護るのが國防である。国策の如何によって國防がきまる。

 

 思ふに北満、ハルピンに於ける實權を確實に掌握した現在の日滿に對して、露國は断じて単独で戦爭をやり出すものでない。またモンロー主義と機会均等と、門戸開放とを國策とする米國の海軍が日本の近海に襲来するとしても、米十、日六の比率であった相合は五分五分の對戦となるが、米十日十の割合なら、米国は絶對に日本と襲ふものでない。從って海軍々縮會議における不均等比率主義は断然これを一蹴するより外はない。聃盟の脱退、滿洲國承認は歴史的一大事件として特筆すべきであるが、前述せる如く現在の日本は数百萬の失業者を作り、工業機械の約半數を休止させて置いて、経済國難などとかこつて居る事は餘りにも間拔けた話であると思います。これを動員して生産に活躍せしひる知慧が今の政府と政薰と政治家にないのであるか。

 

 これは要するに資本主義経済機構に於ける一部資本家階級の搾取による農民階級の衰退が、最大の原因をなして居る。政府もこゝに目ざめて資源開發の動力としての國民を失業から救ひ出して、其の經濟価値を最高度まで發揮せしめねはよらない。問題となった陸軍パンフットの要旨なども、實に此の如き經濟問題に起因して居るのであります。我が國民の経済的能力が十分に發揮されない内に戰爭が勃發せんか、それこそ取り返へしのつかぬ大問題であるのた。

故に日本は東洋に於ける經濟的地位の確保を一日も速かに賞現しなけれはならないのであります。

 

 而して、後の戰爭は金力と共に更に頭脳の働き如何によって决まる。日本には偉大なる發明の天才が居るけれど之が硏究に十分の資力を欠くが故に思ふ通りに行かぬ。こんな事ではいけない。現在の自由主義、獨占主義を排し速かに新しい真正の經濟組織を打ち立て、發明天才の保護養成に大努力を拂はなければならないのであります。

 

 更に住宅について一言したい。今後最も重きを置かるる、空中戦になると、大建築物は爆撃の目標となる。アメリカのやうな巨大な建築物が櫛比する都市は我も危險で、之を爆撃するに易く且つ一時に多数の死傷者を出すのであるから、今後の日本の家屋は須らくバラック式に小さなものにするがよい。そして之れによって節約されたる金を飛行機の発明製作に当てる事が日本及び日本國民の大なる使命であります。

 

七,鄕土の出した先覚者を徒死せしむるな   
 私は此度歸省に際して清川駅通通の折り車中から我庄内の産める維新の志士淸川八郎の英靈を伏し拝んで來たが、今日でも大川周明博士や榊原政雄氏の如き眞に國家の將來と國防上の見地から血みどろの奮闘を續けて来た最も傑出せる偉材を出してゐる事は全く愉快に思ふ。殊に榊原氏の如きはあらゆる迫害と戦ひ乍ら日本國民当然の權利としてあの奉天大農場を二十餘年間も持ちこらえて來たのであるが、この尊き苦心の結晶をさへの國家の為めなら如何やうにもするし國防代にも献じ度いといふてゐる。

 往年榊原氏が二、三十萬の金を得た時も佐藤鐵太郎閣下に南洋の或る嶋は日本の國防上、最も重大な地点である事を聴いたたので、己れ目前の利害を打忘れて遮二無二南洋の嚝大な土地使用權を買收した。世間からは大馬鹿者だと冷笑されたあの藳眞綿問題や海水からアルコールを採る發明の問題なども若し日本がこれに依りて救はれるな らは一身を犠牲にしても斷行するといふ愛國の熱誠によったもので、私は覺えず知らず頭の下るを禁じ得なかった。

 

 一昨年あたらも或るロシヤ人から優秀な發動機の特許権利と買收した。國防上肝腎の事と思うてだが榊原氏にとっては血の出るやうな金を出したに相違ない。之も皆な國家的見地から敢行したのである。我が庄内人、而して特に庄内の支配階級と稱さるゝ方々は此等先覺者の苦心を考へ 此の目前に迫って來た國家の大非常時に顧みられ、來るべき新時代に活眼をひらいて明治維新當時の如く再び落伍者になってはならない準備に取りかゝって貰ひたい。 
      
                     (完)   


〔参考〕

 
  


石原莞爾將軍の遺書「新日本の進路」(下)

2018-10-23 10:40:43 | 石原莞爾

  石原莞爾將軍の遺書 『新日本の進路』(下) 
    石原莞爾


 四、我が理想 

 イ、超階級の政治
 
 マルクスの豫言によれば、
所謂資本主義時代になると社會の階級構成が單純化されて、
はつきりブルジヨアとプロレタリアの二大陣營に分裂し、
プロレタリアは遂に暴力革命によつてブルジヨアを打倒するといわれている。

 しかしこの豫言は、今日では大きく外れて來た。
社會の階級構成はむしろ逆に、文明の進んだ國ほど複雜に分化し、
ブルジヨアでもプロレタリアでもない階級がいよいよ増加しつつあり、
これが社會發展の今日の段階における決定的趨勢である。


 共産黨はかかる趨勢に對處し、
プロレタリアと利害一致せざる階級或は利害相反する階級までも、
術策を弄して自己の陣營に抱込み、
他方暴力的獨裁的方式をもつて、
少數者の獨斷により一擧に事をなさんとしている。


 しかし右のごとき社會發展の段階においては、
國家の政治がかつてのブルジヨアとかプロレタリアのごとき、
或階級の獨裁によつて行われることは不當である。

 我等は今や、超階級の政治の要望せらるべき時代を迎えているのである。 



 今日までの政治は階級利益のための政治であつた。
これを日本でいえば、民主自由黨はブルジヨアの利益を守り、
共産黨がプロレタリアの利益を代表するがごとくである。

 しかるに政治が超階級となることは、
政治が「或階級の利益のために」ということから
「主義によつて」 「理想のために」 ということに轉換することを意味している。

 ナチス・ドイツやソ連の政治が共にイデオロギーの政治であり、
アメリカのデモクラシーも
最近ではイデオロギー的に変化して來たこと前述の通りであるが、
これらは現實にかくのごとき世界的歴史的動向を示すものである。

 かくして政治はますます道義的宗教的色彩を濃厚にし、
氣魄ある人々の奉仕によつて行わるべきものとなりつつある。


 私は日蓮聖人の信者であるが、
日蓮聖人が人類救濟のために説かれた「立正安國」の教えは、
「主義によつて」 「理想のために」 行われる政治の最高の理想を示すものである。

 「立正安國」は今やその時到つて、
眞に實現すべき世界の最も重大なる指導原理となり來つたのである。
 人は超階級の政治の重大意義を、如何に高く評價しても尚足りぬであろう。 

 ロ、經濟の原則 

  超階級の政治の行わるべき時代には、
經濟を單純に、資本主義とか社會主義とか、或は自由經營とか官公營とか、
一定してしまうのは適當でない。

 これらを巧みに按配して綜合運用すべき時代となつているのである。
ここにその原則を述ぶれば次のごとくである。

 第一、最も國家的性格の強い事業は逐次國營にし、
   これが運營に當るものは職業勞働者でなく、
   國家的に組織されたる青年男女の義務的奉仕的勞働たるべきである。
   我等はブルジヨアの獨裁を許し得ざるごとく、
   プロレタリア、つまり職業勞働者の獨裁をも許し得ざるものである。

 第二。大規模な事業で、國民全体の生活に密接なる関係あり、
   經營の比較的安定せるものは逐次組合の經營に移す。
   かくして國家は今後組合國家の形態に發展するであろう。
   戰爭準備を必要とする國家においては、國家權力による經濟統制が不可欠である。
   しかし日本は既に戰爭準備の必要から完全に解放された。
   組合國家こそ、日本にとつて最適の國家体制である。

 第三。しかし創意や機略を必要とし、
   且つ經營的に危險の伴う仕事
は、
   やはり有能なる個人の企業、自由競爭にまかすことが最も合理的である。
   特に今日の日本の困難なる状勢を突破して新日本の建設を計るには、
   機敏に活動し、
   最新の科学を驅使する個人的企業にまつべき分野の極めて多いことを考えねばならぬ。
   妙な嫉妬心から徒らに高率の税金を課し、
   活發なる企業心を削減せしめることは嚴に戒しむべきである。 


 ハ、生活革命 
 我等の組合國家においては、國民の大部分は農村に分散し、
今日の部落程度の廣さを單位として農工一体の新農村を建設する。
 各農村は組合組織を紐帶として今日の家族のごとき一個の共同体となり、
生産も消費もすべて村中心に行う。
これが新時代における國民生活の原則たるべきである。

 一村の戸數は、その村の採用する事業が何名の勞働力を必要とするかによつて決定される。
概ね十數戸乃至數十戸というところであろう。

 この体制が全國的に完成せらるれば、
日本の經濟は一擧に今日の十倍の生産力を獲得することも至難ではないと信ずる。

 しかし農工一体の實現は、社會制度の革命なしには不可能である。
日本の從來の家族は祖父母、父母、子、孫等の縱の系列をすべて抱擁し、
これが經濟單位であり、且つ生活單位でもあつた。

 この家族制度は日本の傳統的美風とされたが、
一面非常な不合理をも含んでいた。
我等の理想社會は、經濟單位と生活單位とを完全に分離するものである。

 即ちそこでは、衣食住や育兒等の所謂家事勞働のすべては、
部落の完備せる共同施設において、誠心と優秀なる技術によつて行われる。
 勿論家庭單位で婦人のみで行う場合より遙かに僅少の勞働力をもつて遙かに高い能率を發揮できよう。

 かくして合理的に節約される勞働力は、男女を問わずすべて村の生産に動員される。
しかして各人の仕事は男女の性別によらず、
各人の能力と関心によつてのみ決定する。

 生産の向上、生活の快適は期して待つべく、婦人開放の問題のごときも、
かかる社會においてはじめて眞の解決を見るであろう。


 かくのごとき集團生活にとり、最も重要なる施設は住宅である。
私は現在のところ、村人の數だけの旅客を常に宿泊せしめ得る、
完備した近代的ホテルのごとき共同建築物が住宅として理想的だと考えている。

 最高の能率と衞生、各人の自由の尊重、規律ある共同的日常行動等も、
この種の住宅ならば極めて好都合に實現し得るのではあるまいか。


 新農村生活はまた、舊來の家族制度にまつわる、
例えば姑と嫁との間におけるごとき、深刻なる精神問題をも根本的に解決する。

 そこでは老人の扶養は直接若夫婦の任務ではない。
 また老人夫婦は若夫婦の上に何等の憂も懸念ももつ必要はない。
 それぞれの夫婦は、完全に隔離された別室をもち、常に自由なる人生を樂しむであろう。

 そこでは新民法の精神を生かした夫婦が新たなる社會生活の一單位となり、
社會生活は東洋の高き個人主義の上に立ち、
アメリカ以上の夫婦中心に徹底するのである。

 親子の間を結ぶ孝行の道は、
これによつて却つて純粹且つ素直に遵守されるものと思われる。
この間、同族は單に精神的つながりのみを殘すこととなるであろう。

 眞に爭なき精神生活と、安定せる經濟生活とは、
我等が血縁を超えて理想に生き、
明日の農村を今日の家族のごとき運命共同体となし得た時、
はじめて實現し得るものである。
              (24.7.8)


全體主義に關する混迷を明かにす
 「新日本の進路」 脱稿後、
これに使つた 「統制主義」 という言葉が「全体主義」と混同され、
文章全体の趣旨を誤解せしむる惧れありとの忠告を受けた。
ここに若干の説明を加えて誤解なきを期したい。


 近代社會は專制、自由、統制の三つの段階を經て發展して來た。
即ち專制主義の時代から、フランス革命、明治維新等を經て自由主義の時代となり、
人類社會はそこに飛躍的發展をとげたのであるが、
その自由には限度あり、増加する人口にたいし、土地や資源がこれに伴わない場合、
多くの人に眞の自由を與えるため若干のさばきをつける、
所謂「統制」を與える必要を生じた。

 マルクス主義はその最初の頃のものであり、
以後世界をあげて統制主義の歴史段階に入つた。

 ソ連の共産黨はじめ、イギリス、フランス等の近代的社會主義諸政黨、
三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、スペインのフランコ政權、
日本の大政翼賛會等がその世界的傾向を示すものであることは本文中に述べた通りである。


 しかしよく注意せねばならぬ。
「統制」 はどこまでもフランス革命等によつて獲得された自由を全うするために、
お互の我ままをせぬということをその根本精神とするものである。

 統制主義はかくのごとき社會發展の途上において、
自由を更にのばすための必要から生れた、自由主義よりも一歩進んだ指導精神である。


 しからばこの間、全体主義は如何なる立場に立つものであるか。
第二次世界大戰以後、全体主義にたいする憎しみが世界を支配し、
その昂奮いまだ覺めやらぬ今日、
これにつき種々概念上の混迷を生じたのは無理からぬことであるが、
これを明確にせぬ限り、
眞に自由なる世界平和確立の努力に不要の摩擦を起す惧れが多分にあり、

 特に行過ぎた自由主義者や共産黨の陣營において、
かつて獨善的日本主義者が自己に反對するものは何でも 「赤」 と攻撃したごとく、
自己に同調せざるものを一口に 「フアツシヨ」 とか、
「全体主義」とか、理性をこえた感情的惡罵に使用する傾向あることは十分の戒心を要するであろう。
即ち全体主義に関する我等の見解は次のごとくである。


 世界は多數の人の自由をますますのばすために統制主義の時代に入つたが、
人口多くして土地、資源の貧弱なるイタリア、ドイツ、日本特にドイツのごとき、
清新なる氣魄ありしかも立ちおくれた民族は、
その惡條件を突破して富裕なる先進國に追つくため、
却て多數の人の自由を犧牲にし、瞬間的に能率高き指導精神を採用した。

 尤もナチのごときでも國民社會主義と稱して居り、
決して前時代そのままの個人の專制に逆轉したわけではないが、
國民全体のデモクラシーによらず、
指導者群に特殊の權力を與えて專制を許す方式をとつたのである。

 しかるに恐るるものなき指導者群の專制は、
個人の專制以上に暴力的となつたことを我等は認める。

 これを世間で全体主義と呼んでいるのは正しいというべきであろう。

 かくしてムツソリーニに始められた全体主義は、
ヒトラーによつてより巧みに利用され、
日本等またこれに從つて國力の飛躍的發展をはかり、
遂にデモクラシーによつて順調に進んでいる富裕なる先進國の支配力を破壞して世界制覇を志したのが、
今次の大破局をもたらしたのである。


 この間すべてを唯物的に取運ばんとするソ連は、
今日アメリカと世界的に對抗し、眞のデモクラシーを呼號しつつ、
實はナチと大差なき共産黨幹部の專制方式をとり、
一般國民には多く實情を知らしめない全体主義に近づいているが、

 日本共産黨はみづからこの先例に從つて全体主義的行動をとりつつあるにかかわらず、
眞の自由、眞のデモクラシーの發展をもたらさんとする正しき統制主義を
逆に 「全体主義」 「フアツシヨ」等と惡罵しているのである。


 しかし比較的富に余裕あるイギリスのごときを見よ。
既に社會主義政府の實現により立派に統制主義の体制に入つても、
尚デモクラシーを確保することを妨げないではないか。
フランスもまた同樣である。

 特にアメリカのごときは、
ニウ・デイール、マーシヤル・プラン等の示すごとく雄大極まる統制主義の國家となりながら、
どこまでもデモクラシーをのばしつつある。

 アメリカに比較すれば、
富の余裕大ならざるイギリスにおいて種々の國營を實施しているのに対体し、
最も富裕なるアメリカが、
強力なる統制下に尚大いに自由なる活動を許容し得ていることは特に注目されねばならぬ。

 中國の三民主義は、
東洋的先覺孫文によつてうちたてられた統制主義の指導原理である。
現在中國の國富は貧弱であるが、
國土廣大なるため、統制を行つても或程度自由をのばし得ている。

 この間の事情を人はよく理解すべきである。
今日統制主義の体制をとらねばならぬことはいづれの國も同樣である。
ただアメリカのごとき富裕なる國においては、
最小の制約を加えることによつて、いよいよ自由をのばし得るが、
しからざる國においては制約の程度を強化せざるを得ず、
そこに國民全体のデモクラシーを犧牲にし少數の指導者群の專制におちいる危險が包藏されるのである。


 イタリア、ドイツ、日本等が全体主義に後退し、
遂にそのイデオロギーを國家的民族的野心の鬪爭の具に惡用するに到つたのは、
ここにその最大の原因が存したのである。


 全体主義につき從來いろいろの見解があつたが、
我等はこれにつき統制主義の時代性を理解せず、
指導者群の專制に後退したもの、
繰返していうが、その弊害は個人の專制以上に暴力的となつたものと見るのである。

 しかしそれにもかかはらず、
統制主義は今日、眞の自由、眞のデモクラシーを確保するため、
絶對に正しく且つ必要なる指導精神であり、
既にその先例はアメリカ、イギリス等に示されている。


 我等は本文に強調したるごとく、
東亞の地方性にもとづき、
現實に即したる正しき統制主義の指導原理を具体化することによつてのみ、
よく世界の平和と進運に寄與し得るであろう。
     (24.8.10) 


石原莞爾將軍の遺書 「新日本の進路」(上)

2018-10-22 21:07:44 | 石原莞爾

  石原莞爾將軍の遺書 『新日本の進路』(上) 

      石原莞爾

 

  一、人類歴史は統制主義の時代にある 

 フランス革命は專制主義から自由主義えの轉換を決定した典型的自由主義革命であり、
日本の明治維新もこの見地からすれば、自由主義革命に属する。
自由主義は專制主義よりも遙かに能率高き指導精神であつた。

 しかるに第一次大戰以後、
敗戰國もしくは後進國において、敗戰から立上り、或は先進國に追いつくため、
自由主義よりも更に能率高き統制主義が採用された。

 ソ連の共産黨を含み
、あらゆる近代的社會主義諸政黨、三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、
遲れ馳せながらスペインのフランコ政權、日本の大政翼賛會等はいづれもこれである。

 依然として自由主義に止つた諸國家も、
第二次大戰起り、ドイツのフランス、イギリスに対する緒戰の壓倒的勝利、
さてはドイツの破竹の進撃にたいするソ連の頑強なる抵抗を見るにおよんで、
自由主義をもつてしては到底統制主義の高き能率に匹敵し得ざることを認め、
急速に方向を轉換するに到つた。

 自由主義は人類の本能的欲求であり、進歩の原動力である。
 これに対し、統制は專制と自由を綜合開顯せる指導精神であり、
個々の自由創意を最高度に發揚するため必要最小限度の專制を加えることである。


 今日自由主義を標榜して國家の運營に成功しているのは、世界にアメリカだけである。
 かつて自由主義の王者たりしイギリスさえ、既にイデオロギーによる統制主義國家となつている。

 しかして今やアメリカにおいても、
政府の議會にたいする政治的比重がずつと加わり、
最大の成長を遂げたる自由主義は、進んで驚くべき能率高き統制主義に進みつゝある。

 國内におけるニユー・デイール、國際的にはマーシヤル・プラン、
更に最近に到つては全世界にわたる未開發地域援助方策等は、
それ自身が大なる統制主義の發現に他ならぬ。


 その掲ぐるデモクラシーも、既にソ連の共産主義、
ドイツのナチズムと同じきイデオロギー的色彩を帶びている。

 かくしてアメリカまた、ソ連と世界的に對抗しつつ、
實質は統制主義國家に変貌し來つたのである。

 專制から自由え、自由から統制えの歩みこそ、
近代社會の發展において否定すべからざる世界共通の傾向ということができる。

 

  二、日本は統制主義國家として獨立せねばならぬ  

 アメリカは今日、日本を自由主義國家の範疇において獨立せしめんとしている。
しかし嚴密なる意味における自由主義國家は、既に世界に存在しない。

 そもそも、世界をあげて自由主義から統制主義に移行したのは、
統制主義の能率が自由主義に比べて遙かに高かつたからである。

 イタリア、ドイツ、日本等、いづれも統制主義の高き能率によつて、
アメリカやイギリスの自由主義と輸贏を爭わんとしたのである。

 これがため世界平和を攪亂したことは嚴肅なる反省を要するが、
それが廣く國民の心を得た事情には、十分理解すべき面が存するであろう。


 ただしアメリカが自由主義から堂々と統制主義に前進したに反し、
イタリアもドイツも日本も、遺憾ながら逆に專制主義に後退し、一部のものの獨裁に陷つた。
 眞のデモクラシーを呼號するソ連さえ、自由から統制えの前進をなし得ず、
ナチに最も似た形式の獨裁的運營を行い、專制主義に後退した。

 唯一の例外に近きものは三民主義の中國のみである。
かく觀じ來れば、世界は今日、
統制主義のアメリカと專制主義に後退せるソ連との二大陣營の對立と見ることもできる。

 この觀察にはいまだ徹底せざる不十分さがあるかも知れぬが、
日本が獨立國家として再出發するに當つては、
共産黨を斷然壓倒し得るごときイデオロギー中心の新政黨を結成し、
正しき統制主義國家として獨立するのでなければ、
國内の安定も世界平和えの寄與も到底望み得ざるものと確信する。

 もしアメリカが日本を自由主義國家として立たしめんと欲するならば、
日本の再建は遲々として進まず、
アメリカの引上げはその希望に反して永く不可能となるであろう。

 しからば日本は結局、アメリカの部分的属領化せざるを得ず、
兩國間の感情は著しく惡化する危險が多分にある。

 
 日本は今次の敗戰によつて、
世界に先驅けた平和憲法を制定したが、
一歩獨立方式を誤れば、神聖なる新日本の意義は完全に失われてしまうであろう。

 繰返して強調する、今日世界に自由主義國家はどこにもない。
 我等の尊敬するイギリスさえ統制主義國家となり、
アメリカまた自由主義を標榜しつつ實質は大きく統制主義に飛躍しつつある。

 日本は世界の進運に從い、
統制主義國家として新生してこそ
過去に犯した世界平和攪亂の罪を正しく償い得るものである。

 

  三、東亞的統制主義の確立――東亞連盟運動の回顧 

 世界はその世界性と地方性の協調によつて進まねばならぬ。

 東亞の文化の進み方には、世界の他の地方と異る一つの型がある。
故に統制主義日本を建設するに當つても、そのイデオロギーは東亞的のものとなり、
世界平和とよく協調しつつ東亞の地方性を保持して行かねばならぬ。


 前述のごとく、幾多の統制主義國家が專制主義に後退した。
 しかるに三民主義の中國は、蒋介石氏の獨裁と非難されるが斷じてしからず、
蒋氏は常に反省的であり、
衰えたる國民黨の一角に依然美事なる統制えの歩みが見られる。

 毛澤東氏の新民主主義も、恐らくソ連のごとき專制には墮せず、
東洋的風格をもつ優秀なる思想を完成するに相違いない。

 我等は國共いづれが中國を支配するかを問わず、
常にこれらと提携して東亞的指導原理の確立に努力すべきである。
 この態度はまた、朝鮮新建設の根本精神とも必ず結合し調和し得るであろう。


 しからば日本はどうであるか。
 大政翼賛會は完全に失敗したが、
私の関係した東亞連盟運動は、三民主義や新民主主義よりも具体案の点において
更に一歩進んだ新しさを持つていたのではないかと思う。 

 この運動は終戰後極端なる保守反動思想と誤解され、解散を命ぜられた。
 それは私の持論たる「最終戰論」の影響を受けていたことが誤解の原因と想像されるが、
「最終戰論」は、これを虚心に見るならば、
斷じて侵略主義的、帝國主義的見解にあらず、
最高の道義にもとづく眞の平和的理想を内包していることが解るであろう。


 東亞連盟運動は、
世界のあらゆる民族の間に正しき協和を樹立するため、
その基礎的團結として、
まづ地域的に近接し且つ比較的共通せる文化内容をもつ東亞諸民族相携えて
民族平等なる平和世界を建設せんと努力したるもの、
支那事変や大東亞戰爭には全力をあげて反對したのである。


 東亞連盟の主張は、經濟建設の面においても一の新方式を提示した。
 今日世界の經濟方式は、アメリカ式かソ連式かの二つしかない。

 しかしこれらは共に僅かな人口で、
廣大な土地と豊富な資源のあるところでやつて行く方式である。


 日本は土地狹く資源も貧弱である。
 しかも人口は多く、
古來密集生活を營んで來た文化的性格から部落中心に團結する傾向が強い。
 こんなところでは、その特殊性を生かした獨自の方式を採用せねばならぬ。

 アメリカ式やソ連式では、
よしトルーマン大統領やスターリン首相がみづから最高のスタツフを率いてその衝に當つても、
建設は成功し難いであろう。


 東亞連盟の建設方式によれば、
國民の大部分は、各地方の食糧生産力に應じて全國農村に分散し、
今日の部落程度の廣さを單位として一村を構成し、
食糧を自給しつつ工業其他の國民職分を擔當する。
 所謂農工一体の体制である。

 しかして機械工業に例をとれば、
農村の小作業場では部品加工を分擔し
これを適當地域において國營もしくは組合經營の親工場が綜合統一する。
 この種の分散統一の經營方式こそ今後の工業生産の眼目たるべきものである。

 しかしてかくのごときは、
事情の相似た朝鮮や中國にも十分參考となり得るのではあるまいか。


 また東亞連盟運動は、
その實踐においても極めてデモクラチツクであり、
よくその統制主義の主張を生かした。

 組織を見ても、誰もが推服する指導者なき限り、
多くの支部は指導者的支部長をおかず、すべて合議制であつた。

 解散後數年を經た今日、尚解散していないかのごとく非難されているが、
これは運動が專制によらず、眞に心からなる理解の上に立つていた實情を物語つている。


 今日私は、東亞連盟の主張がすべて正しかつたとは勿論思わない。

 最終戰爭が東亞と歐米との兩國家群の間に行われるであろうと豫想した見解は、
甚しい自惚れであり、事實上明かに誤りであつたことを認める。

 また人類の一員として、既に世界が最終戰爭時代に入つていることを信じつつも、
できればこれが回避されることを、心から祈つている。


 しかし同時に、現實の世界の状勢を見るにつけ、
殊に共産黨の攻勢が激化の一途にある今日、
眞の平和的理想に導かれた東亞連盟運動の本質と足跡が
正確に再檢討せらるべき緊急の必要ありと信ずる。

 少くもその著想の中に、
日本今後の正しき進路が發見せらるべきことを確信するものである。 


〔続〕
石原莞爾將軍の遺書「新日本の進路」(下)


 


石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第二章 最終戦争

2018-10-21 11:10:35 | 石原莞爾


 石原莞爾『最終戦争論』
  第一部 最終戦争論


第二章 最終戦争 

 われわれは第一次欧州大戦以後、戦術から言えば戦闘群の戦術、
戦争から言えば持久戦争の時代に呼吸しています。

 第二次欧州戦争で所々に決戦戦争が行なわれても、
時代の本質はまだ持久戦争の時代であることは前に申した通りでありますが、
やがて次の決戦戦争の時代に移ることは、
今までお話した歴史的観察によって疑いのないところであります。

 その決戦戦争がどんな戦争であるだろうか。
これを今までのことから推測して考えましょう。
まず兵数を見ますと今日では男という男は全部戦争に参加するのでありますが、
この次の戦争では男ばかりではなく女も、
更に徹底すれば老若男女全部、戦争に参加することになります。

 戦術の変化を見ますと、
密集隊形の方陣から横隊になり散兵になり戦闘群になったのであります。
これを幾何学的に観察すれば、方陣は点であり横隊は実線であり散兵は点線であり、
戦闘群の戦法は面の戦術であります。

 点線から面に来たのです。
この次の戦争は体(三次元)の戦法であると想像されます。

 それでは戦闘の指揮単位はどういうふうに変化したかと言うと、
必ずしも公式の通りではなかったのでありますが、
理屈としては密集隊形の指揮単位は大隊です。

 今のように拡声器が発達すれば
「前へ進め」と3千名の連隊を一斉に動かし得るかも知れませんが、
肉声では声のよい人でも大隊が単位です。

 われわれの若いときに盛んにこの大隊密集教練をやったものであります。
横隊になると大隊ではどんな声のよい人でも号令が通りません。
指揮単位は中隊です。

 次の散兵となると中隊長ではとても号令は通らないので、
小隊長が号令を掛けねばいけません。
それで指揮単位は小隊になったのであります。

 戦闘群の戦術では明瞭に分隊―通常は軽機一挺と
鉄砲十何挺を持っている分隊が単位であります。

 大隊、中隊、小隊、分隊と逐次小さくなって来た指揮単位は、
この次は個人になると考えるのが至当であろうと思います。

 単位は個人で量は全国民ということは、国民の持っている戦争力を全部最大限に使うことです。

 そうして、その戦争のやり方は体の戦法即ち空中戦を中心としたものでありましょう。
われわれは体以上のもの、即ち四次元の世界は分からないのです。

 そういうものがあるならば、それは恐らく霊界とか、幽霊などの世界でしょう。
われわれ普通の人間には分からないことです。
要するに、この次の決戦戦争は戦争発達の極限に達するのであります。

 戦争発達の極限に達するこの次の決戦戦争で戦争が無くなるのです。
人間の闘争心は無くなりません。

 闘争心が無くならなくて戦争が無くなるとは、どういうことか。
国家の対立が無くなる――即ち世界がこの次の決戦戦争で一つになるのであります。

 これまでの私の説明は突飛だと思う方があるかも知れませんが、
私は理論的に正しいものであることを確信いたします。 

 戦争発達の極限が戦争を不可能にする。
例えば戦国時代の終りに日本が統一したのは軍事、
主として兵器の進歩の結果であります。

 即ち戦国時代の末に信長、秀吉、家康という
世界歴史でも最も優れた3人の偉人が一緒に日本に生まれて来ました。
3人の協同作業です。

 信長が、あの天才的な閃きで、大革新を妨げる堅固な殻を打ち割りました。
割った後もあまり天才振りを発揮されると困ります。

 それで明智光秀が信長を殺した。
信長が死んだのは用事が終ったからであります。
それで秀吉が荒削りに日本の統一を完成し、
朝鮮征伐までやって統一した日本の力を示しました。

 そこに家康が出て来て、うるさい婆さんのように万事キチンと整頓してしまった。
徳川が信長や秀吉の考えたような皇室中心主義を実行しなかったのは遺憾千万ですが、
この3人で、ともかく日本を統一したのであります。

 なぜ統一が可能であったかと言えば、種子島へ鉄砲が来たためです。
いくら信長や秀吉が偉くても鉄砲がなくて、
槍と弓だけであったならば旨く行きません。

 信長は時代を達観して尊皇の大義を唱え、
日本統一の中心点を明らかにしましたが、
彼は更に今の堺から鉄砲を大量に買い求めて統一の基礎作業を完成しました。

 今の世の中でも、もしもピストル以上の飛び道具を全部なくしたならば、
選挙のときには恐らく政党は演壇に立って言論戦なんかやりません。

 言論では勝負が遅い。
必ず腕力を用いることになります。
しかし警察はピストルを持っている。
兵隊さんは機関銃を持っている。
いかに剣道、柔道の大家でも、これではダメだ。

 だから甚だ迂遠な方法であるが、言論戦で選挙を争っているのです。
兵器の発達が世の中を泰平にしているのです。

 この次の、すごい決戦戦争で、
人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。
そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。

 要するに世界の一地方を根拠とする武力が、
全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、
抵抗するものを屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一することとなります。

 しからばその決戦戦争はどういう形を取るかを想像して見ます。
戦争には老若男女全部、参加する。
老若男女だけではない。山川草木全部、戦争の渦中に入るのです。
しかし女や子供まで全部が満州国やシベリヤ、
または南洋に行って戦争をやるのではありません。
戦争には2つのことが大事です。

 一つは敵を撃つこと―損害を与えること。
もう一つは損害に対して我慢することです。
即ち敵に最大の損害を与え、自分の損害に堪え忍ぶことであります。

 この見地からすると、
次の決戦戦争では敵を撃つものは少数の優れた軍隊でありますが、
我慢しなければならないものは全国民となるのです。

 今日の欧州大戦でも空軍による決戦戦争の自信力がありませんから、
無防禦の都市は爆撃しない。
 軍事施設を爆撃したとか言っておりますけれども、
いよいよ真の決戦戦争の場合には、
忠君愛国の精神で死を決心している軍隊などは有利な目標でありません。
最も弱い人々、最も大事な国家の施設が攻撃目標となります。

  工業都市や政治の中心を徹底的にやるのです。
でありますから老若男女、山川草木、豚も鶏も同じにやられるのです。
かくて空軍による真に徹底した殲滅戦争となります。

 国民はこの惨状に堪え得る鉄石の意志を鍛錬しなければなりません。
また今日の建築は危険極まりないことは周知の事実であります。

 国民の徹底した自覚により国家は遅くも20年を目途とし、
主要都市の根本的防空対策を断行すべきことを強く提案致します。

 官憲の大整理、都市に於ける中等学校以上の全廃(教育制度の根本革新)、
工業の地方分散等により都市人口の大整理を行ない、
必要な部分は市街の大改築を強行せねばなりません。

 今日のように陸海軍などが存在しているあいだは、
最後の決戦戦争にはならないのです。

 それ動員だ、輸送だなどと間ぬるいことではダメであります。
軍艦のように太平洋をのろのろと10日も20日もかかっては問題になりません。
 それかと言って今の空軍ではとてもダメです。

 また仮に飛行機の発達により今、
ドイツがロンドンを大空襲して空中戦で戦争の決をつけ得るとしても、
恐らくドイツとロシヤの間では困難であります。
 ロシヤと日本の間もまた困難。

 更に太平洋をへだてたところの日本とアメリカが
飛行機で決戦するのはまだまだ遠い先のことであります。

 一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行なわれる時が、
人類最後の一大決勝戦の時であります。
 即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。

 それから破壊の兵器も今度の欧州大戦で使っているようなものでは、
まだ問題になりません。
 もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、
私どもには想像もされないような大威力のものができねはなりません。

 飛行機は無着陸で世界をクルグル廻る。
しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、
例えば今日戦争になって次の朝、
夜が明けて見ると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。

 その代り大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう。
すべてが吹き飛んでしまう……。
それぐらいの破壊力のものであろうと思います。

 そうなると戦争は短期間に終る。
それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない。

 そんななまぬるいのは持久戦争時代のことで、決戦戦争では問題にならない。
この次の決戦戦争では降ると見て笠取るひまもなくやっつけてしまうのです。
このような決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得る者が最後の優者であります。 


【続く】 
石原莞爾『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第三章 世界の統一

 


石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第一章 戦争史の大観 第六節 第二次欧州大戦

2018-08-29 12:05:42 | 石原莞爾

   石原莞爾『最終戦争論』
    第一部 最終戦争論

    第一章 戦争史の大観

第六節 第二次欧州大戦

 第二次欧州大戦では、
ドイツのいわゆる電撃作戦が
ポーランド、ノールウェ―のような弱小国に対し迅速に決戦戦争を強行し得たことは、
もちろん異とするに足りません。

 しかし仏英軍との間には
恐らくマジノ、ジークフリートの線で相対峙し、
お互にその突破が至難で持久戦争になるものと考えたのであります。

 ドイツがオランダ、ベルギーに侵入することはあっても、
それは英国に対する作戦基地を得るためで、
連合軍の主力との間に真の大決戦が行なわれるだろうとは考えられませんでした。

  しかるに5月10日以来のドイツの猛撃は瞬時にオランダ、ベルギーを屈伏せしめ、
難攻と信ぜられたマジノ延長線を突破して、
ベルギーに進出した仏英の背後に迫り、
たちまち、これを撃滅し、
更に矛を転じてマジノ線以西の地区からパリに迫ってこれを抜き、
オランダ侵入以来わずか5週間で強敵フランスに停戦を乞わしめるに至りました。

 即ち世界史上未曽有の大戦果を挙げ、
フランスに対しても見事な決戦戦争を遂行したのであります。

 しからば、果してこれが今日の戦争の本質であるかと申せば、
私は、あえて「否」と答えます。


 第一次欧州大戦に於ては、
ドイツの武力は連合軍に比し多くの点で極めて優秀でありましたが、
兵力は遥かに劣勢であり、
戦意は双方相譲らない有様で大体互角の勝負でありました。

 ところがヒットラーがドイツを支配して以来、
ドイツは真に挙国一致、全力を挙げて軍備の大拡充に努力したのに対し、
自由主義の仏英は漫然これを見送ったために、
空軍は質量共に断然ドイツが優勢であることは世界がひとしく認めていたのであります。


 今度いよいよ戦争の幕をあけて見ると、
ドイツ機械化兵団が極めて精鋭且つ優勢であるのみならず、
一般師団の数も仏英側に対し
ドイツは恐らく三分の一以上も優勢を保持しているらしいのです。

 しかも英雄ヒットラーにより全国力が完全に統一運用されているのに反し、
数年前ドイツがライン進駐を決行したとき、
フランスが断然ベルサイユ条約に基づきドイツに一撃を加えることを主張したのに対し英国は反対し、
その後も作戦計画につき事毎に意見の一致を見なかったと信ぜられます。


 フランスの戦意はこんな関係で第一次欧州大戦のようではなく、
マジノ延長線も計画に止まり、ほとんど構築されていなかったらしいのです。

 戦力の著しく劣勢なフランスは、国境で守勢をとるべきだったと思われます。
恐らく軍当局はこれを欲したのでしょうが、
政略に制せられてベルギーに前進し、
この有力なベルギー派遣軍がドイツの電撃作戦に遇あって徹底的打撃を受け、
英軍は本国へ逃げかえりました。


 英国が本気でやる気なら、
本国などは海軍に一任し全陸軍はフランスで作戦すべきであります。
 英仏の感情は恐らく極めて不良となったことと考えられます。
かくてドイツが南下するや、仏軍は遂に抵抗の実力なく、
名将ペタン将軍を首相としてドイツに降伏しました。


 このように考えますと、
今次の戦争は全く互格の勝負ではなく、
連合側の物心両面に於ける甚だしい劣勢が必然的にこの結果を招いたのであります。

 そもそも持久戦争は大体互格の戦争力を有する相手の間に於てのみ行なわれるものです。

 
 第一次欧州大戦では開戦初期の作戦はドイツの全勝を思わせたのでしたが、
マルヌで仏軍の反撃に敗れ、
また最後の1918年のルーデンドルフの大攻勢では、
北フランスに於ける戦場付近で仏英軍に大打撃を与え、
一時は全く敵を中断して戦争の運命を決し得るのではないかとさえ見えたのでしたが、
遂に失敗に終りました。

 両軍は大体互格で持久戦争となり、
ドイツは主として経済戦に敗れて遂に降伏したのであります。


 フィンランドはソ連に屈伏はしたものの、
極めて劣勢の兵力で長時日ソ連の猛撃を支え、
今日の兵器に対しても防禦威力の如何に大なるかを示しました。

 またベルギー戦線でも、
まだ詳細は判りませんが、
ブリュッセル方面から敵の正面を攻めたドイツ軍は大きな抵抗に遇い、
容易には敵線を突破できなかった様子です。


 現在は第一次欧州大戦に比べると、
空軍の大進歩、戦車の進歩などがありますが、
十分の戦備と決心を以て戦う敵線の突破は今日も依然として至難で、
戦争持久に陥る公算が多く、
まだ持久戦争の時代であると観察されます。




【続く】 
石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第二章 最終戦争

 


石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第一章 戦争史の大観 第五節 第一次欧州大戦

2018-08-28 16:35:22 | 石原莞爾

 
  石原莞爾『最終戦争論』
   第一部 最終戦争論
 
  第一章 戦争史の大観



第五節 第一次欧州大戦

 シュリーフェンは1913年、欧州戦争の前に死んでおります。
つまり第一次欧州大戦は決戦戦争発達の頂点に於て勃発したのです。
誰も彼も戦争は至短期間に解決するのだと思って欧州戦争を迎えたのであります。
ぼんくらまで、そう思ったときには、もう世の中は変っているのです。
あらゆる人間の予想に反して4年半の持久戦争になりました。

 しかし今日、静かに研究して見ると、
第一次欧州大戦前に、持久戦争に対する予感が潜在し始めていたことがわかります。

ドイツでは戦前すでに「経済動員の必要」が論ぜられておりました。

 またシュリーフェンが参謀総長として立案した最後の対仏作戦計画である
1905年12月案には、
アルザス・ロートリンゲン地方の兵力を極端に減少してベルダン以西に主力を用い、
パリを大兵力をもって攻囲した上、
更に7軍団(14師団)の強大な兵団をもってパリ西南方から遠く迂回し、
敵主力の背後を攻撃するという真に雄大なものでありました(25頁の図参照)。


  ところが1906年に参謀総長に就任したモルトケ大将の第一次欧州大戦初頭に於ける対仏作戦は、
御承知の通り開戦初期は破竹の勢いを以てベルギー、北フランスを席捲して長駆マルヌ河畔に進出し、
一時はドイツの大勝利を思わせたのでありましたが、
ドイツ軍配置の重点はシュリーフェン案に比して甚だしく東方に移り、
その右翼はパリにも達せず、
敵のパリ方面よりする反撃に遇あうともろくも敗れて後退のやむなきに至り、遂に持久戦争となりました。

 この点についてモルトケ大将は、大いに批難されているのであります。
たしかにモルトケ大将の案は、決戦戦争を企図したドイツの作戦計画としては、
甚だ不徹底なものと言わねはなりません。

 シュリーフェン案を決行する鉄石の意志と、
これに対する十分な準備があったならば、
第一次欧州大戦も決戦戦争となって、ドイツの勝利となる公算が、
必ずしも絶無でなかったと思われます。

 しかし私は、
この計画変更にも持久戦争に対する予感が無意識のうちに力強く作用していたことを認めます。
即ちシュリーフェン時代にはフランス軍は守勢をとると判断されたのに、
その後、フランス軍はドイツの重要産業地帯であるザール地方への攻勢をとるものと判断されるに至ったことが、
この方面への兵力増加の原因であります。

 また大規模な迂回作戦を不徹底ならしめたのは、
モルトケ大将が、シュリーフェン元帥の計画では重大条件であったオランダの中立侵犯を断念したことが、
最も有力な原因となっているものと私は確信いたします。

 ザール鉱工業地帯の掩護、特にオランダの中立尊重は、
戦争持久のための経済的考慮によったのであります。

 即ち決戦を絶叫しっつあったドイツ参謀本部首脳部の胸の中に、
彼らがはっきり自覚しない間に
持久戦争的考慮が加わりつつあったことは甚だ興味深いものと思います。


 4年半は三十年戦争や七年戦争に比べて短いようでありますが緊張が違う。
昔の戦争は三十年戦争などと申しましても中間に長い休みがあります。

 七年戦争でも、冬になれば傭兵を永く寒い所に置くと皆逃げてしまいますから、
お互に休むのです。
ところが第一次欧州戦争には徹底した緊張が4年半も続きました。


 なぜ持久戦争になったかと申しますと、
第一に兵器が非常に進歩しました。
 殊に自動火器――機関銃は極めて防禦に適当な兵器であります。
だからして簡単には正面が抜けない。

 第二にフランス革命の頃は、
国民皆兵でも兵数は大して多くなかったのですが、
第一次欧州戦争では、健康な男は全部、戦争に出る。

 歴史で未だかつてなかったところの大兵力となったのです。
それで正面が抜けない。

 さればと言って敵の背後に迂回しようとすると、
戦線は兵力の増加によってスイスから北海までのびているので迂回することもできない。
突破もできなければ迂回もできない。それで持久戦争になったのであります。


 フランス革命のときは社会の革命が戦術に変化を及ばして、
戦争の性質が持久戦争から決戦戦争になったのでしたが、
第一次欧州大戦では兵器の進歩と兵力の増加によって、
決戦戦争から持久戦争に変ったのであります。


 4年余の持久戦争でしたが、
18世紀頃の持久戦争のように会戦を避けることはなく決戦が連続して行なわれ、
その間に自然に新兵器による新戦術が生まれました。

 砲兵力の進歩が敵散兵線の突破を容易にするので、
防者は数段に敵の攻撃を支えることとなり、
いわゆる数線陣地となりましたが、

 それでは結局、
敵から各個に撃破される危険があるため、
逐次抵抗の数線陣地の思想から自然に面式の縦深防禦の新方式が出てきました。


 すなわち自動火器を中心とする1分隊ぐらい(戦闘群)の兵力が大間隔に陣地を占め、
さらにこれを縦深に配置するのであります(上図参照)。

 このような兵力の分散により敵の砲兵火力の効力を減殺するのみならず、
この縦深に配置された兵力は互に巧妙に助け合うことによって、
攻者は単に正面からだけでなく前後左右から不規則に不意の射撃を受ける結果、
攻撃を著しく困難にします。


 こうなると攻撃する方も在来のような線の敵兵では大損害を受けますから、
十分縦深に疎開し、
やはり面の戦力を発揮することにつとめます。

 横隊戦術は前に申しましたように専制をその指導精神としたのに対し、
散兵戦術は各兵、各部隊に十分な自由を与え、
その自主的活動を奨励する自由主義の戦術であります。

 しかるに面式の防禦をしている敵を攻撃するに各兵、
各部隊の自由にまかせて置いては大きな混乱に陥るから、
指揮官の明確な統制が必要となりました。

 面式防禦をするのには、一貫した方針に基づく統制が必要であります。


 即ち今日の戦術の指導精神は統制であります。
しかし横隊戦術のように強権をもって
各兵の自由意志を押えて盲従させるものとは根本に於て相違し、
各部隊、各兵の自主的、積極的、
独断的活動を可能にするために明確な目標を指示し、
混雑と重複を避けるに必要な統制を加えるのであります。

 自由を抑制するための統制ではなく、
自由活動を助長するためであると申すべきです。


 右のような新戦術は第一次欧州大戦中に自然に発生し、
戦後は特にソ連の積極的研究が大きな進歩の動機となりました。

 欧州大戦の犠牲をまぬがれた日本は一番遅れて新戦術を採用し、
今日、熱心にその研究訓練に邁進しております。


 また第一次欧州大戦中に、
戦争持久の原因は西洋人の精神力の薄弱に基づくもので
大和魂をもってせば即戦即決が可能であるという勇ましい議論も盛んでありましたが、
 真相が明らかになり、数年来は戦争は長期戦争・総力戦で、
武力のみでは戦争の決がつかないというのが常識になり、
第二次欧州大戦の初期にも誰もが持久戦争になるだろうと考えていましたが、
最近はドイツ軍の大成功により大きな疑問を生じて参りまし
た。



【続く】 
石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論
      第一章 戦争史の大観 第六節 第二次欧州大戦

 


石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第一章 戦争史の大観 第四節 フランス革命

2018-08-27 16:26:25 | 石原莞爾

 石原莞爾『最終戦争論』
  第一部 最終戦争論


    第一章 戦争史の大観


第四節 フランス革命

フランス革命当時はフランスでも戦争には傭い兵を使うのがよいと思われていた。
ところが多数の兵を傭うには非常に金がかかる。
 しかるに残念ながら当時、世界を敵とした貧乏国フランスには、
とてもそんな金がありません。
何とも仕様がない。
国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたフランスは、
とうとう民衆の反対があったのを押し切り、徴兵制度を強行したのであります。

 そのために暴動まで起きたのでありますが、
活気あるフランスは、それを弾圧して、とにかく百万と称する大軍
――実質はそれだけなかったと言われておりますが――
を集めて、四方からフランスに殺到して来る熟練した職業軍人の連合軍に対抗したのであります。

 その頃の戦術は先に申しました横隊です。
横隊が余り窮屈なものですから、
横隊より縦隊がよいとの意見も出ていたのでありますが、
軍事界では横隊論者が依然として絶対優勢な位置を占めておりました。

 ところが横隊戦術は熟練の上にも熟練を要するので、
急に狩り集めて来た百姓に、そんな高級な戦術が、できっこはないのです。
善いも悪いもない。

 いけないと思いながら縦隊戦術を採ったのです。
散兵戦術を採用したのです。

 縦隊では射撃はできませんから、前に散兵を出して射撃をさせ、
その後方に運動の容易な縦隊を運用しました。
横隊戦術から散兵戦術へ変化したのであります。

 決してよいと思ってやったのではありません。
やむを得ずやったのです。
 ところがそれが時代の性格に最も良く合っていたのです。
革命の時代は大体そういうものだと思われます。

 古くからの横隊戦術が、
非常に価値あるもの高級なものと常識で信じられていたときに、
新しい時代が来ていたのです。

 それに移るのがよいと思って移ったのではない。
これは低級なものだと思いながら、
やむを得ず、やらざるを得なくなって、やったのです。

 それが、地形の束縛に原因する決戦強制の困難を克服しまして、
用兵上の非常な自由を獲得したのみならず、
散兵戦術は自由にあこがれたフランス国民の性格によく適合しました。

 これに加えて、傭兵の時代とちがい、
ただで兵隊を狩り集めて来るのですから、
大将は国王の財政的顧慮などにしばられず、
思い切った作戦をなし得ることとなったのであります。

 こういう関係から、18世紀の持久戦争でなければならなかった理由は、
自然に解消してしまいました。

 ところが、そういうように変っても、
敵の大将はむろんのこと新しい軍隊を指揮したフランスの大将も、
依然として18世紀の古い戦略をそのまま使っていたのであります。

 土地を攻防の目標とし、広い正面に兵力を分散し、
極めて慎重に戦いをやって行く方式をとっていたのです。

 このとき、フランス革命によって生じた軍制上、戦術上の変化を達観して、
その直感力により新しい戦略を発見し、
果敢に運用したのが不世出の軍略家ナポレオンであります。

 即ちナポレオンは当時の用兵術を無視して、
要点に兵力を集めて敵線を突破し、
突破が成功すれば逃げる敵をどこまでも追っかけて行って徹底的にやっつける。

 敵の軍隊を撃滅すれば戦争の目的は達成され、
土地を作戦目標とする必要などは、なくなります。


 敵の大将は、ナポレオンが一点に兵を集めて、
しゃにむに突進して来ると、そんなことは無理じゃないか、乱暴な話だ、
彼は兵法を知らぬなどと言っている間に、自分はやられてしまった。

 だからナポレオンの戦争の勝利は対等のことをやっていたのではありません。
在来と全く変った戦略を巧みに活用したのであります。

 ナポレオンは敵の意表に出て敵軍の精神に一大電撃を加え、
遂に戦争の神様になってしまったのです。
 白い馬に乗って戦場に出て来る。

 それだけで敵は精神的にやられてしまった。
猫ににらまれた鼠のように、立ちすくんでしまいました。


 それまでは三十年戦争、七年戦争など長い戦争が当り前であったのに、
数週間か数カ月で大きな戦争の運命を一挙に決定する決戦戦争の時代になったのであります。
  
でありますから、
フランス革命がナポレオンを生み、
ナポレオンがフランス革命を完成したと言うべきです。

 特に皆さんに注意していただきたいのは、
フランス革命に於ける軍事上の変化の直接原因は兵器の進歩ではなかったことであります。

 中世暗黒時代から文芸復興へ移るときに軍事上の革命が起ったのは、
鉄砲の発明という兵器の関係でありました。

 けれどもフランス革命で横隊戦術から散兵戦術に、
持久戦争から決戦戦争に移った直接の動機は兵器の進歩ではありません。


  フリードリヒ大王の使った鉄砲とナポレオンの使ったものとは大差がないのです。
社会制度の変化が軍事上の革命を来たした直接の原因であります。

 このあいだ、帝大の教授がたが、
このことについて「何か新兵器があったでしょう」と言われますから
「新兵器はなかったのです」と言って頑張りますと、
「そんなら兵器の製造能力に革命があったのでしょうか」と申されます。

「しかし、そんなこともありませんでした」と答えぎるを得ないのです。

 兵器の進歩によってフランス革命を来たしたことにしなければ、
学者には都合が悪いらしいのですが、
都合が悪くても現実は致し方ないのであります。

 ただし兵器の進歩は既に散兵の時代となりつつあったのに、
社会制度がフランス革命まで、これを阻止していたと見ることができます。


 プロイセン軍はフリードリヒ大王の偉業にうぬぼれていたのでしたが、
1806年、イエーナでナポレオンに徹底的にやられてから、
はじめて夢からさめ、
科学的性格を活かしてナポレオンの用兵を研究し、
ナポレオンの戦術をまねし出しました。

 さあそうなると、殊にモスコー敗戦後は、
遺憾ながらナポレオンはドイツの兵隊に容易には勝てなくなってしまいました。


 世の中では末期のナポレオンは淋病で活動が鈍ったとか、
用兵の能力が低下したとか、
いい加減なことを言いますけれども、
ナポレオンの軍事的才能は年とともに発達したのです。

 しかし相手もナポレオンのやることを覚えてしまったのです。
人間はそんなに違うものではありません。
皆さんの中にも、秀才と秀才でない人がありましょう。
けれども大した違いではありません。

 ナポレオンの大成功は、
大革命の時代に世に率先して新しい時代の用兵術の根本義をとらえた結果であります。
天才ナポレオンも、もう20年後に生まれたなら、
コルシカの砲兵隊長ぐらいで死んでしまっただろうと思います。

 諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。
この幸福を感謝せねばなりません。
ヒットラーやナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。


 フリードリヒ大王とナポレオンの用兵術を徹底的に研究したクラウゼウィッツというドイツの軍人が、
近代用兵学を組織化しました。

 それから以後、ドイツが西洋軍事学の主流になります。
そうしてモルトケのオーストリアとの戦争(1866年)、フランスとの戦争(1870~71年)など、
すばらしい決戦戦争が行なわれました。


 その後シュリーフェンという参謀総長が長年、
ドイツの参謀本部を牛耳っておりまして、
ハンニバルのカンネ会戦を模範とし、
敵の両翼を包囲し騎兵をその背後に進め敵の主力を包囲殲滅せんめつすべきことを強調し、
決戦戦争の思想に徹底して、欧州戦争に向ったのであります。



【続く】 
石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第一章 戦争史の大観 第五節 第一次欧州大戦

 


石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第一章 戦争史の大観 第一説~第三節

2018-08-26 12:17:03 | 石原莞爾


『最終戦争論』   
  石原莞爾  

第一部 最終戦争論  

   昭和15年5月29日京都義方会に於ける講演速記で同年8月若干追補した。 

第一章 戦争史の大観  


第一節 決戦戦争と持久戦争

 戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。
今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。
どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、
もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、
一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。

 つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、
海軍力を盛んに使っているのでありますが、
間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。


 戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。
しかしその武力の価値が、
それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、
戦争に2つの傾向が起きて来るのであります。

 武力の価値が他の手段にくらべて高いほど
戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。

 言い換えれば陽性の戦争――これを私は決戦戦争と命名しております。

 ところが色々の事情によって、武力の価値がそれ以外の手段、
即ち政治的手段に対して絶対的でなくなる
――比較的価値が低くなるに従って戦争は細く長く、
女性的に、即ち陰性の戦争になるのであります。
これを持久戦争と言います。


 戦争本来の真面目は決戦戦争であるべきですが、
持久戦争となる事情については、単一でありません。

 これがために同じ時代でも、ある場合には決戦戦争が行なわれ、
ある場合には持久戦争が行なわれることがあります。

 しかし両戦争に分かれる最大原因は時代的影響でありまして、
軍事上から見た世界歴史は、
決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出して参りました。


 戦争のこととなりますと、
あの喧嘩好きの西洋の方が本場らしいのでございます。

 殊に西洋では似た力を持つ強国が多数、隣接しており、
且つ戦場の広さも手頃でありますから、
決戦・持久両戦争の時代的変遷がよく現われております。

 日本の戦いは「遠からん者は音にも聞け……」とか何とか言って始める。
戦争やらスポーツやら分からぬ。
それで私は戦争の歴史を、特に戦争の本場の西洋の歴史で考えて見ようと思います
(64頁の付表第1参照)。 

 

第二節 古代および中世

 古代――ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。
これは必ずしも西洋だけではありません。
日本でも支那でも、
原始時代は社会事情が大体に於て人間の理想的形態を取っていることが多いらしいのでありまして、
戦争も同じことであります。
 
 ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。
多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。

 今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります。
国民皆兵であり整然たる戦術によって、
この時代の戦争は決戦的色彩を帯びておりました。

 アレキサンダーの戦争、シイザーの戦争などは
割合に政治の掣肘を受けないで決戦戦争が行なわれました。


 ところがローマ帝国の全盛時代になりますと、
国民皆兵の制度が次第に破れて来て傭兵になった。
これが原因で決戦戦争的色彩が持久戦争的なものに変化しつつあったのであります。
 
 これは歴史的に考えれば、東洋でも同じことであります。
お隣りの支那では漢民族の最も盛んであった唐朝の中頃から、
国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する。
その時から漢民族の国家生活としての力が弛緩しております。

  今日まで、その状況がずっと継続しましたが、
今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。

 それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。
長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものでありますが、
この事変を契機としまして何とか昔の漢民族にかえることを私は希望しています。


 前にかえりますが、こうして兵制が乱れ政治力が弛緩して参りますと、
折角ローマが統一した天下をヤソの坊さんに実質的に征服されたのであります。
それが中世であります。

 中世にはギリシャ、ローマ時代に発達した軍事的組織が全部崩壊して、
騎士の個人的戦闘になってしまいました。

 一般文化も中世は見方によって暗黒時代でありますが、
軍事的にも同じことであります。 
 


第三節 文芸復興

 それが文芸復興の時代に入って来る。
文芸復興期には軍事的にも大きな革命がありました。
それは鉄砲が使われ始めたことです。

 先祖代々武勇を誇っていた、いわゆる名門の騎士も、町人の鉄砲一発でやられてしまう。
それでお侍いの一騎打ちの時代は必然的に崩壊してしまい、
再び昔の戦術が生まれ、
これが社会的に大きな変化を招来して来るのであります。

 
 当時は特に十字軍の影響を受けて地中海方面やライン方面に商業が非常に発達して、
いわゆる重商主義の時代でありましたから、
金が何より大事で兵制は昔の国民皆兵にかえらないで、
ローマ末期の傭兵にかえったのであります。

  ところが新しく発展して来た国家は皆小さいものですから、
常に沢山の兵隊を養ってはいられない。

 それでスイスなどで兵隊商売、即ち戦争の請負業ができて、
国家が戦争をしようとしますと、その請負業者から兵隊を傭って来るようになりました。

 そんな商売の兵隊では戦争の深刻な本性が発揮できるはずがありません。
必然的に持久戦争に堕落したのであります。

 しかし戦争がありそうだから、あそこから300人傭って来い、
あっちからも百人傭って来い、
なるたけ値切って傭って来いというような方式では頼りないのでありますから、
国家の力が増大するにつれ、だんだん常備傭兵の時代になりました。

 軍閥時代の支那の軍隊のようなものであります。
常備傭兵になりますと戦術が高度に技術化するのです。
くろうとの戦いになると巧妙な駆引の戦術が発達して来ます。
けれども、やはり金で傭って来るのでありますから、
当時の社会統制の原理であった専制が戦術にもそのまま利用されたのです。


 その形式が今でも日本の軍隊にも残っております。
日本の軍隊は西洋流を学んだのですから自然の結果であります。

 たとえば号令をかけるときに剣を抜いて「気を付け」とやります。
「言うことを聞かないと切るぞ」と、おどしをかける。
   
もちろん誰もそんな考えで剣を抜いているのではありませんが、
この指揮の形式は西洋の傭兵時代に生まれたものと考えます。
刀を抜いて親愛なる部下に号令をかけるというのは日本流ではない。
 
 日本では、まあ必要があれば采配を振るのです。
敬礼の際「頭右かしらみぎ」と号令をかけ指揮官は刀を前に投げ出します。
 それは武器を投ずる動作です。

 刀を投げ捨てて「貴方にはかないません」という意味を示した遺風であろうと思われます。

 また歩調を取って歩くのは専制時代の傭兵に、
弾雨の下を臆病心を押えつけて敵に向って前進させるための訓練方法だったのです。


 金で傭われて来る兵士に対しては、
どうしても専制的にやって行かねばならぬ。
兵の自由を許すことはできない。

 そういう関係から、
鉄砲が発達して来ますと、射撃をし易くするためにも、
味方の損害を減ずるためにも、
隊形がだんだん横広くなって深さを減ずるようになりましたが、
まだ専制時代であったので、横隊戦術から散兵戦術に飛躍することが困難だったのであります。


 横隊戦術は高度の専門化であり、
従って非常に熟練を要するものです。

 何万という兵隊を横隊に並べる。
われわれも若いときに歩兵中隊の横隊分列をやるのに苦心したものです。

 何百個
であります。
戦術が煩瑣はんさなものになって専門化したことは恐るべき堕落であります。
それで戦闘が思う通りにできないのです。
ちょっとした地形の障害でもあれば、それを克服することができない。


 そんな関係で戦場に於ける決戦は容易に行なわれない。
また長年養って商売化した兵隊は非常に高価なものであります。
それを濫費することは、君主としては惜しいので、
なるべく斬り合いはやりたくない。
そういうような考えから持久戦争の傾向が次第に徹底して来るのです。


 30年戦争や、
この時代の末期に出て来た持久戦争の最大名手であるフリードリヒ大王の七年戦争などは、
その代表的なものであります。

 持久戦争では会戦、つまり斬り合いで勝負をつけるか、
あるいは会戦をなるべくやらないで機動によって敵の背後に迫り、
犠牲を少なくしつつ敵の領土を蚕食する。

 この二つの手段が主として採用されるのであります。


 フリードリヒ大王は、
最初は当時の風潮に反して会戦を相当に使ったのでありますが、
さすがのフリードリヒ大王も、多く血を見る会戦では戦争の運命を決定しかね、
遂に機動主義に傾いて来たのであります。


 フリードリヒ大王を尊敬し、
大王の機動演習の見学を許されたこともあったフランスのある有名な軍事学者は、
1789年、次の如く言っております。
「大戦争は今後起らないだろうし、もはや会戦を見ることはないだろう」。

 将来は大きな戦争は起きまい。
また戦争が起きても会戦などという血なまぐさいことはやらないで
主として機動によりなるべく兵の血を流さないで戦争をやるようになるだろうという意味であります。


 即ち女性的陰性の持久戦争の思想に徹底したのであります。
しかし世の中は、あることに徹底したときが革命の時なんです。

 皮肉にも、この軍事学者がそういう発表をしている1789年はフランス革命勃発の年であります。
そういうふうに持久戦争の徹底したときにフランス革命が起りました。



【続く】 
石原莞爾 『最終戦争論』 第一部 最終戦争論 第一章 戦争史の大観 第四節 フランス革命

 


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第七章 現在に於ける我が国防 第二節~第三節

2018-08-24 10:09:43 | 石原莞爾

石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明
     第七章 現在に於ける我が国防


第二節 我が国防

 現時の国策即ち昭和維新の中核問題である東亜連盟の結成には、
根本に於て東亜諸民族特に我が皇道即ち王道、
東方道義に立返る事が最大の問題である。

  国家主義の時代から国家連合の時代を迎えた今日、
民族問題は世界の大問題であり、
日本民族も明治以来朝鮮、台湾、満州国に於て他民族との協同に於て
殆んど例外なく失敗して来たった事を深く考え、
皇道に基づき正しき道義観を確立せねばならぬ。

 満州建国の民族協和はこの問題の解決点を示したのである。
満州国内に於ける民族協和運動は今日まで遺憾ながらまだ成功してはいない。
 
明治以来の日本人の惰性の然らしむるところ、
一度は陥るべきものであろう。

 しかし一面建国の精神は一部人士により堅持せられ、
かつ実践せられつつあるが故に、
一度最大方針が国民に理解せられたならばたちまち数十年の弊風を一掃して、
東亜諸民族と心からなる協同の大道に驀進するに至るべきを信ずる。

 
 この新時代の道義観の下に、
世界最終戦争を目標とする東亜大同の諸政策が立案実行せられる。

しかしそれがためには
我が東亜の地域に加わるべき欧米覇道主義者の暴力を排除し得る事が絶対条件である。
即ち東亜(我が)国防全からずして、東亜連盟の結成は一つの夢にすぎない。

 東亜連盟の結成が我が国防の目的であり、
同時に諸政策は最も困難なる国防を全からしむる点に集中せらるる事とならねばならぬ。
国策と国防はかくて全く渾然一体となるのである。
いわゆる国防国家とはこの意味に外ならない。


 東亜連盟の結成を妨げる外力は、

1 ソ連の陸上武力。
2 米の海軍力、これには英、ソの海軍が共同すると考えねばならぬ。

であるからこれに対し、


1 ソ連が極東に使用し得る兵力に相当するものを備え、
  かつ少なくもソ連のバイカル以東に位置するものと同等の兵力を満州、朝鮮に位置せしむ。

2 西太平洋に出現し得べき米、英、ソの海軍力に対し、
  少なくも同等の海軍力を保持せねばならぬ。

 陸軍当局の言うところによれば極東ソ軍は30個師団以上に達し、
約3千台の戦車及び飛行機を持っている。

 それに対する我が在満兵力は甚だしい劣勢ではあるまいか。
この不安定が対ソ外交の困難となり、
また一面今次事変の有力な動機となった。

 而して日ソ両国極東兵備の差は僅々数年の間にこんな状態となったのである。


 全体主義的ソ連の建設と自由主義的日本の建設の能力の差を良く示している。
ナチス政権確立以来数年の問に独仏間の軍備の間に生じた差と全く同一種類のものである。
我らは一日も速やかに飛躍的兵備増強を断行せねばならぬ。

 アメリカ最近の海軍大拡張はどうであるか。
海相は数は恐るるに足らぬ。
独自の兵備によってこれに対抗し、断じて心配ないと言うているし、
また一部南進論者は3年後には米国の製艦により彼我海軍力に大きな差を生ずるから
今のうちに開戦すべしと論じている。

 しかし更に根本的の問題は、
我らは万難を排して
ソ連の極東軍備およびアメリカの海軍拡張に対抗せねばならないことになる。

ソ連が極東に30師団を持って来れば我が軍も北満に30師団を位置せしむべく、
ソ連戦車3千台なら我も3千台、
また米国が6万屯の戦艦を造るなら我もまたこれと同等の建艦を断行すべきである。

 そんな事は無理だと言うであろう。
その通り我が国の製鉄能力は今日ソ連の数分の一、
米国に比しては更に著しく劣っているのは明らかである。

 しかし造るべきものは造らねばならぬ。
断々乎として造らねばならぬ。

 この一歩をも譲ることを得ざる国防上の要求が
我が経済建設の指標であり昭和維新の原動力である。
この気力無き国民は須からく八紘一宇を口にすべからず。

 3年後には日米海軍の差が甚だしくなるから、
今のうちに米国をやっつけると言う者があるが、
米国は充分な力がないのにおめおめ我が海軍と決戦を交うると考うるのか。
また戦争が3年以内に終ると信ずるのか。

 日米開戦となったならば極めて長期の戦争を予期せねばならぬ。
米国は更に建艦速度を増し、
所望の実力が出来上るまでは決戦を避けるであろう。
自分に都合よいように理屈をつける事は危険千万である。


 我が財政の責任者は今次事変の直前まで、
年額2、30億の軍費さえ我が国の堪え難き所と信じていた。
然るに事変4年の経験はどうであるか。

 日本が真に八紘一宇の大理想を達成すべき使命を持っているならば
ソ連の陸軍、米の海軍に対抗する武力を建設し得る力量がある事は天意である。
これを疑うの余地がない。

 国防当局は断固として国家に要求すべし。
この迫力が昭和維新を進展せしむる原動力となる。
しかしてかくの如き厖大な兵器の生産は宜しく政治家、経済人に一任すべく、
軍部は直接これに干与することは却って迫力を失う事となる。

 国防国家とは
軍は軍事上の要求を国家に明示するが、
同時に作戦以外の事に心を労する必要なき状態であらねばならぬ。
全国民がその職分に応じ、国防のため全力を尽す如き組織であらねばならぬ。


 以上陸、海の武力に対する要求の外更に、

3 速やかに世界第一の精鋭なる空軍を建設せねばならない。

 これは一面、
将来の最終戦争に対する準備のため最も大切であるのみならず、
現在の国防上からも極めて切要である。

 ソ連が東亜に侵攻するためにはシベリヤ鉄道の長大な輸送を必要とするし、
また米国渡洋作戦の困難性は大である。
 
 即ち極東ソ領や、ヒリッピン等は
ソ、米のため軍事上の弱点を形成し彼らの頭痛の種となるのであるが、
その反面、ソ、米は我が国の中心を空襲し我が近海の交通を妨害するに便である。

 それに対し我が国は有利なる敵の政治、経済的空襲目標もなく、
敵国に対し、死命を制する圧迫を加える事はほとんど不可能に近い。

 即ち彼らは片手を以て我らと持久戦争を交え得るのに対し、
我らは常に全力を傾注せねばならぬ事となる。
持久戦争に非常な緊張を要する所以である。


 この見地から空軍の大発達により
我が軍も容易にニューヨーク、モスクワを空襲し得るに至るまで、
即ちその位の距離は殆んど問題でならなくなるまで、
極言すれば
最終戦争まではなるべく戦争を回避し得たならば甚だ結構であるのであるが、

そうも行かないから空軍だけは常に世界最優秀を目標として
持久戦争時代に於ける我らの国防的地位の不利な面を補わねばならない。


 ドイツ空軍は第二次欧州大戦の花形である。
時に海上に出て、時に陸上部隊に、水も洩らさぬ緊密な協同作戦をする。
真に羨ましい極みである。

 我が国の国防的状態はドイツと同一ではなく、
ただちにドイツの如くなり得ない点はあるであろうが、
極力合理的に空軍の建設を目標として着々事を進むると同時に、
航空が陸海軍に分属している間も一層密接なる陸海空軍の協同が要望せられる。

 この頃そのために各種の努力が払われているらしく誠に慶賀の至りに堪えない。
器材方面では既に密接な協力が行なわれているであろうし、
また運用についても不断の研究によって長短相補う如くせねばならぬ。

 例えば、東ソ連の航空基地は満州国境から何れも(西方は別として)余り遠くなく、
しかも極東には有利なる空爆目標に乏しいのであるから、
対ソ陸軍航空部隊は軽快で特に速度の大なるものが有利と考えられる。

 海軍は常に長距離に行動せねばならない。
かくの如き特長は互に尊重せらるべきだと信ずる。
海軍機が支那奥地の爆撃に成功したとて、
陸軍機がただちにこれに競争する必要はない。
陸海軍の真の航空全兵力を戦争の状態に応じ一分の隙もなく統一的に運用し、
陸海軍に分属していても
空軍の占める利益をも充分発揮し得る如く全部の努力が払われねばならない。
 恐らく今日はそうなっている事と信ずる。

 防空に関し最終戦争のために20年を目標として根本的対策を強行すべき事を主張したが、
今日はそれに関せず応急的手段を速やかに実行せねばならぬ。

 第一の問題は火災対策である。
木材耐火の研究に最大の力を払い、どしどし実行すべきである。
現に各種の方法が発見せられつつあるではないか。
消防につけても更に画期的進歩が必要である。

 またどうも高射砲等の防空兵器が不充分ではないか。
これには高射砲等の製作の会社を造り急速に生産能力を高めねばならぬ。

 総て兵器工業は民間事業を特に活用するを要するものと信ずる。
各種会社、工場等は自ら高射砲を備えしめては如何。
そうして応召の予定外の人にて取扱い者を定めて練習せしめ、
時に競技会でも行なえばただちに上達する事請合いである。

 弾丸だけは官憲で掌握しておれば心配はあるまい。
 有事の場合必要に応じてその配置の統制も出来る。
航空部隊を除く防空はなるべく民間の仕事とした方が良いのではあるまいか。


 しかし防空全般に関しては今日以上の統制が必要である。
防空総司令官を任命(成し得れば宮殿下)し、
これに防空に任ずる陸海軍部隊および地方官憲、民間団体等を総て統一指揮せしめる。


 持久戦争であるから上述の軍需品の他、
連盟の諸国家国民の生活安定の物資もとも
に東亜連盟の範囲内で自給自足し得る事が肝要である。

 即ち経済建設の目標は軍需、
民需を通じて、統一的に計画せられねばならない事は言うまでもない。


 アメリカでさえ総ての物資は自給自足をなし得ないのである。
最少限度の物資獲得の名に於て我らの力の現状を無視して
いたずらに外国との紛争を招く事は充分警戒を要する。

 戦争は最大の浪費である。
戦争とともに長期建設と言うも、言うは易く実行は至難である。


 ドイツの今日あるはあの貧弱なる国土、
恵まれざる資源に在ったとも言える。

 即ち被封鎖状態が彼らの科学を進歩せしめた。
資源もちろん重要であるが、
今日の文明は既に大抵の物は科学の力により生産し得るに至りつつある。

 資源以上に重要なるものは人の力であり、科学の力である。
日、満両国だけでも資源はすばらしく豊富にある。
殊にその地理的配置が宜しい。

 我らが科学の力を十二分に活用し、
全国力を綜合的に運用し得たならば、
必ずや近き将来断じて覇道主義に劣らざる力を獲得し得るであろう。


 鉄資源としては日本は砂鉄は世界無比豊富であり、
満州国の鉄はその埋蔵量莫大である。
精錬法も熔鉱炉を要しない高周波や
上島式の如き世界独特の方法が続々発明せられている。

 石炭は無尽蔵であり、
液化の方法についても福島県下に於て実験中の田崎式は必ず大成功をする事と信ずる。
その他幾多の方法が発明の途上にあるであろう。
熱河から陜西、四川にわたる地区は世界的油脈であると推定している有力者もあると聞く。
断固試掘すべきである。


 その他必要な資材は何れも必ず生産し得られる。
機械工業についても断じて悲観は無用である。
天才人を発見し、天才人を充分に活動せしむべきである。


 国家が生産目標を秘密にするのは一考を要する。
ソ連さえ発表して来た。
国民の統制完全であり、
戦争目的第一であるドイツは機密としたが、
日本の現状はむしろ勇敢に必要の数を公表し、
国民に如何に彪大な生産を要望せらるるかを明らかにすべきであると信ずる。

 国民の緊張、節約等は適切なるこの国家目標の明示により最もよく実現せらるるであろう。
今日のやり方は動ややもすれば百年の準備ありしマルクス流である。
理論や機構が第一の問題とせられる。
いたずらにそれらに遠慮してしかも気合のかからぬ根本原因をなしている。


 どんな事があっても必ず達成しなければならぬ生産目標を明示し、
各部門毎に最適任者を発見し、
全責任を負わしめて全関係者を精神的に動員して生産増加を強行する。

 政府は各部門等の関係を勇敢親切に律して行く。
そうすれば全日本は火の玉の如く動き出すであろう。
資本主義か国家社会主義か、そんな事は知らない。
どうでも宜しい、無理に資本主義の打倒を策せずとも、
資本主義がこの大生産に堪え得なければ自然に倒れるであろう。
時代の要求に合する方式が必ず生まれて来る。

 昭和維新のため、革新のための昭和維新ではない。
最終戦争に必勝の態勢を整うるための昭和維新である。
必勝せんとする国民、東亜諸民族の念力が自然裡に昭和維新を実行するのである。

 この意気、この熱意、
この建設は自然に世界無比の決戦兵器をも生み出す。
 即ち今日持久戦争に対する国防の確立が自然に将来戦争に対する準備となるのである。

 

第三節 満州国の責務

 ソ連が東亜連盟を侵す径路は3つある。
第一は満州国であり、
第二は外蒙方面より蒙疆地方への侵入、
第三は新疆方面である。

 その中で東亜連盟のため最も弱点をなすものは第三であり、
最も重要なるものは第一である。

 満州国の喪失は東亜連盟のためほとんど致命的と言える。
日華両国を分断しかつ両国の中心に迫る事となる。
満州国は東亜連盟対ソ国防の根拠地である。

 東亜連盟が直接新疆を防衛する事は至難であるが、
満州国のソ領沿海州に対する有利な位置は
在満州国の兵備が充実しておれば間接に新疆方面をも防衛することとなる。

 この大切な満州国の国防は、
日満議定書に依り日満両国軍隊共同これに当るのである。

 満州軍の建設には人知れざる甚大な努力が払われた。
これに従軍した人々の功績は満州建国史上に特筆せらるべきものである。

 しかるに満州軍に対する不信は今日なお時に耳にするところである。
たしかに満州軍は今日も背反者をすら出す事がある。
しかし深くその原因を探求すべきである。
満州軍の不安は実に満州国の不安を示しているのである。

 満州国内に於て民族協和の実が漸次現われ、
民心比較的安定した支那事変勃発頃の満州軍は、
恐らく最良の状態にあったものと思う。

 その後事変の進むに従い漢民族の心は安定を欠き、
一方大量の日系官吏の進出と経済統制による日本人の専断が、
民族協和を困惑する形となり、
統制経済による不安と相俟って民心が逐次不安となって来た。

 この影響はただちに治安の上に現われ、
満州軍の心理をも左右するのである。
満州軍は要は満州国の鏡とも見る事が出来る。


 支那事変に於ける漢民族の勇敢さを見ても、
満州国が真にその建国精神を守り、
正しく発展するならば満州軍は最も有力なる我らの友軍である。

 若し満州軍に不信ならば満州国人の心理に深く注意すべく、
自ら満州国の民心を把握していない事を覚らねばならぬ。


 満州国の民心安定を欠く時は共産党の工作が進展して来る。
非常に注意せねばならない。
これがため共産党の取締はもちろん大切であるが、更に大切なのは民心の安定である。

 元来漢民族は共産主義に対し、
日本人のように尖鋭な対抗意識を持たない。
防共ということはどうもピンと来ぬらしい。
彼らは共産主義は恐れていない。

 故に防共の第一義は民心を安定し、
安居楽業を与える事である。

 多くの漢人に対し
共産主義の害毒を日本人に対するように宣伝をしてもどうも余り響かないらしい。
共産主義が西洋覇道の最先端にある事を明らかにし、
国内で真に王道を行なえば共産軍は大して心配の必要なく、
民心真に安定すればスパイの防止も自然に出来る。

 民心が離れているのに日系警官や憲兵でスパイや謀略を防がんとしても至難である。

 満州国防衛の第一主義は民心の把握であり、
建国精神、即ち民族協和の実践である事を銘心せねばならぬ。

 かつて昭和12年秋、
関東軍参謀副長として着任、
皇帝に拝謁の際、
皇帝から「日系軍官」の名を無くして貰いたいとの御言葉を賜って深く感激したことがある。
これは今日も遺憾ながら実現せられていない。
私としては誠に御申訳ないと自責しているのである。

 複合民族の国家では各民族軍隊を造る事が正しいと信ずる。
即ち満州国では日本人は日満議定書に基づき、
日本軍隊に入って国防に当るのであるが、
それ以外の民族は各別に軍隊を編制すべきである。

 現に蒙古人は蒙古軍隊を造っているが、
朝鮮軍隊も編成すべきである(一部は実行せられているが、大々的に)。
回々(イスラム)軍隊も考えられる(これは朝鮮軍隊ほど切実の問題ではない)。

 軍隊は兵器を持って危険な存在だから、
言語や風俗を異にする民族の集合隊は適当と言えぬ。


 日本人が漢民族の軍隊に入って働くのを反対するものではない。
しかしそれは漢人の一員たる気持であらねばならぬ。
皇帝が日系軍官の名称を止めよと仰せられた御趣旨もここにあると拝察する。

 諸民族混住の国に於て官吏は日系、満系、朝鮮系等のあるは自然であるが、
軍隊は各民族軍隊を造るのであるから、
漢民族の軍隊の中に「日系軍官」なる名称の有せらるるは適当でない。

 

 田舎の満州人警察の中に少数の日系警官を入れて指導する考えらしいが、
この日系警官が満州国不安の一大原因となっているのは深く反省せねばならぬ。

 他民族の心理は内地から出稼ぎに来た人々に簡単に理解せられない。
警官には他民族の観察はほとんど不可能であり、
また満州人警官の取締りも適切を欠く。


 満州国内匪賊の討伐は実験の結果に依ると、
日本軍を用うるは決して適当でない。

 匪賊と良民の区別が困難であり、
各種の誤解を生じ治安を悪化する虞が大きい。

 満州国の治安は
実に満州軍が主として匪賊討伐にあたるようになってから急速に良くなったのである。
満州国内の治安は先ず主として満州軍これにあたり、
逐次警察に移し、
満州軍は国防軍に編制するようにすべきである。

 国兵法の採用により画期的進歩を期待したい。

 有事の日は、日本陸軍の主力は満州国を基地として作戦する事自明であるが、
その厖大な作戦資材、
特に弾薬、爆薬、燃料等は満州国で補給し得るようにせねばならない。
満州国経済建設はこれを目途としている事と信ぜられるが、
その急速なる成功を祈念する。

 
 糧秣その他作戦軍の給養を良好にするため北満の開発が大切であり、
北辺工作はその目的が多分に加味されている事は勿論である。

 しかし日本軍自体もこの点については更に更に明確な自覚を必要とする。
ソ連が五個師団増加せば我もまた5個師団、
10個師団を持って来れば我もまた10個師団を進めねばならない。
それには迅速に兵営等の建築が必要だが、
今日までの如き立派なものでは到底間に合わない。


 幸い青少年義勇軍の古賀氏の建築研究は着々進んでいるから、
これを採用すれば必ず軍の要求に合し得るものと信ずる。
浮世が恋しい人々は現役を去るが宜しい。
昭和維新のため、
東亜連盟結成のため、
満州国国防完成のため、
我らは率先古賀氏のような簡易な建築を自らの手で実行し、
自ら耕作しつつ訓練し、
北満経営の第一線に立たねばならぬ。

 新体制とか昭和維新とか絶叫しながら、
内地式生活から蝉脱出来ない帝国軍人は自ら深く反省せねばならぬ。

 我ら軍人自ら昭和維新の先駆でなければならぬ。
それがために自ら今日の国防に適合する軍隊に維新せねばならぬ。
北満無住の地は我らの極楽であり、
その極楽建設が昭和の軍人に課せられた任務である。

     (昭和十六年二月十二日)

                               - 完 -     

                   


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第七章 現在に於ける我が国防

2018-08-23 06:07:21 | 石原莞爾

『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明

    第七章 現在に於ける我が国防


 第一節 現時の国策

 速やかに東亜諸国家大同の実を挙げ、
その力を綜合的に運用して世界最終戦争に対する準備を整うるのが現在の国策であらねばならぬ。
明治維新の廃藩置県に当るべき政治目標は「東亜の大同」である。


 「東亜大同」はなるべく広い範囲が、
なるべく強く協同し、成し得れば一体化せらるる事が最も希望せらるるのであるが、
それはそう簡単には参らない。

 範囲は大アジアと書いても一つの空想、希望に過ぎない。
我が(我が国および友邦)実力が欧米覇道主義の暴力を制圧し得る範囲に求めねばならぬ。

 東亜連盟の現実性はそこにある。

 爾後東亜諸民族により時代精神が充分理解せられ、
かつ我が実力の増加に依り範囲は拡大せらるるのである。
協同の方式も最初は極めて緩やかなものから逐次強化せられる。

 即ち国家主義全盛時代にも言われた善隣とか友邦とかから東亜連盟となり、
次いで東亜連邦となり、
遂には全く一体化して東亜大国家とまで進展する事が予想せられる。


 近頃、東亜連盟は超国家的思想である。
 各国家の上に統制機関を設け、
その権力をもって連盟各国家を統制指揮するは怪しからぬ等との議論もあるようである。
かくの如きは全く時代の大勢を知らない旧式の思想である。

 一国だけで世界の大勢に伍して進み得る時代は過ぎ去った。
如何にして多くの国家、多くの民族を統制してその実力を発揮するかが問題である。
それゆえ統制はなるべく強化せられねばならぬ。


 日満両国間はその歴史的関係によって相当強度の統制が行なわれている。
見方によっては両国は連盟の域を脱して、
既に連邦的存在、ある点では大国家的存在とも言える。

 しかし日華両国は現に東亜未曽有の大戦争を交えている。
幸い近く平和が成立したところで急速に心からの協同は至難である。
無理は禁物である。
理解の進むに従って統制を強めて行かねばならない。

 最初は善隣友好の範囲を遠く出づる事は適当であるまい。
覇道主義者は力をもって先ず条約的に権益ないし両国の権利義務を決定しようとするに反し、
我らの王道主義者は先ず心からの理解を第一とせねばならない。
法的問題は理解の後に続行すべきである。

 そこで「東亜連盟」論では、
今日はほとんど統制機関を設けようとしていないのである。


 しかしそれは決して理想的状態でない。
理解の進むに従い適切に敏活なる協同に要する統制機関を設置すべきである。


 「最終戦論」には
「天皇が東亜諸民族から盟主と仰がるる日、
 即ち東亜連盟が真に完成した日であります」と述べている。
その頃になれば連盟の統制機関も相当に準備せられているであろう。

 元来東亜連盟の完成した日は、
即ち連邦となる日と言うべきである。
あるいは物判りの良い東亜諸民族が、真に王道に依って結ばれ、
王道の道統的血統的護持者であらせらるる天皇に対し奉る信仰に到達したならば、
連邦等は飛越えて大国家に一挙飛躍するのではないだろうか。
そんな風になれば今日までの科学文明の立ち遅れ等は容易に償い得るであろう。


 満州建国間もなく、
民族協和徹底のためには東亜新秩序成立の必要が痛感せられ、
東亜連邦、東亜連盟が唱道せられたが、
日満間は兎に角、
日華間には連邦への飛躍は到底期待し難いので東亜連盟論が自然に採用せられ、
昭和8年3月9日協和会の声明となった。

 私は昭和7年8月満州国を去りこの協和会の声明は知らないでいたが、
昭和8年6月某参謀本部部員から
「石原は海軍論者なりという上官多し、意見を書いてくれ」と要求せられた。
 当時私は対米戦争計画の必要を唱えていたからであろう。

 それで筆を執った「軍事上より見たる皇国の国策並国防計画要綱」なる私見には、

一、皇国とアングロサクソンとの決勝戦は世界文明統一のため、
  人類最後最大の戦争にしてその時期は必ずしも遠き将来にあらず。

二、右戦争の準備として目下の国策は先ず東亜連盟を完成するに在り。

三、東亜連盟の範囲は軍事経済両方面よりの研究に依り決定するを要す。
  人口問題等の解決はこれを南洋特に濠州に求むるを要するも、
  現今の急務は先ず東亜連盟の核心たる日満支三国協同の実を挙ぐるに在り。

と言うている。

 この文は印刷せられ次長以下各部長等に呈上せられた筈である。
恐らく上官が東亜連盟の文字を見られた最初であろう。


 協和会の公式声明を知らなかった私はその後の満州国、北支の状況上、
東亜連盟を公然強調する勇気を失っていたが、
昭和13年夏病気のため辞表を提出した際、
上官から辞表は大臣に取次ぐから休暇をとって帰国するよう命ぜられたので軽率な私は予備役編入と信じ、
9月1日大洗海岸で暴風雨を聴きながら「昭和維新方略」なる短文を草し、
満州建国以来同志の主張に基づき東亜連盟の結成を昭和維新の中核問題としたのである。

 
 しかるに同年9月15日の満州国承認記念日に、
陸相板垣中将がその講演に東亜連盟の名称を用いられた。

 更に次いで発表せられたいわゆる近衛声明は東亜連盟の思想と内容相通ずるものがある。
実は私は板垣中将が関東軍参謀長時代から東亜連盟は断念しているだろうと独断していたのであったから、
これには相当驚かされたのであった。

 爾後板垣中将は宮崎正義氏の「東亜連盟論」や、
杉浦晴男氏の「東亜連盟建設綱領」に題字を贈り、
かつ近衛声明は東亜連盟の線に沿うたのである事を発表せられた。

 昭和15年天長の佳辰に発せられた総軍司令部の「派遣軍将兵に告ぐ」には、
事変の解決のため満州建国の精神を想起せしめ、
道義東亜連盟の結成に在る事を強調せられた。

 これに誘致せられて中国各地に東亜連盟運動起り、
11月24日南京に於ける東亜連盟中国同志会の結成となり、
昭和16年2月1日東亜連盟中国総会の発会式となった。

 日本に於ては昭和14年秋東亜連盟協会なるもの成立、
機関紙「東亜連盟」を発行、
翌15年春から運動が開始せられた。

 在来の東亜問題に関する諸団体は大体活発に活動を見ないのにこの協会だけは急速な進展を見、
中国東亜連盟運動発展の一動機となったのである。

 東亜連盟の内容については日華両国の間に未だ完全な一致を見ていないようである。

 日本が国防の共同というのに中国は軍事同盟、
経済一体化に対して経済提携と言うているし、
日本が国防の共同、経済の一体化を特に重視しているのに
中国は政治独立に特別な関心が見える。

 しかしこれらは両国の事情上当然の事と言うべきである。
将来は逐次具体的に強調して来るであろう。



 兎に角東亜連盟の両国運動者には
既に同志的気持が成立している事は民国革命初期以来数十年ぶりの現象である。
感慨深からざるを得ない。

 東亜連盟運動が正しく強く生長、
東亜大同の堅確なる第一歩に入る事を祈念して止まない。



【続く】 
『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第七章 現在に於ける我が国防 第二節~第三節

 


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第五章 戦争参加兵力の増加と国軍編制(軍制)

2018-08-21 09:18:06 | 石原莞爾


  石原莞爾『戦争史大観』
  第三篇 戦争史大観の説明
 

    第五章 戦争参加兵力の増加と国軍編制(軍制) 


第一節 兵役

 火器の使用に依って新しい戦術が生まれて来た文芸復興の時代は小邦連立の状態であり、
平常から軍隊を養う事は困難で有事の場合兵隊を傭って来る有様であったが、
国家の力が増大するにつれ自ら常備の傭兵軍を保有する事となった。

 その兵数も逐次増加して、
傭兵時代の末期フリードリヒ大王は人口400万に満たないのに十数万の大軍を常備したのである。
そのため財政的負担は甚大であった。


 フランス革命は更に多くの軍隊を要求し、
貧困なるフランスは先ず国民皆兵を断行し、
欧州大陸の諸強国は次第にこれに倣う事となった。

 最初はその人員も多くなかったが、
国際情勢の緊迫、軍事の進歩に依って兵力が増加せられ、
第一次欧州大戦で既に全健康男子が兵役に服する有様となった。

 第二次欧州大戦では大陸軍国ソ連が局外に立ち、
フランスまた昔日の面目がなくなり、
かつ陸上作戦は第一次欧州大戦のように大規模でなかったため第一次欧州大戦だけの大軍は戦っていないが、
必要に応じ全健康男子銃を執る準備も列強には常に出来ている。


 日本は極東の一角に位置を占め、
対抗すべき陸軍武力は一本のシベリヤ鉄道により長距離を輸送されるソ連軍に過ぎないために
服役を免れる男子が多かった。

 ソ連極東兵備の大増強、支那事変の進展により、
徴集兵数は急速に大増加を来たし、国民皆兵の実を挙げつつある。

 兵役法はこれに従って相当根本的な改革が行なわれたが、
しかも更に徹底的に根本改正を要するものと信ずる。


 国家総動員は国民の力を最も合理的に綜合的に運用する事が第一の着眼である。
教育の根本的革新に依り国民の能力を最高度に発揮し得るようにするとともに、
国民はある期間国家に奉仕する制度を確立する。
 即ち公役に服せしむるのである。
兵役は公役中の最高度のものである。


 公役兵役につかしむるについては、
今日の徴兵検査では到底国民の能力を最も合理的に活用する事が出来ない。

 教育制度と検査制度を統一的に合理化し、
知能、体力、特長等を綜合的に調査し、
各人の能力を充分に発揮し得るごとく奉仕の方向を決定する。


 戦時に於ける動員は所要兵力を基礎として、ある年齢の男子を総て召集する。
その年齢内で従軍しない者は総て国家の必要なる仕事に従事せしめる。

 自由企業等はその年齢外の人々で総て負担し得るように
適切綿密なる計画を立てて置かねばならない。


 空軍の発達に依り都市の爆撃が行なわるる事となって損害を受くるのは軍人のみでなくなった。
 全健康男子総て従軍する事となった今日は既成の観念よりせば国民皆兵制度の徹底であるが、
既に世は次の時代である。
 全国民野火の禍中に入る端緒に入ったのである。

 次に来たるべき決戦戦争では作戦目標は軍隊でなく国民となり、
敵国の中心即ち首都や大都市、大工業地帯が選ばるる事が既に今次英独戦争で明らかとなっている。

 すなわち国民皆兵の真の徹底である。
老若男女のみならず、山川草木、豚も鶏も総て遠慮なく戦火の洗礼を受けるのである。
 全国民がこの惨禍に対し毅然として堪え忍ぶ鉄石の精神を必要とする。


 空中戦を主体とするこの戦争では、
地上戦争のように敵を攻撃する軍隊に多くの兵力が必要なくなるであろう。

 地上作戦の場合は無数の兵員を得るため国民皆兵で誰でも引張り出したのであるが、
今後の戦争では特にこれに適した少数の人々が義勇兵として採用せらるるようになるのではなかろうか。
イタリアの黒シャツ隊とかヒットラーの突撃隊等はその傾向を示したものと言える。


 義勇兵と言うのは今日まで用いられていた傭兵の別名ではない。
国民が総て統制的に訓練せられ、
全部公役に服し、更に奉公の精神に満ち、
真に水も洩らさぬ挙国一体の有様となった時武力戦に任ずる軍人は自他共に許す真の適任者であり、
義務と言う消極的な考えから義勇と言う更に積極的であり自発的である高度のものとなるべきである。 


第二節 国軍の編制

 フリードリヒ大王時代は兵力が相当多くても実際作戦に従事するものは案外少なくなり、
その作戦は「会戦序列」に依り編成された。
それが主将の下に統一して運動し戦闘するのであたかも今日の師団のような有様であった。

 ナポレオン時代は既に軍隊の単位は師団に編制せられていた。
次いで軍団が生まれ、それを軍に編制した。

 ナポレオン最大の兵力(約45万)を動かした1812年ロシヤ遠征の際の作戦は、
なるべく国境近く決戦を強行して不毛の地に侵入する不利を避くる事に根本着眼が置かれた。

 これは1806~7年のポーランドおよび東普作戦の苦い経験に基づくものであり、
当時として及ぶ限りの周到なる準備が為された。

 一部をワルソー方向に進めてロシヤの垂涎すいぜんの地である同地方に露軍を牽制し、
東普に集めた主力軍をもってこの敵の側背を衝き、
一挙に敵全軍を覆滅して和平を強制する方針であった。

 主力軍は2個の集団に開進した。
ナポレオンは最左翼の大集団を直接掌握し、同時に全軍の指揮官であった。  


 今日の常識よりせばナポレオンは三軍に編制して自らこれを統一指揮するのが当然である。
当時の通信連絡方法ではその三軍の統一運用は至難であったろう。
けれどもナポレオンといえども当時の慣習からそう一挙に離脱出来なかった事も考えられる。

 何れにせよ事実上三軍にわけながら、
その統一運用に不充分であった事がナポレオンが国境地方に於て若干の好機を失った一因となっており、
統一運用のためには国軍の編制が合理的でなかったという事は言えるわけである。


 モルトケ時代は既に国軍は数軍に編制せられ、
大本営の統一指揮下にあった。

 シュリーフェンに依り国軍の大増加と殲滅戦略の大徹底を来たしたのであるが、
依然国軍の編制はモルトケ時代を墨守し、
欧州大戦勃発初期、国境会戦等であたかも1812年ナポレオンの犯したと同じ不利を嘗めたのは興味深い事である。


 独第五軍は旋回軸となりベルダンに向い、
第四軍はこれに連繋して仏第四軍を衝き、
独主力軍の運動翼として第一ないし第三軍が仏第五軍及び英軍を包囲殲滅すべき態勢となった。


 第一ないし第三軍を一指揮官により統一運用したならばあるいは国境会戦に更に徹底せる勝利となり、
仏第五軍、少なくも英軍を捕捉し得たかも知れぬ。

 そう成ったならマルヌ会戦のため更に有利の形勢で戦わるる事であったろう。

 しかるに独大本営は自らこの戦場に進出し直接三軍を指揮統一することもなさず、
第二軍司令官をして臨時三個軍を指揮せしめた。

 しかるに第二軍司令官ビューローは古参者であり皇帝の信任も篤い紳士的将軍であったが機略を欠き、
活気ある第一軍との意見合致せず、
いたずらに安全第一主義のために三軍を近く接近して作戦せんとし、
遂に好機を失し敵を逸したのである。


 ナポレオンの1812年の軍編制や運営につき深刻な研究をしていた独軍参謀本部は、
1914年同じ失敗をしたのである。

 1812年はナポレオンとしては三軍の編成、その統一司令部の設置はかなり無理と言えるが、
1914年は正しく右翼三軍の統一司令部を置くべきであり、
万一置いてない時は大本営自ら第一線に進出、
最も大切の時期にこの三軍を直接統一指揮すべきであった。


 戦争の進むにつれて必要に迫られて方面軍の編成となったが、
若しドイツが会戦前第一ないし第三軍を一方面軍に編成してあったならば、
戦争の運命にも相当の影響を及ぼし得た事であったろう。


 現状に捉われず、
将来を予見した識見はなかなか得られない事を示すとともに、
その尊重すべきを深刻に教えるものと言うべきである。



【続き】 
石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第六章 将来戦争の予想 

 


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第四章 戦闘方法の進歩

2018-08-19 22:50:08 | 石原莞爾


  石原莞爾
『戦争史大観』
  第三篇 戦争史大観の説明 


   第四章 戦闘方法の進歩 

第一節 隊形

 古代の戦闘隊形は衝力を利用する密集集団方式であった。
 中世騎士の時代となって各個戦闘となり、戦術は紊みだれて軍事的にも暗黒時代となった。
 ルネッサンスは軍事的にも大革命を招来した。

 火薬の使用は武勇優れた武士も素町人の一撃に打負かさるる事となって歩兵の出現となり、
再び戦術の進歩を見るに至ったのである。


 火薬の効力は自然に古いにしえの集団を横広の隊形に変化せしめて横隊戦術の発達を見た。
 横隊戦術の不自然な停頓と、
フランス革命による散兵戦術への革新については詳しく述べたから省略する。


 一概に散兵戦術と云うも最初は散兵はむしろ補助で縦隊の突撃力が重点であった。
 それが火薬の進歩とともに散兵に重点が移って行った。

 それでもなおモルトケ時代は散兵の火力と密集隊の突撃力との併用が大体戦術の方式であった。
 それが更に進んで
「散兵をもって戦闘を開始し散兵をもって突撃する」時代にすすみ、
散兵戦術の発展の最後的段階に達したのがシュリーフェン時代から欧州大戦までの歴史である。


 第一次欧州大戦で決戦戦争から持久戦争へ変転をしたのであるが、
戦術もまた散兵から戦闘群に進歩した。

 フランス革命当時は、先ず戦術的に横隊戦術から散兵戦術に進歩し、
戦争性質変化の動機ともなったのであるが、
今度は先ず戦争の性質が変化し、
戦術の進歩はむしろそれに遅れて行なわれた。

 最初戦線の正面は堅固で突破が出来ず、
持久戦争への方向をとるに至ったのであるが、
その後砲兵力の集中により案外容易に突破が可能となった。

 しかし戦前逐次間隔を大きくしていた散兵の間隔は損害を避けるため更に大きくなり、
これは見方に依っては第一線を突破せらるる一理由ともなるが、
その反面第一線兵力の節約となり、
また全体としての国軍兵力の増加は、
限定せられた正面に対し使用し得る兵力の増大となり、
かくて兵力を数線に配置して敵の突破を防ぐ事となった。
いわゆる数線陣地である。


 しかし数線陣地の考えは兵力の逐次使用となって各個撃破を受くる事となるから、
自然に今日の面の戦法に進展したのである。

 欧州大戦に於ける詳しい戦術発展の研究をした事がないから断定をはばかるが、
私の気持では真に正しく面の戦法を意識的に大成したのは
大戦終了後のソ連邦ではないだろうか。


 大正3年8月の偕行社記事の附録に「兵力節約案」というものが出ている。
 曽田中将の執筆でないか、と想像する。

 それは主として警戒等の目的である。
一個小隊ないし一分隊の兵力を距離間隔600メートルを間して鱗形に配置し、
各独立閉鎖堡とする。

 火力の相互援助協力に依り防禦力を発揮せんとするもので、
面の戦法の精神を遺憾なく発揮しているものであり、
これが世界に於ける恐らく最初の意見ではないだろうか。

 果して然りとせば
今日までほとんど独創的意見を見ない
我が軍事界のため一つの誇りと言うべきである。


 古代の密集集団は点と見る事が出来、
横隊は実線と見、
散兵は点線即ち両戦術は線の戦法であり、
今日の戦闘群戦術は面の戦法である。
而してこの戦法もまた近く体の戦法に進展するであろう。


 否、今日既に体の戦法に移りつつある。
 第二次欧州大戦でも依然決戦は地上で行なわれ、
空中戦はなお補助戦法の域を脱し得ないが、
体の戦法への進展過程であることは疑いを容れない。

 線の戦法の時でも砲兵の採用は既に面の戦法への進展である。
 総ての革新変化は決して突如起るものではない。
もちろんある時は大変化が起り「革命」と称せられるけれども、
その時でさえよく観察すれば
人の意識しない間に底流は常に大きな動きを為しているのである。


 ソ連邦革命は人類歴史上未曽有の事が多い。
 特にマルクスの理論が百年近くも多数の学者によって研究発展し、
その理論は階級闘争として無数の犠牲を払いながら実験せられ、
革命の原理、方法間然するところ無きまでに細部の計画成立した後、
第一次欧州大戦を利用してツアー帝国を崩壊せしめ、
後に天才レーニンを指導者として実演したのである。
 第一線決戦主義の真に徹底せる模範と言わねばならぬ。


 しかし人智は儚はかないいものである。
 あれだけの準備計画があっても、やって見ると容易に思うように行かない。
詳しい事は研究した事もないから私には判らないが、
列国が放任して置いたらあの革命も不成功に終ったのではなかろうか。

 少なくもその恐れはあったろうと想像せられる。
 資本主義諸列強の攻撃がレーニンを救ったとも見る事が出来るのではないか。
資本主義国家の圧迫が、
レーニンをしていわゆる「国防国家建設」への明確な目標を与え大衆を掌握せしめた。


 もちろん「無産者独裁」が大衆を動かし得たる事は勿論であるが、
大衆生活の改善は簡単にうまく行かず、
大なる危機が幾度か襲来した事と思う。

 それを乗越え得たのは「祖国の急」に対する大衆の本能的衝動であった。
マルクス主義の理論が
自由主義の次に来たるべき全体主義の方向に合するものであり、

殊に民度の低いロシヤ民族には相当適合している事が
ソ連革命の一因をなしている事を否定するのではないが、

列強の圧迫とあらゆる困難矛盾に対し、
臨機応変の処理を断行した
レーニン、スターリンの政治的能力が今日のソ連を築き上げた現実の力である。

 第一線決戦主義で堂々開始せられた革命建設も結局第二線決戦的になったと見るべきである。


 ナチス革命は明瞭な第二線決戦主義である。
 ヒットラーの見当は偉い。
しかしヒットラーの直感は革命の根本方向を狙っただけで、
詳細な計画があったのではない。

 大目標を睨みながら大建設を強行して行くところに古き矛盾は解消されつつ進展した。
もちろん平時的な変革ではない。
たしかにナチス革命であるが大した破壊、犠牲無くして大きな変革が行なわれた。

 大観すればナチス革命はソ連革命に比し遥かに能率的であったと言える。
 この点は日本国民は見究めねばならない。


 第二次欧州大戦特に仏国の屈伏後はやや空気が変ったが、
国民が第一線決戦主義に対する憧憬余りに強くソ連の革命的方式を正しいものと信じ、
多くの革新論者はナチス革命は反動と称していたではないか。

 この気持が今日も依然清算し切れず
新体制運動を動ややもすれば観念的論議に停頓せしめる原因となっている。
 日米関係の切迫がなくば新体制の進展は困難かも知れない。


 蓋し、困難が国民を統一する最良の方法である。
 今日ルーズベルトが全体主義国の西大陸攻撃(とんでもない事だが)を餌として
国民を動員せんとしつつあるもその一例。
 リンドバーグ大佐がドイツより本土攻撃せられる恐れなしと証言せるは余りに当然の事、
これが特に重視せらるるは滑稽である。 


第二節 指揮単位

 「世界最終戦論」には方陣の指揮単位は大隊、
横隊は中隊、
散兵は小隊、
戦闘群は分隊と記してある。

 理屈はこの通りであり大勢はその線に沿って進歩して来たが、
現実の問題としてそう正確には行っていない。


 横隊戦術の実際の指揮は恐らく中隊長に重点があったのであろう。
 横隊では大隊を大隊長の号令で
一斉に進退せしむる事はほとんど不可能とも言うべきである。

 しかし当時の単位は依然として大隊であり、
傭兵の性格上極力大隊長の号令下にある動作を要求したのである。


 散兵戦の射撃はなかなか喧噪なもので、
その指揮すなわち前進や射撃の号令は中隊では先ず不可能と言って良い。

 特に散兵の間隔が増大し部隊の戦闘正面が拡大するにつれてその傾向はますます甚だしくなる。
 だから散兵戦術の指揮単位は小隊と云うのは正しい。

 しかしナポレオン時代は散兵よりも戦闘の決は縦隊突撃にあったのだから、
実際には未だ指揮単位は大隊であった。
 横隊戦術よりも正確に大隊の指揮号令が可能である。
散兵の価値進むに従い戦闘の重点が散兵に移り、
密集部隊も戦闘に加入するものは大隊の密集でなく中隊位となった。

 モルトケの欄(121頁付表第2)に、
散兵の下に「中隊縦隊」と記し、
指揮単位を「中隊」としたのはこの辺の事情を現わしたのである。


 日露戦争当時は既に散兵戦術の最後的段階に入りつつあり、
小隊を指揮の単位とした。

 しかるに戦後の操典には射撃、運動の指揮を中隊長に回収したのであった。
 その理由は、
日露戦争の経験に依れば、
一年志願兵の将校では召集直後到底小隊の射撃等を正しく指揮する事困難であると云うのであった。

 若し真に日本軍が散兵戦闘を小隊長に委せかねるというならば、
日本民族はもう散兵戦術の時代には落伍者であると言う事を示すものといわねばならぬ。
もちろんそんな事はないのであるから、
この改革は日本人の心配性をあらわす一例と見る事が出来る。


 更に正確にいえば、
ドイツ模倣の一年志願兵制度が日本社会の実情に合しない結果であったのである。

 欧州大戦前のドイツで
中学校ギムナジュウムに入学するものは右翼または有産者即ち支配階級の子供であり、
小学校卒業者は中学校に転校の制度はなかったのである。

 即ち中学校以上の卒業者は自他ともに特権階級としていたので、
悪く言えば高慢、良く言えば剛健、
自ら指導者たるべき鍛錬に努力するとともに
平民出身の一般兵と同列に取扱わるる事を欲しないのである。

 そこに特権制度として一年志願兵制度が発達し、しかもその価値を発揮したのである。


 しかるに明治維新以後の日本社会は真に四民平等である。
 また近時自由主義思想は
高等教育を受けた人々に力強く作用して軍事を軽視する事甚だしかった。

 かくの如き状態に於て中学校以上を卒業したとて一般の兵は二年または三年在営するに対し、
僅か一年の在営期間で指揮官たるべき力量を得ないのは当然である。


 本次事変初期に於ても
一年志願兵出身の小隊長特に分隊長が指揮掌握に充分なる自信なく、
兵の統率にやや欠くる場合ありしを耳にしたのである。
これはその人の罪にあらずして制度の罪である。


 この経験とドイツ丸呑みよりの覚醒が自然今日の幹部候補生の制度となり、
面目を一新したのは喜びに堪えない。


 しかし未だ真に徹底したとは称し難い。
 学校教練終了を幹部候補生資格の条件とするのは主義として賛同出来ぬ。
 「文事ある者は必ず武備がある」のは特に日本国民たるの義務である。
  親の脛をかじりつつ、同年輩の青年が既に職業戦線に活躍しある間、
  学問を為し得る青年は一旦緩急ある際一般青年に比し
  遥かに大なる奉公の実を挙ぐるため武道教練に精進すべきは当然であり、
  国防国家の今日、旧時代の残滓とも見るべきかくの如き特権は速やかに撤廃すべきである。


 中等学校以上に入らざる青年にも、
青年学校の進歩等に依り優れたる指揮能力を有する者が尠すくなくない。

 また軍隊教育は平等教育を一抛し、
各兵の天分を充分に発揮せしめ、
特に優秀者の能力を最高度に発展せしむる事が必要であり、
これによって多数の指揮官を養成せねばならぬ。

 在営期間も最も有利に活用すべく、
幹部候補生の特別教育は極めて合理的であるが、
猥みだりに将校に任命するのは同意し難い。
 除隊当時の能力に応ずる階級を附与すべきである。



 序ついでに現役将校の養成制度について一言する。

 幼年学校生徒や士官候補生に特別の軍服を着せ、
士官候補生を別室に収容して兵と離隔し身の廻りを当番兵に為さしむる等も
貴族的教育の模倣の遺風である。

 速やかに一抛、兵と苦楽をともにせしめねばならぬ。
 率先垂範の美風は兵と全く同一生活の体験の中から生まれ出るべき筈である。


 将校を任命する時に将校団の銓衡会議と言うのがある。
 あれもドイツの制度の直訳である。
 ドイツでは昔その歴史に基づき将校団員は将校団で自ら補充したのである。

 その後時勢の進歩に従い士官候補生を募集試験により採用しなければならないようになったため、
ややもすれば将校団員の気に入らない身分の低い者が入隊する恐れがある。
 それを排斥する自衛的手段として、
将校団銓衡会議を採用したものと信ずる。
日本では全く空文で唯形式的に行なわるるに過ぎない。


 私は更に徹底して幹部を総て兵より採用する制度に至らしめたい。
 かくして現役、在郷を通じて一貫せる制度となるのである。


 世の中が自由主義であった時代、
幼年学校は陸軍として最も意味ある制度であったと言える。
 しかし今日以後全体主義の時代には、
国民教育、青年教育総て陸軍の幼年学校教育と軌を同じゅうするに至るべきである。

 即ち陸軍が幼年学校の必要を感じない時代の一日も速やかに到来する事を祈らねばならぬ。
 それが国防国家完成の時とも言える。
 そこで軍人を志すものは総て兵役につく。
 能力により現役幹部志願者は先ず下士官に任命せられる。
 これがため必要な学校はもちろん排斥しない。
 下士官中、将校たるべき者を適時選抜、士官学校に入校せしめて将校を任命する。


 今日「面」の戦闘に於ては指揮単位は分隊である。
 しかしてこの分隊の戦闘に於ては分隊が同時に単一な行動をなすのではない。

 ある組は射撃を主とし、
ある組はむしろ白兵突撃まで無益の損害を避けるため
地形を利用して潜入する等の動作を有利とする。

 操典は既に分隊を二分するを認めており、「組」が単位となる傾向にある。


 この趨勢から見て次の「体」の戦法ではいよいよ個人となるものと想像せられる。
 「体」の戦法とは戦闘法の大飛躍であり、
戦闘の中心が地上特に歩兵の戦闘から空中戦への革命であろう。


 空中戦としては作戦の目標は当然敵の首都、工業地帯等となる。
 そして爆撃機が戦闘力の中心となるものと判断せられ、
飛行機は大きくなる一方であり、
その編隊戦法の進歩と速度の増加により
戦闘機の将来を疑問視する傾向が一時相当有力であったのである。

 しかるに支那事変以来の経験によって戦闘機の価値は依然大なる事が判明した。

 今日の飛行機は莫大の燃料を要し、
その持つ量のため戦闘機の行動半径は大制限を受けるのだが、
将来動力の大革命に依り、
戦闘機の行動半径も大飛躍し、
敵目標に潰滅的打撃を与うるものは爆撃機であるが、
空中戦の優劣が戦争の運命を左右し、
依然戦闘機が空中戦の花として最も重要な位置を占むるのではないだろうか。 


第三節 戦闘指導精神

 横隊戦術の指導精神は当時の社会統制の原理であった「専制」である。
 専制君主の傭兵が横隊戦術に停頓せしめたのである。
 号令をかける時刀を抜き、
敬礼する時刀を前方に投出すのはこの時代の遺風と信ずる。

 精神上から言ってもまた実戦の必要から言っても、
号令をかける場合刀を抜く事は速やかに廃止する事を切望する。
 みだりに刀を抜き敵に狙撃せられた例が少なくない。
 そうすれば指揮刀なるものは自然必要なくなる。
 日本軍人が指揮刀を腰にするのはどうも私の気に入らない。
 今日刀を抜いて指揮するため危険予防上指揮刀を必要とするのである。


 フランス革命により本式に採用せらるるに至った散兵戦術の指導精神は、
フランス革命以来社会の指導原理となった「自由」である。

 横隊の窮屈なのに反し、散兵は自由に行動して各兵の最大能力を発揮する。
 各兵は大体自分に向った敵に対し自由に戦闘するのである。
 部隊の指揮単位に於てなるべく各隊長の自由を尊重するのである。

 大隊戦闘の本旨は「大隊の攻撃目標を示し、
第一線中隊をして共同動作」せしむるに在った。
 そうして大隊長はなるべく干渉を避けるのである。


 戦闘群の戦術となると形勢は更に変化して来た。
 敵は散兵の如く大体我に向き合ったものが我に対抗するのではない。
 広く分散している敵は互に相側防し合うように巧みに火網を構成しているから、
とんでもない方から射撃せられる。
散兵戦術のように大体我に向い合った敵を自由に攻撃さしたなら大変な混乱に陥る恐れがある。


 そこで否が応でも「統制」の必要が生じて来た。
 即ち指揮官ははっきり自分の意志を決定する。
 その目的に応じて、各隊に明確な任務を与え各隊間共同の基準をも明らかにする。
 しかも戦況の千変万化に応じ、適時適切にその意図を決定して明確な命令を下さねばならない。
 自由放任は断じてならぬ。


  昭和15年改正前の我が歩兵操典に大隊の指揮に対し、
大隊長の指揮につき
「大隊戦闘の本旨は諸般の戦況に応じ大隊長の的確かつ軽快なる指揮と
 各隊の適切なる協同とに依り大隊の戦闘力を遺憾なく統合発揮するにあり」と述べ(第480)

更に「……戦況の推移を洞察して適時各隊に新なる任務を附与し
   ……自己の意図の如く積極的に戦闘を指導す」(第504)と
指示している。


 この統制の戦術のためには次の事が必要である。

1、指揮官の優秀、およびそれを補佐する指揮機関の整備。
2、命令、報告、通報を迅速的確にする通信連絡機関。
3、各部隊、各兵の独断能力。


 3に示す如く、統制では各隊の独断は自由主義時代より更に必要である。
 いかに指揮官が優秀でも、千変万化の状況は全く散兵戦術時代とは比較にならぬ結果、
いちいち指揮官の指揮を待つ暇なく、また驚くべき有利な機会を捉うる可能性が高い。

 各兵も散兵に比しては正に数十倍の自由活動の余地があるのである。
 一兵まで戦術の根本義を解せねばならぬ。
 今日の訓練は単なる体力気力の鍛錬のみでなく、
兵の正しき理解の増進が一大問題である。

 我らの中少尉時代には戦術は将校の独占であった。

 第一次欧州大戦後は下士官に戦術の教育を要求せられたが、
今日は兵まで戦術を教うべきである。


 統制は各兵、各部隊に明確なる任務を与え、
かつその自由活動を容易かつ可能ならしむるため
無益の混乱を避けるため必要最少限の制限を与うる事である。
 即ち専制と自由を綜合開顕した高度の指導精神であらねばならぬ。


 近時のいわゆる統制は専制への後退ではないか。
 何か暴力的に画一的に命令する事が統制と心得ている人も少なくないようである。
 衆が迷っており、
 かつ事急で理解を与える余裕のない場合は躊躇なく強制的に命令せねばならない。

 それ以外の場合は指導者は常に衆心の向うところを察し、
大勢を達観して方針を確立して大衆に明確な目標を与え、
それを理解感激せしめた上に各自の任務を明確にし、
その任務達成のためには広汎な自由裁断が許され、
感激して自主的に活動せしめねばならない。

 恐れ戦き、遅疑、躊躇逡巡し、
消極的となり感激を失うならば自由主義に劣る結果となる。


 社会が全体主義へ革新せらるる秋とき、軍隊また大いに反省すべきものがある。

 軍隊は反自由主義的な存在である。
ために自由主義の時代は全く社会と遊離した存在となった。

 殊に集団生活、社会生活の経験に乏しい日本国民のため、
西洋流の兵営生活は驚くべき生活変化である。

 即ち全く生活様式の変った慣習の裡うちに叩き込まれ、
兵はその個性を失って軍隊の強烈な統制中の人となったのである。


 陸軍の先輩は非常にこの点に頭を悩まし、
明治41年12月軍隊内務書改正の折、
その綱領に
「服従は下級者の忠実なる義務心と崇高なる徳義心により、
 軍紀の必要を覚知したる観念に基づき、
 上官の正当なる命令、周到なる監督、およびその感化力と相俟って能くその目的を達し、
 衷心より出で形体に現われ、
 遂に弾丸雨飛の間に於て甘んじて身体を上官に致し、
 一意その指揮に従うものとす」
と示したのである。

 これ真に達見ではないか。
 全体主義社会統制の重要道徳たる服従の真義を捉えたのである。


 しかし軍隊は依然として旧態を脱し切れないで今日に及んでいる。
 今や社会は超スピードをもって全体主義へ目醒めつつある。
 青年学校特に青少年義勇軍の生活は軍隊生活に先行せんとしつつある。
 社会は軍隊と接近しつつある。

 軍隊はこの時代に於て軍隊生活の意義を正確に把握して
「国民生活訓練の道場」たる実を挙げねばならぬ。


 殊に隊内に私的制裁の行なわれているのは遺憾に堪えない。
 しかも単に形式的防圧ではならぬ。

 時代の精神に見覚め全体主義のために
如何に弱者をいたわることの重大なるかを痛感する
新鮮なる道義心に依らねばならぬ。


  東亜連盟結成の根本は民族問題にあり。
 民族協和は人を尊敬し弱者をいたわる道義心によって成立する。
 朝鮮、満州国、支那に於ける日本の困難は皆この道義心微かすかなる結果である。


 軍隊が正しき理解の下に私的制裁を消滅せしむる事は
日本民族昭和維新の新道徳確立の基礎作業ともなるのである。



【続く】
石原莞爾 『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第五章 戦争参加兵力の増加と国軍編制(軍制)

 


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第八節 第一次欧州大戦まで

2018-08-17 09:10:32 | 石原莞爾


  石原莞爾
『戦争史大観』
  第三篇 戦争史大観の説明


    第二章 戦争指導要領の変化

第七節 ナポレオンより第一次欧州大戦へ

 持久戦争では作戦目標が多く自然に土地となるが
(持久戦争でも殲滅戦略を企図する場合はもちろん軍隊)、
決戦戦争の特徴は殲滅戦略の徹底的運用であり、
作戦目標は敵の軍隊であり、敵軍の主力である。

 決戦戦争に於ては主義として戦略は政略より優先すると同じく、
戦略と戦術の利害一致しない時は、戦術に重点を置くのを原則とする。

 我らが中少尉時代は盛んにこの事を鼓吹せられたものである。

 フランス革命前に於ける用兵思想の克服戦が、
決戦戦争の末期まで継続せられていたわけである。
感慨深からざるを得ない。

 決戦戦争の進展は当然殲滅戦略の徹底で基礎をなす。
即ち敵軍主力の殲滅に最も重要なる作用をなす会戦が戦争の中心問題であり、
その会戦成果の増大に徹底する事が作戦上の最大目標である。

 会戦成果を大ならしむるためには敵を包囲殲滅する事が理想であり、
それがためモルトケ時代からは特に分進合撃が唱導せられた。

 会戦場に兵力を集結するのである。
即ち分進して軍隊の行動を容易にし、
会戦場にて兵力を集結し特に敵の包囲に便ならしめる。

 しかるにナポレオンは通常会戦前に兵力を集結するに勉めた。
もちろん常にそうではなかったので、
例えば1806年の晩秋戦、1807年アルレンスタインに向う前進、
及びフロイシュ、アイロウ附近の会戦、
1809年レーゲンスブルグ附近に於けるマッセナの使用、
1813年バウツェン会戦に於けるネーの使用等は
一部または有力なる部隊を会戦場に於て主力に合する事を計ったのである。

 しかしその場合もフロイシュ、アイロウでは各個戦闘を惹起して形勢不利となり、
またバウツェンでも統一的効果を挙げる事は出来なかった。

 それはナポレオン当時の軍隊は通信不完全で一々伝騎に依らなければならないし、
兵団の独立性も充分でなかった結果、
自然会戦前兵力集結主義としなければならなかったのである。

 モルトケ時代は既に電信採用せられ、
鉄道は作戦上最も有利な材料となり、
かつまた兵力増加、各兵団の独立作戦能力が大となったのみならず、
プロイセンの将校教育の成果挙り、
特に1810年創立した陸軍大学の力とモルトケ参謀総長自身の高級将校、
幕僚教育に依り戦略戦術の思想が自然に統一せらるるに至った結果、
分進合撃すなわち会戦地集結が作戦の要領として賞用せらるるに至った。

 しかしモルトケも必ずしも勇敢にこれを実行し得なかった事が多い。

 モルトケ元帥は1890年議会に於ける演説に於て
「将来戦は七年戦争または三十年戦争たる事無きにあらず」と述べている。

 しかし商工業の急激なる進歩は長期戦争は到底不可能と一般に信ぜられ、
また軍事の進歩も甚だしく1891年から1906年まで参謀総長であったシュリーフェンは
殲滅戦略の徹底に全力を傾注した。

 シュリーフェンの「カンネ」から若干抜粋して見る。
 「完全なる殲滅戦争が行なわれた。
  特に驚嘆に値するは本会戦が総ての理論に反し劣勢をもって勝利を得たる点にある。
  クラウゼウィッツは『敵に対し集中的効果は劣勢者の望み難きところである』と云っており、

 ナポレオンは
 『兵力劣勢なるものは、同時に敵の両翼を包囲すべからず』と云っている。
  然るにハンニバルは劣勢をもって集中的効果を挙げ、
  かつ単に敵の両翼のみならず更にその背後に向い迂回した」

 「カンネの根本形式に依れは
  横広なる戦線が正面狭小で通常縦深に配備せられた敵に向い前進するのである。
  張出せる両翼は敵の両側に向い旋回し、
  先遣せる騎兵は敵の背後に迫る。
  若し何らかの事情に依り翼が中央から分離する事があってもこれを中央に近接せしめた後、
  同時に包囲攻撃のため前進せしむる如き事なく、翼に近接最捷路を経て敵の側背に迫らねばならぬ」

 要するに平凡な捷利に満足することなく、
重大な危険を顧みず敵の両側を包囲し絶大な兵力を敵の背後に進めて
完全に敵全軍を捕捉殲滅せんとする「殲滅戦」への徹底である。


 彼はこの思想を全ドイツ軍に徹底するため熱狂的努力を払った。
彼の思想は決して堅実とは言われぬ。

 彼の著述した戦史研究等も全く主観的で歴史的事実に拘泥する事なく、
総てを自己の理想の表現のために枉(まげ)ておる有様である。

 危険を伴うものと言わねばならぬが、
速戦即決の徹底を要したドイツのため止むに止まれぬ彼の意気は真に壮とせねばならぬ。

 彼が臨終に於ける囈語(うわごと)
「吾人の右翼を強大ならしめよ!」であった。

 外国人の私も涙なくして読まれぬ心地がする。
タンネンベルグ会戦は彼の理想が高弟ルーデンドルフにより最もよく実行せられたのである。

 彼が参謀総長として最後の計画であった1905年の対仏作戦計画は彼の理想を最もよく現わしている。
ベルダン以東には真に僅少の兵力で満足して主力をオアーズ河以西に進め、
ラフェール、パリ間には10個軍団を向け、
パリは補充6個軍団で攻囲し、
更にその西南方地区より敵主力の背後に七個軍団を迂回して全仏軍を捕捉殲滅せんとするのである。
殲滅戦の徹底と見るべきである。

 

第八節 第一次欧州大戦

 ドイツで殲滅戦が盛んに唱道せられ、
決戦戦争への徹底を来たしている時、
日露戦争、南阿戦争は持久戦争の傾向を示したものであるが、
それらは皆殖民地戦争のためと簡単に片づけられた。

 もちろん土地の兵力に対する広大と交通の不便が
両戦争を持久戦争たらざるを得ざらしむる原因となったのであるが、
両戦争を詳細に観察すれば正面突破の至難が観破せられる。

 これは欧州大戦の持久戦争となる予報であったのだ。
ドイツはこの戦争の教訓に依り重砲の増加に努力した。
着眼は良かったが、まだまだ時勢の真相を把握するの明がなかった。

 第一次欧州大戦開始せられると、
殖民地戦争の経験に富むキチナー元帥は、戦争は3年以上もかかるように言うたのであるが、
一般の人々は誰もが戦争は最短期間に終るものと考え、
殊にドイツではクリスマスはベルリンでと信じ、
軍隊輸送列車には「パリ行」と兵士どもが落書したのである。

 しかるに破竹の勢いでパリの前面まで侵入したドイツ軍はマルヌ会戦に破れて後退、
戦線はスイスから北海に及んで交綏状態となり、
東方戦場また決戦に至らないで、
遂に万人の予想に反し4年半の持久戦争となった。

 1914年のモルトケ大将の作戦は1905年のシュリーフェン案に比べて余りに消極的のものであった。
即ちシュリーフェンが1軍団半、後備4旅団半、騎兵6師団しか用いなかったメッツ以東の地区に8軍団、
後備5旅団半、騎兵6師団を使用し、
ベルダン以西に用いた攻勢翼である第一ないし第四軍の兵力は合計約21軍団に過ぎない。
ドイツ軍の右翼がパリにすら達しなかったのは当然である。


 シュリーフェン引退後、
連合国側の軍備はどしどし増加するに反してドイツ側はなかなか思うように行かなかった。

 第一次欧州大戦前ドイツの政情は満州事変前の日本のそれに非常に似ていたのである。
世は自由主義政党の勢力強く、
参謀本部の要求はなかなか陸軍省の賛成が得られず
(しかも参謀本部の要求も世間の風潮に押されて誠に控え目であった)、
更に陸軍省と大蔵省、政府と議会の関係は甚だしく兵備を掣肘する。
 英国側の宣伝に完全に迷わされていた。

 日本知識階級は
開戦頃の同盟側の軍備は連合側より遥かに優越していたように思っていた人が多いようであるが、
実際は同盟側の167師団に対し連合側は234師団の優勢を占めていたのである。
同盟側の軍備拡張は露、仏のそれに遥かに及ばなかった。

 シュリーフェンの1912年私案は仏国側の兵力増加とその攻勢作戦
(1905年頃は仏国が守備に立つものとの判断である)を
予想して故に先んじてアントワープ、ナムールの隘路通過は期待し難く、
従って最初から敵翼の包囲は困難で一度敵線を突破するを必要と考え、
全正面に対し攻撃を加えるを必要(1905年案ロートリンゲン以東は守勢)とした。

 これがため兵力の大増加を必要とし、全既教育兵を動員し、
かつ師団の兵力を減ずるも兵団数を大増加すべしと主張した。
もちろん主力は徹底的に右翼に使用する。


 シュリーフェンは退職後も毎年作戦計画の私案を作り、
クリスマスには必ず参謀本部のクール将軍に送り届けたのである。
日本軍人もって如何となす。

 自由主義政治の大勢に押されていたドイツ陸軍も
モロッコ事件やバルカン戦争並びに仏露の軍備充実に刺戟せられて1911年以来若干の軍備拡張を行ない、
殊に1913年には参謀本部が平時兵力30万の増加を提案して11万7千の増加が議会を通過した。

 これらの軍拡が政治の掣肘を受けず果敢に行なわれたならば
マルヌ会戦はドイツの勝利であったろうとドイツ参謀本部の人々が常に口惜しがるところである。

 しかしドイツ軍部もこの頃は国防の根本に対する熱情が充分でなく、
ややもすれば行き詰まりの人事行政打開に重点を置いて軍拡を企図した形跡を見遁す事が出来ない。

 平時兵団の増加は固よりよろしいが、
応急のため更に大切なのはシュリーフェンの主張の通り
全既教育兵の完全動員に先ず重点を置かるべきであったと信ずる。

 モルトケ大将の作戦計画はシュリーフェン案を歪曲したものとして甚だしく攻撃せられる。
これはたしかに一理がある。

 若しシュリーフェンが当時まで参謀総長であったならば、
ドイツは第一次欧州大戦も決戦戦争を遂行して仏国を属し戦勝を得たかも知れない
(仏国撃破後英国を屈し得たか否かは別問題である)。
 しかしモルトケ案の後退には時代の勢いが作用していた事を見逃してはならない。

 1906年すなわちシュリーフェン引退の年、
換言すれば決戦戦争へ徹底の頂点に在ったとも見るべき年に
ドイツ参謀本部は経済参謀本部の設立を提議している。
無意識の中に持久戦争への予感が兆し始めておったのである。

 この事は人間社会の事象を考察するに非常な示唆を与えるものと信ずる。
特に注意を要するは、
作戦計画の当事者が最も早くこれを感知した事である。

 言論界、殊に軍事界に於て
経済的動員準備の必要が唱道せらるるに至ったのは遅れて1912年頃からである。
しかしそれも固より大勢を動かすに至らず、
財政的準備以外は何ら見るべきものが無かった。

 「1914年7月初旬、内務次官フォン・デルブリュックは当時ロッテルダムに多量の穀物が在ったため、
 急遽ドイツ帝国穀物貯蓄倉庫を創設せんとした。
 しかしながらこれには500万マルクを必要とし、大蔵大臣はこれを支出する事を肯がえんじなかった。

 大蔵大臣はデルブリュックに書簡をもってこの由を申し送った。
 曰いわく
『吾人は決して戦争に至らしめないであろう。
 若し余が貴下に五百万マルクの支出を承諾するならば、
 穀物を国庫の損失補償の下に売却すると同じである。
 これは既に困難なる1915年度の予算編成を更に一層困難ならしむるであろう』 と。

 結局資金は支出されず、予算編成は滞りなく済み、
75万人のドイツ人は飢餓のため死亡した!」
(アントン・チシュカ著『発明家は封鎖を破る』 34~5頁)

 モルトケ大将はモルトケ元帥の甥で永くその副官を勤め、
陸軍大学出身でなく参謀本部の勤務も甚だ短かった。

 参謀総長になったのはカイゼルとの個人関係が主であったらしい。
シュリーフェンの弟子ではない。
これがかえってモルトケをして時代性を参謀本部の人々よりも敏感に感受せしめたらしい。

 シュリーフェンの計画はベルギーだけでなく
オランダの中立をも躊躇する事なく蹂躙するものであった。

 私がドイツ留学中少し欧州戦史の研究を志し、
北野中将(当時大尉)と共同して戦史課のオットー中佐の講義を聴くことにした。
同中佐は最初陸大で学生にでも講義する要領で問題等を出して来たが、
つまらないのでこちらから研究問題を出して相当に苦しめてやった。

 ある日シュリーフェンはオランダの中立を犯す決心であったろうと問うたところ、
何故かと謂うから色々理由を述べ、
特に戦史課長フェルスター中佐の著書等にシュリーフェンがアントワープ、ナムールの隘路を頻りに苦慮するが、
それより前にリェージュ、ナムールの大隘路があるではないか、
それを問題にしないのはオランダの中立侵犯の証拠であると詰(なじ)り、
フェルスター課長に聞いて来るように要求した。

 ところで次回にオットー中佐は契約書にサインを求めるから読んで見ると
「貴官と戦史を研究するがドイツの秘密をあばく事等をしない」と云うような事が書いてあった。

 オットー中佐はその知人に「日本人は手強い」とこぼしていたそうである。

 フェルスター中佐の名著『シュリーフェンと世界戦争』の第二版に
マース川渡河強行のことを挿入した(41頁)のはこの結果らしい。
今でも愉快な思い出である。

 フェルスター氏は更にその後アルゲマイネ・ツァイツングに
 「シュリーフェン伯はオランダも暴力により圧伏せんと欲したりや」という論文を出した。

 結局オランダを蹂躙するのではなく、オランダと諒解の上と釈明せんとするのである。

 ところが1922年モルトケ大将の細君が
モルトケ大将の『思い出、書簡、公文書』を出版しているのを発見した。

 それを読んで見ると1914年11月の「観察および思い出」に
「……シュリーフェン伯は独軍の右翼をもって南オランダを通過せんとした。
 私はオランダを敵側に立たしむる事を好まず、
 むしろ我が軍の右翼をアーヘンとリンブルグ州の南端の間の狭小なる地区を
 強行通過する技術上の大困難を甘受する事とした。

 この行動を可能ならしむるためにはリュッチヒ(リエージュ)を
 なるべく速やかに領有せねばならない。
 そこでこの要塞を奇襲により攻略する計画が成立した」と記している。


 オランダの中立を侵犯しないとせば独軍の主力軍がマース左岸に進出するのに
オランダ国境からナムール要塞の約70キロを通過せねばならず、
この間にフイの止阻堡とベルギーの難攻不落と称するリエージュの要塞がある。

 リエージュは欧州大戦で比較的簡単に
 (それもこの計画の責任者とも云うべきルーデンドルフが
  偶然この攻撃に参加した事が有力な原因である)陥落したため、
世人は軽く考えているが、
モルトケとしては国軍主力のマース左岸への進出に、
今日我らの考え及ばぬ大煩悶をしたのを充分察してやらねばならぬ。

 敵は既にアルザス・ロートリンゲンに対し攻撃を企図している事は大体諜報で正確だと信ぜられて来た。
ところがロートリンゲンのザール鉱工業地帯のドイツ産業に対する価値は非常に高まっている。
もちろん決戦戦争に徹し得れば、
一時これを犠牲とするも忍ばねばならないとの断定をなし得るのであるが、
持久戦争への予感のあったモルトケとしてはこれも忍びない。

 そこでモルトケ大将は、
敵の攻撃に対しメッツ要塞を利用し、
いわゆるニードの「袋わな」に敵を誘致して一撃を与え、
主力はマース右翼の敵の背後に迫るような作戦を希望したものらしい。

 ある年の参謀旅行で、
敵がロートリンゲンに突進して来るのに、
作戦計画の如く主力をマース左岸に進めんとする専習員の案に対し、
モルトケは
「その必要はない。マース右岸の地区を敵の側背に迫るべきだ」と
講評したとの事である。

 しかし無力なモルトケが、
断然シュリーフェン伝統の大迂回作戦を断念する勇気はあり得ない。
参謀本部の空気がそれを許すべくもない。
また実際モルトケもそこまで徹底した識見は無かったであろう。

 永年の伝統に捉われない自由さから、
他の人々より持久戦争に対する予感は強かったのだが、
さりとて次の時代を明確に把握する事も出来なかったろう。

 モルトケを特に凡庸の人というのではない。
ナポレオンの如く、ヒットラーの如く
特に幾億人の一人と云われる優れた人でなければ無理な事である。


 1914年8月18日頃のモルトケの煩悶はこの辺の事情を見透せば自ら解るではないか。
敵は予期した通りロートリンゲンに侵入して来た。
しかしその態度が慎重でどうもニードの「袋わな」にかかるかどうか。

 リエージュはその間に陥落する。
集中は予定通り出来る。
敵の攻勢を待とうか、待ちたいが集中は終る。
大迂回作戦を躊躇する事は全体の空気が許さないと云うような彼の心境であったろう。


 不徹底なる計画、不徹底なる指揮は遂にマルヌ会戦の結果となった。
しかし事ここに至ったのは一人のモルトケを責める事は少々無理である事が判ったであろう。
時の勢いと見ねばならぬ。

 モルトケ大将はマルヌに敗れて失脚し、
陸相ファルケンハインが参謀総長を兼ねる事になった。
彼は軍団長の経験すらなき新参者で大抜擢である。

 ファルケンハインは西方に於て頽勢の挽回に努力したが遂に成功しなかった。

 ルーデンドルフ一党からは1914年、特に1915年ルーデンドルフ等の東方に於ける成功に乗じ、
彼らの献策を入れて敢然東方に兵力を転用しなかった事を攻撃せられる。

 彼らの云う如くせば、露国に一大打撃を与え戦争全般の指導に好結果をもたらしたであろう。

 しかし広大なる地域を有する露国に決戦戦争を強いる事は、
当時恐らく困難であったろうと判断せられる。


 ファルケンハインの失脚に依りヒンデンブルク、ルーデンドルフの世の中となった。
ドイツの軍事的成功は偉大なものがあったが、
経済的困難の増加に伴い全般の形勢は逐次ドイツに不利となりつつあった。

 ドイツとしては軍事的成功を活用し、
米国大統領の無併合、無賠償の主義を基礎として断固和平すべきであった。

 政略関係は総て和平を欲していたのにルーデンドルフは
欧州大戦はクラウゼウィッツの「理念の戦争」であり
連合国は同盟国を殲滅せざれば止まないのだから、
この戦争に於ける統帥は絶対に政治の掣肘を受くべきにあらずとして政戦略の不一致を増大し、
「こうなった以上は最後まで」と頑張って遂にあの惨敗となったのである。

 ルーデンドルフ一党はデルブリュックの言う如く
戦争の本質に対する明確な見解を持たなかったのである。

 即ちナポレオン以後は決戦戦争が戦争の唯一のものであると断定して、
彼らが既に持久戦争を行ないつつある事を悟り得なかったのである。

 しかしあのドイツの惨敗、
あの惨忍極まるベルサイユ条約の強制が、
今日ナチス・ドイツの生まれる原動力をなした事を思えば
生半可の平和より彼らのいわゆる「英雄的闘争」に徹底した事が正しかったとも云えるのである。
天意はなかなか人智をもっては測り難いものである。

 ルーデンドルフは潜水艇戦術その他彼の諸計画は皆殲滅戦略に基づくものだと主張している。
殲滅戦略、消耗戦略問題でデルブリュック教授と頻りに論争したのであるが、
特にルーデンドルフは両戦略の定義につき曖昧である。

 政治の干渉を排して無制限の潜水艇戦を強行したから殲滅戦略だと言うらしいが、
我らの考えならば潜水艦戦は厳格な意味に於て殲滅戦略とは言い難い。

 露国の崩壊によって19918年西方に大攻勢を試みた
ルーデンドルフは、これを殲滅戦略の断行と疾呼する。

 その軍事行為の一節を殲滅戦略と云い得るにせよ、
ルーデンドルフにはあの戦略を最後まで徹底して実行し、
大陸の敵主力を攻撃し、
少なくも仏国に決戦戦争を強制せんとする決意ではなかったのである。

 即ち、持久戦争中の一節として殲滅戦略を行なったに過ぎない。
フリードリヒ大王が持久戦争の末期に困難を打開せんとして断行したトルゴウ会戦と類を同じゅうする。

 ルーデンドルフが1918年の3月攻勢の攻勢方面につき、
クール大将の提案であるフランデルン攻勢とサンカンタン攻勢を比較するに当り、
戦略上から云えば前者を有利と認めている。

 しかるにサンカンタン案をとったのは専ら戦術上の要求に依ると称している。

 真に仏国に決戦を強いんとするならばサンカンタン附近を突破し、
英仏軍を中断して運動戦に導き、
敵主力を破る事が戦略上最も有利とする事は云うまでもない。

 しかるにルーデンドルフは当時の独軍は既にかくの如き運動性を欠くと判断し、
英軍を撃破して英仏海峡沿岸を占領するのが敵の抵抗を断念せしむる公算が大きいから、
フランデルン攻勢は戦略上有利と主張したのである。

 ルーデンドルフは現実に決戦戦争は行なえぬものと考えていたのである。

 3月攻勢の目標は英軍を撃破して英仏海峡に突進するにあった。
それで仏軍に対しては攻勢の進展に伴いソンムの線を確保して左側を完全にする考えであった。

 しかるに攻勢初期は予期以上に好結果を得たので、
ルーデンドルフは何時の間にやら最初の目標を変えてソンム南岸に兵を進め、
更に大規模な作戦に転じようとしたのである。
しかしながらこの攻勢は遂に頓挫してしまった。

 彼は後に、攻勢頓挫につき「運動戦に到達することが出来なかった」と云うておる。

 結局彼は英仏海峡にも達し得ず、
大規模の運動戦にも転じ得ず、
かえって新しき占領地区の左翼方面に不安を来たしたのである。

 再度言うが、
ドイツ軍事界の戦争の性質に関する見解の固定が、
開戦前に予期したと全く異なった戦争状態になってもなおそれらを悟り得なかった事が、
1918年攻勢の指導にまで重大な影響を与えたのである。

 かくてドイツは統帥部の「こうなった以上は徹底的に」と云う主張に引きずられ、
軍部も実は自信を失い政治はもちろん信念はなかったに拘らず、
遂に行く所まで行ってベルサイユの屈辱となったのである。

 万人の予期に反して4カ年半の持久戦争となったその第一原因は兵器の進歩である。
機関銃の威力は甚だ大きく、特に防禦に有利である。
堅固に陣地を占め、決意して防禦する敵を突破する事は至難である。
これに加うるに兵力の増大が遂に戦線は海から海におよび迂回を不可能にした。
突破も出来なければ迂回も不可能で、
遂に持久戦争になったのである。

 これはフランス革命で持久戦争から決戦戦争になったのとは状態を異にしている。

 即ちフリードリヒ大王の使った兵器も、
ナポレオンの使用したものもほとんど同一であったのであるが、
社会革命が軍隊の本質を変化し、
在来の消耗戦略を清算し得た事が決戦戦争への変転を来たしたのであった。



【続く】 
『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第九節 第二次欧州大戦

 

 


『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第六節 ナポレオンの戦争

2018-08-16 16:45:46 | 石原莞爾


 石原莞爾 『戦争史大観』 
 第三篇 戦争史大観の説明


   第二章 戦争指導要領の変化


六節 ナポレオンの戦争

 フリードリヒ大王の時代よりナポレオンの時代へ


1、持久戦争より決戦戦争へ

   18世紀末軍事界の趨勢。

 七年戦争後のフリードリヒ大王の軍事思想はますます機動主義に傾いて来た。
一般軍事界はもちろんである。

 1771年出版せられたフェッシュの
『用兵術の原則および原理』には
「将官たる者は決して強制せられて会戦を行なうようなことがあってはならぬ。
  自ら会戦を行なう決心をした場合はなるべく人命を損せざる事に注意すべし」とあり、

 1776年のチールケ大尉の著書には
「学問に依りて道徳が向上せらるる如くまた学問に依り戦術は発達を遂げ、
  将軍はその識見と確信を増大して会戦はますますその数を減じ、
  結局戦争が稀となるであろう」と論じている。


 仏国の有名な軍事著述家でフリードリヒ大王の殊遇を受け、
1773年には機動演習の陪観をも許されたGuibertは1789年の著述に「大戦争は今後起らぬであろう。
もはや会戦を見ることはないであろう」と記している。

 七年戦争につき有名な著述をした英人ロイドは1780年
「賢明なる将軍は不確実なる会戦を試みる前に
 常に地形、陣地、陣営および行軍に関する軍事学をもって自己の処置の基礎とする。
 この理を解するものは軍事上の企図を幾何学的の厳密をもって着手し、
 かつ敵を撃破する必要に迫らるる事無く戦争を実行し得るのである」と論じている。

 機動主義の法則を発見するを目的として地理学研究盛んとなり
鎖鑰さやく、基線、作戦線等はこの頃に生れた名称であり、
軍事学の書籍がある叢書の中の数学の部門に収めらるるに至った。


 ハインリヒ・フォン・ビューローは
「作戦の目的は敵軍に在らずしてその倉庫である。
 何となれば倉庫は心臓で、
  これを破れば多数人の集合体である軍隊の破滅を来たすからである」と断定し、
戦闘についても歩兵は唯射撃するのみ、射撃が万事を決する、
精神上の事は最早大問題でないと称し、
「現に子供がよく巨人を射殺することが出来る」と述べている。

 かくて軍事界は全く形式化し、
ある軍事学者は歩兵の歩度を一分間に75歩とすべきや76歩とすべきやを一大事として研究し
「高地が大隊を防御するや。大隊が高地を防御するや」は
当時重大なる戦術問題として議論せられたのである。


 2、フランス革命に依る軍事上の変化

  「最も暗き時は最も暁あかつきに近き時なり」と言ったフリードリヒ大王は1786年この世を去り、
後三年1789年フランス革命が勃発したのである。

 革命は先ず軍隊の性質を変ぜしめ、
これに依って戦術の大変化を来たし遂に戦略の革命となって新しき戦争の時代となった。


 3、新軍の建設

 革命後間もなく徴兵の意見が出たが専制的であるとて排斥せられた。
しかし列強の攻撃を受け戦況不利になったフランスは1793年徴兵制度を採用する事となった。
しかもこれがためには一度は八十三州中六十余州の反抗を受けたのであった。

 徴兵制度に依って多数の兵員を得たのみでなく、
自由平等の理想と愛国の血に燃えた青年に依って
質に於ても全く旧国家の思い及ばざる軍隊を編制する事が出来た。


 新戦術

 革命軍隊も最初はもちろん従来の隊形を以て行動しようとしたのであるが、
横隊の運動や一斉射撃のため調練不充分で自然に止むなく縦隊となり、
これに射撃力を与えるため選抜兵の一部を散兵として前および側方を前進せしむる事とした。
即ち散兵と縦隊の併用である。

 散兵や縦隊は決して新しいものではない。
墺国の軽歩兵(忠誠の念篤いウンガルン兵等である)はフリードリヒ大王を非常に苦しめたのであり、
また米国独立戦争には独立自由の精神で奮起した米人が巧みにこれを利用した。


 しかし軍事界は戦闘に於ける精神的躱避たひが大きいため
単独射撃は一斉射撃に及ばぬものとしていた。


 縦隊は運動性に富みかつ衝突力が大きいためこれを利用しようとの考えあり、
現に七年戦争でも使用せられた事があり、
その後革命まで横隊、縦隊の利害は戦術上の重大問題として盛んに論争せられたが、
大体に於て横隊説が優勢であった。

  1791年仏国の操典(1831年まで改正せられなかった)は依然横隊戦術の精神が在ったが、
縦隊も認めらるる事となった。


 要するに散兵戦術は当時の仏国民を代表する革命軍隊に適するのみならず、
運動性に富み地形の交感を受くる事少なくかつ兵力を要点に集結使用するに便利で、
殲滅戦略に入るため重要な要素をなしたのである。

  しかし世人が往々誤解するように
横隊戦術に比し戦場に於て必ずしも徹底的に優越なものでなかったし
(1815年ワーテルローでナポレオンはウエリントンの横隊戦術に敗れた)、
決して仏国が好んで採用したものでもない。

 自然の要求が不知不識しらずしらずの間にここに至らしめたのである。
「散兵は単なる応急策に過ぎなかった。
 余りに広く散開しかつ衝突を行なう際に指揮官の手許に充分の兵力が無くなる危険があったから、
 秩序が回復するに従い散兵を制限する事を試み、
 散兵、横隊、縦隊の三者を必要に応じて或いは同時に、
 或いは交互に使用した。

 故に新旧戦術の根本的差異は人の想像するようには甚だしく目立たず、
その時代の人、
なかんずく仏人は自己が親しく目撃する変化をほとんど意識せず、
また諸種の例証に徴して新形式を組織的に完成する事にあまり意を用いざりし事実を窺い得る」と
デルブリュック教授は論じている。


 革命、革新の実体は多くかくの如きものであろう。
具体案の持ち合わせもないくせに
「革新」「革新」と観念的論議のみを事とする日本の革新論者は冷静にかかる事を考うべきであろう。


 4、給養法の変化

 国民軍隊となったことは、
地方物資利用に依り給養を簡単ならしむる事になり、
軍の行動に非常な自由を得たのである。

 殊に将校の平民化が将校行李の数を減じ、
兵のためにも天幕の携行を廃したので1806年戦争に於て
仏・普両軍歩兵行李の比は1対8乃至1対10であった。


 5、戦略の大変化

 仏国革命に依って生まれた国民的軍隊、縦隊戦術、徴発給養の三素材より、
新しき戦略を創造するためには大天才の頭脳が必要であった。
これに選ばれたのがナポレオンである。


 国民軍隊となった1794年以後も消耗戦略の旧態は改める事がなかった。
1947年仏軍は敵をライン河に圧して両軍ライン河畔で相対峙し、
僅か23万の軍がアルサス[#「アルサス」はママ]から北海に至る全地域に分散して
土地の領有を争うたのであった。


 ナポレオンはその天才的直観力に依って事物の真相を洞見し、
革命に依って生じた軍事上の三要素を綜合してこれを戦略に活用した。
 兵力を迅速に決勝点に集結して敵の主力に対し一挙に決戦を強い、
のち猛烈果敢にその勝利を追求してたちまち敵を屈服せしむる殲滅戦略により、
革新的大成功を収め、全欧州を震駭せしめた。
かくして決戦戦争の時代が展開された。

 この殲滅戦略は今日の人々には全く当然の事でなんら異とするに足らないのであるが、
前述したフリードリヒ大王の戦争の見地からすれば、
真に驚嘆すべき革新である事が明らかとなるであろう。

 ナポレオン当時の人々は中々この真相を衝き難く、
ナポレオンを軍神視する事となり、
彼が白馬に乗って戦場に現われると敵味方不思議の力に打たれたのである。


 ナポレオンの神秘を最初に発見したのは科学的な普国であった。
1806年の惨敗によりフリードリヒ大王の直伝たる夢より醒めた普国は、
シャルンホルスト、グナイゼナウの力に依り新軍を送り、
新戦略を体得し、
ナポレオンのロシヤ遠征失敗後はしかるべき強敵となって遂にナポレオンを倒したのである。

 フリードリヒ大王時代の軍事的教育を受け、
ナポレオン戦争に参加したクラウゼウィッツはナポレオンの用兵術を組織化し、
1813年彼の名著『戦争論』が出版せられた。


 6、1796~97年のイタリア作戦

 1805年をもって近世用兵術の発起点とする人が多い。
20万の大軍が広大なる正面をもって千キロ近き長距離を迅速に前進し、
一挙に敵主力を捕捉殲滅したウルム作戦の壮観は、
18世紀の用兵術に対し最も明瞭に殲滅戦略の特徴を発揮したものである。

 しかしこれは外形上の問題で、
新用兵術は既にナポレオン初期の戦争に明瞭に現われている。
その意味で1796年のイタリア作戦、
特にその初期作戦は最も興味深いものである。

 クラウゼウィッツが
「ボナパルトはアペニエンの地理はあたかも自分の衣嚢のように熟知していた」と云っているが如く、
ナポレオンはイタリア軍に属して作戦に従事したこともあり、
イタリア軍司令官に任ぜらるる前は公安委員会作戦部に服務してイタリアに於ける作戦計画を立案した事がある。


 ナポレオンの立案せる計画は、
当事者から即ち旧式用兵術の人々からは狂気者の計画と称して実行不可能のものと見られたのである。

 ナポレオンは1796年3月2日弱冠26歳にしてイタリア軍司令官に任ぜられ、
同26日ニースに着任、
いよいよ多年の考案に依る作戦を実行することとなった。


 イタリア軍の野戦に使用し得る兵力は歩兵4師団、騎兵2師団で兵力約4万、
主力はサボナからアルベンガ附近、その一師団は西方山地内に在った。
縦深約80キロである。


 軍前面の敵はサルジニアのコッリーが約1万をもってケバ要塞からモントヴィの間に位置し
墺軍の主力はなおポー河左岸に冬営中であった。


 ナポレオンはかねての計画に基づき、
両軍の分離に乗じ速やかに主力をもってサボナからケバ方向に前進し、
サルジニア軍の左側を攻撃、
これを撃破する決心であった。
当時海岸線は車も通れず、騎兵は下馬を要する処もあった。

 海岸からサルジニアに進入するためには
サボナから西北方アルタールを越える道路(峠の標高約500メートル)が最良で、
少し修理すれば車を通し得る状態であった。

 ところがナポレオン着任当時のイタリア軍の状態は甚だ不良で、
ナポレオンがその天性を発揮して大活躍をしても整理は容易な事でなかった。


 ナポレオン着任当時、
マッセナはゼノバに於ける
(ゼノバは当時中立で海岸道不良のため同地は仏軍の補給に重要な位置を占めていた)外交を後援するため、
一部をボルトリに出していたのである。

 ナポレオンは墺軍を刺戟する事を避くるため同地の兵力撤退を命令したが、
前任司令官の後任をもって自任していたマッセナは後輩の黄口児、
しかも師団長の経験すら無いナポレオンの来任心よからず、
命令を実行せず、
かえってボルトリの兵力を増加し、
表面には調子の良い報告を出していた。


  しかるに4月に入って墺軍前進の報を耳にしたナポレオンの決心は変化を来たし、
4月2日ニースを発してアルベンガに達し、
マッセナに命令するにボルトリを軽々に撤退する事無く、
かえって兵力増加を粧うべき事を命令した。

 蓋けだしナポレオンは墺軍の前進を知り、
なるべくこれを東方に牽制してサルジニア軍との中央に突進し、
各個撃破を決心したのである。

 マッセナは敵兵増加の徴しるしに不安を抱き、
同日は狼狽してこのまま止まるは危険な旨を具申している。


 主力をポー川左岸に冬営していた墺軍の新司令官老将ボーリューは
ゼノバ方面に対する仏軍活動開始せらるるを知り南進を起し、
3月30日にはゼノバ北方の要点ボヘッタ峠を占領して
仏国の突進を防止する決心をとったが、
その後仏軍の行動の活発でないのに乗じ、

  更に4月8日にはボルトリを占領して敵とゼノバの連絡を絶ち、
かつボルトリにあった製粉所を奪取する事に決心した。

 同時に右翼の部隊をもってサボナ北方のモンテノット附近を占領せしめ、
サルジニア軍と連絡して要線の占領を確実ならしむる事とした。


 行動開始前の4月9日に於けるポー川以南にある部隊の位置、右図の如し。

 即ち約3万の兵力が攻撃前進を前にして縦深60キロ、正面約80キロに分散しており、
しかも東西の交通は極めて不便で
ボルトリから右翼の方面に兵力を転用するためにはアックイを迂回するを要する。

 ボルトリの攻撃にはビットニー、フカッソウィヒ両部隊のうち、
9大隊を使用してボーリュー自らこれに臨み、
モンテノットの攻撃はアルゲソトウ部隊に命令した。

 アルゲントウは後方に主力を止め、
攻撃に使用した兵力は5大隊半に過ぎなかった。
これが当時の用兵術である。


 ナポレオンは10日サボナに到着、
この日ボルトリは墺軍の攻撃を受け同地の守兵は夜サボナに退却す。

 ナポレオンは11日更に東方に前進して情況を視察したが、
ボルトリを占領した敵は相当の兵力であるが追撃の模様がない。

 然るにこの日モンテノットも敵の攻撃を受けて占領せられたが、
ランポン大佐はモンテノット南方の高地を守備してよく敵を支えている事を知った。

 ナポレオンはこの形勢に於て先ずモンテノット方面の敵を撃滅するに決心し、
僅少なる部隊をサボナに止めてボルトリの敵に対せしめ、
主力は夜間ただちに行動を起して敵の側背に迫る如き部署をした。

 この決心処置は
迅速果敢しかも適切敏捷に行なわれ
ナポレオンを嫉視ないし軽視していた諸将を心より敬服せしめるに至った。

 ある人は
「ナポレオンはこの命令で単に墺軍に対してのみでなく、
 部下諸将軍連に対しても勝利を得た」と言っている。


 かくて12日、
ナポレオンは約1万人を戦場に集め得て、
3、4千の敵を急襲して徹底的打撃を与えた。
ナポレオンはこの戦闘の成果を過信して墺軍の主力を撃破したものと考え、
予定に基づき主力をもってサルジニア軍に向い前進するに決し、
その部署をした。

 前衛たる部隊は13日コッセリア古城を守備していた墺軍を攻撃、
14日辛うじてこれを降伏せしめたが、
ナポレオンはこの間敵の部隊北方デゴ附近に在るを知って該方面に前進、
14日敵を攻撃してこれを撃破し、再び西方に向う前進を部署した。


 しかるにデゴ戦闘後に狂喜した仏兵は、
数日の間甚だ不充分なる給養であったため掠奪を始め、
全く警戒を怠っていた所を、
15日ボルトリ方面より転進して来た墺軍の急襲を受け危険に陥ったが、
ナポレオンは迅速に兵力を該方面に転進し遂にこれを撃破した。
 しかも軍隊は再び掠奪を始め、デゴの寺院すらその禍を蒙る有様であった。


 ボーリューは12日の敗報を受けてもこれは戦場の一波瀾ぐらいに考え、
その後逐次敗報を得るも一拠点を失ったに過ぎないとし、
側方より敵の後方に兵を進めてこれを退却せしむる当時の戦術を振りまわして泰然としていたが、

 16日に至って初めて事の重大さに気付き、
心を奪われてアレッサンドリア方面に兵力を集中せんと決心したが、
諸隊の混乱甚だしく、
精神的打撃甚大で全く積極的行動に出づる気力を失った。


 ナポレオンは17日主力をもって西進を開始したが、
コッリーは退却してタナロ川左岸に陣地を占めた。

 仏軍はケバ要塞を単にこれを監視するに止めて前進、
19日敵陣地を攻撃したが増水のため成功せず、
21日攻撃を敢行した時はサルジニア軍は既に退却していたが、
これを追撃してモントヴィ附近の戦闘となり遂にコッリー軍を撃破した。

 サルジニアは震駭して屈伏し28日午前2時休戦条約が成立した。

 この二週間の間に墺軍に一打撃を与えサルジニア国を全く屈伏した作戦は
今日の軍人の眼で見れば余りに当然であると考え、
ナポレオンの偉大を発見するに苦しむであろうが、
フリードリヒ大王以来の戦争に対比すれば始めてその大変化を発見し得るのである。

 このナポレオンの殲滅戦略を戦争目的達成に向って続行し得るところに
即ち決戦戦争が行わるる事となるのである。

 サルジニアを屈したナポレオンは再び墺国に向い前進、
ポー川左岸に退却せる敵に対し
ポー川南岸を東進して5月8日ピアツェンツァ附近に於てポー川を渡り、
敵をしてロンバルデーを放棄の止むなきに至らしめ、
敵を追撃して10日有名なるロジの敵前渡河を強行、15日ミラノに入城した。

 5月末ミラノを発しガルダ湖畔に進出、ボーリューを遠くチロール山中に撃退した。


 当時の仏墺戦争は持久戦争でありイタリア作戦はその一支作戦に過ぎない。
ナポレオンは新しき殲滅戦略により敵を圧倒したが結局ここに攻勢の終末点に達した。
殊にマントア要塞は頗る堅固で
ナポレオンはこの要塞を攻囲しつつ四回も敵の解囲企図を粉砕、
1797年2月2日までにマントアを降伏せしめた。

 1916年ファンケルハインが、
いわゆる制限目的を有する攻撃としてベルダン攻撃案を採用しカイゼルに上奏せる際
「若し仏軍にして極力これを維持せんとせば
 恐らく最後の一兵をも使用するの止むなきに至るであろう。
 若し斯くの如くせばこれ我が軍の目的を達成せるものである」と述べている。

 1916年ドイツのベルダン攻撃はこの目的を達成しかね、
ドイツ軍は連合側に劣らざる大損害を受けて戦争の前途にむしろ暗影を投じたのであったが、
ナポレオンのマントア攻囲はよくファンケルハインの企図したこの目的を達成したのである。

 墺軍は4回の解囲とマントアの降伏で少なくとも10万の兵力を失った(仏軍の損失は2万5千)。
マントア攻囲前の墺軍の損失は2万に達するから、
一年足らずの間に墺軍はナポレオンのために12万を失ったのである。
これは当時の墺国としては大問題で、
これがため主戦場から兵を転用し、
最後にはウインの衛戌兵までも駆り集めたのである。

 墺国の国力は消耗し、
ナポレオンは1797年3月前進を起し、
4月18日レオベンの休戦条約が成立した。

 

 その後の大観

 ナポレオンの天才的頭脳が新戦略を生み出し、
その新戦略に依ってナポレオンはたちまち軍神として全欧州を震駭した。
かくしてフランスはナポレオンに依って救われた。

 ナポレオンは対英戦争の第一手段として1798年エジプト遠征を行なったが、
留守の間仏国は再びイタリアを失い苦境に立ったのに乗じ、
帰来第一統領となって1800年有名なアルプス越えに依って再び名望を高めた。

 一度英国と和したが1803年再び開戦、
遂に10年にわたる持久戦争となった。

 1804年皇帝の位に即き、
英国侵入計画は着々として進捗、その綜合的大計画は真に天下の偉観であった。

 これは今日ヒットラーの試みと対比して無限の興味を覚える。

 海軍の無能によってナポレオンの計画は実行一歩手前に於て頓挫し、
英国は墺、露を誘引して背後を覘ねらわしめた。
ナポレオンは1805年8月遂に英国侵入の兵を転じて墺国征伐に決心した。


 ドーバー海峡に集結訓練を重ねた約20万の精鋭(真に世界歴史に見なかった精鋭である)は
堂々東進を開始して南ドイツに侵入、
墺、露両軍の間に突進して9月17日墺のほとんど全軍をウルムに包囲降伏せしめた。

 ナポレオンはドノー川に沿うてウインに迫り、
逃ぐる敵を追ってメーレンに侵入したが、
攻勢の終末点に達ししかも普国の態度疑わしく、
形勢楽観を許さぬ状況となったが、
ナポレオンは巧みに墺、露の連合軍を誘致して
12月2日アウステルリッツの会戦となり戦争の目的を達成した。

 1806年普国と戦端が開かれるとナポレオンは南ドイツにあったその軍隊を巧みに集結、
16万の大軍三縦隊となりてチュウリンゲンを通過して北進、
敵をイエナ、アウエルステートに撃破し、
逃ぐるを追って古今未曽有の大追撃を強行、
プロイセンのほとんど全軍を潰滅した。

 しかもポーランドに進出すると冬が来る。
物資が少ない。
非常に苦しい立場に陥った1807年6月25五日漸ようやく露国との平和となった。


 対英戦争の第三法である大陸封鎖強行のため1808年スペインに侵入したところ、
作戦思うように行かず、
ナポレオン失敗の第一歩をなした。

 英国の煽動により1809年墺国が再び開戦し、
ナポレオンの巧妙なる作戦は良くこれを撃破したが
一方スペインを未解決のまま放任せざるを得ない事となり、
またアスペルンの渡河攻撃に於ては遂に失敗、名将ナポレオンが初めて黒星をとった。


 この大陸封鎖の関係から遂に1812年露国との戦争となり、
モスコーの大失敗となった。


 1813年新兵を駆り集め、
エルベ河畔での作戦はナポレオンの天才振りを発揮した面白いものであったが、
遂にライプチヒの大敗に終り、
1814年は寡兵をもってパリ東方地区に於て大軍に対する内線作戦となった。

 1796年の作戦に比べて面白い研究問題であり、
彼の部将としての最高の能率を発揮したと見るべきである。

 しかも兵力の差が甚だしく、
殊に普軍がナポレオンの新用兵術を体得していたので思うに任せず、
連合軍に降伏の止むなきに至った
(この作戦は伊奈中佐の『名将ナポレオンの戦略』によく記されている)。


 1815年のワーテルローは大体見込なき最後の努力であった。


 対墺、対普の個々の戦争は巧みに決戦戦争を行なったが、
スペインに対して地形その他の関係で思うに任せず、対露侵入作戦は大失敗をした。
しかも、全体から見てナポレオンはその全力を対英持久戦争に捧げたのである。
 海と英国国民性の強靭さは天才ナポレオンを遂に倒したのである。


 ヒットラーは今日ナポレオンの後継者として立っている。


【続く】
『戦争史大観』 第三篇 戦争史大観の説明 第二章 戦争指導要領の変化 第八節 第一次欧州大戦まで