日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

菊池寛著『二千六百年史抄』奈良時代の文化と仏教~平安時代   

2024-05-18 23:58:37 | 歴史上の人物


    菊池寛著『二千六百年史抄』 

目次

   序  
    神武天皇の御創業 
    皇威の海外発展と支那文化の伝来   
    氏族制度と祭政一致


   聖徳太子と中大兄皇子  
   奈良時代の文化と仏教  
   平安時代  

    院政と武士の擡頭 
    鎌倉幕府と元寇   
    建武中興  
    吉野時代 
    足利時代と海外発展  
    戦国時代 
    信長、秀吉、家康 
    鎖国 
    江戸幕府の構成    
    尊皇思想の勃興  
    国学の興隆 
    江戸幕府の衰亡 
    勤皇思想の勃興  
    勤皇志士と薩長同盟  
    明治維新と国体観念  
    廃藩置県と征韓論 
    立憲政治  
    日露戦争以後


 

聖徳太子と中大兄皇子  


 上代に於けるわが日本国家の基礎を堅め、国民をして文化生活の恵沢に浴せしめた偉大なお二方(ふたかた)がある。
それは、聖徳太子と中大兄皇子(なかのおほえのわうじ)である。
  
 聖徳太子は、天成の御英才を以て、第三十三代推古天皇の摂政となり給うたが、
仏教思想と共に、鋭意隋唐の文物諸制度を輸入することに努力し給うた。


 是より先、欽明天皇の御代に伝へられた仏教に就いて、
崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏、中臣氏との間に凄じい争闘が展開した
  
 これは、仏教についての争ひといふよりは、氏族制度の弊害として、
段々強大になつた各氏族の巨頭が、各自権勢を専らにしようとして、
仏教の採否を廻(めぐ)つて、争つたと云うてもよいのである。


 が、聖徳太子の仏教御信仰は、崇仏派の勝利を決定的にし、
以後仏教は、広くわが国土に流布し、わが国民文化の発達に、精神的にも、物質的にも、多大の寄与をしたのである。

 
 推古天皇の二年に仏教興隆の詔が発せられ、
聖徳太子は、四天王寺、法隆寺、中宮寺、蜂岡寺(はちをかでら)などを建立された。

 当時の仏寺は、信仰の道場だけではなく、四天王寺の如きは、外交上の儀式にも用ゐられたし、学校でもあり、
又寺内に、悲田院(ひでんゐん)、療病院、施薬院があつて、社会事業的施設でもあつたのである。


 太子は、仏教の興隆を図られると共に、
仏寺の建立に附随する建築、絵画、彫刻、鋳金などの美術工芸などを奨励された。
されば、大工左官などの間に、太子が今もなほ守護神として崇敬されてゐるのを見ても、
太子の御遺徳の一端が、うかゞはれるわけである。


 又、太子は、推古天皇の十一年に十二階より成る冠位を定め給うた。
それまで、勢力のある氏族に属してゐないと、高い位置に上れなかつたが、
冠位の制定に依つて、人々は、才能に依つて、立身する道が開かれた。
十二年には、支那の暦を用ゐ、同年に十七条の憲法を制定された。


 これは、文章となつたわが国最初の法典であり、
仏教と儒教に基づいた道徳律でもあり、官民心得でもあるが、
その大意は、次の通りである。

 一、和を貴び、相争ふな。
 二、篤(あつ)く仏法を敬へ。
 三、詔(みことのり)は謹しんで承(う)けよ。
 四、群臣は礼を重んぜよ。
 五、私慾を棄て、訴訟を裁け。
 六、悪を匡(たゞ)し、善を勧めよ。
 七、官職は人を得なければならぬ。
 八、群臣百官は早く朝廷に上り、遅く退け。
 九、信は、義の本である。万事に信であれ。
 十、寛大であれ。
 十一、賞罰を明らかにせよ。
 十二、国に二君なく民に両主なし。国中の万民は、皆天皇を主とする。
    役人が勝手に人民から税を取り立てるのは不法である。
 十三、役人は、自分の任務をよくわきまへて遂行せよ。
 十四、役人は、互に嫉視反目するな。
 十五、私事を忘れて、公事につくのが臣たるの道である。
 十六、民を使役するには時を考へよ。
 十七、大事を決するには、衆と議せよ。


 第十二条の「国中の万民は、天皇を主とする」の一条は、
当時の大氏族の長が、人民を私有することを戒められたのである。

   
 太子は、内治に御心を用ゐられたばかりでなく、
欽明天皇の御世に亡(ほろ)んだ任那(みまな)日本府を復興せんとし、屡々新羅(しらぎ)を御征討になつたし、
又推古天皇の十五年小野妹子(おののいもこ)を隋に遣はされて対等の国際的関係を結ばれ、
(つ)いで高向玄理(たかむくのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしやうあん)などの留学生を送られたことも亦、著名な事件である。


 又、太子は始めて国史編纂の業を起され、天皇記、国記を編まれ、
その間に、卓抜なる御見識を以て仏典の註釈を完成された。
それが三経義疏(さんぎやうぎしよ)と呼ばれてゐるものである。

  
 十七条の憲法も、太子の御自作であるが、
詩経、書経、易など支那の古書を引用して書かれた漢文で、
わが国の漢文では最古のものであり、かつ御名文である。

  
 太子は、推古天皇の三十年に薨去されたが、
天皇をはじめ奉り、全国民に至るまで「日月輝(ひかり)を失ひ、天地既に崩れぬべし」と、嘆いたと云はれる。

 太子は、日本が生んだ偉大なる宗教家であり、政治家であり、
同時に日本文化の偉大なる建設者だと申上げてもよいであらう。

   
 この聖徳太子の御精神と御事業を継承して、大化の改新を断行されたのが、中大兄皇子である。
   
 是より先、氏族制度の頽廃の結果として、大氏族の長が、広大なる土地人民を私有し、
権勢を専らにせんとするものが生じてゐた。

 が、その内、大伴氏、物部氏は失脚して、蘇我氏のみが、強大なる勢力を擁してゐた。
蘇我馬子(そがのうまこ)は、太子と共に仏教の樹立に当つたのであるが、
太子もその強大を憎み給うたが、これを退くるに至らずして、世を終り給うた。

  
 馬子(うまこ)は、太子の御英明の前に、雌伏してゐる外なかつたが、
太子薨去後、その野心を現はし、不臣の振舞多く、
その子蝦夷(えみし)、孫入鹿(いるか)に至つては、馬子以上に専横を極め、
当然皇位に即(つ)き給ふべき御方である聖徳太子の御子たる山背大兄王(やましろのおほえわう)を斥け奉り、
入鹿は遂に大兄王の御即位は、蘇我氏の滅亡を意味するものと考へ、
皇極天皇の二年大兄王を襲ひ奉つた。
   
 王は、一度は生駒山に逃れ給うたが、
「自分は今、兵を起して入鹿を討つならば勝てるだらうが、
一身のため、人民を傷つけたくない。わが身は入鹿にやらう」と仰せられ、
一族の方々と御一緒に、御自殺になつた。

 が、蘇我氏のかゝる不臣が許されるわけはなく、
御英邁なる中大兄皇子を中心とする中臣鎌子(かまこ)(後の藤原鎌足)、蘇我倉山田(くらやまだ)石川麻呂、佐伯子麻呂(さへぎのこまろ)等の活躍に依つて、
皇極天皇の四年六月、入鹿は大極殿に於て、誅戮(ちゆうりく)を受けたのである。
    
 皇極天皇は、蘇我氏が滅んだ翌日、皇位を中大兄皇子に譲り給はうとしたが、
皇子は叔父君たる軽皇子(かるのみこ)を皇位に即け奉られた。
これが、三十六代孝徳(かうとく)天皇である。初めて、年号を立て、大化元年とされた。


 そして、皇子は皇太子として、中臣鎌足と共に、政治の改新に当り給うた。


 それまでの日本の政治は、臣(おみ)、連(むらじ)、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)など、
勢力のある氏の長(をさ)が、土地人民を私有してゐたので、
天皇は、氏の長を率ゐて居られるだけで、直接の御領地以外は、
人民全体から、税なども、お取り立てになることはなかつたのである。


 だから、臣、連など云はれる勢力のある氏の長は、土地人民を私有し、勢力を養ひ、
遂に蘇我氏の如く国政を紊(みだ)すものが生ずるに至つたのである。


 されば、大化の改新の一大眼目は、これらの氏の長の私有してゐた土地人民を悉く皇室に返上させ、
凡てを公地公民とし、天皇たゞ御一人が、君主として、支配されるやうにすることだつた。


 それと同時に、新たに戸籍を作つて、公民の数を調べ、男女老幼に応じ、田地を分配し、
六年毎に調べ直して、死んだ者の土地は朝廷に収め、生れて六歳になつた者には、之を与へる法が設けられた。
これが、班田収授(はんでんしうじゆ)の法である。


 また八省百官の制を設け、地方に於ける国造、県主の世襲を禁じ、
新たに国司郡司を命じ、期限的に交替させることにした。


 又、聖徳太子の制定になつた十二階の冠に、改正を加へて、
最高の大織冠(たいしよくくわん)から最低の立身冠(りつしんくわん)まで、十九階として、
血統や家柄に依ることなく、官位を授けられた。


 中大兄皇子は、後に第三十八代天智天皇とならせ給うたが、
新政のために、新らしき都を選ばれる意味で、近江の志賀に都し給うた。
これが大津ノ宮である。

   
 鎌足は、天智天皇の仰せに依つて法令を制定した。近江令であり、
その中に定められてゐる官制や諸制度は、爾来千二百年間、明治十八年迄、用ゐられてゐたのである。
 
 明治維新の革新と並んで、日本の二大革新である大化の改新は、中大兄皇子に依つて成し遂げられたのである。

  
 当時としては、思ひ切つた改新であるから、大氏族や守旧派の反対は、さぞかし猛烈であつたらうと想像されるが、
それを押し切つての御断行は、一に、天皇の御英明に依るものだと思はれるのである。
  

* 欽明天皇の十三年(皇紀1212、西暦552年)百済の聖明王が、
 特使を我国に遣はして、仏像や経論を献じて来た。

  天皇は、百済王の上表を聴召(きこしめ)して、諸臣に勅して、仏教信仰の可否を諮(はか)り給うた。
 朝臣の内、物部氏・中臣氏は排仏を主張し、蘇我氏は崇仏を主張した。
  
 その理由とする所は、
 「一は我が国には古来神道があり天神地祇を祭つてあるから、
   蕃神を祭れば、神の怒りに触れる」と云ふのであり、
  一は、「他国が既に仏像を礼拝してゐるのに、我が国独り反対する要はない」と云ふのであつた。
  一は、守旧的な保守的思想であり、
  一は、開放的な進歩思想であつた。


 それは、中臣氏は、代々神祇祭祀を掌(つかさど)る家柄であり、物部氏は、代々武将であり、
これに反して、蘇我氏は、先祖武内宿禰(すくね)以来韓土と交渉を持ち、代々外交を司(つかさど)る家柄であつたから、
この対立が出て来たのであらう。


   奈良時代の文化と仏教

 

 第43代元明(げんみやう)天皇の御代、武蔵国秩父郡(ちゝぶのこほり)より和銅を献上せるものあり、
依って年号を和銅と改められたが、
その3年、都を大和の藤原京より平城京(奈良)に遷された。

 以後七代の間、光仁天皇迄、この地に都し給ひ、上古よりの歴代遷都の風が止んだ。
これは、唐の都城制が輸入せられ、政治と経済の中心が一元化し、住民も多く集り、
皇都は一大都会となり、遷都が容易でなくなったからである。

 

 此の時代初期の重要なる史実は、銭貨の鋳造と、国史及び風土記の撰修であらう。

 武蔵国よりの和銅献上に依つて、和銅と改元せられると共に、
鋳銭司(ちうせんし)を置いて、初めて銅銭を鋳せしめられたのが、和同開珎(かいほう)である。
  
 上古は、物々交換で、その方法も割合便利であったので、
国民の多数には銭貨の重要さが認められなかった。

 そこで朝廷では、田の売買には必ず銭貨を用ゐしめられ、
銭七貫以上を蓄ふるものは、初位に叙するなど、銭貨使用を奨励せられたのである。

 

 又和銅4年(711年)には、
勅命を承けて太安万侶(おほのやすまろ)が、稗田阿礼(ひえだのあれ)の口授に依つて、古事記を筆録し、
翌年これを完成して上(たてまつ)り、
又、元正(げんしやう)天皇の御代には、舎人親王(とねりしんわう)が勅を奉じて、日本書紀を撰せられてゐる。

 

 是より先、天武天皇は、わが国の古伝の保存及び国史の編纂に大御心を注がせられ、
天皇おん自ら旧辞(きうじ)を稗田阿礼に勅語したまうたとあるから、
さうした御苦心が、古事記となつて実を結んだわけである。

  

 古事記は、漢字の音と訓とを交ぜ用ゐて、記されたものであるが、
日本書紀は、全く漢文に依つて書かれてゐる。
その書名に「日本」なる字を用ゐられた点より考へて、
当時の朝鮮及び唐に対して、独立国家たる威容を示すための修史であったのであらう。


 又、元明天皇は和銅6年(713年)、諸国に勅して、国、郡、郷、里の名は好字を選んで2字を定めしめられると共に、
それ/″\地方の物産、地勢、伝説を記して差出さしめられた。

 いはゆる風土記であって、その内、出雲風土記(完本)、播磨風土記、常陸風土記などが残つてゐる。
 かやうに、国史地誌の編纂が行はれた事は、わが国民の国家意識を高め、愛国心を培(つちか)つたことであらう。

 記紀、風土記の編述と共に、忘れてならないのは「万葉集」の存在であらう。

 その撰者は、橘諸兄(たちばなのもろえ)と云ひ、大伴家持(おほとものやかもち)と云はれ、明確ではないが、
長歌短歌およそ4500首、上は天皇より下は庶人に至るまで、あらゆる階級の人を含み、
宮廷歌集であると共に、民謡集である点に於て、わが国民の一大家族性を示した和歌集たるの観がある。


 その中には、上代国民の剛健素朴な日常生活や、純真無垢な忠君の精神や、
天真無縫の感情生活が脈々として流れてゐるのである。
「古代日本人を知らんと欲せば万葉集を読め」と云ひたいくらゐである。
現代の活字本の万葉集は、甚だ読み易くなった。何人も一読すべきだと思ふ。

 

 奈良時代は、大化改新後に於けるわが国の統一国家としての活動期であるが、
第45代聖武天皇の御代に至つて、その文化は「咲く花の匂ふが如く」燦然と光りかゞやいたのである。
 

 美術史では、この御代を天平期と名づけ、第一の黄金時代としてゐる。

 唐より伝来の文化と、仏教の興隆とにより、美術工芸は非常なる発達を遂げ、
単なる唐の模倣でない、新らしい芸術を産んでゐるのである。

 

 殊に彫刻は、前時代の生硬な技法を脱し、流麗典雅な手法を以て、あらゆる材料を駆使して、幾多の傑作を残してゐる。
東大寺の大仏、同じく銅(あかがね)燈籠扉のレリーフ、法華堂(三月堂)の諸仏像、当麻寺(たいまでら)の諸像、法隆寺の九面観音像、その他、優にエヂプト、ギリシャの彫刻にも匹敵するものが多いのである。

 

 建築に於ても、東大寺の法華堂、法隆寺東院の夢殿、新薬師寺、正倉院その他が、当時の俤(おもかげ)を伝へてゐる。
唐招提寺の金堂は、当時は第3流程度であつたと云はれるが、
現在では古今の傑作と嘆称されるのだから、当時いかに壮麗なる寺院、宮殿が多かつたかが想像されるのである。

 

 又、奈良に現存せる正倉院は、聖武天皇の御遺物を初め、当時の家具、楽器、武具、装飾品等三千点を、
千数百年後の今日まで、その儘伝へてゐるが、わが国工芸品の粋を集めてゐるばかりでなく、
唐、西域、印度、ペルシャ、東ローマあたりの品物まで網羅され、
その立派さは、世界に比を見ないと云ってもよいくらゐだ。

 

 かうしたわが国文化の発達は、仏教の好影響であるが、一方仏教流布に伴ふ悪影響もあつたのである。

 聖武天皇は仏教に依って、国家を治めようと思召し、天下泰平、国土安穏(あんのん)を祈らせ給うて、
国毎に国分寺を建てられ、総国分寺として奈良の東大寺を建立された。その本尊がいはゆる奈良の大仏である。

 

 皇后光明皇后も亦御信仰深く、
その御信仰に依る社会事業に、おん自ら活躍された事は、いろ/\の伝説さへ残つてゐるくらゐだ。

 

 が、かうした朝廷の仏教御信仰に依って、僧侶の位置は向上し、
上下の尊信厚きに誇り、遂には僧侶の分を忘れ、政治に関与せんとする者をも輩出した。

 その巨魁は、弓削道鏡(ゆげのだうきやう)である。
道鏡は、称徳(しようとく)天皇の御信頼に依って太政大臣禅師よりすゝんで法王の位を授けられ、
遂に皇位に対して、非望を懐(いだ)いたと云はれる。

 

 が、妖雲が、天日を掩(おほ)はんとするとき、却って天日の光が、冴え渡るやうに、
和気清麻呂(わけのきよまろ)が、
宇佐八幡から、
「我が国家開闢(かいびやく)より以来(このかた)、君臣の分定まりぬ。
 臣を以て君と為(す)ること未(いま)だ之(こ)れ有(あ)らざるなり。
 天(あま)ツ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(はらひのぞ)くべし。」 

 と神託を受け、奏上したことは、当時儒教思想や仏教思想の伝来に依って、多少の影響を受けてゐたかとも想像される、
わが国体観念の確立に対する一大声明であって、爾後非望の輩が、長く根絶するに至ったことは、誠に欣ばしいことである。

 

   平安時代     
 紀元1454年(西暦794年)、第50代桓武天皇は、山城国葛野(かどの)郡宇太野(うだの)に都を奠(さだ)められた。
これが平安京、現在の京都である。
左右両京の制、条坊の区劃などは、広大なること奈良以上である。
今の京都は、左京から東部と北部とに発展したのである。

 爾来、平安京は明治元年(1868年)まで、1075年間の帝都であり、
源頼朝が幕府を開くまで、凡そ400年間政治の中心であったので、その間を平安時代と云ふのである。

 

 平安京への遷都は、国運の進展に伴ひ、交通至便な土地を求められた意味もあるが、
奈良時代末期に於ける仏教の政治に及ぼす弊害を避けられる意味もあつたと云はれる。

 

 されば、桓武天皇は、仏教の改革に御心を用ゐられてゐたが、あたかもよし、
この時代に空海(弘法大師)最澄(さいちよう)(伝教大師)の二傑僧が現はれ、仏教自身、その宿弊を一掃した。

 最澄も空海も、政権の地を離れて、山林の地にその本寺を置いたことと、
仏教と日本固有の神祇崇拝との調和を図ったことと、
また彼等の創始した天台宗及び真言宗が、必ずしも唐土伝来のものでなく、
日本人的思索が、十分加味せられてゐた点に於て、この二人は日本仏教の危機を救ひ、
その宗教的基礎を確立した人と云ってもよい。

  

 たゞ叡山は、あまりに京都に近かったため、以後屡々政争の渦中に入ったことは、やむを得ないことだった。

 空海は、宗教界の偉人であるばかりでなく、
わづか1年9箇月余の唐土留学に於て、絵画、彫刻、詩文、書法、音韻学、医道、薬物、その他土木、造筆、製墨、製紙の諸技術など、あらゆる唐土文化の芸能技術を習得して伝来した点に於て、
その才能努力は殆んど超人的である。

 弘法大師について、いろ/\の奇蹟が伝はつてゐるのは、その功績に対する当時の讃嘆から生れたものであらう。

 

 平安時代の初期に於て、その武功の伝ふべきは、坂上田村麻呂(さかのうへのたむらまろ)であらう。

 延暦16年(797年)、田村麻呂を征夷大将軍として、東北の蝦夷(えぞ)(アイヌ)を征せしめられたが、
田村麻呂の武威は精悍な蝦夷を各地に破り、胆沢城(いざはじょう)(岩手市南部)、志波城(しばじょう)(盛岡県南方)を築いて、大いに皇威を輝かした。

 以後多少の波瀾はあったが、平安の基(もとゐ)こゝに定まり、
史上に殆んど蝦夷の名を止めないところを見ても、その武功を想見することが出来る。


 平安時代の御世に於て、第60代醍醐天皇、第62代村上天皇は、英明の質を以て、親しく政(まつりごと)を聞し召され、
御世は泰平で文化はいよ/\栄えた。
世に、延喜、天暦の治(ち)と申し上げるのであるが、この頃漸く萌したのは、藤原氏の横暴であった。


 大化改新の功臣たる藤原鎌足の子孫が、朝廷に勢力を占むるは、当然の勢ひではあらうが、
彼等は他の名門、旧家を排斥し、皇室の外戚として、摂政関白、その他の高位高官を独占する傾向を生じてゐた。
橘広相(たちばなのひろみ)(註)、菅原道真、橘逸勢(たちばなのはやなり)などは、藤原氏専制の犠牲者の最も大なるものである。

 

 藤原道長の如きは、一條、三條、後一條天皇の御代、30余年にわたつて、政治の最高枢機に与(あづか)り、
その子、頼通(よりみち)も、父についで、摂政または関白たること50余年であった。


 かうした藤原氏の政権壟断(ろうだん)は、やがて平清盛の模倣するところとなり、
ひいては、源頼朝の幕府思想の萌芽となつたのではあるまいか。
その点に於て、藤原氏罪有りと思はれる。

 

 聖徳太子の飛鳥時代以来、平安初期にかけての支那文物の渡来は、
(おびたゞ)しいものがあり、日本の美術、工芸、文物制度は、
殆んど唐に劣らない程度に達してゐたのではないかと思はれる。

 されば、宇多天皇の寛平6年に、菅原道真が遣唐大使に任ぜらるゝや、
道真は、唐が既に衰世であり、危険なる航海を冒してまで、彼の文化を輸入する必要がないことを奏上して、
遣唐使は爾後長く廃止になった。


 支那の文化は、その後、それほど発達してゐたわけでもないから、
この遣唐使の廃止は、かへって時宜的であつて、支那よりの影響が中断したため、
支那伝来の文化は、以後いよ/\日本化され、わが国独得の文化を産むに至ったのである。


 唐風を真似てゐた住宅、衣服等も、日本化して行ったし、
漢文学の盛んであったため、国語を写すにも漢字を用ゐてゐた習慣が打破され、
誰発明するともなく、平仮名や片仮名が自然に案出され、短歌、ひいては国文学の発達を促した。   


「古今和歌集」、「後撰和歌集」に依って、男女の歌人が輩出したし、
国文学に於ては、清少納言の「枕草子」、紫式部の「源氏物語」などが出た。


 源氏物語は、欧洲に於ける写実小説の元祖であるボッカチオの「十日物語(デカメロン)」よりも、
尚ほ350年前に書かれて居り、支那小説「水滸伝」よりも、一世紀先に書かれてゐる。

 その他「土佐日記」、「伊勢物語」、「竹取物語」、「今昔物語」など注目すべき作品は頗る多い。
 又、漢文学に於ても、菅原道真、紀長谷雄(きのはせを)、三善清行(みよしきよゆき)などは、
支那人に劣らないくらゐ、立派な漢文を書いてゐる。

 書道に於ても、空海、道真と、次第に唐風を捨てて日本風となり、道風(どうふう)に至って、
上代風といふわが国独得の書風が完成された。  

 一方、草仮名(そうがな)といつて草書を思ひ切つて崩した平仮名が出来、日本独得の美術的な書体を作った。
 建築も、彫刻も良く、日本趣味のものとなった絵画も、
巨勢金岡(こせのかなをか)が、宗教と離れ、倭絵(やまとゑ)を創始した。
更に、藤原基光(もとみつ)が、最も日本的な土佐派を起した。 

 又、刀剣鍛冶(かぢ)も、唐伝来の技術を多少受けたかも知れないが、
早くも世界独得の日本刀を造り始めた。
 備前鍛冶(びぜんかぢ)、三條小鍛冶(こかぢ)などがそれである。

 又、官制の上に於ても国司の治績を監督する勘解由使(かげゆし)
宮中に於ける機密の文書を司る蔵人所(くらうどどころ)、京都の治安裁判に当る検非違使(けびゐし)など、
大宝令にない純日本的な職制が設けられたことも、此の時代に於てである。

 

 (註)
  道真の著書には、「三代実録」、「菅家文草」、「菅家詩集」、「新撰万葉集」、「類聚国史」等の編著があり、
  何れも、彼の非凡な学識才能を窺ふことが出来る。
  中でも、「類聚国史」の如きは、我史学史の中でも最も重要な名著であり、
  且つ、道真の醇乎たる国体観を知ることが出来る。

 


――今の實業家、昔の實業家―― 鮎川義介

2021-02-20 16:17:50 | 歴史上の人物

――今の實業家、昔の實業家――

    鮎川義介

   環境が人をつくる

 私が井上侯の所へいつたのは學生時代のことであつたから、二十歳くらいであつたろう。それから五、六年いたように思う。
 明治初期の頃の書生は、青雲の志に燃えた者が多かつた。その頃は教育機關がまだ整備されておらなかつたので、そのような若者は偉い人の所へ書生に入つて、そこで勉強するというのが、出世をする一つの道程であつた。今のように大學が各所にあつて、學資さえあればどんどん大學を出られる、という時代ではない。だから同郷の偉い人を頼つて、そこの書生になつたものである。

 それは人を知ることが眼目であつた。玄關番をしていると、訪問者は必ずそこを通過するのだから、知名の人に接し、そこから立身出世の道を開くことができる。それが書生の權利になつていた。だから、今の學生がやるアルバイトのようなものではない。
 明治時代の實業家を私が見たところでは、擡頭期のことではあり、社會が狹く、問題も少かつたが、當時の實業家には、國家的の觀念が強かつたと思う。

 日本の御維新によつて世界に飛出してみたわけだが、出てみると、世界の文明から非常に遲れている、これは大變だ、産業も教育も文化も、すべて一度に花を咲かせなければならぬと考えて、非常に焦躁の念に驅られたのである。そこで大變な努力をしたのであつて、全日本が、われわれのような若い者までその空氣の中に置かれたわけである。そうした風に吹かれたのは、われわれが最後かと思うが、その氣持ちは今でも私などに遺つている。

 しかし日清戰爭、日露戰爭とやつて來て、日本は一等國ということになつた。實際はなつておらなかつたろうと思うが、なつた、なつたと言われて、國民は滿足していた。日英同盟をやつた、一人前になつた、という氣持ちになつたのである。實際を見極めるような偉い者はおらぬ。衆愚はアトモスフェアで左へゆき右へ動く。戰爭で勝つた、日本は偉い、一等國だ、と新聞が書けば、ほんとうに一等國になつたと思う。

 われわれの若い時には、大きな革命の餘波が流れていた。偉い先輩のやつた足跡を、書物を通じてでなしに、じいさんやばあさん、或いは親父に聽いても、ペリーが來たとか、馬關の砲撃をやつたとか、そういう威勢よい話ばかり、それから苦心慘澹した話もある、どんな困難なことでも、やりさえすればやれる、という話ばかりである。

 今の人は、どうせ出來やせぬ、やらなければやらないで濟む、やつたからといつて、それほどの効能もない、狡く世の中を渡ろう、パンパン暮しのほうがいい、こういう空氣になつているのではないかと思われる。

 この空氣を變えるには、革命以外にない。漸を逐うて改めるということではないのである。思い切つて手術をして膿を出せば、新しい肉が盛り上つて來るのと同じことで、今の空氣を書物に書いても講釋しても改められるものではない。そんな安つぽいものではない。それほど敗戰ということの運動量は大きいのである。

 革命には、政治革命もあろうし、産業革命もあると思う。どんな形で革命が來るか、私は知らぬが、革命が來なければ、空氣が一新できないことは事實である。
 早い話が、今の總理大臣がいけない、早く辭めろ、などと言う。しかし誰かにかわつても、今以上のことができるとも思われない。どつこいどつこい――と言つては惡いかも知らぬが、大した効果はないと思う。空氣そのものが變つておらぬからである。
 いくら偉い者でも、その思うところを行い得るには環境というものが要る。運というものが要る。環境と運、これはわれわれが作るものではない。自然に來るものである。

 人が環境を作るということもあるが、これは長くかかる。きよう考えたから明日環境を變える、そんな力はない。變えるには歴史的の時間を要する。こういうことになるのではあるまいか。

 今度來るのは、私は經濟革命であろうと思う。今のようなことをしておつて、日本がうまくゆくとは、私は思わない。ここでよほどの大きな對策を實行しなければ――新聞に論じているようなことでは――とても立つてゆきはせぬ。どうしたら立つてゆけるか。自發的にお互いが發心してやつてゆくような空氣は、今の日本にはない。

 今までコールド・ウォアやホット・ウォアがあつて、相當疲れて來た。これから日本はどうなるか。世界的に平和風が吹いて來ると、今度擡頭して來るのは經濟戰爭ではあるまいか。ホット・ウォア――武器の戰爭――が終れば、それに取つて替るものは、經濟戰爭というやつである。

 その場合、どつちが日本として手答えがあるであろうか。日本は武器の戰爭のほうは、それほど痛くない。經濟の戰爭のほうが痛いのである。時には命取りになる。武器の戰爭は、敗けると思つたものが勝つたりすることがある。バランス・オブ・パワアというものがあつて、必ずしも絶對量によつて勝つものではない。

 日本の現在のウエイトは、ただみたいなものである。吹けば飛ぶようなものかも知れない。だが、むかし鶴見祐輔氏が明政會で僅か一票で威力を示したことがあるように、日本が相對立する二つの國の間にあつて、どつちを勝たせようとするかという場合には、鶴見氏の場合と同樣にキャスチングヴォートの威力を發揮することができるので、その値打ちは大いに考える必要がある。

 ところが、經濟の戰爭になると、そういうことが出來ない。惡い品物を良いと言つても、買つてくれる人はないのである。現にそういう現象が起りつつあるのではないか。惡くて高いために、買つてくれる國がないのが現状である。
 しかも策なしというやり方をしてゐる。策なしとは、手を擧げたということである。これではいけない。

 といつて、世の中を搖り動かそうとするほど、私は惡人ではない。人柄が良いのだ。性は善なのである。いわばわれわれにはその資格がないわけだ。われわれは時が來なければ、ようやらん人間である。實際問題だけしか私の頭にはない。青年時代には夢があり、青雲の志があつた。しかし、もう年を取つたし、われわれは革命を起す人間ではない。批評をすることはできるが、革命を起すのは若い人でなければならない。

 物を賣ろうと思つても、ドイツその他から安くてよい物がどんどん出るから、日本の物は買つてくれない。中共ともとのように貿易をやろうと思つても、買つてくれるのは鯣と昆布だけ、或いは鮑とか寒天だけ位のことであるまいか。昔のように紡績を賣りたくても、今日の中共は毛澤東がどんどんと産業を興して、そんな物は要らんと言うことになつているかも知れぬ。

 これは「かも知れぬ」である。しかし、そういうことになるプロバビリテイは、非常に多いというのは、毛澤東という人物、私はよくは知らぬが、四億五千萬の人間を率いて、自分がやろうと思つた方向へ進んでいる。あの努力は大したものだと思う。そういう現象は日本にはないのである。

 いま日本の經濟界にも、新生活運動というようなことが提唱されている。だが、それを唱える人自身が待合へいつて宴會をやつているようでは、初めからダメである。

 この際、ほんとにやるべきことは、命の惜しい人や名譽のほしい人には、やりとげられないと思う。名譽も大きな名譽ならいいが、そのへんにザラにあるような小さな名譽を追つかけているような人では、どうすることも出來ない。

 御維新の時に働いた人たちは、どこの馬の骨か判らんような奴が、キャアキャア言つて、困つた、困つた、と思われていたにちがいない。ところが、それがあれだけのエポックを作つたのである。
 それには外からの刺戟があつた。黒船來である。そこで尊皇攘夷の空氣が起り、後に開國を迫つて、ついに御維新になつた。 

   パンパンにされた日本 

    【註】パンパン:戦後混乱期の日本で、主として在日米軍将兵を相手にした街娼である。
 私は今度は經濟革命が來ると思つている。どうしても避けられない。このままで經濟戰爭に敗けたならば、アメリカの保護を乞うても、保護してはくれぬ。一度パンパンになつた人間は、もう使い途がない。潰しが利かぬのである。女はまだよいが、パンパン野郎は何にも使えない。手足まといになるものを、誰が買つてくれるものか。

 人口が多いということが、それが心を一つにしていれば力が強い。まだ使い途がある。しかし内部でお互いが反撥し合つているのだから、全然無價値である。それを統制して一つにしようといつても、もとのように權力ある者の命令一下まとまる、というようなわけにはゆかない。權力ある者の命令に從つてやつたところが、敗戰によつて恥をかいた、という大きな經驗をしている以上、もう一度命令に從わせることはなかなかむつかしい。

 これは巣鴨へ入つてみると、よく判ることである。巣鴨にいる人たちは、みな、われわれは何の爲にこんな目に遭うのか、と考えている。われわれは何も惡いことをした覺えはない、街にいる人達と何處が違うか。惡いことをした者が免れて街にいるではないか、という考えを持つている。
 こうした考えがたくさん積つて來ると、何かの機會にはそれが爆發する危險がある。巣鴨などはその一つであろう。

 私に言わせれば日本はまだ困り樣が足らぬと思う。困つたと思う時に特需などがあつたり、どこかから剩り物が來たりして、どうやらこうやら、つないで來ることができた。テンヤモンヤとやつて來て、別に餓死する人もない。
 テンヤモンヤとやつていられる間はよろしい。もう少し深刻になつて來て、どうしても食べてゆけない、となつたら、一體どうなるであろうか。

 むかし米が上つて一升五十錢になつた時に、米騒動というものが起つた。これは誰言うとなしに起つたものである。何も知らぬ漁師のおかみさんたちが起したのである。學校を出たインテリがやつたものではない。おかみさんたちの付けた火が、パーッと擴がつたのである。情勢が熟していれば、すぐに火が付く。

 コールド・ウォアやホット・ウオアが盛んに動いていて、兩方からヤイノ、ヤイノと言われている時はよい。無人島に十人の男と一人の女だけが暮すことになれば、醜婦でも非常な美人に見えるように、日本も今まではまだよかつた。
 これから平和風の吹いて來た時が、非常に危險な時である。必ず壁にぶつかる。その時が革命に火の付く時である。

 徳川幕府が三百年間續いて、役人が腐敗し、賄賂を公然と取るようになる、旗本の中には自分の家柄を、金で賣つたりする者が出る、大小は佩しているけれども、それは伊達であつて、武士の魂は抜けて遊冶郎になり下つてしまつた。そこへ外來の一大衝動を受けたから有志が起つたのである。初めは尊皇討幕であつたが、御維新によつて今度は開國進取、産業立國、殖産興業、文明開化というような旗印しを立てて進んだのである。

 おそらく毛澤東は明治の御維新などをよく體得して、それを利用したにちがいないと思う。

 だが、私は日本人に失望してはいない。永い間養われて出來上つた血液は、そう一朝一夕に變るものではない、というのが私の信念である。今は病氣に罹つたか、酒を飮んで醉つたようなもので、日本人の本質は相當のよさを持つていると信じている。
 戰爭に敗けて、アメリカが來て、パンパンにされた。あの威力によつて自然にこうなつたのであるが、このまま泥舟に乘つたように沈沒するかといえば、そうではないと思う。まだ發奮する時期が來ないだけのことで、決してダメなのではない。

   安賣りは止めよ 

 こんど火力發電のために外資を導入するという。僅か四千萬ドルを借りるのに、それこそ大騒動をして、われわれの意想外の惡い條件で借りるという話である。
 ところが、一方には十億ドル近いものを日本は持つている。これをなぜ善用しないのであろうか。しかも世界銀行の加入金を二億ドル拂つて、借りて來るのは四千萬ドル。二億ドルを無利子で預けて、旅費その他をたくさん使つて、大騒ぎをして四千萬ドルの金を利子を拂つて借りて來る。自分の定期預金を擔保にして、非常に高利の金を借りるようなものである。
 しかも、これは一番擔保であるから、このあとは勿論それ以下の條件という譯にはゆかない。取つたら最後、それから一歩も讓らぬのが、銀行家の心理である。これが基本になるだけに、今度のことは困る。

 これはインパクト・ローンではない。必ず全部が品物で來る。朝鮮が休戰になつた以上、向うは賣る必要があるのである。そうなれば日本のメーカーはお茶をひかなければならない。どういうつもりでこんなことをやるのか。外資というものは非常にいいものだ、あちらにあるドルと、日本に持つているドルとは、品格がちがう、とでも思つているのではあるまいか。

 そんな惡條件の金を借りて何をするかといえば火力である。火力發電の裝置などは日本でも出來る。向うの方は少しはインプルーヴメントがあるかも知れんが、能率もそう違いはなかろう。
 しかも火力發電は、一年三百六十五日働いている機械ではない。水の足りない時に使うだけであるから、少々惡くても大したことはない。ベストである必要はないのである。それよりも國内の物を活用すれば、國民所得が幾らかでも多くなる。

 その點だけから考えても、今度のことはおかしいと思う。外資というものに對するイリウジョンと考えるほかはない。外資を借りた、今まで出來なかつたことをやつた、という、鬼の首でも取つたようなイリウジョンに、政府の人たちは迷いこんでいるのではあるまいか。

 おそらく吉田さんの考えではあるまい。吉田さんは經濟のことにはあまり精通していないから、そうした指示をすることはあるまいと思う。

 これからアメリカを相手に何かやろうとしても、今度のようなことがあると、非常な邪魔になる。これは小さい石ころである。吹けば飛ぶような石ころではあるが、あるということが邪魔になる。たいへん惡い先例になるのである。
 日本は自重しなければいけない。安賣りしてはならぬ。パンパンになるようなことは、絶對にしてはならない。

 テンヤモンヤして、わけの判らん所に金を使つていたら、何事も出來はしない。僅かな只見川の開發でさえ、あんなに揉んで大騒動をしているようなことでは、日本全體の開發は、いつになつたら出來るか判つたものではない。
 このままではダラダラと出血して、貧血してゆくほかはない。今から五年なり十年の間に、本格的な大開發をやる必要があるのである。

 しかし日本人は今でも骨の髓まで腐つてはいない。先祖傳來の蓄積がある。たつた一遍、戰爭に敗けたからといつて、蓄積の全部を失つたわけではない。マテリアルの蓄積はなくなつたかも知れないが、血液の中にある蓄積は、われわれ日本人が生きている以上は、なくなるものではない。
 ただ、その血液をフレッシュにすることが必要である。それには大きな濾過器が要る。濾過器とは衝動である。
 それも小さな衝動では効果がない。日本人全部の血液をリフレッシュするのだから、よほど大きな衝動が必要なのである。

 

「文藝春秋 昭和二十八年十一月號」文藝春秋新社
   1953(昭和28)年11月1日発行  

 






鴨長明「方丈記」行く川のながれは絶えずして・・・・。

2020-09-22 23:06:25 | 歴史上の人物

        鴨長明 『方丈記』 

行く川のながれは絶えずして
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、
たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、
あるは大家ほろびて小家となる。
住む人もこれにおなじ。

所もかはらず、人も多かれど、
いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。
又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。

そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。
或は露おちて花のこれり。
のこるといへども朝日に枯れぬ。
或は花はしぼみて、露なほ消えず。
消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

〔およそ物の心を知れりしより〕 ・・・・・安元の大火
およそ物の心を知れりしよりこのかた、
四十あまりの春秋をおくれる間に、
世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。
いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、
戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。

はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、
ひとよがほどに、塵灰となりにき。

火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。

吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。
遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。

空には灰を吹きたてたれば、
火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、
風に堪へず吹き切られたるほのほ、
飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。
その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。
あるひは煙にむせびてたふれ伏し、
或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。

或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、
資財を取り出づるに及ばず。
七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。
そのつひえいくそばくぞ。

このたび公卿の家十六燒けたり。
ましてその外は數を知らず。
すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。
男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。
人のいとなみみなおろかなる中に、
さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、
すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。』  


〔また治承四年卯月廿九日のころ〕・・・・・治承の辻風
また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、
大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、
いかめしく吹きけること侍りき。

三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、
大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。
さながらひらにたふれたるもあり。

けたはしらばかり殘れるもあり。
又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、
又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。

いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、
ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。

塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。
おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。
かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。

家の損亡するのみならず、
これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。

この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。

つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。
たゞごとにあらず。
さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』 
  

〔又おなじ年の六月の頃〕・・・・・福原遷都
又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。
いと思ひの外なりし事なり。

大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、
都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。

異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、
これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。

されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、
大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。

世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。
官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、
一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。

時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。

軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。
家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。

人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。
牛車を用とする人なし。
西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。

〔その時、おのづから事のたよりありて〕・・・・・平安遷都
その時、おのづから事のたよりありて、津の國今の京に到れり。
所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。
北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。

なみの音つねにかまびすしくて、
潮風殊にはげしく、
内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、
なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。

日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。
なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。

ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。
ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。

元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、
今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。

道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、
衣冠布衣なるべきはひたゝれを着たり。

都のてふりたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。

これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、
日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、
民のうれへつひにむなしからざりければ、
おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。

されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、
ことごとく元のやうにも作らず。

ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代には、
あはれみをもて國ををさめ給ふ。

則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。
煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。
これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。

今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。』

〔養和のころ〕・・・・・養和の飢餓
又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、
二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。

或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、
五糓ことごとくみのらず。
むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。

これによりて、國々の民、或は地を捨てゝ堺を出で、或は家をわすれて山にすむ。

さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、
さらにそのしるしなし。

京のならひなに事につけても、みなもとは田舍をこそたのめるに、
絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさをも作りあへむ。

念じわびつゝ、さまざまの寳もの、かたはしより捨つるがごとくすれども、
さらに目みたつる人もなし。

たまたま易ふるものは、金をかろくし、粟を重くす。

乞食道の邊におほく、うれへ悲しむ聲耳にみてり。 
  

〔さきの年かくの如く〕・・・・・疫病の流行
さきの年かくの如くからくして暮れぬ。

明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、
あまさへえやみうちそひて、まさるやうにあとかたなし。

世の人みな飢ゑ死にければ、日を經つゝきはまり行くさま、
少水の魚のたとへに叶へり。

はてには笠うちき、足ひきつゝみ、
よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。

かくわびしれたるものどもありくかと見れば則ち斃れふしぬ。
ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。

取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、
かはり行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。

いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。

しづ、山がつも、力つきて、薪にさへともしくなりゆけば、
たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣るに、
一人がもち出でたるあたひ、
猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。

あやしき事は、かゝる薪の中に、につき、
しろがねこがねのはくなど所々につきて見ゆる木のわれあひまじれり。

これを尋ぬればすべき方なきものゝ、古寺に至りて佛をぬすみ、
堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。

濁惡の世にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。』
又あはれなること侍りき。

さりがたき女男など持ちたるものは、その思ひまさりて、
心ざし深きはかならずさきだちて死しぬ。

そのゆゑは、我が身をば次になして、
男にもあれ女にもあれ、
いたはしく思ふかたに、
たまたま乞ひ得たる物を、まづゆづるによりてなり。

されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。

又(父イ)母が命つきて臥せるをもしらずして、
いとけなき子のその乳房に吸ひつきつゝ、ふせるなどもありけり。

〔仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人〕
                ・・・・・仁和寺の隆曉法印

仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、
かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、
ひじりをあまたかたらひつゝ、
その死首の見ゆるごとに、
額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。

その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、
京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、
すべて四萬二千三百あまりなむありける。

いはむやその前後に死ぬるもの多く、
河原、白河、にしの京、もろもろの邊地などをくはへていはゞ際限もあるべからず。

いかにいはむや、諸國七道をや。

近くは崇徳院の御位のとき、
長承のころかとよ、かゝるためしはありけると聞けど、
その世のありさまは知らず。

まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり。』

〔また元暦二年のころ〕・・・・・元暦の地震  
また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。
そのさまよのつねならず。

山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。
土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、
なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道
ゆく駒は足のたちどをまどはせり。

いはむや都のほとりには、
在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。

或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、
塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。

地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。
家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。

はしり出づればまた地われさく。
羽なければ空へもあがるべからず。
龍ならねば雲にのぼらむこと難し。

おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。

その中に、あるものゝふのひとり子の、
六つ七つばかりに侍りしが、
ついぢのおほひの下に小家をつくり、
はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、
俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、

二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、
父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。

子のかなしみにはたけきものも耻を忘れけりと覺えて、
いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。

かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、
そのなごりしばしば絶えず。

よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。
十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、
或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、
大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。

四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、
大地に至りては殊なる變をなさず。

むかし齊衡のころかとよ。

おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、
いみじきことゞも侍りけれど、
猶このたびにはしかずとぞ。

すなはち人皆あぢきなきことを述べて、
いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、
月日かさなり年越えしかば、
後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。』 
  


〔すべて世のありにくきこと〕・・・・・鎌倉時代の格差
すべて世のありにくきこと、わが身とすみかとの、
はかなくあだなるさまかくのごとし。

いはむや所により、身のほどにしたがひて、
心をなやますこと、あげてかぞふべからず。

もしおのづから身かずならずして、
權門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、
大にたのしぶにあたはず。

なげきある時も聲をあげて泣くことなし。

進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、
たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。

もし貧しくして富める家の隣にをるものは、
朝夕すぼき姿を耻ぢてへつらひつゝ出で入る妻子、
僮僕のうらやめるさまを見るにも、
富める家のひとのないがしろなるけしきを聞くにも、
心念々にうごきて時としてやすからず。

もしせばき地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝことなし。

もし邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなれがたし。

いきほひあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人にかろしめらる。

寶あればおそれ多く、貧しければなげき切なり。

人を頼めば身他のやつことなり、人をはごくめば心恩愛につかはる。
世にしたがへば身くるし。

またしたがはねば狂へるに似たり。

いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、
しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき。』

〔我が身、父の方の祖母の家をつたへて〕・・・・・隠棲の理由
我が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。
そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、
つひにあととむることを得ずして、三十餘にして、
更に我が心と一の庵をむすぶ。
これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。

たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにおよばず。

わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。
竹を柱として、車やどりとせり。
雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。

所は河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。

すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、
心をなやませることは、三十餘年なり。

その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。
すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。

もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。
身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。

むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる。』

こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。

いはゞ狩人のひとよの宿をつくり、
老いたるかひこのまゆをいとなむがごとし。

これを中ごろのすみかになずらふれば、
また百分が一にだもおよばず。

とかくいふ程に、よはひは年々にかたぶき、すみかはをりをりにせばし。

その家のありさまよのつねにも似ず、
廣さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。

所をおもひ定めざるがゆゑに、地をしめて造らず。

土居をくみ、うちおほひをふきて、
つぎめごとにかけがねをかけたり。

もし心にかなはぬことあらば、やすく外へうつさむがためなり。

そのあらため造るとき、いくばくのわづらひかある。
積むところわづかに二輌なり。
車の力をむくゆるほかは、更に他の用途いらず。

〔いま日野山の奧にあとをかくして後〕・・・・・庵の様子
いま日野山の奧にあとをかくして後、
南にかりの日がくしをさし出して、
竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、
うちには西の垣に添へて、阿彌陀の畫像を安置したてまつりて、
落日をうけて、眉間のひかりとす。

かの帳のとびらに、普賢ならびに不動の像をかけたり。

北の障子の上に、ちひさき棚をかまへて、
黒き皮籠三四合を置く。

すなはち和歌、管絃、往生要集ごときの抄物を入れたり。

傍にこと、琵琶、おのおの一張をたつ。
いはゆるをりごと、つき琵琶これなり。

東にそへて、わらびのほどろを敷き、つかなみを敷きて夜の床とす。
東の垣に窓をあけて、こゝにふづくゑを出せり。

枕の方にすびつあり。これを柴折りくぶるよすがとす。
庵の北に少地をしめ、あばらなるひめ垣をかこひて園とす。
すなはちもろもろの藥草をうゑたり。

かりの庵のありさまかくのごとし。
その所のさまをいはゞ、
南にかけひあり、岩をたゝみて水をためたり。
林軒近ければ、つま木を拾ふにともしからず。
名を外山といふ。

まさきのかづらあとをうづめり。谷しげゝれど、にしは晴れたり。
觀念のたよりなきにしもあらず。

〔春は藤なみを見る〕・・・・・庵の生活 
春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。
夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。

秋は日ぐらしの聲耳に充てり。
うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。

冬は雪をあはれむ。
つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。

もし念仏ものうく、読経まめならざる時は、みづから休み、
みづからをこたるにさまたぐる人もなく、
また耻づべき友もなし。

殊更に無言をせざれども、ひとり居れば口業ををさめつべし。

必ず禁戒をまもるとしもなけれども、
境界なければ何につけてか破らむ。

もしあとの白波に身をよするあしたには、
岡のやに行きかふ船をながめて、
滿沙彌が風情をぬすみ、
もし桂の風、葉をならすゆふべには、
潯陽の江をおもひやりて、源都督(經信)のながれをならふ。
もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風の樂をたぐへ、
水の音に流泉の曲をあやつる。

藝はこれつたなけれども、
人の耳を悦ばしめむとにもあらず。
ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。』

〔また麓に、一つの柴の庵あり〕・・・・・友人との行楽
また麓に、一つの柴の庵あり。
すなはちこの山もりが居る所なり。
かしこに小童あり、時々來りてあひとぶらふ。
もしつれづれなる時は、これを友としてあそびありく。

かれは十六歳、われは六十、その齡ことの外なれど、

心を慰むることはこれおなじ。
あるはつばなをぬき、いはなしをとる(りイ)。

またぬかごをもり、芹をつむ。
或はすそわの田井に至りて、おちほを拾ひてほぐみをつくる。

もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。
木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。

勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。

あゆみわづらひなく、
志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、
笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。

もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、
田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。

歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、
紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、
かつは佛に奉りかつは家づとにす。

もし夜しづかなれば、窓の月に故人を忍び、
猿の聲に袖をうるほす。

くさむらの螢は、遠く眞木の島の篝火にまがひ、
曉の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。

山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、
父か母かと疑ひ、
峰のかせきの近くなれたるにつけても、
世にとほざかる程を知る。

或は埋火をかきおこして、老の寐覺の友とす。

恐ろしき山ならねど、ふくろふの聲をあはれむにつけても、
山中の景氣、折につけてつくることなし。

いはむや深く思ひ、深く知れらむ人のためには、
これにしも限るべからず。

〔大かた此所に住みそめし時は〕・・・・・静寂な独居生活 
大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、
今ま(すイ)でに五とせを經たり。

假の庵もやゝふる屋となりて、軒にはくちばふかく、土居に苔むせり。
おのづから事のたよりに都を聞けば、この山にこもり居て後、
やごとなき人の、かくれ給へるもあまた聞ゆ。

ましてその數ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。
たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。

たゞかりの庵のみ、のどけくしておそれなし。
ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり。
一身をやどすに不足なし。
がうなは小さき貝を好む、これよく身をしるによりてなり。

みさごは荒磯に居る、則ち人をおそるゝが故なり。
我またかくのごとし。
身を知り世を知れらば、願はずまじらはず、
たゞしづかなるをのぞみとし、うれへなきをたのしみとす。

すべて世の人の、すみかを作るならひ、かならずしも身のためにはせず。

或は妻子眷屬のために作り、或は親昵朋友のために作る。
或は主君、師匠および財寳、馬牛のためにさへこれをつくる。

我今、身のためにむすべり、人のために作らず。

ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、
この身のありさま、ともなふべき人もなく、
たのむべきやつこもなし。

たとひ廣く作れりとも、誰をかやどし、誰をかすゑむ。』

〔それ人の友たるものは〕・・・・・自助による生活 
それ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。
かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、
たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。

人の奴たるものは賞罰のはなはだしきを顧み、
恩の厚きを重くす。

更にはごくみあはれぶといへども、
やすく閑なるをばねがはず、
たゞ我が身をとするにはしかず。

もしなすべきことあれば、
すなはちおのづから身をつかふ。

たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりはやすし。
もしありくべきことあれば、みづから歩む。
苦しといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしかず。

今ひと身をわかちて。
二つの用をなす。
手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。

心また身のくるしみを知れゝば、
くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。

使ふとてもたびたび過さず、ものうしとても心をうごかすことなし。

いかにいはむや、常にありき、常に働くは、これ養生なるべし。
なんぞいたづらにやすみ居らむ。
人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。
いかゞ他の力をかるべき。』 

〔衣食のたぐひ〕・・・・・閑居の気味 
衣食のたぐひまたおなじ。
藤のころも、麻のふすま、得るに隨ひてはだへをかくし。

野邊のつばな、
嶺の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。
人にまじらはざれば、姿を耻づる悔もなし。
かてともしければおろそかなれども、なほ味をあまくす。

すべてかやうのこと、樂しく富める人に對していふにはあらず、
たゞわが身一つにとりて、昔と今とをたくらぶるばかりなり。

大かた世をのがれ、身を捨てしより、うらみもなくおそれもなし。

命は天運にまかせて、をしまずいとはず、
身をば浮雲になずらへて、たのまずまだしとせず。

一期のたのしみは、うたゝねの枕の上にきはまり、
生涯の望は、をりをりの美景にのこれり。』

それ三界は、たゞ心一つなり。
心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望なし。
今さびしきすまひ、ひとまの庵、みづからこれを愛す。

おのづから都に出でゝは、
乞食となれることをはづといへども、
かへりてこゝに居る時は、他の俗塵に着することをあはれぶ。

もし人このいへることをうたがはゞ、
魚と鳥との分野を見よ。
魚は水に飽かず、魚にあらざればその心をいかでか知らむ。

鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心をしらず。
閑居の氣味もまたかくの如し。
住まずしてたれかさとらむ。』 

〔そもそも一期の月影かたぶきて〕・・・・・結末
そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。

忽に三途のやみにむかはむ時、何のわざをかかこたむとする。
佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。

今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。
いかゞ用なきたのしみをのべて、むなしくあたら時を過さむ。』

しづかなる曉、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく、
世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむがためなり。

然るを汝が姿はひじりに似て、心はにごりにしめり。

すみかは則ち淨名居士のあとをけがせりといへども、
たもつ所はわづかに周梨槃特が行にだも及ばず。

もしこれ貧賤の報のみづからなやますか、
はた亦妄心のいたりてくるはせるか、
その時こゝろ更に答ふることなし。

たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。
時に建暦の二とせ、彌生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす。

「月かげは入る山の端もつらかりきたえぬひかりをみるよしもがな」。


終戦の詔書

2018-08-19 23:49:20 | 歴史上の人物

終戦の詔書

 

朕深ク世界ノ勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ交諾スル旨通告セシメタリ

 

抑々帝國臣民ノ康寧(コウネイ)ヲ圖(ハカ)リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範(イハン)ニシテ朕ノ拳々(ケンケン)措カサル所曩(サキ)ニ米英ニ國ニ宣戰スル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾(ショキ)スルニ出テ他

 

國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戰已(スデニ)ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各々(オノオノ)最善ヲ盡セルニ拘ラス我局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス

加之(シカノミナラズ)敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻(シキリ)ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所真ニ測ルへカラサルニ至ル

 

而モ尚交戰ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延(ヒイテ)テ人類ノ文明ヲモ破却スへシ 

斯ノ如クハ朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ

是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムニ至レル所以ナリ

 

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ戦域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

 

惟(オモ)フニ今後帝國ノ受クへキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ哀情モ朕善ク之ヲ知ル 然(シカ)レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

 

朕ハココ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ

若シレ情ノ激スル所濫(ミダリ)ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠(ハイサイ)互ニ時局ヲ亂リ爲ニ道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

 

宜シク擧國一家子孫相傳へ確(カタ)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重(ニンオモ)クシテ道遠キヲ念ヒ總カヲ將來ノ建設ニ傾ケ義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スへシ

爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ


  御名璽

    昭和ニ十年八月十四日


宮城道雄 「私のすきな人」

2016-11-11 20:38:36 | 歴史上の人物


私のすきな人

            
                宮城道雄  

 私のすきな人はたくさんあるので、みな書くことは出来ないが、最近倒れた印度のガンジー翁などはすきである。ラジオや新聞によると、ガンジーは、いつもヤギの乳や、ナツメの実ばかり食べて生活していたとか、それに何か願いごとがあると、よく断食をやったが、その時は、むろんこのヤギの乳も、ナツメの実も食べなかったのであろう。
 私は子供の時に気に入らないことがあると、怒って御飯を食べないことがよくあった。しまいには、みな愛想をつかして、相手になってくれなかった。ところがガンジーが食事をしないと、世界中の人が注目する。これは信仰のため、世のために行われるからであるが、私は子供の時に、自分がやったつまらないことと比べて、考えてみたことがあった。
 ガンジーは、自分をピストルで射った相手をもうらまずに、助けてやるようにと言われたそうである。ガンジーのお葬式の日には、何十万という民衆が、地方から集って来て、ガンジー夫人が、棺へ火をつけて、炎が燃え上った時には、人々が声をあげて、花束を投げこんだというニュースを聞いて、私は広い川のほとりの、この光景を想像して、何か詩のような感じがした。私はずっと以前から、何かしらガンジー翁がすきであった。


 私のすきなお友達の中で、内田百間先生は、随筆で有名な人であるが、手紙をちょっとよこしても、なんでもないことが書いてあるようでいて、それを読んでいると、どことなく面白いのである。
 百間先生は箏がすきで、中学時代に、自転車で箏を習いにいったそうである。前のころであったが、まるでスポーツでもやるような気分で、夏の暑い時など、肌ぬぎで汗を流しながら、箏をジャンジャン練習していた。そして、ロシヤ文学の米川正夫先生と、箏の合奏をするのを、試合をやろうやろうと言っておった。また若いころ百間先生は法政大学の先生をしていたが、夜おそく、私の寝ている二階の雨戸をステッキでゴツゴツ叩くのである。私が驚いて戸を開けると、もういない。

 またある朝、家の者が起きてみると、家の前にあったごみためが、遠くの方へ持っていってあったり、私の箏を教えるという看板が、他所の所へかけてあったりした。
 百間先生が夜おそく通りがかりに、いたずらをしたことがわかったので家の者がくやしがって、今度やって来ても、何も知らぬ顔をしていようと、みなで申し合わせた。はたして先生がやって来たが、みな知らぬふりをした。あまりみなが知らなそうなので、とうとうしびれをきらして、今朝何も変わったことはなかったかとたずねたので、みながいいえ別に、と言ってしらばっくれていると、百間先生、ふしぎそうにしていた。

 百間先生は、よく私を散歩につれていったり、御馳走を食べにつれていってくれたりした。そしてその合間にドイツ語のことや、文学方面やいろいろなことを教えてくれた。
 私は目が見えないので、声を聞いてその人のすがたを感じる。

 ある時、横須賀線で進駐軍の車へ乗せてもらっていると、アメリカの将校らしい人が、わざわざ私の隣りへ腰かけて、私の背中をなでながら、いたわるような声で「一週間前横浜ミュジック」と言った。考えてみると一週間前に横浜の進駐軍の学校へ、箏をひきにいったのである。目が見える人は、進駐軍の服がよいとか、帽子がよいとか、靴がスマートだとかそのすがたを見るようであるが、私は声を聞いてやさしい親切な心を感じた。

宮城道雄 「耳の日記」 

2016-11-07 22:09:45 | 歴史上の人物


耳の日記 

 

            
                宮城道雄 


    友情

 いつであったか、初夏の気候のよい日に内田百間氏がひょっこり私の稽古場を訪ねて来て、今或る新聞社の帰りでウイスキーを貰って来たから※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)にお裾分けしようと言われた。待っていた弟子達は百間先生が来たというので何かひそひそ騒いでいた。百間氏は私に稽古を片附けるようにと言うので私は稽古の合間合間に話をした。こういう時には心嬉しいので稽古もどんどん片附いてゆく。百間氏はこれから次第に暑くなると外へはあまり出掛けないと言う。また寒くなると少し暖かくなる迄は引籠もっていると言う。そこへ出不精な私がたまたま訪問しようと言うと、いや今※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)に来られると二畳敷の所へ庭の外まで道具が並べてあるから迷惑だと言う。


 こういう風でお互は七夕の星のようである。がしかし私は時々内田氏のことを思い出すとあの低い声が聞こえてくる。近頃はさすがの百間先生もビールには悩んでいられるようである。のどがカラカラになって水の涸れた泉のようであるという手紙を貰ったことがあった。

 いつか帝劇の楽屋で会った時、たった一本であったがおみやげにと遠慮しながら出した。すると、※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)、そう遠慮しなくともちょうど鏡が前にあるので、それにうつって二本に見えると言われた。また或る時弟子から貰ったのを届けさせたら、私のいる葉山へ、サンキュー・ビールマッチという電報が来た。私はそれを読んで貰って耳で聞いた瞬間、面白いなと思った。

 今年の春私は宇都宮へ演奏にいって急に肝炎と中耳炎を患って旅先で寝ていると聖路加病院の畑先生が東京から駈けつけて、今来ましたよというその声を聞いた時にはなんともいえぬ心丈夫な気がした。しかし耳が遠いのと熱があるので、すべての物音はおぼろであった。その夜先生は一睡もせずに、二時間おきに手当をして下さったが、翌日徹夜のままで帰っていかれる先生にもっとお礼を言いたいと思っても思うように声が出なかった。


 その後土地の人達やみんなが熱心に介抱してくれたので思いの外早くよくなった。まだ腰が充分に立たなかった私はわきまえもなく帰りたくなってみんなの止めるのもきかずに一番列車で立つことになって、朝早く身体を抱えて人力車へのせて貰っていると、弟子の妹のくにちゃんが駈け出してきて、先生お大事にと言いながら手を握った。私はその小さいやさしい手に触れた時思わず熱い涙が頬を伝った。患って遠くなっている耳にも子供の声は可愛く聞こえた。それからうちへ帰ってもまだふらふらしていたが、小田原の吉田晴風氏から手紙が来て、お見舞として箱根の温泉を一週間程奢るから家内をつれて是非来ないかと言う。

 心をこめた案内であったが、今の世の中に二人が一週間も泊ったら莫大な迷惑になることを遠慮して私が迷っていると、晴風氏はそれと悟られたのか、放送局で会った時、箱根の方は環翠樓を何日から一週間借りにしておいた、此の部屋は余程の人でないと借られないのを無理に都合をして貰ったから来ないとあとの顔が立たんと言われたので私は早速いく事にしたが、いってみて嬉しく思ったのは、そこは全然別世界の離れで不自由な私も人手を借りずに風呂へもはいれる、厠へもいける。私は夜中でもいつでも気の向いた時に一人で自由にお湯にひたったりした。真中の部屋は洋間になっていて私はそこへ腰をかけて流れの音や鳥の声や、いろいろあたりの景色を耳で味わった。

 新緑の頃であったので見渡す山々が美しいと家内が言った。雨が強く降り出すと流れの音と雨の音を聞きわけるのがむずかしかった。吉田氏夫妻がいろいろ食糧を運んでくれたりして居心地がよかったので、ついつい一週間を過した。私はこのおかげで身体も整い、耳もよくなって今では病気以前にもまさって元気である。


    虫の音

 この葉山では五月の頃みんみんに似た声の蝉がなく。その声は何となく弱く聞こえて現世のものではないように感じられる。今年はいつまでも肌寒くて夏の来るのが遅かったように思われた。七月の十三日に初めて夏らしい蝉の声を聞いた。それはヂーと長くひっ張って鳴くのであった。その日の夕方に裏の山からひぐらしの声が聞こえた。その月の二十五日には昼過ぎにもひぐらしが鳴いた。ひぐらしが朝早くから夕方迄ときをつくって幾度もなくようになると私は秋が近いのだと感じる。ひぐらしは一匹がなき始めると他のひぐらしもうつったように鳴き出す。その声が山全体に段々ひろがってゆくように聞こえる。

 或る時、私が机にもたれているとすぐ傍の障子の処でひぐらしが二三匹声を揃えて鳴いた。私は考え事をしていたのでおどかされたようにびっくりした。しかしその声の調子や拍子が合っていたので不思議に思った。七月二十九日の朝七時過ぎにみんみんの声を初めて聞いた。越えて八月の六日には庭でこおろぎがなきはじめた。また同じ月の十三日には関東ではあまり聞かぬ蝉がないた。この蝉は関西にはよくいてセビセビセビセビと続けてなくのである。私は葉山では毎年聞くが、それも一匹位で日にひとしきり、ふたしきり程なくだけで二日もたつともう声が聞こえなくなる。

 八月も半ばを過ぎると浜辺に打ち寄せる波の音も秋の訪れを思わせるように私には感じられる。虫の音も次第に数を増してくる。夜になると私の床にひとしお床しく聞こえるのはこおろぎ、馬追い、鉦叩き、くさひばり、えんまこおろぎ、またその中を縫うように名も知らぬ虫の声が聞こえてくる。くさひばりは昼間も静かにないている。こおろぎは昼間はゆっくり羽を動かして忍びなきしているように聞こえる。

 今年の秋は蝉ではオーシーツクが一番あとまで聞こえた。何といってもこおろぎは秋の初めから終りまで鳴き過す。少し寒く感じる日には家の中へはいってきて鳴く。私はその声を聞くと一層かわいらしく思うのである。今はもう秋も末になってこおろぎの声も絶えだえである。風もなく天気のよい午後の空を破るような声を立てて百舌が飛んでいる。

宮城道雄 「純粋の声」

2016-11-05 22:52:00 | 歴史上の人物

      
純粋の声

            
                宮城道雄 

 私が上野の音楽学校に奉職することになった時、色々話があるからというので、或る日学校に呼ばれて行ったことがある。いよいよ講師としての辞令を渡された時、乗杉校長が、この学校は官立であるから、官吏という立場において体面を汚さぬようなことは、どんなことをしてもよいが商事会社の重役になってはいけぬと言った。

 私も長年弟子を教えてはいたが、学校の先生になったのは初めてなので、非常に珍しくまた嬉しい気持がした。第二に嬉しかったのは、鉄道の割引があるので、何だかむやみに嬉しくて、その当時は何処か旅行がしてみたくてたまらなかった。そのお蔭でそれ程用事もなかった所にも行ったりした。しかし最近は割引をして貰うのに、時間がとれて面倒に思うようになった。

 或る日音楽学校で、私の作曲したものを箏曲科の学生に歌わせたことがあった。何れも女学校を卒業した者か、またはそれ位の年頃の者であったが、その声の良し悪しは別として、それが非常に純粋な響きで私の胸を打つものがあった。唄が朗詠風のものであったので、私は歌わせていながら、何だか自分が天国に行って、天女のコーラスを聴いているような、何ともいいがたい感じがした。私は或るレコードで、バッハのカンタータを聴いたことがあるが、そのカンタータのコーラスが、わざわざ少女を集めてコーリングしたので、曲もそうであるが、普通のコーラスとは別の感じがして、私はその演奏に打たれたことがあった。私はその時、これから少女たちの声を入れたものを作曲してみたいと思った。

 音楽学校の講師になって間もなく、盲学校の方にも頼まれて、掛けもちで行くことになった。初めて盲学校の授業があるので、教官室で時間の来るのを待っていたら、どの先生も、どの先生も、とてつもないひどい足音をさせて歩いていた。テーブルの上のものはガラガラ音がするし、どうも大股でわざと音を立てているらしい。建物がしっかりしているらしいからよいようなものの、根太が抜けやしないだろうかと思われた。

 私はどういう訳でこんなひどい音をさすのかと思ったが、それは生徒が盲人なので、大きな音をさせて歩けば、自然に生徒がよけて通る仕掛けになっていたのだそうである。或る先生の如きは腰に鈴をつけて、生徒がぶつからぬようにしていた。

 それで生徒の方でも、いつの間にかその歩く足音で、あれは何先生だということを感別していたのだそうである。私は如何にも音のことに就いて教育されている学校だと思って、感心したことがある。

 盲学校の事について、思い出すのは、或る日、盲学校で演奏会があった。その時、片山校長が、「盲人と音楽」ということに就いて話された。校長の話が終ると聞いていた職員や、盲人の生徒たちが、感激のあまり、先生先生といって校長の傍に近よって行った。私の察するところでは、校長が盲人たちに突き当たられる不安があったらしく、それに元来盲人は感覚の強いものであるという点を思われてか、一々近よって来た盲人たちを、自分の手で触れて行かれた。実はそういう私も手で触れられた一人であった。

 この場の光景は私には見えなかったが、私の想像では、校長が職員や盲人の生徒の群がる中を泳ぐようにして、進んで行かれたのではないかと思った。そして、手を触れて貰った職員や生徒たちは、さぞ校長を懐しく思ったことであろうと思った。


宮城道雄 「春雨」

2016-11-03 16:53:47 | 歴史上の人物


春雨
           
                宮城道雄


 家の者が、「座右寶」に梅原氏の絵が出ていると言うので、私はさわらせて貰った。さわってみても私に絵がわかる筈はないが、それでもやはりさわってみたい。いろいろと説明を聞きながらさわっている中に、子供の時に見た絵を想像した。


 子供の時に見た絵を思い出してみると、主に人物で、景色の絵などはかすかである。私の前にお膳があるとか、茶碗がのっているとか、火鉢があるということがわかると、みんな見えているように思うが、それが昔見た想像である。しかし、さわってみてもあまり見当は違っていない。

 月とか、花とか、景色なども、少し見えていた子供の時のことを、今ではかえって美しく想像する。
 よく人が、盲人は真暗のように思っているが、それは少しでも見えることで、私には暗いのも見えなくなっているので、結局、明るくもなく、暗くもなく、なんにもないことになる。
 こうして現実の光から遠ざかった私は、耳で聞いたり、手に触れたりする感覚によって、また見る世界を想像するのである。


 何時であったか、増上寺のお霊屋で、全国から集った婦人の髪の毛を、一本ずつ織りこんで浮きだしたようになっている極楽の絵をさわってみて、深く感じたことがあった。
 フランスのドビッシーは、日本の絵を見ていろいろ作曲されたといわれている。また昔、ある絵かきが、※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)の弾く箏の音色を、隣りの間で聞きながら、絵を描いたとかいう話を聞いた。私は耳できいて、絵のようなものを感じるのである。

 また私は仏像や、その他いろいろの物をさわって楽しむ。それが冬の寒い時など、細かなところをさわるのに、指先の感じがにぶるので、火にあぶったり、摩擦したりして、撫でるのであるが、それが暖かくなると、らくらく指先に感じる。


 嬉しいことには、今年も早や、春が訪れて、つい、二三日前から、家の庭に鶯が来て、しきりに囀っている。
 或る朝、私が眼を醒ますと、春雨のしとしと軒を打つ音が聞こえて、すぐ横の障子の外の方で、鶯の声が続けさまに聞こえた。あまりしきりなく聞こえるので、二匹が掛合に囀っているのかとも思った。

 私は、雨の音や、鶯の声に、春の朝ののどけさを感じて、寝床の中で、のんびりとした気持になりながら、思い出したのは、何時であったか内田百間氏が、私に鶯の声を聞かせたいというので、障子のはまった立派な箱を下げて来られた。


 夕食に一杯飲みながら、私がその箱をさぐっていると、※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)※(「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7)の書いたものを見ると、鶯のことは、あまりくわしくはなさそうであるから、一つ教えることにするといって、いろいろ話された。

 鶯の声には、上げ、中、下げというのがあって、上げは高く鳴き、中は中音、下げは落著いた静かな声である。鳴きはじめの「ホー」のひっぱり方にも、「ケキョ」の早さにも、いろいろ特徴のあることなど教えて貰った。また、谷わたりの節は、薮鶯が上手であるという話であった。わたしはその話を聞きながら、そっと箱へ耳をつけてきいてみたが、鶯はねむっているのか、何の音もしなかった。


 百間氏は、この鶯を今夜一晩とまらせるから、明日ゆっくり聴くようにといいながら、あかりの工合がむずかしいからと、自分で置き場所を探して、其処において帰っていかれた。翌日は早くから、よい声を聞かせてくれた。わたしが箏の稽古を始めると、興にのったように、谷わたりや、いろいろに囀った。

 私は今寝床の中で、こんなことを思い出している中に、さっきの鶯の声は聞こえなくなったが、春雨の音は、少し強くなっていた。

宮城道雄 「山の声」 

2016-11-02 12:15:59 | 歴史上の人物

                

           
                  宮城道雄

山の声
  
 私が失明をするに至った遠因ともいうべきものは、私が生れて二百日程たってから、少し目が悪かったことである。しかし、それから一度よくなって、七歳の頃までは、まだ見えていたのであるが、それから段々わるくなって、九歳ぐらいには殆ど見えなくなってしまった。それで、私が、今でも作曲する時には、その頃に私が見ていた、山とか月とか花とか、また、海とか川とかいうものの姿が、浮かんで来る。
 こういうわけで、自然の色も何も見たことがない、本当の生れつきからの盲人にくらべると、私はその点では、恵まれているといわなければならぬ。

 それにしても、私は子供の時に失明したので、私の心を慰めてくれるのは、音楽とか、或は春夏秋冬の音によって、四季の移り変りを知る他にはなかった。それで、音楽でも私は自然のものが非常に好きであった。
 このような関係で、私は音楽の道に入ったが、作曲をするようになった動機というものは、私の父は十二三歳の頃、私と私の祖母と二人を残して、朝鮮に行ったのである。ところが、あちらで父は獰猛な暴徒に襲われて、重傷をおわされたために、私の学資を送って来なくなった。

 私はその頃、二代目中島※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)※(「てへん+交」、第4水準2-13-7)に就いて、箏を勉強していたが、父からの送金が絶えたので、師匠が教えているお弟子の、下習えというものをして学費を得ていた。私はこうして謝礼を貰って、一種の苦学みたいなことをしていたのである。

 私の師匠は教えることに、非常に厳しくて、弟子が一度教わったことを忘れるということはない。一度教えたことを忘れたら、二度と教えてはやらないという風であった。しかし、やはり子供であるから、一度教わっただけでは忘れることがあった。或る日、私が教えて貰った曲を忘れたので、師匠が怒って、思い出すまでは、家に帰らさんといって、夜になっても帰して貰えなかった。そうして、こういう時には、思い出すまでは、食事をさせられないのである。こういう厳しいお稽古を受けたのであった。
 これは今から考えると、大変野蛮なことのように思われるが、私はお腹がすいた時が、一番頭がはっきりする。従ってお腹のすいた時程、考えがまとまるのである。今でも何か考え事をする時は、余り沢山食べないように加減している。

 これからまた、冬には、寒稽古といって、千遍弾きということをやる。それは同じ曲を何日もかかって弾くのである。昔の人は万遍弾きといって、お宮のお堂に立て籠って徹夜で弾く。眠くなると、箏を弾いている姿勢のままで、うつむいて寝てしまい、目が醒めるとまた、弾き出すのである。こういう風に、昔の人は私たちよりも、まだ一層厳しい稽古をしたのである。

 私は十四歳の時に、父から呼ばれて朝鮮へ渡った。私が朝鮮に行ってからは、誰も教わる先生がなかったので、私は毎日、自分の師匠から習った曲ばかりを弾いていたが、しかし、それだけではどうも私には物足りなかった。

 その頃、私たちは仁川に住んでいたのである。丁度、私の家は小学校の下にあったので、私は学校の生徒が歌う唱歌や西洋の音楽などが聞こえて来るのを楽しみにしていた。それからまた、家の前が原っぱになっていたので、色々自然の音も聞くことができた。雨の音や霧の音などを聞いて自然の音を楽しみ、その中から得た印象によって、それを基にして、何か作曲してみたいと思っていた。
 丁度その折、私の弟がいつも読んでいた読本の中に、水の変態というのがあって、それは七首の歌によって、水が霧、雲、雨、雪、霞、露、霜と変って行くことが詠まれていたのである。

 私はそれにヒントを得て、「水の変態」という曲を作った。この曲は自分のものとしてはまだ、昔のお箏の手型からあまり出てはいなかったのである。元来、日本の箏の曲というものはハーモニーが考えられていないので、私はどうしても、日本の音楽にも必ずハーモニーが必要であると感じたので新しい作曲をする上について、西洋音楽を聞き、また、洋楽の先生に訊ねたりして、色々と工夫したわけである。それから年を経るに従って、私は朝鮮のようなところでなく、都会へ行って、勉強もしたり、また、一旗挙げたいと思って、東京へやって来たのである。それで私はまだ色々研究して、自分の芸を勉強しなければならぬと思っている。そして、自分の芸を完成させるためには、自分の一生が二度あっても三度あっても足りないと思っている。

 私は盲人であるけれども、勉強するには点字があるから不自由はしない。音楽の勉強をしたいと思えば、独逸ドイツで出来ている、点字のオーケストラやピアノの曲の譜面があるので、それを手で探り探り読むのである。

 私はいつでも作曲するのに、晩の御飯を食べた後で一寸ひと寝入りして、世間が静かになってから、自分の部屋でコツコツ始めるのである。丁度、学生が試験勉強をするようなものである。或る時は、徹夜をする時もある。そして、夜が更けて、あたりが静まってしまうと、自分の神経の所為か、色々の音が聞こえて来るように思われるのである。

 これは人から聞いた話しであるが、西洋の或る作曲家が、山の静かな所へ行くと、山の音楽が聞こえて来る、しかし、それが、はっきりとしたものではないので、楽譜に書き改めることはできないが、しかしやはり何かしら聞こえて来るので、その音楽を掴もうとして掴み得ずに一生を終ってしまったということを聞いたことがある。

 私も夜が更けるに従って、色々の音が聞こえて来るのであるが、初めは、形のない、混沌としたしかも漠然としたその曲全体を感じる。それで私は最初に絵でいえば、構図というべきものを考えて、次に段々こまかく点字の譜に、それを書きつけるのである。そうして、作曲する時に、山とか、月とか花とかを、子供の時に見たものを想像しながらまとめてゆくのである。

 こうしたわけで、作曲の際とか詩などを読むという場合には、四季のことが人よりも一層深く感ぜられるのである。そうして、私は世の中の音、朝の音、夜の音などを静かに聞いていると、いつかそれに自分の心が誘われて、遠い所へ行っているような気持になることがある。

 次に、同じ雨の音でも春雨と秋雨とでは、音の感じが全然違っている。風にそよぐ木の音でも、春の芽生えの時の音と、またずっと繁った夏の緑の時の音とは違うし、或は、秋も初秋の秋草などの茂っている時の音と、初冬になって、木の葉が固くなってしまった時の音とは、また自ら違うのである。それから、紅葉の色も、自分には直接見えないけれども、その側に行くと、自分には何となくその感じがする。

 私は或る時、音楽学校から岐阜へ演奏旅行に行ったことがある。その時は、昼と夜と二度演奏をしたのであるが、昼の演奏を済ませてから、知事さんの招待で長良ホテルという所に行った。そして、私の傍に居合わせた者が皆、景色がよいといっていたが、私も何となく、河原が広いという感じがしたし、東京を遠く離れてやって来たという感じが沁々としたのである。

昔、在原業平が遠く都を離れて東あずまへ来た時に、都鳥を見て読んだ、

名にしおはばいざこと問はん都鳥
我が思ふ人はありやなしやと
 
 という歌を思い出して、私は何か知らそういった気持になったことがあった。

 今日はスピード時代で、東京を遠く離れた所も汽車でわけなく行かれるのであるが、しかし、旅で夕方などになると、随分遠い所に来たような感じがする。
 これは音楽に関係したことではないけれど、私はスピードという言葉で思い出したが、最近はフランスあたりから飛行機で、四日間ぐらいで日本に飛んで来られるようになっている。そういうことのある度に、私は残念に思っていることは、自分の頭や、仕事は、なかなかスピードが出ないことである。
 私は将来まだ沢山研究したい事があるので、それをやり遂げるためには、今よりもっと、頭にスピードをかけて、勉強しなければならないと思っているのである。




宮城道雄 「音の世界に生きる」

2016-11-01 22:57:48 | 歴史上の人物


の世界に生きる

 

        
           宮城道雄  ウィキペディア 


    幸ありて 

 昨年の暮、一寸風邪をひいて欧氏管を悪くした。普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、九つの年に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して、私の心を暗くした。もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。音の世界にのみ生きて来た私が、いま耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。幸い何のこともなく全治したが、兎に角今の私には、耳のあることが一番嬉しくまた有難い。 
 

 私は、生れて二百日くらいから眼の色が違っていたそうであるが、それが七つの頃から段々見えなくなった。その為に学校に上れなかったが、それが当時の私には何より残念だった。めくらといわれるのがどうにも口惜しくてならなかった。それで無理に見えるふりをして歩いて、馬力につき当ったり泥溝に落ちたりして怪我をしたものである。が、結局諦めねばならなかったので、九つの六月から箏を習いはじめた。音楽は元来非常に好きだったので、間さえあれば箏に向っていた。しかしその頃は――そしてずっと後年まで、やはり時には、眼が見えたらなあと寂しく思うようなこともないではなかった。 
 

 だが、しかし今日では、年も取ったせいであろうが、眼の見えぬことを苦にしなくなった。時々自分が眼の悪いということを忘れていることさえある。「ああ、そうそう、自分は眼が見えなかったんだな」と気がつくようなことがしばしばある。というのは、物事は慣れてしまうと、案外不自由がないものだから、私なども家の中のことなら大抵、人の手を借りることなしにやれる。それだけにまた一しお、この耳とそして手の感触をありがたいものに思うのである。 
 

 私は、眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になったのであろう。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。そして、そこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ淋しさを充分に満足させることができる。そこに私の住む音の世界を見出して、安住しているのである。


宮城道雄 「純粋の声」

2016-10-30 22:05:41 | 歴史上の人物

 

純粋の声


             
              宮城道雄  ウィキペディア


 私が上野の音楽学校に奉職することになった時、色々話があるからというので、或る日学校に呼ばれて行ったことがある。いよいよ講師としての辞令を渡された時、乗杉校長が、この学校は官立であるから、官吏という立場において体面を汚さぬようなことは、どんなことをしてもよいが商事会社の重役になってはいけぬと言った。

 私も長年弟子を教えてはいたが、学校の先生になったのは初めてなので、非常に珍しくまた嬉しい気持がした。第二に嬉しかったのは、鉄道の割引があるので、何だかむやみに嬉しくて、その当時は何処か旅行がしてみたくてたまらなかった。そのお蔭でそれ程用事もなかった所にも行ったりした。しかし最近は割引をして貰うのに、時間がとれて面倒に思うようになった。

 或る日音楽学校で、私の作曲したものを箏曲科の学生に歌わせたことがあった。何れも女学校を卒業した者か、またはそれ位の年頃の者であったが、その声の良し悪しは別として、それが非常に純粋な響きで私の胸を打つものがあった。唄が朗詠風のものであったので、私は歌わせていながら、何だか自分が天国に行って、天女のコーラスを聴いているような、何ともいいがたい感じがした。
 私は或るレコードで、バッハのカンタータを聴いたことがあるが、そのカンタータのコーラスが、わざわざ少女を集めてコーリングしたので、曲もそうであるが、普通のコーラスとは別の感じがして、私はその演奏に打たれたことがあった。私はその時、これから少女たちの声を入れたものを作曲してみたいと思った。

 音楽学校の講師になって間もなく、盲学校の方にも頼まれて、掛けもちで行くことになった。初めて盲学校の授業があるので、教官室で時間の来るのを待っていたら、どの先生も、どの先生も、とてつもないひどい足音をさせて歩いていた。テーブルの上のものはガラガラ音がするし、どうも大股でわざと音を立てているらしい。建物がしっかりしているらしいからよいようなものの、根太が抜けやしないだろうかと思われた。
 私はどういう訳でこんなひどい音をさすのかと思ったが、それは生徒が盲人なので、大きな音をさせて歩けば、自然に生徒がよけて通る仕掛けになっていたのだそうである。或る先生の如きは腰に鈴をつけて、生徒がぶつからぬようにしていた。

 それで生徒の方でも、いつの間にかその歩く足音で、あれは何先生だということを感別していたのだそうである。私は如何にも音のことに就いて教育されている学校だと思って、感心したことがある。
 盲学校の事について、思い出すのは、或る日、盲学校で演奏会があった。その時、片山校長が、「盲人と音楽」ということに就いて話された。校長の話が終ると聞いていた職員や、盲人の生徒たちが、感激のあまり、先生先生といって校長の傍に近よって行った。

 私の察するところでは、校長が盲人たちに突き当たられる不安があったらしく、それに元来盲人は感覚の強いものであるという点を思われてか、一々近よって来た盲人たちを、自分の手で触れて行かれた。実はそういう私も手で触れられた一人であった。


 この場の光景は私には見えなかったが、私の想像では、校長が職員や盲人の生徒の群がる中を泳ぐようにして、進んで行かれたのではないかと思った。そして、手を触れて貰った職員や生徒たちは、さぞ校長を懐しく思ったことであろうと思った。


宮城道雄 「心の調べ」

2016-10-28 11:19:47 | 歴史上の人物


心の調べ
             
              宮城道雄  ウィキペディア

 どんな美しい人にお会いしても、私はその姿を見ることはできませんが、その方の性格はよく知ることができます。美しい心根の方の心の調べは、そのまま声に美しくひびいてくるからです。声のよしあしではありません、雰囲気と申しますか、声の感じですね。

 箏の音色も同じことで、弾ずる人の性格ははっきりとそのまま糸の調べに生きてまいります。心のあり方こそ大切と思います。七歳の年までに私を慰めてくれた月や花、鳥などが、私の見た形ある最後のものでした。それが今でも、美しく大切に心にしまってありますが、その二年後に箏を習い始めてから今日まで、私は明けても暮れても自分の心を磨き、わざを高めることにすべてを向けてまいりました。

 生活そのものが芸でなければならない、という信念で生きてまいりました。私のきた道――芸に生きてきたことを幸福と思いますし、また身体が不自由であったために、芸一筋に生きられたと感謝しております。

 と申しても、私にはやっぱり眼が必要でした。私の眼は家内でした。貧乏がひどかったので、質屋にもずいぶん通ったり、いろいろな苦労をかけましたが、三十年の月日を通じて、生活の面で私はずっと家内におぶさりっきりです。家内は若い時分はよく箏をひきましたが、いつの頃からかすっかりやめて、私の眼となることだけに生きるようになりました。

 そして、私の仕事に対する、なかなかの大批評家になりました。母心の適切な批評をしてくれます。他の人と外へ出かけたときでも、何か遠くから家内が見守ってくれていることを私は感じます。それだけで、私は安心して仕事ができます。手をとってくれる年月が永くなるにつれて、母という感じが家内に加わって、私は頼りきって修業をつづけております。


宮城道雄 「声と食物」 

2016-10-25 10:52:06 | 歴史上の人物


声と食物



                
                  宮城道雄  ウィキペディア 


 
 私の経験から歌についていうと、言葉と節とが調和する時と、しない時とがある。従って、外国の歌を日本語に訳した際に、訳され方によって、音と言葉とがあっていないような気がする。殊にオペラなどにおいて、そうした点に無理なところがあるのを感じるのである。そこへ行くと、長年聞き馴れた邦楽は言葉と節とがよくそぐうているような気がする。その最もよい例は義太夫であるが、ただ、現代の言葉と違うために、今の若い人にはその言葉や音の味わいが直ぐわかるかどうか――恐らくわからないことが多いと思う。

 義太夫は関西に生れたもので、総てが関西語である。これが東京の発音そのままで語られたら、一つの漫談のたねになることだろうと思う。

 現代は交通が便利になって、土地が狭まったようであり、そのため、その土地特有の民謡とか何々音頭とかが沢山出来ていても、純粋にその土地を踏んだことのない人が作ったりする。それはその土地の風景を歌に詠み込んで、一般の人に歌いよいように作曲しているので、別に地方色を現わすのが目的ではないから、それはそれとしてよいが、交通の不便な時代は隣り国といっても遠いことになるから、その土地だけの言葉やその土地の感じを写して自然に生れた民謡が多いので、その土地と曲とがしっくり合っている。

 また食物などによって、その国々の声が違うように思う。その訳は、私は長く朝鮮にいて妓生(きいさん)の声が非常にいい声だと思って聞いていたが、それは内地流にいえば、錆があるとでもいうか、声が少しかすれたような所があって、非常にいい声である。

 それは、朝鮮の人は唐辛子を非常に沢山食べる。副食物のうちで一番大切な漬物の中に必ず入れる。その上、気候が寒いので、オンドルで部屋を熱くして、唐辛子を食べて寒さを凌いでいる。従って辛いもので、咽喉を刺戟する所為か、声の中に空気の交ったような少しかすれた声が出る。その声がまた何ともいえぬ味があるのである。

 それと比較して、欧州人の歌うあの綺麗な声は、肉食をしているためであると思っている。それで、声楽家の三浦環女史は歌う前にはいつも、ビフテキを食べられるということを聞いた。また私の奉職している音楽学校で、観世流の家元とよくお目にかかることがあるが、観世氏は非常に大事なお能のある前には、ビフテキを二皿も三皿も平らげるということを聞いた。

 すべて、歌う前には動物性の油は咽喉によいが、植物性の油はよくない。テンプラなどを食べた後は声が出ない。或る義太夫語りは或る地方に行って、初日の日にテンプラを食べて出演したため声を悪くして、初日を滅茶々々にしたという話しがある。このテンプラの話しも唄う直ぐ前のことで、時間を経てば差し支えないと思う。

 また、私の経験によると、林檎のようなもの、レモンのような柑橘類の少し熟したものを食べると、声のよく出ることがある。それも人によって違うかも知れぬが、多くの場合一寸酸味のあるものはよいようであるが、鮨などはあまり食べない方がよく、酢は殊にいけない。そして、声を出すのに大切なことは、胃を悪くしないことである。私は唄う前には決して食物をとらない。たとえ食べても、腹八分目にしておくのである。重ねていうておくが、この食養生は唄う直ぐ前のことである。

 少し話しが専門のことになったが、普通の婦人たちが話しをする時も、なるべく美しい声を出して貰いたいと思う。近ごろの若い婦人はかなり音楽的な声や言葉になって来たところもあるように思う。婦人が夫を慰めるのは、あながち、容貌とかお化粧だけにあるのではなく、これは私の音に生活しているためかも知れぬが、声や言葉にもあると思う。夫が疲れて帰って来て、優しい言葉や声で慰めて貰えば、夫婦喧嘩は起こらないだろうと思う。

 言葉はただ目で文字を読んだ感じだけでなく、耳で聞いてもいい感じの言葉を用いたいものである。普通人と対座する時でも、なるべく言葉や声によって、よい感じを与えるようにしたいと思う。それには、お互に婦人に限らず、美しい声と美しい言葉とを遣うようにしたいものである。特に女性の優しさというものは声と言葉にあるように、私は思っているのである。

 


宮城道雄 「心の調べ」

2016-10-23 19:56:54 | 歴史上の人物


心の調べ
    
                   

                                              宮城道雄  ウィキペディア 

 どんな美しい人にお会いしても、私はその姿を見ることはできませんが、その方の性格はよく知ることができます。美しい心根の方の心の調べは、そのまま声に美しくひびいてくるからです。声のよしあしではありません、雰囲気と申しますか、声の感じですね。

 箏の音色も同じことで、弾ずる人の性格ははっきりとそのまま糸の調べに生きてまいります。心のあり方こそ大切と思います。七歳の年までに私を慰めてくれた月や花、鳥などが、私の見た形ある最後のものでした。それが今でも、美しく大切に心にしまってありますが、その二年後に箏を習い始めてから今日まで、私は明けても暮れても自分の心を磨き、わざを高めることにすべてを向けてまいりました。生活そのものが芸でなければならない、という信念で生きてまいりました。
 私のきた道――芸に生きてきたことを幸福と思いますし、また身体が不自由であったために、芸一筋に生きられたと感謝しております。

 と申しても、私にはやっぱり眼が必要でした。私の眼は家内でした。貧乏がひどかったので、質屋にもずいぶん通ったり、いろいろな苦労をかけましたが、三十年の月日を通じて、生活の面で私はずっと家内におぶさりっきりです。家内は若い時分はよく箏をひきましたが、いつの頃からかすっかりやめて、私の眼となることだけに生きるようになりました。

 そして、私の仕事に対する、なかなかの大批評家になりました。母心の適切な批評をしてくれます。他の人と外へ出かけたときでも、何か遠くから家内が見守ってくれていることを私は感じます。それだけで、私は安心して仕事ができます。手をとってくれる年月が永くなるにつれて、母という感じが家内に加わって、私は頼りきって修業をつづけております。