日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹 「宣誓供述書」(全文)その27 摘 要 

2023-12-25 23:44:05 | 東條英機  

                 パル判事の碑文 (靖国神社)


東條英機 宣誓供述書 

 
                        

摘要 

 

156  

 本供述書は事柄の性質が複雑且重大なるよりして相当長文となりました。
ただ私は世界史上重大なる時期に於て、日本国家がいかなる立場に在ったか、
又同国の行政司掌の地位に撰ばれた者等が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、
その権限内に於て、如何なる政策を樹て且之を実施するに努めたかを、
此国際的規模における大法廷の判官各位に御諒解を請はんがため、
各種の困難を克服しつつ之を述べたのであります。


 斯の如くすることに因り私は太平洋戦争勃発に至るの理由及原因を描写せんとしました。

 私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、
我が国に取りては無効且惨害を〇(一文字、判読不明)した所の1941年(昭和16年)12月8日に発生した戦争なるものは
国を欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に原因し
我国の関する限りに於ては
自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信する
ものであります。

 尚東亜に重大なる利害を有する国々(中国自身を含めて)が何故戦争を欲したかの理由は他にも多々存在します。
これは私の供述の中に含まれて居ります。
我国の開戦は最後的手段として且緊迫の必要よりして決せられたものである事を申し上げます。

 

 満州事変、支那事変及太平洋戦争の各場面を通して、
其の根底に潜む普段の侵略計画在りたりと為す主張に対しては
私はその荒唐無稽なる事を証する爲め、最も簡潔なる方法を以て之を反証せんと試みました。

 我国の基本的且不変の行政組織に於て
多数の吏僚中の内少数者が、長期に亘り、数多くの内閣を通じ、
一定不変の目的を有する共同謀議(此の観念は日本には存在しないが)を為したなどいふ事は
理性ある者の到底思考し得ざる事なることが直ちに御了下さるでありませう。
私は何故に検察側がかかる空想に近き訴追を為さるかを識るに苦しむので有ります。

 日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、
これが太平洋戦争開始の計画に追加された事、
尚ほこの政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため
本法廷に多数の証拠が提出せられました。
之に対し私の証言はこの合理にして且自然に発生したる導因の本質を白日の如く明瞭になしたと信じます。


  私は国際法と太平洋戦争の開始に関する問題とにつき触れました。
又日本に於る政府と統帥との関係殊に国事に関する天皇の地位に言及しました。
私の説明が私及私の同僚の有罪であるか、無罪であるかを御判断下さる上に資する所あらば幸であります。


 終りに臨み、恐らくこれが当法廷の規則の上で許される最後の機会でありませうが、
私は茲に重ねて申し上げます。

 日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、
侵略でもなく、搾取でもありませんでした。

 一歩は一歩より進み、又適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、
憲法及法律に定められた手続に従ひ之を処理して行きましたが、
ついに我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。
当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷した我々としては、
国家自衛のため起つといふ事が唯一つ残された途でありました。

 我々は国家の運命を賭しました。
而して敗れました。
而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。


 戦争が国際法上より見て正しい戦争であったか否かの問題と、
敗戦の責任如何との問題とは、
明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。

 第一の問題は外国との問題であり且法律的性質の問題であります。
 私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、
現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。


 私は未だ曾て我国が本戦争を為したことを以て
国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、
又敗戦国の適法なる官吏たりし者が国際法上の犯人なり、
又条約の違反者なりとし糾弾せられるとは考えた事はありませぬ。


  第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。
 この意味に於ける責任は私は之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。

右ハ当立会人ノ面前ニテ宣誓シ且ツ署名捺印シタルコトヲ証明シマス

  同日同所

                       立 会 人   清 瀬 一 郎 

 

  宣 誓 書 

    良心ニ従ヒ真実ヲ述ベ何事ヲモ黙秘セズ付加セザルコトヲ宣ス 

                    署名捺印  東 條 英 樹

 

    昭和22年(1947年)12月19日 於東京、市ヶ谷

                      供 述 者  東 條 英 樹 


       



大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その26 ソ連並びにコミンターンとの関係

2023-12-25 23:35:15 | 東條英機  

                   パル判事の碑文 (靖国神社) 


 

東條英機 宣誓供述書 

  
                    



ソ連並びにコミンターンとの関係
 

 155  

 日本は未だ嘗て検察側の主張するが如き、
ソ連邦に対し、侵略を為せることは勿論、之を意図したこともありません。
我が国は寧ろソ連邦の東亜侵略に対し戦々競々其の防衛に腐心し続けて来たのであります。

  殊に昭和7年(1932年)満州国の成立後に於いては、日本はその防衛の必要と、
日満共同防衛の盟約とに基づき同国と協力し、
隣邦ソ連に対し、満州国の治安確保とその防衛に専念し来たのであります。

 而して日本陸軍としては、
此の目的を達成するための軍備整備の目標を主としてソ連極東軍に置いて居たのであります。

 従って、日本陸軍の対「ソ」作戦計画の本質は対「ソ」防衛であります。
其の計画の内容に攻撃の手段を含んで居りますが、
之は国家が万が一開戦を強いられた場合に於て採るべき戦闘手段を準備計画せるものであり、
我方より進んで戦争することを意味するものではありません。
又、決して侵略を目的にしたものでないことは勿論であります。

 尚ほ大東亜共栄圏に西シベリア地域を国家の意思として考えたこともありません。
本法廷に於て検察側より所謂『関特演』計画に関することが証拠として提示されて居りますが、
これとても此の範囲に出づるものでなく、且これは一に資財、人員の補充を計ったものであります。

 他面日本の対ソ外交は常にソ連邦との間に『静謐保持』を以て一貫して居ったのであります。
支那事変次で太平洋戦争発生以後に於ては、日本は北辺に事無からんことを常に細心の注意を払ひ
殊に1940年(昭和15年)4月、ソ連邦との間に、日ソ中立条約の締結を見たる以後に於ては、
これが堅持を基本として対「ソ」平和政策を律し来たのでありまして、
1945年(昭和20年)8月同条約の有効期間に之を破って侵略を行ったのは日本ではありませんでした。

 他面帝国は第三「インターナショナル」の勢力が東亜に進出し来ることに関し深き関心を払ってきました。
蓋し、共産主義政策の東亜への浸透を防衛にあらざれば、
国内の治安は破壊せられ、東亜の安定を撹乱し、
延いて世界平和を脅威するに至るべきことをつとに恐れたからであります。


  之がため、国内政策としては1925年(大正14年)治安維持法を制定し(若槻内閣時代)
1941年(昭和16年)更に之を改定し、
 以て国体変革を戒め、私有財産の保護を目的として共産主義による破壊に備へ、
又対外政策としては、支那事変に於て中国共産党の活動が、日支和平の成立を阻害する重要なる原因の一たるに鑑み、
共同防衛を事変解決の一条件とせることも、
又東亜各独立国家間に於て『防共』を以て共通の需要政策の一つとしたることも、
之はいづれも東亜各国協同して東亜を赤化の危険より救ひ、且自ら世界赤化の障壁たらんとしたのであります。

 此等障壁が世界平和のため如何に重要であったかは、
第二次世界大戦終了後此の障壁が崩壊せし2年後の今日の状況が雄弁に之を物語って居ります。
 

 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その25 軍紀の確立に関し私の執った政策

2023-12-25 23:30:07 | 東條英機  

                パル判事の碑文 (靖国神社)


 

東條英機 宣誓供述書 

 
                        

軍紀の確立に関し私の執った政策 

154   

 五・一五事件、二・二六事件の如き不祥事件の惹起は
軍人の政治関与及徒党的関係の派生を助長せんとする傾向にありましたから、
陸軍としては厳に戒心を加ふる必要を生じました。

 二・二六事件の当時私は陸軍憲兵隊司令官を勤務して居りましたが、
この事件に関係ある在満在留邦人及駐満軍隊を通し其の関係者、容疑者を一挙に検挙し
軍紀の振粛と治安の確立に尽力しました。


 二・二六事件の直後寺内陸相は特に軍機の粛正を断行し、
軍人の政治関与を厳禁すると共に軍内の派閥的関係の生起することを厳に戒むるの方針をとりました。
其後の歴代陸相は皆此の方針を継承したものであります。私も亦陸相として此の方針を堅持しました。

 軍内に徒党的関係の発生するを防止するため人事行政に於ては個人的の親疎を以て人事に影響せしめず、
専ら個人の才能、経歴を重視し適材を適所に配置することに努めたのであります。


 又軍の本質に鑑み組織の活用を重視しました。
即ち組織の中に於ける各職責を尊重し、命令系統其他業務系統を正しく運用することに努めたのであります。
又軍人の政治関与は厳に之を抑制しました。


 特に私の内閣総理大臣に就任して後は
内閣の業務と陸軍省の業務とは裁然之を区別して厳に之を区別して両者の混淆を防止し、
苟も両者相互の干渉容喙なからしめました。


 故に私の陸相及首相の間日本の政治体制は総動員又は総力戦体制であったのは事実であるけれども、
軍閥の政治支配又は指導ということはなかったのであります。


   
  


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その24 陸軍と政治との関係

2023-12-25 23:26:32 | 東條英機  

                                      パル判事の碑文 (靖国神社)


東條英機 宣誓供述書 

 
               

陸軍と政治との関係
 

  152  

〔「犯罪的軍閥」〕
 起訴状に於ては1928年(昭和3年)より1945年(昭和20年)に至る間
日本の内外政策は「犯罪的軍閥」に依り支配せられ且つ指導せられたりと主張されて居ります。

 然し乍ら日本に於ては「犯罪的軍閥」は勿論、
所謂 「軍閥」なるものは遠い過去は別として起訴状に示されたる期間中には存在して居つた事実はありません。

 尤も明治時代の初期に於て封建制度の延長として「藩閥」なるものが実際政治を支配した時代に於ては
此等藩閥は同時に軍閥でもあったのであります。
 
 當時此等の者は「閥」即ち徒党的素質をもつて居ったたとも言へます。
然るに政党政治の発達に伴ひ斯る軍閥は藩閥と共に日本の政界より姿を消したのであります。
その時期は起訴状に言及した時期よりは依然の事であります。

 その後帝国陸海軍は国家の組織的機関として制度的に確立し自由思想の発生するに及び
最早、事実的に斯の如き徒党的存在は許されざるに至りました。
その後政党勢力の凋落に伴ひ軍部が政治面に擡頭した事はあります。

 しかし、それは過去の軍閥が再起したものではありません。
仮に検察側が之を指して居るのであったならば軍閥という言葉は當ません。
それは軍そのものであり徒党的存在でないからであります。
而しそれは日本の内外より受くる政治情勢の所産であり
ます。

 彼の「ナチス」又は「ファッショ」のような一部政治家により先ず徒党を組織し、構成して、
国政を壟断せる者とは全然その本質及び政治的意義を異にして居ります。


  153  

〔軍の政治面に擡頭せる政治情勢〕
 軍が政治面に擡頭せることについては次の如き政治情勢が大きな関係をもって居ります。

(一) 満州事変前後に於ける日本の国民生活の窮乏と、
  赤化の危険の対応する革新的気運の擡頭と、陸海軍の之に対する同情

(二) 支那事変の長期化に伴ひ日本の国家体制が次第に総動員体制に移り、
  太平洋戦争以後は寒山なる戦時体制に移り、軍部の発言権の増大せること。 

(三) 右と関連し日本独特の制度たる統帥権の独立が発言権を政治面に増大せること。  
  

 右の中(一)の事柄、即ち満州事変前後の事について私自身の責任時代のことではあまりせんが、
我が国の運命に関する事柄の観察として之を述べることができます。
 
 第一次世界大戦後の生産過剰と列強の極端なる利己的保護政策とに依り自由貿易は破綻を来したのであります。
此の自由貿易の破綻は惹いては自由主義を基礎とせる資本主義の行詰りといふ一大変革期に日本は當面したのであります。

 斯くて日本の国民経済に大打撃を與へ国民生活は極度の窮乏に陥りました。
而も當時世界的不安の風潮は日本にも蕩々として流れ込んだのであります。
斯くして日本は一種の革命期に探入しました。

  
〔革命期の二つの運動〕
 此の革命期には日本には大別して二種の運動がおこりました。
その一つは急進的な暴力革命の運動であります。
他の一つは斬新的で資本主義を是正せんとする所謂革新運動であります。
  
 急進的暴力革命派は軍人若くは軍隊を利用せんとし、青年将校等を扇動し且つ巻込まんとしました。
その現れが五・一五事件(1932年即ち昭和7年)に 二・二六事件(1936年、即ち昭和11年)等でありました。

 蓋し、農村漁村困窮の実情が農山漁村の子弟たる兵士を通じ
軍に反映して青年将校等が之に同情したことに端を発したのであります。

 而して軍は二・二六事件の如き暴力行為は軍紀を破壊し国憲を紊乱し其の余弊の恐るべきものあるに鑑み、
廣田内閣時代寺内陸相に依り粛軍を断行し之を処断すると共に、
軍人個々の政治干與を厳禁しました。

 他面陸軍大臣は国務大臣たる資格と責任に於て
政治的に社会不安(即ち国民生活の窮乏と思想の混乱)を除去する政策の実行を政府に要求いたしました。


 検察側の問題とする陸海軍現役制の復活も此の必要と粛軍の要求とより出たものであります。
斯の如き関係が政治的発言を為すに至ったのであります。
検察側の考ふるが如く暴力的処置に依り軍が政治を支配せんとしたものではないのであって、
以上の政治情勢が自ら然らしむるに至ったのであります。


〔総動員体制への移行、戦時体制〕
 次に(二)の理由即ち支那事変の長期化に伴ひ総動員体制に移行したとき、
又太平洋戦争勃発以後の戦時体制と共に軍の発言権の増大につき私は関係者の一人としてここに説明を加へます。

 以上の事変並びに戦争のため国家の運営が戦争の指導を中心とするに至りました。
そして、それは當然に軍事中心となりました。

 殊に1937年(昭和12年)11月大本営の設置せられたる以来、
次に述ぶる第三の理由とも関連して政治的に影響力を持つに至りました。


 この傾向は太平洋戦争勃発後に於て戦争の目的を達するため
国家の総力を挙げて完勝の一点に集中せしむる必要より発した當然の帰結であります。

 之を以て軍の横暴といふならばそれは情報の欠如に基く見解の相違であります。
之を犯罪的軍閥が日本の政治をしはいしたといふことは事実を了知せる私としては到底承服し得ざるところであります。


〔統帥権の独立〕 
 第三の点、即ち統帥権の独立について陳述いたします。 
 旧憲法に於ては国防用兵即ち統帥のことは憲法上の国務の内には包含せらるることなく、
国務の範囲外に独立して存在し、国務の干渉を排撃することを通年として居りました。
このことは現在では他国にその例を見ざる日本独特の制度であります。
従って軍事、統帥行為に関するものに対しては政府としては之を抑制し又は指導する力は持たなかつたのであります。

 唯、単に連絡会議、御前会議党の手段に依り之との調整を図るに過ぎませんでした。
而も其の調整たるや戦争の指導の本体たる作戦用兵に触れることは許されなかつたのであります。

 その結果一度作戦の開始せらるるや、作戦の進行は往々統帥機関の一方的意思に依って遂行せられ、
之に関係を有する国務としてはその要求を充足し又は之に追随して進む外なき状態を呈したことも少しと致しません。
 
 然るに近代戦争に於ては此の制度の制定當時とは異なり
国家は総力戦体制をもつて運営せらるるを要するに至りたる関係上
斯かる統帥行為は直接間接に重要なる関係を国務に及ぼすに至りました。
  
 又統帥行為が微妙なる影響を国政上に及ぼすに至りたるに拘らず、
而も日本に於ける以上の制度の存在は統帥が国家を戦争に施行する軍を抑制する機関を欠き、
殊に之に対し政治的抑制を加へ之を自由に駆使する機関とてはなしといふ関係に置かれました。

 これが歴代内閣が国務と統帥の調整に常に苦心した所以であります。
又私が1944年(昭和19年)2月、総理大臣たる自分の外に参謀総長を拝命するの措置に出たのも
此の苦悩より脱するための一方法として考へたものであって、
唯、その遅かりしは寧ろ遺憾とする所でありました。

 然も此の処置に於ても海軍統帥には一手をも染め得ぬのでありました。

 斯くの如き関係より軍部、殊に大本営として事実的には政治上に影響力を持つに至ったのであります。
 
 此の事は戦争指導の仕事の中に於ける作戦の持つ重要さの所産であつて
戦争の本質上已むを得ざる所であると共に制度上の問題であります。

軍閥が対外、対内政策を支配し指導せりといふ如き皮相的観察とは大に異なって居ります。  

  


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その23 東條内閣に於て其の實現を圖りたる大東亜政策の諸事項

2023-12-25 21:17:30 | 東條英機  


 

 
  

  

日本の企圖せる大東亞政策
  殊に之を繼承して東條内閣に於て其の實現を圖りたる諸事項 
141  

〔大東亜政策〕
 日本の企図して居りました大東亜政策といふものは其時代に依て各種の名称をもって表現せられて居ります。即ち例えば「東亜新秩序」「大東亜新秩序」又は「大東亜共栄圏」の建設」といふのがその例であります。
 此の大東亜政策は、支那事変以来具体的に歴代内閣に依りその管理を企画せられ来たものであります。そしてその究極の目的は東亜の安定の確立といふことにあります。
 而して1940年(昭和15年)7月第二次近衛内閣以後の各内閣に関する限り、私はこの政策に関係したものとして其の真の意義目的を証言する資格がある者であります。
 

 
 142 

 抑々日本の大東亜政策は第一次世界大戦後世界経済の「ブロック」化に伴ひ近隣相互間の経済提携の必要から此の政策が唱えられるに至ったものであります。その後東亜の赤化と中国の抗日政策とに依り支那事変は勃発しました。
  
 そこで日本は防共と経済提携に依て日華の国交を調整し以て東亜の安定を回復せんと企図しました。日本は支那事変を解決することを以て東亜政策の骨子としたのであります。
 然るに日本の各般の努力にも拘わらず米、英、蘇の直接間接の援蒋行為に依り事態は益々悪化し、日華両国の関係のみに於て支那事変を解決することは不可能であって之がためには廣く国際関係の改善に待たねばならぬようになって来ました。

  日本は之に努力しましたが、米、英は却って対日圧迫の挙に出たのであります茲に於て日本は止むを得ず一方仏印、泰更に蘭印と友好的経済提携に努ると共に東亜の安定回復を策するの方法をとるに至りました。

 以上は元より平和的手段に拠るものであり、亦列国の理解と協力に訴えたのであります。

 然るに米英蘭の圧迫は益々加重せられ、日米交渉に於いて局面打開不可能となり、日本は止むを得ず自存自衛のため武力を以て包囲陣を脱出するに至りました。

 右武力行使の動機は申す迄もなく日本の自存自衛にありました。一旦戦争が開始せられた以後に於ては日本は従来採り来った大東亜政策の実現即ち東亜に共栄の新秩序を建設することに努めました。

 大東亜政策の実現の方策としては先ず東亜の解放であり
次で各自由且独立なる基礎の上に立つ一家としての大東亜の建設であります。


  143  

〔東亜解放〕 

 大東亜政策の前提である「東亜解放」とは
東亜の植民地及至半植民地の状態に在る
各民族が他の民族国家と同様世界に於いて対等の自由を獲んとする永年に亘る熱烈なる希望を充足し、
以て東亜の安定を阻害しつつある不自然の状態を除かんとするもの
であります。 

 斯くして世界の此の部分に於ける不安は除去せられるのであります。恰も約一世紀前の昔「ラテンアメリカ」人が「ラテンアメリカ」解放のために戦ったのと同様であります。 

 当時、東亜民族が列強の植民地として又は半植民地として又は半植民地として、他よりの不当なる圧迫の下に苦悩し、之よりの解放を如何に熱望して居つたかはこの戦争中、1943年(昭和18年)11月5日、6日東京に開催された大東亜会議に於ける泰国代表「ワンワイタラヤコーン」殿下の演説に陳へられた所により之を表示することができます。

 曰く
『特に一世紀前より英国と米国とは大東亜地域に来り、或は植民地として、或は原料獲得の独占的地域とし、或は自己の製品の市場として、領土を獲得したのであります。従って大東亜民族は或は独立と主権とを失ひ、或は治外法権と不平等条約に依て其独立及び主権に種々の制約を受け而も国際法上の互恵的取扱を得るところがなかつたのであります。

 斯くして「アジア」は政治的に結合せる大陸としての性質を喪失して単なる地理的名称に墜したのであります。斯る事情はより生まれたる苦悩は廣く大東亜植民の感情と記憶とに永く留まつて居るのであります』と(法廷証第二三五一)

 又同会議に於て南京政府を代表して汪兆銘氏は其の演説中に於て中国の国父として尊敬せられたる孫文氏の1924年(大正13年)11月28日神戸に於いて為された演説を引用して居ります。

 之によれば『日支両国は兄弟と同様であり日本は曾て不平等条約の束縛を受けたるため発奮奮起し初めてその束縛を打破し東方の先進国並びに世界の強国となった。中国は現在同様に不平等条約破棄を獲得せんとしつつあるもものであり、日本の十分なる援助を切望するものである。中国の解放は即ち東亜の解放である。』と述べて居ります。(弁護側証第二七六〇-B)

 以上は単にその一端を述べたるに過ぎませぬ。之が東亜各地に鬱積せる不平不満であります。

 なほ東條内閣が大東亜政策を以て開戦後之を戦争目的とした理由について簡単に説明いたします。

 従前の日本政府は東亜に於ける此の動向に鑑み又過去に於ける経験にも照らして、早期に於て東亜に関係を有する列国の理解に依り之を調整するのでなければ永久に東亜に禍根を為すものであることを憂慮いたしました。

 そこで1919年(大正8年)1月より開催された第一次大戦後の講和会議に於て
我国より国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することを提案を為したものであります。
 (弁護側証第二八八六号)
 
 しかし
 この提案は、あへなくも列強に依り葬り去られまして、その目的を達しませんでした。
 依て東亜民族は大いに失望を感じました。1922年(大正11年)の「ワシントン」会議に於ては何等此の根本問題に触るることなく寧ろ東亜の植民地状態、半植民地状態は九か国条約に依り再確認を与えられた結果となり東亜の解放を希ふ東亜民族の希望とは益々背馳するに至ったのであります。
 

 次で1924年(大正13年)5月米国に於て排日移民条項を含む法律案が両院を通過し、大統領の署名を得て同年7月1日から有効となりました。
 これより先、既に1901年(明治35年)には豪州政府は黄色人種の移民禁止の政策をとったのであります。

 斯くの如く東亜民族の熱望には一顧も与えられず常に益々之と反対の世界政策が着々と実施せられました。そこで時代に覚醒しつつある東亜民族は焦眉の気分をもつてその成行を憂慮いたしました。その立場上東亜の安定に特に重大なる関係を有する日本政府としてはこの傾向を憂慮しました。歴代内閣が大東亜政策を提唱しましたことは此の憂慮より発したものであって東條内閣はこれを承継して戦争の発生と共に之を以て戦争目的の一としたのであります。
 
 144   

〔大東亜政策の眼目〕 

 大東亜政策の眼目は大東亜の建設であります。
 大東亜建設に関しては当時日本政府は次のような根本的見解を持して居りました。抑々世界の各国が各々その所を得、相寄り相扶けて万邦共栄の楽を偕にすることが世界の平和確立の根本要○(注、一文字判読不能)である。

 而して特に大東亜に関係深き諸国が互い相扶け各自の国礎に培ひ共存共栄の紐帯を締結すると共に他の地域の諸国家との間に協和偕楽の関係を設立することが世界平和の最も有効にして且つ実際的な方途である。

 是が大東亜政策の根底を為す思想であります。

 右は先に述べた1943年(昭和18年)11月5日大東亜会議の劈頭に於て私の為した演説(法廷証第一三四七号A)中にも之を述べて居るのであります。此の思想を根底として大東亜建設には次のような5つの性格があります。

(一)は大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し共存共栄の秩序を建設することであります。
 蓋し大東亜の各国があらゆる点に於て離れ難き厳密な関係を有することは否定し難い歴史上の事実であります。斯る関係に立ちて大東亜の各国が共同して大東亜の安定を確保し共存共栄の秩序を建設することは、同地域に存在する各国共同の使命であるからであります。
 大東亜の共存共栄の秩序は大東亜固有の道義的精神に基づくべきものでありまして、此点に於て自己の繁栄のために他民族、他国家を犠牲にする如き旧秩序とは根本的に異なると信じたのであります。

(二)は大東亜各国は相互に自首独立を重んじ大東亜の親和を確立することであります。
 蓋し大東亜の各国が互いにその自主独立を重んじつつ全体として親和の関係を確立すべきであり、相手国を手段として利用するところには親和関係を見出すことを得ずと考えました。
 親和の関係は相手国の自主独立を尊重し、他の繁栄に依り自らも繁栄すし以て自他共に本来の面目を発揮し得るところにのみ生じ得ると信じたのであります。

(三)は大東亜各国は相互にその伝統を尊重し各民族の創造性を伸長し、大東亜の文化を昂揚することであります。
 由来大東亜には優秀な文化が存して居るのであります。殊に大東亜の精神文化には崇高幽玄なるものがあり、今後之を長養醇化し廣く世界に及ぼすことは物質文明の行詰りを打開し人類全体の福祉に寄与すること少なからずと考えへました。斯る文化を有する大東亜の各国は相互に其の光輝あるある伝統を尊重すると共に各民族の創造性を伸長し以て大東亜の文化を益々昂揚すべきであると信じました。

(四)は大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進することであります。
 蓋し、大東亜の各国は民生の向上、国力の充実を図るため互恵の下、緊密なる提携を行ひ共同して大東亜の繁栄を増進すべきであります。大東亜は多年列強の搾取の対象となって来ましたが今後は経済的にも自由独往相倚り相扶けて其の繁栄を期すべきであると信じたからであります。   
 
(五)は大東亜各国は万邦との交誼を厚くし人種的差別を撤廃し普く文化を興隆し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献することであります。
 蓋し斯くの如くして建設さるべき大東亜の新秩序は排他的なものでなく廣く世界各国と政治的にも経済的にも将又文化的にも積極的に協力の関係に立ち以て世界の進運に貢献すべきであると信じてきました。口に自由平等を唱えつつ他国家他民族に対し抑圧と差別をもつて臨み自ら膨大なる土地と資源とを壟断し他の生存を脅威して顧みざる如き世界全般の進運を阻害する如き旧秩序であってはならぬと信じたのであります。

 以上は大東亜政策を樹立せる当時より政府は(複数)此の政策の基本的性格たるべしとの見解でありました。斯の如き政策が世界制覇とか他国の侵略を企図し又は意味するものと解釈せらるるといふ事は夢だもせざりし所であります。  

  145  

〔大東亜宣言として表示〕 
 以上の大東亜建設の理念は日本政府(複数)が従来より抱懐して居つたところでありましたて、日本と満州国との国交の上に於ても又日華基本条約乃至日満華共同宣言の締結に於いても、日支事変解決の前提としても、なほ又仏印及び泰国との国交の展開の上に於ても、総て平和的方法に依り其の達成を期せんとして居たことは前にも述べた通りであります。

 この主旨は1943年(昭和18年)11月5日開催の大東亜会議に参集した各国代表の賛同を得て同月6日に大東亜宣言として世界に表示したのであります。 (証第一三四六号英文記録第一二〇九八頁)

  146

 〔実行した二の事柄〕

 大東亜戦争が勃発するや、私は太平洋戦争の完遂と共に此の戦争を通じて以上の大東亜政策の実現に渾身の努力を盡くしました。之に関連する施策中、内に対するものとしては大東亜政策の実行並びに之と重大なる関係を有する占領地行政につき徒に理念に墜せず独善に陥らず且つ斯く民族の希望及び只情に即したる施策足らしめんとして二の事柄を実行しました。

(一)其の一つは1942年(昭和17年)3月大東亜審議会を設置し、内閣総理大臣の諮問機関としたことであります。(弁護側証第二七三五号) 
  
(二)その二つは1942年(昭和17年)11月大東亜省を設置し、大東亜政策に関する事務を管掌せしめたことであります。(証九〇) 
 又、外に対するものとして左の3つの政策を行うことによりて大東亜政策の実現を図りました。 


(一)一は対支新政策を立てたことであります。之により我国と中国の間に従来存して居りました不平等条約の残滓を一掃し、之と対等の条約関係に切りかへました。

 
(二)その二は占領地域内の各民族に対し又は各国家に対し各々その熱望に応へ大東亜政策に基づく具体的政策を実行したことであります。

(三)その三は大東亜会議の開催を提議しその賛同の下に各国の意志の疎通と結束の強化を図ったことであります。


  147  

〔大東亜審議会の設置〕 

 大東亜政策に関し内に於てとりました第一の措置たる大東亜審議会の設置につき一言いたします。

 1942年(昭和17年)3月、内閣総理大臣の諮問機関として之を内閣に設置しました。
 此の大東亜審議会の内容は弁護側第二七三五号のとおりであります。
その設置の動機は占領地行政及大東亜建設に対する国策を進むるに当たり政府の独善的施策に陥らず各民族の希望及び事情に即したる施策を為すため日本朝野各方面有識の人々の智嚢を施策の上に反映せしめんとするの意図に出たのであります。

 偶々議会の於ても同様の考えに基く調査機関設置の提議(弁護側証第二七三六号)を見たる機会を動機として諮問会議の形に於て設置いたしました。
 そして本審議会の委員は政治、外交、財政、経済、産業文化等各方面の有識者を網羅しました。
そして各部門に於て政府の諮問に応じ専門的に研究し或は自発的に意見を立て、又之を政治的に実施する方途を審議し、施策樹立の参考に資したのであります。

 因に大東亜建設に関する研究として検事側より国策研究会等の研究と称する幾多の証拠が提出されて居ります。然し乍ら大東亜建設に関する政府の政策樹立のための機関としては右大東亜審議会の外はありません。
 右国策研究会の私的会合で研究しましたことについては政府は全く関知いたしません。
総力戦研究所は公的機関とは言へ既に立証せられたるが如く学生の養成と総力戦の研究のためでありまして政府の政策樹立には関係ありませんでした。

  148  

〔大東亜省の設置〕 

 内に対する政策の第二でありまする大東亜省の設置については、大東亜政策の本旨に鑑み1942年(昭和17年)11月1日之を設置し従来外務省に於て取扱ひ来つて居りました条約締結の如き純外交を除く大東亜政策に関する外政を専ら之に管掌せしめ、
 之によりて外務省を其の幾多なる業務より解放し、大東亜地域以外の同盟国中立国及び敵国に対する溌剌たる外交施策に専念せしめもつて戦争遂行に関し並びに戦争の終結に関し寄与せしめんとしたものであります。

 蓋し大東亜地域内の各独立国間に関係は恰も一大家族の各員の関係の如くに和親し提携すべきものであって従って其の他国に対する如く利害を基本とする従来の外交とは大に趣を異にするとの観念に出発したのであります。
 唯、此の地域内の国家は固より独立国家たる以上は条約の締結の如きは外交として存立すべきを以て此のことは外務省の所管に置きました。

大東亜省の所管事務の内容を大別すれば左の三つであります。
(一)大東亜地域内の各独立国家との経済、文化、通商等の交渉事務 
(二)関東庁並びに南洋庁に関する行政  
(三)軍の管掌する占領地行政に関する援助行政 
 その管制は証第九〇号に在る通りであります。又その官制の枢密院で議せられたときの状況の一部は証第六八七号にあるものに大差ありません。 

 149  

〔日支間の不平等条約の撤廃〕 
 外に対する施策として実施しました事としては1942年(昭和17年)12月21日対支政策を立て大東亜政策の本旨に合する如く日支間の不平等条約撤廃を目的として逐次左の如く施策を進め1943年(昭和18年)10月30日を以て之を完了しました。

  即ち
(一)1943年(昭和18年)1月9日取りあえず中国に於ける帝国の特殊権利として有したる一切の租界の還付及び治外法権の撤廃に関するに日華協定を締結し直ちに之を実行しました。(証第二六一〇号)

(二)1943年(昭和18年)2月8日中国に於て帝国の有せる敵国財産を南京政府に移管しました。

(三)次いで1943年(昭和18年)10月30日、日華同盟条約(法廷証第四六六号)を締結しその第5条及付属議定書に依り、之より曟1940年(昭和15年)11月30日に締結した日華基本条約に定めてあった一切の駐兵権を拠棄し日支事変終了後日本軍隊の駐兵権を含め全面撤退を約束しここに日支間の不平等条約の最後の残滓を一掃したのであります。 

(四)而して対等の関係に於て新たに前述の同盟条約を相互に主権及領土の尊重大東亜建設及東亜安定確保のため相互協力援助並に両国の経済提携を約したのであります。

 右に関し1943年(昭和18年)11月5日の大東亜会議に於て中国代表汪兆銘氏は次の如く述べております。
(弁護側証二七六〇-B)  
『本年1月以来日本は中国に対し早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し殊に最近に至り日華同盟条約をもつて日華基本条約に代へ同時に各種付属文書を一切破棄せられたのであります。国父孫文先生が提唱せられました大東亜主義は既に光明を発見したしたのであります。国父孫文先生がに日本に対し切望しましたところの中国を扶け不平等条約を廃棄するということも既に実現せられたのであります』 と。 


   150  

 〔外に対する施策の其の二〕
外に対する施策の其の二について一言しますれば 

〔ビルマ国の樹立〕

(A)先ず「ビルマ」国の樹立であります。
1943年(昭和18年)8月1日、日本は「ビルマ」民族の永年の熱望に応え、その「ビルマ」国として独立を認め且つ同日之と対等の地位に於て日緬同盟条約(弁護側証第二七五七号)を締結しました。
 而して其の第一条に於て其の独立を尊重すべきことを確約しております。

 又、1943年(昭和18年)9月25日帝国政府は帝国の占領地域中「ビルマ」と民族的に深き関係を有する「マレー」地方の一部を「ビルマ」国に編入する日緬条約(弁護側証第二七五八号)を締結し之を実行しました。
 之に依ても明瞭なる如く日本政府は「ビルマ」に対し何等領土的野心なく唯、その民族の熱望に応へ大東亜政策の実現に望んだことが判るのであります。

 元来「ビルマ」の独立に関しては日本政府は太平洋戦争開始間もなく1942年(昭和17年)1月22日第79議会に於て私の為した姿勢方針の演説中に於て其の意思を表明し(法廷証第一三三八号○英文記録一二〇三四頁)
 又1943年(昭和18年)1月22日第81議会に於て私の為した施政方針演説に於ても「ビルマ」国の建国を認める旨を確約しました。 (弁護側文書二七一一号)

 そして同年3月当時「ビルマ」行政府の長官「バー・モウ」博士の来朝の際、之に我政府の意思を伝へ爾後建国の準備に入り1943年(昭和18年)8月1日前述の如く独立を見たのであります。

「ビルマ」民族がその独立を如何に熱望して居たかは同年11月6日の大東亜会議に於ける「ビルマ」国代表「バー・モウ」氏の演説の中に明らかにされて居ります。その中の簡単な一節を引用しますれば次の如く言っております。(法廷証第二三五三号)

 『僅に1600萬の「ビルマ」人が独力で国家として生まれ出づるために闘争し他時は常に失敗に終わりました。何代にも亘って我々の愛国者は民衆を率い打倒英国に邁進したのでありますが我々が東亜の一部に過ぎないこと、1600萬人の人間がなし得ないことも10億の「アジア」人が団結するならば容易に成就し得ること此等の基礎的事実を認識するに至らなかった我々の敵に対するあらゆる反抗は仮借することなく蹂躙されるのであります。
 
 斯くて今より20年前に起った全国的反乱の際には「ビルマ」の村々は焼払われ婦女子は虐殺され志士は撲殺され或いは投獄され又は追放されたのであります。然し乍ら此の反乱は敗北に終わったとは言へ此の火焔は「ビルマ」人全部の心中に燃えつづけたのでありまして、反英運動は次から次へ繰り返され此のようにして闘争は続けられたのであります。
 
 而して今日漸くにして遂に我々の力は壹千六百萬の「ビルマ」人の力のみでなく十億の東亜人の力である日が到来したのであります。即ち東亜が強力である限り「ビルマは強力であり不敗である日が到来したのであります」と。
 
  
〔フィリッピン国の独立〕 
(B)次は「フィリッピン」国の独立であります。
 1943年(昭和18年)10月14日、日本は「フィリッピン」に対し全国民の総意によるその独立と憲法の制定とを認めました。(弁護側証二八一〇号) 又同日之と対等の地位に於て同盟条約を締結しました。(弁護側証二八一〇号)

 又之と対等の地位に於いて同盟条約を締結いたしました。その第一条に於て相互に主権及び領土の尊重を約しました。右の事実及び内容は弁護側第二七五六号の通りであります。元来『フィリピン』の独立に関しては太平洋戦争開始前米国は比島人の熱望に応へ1946年7月を期して独立せしむべき意思表示を行っております。

 我国は開戦まもなく1942年(昭和17年)1月22日の第79議会に於て比島国民の意思の存するところを察し、その独立を承認すべき意思表示をしました。(法廷証一三三八号)
 而して1943年(昭和18年)1月第81帝国議会で之を再確認しました。(弁護側証第二七一一号)

 次で更に同年5月私は親しく比島に赴きその民意のある処を察し、その独立の促進を図り、同年6月比島人より成る独立準備会に依り憲法の制定及び独立準備が進められました。 

 斯くして1943年(昭和18年)10月14日比島共和国は独立国家としての誕生を見るに至ったのであります。
而して比島民族の総意に依る憲法が制定せられ、その憲法の条章に基き「ラウレル氏」が大統領に就任したのであります。又、日本政府は「ラウレル氏」の申出に基きその参戦せざること及軍隊を常設せざることに同意しました。
 以上を以て明瞭なる如く日本は比島に対し何等領土的野心を有して居らなかったことが明らかとなるのであります。
  
〔泰國との関係〕
(C)帝国と泰国との関係に於ては 太平洋戦争が開始せられるる以前大東亜政策の趣旨の下に平和的交渉が進められ、

その結果
(1)1940年(昭和15年)6月12日日泰友好和親条約を締結し(法廷証五一三号)
(2)1941年(昭和16年)5
月9日保障及政治に関する日泰間議定書を締結し(法廷証六三七号)相互に善隣友好関係、経済的緊密関係を約しました。

 以上は太平洋戦争発生以前日泰両国間に平和的友好裡に行われたのであります。
而して太平洋戦争後に於ては更に
(1)1941年(昭和16年)12月21日、日泰同盟条約を締結し(弁護側証第二九三二号)東亜新秩序建設の趣旨に合意し相互に独立及主権の尊重を確認し且つ政平的軍事的相互援助を約しました。
(2)更に1942年(昭和17年)10月28日には日泰文化協定を締結し(弁護側証第二九三三号)両民族の精神的紐帯を強化することを約しました。
(3)1943年(昭和18年)8月20日帝国が「マレー」に於る日本の占領地域中の旧泰国領土中「マレー」四州即「ベルリス」「ケダー」「ケランタン」及び「トレンガン」並に「シャン」の二州「ケントン」「モンパン」を泰国領土に編入する条約を締結したのであります。(弁護側証第二七五九号)

 此の旧泰国領土編入の件は内閣総理大臣兼陸軍大臣たる私の発意によるものであります。
 此の処置は昭和18年5月31日午前会議決定大東亜政策指導大綱に基き行ったものでありまして(此決定の原本は今日入手不能弁護側証二九二二号)

 同年7月5日私の南方視察の際、泰国の首都訪問に際し「ピブン」首相と会見し日本側の意向を表明し両国政府の名に於いて之を声明したのであります。

 元来泰国に譲渡するのに此の地域を選びましたのは泰国が英国に依り奪取せれた地域が最も新しき領土喪失の歴史を有する地域であるがためであって其他の地域の解決は之を他日に譲ったのであります。

 本来此の処置については当初は統帥部に反対の意向がありましたが私は大東亜政策の観点より之を強く主張し、遂に合意に達したのであります。帝国の此の好意に対し泰国朝野が年来の宿望を達しその歓喜に満てる光景に接し私は深き印象を受けて帰国しました。

 帰国間もなく本問題の解決を促進することにいたしました。

 1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議に於て泰国代表「ワンワイ・タイヤラコン」殿下は之につき次の如く述べて居ります。(法廷証第二三五一号中)」 
『日本政府は宏量、克く泰国の失地回復と民力結集の国民的要望に同情されたのであります。
 斯くて日本政府は「マライ」四州及「シャン」2州の泰国編入を承認する条約を締結されたのであります。これは実に日本国は泰国の独立及主権を尊重するのみならず、泰国の一致団結と国力の増進を図られたことを証明するものでありまして、泰国官民は日本国民に対して深甚なる感激の意を表する次第であります。』と。

 もって泰国のこれに対する熱意を知るとともに帝国に於ては占領地域に対し領土的野心なきことの明白な証明であります
  
 本条約に関する1943年(昭和18年)8月18日枢密院審査委員会の審査に於ては占領国の占領地に対する領土権の有無につき質問応答が交わされました。(法廷証一二七五号)
 右に関する法理的見解は森山法制局長官をして答弁せしめた通りであります。条約案も此の見解の如くに起案されて居ります。
  
 私の発言として右筆記録に記載されてある点は私が軍事的政治的見地よりする率直且素朴なる確信を披歴したものであってその末段に於て条約第1条第2条に於ては無用の摩擦を避くるために斯る表現を為したるなりと述べたのは軍事的政治的の素朴なる独自の心持を表現せず前期の法理的表現を採用せる旨を述べたものであります。  

 之を要するに本条約の取り扱いは国際法違反と考へて居りませぬ。而も本措置は此の占領地を自国の領土に編入するものではなく、泰国の福祉のため其の全て英国に依り奪取せられたる旧領土を泰国に回復せんとする全く善意的のものであり且之が東亜の平和に資するものであります。

 当時此の措置を為すに當り、もって居った私の信念を率直に申せば、1940年(昭和15年)12月独「ソ」間に「ポーランド」領を分割し国境の確定を為せる取り決めが行われたること 又1940年(昭和15年)6月『ソ』連が「ルーマニア」領土の一部を併合したことを承知して居りました。
 
 此等の約定が秘密であると公表されたるものであるとに拘わらず条約即ち条約であり共に国際法の制約の下に二大国家間に行はれたる措置なりと承知して居りました。 

 なほ日泰条約は戦争中のものであります。
 而して日本としては戦争の政治的目的の一は東亜の解放でありました。
 故に私は此の目的達成に忠ならんと欲し何等躊躇するところなく東亜の解放をドシドシ実行すべきであると考へたのであります。即ち独立を許すべきものには独立を許し自治を與ふべきものには自治を與へ失地を回復すべきものには失地を回復せしむべきであるとの信念でありました。此等のことは戦後を待つ必要もなく又之を欲しなかったのであります。
 

 なほ終戦後左記の事実を知って此の間の措置が国際法に毫末も牴触せざることを私は更に確信しました。
 即ち

(1)1943年(昭和18年)11月米、英及び重慶政府間の「カイロ」会議に於て未だその占領下にもあらざる日本の明瞭なる領土中、台湾、澎湖島を重慶政府に割譲するの約束がなされました。

(2)1945年(昭和20年)2月ヤルタ協定に於て是亦未だ占領しあらざる日本領土である千島列島及樺太南部を「ソ」聯に割譲することを米、英「ソ」間に約定せられ、而も他の条件と共に之をもってソ聯を太平洋戦争に参加を誘ふ具となしたのであります。
 斯の如き措置は国際法の下に大国の間に行われたのであります。私は此等により日本の先に為した措置が違法にあらざる旨の確信を得て居ります。
  
〔蘭領印度〕
(D)蘭領印度に対しては現地情勢は尚ほ其の独立を許さざるものがありましたので、不取敢、私は前期昭和18年5月31日御前会議の決定「大東亜政策指導大綱」に基き内閣総理大臣として1943年(昭和18年)6月16日第82回帝国議会に於て其の施政演説中に於て(弁護側証第二七九二) 
「インドネシア」人の政治参與の措置を取る方針を明らかにし、之に基き、現地当局は、之に応ずる処置をなし、政治参與の機会を與へ増した。而して東條内閣総辞職後日本は蘭印の独立を認める方針を決定したと聞いて居ります。


 さる1947年(昭和22年)3月7日証人山本熊一氏に対する「コミンス、カー」検事の反対尋問中に証拠として提示せられたる日本外務省文書課作製と称せらるる 『第二次世界大戦中ニ於ケル東印度ノ統治及帰属決定ニ関スル経緯』(法廷証第一三四四号検察番号第二九五四号)に
1943年(昭和18年)5月31日御前会議に於て東印度は帝国領土へ編入すべきことを決定したと述べて居ります、昭和18年5月31日の御前会議に於て蘭印東印度は一応帝国領土とする決定が為されたことは事実であります。


 此等地方の地位に関しては、私を含む政府は大東亜政策の観点より、速かに独立せしむべき意見でありましたが、
統帥部及現地総司令部並に出先海軍方面に於て、戦争完遂の必要より過早に独立を許容するは適当ならずとの強き反対があり、議が進行せず他面「ビルマ」「フリッピン」の独立の促進及泰国に対する占領地域の一部割譲問題等政治的の急速処置を必要とするものあり、止むを得ず、一応帝国領土として占領地行政を継続し置き、更に十分考慮を加へ且爾後の情勢を見て変更する考えでありました。

 これで本件は特に厳秘に付し現地の軍司令官、軍政官等にも全く知らしめず、先ず行政参與を許し其の成行を注視すると共に本件御前会議決定変更の機を覘って居ったのであります。
 即ち1943年(昭和18年)5月31日御前会議決定時に於ても此等の土地の永遠に帝国領土とするの考へではありませんでした。

 此の独立のための変更方を採用する前に私どもの内閣は総辞職を為したのでありました。
小磯内閣に於て「インドネシア」の独立を声明しましたが私も此の事には全然賛成であります。 
 
〔自由印度仮政府の誕生〕 
(E)帝国政府は1943年(昭和18年)10月21日自由印度仮政府の誕生を見るに及び10月23日に之を承認しました。
 右仮政府は大東亜の地域内に在住せる印度の人民を中心として「シュバス・チャンドラボース」氏の統率の下に印度の自由独立及繁栄を目的として之を推進する運動より生まれたのであります。
 帝国は此の運動に対しては大東亜政策の趣旨よりして印度民族の年来の宿望に同情して全幅の支援を與へ増した。
 

 なほ1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議の機会に於て我国の当時の占領地域中唯一の印度領たる「アンダマン、ニコバル」両諸島を自由印度仮政府の統治下に置く用意のある旨を声明しました。(弁護側証拠第二七六〇号-E) 是亦我が大東亜政策の趣旨に基き実行したものであります。

  151 

〔大東亜会議〕
 大東亜政策として外に対する施策の第三である大東亜会議は、日本政府の提唱に依り1943年(昭和18年)11月5日、6日の両日東京に於て開催せられました。
 参会した者は中華民国代表、同国民政府行政委員長汪兆銘氏、
「フィリッピン」代表同国大統領「ラウレル」氏、
泰国代表、同国総理大臣「ピブン」氏の代理「ワンワイタラヤコン」殿下、
満州国代表、同国務総理張景恵氏、
「ビルマ」代表、同国首相「バーモー」氏
及び日本国の代表、内閣総理大臣である私でありました。

 此の外に自由印度仮政府首班「ボース」氏が陪席しました。而して本会議の目的は大東亜新秩序の建設の方針及び大東亜戦争完遂に関し各国間の意見を交換し隔意なき協議を遂ぐるに在りました。

 此の会議の性質及目的に関しては予め各国に通報し、その検討を経且つ其の十分なる承諾の下に行われたのであります。

 私は各国代表の推薦により議長として議事進行の衝に当たりました。
 会議第1日 即11月5日には各国代表がその国の抱懐する方策及び所信を披歴しました。
第2日即ち11月6日には大東亜共同宣言を議題として審議し其の結果満場一致を以て之を採択しました。 

之は証第一三四六号の通りであります。

 ここに関係各国は大東亜戦争完遂の決意並に大東亜の建設に関してはその理想と熱意につきその根本に於て意見の一致を見、大東亜各国の戦争の完遂、及大東亜建設の理念を明らかにしたのであります。

 次に満州国の代表張景恵氏より此の種の会合を将来に於ても随時開催すべき旨提議がありました。
「ビルマ」代表「バーモー」氏より自由印度仮政府支持に関する発言があり、之に引続きて自由印度仮政府首班「ボース」氏の印度独立に関する発言がありました。
 私は「アンダマン、ニコバル」両諸島の帰属に関する日本政府の意向を表明しました。(弁護側証二七六〇-E)
 斯くして本会議は終了しました。  


 本会議は強制的のものでなかったことは、その参集者は次のやうな所感を懐いて居ることより証明ができます。「フイリッピン」代表の「ラウレル」氏はその演説中に於て次の如く述べて居ります。
曰く『私の第一の語は先ず本会合を発起せられた大日本帝国に対する深甚なる感謝の辞であります。

 即ち、此の会合に於て大東亜諸民族共同の安寧と福祉と諸問題が討議せられ又大東亜諸国家の指導者各閣下に於かれましては親しく相交わることに依りて互いに相知り依て以て亜細亜民族のみならず、全人類の栄光のために大東亜共栄圏の建設及之が恒久化に拍車をかけられる次第であります。』(法廷証二三五二)と申して居ります。

 又会議に陪席せる自由印度仮政府代表「ボース」首班の発言中には『本会議は戦勝国の戦利品』の分割の会議ではありません。それは弱小国を犠牲に供せんとする陰謀謀略の会議でもなく、又弱小なる隣国を瞞着せんとする会議でもないのでありまして此の会議こそは解放せられたる諸国民の会議であり且正義、主権、国際関係に於ける互恵主義及び相互援助等の尊厳なる原則に基いて世界の此の地域に新秩序を創建せんとする会議なのであります。』(法廷証二七六〇-D)といって居ります。

 更に「ビルマ」代表「バーモー」氏は本会議を従来の国際会議と比較し次の如く述べて居ります。
 曰く
『今日此の会議に於ける空気は全く別個のものであります。此の会議から生まれ出る感情は如何様に言ひ表はしても誇張し過ぎることはないのであります。多年「ビルマ」に於て私はアジアの夢を夢に見つづけて参りました。
 「私のアジア」人としての血は常に他の「アジア」人に呼びかけてきたのであります。昼となく夜となく私は自分の夢の中で「アジア」はその子供に呼びかける声を聴くのを常としましたが今日此席に於て初めて夢に非ざる「アジア」の呼声を聞いた次第であります。我々「アジア」人は此の呼声、我々の母の声に答へてここに相集ふて来たのあります。』と (法廷証二三五三号) 

 
  


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その22 俘虜關係の陳述の訂正

2023-12-25 17:34:48 | 東條英機  

   

俘虜關係の陳述の訂正

 

  140

 俘虜に関連して私が検事の質問に答へて記録が多数証拠として提出されて居ります。
その中私の記憶の錯誤に依って著しき間違いを犯した点を訂正いたします。

(一) 法廷証一九八号中に俘虜に関する規則は
  軍務局長と参謀本部との協議の結果出来たものであるとの一節がありますが、
  俘虜に関する規定は
陸軍省で定めますが、
  その起案は、その内容如何に依り各種の局部の所管に分属します。
  軍務局長と限定したのは誤りであります。

(二) 法廷証一九八四中に各俘虜収容所長にその取扱に係る
  俘虜の健康、食事、労働等につき軍務局長に月報を出すことになって居つたとかの
  検事の問に対し之を肯定した答をして居ります。

  又栄養不良其他の原因に依る死亡率についても其の所管は現地軍司令官にありますが
  しかし軍司令官が責任を果たし得ないときは陸軍省に要求することになつて居る。  

  此の要求は軍務局長の所に来て、軍務局長と現地司令官と協議の後陸軍省は食料を送るとか、
  その他の処置を採ることになつて居ると答へて居ります。
  然し乍ら(a)俘虜の食料に関する事務の処理は経理局の任務でありまして
  軍務局と言ったのは誤りでありました。


  又(b)俘虜に関する月報が提出されるのは軍務局長でなく
  陸軍大臣と俘虜情報局長官であります。
  (法廷証第一九六五俘虜取扱細則第十八)

  月報が軍務局に提出されるといつたのは、是亦私の錯誤であります。



   
  


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その21 俘虜處罰法、空襲軍律、泰緬鉄道の建設 

2023-12-25 17:32:11 | 東條英機  

                                      パル判事の碑文 (靖国神社)
 
    
東條英機 宣誓供述書 

 
              

俘虜處罰法
 

 133  

 俘虜処罰法は1943年(昭和18年)3月に改正せられました。
(法廷証一九六五号英文二九頁以下)改正の理由は二つあります。

其の一つは右俘虜処罰なるものは明治38年(1905年)に制定せられたものでありまして、
明治44年(1907年)制定の現行刑法は以前の罰則の種類及刑名を用ひて居ります。 

 二つは俘虜処罰法は日露戦争當時制定されたものでありますが、
今次の戦争に於ては日露戦争當時と異なり、
俘虜の民族も複雑であり国籍もいろいろで
殊に人員数は比較にならぬ程多数で事柄が複雑多岐となつて居ります。
それ故これが管理取締に一段の改正を加ふる必要に迫られたのであります。

 

 134 

 今、俘虜処罰法改正内容の重なるものを述べますれば次のようであります。
 
 第一は俘虜監督者に対する暴行又は反抗の罪、
   多数共謀して為す逃走の罪、及宣誓違反の罪の規定を整備致しました。

 第二は新たに俘虜の多数集令、
   暴行脅迫俘虜監視者に対する殺傷脅迫、
   侮辱及不服従の行為を目的とする結党の各行為を罰する規定を設けました。

 右等は孰れも寿府条約準用の趣旨に基くものであつて
条約に抵触するものではないと認めて立案せられました。

 

空襲軍律 

  135 

 空襲の際、陸戦法規違反の行為ありたる者に対する取扱いは
 陸密第二一九〇陸軍次官の依命通牒に規定して居ります。
 (法廷証一九九二号)此の通牒の動機は次の通りであります。

 1942年(昭和17年)4月18日「ドーリットル」機の東京地方空襲の際、
国際法規に違反せる残虐行為がありました。


斯くの如き私人に対して行われたる残虐行為は
既に国際北上の戦時重罪行為とせられて居つたことは言ふを俟らませぬ。
   
 斯る行為を将来に防止することは国内防衛上特に緊急な利との要求が起こりました。
又二面に於ては将来の空襲に於ては
飛行機搭乗員に対する憎悪心より現地軍隊の過酷なる虐殺を取締ることが極めて重要なりと考えました。

 之がため裁判に附しその行為が真に国際法規に違反せりや否や十分審議したる後、
処理すべきことが必要になりと考へました。


 以上の見地に基き1942年(昭和17年)7月に此の通牒が発せられ他のであります。

 此の通牒を基礎として同年8月には支那派遣軍総司令官の名に於て
「敵航空機乗員処罰に関する軍律」なるものが制定せられて居ります。
  (法廷証一九九一)

 此の規定は陸戦法規慣例、空襲法規案を集成したもので
新たなる規定と言わんより寧ろ今までの規定の原則を表現したものであります。

 

  136

 1942年(昭和17年)4月18日内地を空襲し、
国際法に違反して残虐行為を為した搭乗員に対する処罰は
前項の軍律に照らし上海に於て設定した法廷で全員8名に対し死刑を宣告致しました


 その執行については予め命ぜられたところに依り現地より大本営に報告して来たのであります。
参謀総長はその判決通りに全員に対し死刑の執行を為すよう陸軍大臣に協議して来ました。

 私は陸軍大臣として豫て天皇陛下の日頃の御仁茲の聖慮を拝して居りますから、
内奏の上、その内5名については減刑の措置をとつたのでありました。

 

泰緬鉄道の建設  

  137

 泰緬鉄道建設の目的は在「ビルマ」日本軍隊への補給の目的と
泰國及「ビルマ」両国間の交易及交通の便に供すると畏怖にあります。
 敵潜水艦の海上場交通の破壊は特に陸上交通を必要としたのであります。

 此の鉄道は参謀本部の命令に依り建設せらるることになりました。
私は陸軍大臣として参謀総長の建設命令の協議に応じ之に同意を與へました。

 本鉄道の建設に當り労務の関係上得陸軍大臣の統括下に在りし俘虜の使用については
私は同意を與へたのであります。
本鉄道は戦線より遥か後方に在り又その付近に當時何等作戦行動はなかつたのであります。
 
 即ち本鉄道建設の作案は「ヘーグ」条約
並に寿府条約に俘虜の労務として禁ぜられて居る作戦行動とは認められず、
又此の地方は南方地域一帯の通常の地域であつて不健康地ではありません。
 且つ日本軍隊も俘虜其他強健な人種同様に多数之に使役せられたものでありまして、

 本鉄道建設は俘虜の労務として禁止せられた不健康又は危険なるものとして
国際水準を超えた労務なりと攻撃せらるべしとは考へて居りませんでした。
 

  138

 本鉄道建設作業の指導は直接には参謀総長に於て為されたのでありますが、
私は陸軍大臣として俘虜の取扱に関し統括者たるの行政上の責任を持つて居りました。

 本鉄道建設に従事しました俘虜の衛生状態及取扱方につき不良なる点がありとの報に接し
1943年(昭和16年)5月、濱田俘虜管理部長を現地に派遣し
その観察を為さしめました又医務局ゆおりも尋問軍医を派遣しました。

 なほ俘虜の取扱につき不當の点のあった中隊長を軍法会議に附したこともあります。
なほ鉄道建設司令官を更迭したことも曾て証人若松只一中将の証言した通りであります。

 

俘虜処理要領及び俘虜収容所長に與へた訓示 

  139 

 曾て証人田中隆吉は1942年(昭和17年)4月下旬の陸軍省の局長会報に於て
上村俘虜管理部長申出であった、
俘虜処理要領(法廷証一九六五号英文三〇項末段以下)に決裁を與へたこと
並に此の俘虜処理要領が俘虜に強制労働を命ずるものであることを証言致しましたが、
之は非常なる間違いであります。

 此の俘虜処理要領は強制労働については何等命令も為されず、示唆も與へて居りません。
之は本要領の文章が之を示しています。
右証人の陳述は右証人の独断的解釈
であります。

 俘虜労務規則(法廷証一九六五英文十四)が示すように
将校たる俘虜はその発意に基き労務に服する道が開いてあります。
又此の要領は局長会報に於ても審議したものではなく又議決したものでもありません。
上村俘虜管理部長の起案したものに私が決裁を與へたものであります。

 右要領も俘虜収容所長に私が與へた訓示(法廷証一九六二号、一九六三号)も
共に俘虜を労務に使用することに言及して居るが強制労働を命じたものでなく、
又之に依り過酷なる労務を強ひたものでもありません。
 又、検察官は俘虜に関する法令(例へば法廷証一九六五号のA英文記録一四四七五)に於て
用ひられたる「軍事」と言ふ日本語の解釈を誤りたるものと考へられます。

 右法証英文31頁に次の如く記載して居ります。
『白人俘虜は之を我が生産拡充並に「ミリタリー・アフエアーズ」に関する労務に利用する如く
 逐次朝鮮、台湾、満州、支那に収容し云々』と、
「軍事」と云ふ文字を直訳すれば「ミリタリー・アフエアーズ」とも言へますが、
ここはより広き意味に用ひられて居るものでありまして、
戦争遂行に関係して来る事柄を広く包含します。
 
 例へて申しますれば、
戦時に於て軍人及一般人民の被服に関係する事柄はやはり「軍事」であります。
石炭採掘も、「セメント」事業も、米の漂白も此の中であります。
即ち奢移品の製造、玩具の製造等の仕事に対しても戦時に必要な仕事は之を「軍事」と云つて居るのであります。



       


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その20 眞珠灣攻撃の實施、ルーズヴェルト大統領より天皇への親書 

2023-12-25 16:58:05 | 東條英機  

                            パル判事の碑文 (靖国神社)

 


東條英機 宣誓供述書 

                


珠灣攻撃の實施 
 

  126
 
 帝国は1941年(昭和16年)12月1
日より開戦準備に入り
大本営陸海軍統帥部の企画に基き
敵の大包囲圏を「ハワイ」、比島、香港、及「マレー」の四か所に於て突破するの作戦に移りました。
 
 12月8日(日本時間)早暁其の攻撃を実施しました。
而して此の攻撃は何れも軍事目標に指向されたのであります
此の攻撃作戦は統帥部に於て極秘裡に進めれたのであります。
私は陸軍大臣としてその概要を参謀総長より承知して居りました。
私と海軍大臣を除く他の閣僚は事前に之を承知して居りません。 
 
 當時私は此の開戦準備の間、
米国側の反省を得て幸に日米交渉の妥結を見たる場合には
遅滞なく統帥部に移牃する其の場合統帥部は行動中止を為すを確信すると共に
他面統帥部の周到なる企画と自信に信頼しつつも
帝国がまづ敵より攻撃を受けて此の計画の挫折せんことを憂慮して居りました。 

 蓋し前に述べた如く當時の情報より判断すれば
 米英側に於ては既に當時対日戦を決意して居るものと判断せられた
が故であります。

 統帥部に於ても1941年(昭和16年)12月1日の開戦準備行動開始の命令中に敵より攻撃を受けたる場合には
臨戦戦闘に入るべきことが感ぜられて居りました。
 (法廷証第八〇九号中英文76頁にある1942年11月21日通達B項及田中新一証言中英文記録27020頁)

即ち敵の方より先制することがあり得ると思はれたからであります。
  
 先ず日本をして一撃を加えしめるように仕向けるといふが如き
戦争指導手段が「アメリカ」側に考へられて居ったといふことは其の當時は予期して居りませんでした。

 

  127
 
 私が真珠湾攻撃の成功の報を受取ったのは
1941年(昭和16年)12月8日午前4時30
分頃(日本時間)
海軍側から伝へられた報告に依ったものと記憶致します。
 而してその奇跡的成功を欣び天に感謝しました。
 
 大本営陸海軍報道部は同日午前6時米英と戦争状態に入りたる旨発表し
同日午前7時30分臨時閣議を招集し此の席上初めて陸海軍大臣より作戦の全貌を説明したのであります。
 此の間に「マレー」方面の作戦成功の状況についても報告をうけました。

 

  128 
 我国の最終的通告を米国へ交付遅延の事情は
証人亀山の証言(英文記録2618頁)及結城の証言(英文記録26209頁)に依り明白となりました。

 日本は真珠湾攻撃のために右覚書交付の時間の決定については
外務省並びに統帥部両方面より慎重に研究の上決定したのであります。
それ故、攻撃成功のため此の交付を故意に遅らせたといふ如き姑息なる手段に出たものではないことは
前に述べた通りであります。

 なほ此のことは実際上よりいふも証拠の示す如く米国は攻撃の前に之を予知し、
之に対する措置を講じて居つたのでありますから、
もし覚書交付遅延の如きことをする格別の効果はなかつたのであります。

 

ルーズヴェルト大統領より天皇への親書  

  129
 
 1941年(昭和16年)12月8日午前1時頃(確実なる時間は記憶せず)
東郷外相が総理大臣官邸へ突然来訪し米大統領から天皇陛下に親書を寄せたりとて
「グルー」大使が来訪し其写を外相に手交したること並に右を直ちに上奏せんとする旨告げました。

 私はその内容に於て従来の米の態度より譲歩したるものなりやと尋ねましたが、
外相は之に対し何等譲歩したる点なしと答へました。

 
 私は直ちに上奏は異存なしと告げると共に
もはや海軍の機動部隊の飛行機は母艦より飛行の開始を為して居るであらうと答へたのでありました。

 東郷外相は直ちに辞退し右に関して上奏を為したものであります。
私が親電を知りたるは之が初めてであります。

 検事側の主張する如く米側より親電を発せらるることを事前に知って居ったといふ事実はありません。
我国に於ては
他國の元首より天皇陛下に宛てたる親電を
故意に遅延するといふ如き行為は行はんと考ふる如き者は
臣下として存在しない
のであります。

 

部内統督の責 

  130
 日本國の軍事制度に於ては部下統督の責任は事柄に依り二筋に別れて居ります。

(一) 一は統帥系統内に発生することあるべき事項であります。

 即ち作戦警備、輸送、並びに陸軍大臣の開設したる俘虜収容所に輸送するまでの間における
俘虜の取扱等は全て統帥系統内の事項として統帥関係者の責任即ち最終には参謀総長に属するものであります。

 本件について申しますれば「マレ-」半島に起つた事件、
「バタン」半島の事件、
船舶輸送中に発生した不詳事件等は未だ陸軍大臣の開設したる俘虜収容所に収容前の事件であります。
その処理は統帥関係者に於て受け持つべきものでありました。

(二) その二は陸軍大臣の行政管下に発生したるものであります。
 即ち陸軍大臣の開設したる俘虜収容所に収容したる以後の俘虜 及
戦地(支那を除く)一般抑留者に対する取扱等は此の部類に属します故に
例へば泰緬鉄道建設に使用したる俘虜を如何に取扱ふやは陸軍大臣の所轄事項でありました。

 私は右の中その(二)の事項に関しては
太平洋戦争の開始より1944年(昭和19年)7月22日迄の間は
陸軍大臣として行政上の責任を負ふものであります。

 その(一)に関しては1944年(昭和19年)2月より同年の7月に至る迄の間
参謀総長として統帥上の責任を負ふものであります。

 又外務大臣としては1942年(昭和17年)9
月1日より同年9月17日迄の間
敵國並に赤十字の抗議等外政事項に関係したる事柄がありたりとすれば
是亦行政上の責任を負ふものであります。
  
 内務大臣としては1941年(昭和16年)12月8日より1942年(昭和17年)2月27日迄
内地抑留者の取扱其他につき何等かの事故ありたりとすれば、
是亦その行政上の責任者であります。
 
 なほ又 内閣総理大臣兼陸軍大臣としては
俘虜処罰法等の制定に関し政治上の責任者であります。
しかし乍ら此等の法律上並に刑事上の責任如何は申す迄もなく當裁判所の御判断に待つところであります。

 率直に申上ぐれば
私は 私の全職務期間に於て犯罪行為を為しつつありなどと考へた事は
未だ曾て一度もありません。

私としては斯く申上ぐる外ありませぬ。

 

  131
 
 以下私が陸軍大臣たりし期間に発生した俘虜の取扱に関し発生した問題につき陳述致します。

 俘虜並に抑留者其他占領地内に於ける一般住民に対しては、
国際法規の精神に基き博愛の心をもって之を取扱ひ虐待等を加へざること
及強制労働を課すべからざること等に関しましては
俘虜取扱規則(法廷証一九六五、英文3頁)俘虜労務規則(法廷証一九六五、英文14頁)等に依り之を命令し、

 なほ又1941
年(昭和16年)1月陸軍省訓令第一号,戦陣訓(法廷証三〇六九号)を示達し
戦場に於ける帝国軍隊、軍人、軍属としての心得を訓諭致しました。
  
 此の戦陣訓は太平洋戦争に入るに當り従軍者には各人に之を交付しその徹底を図ったのでありました。
 (証人一戸の証言英文記録二七四三三)

 また検事の不法行為と称せられる事項につき
陸軍大臣たりし私の所見は法廷証第一九八一号Aに記載した通りであります。

 

  132
 
 寿府(ジュネーブ)条約に関して一言致します。
日本は寿府条約を批准致しませんでした。
なほ又事実に於て日本人の俘虜に対する観念は欧米人のそれと異なって居ります。

 なほ衣食住其他風俗習慣を著しく異にする関係と
今迄戦役に於ては各種民族を含む広大なる地域に多数の俘虜を得たることと
各種の物資不足と相待ちまして、
寿府条約を其儘適用することは我国としては不可能でありました。

 日本に於ける俘虜に関する観念と欧米のそれとが異なるといふのは次のようなことであります。
日本に於ては古来俘虜となるといふことは大なる恥辱と考へ
戦闘員は俘虜となるよりは寧ろ死を択べと教へられて来た
のであります。

 これがため寿府条約を批准することは俘虜となることを奨励する如き誤解を生じ
上記の伝統と矛盾するがあると考へられてました。
そうして此の理由は今次戦争の開始に當っても解消致して居りません。

 寿府条約に関する件は外務省よりの照会に対し、
陸軍省は該条約の遵守を声明し得ざるも俘虜待遇上之に準じ措置することに異存なき旨回答しました。

 外務大臣は1942年(昭和17年)1月瑞西(スイス)及「アルゼンチン」公使を通じ
我国は之を「準用する」旨を声明したのであります。
 (法廷証一四六九・一九五七)

 此の準用といふ言葉の意味は
帝国政府に於ては自国の国内法及現実の事態に即応するように
寿府条約に定むるところに必要なる修正を加へて適用するといふ趣旨でありました。
 
 米国政府の抗議に対する1944年(昭和19年)4月28日付抵抗政府の書簡に其旨を明らかにして居ります。
(弁護側証第二七七五号)陸軍に於ても全く右の趣旨の通りに考へ実際上の処理を致しました。

 俘虜取扱規則其他の諸規則も此趣旨に違反するものではありません。


   


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その19 十二月一日の御前会議終了から開戦に至る迄の重要事項   

2023-12-25 16:35:35 | 東條英機  

                            パル判事の碑文 (靖国神社)


東條英機 宣誓供述書 

  
               


十二月一日の御前会議終了から開戦に至る迄の重要事項 

 

  118 

 1941年(昭和16年)12月1日の御前会議に於て開戦決定を見たる上に開戦に至る迄の間の重要事項は
(一) 開戦実施の準備と
(二)之に関する国務の遂行との二つであります。

 前者は大本営陸海軍統帥部に於て行われるものであつて
政府としては此のような統帥事項の責任には任じないのであります。 

 唯統帥の必要上の軍事行政の面に於て措置せることを必要とするものがあります。
此のことに関しては私は陸軍大臣として在任期間に於ける其の行政上の責に任じます。
但し海軍の事については自分は陸軍大臣としては勿論総理大臣としても之に関興致しません。
 
 陸軍参謀本部条例(証第七八号)海軍軍令部令(証第七九号)に重ねて貴裁判所の御注意を煩わすものであります。

 右に拠れば参謀総長は各軍の統帥に関し政府と独立して補翼の責めに任ずることとなって居ります。
これが日本特有の統帥権独立の理論であり又基本的の制度であります。

 即ち作戦葉柄の計画実施、換言すれば統帥部のことについては行政府は関与出来ず、
従って責任も負ひませぬ。


 唯各省大臣の内陸海軍大臣は輔弼の参画者たる身分に於て他の各省大臣とは違った所があります。
即ち作戦の方から惹いて関係をもって来るところの行政(軍事行政)並に人事に関しては之に関与致します。

 此の場合でも作戦の実体である作戦計画の決定や作戦計画の実施には参与致しません。
唯陸海軍大臣は作戦計画に関しては陛下に上奏して御裁可を受けた後にその通報を受けるのです。

 此のことに関しては証人石原完爾が述べたところが正しいのであります。(法廷記録二二一五四三号) 

 尚ほ統帥部の問題に触れたこの機会に於て、
1946年(昭和21年)3月14日検事の取調に対する
私の陳述中法廷に証拠として提出せられある法廷証第一九七九号Aは
私の當時述べました意思を明確に表しておりませんから、
茲に左の数点を明らかに致して置きたひと思ひます。 

(イ) 大本営の構成人員は主として、参謀本部及陸海軍令部の職員より成り、
  一部は陸、海軍省の職員(陸、海軍大臣以外の)が兼職して居ります。

   而して大本営陸軍部、同海軍部に分かれて居りますが
  参謀総長及海軍軍令部総長が之をそれぞれ統率して居るのであります。 

(ロ) 陸海軍大臣は、前記法廷証に於ても述べた如く本来大本営構成の一員ではありませぬが、
  所要の随員を従へて、大本営の議に列すと規定されて居ります。
  これは陸軍大臣として統帥に関係を有する軍事行政を敏速に処理するためであります。

   而して私の陸軍大臣在任中大本営の議に列したことは一回もありませんでした。
  又陸軍大臣は統帥部の決定には参画出来ず、
  其の最後的決定後通報を受くるのであります。
   (弁護側証二九四二)

(ハ) 天皇陛下御出席の下行ふ、真の大本営会議なるものは
  私の陸軍大臣在任中一回も開催されたことは、ありませんでした。

  右法廷証に於て述べた会議は、実は陸海軍の情報交換の会議を指したのであり、
 所謂大本営会議ではありませんでした。

 

  119 

 12月1日以後開戦までは縷々連絡会議を開きました。
 そして此間に作戦実施準備と国務につき重要なる関係を有する諸事項を決定しましたが、
そのうち重なものは次の通りであったと記憶して居ります。
 これ等は本節冒頭で述べました統帥以外のことであり、
国務と統帥との両者の間に協定を遂げたものであります。

(一) 対米通告とその米国への手交の時期の決定 
(二) 今後の戦争指導の要領の決定  
(三) 占領地行政実施要領の決定  
(四) 戦争開始に伴ふ対外措置の実行  
(五) 宣戦詔勅の決定 

 

 120 対米通告と米国政府への手交時期の決定  

 日本政府は1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)米国政府に対し、
駐米野村大使に対して帝国が外交交渉を断絶し戦争を決意せる主旨の通告を交付せしめました。

 その文言は法廷証第一二四五号のKの通りであります。
 そうして此の通告に対する外交上の取扱は外務省の責任に於てせられたのであります。

 これより先1941年(昭和16年)11月27日の連絡会議に於て
同月26日のアメリカの最後通牒と認められたる「ハルノート」に対する態度を定めたことは既に述べました。

 之に基き東郷外相より私の記憶に依れば
12月4日の連絡会議に於て我国より発すべき通告文の提案があったのであります。  

 之に対し全員異議なく承認し且つその取扱に付には概ね次のような合意に達したと記憶します。
A、右外交上の手続は外務大臣に一任する。 
B、右通告は国際法によ依る戦争の通告通告として
  米国政府に手交後に於ては日本は行動の自由をとり得ること。
C,米国政府への手交は必ず攻撃実施前に為すべきこと。
 此の手交は野村大使より米国政府責任者へ手交すること。
 駐日米国大使に対しては攻撃実行後に於て之を通告する。 

 通告の交付は攻撃の開始前に之を為すことは豫て天皇陛下より私及両総長に屢々御指示があり、
思召は之を連絡会議関係者に伝へ連絡会議出席者は皆之を了承して居りました。

D、通告の米国政府に対する手交の時間は
 外相と両総長との間に相談の上之を決定すること
 蓋し外交上、作戦上機微なる関係がありましたからであります。

 真珠湾その他の攻撃作戦計画及作戦行動わけても攻撃開始の時間は大本営に於ては極秘として一切之を開示しません。
 従って連絡会議出席者でも陸海軍大臣以外の閣僚等は全然之を知りません。

 私は陸軍大臣として参謀総長より極秘に之を知らされて居りましたが、
他の閣僚は知らないのであります。

 私の検事に対する供述中法廷証第一二〇二号のAとして提出してある部分に
真珠湾攻撃の日時を東郷外務大臣及鈴木企画院総裁が知って居ったと述べているのは全く錯覚であります。
之はここに訂正いたします。

 私の記憶によれば1941年(昭和16年)12月5日の閣議に於て
対米最終通告につき東郷外務大臣よりその骨子の説明がありました。
全員は之を了承しました。

 日本政府に於ては12月6日に野村大使に対し慎重廟議を盡したる結果、
対米覚書を決定したこと又この覚書を米国に提示する時期は追て電報すべきこと、
並に覚書接到の上は何時にても米国に交付し得るよう文書整備其の他豫め万般の手配を了し置くよう
外相より訓電せられて居ります。 

 詳細は山本熊一氏の証言せる如くであります。
 (英文記録第20697頁参照)

 その上右覚書本文を打電したのであります。
翌12月7日にはその覚書は正確に「ワシントン」時間午後1
時を期し
米側に(可成、国務長官に)野村大使より直接に交付すべき旨訓電して居ります。 

 要するに対米通告の交付については
日本政府に於ては真珠湾攻撃前に之を為す意思を有し且つ此の意思に基き行動したのであります

而して私は當時其の交付は野村大使に依り外相の指示に基き指定の時間に正しく手交せられたものと確信して居りました。

 蓋し斯の如き極めて重大なる責任事項の実行については
出先の使臣に完全なる正確さをもって事を當るといふことは何人も曾て之を疑わず、
全然之に信頼して居るのは当然であります。

 然るに事実はその手交が遅延したること、
後日に至り承知し日本政府としては極めて之を遺憾に感じました。

 対米最終報告の内容取扱については
外務當局に於て国際法及国際条約に照し慎重審議を盡して取扱つたものであつて、
連絡会議、閣議とも全く之を信頼して居りました。

 

  121、 今後の戦争指導要領の決定 

 今は確実なる日時は記憶して致しませんが
連絡会議に於て戦争の指導につき次の合意に達しました。
但し此の内の一部は12月1日以前の連絡会議に於て準備のため定めたものもありますが
説明の便宜のためここに併記致します。

A,対米英開戦の後、先ず政戦両略を盡して「イギリス」及重慶の脱落を図ること。

B、統帥部の企画せる計画に基き
 速に「フィリピン」英領「マレー」蘭領東印度の各要域、南部「ビルマ」等の要域を戡定す。
 此の要域の確保により自給体制の基礎を確立する。

 且つ北方情勢の変化に応ずる体制を整ふ。
 統帥部に於ては之に要する期間を5か月と概定する。
 爾後の作戦実施はその時の状況、殊に主として海戦の結果に依る。

C、宣戦布告は最初は米英に止め、蘭印に対しては宣戦せず。
 武力行使を必要とするに至り戦争状態の存在を布告する。
 然し開戦と共に和蘭に対しては之を準敵国として取扱ひ諸般の処置をとる。

D、支那事変を急速に解決するとの従来の方針に変化なし。
 開戦と共に香港を攻略する。
 天津英租界、上海共同租界、その他在支敵国権益を処理する。

E、「ソ」聯に対しては中立条約を尊重して
 北方静謐保持の従来の政策を堅持すると共に、米「ソ」提携に付き厳に警戒す。

F、日本軍の泰國進駐直前泰國に対し日本軍の通過容認等の要求を為すことに決す。

G、満州國及南京政府に対しては帝国は参戦を希望せず。
 友好協力のみを期待する。 

H、獨、伊とは単独不講和条約を締結すること
 獨伊との単独不講和条約締結の交渉は1941
年(昭和16年)
 11
月29日 獨伊に対して対米交渉の不調を告げると共にその申入をしました。
 然し、開戦の日時に関しては開戦迄は何等通報は致しません。
 そして此の条約の締結を見たのは開戦後、即ち12月11日であります。

 従って獨伊との間に開戦前緊密なる提携は遂に為されず、
日本の開戦決意は獨伊の態度如何に拘らず、
独自の立場に於て真に自存自衛のため止むを得ざるに至ったため決意せられた
ものであります。 

I 開戦時期は之を秘匿す。

J 12月1日の決定に基く開戦準備行動の間に12月8日迄に
 もし日米交渉妥結すれば開戦準備行動は之を中止する。 

 開戦の始に於ては真珠湾の攻略は専ら大本営海軍部が之に任じ、
自分は之に関知しませんでした。
但しその政治的関係については後に述べます。

 12月1日大本営陸軍統帥部に於ては
 南方総軍司令官、支那派遣軍総司令官並に南海支隊長に対し開戦準備命令が下達せられました。

 右と同時に開戦に至る間に日米交渉妥結せば随時その行動を中止すべきことが示されて居ります。
統帥部に関することは私の責任ではありません。
従って之については述べることは出来ません。
 (弁護側証第二九四七号)

 

  122 占領地行政について陳述致します。

(一) 作戦準備の一つとして私の記憶によれば
11月20日の連絡会議に於て南方占領地行政実施要領(証八七七)を決定したのであります。
12月1日開戦準備の行動開始の統帥命令を大本営より発せらるる際同時に之を示達されたと記憶致します。 

(二) 占領地行政実施要領を定るに當り基礎となりたる當時の考へ方は
 作戦の進展に基き次の如き着意の下に占領地行政を行はしめるものであります。
  (A)占領地に対しては差當り軍政を行ふ。その占領地行政は作戦軍の任務として行は占める。

  (B) 現地の政治状態の許す限り、可成速かに従来の歴史的地域を考へ、
独立乃至自治を與へ可成早く軍政を実施する。
此等の独立乃至自治地区は帝国の意図する大東亜共栄圏建設の趣旨に協調せしめ
状況の許す限り戦争に協力せしむ

  
(三) 南方占領地行政実施要領は法廷証第八七七号の如くでありまして其要点は、
  (A)占領地域内治安の回復、民生の安定 
  (B)重要国防資源の急速取得 
  (C)作戦軍の現地自治の確保  

その実施に當り特に注意せしむることは次の如くでありました。
(A)残存統治機関の利用、従来の組織、民族的風俗、習慣の尊重、宗教の自由 
(B)土地在住の外国人は軍政に協力せしむ。之に応ぜざる者はやむ得ず退去せしむ。
(C)華僑に対しては蒋政権より分離し、我施策に協力せしむ。 
(D)新たに進出すべき邦人の厳選 

 

  123 戦争に伴う対外措置につき陳述致します。

 和蘭に対しては前に述べし如く宣戦の布告をしません
 1941年(昭和16年)12月10日に和蘭から我国に宣戦して来ました。
 
 我国に於ては1942年(昭和17年)1月12日に至り
 同國との間に戦争状態に入ったことを宣戦したのであります。
  (法廷証第1万3237頁)  

 泰国に対する関係を述べます。
 1941年(昭和16年)11月5日御前会議に於て次の如く定まるりました。

 即ち
「対米英蘭開戦のやむなき場合には泰國との間に軍事的緊密関係を設く」といふのであります。
(一) 之に基き11月23日の連絡会議に於て一応準備として決定せる日本軍が泰國通過直後、
 通達の容認と之に対する諸般の便宜供与並びに日泰両軍の衝突回避の措置を要求する。

(二) 日本軍の進駐前に「イギリス」が泰領に進入する場合には
 日本は機を逸せず、駐泰大使に之を通報し、泰国と交渉したる後に進入する。

 12月1日の戦争準備開始決定後の要領を現地に通知して置き通過開始直前に之が実行を命じました。

 蓋し斯の如き方法をとりましたのは當時に於ける日泰間の特殊事情に依るものであります。
 然し乍ら此當時日本政府は泰國殊に「ピブン」首相の親日的態度に鑑みて之を信頼し、
必ず右通過の交渉は円滑なる結果を得るものと確信して居りました。
ただ過早なる要求をすると英国側に遺漏の虞あるためこれをしなかったのであります。

 駐泰日本大使は所命に基き泰國政府との交渉を進駐前に開始致しました。
唯、偶々泰國首相旅行のため8日正午に協定書調印が出来たといふ経過であります。
 (法廷証三〇三五号)

 これより先、日本の陸軍は英軍の泰南部領土進入の報を受けました。 

 泰の南部海岸の限定地域に於ては日泰間に一部の衝突を見ましたが
泰國政府の処置に依り8日午後3時迄に一切停止されたのであります。
 
 英軍の泰領進入は曾て「ワイルド」大佐が証言した通りであります。
 (英文記録5691頁、5692頁) 
 
 私は當時既に其報を獲て居ります。

 仍て12月15日に開かれた第78回帝国議会に於ては
木村陸軍次官は陸軍大臣たる私に代り
「英国は久しきに亘り政戦両略を併用して泰國を強圧し、
 之をして反日戦線に導入すべく執拗なる策動を続けつつあったのでありますが、
 遂に7日の夜間に乗じ「マレー」国境を突破し、泰國南部に進入し来つたのであります。
 ここに於て我陸軍は海軍と共同致しまして、
 8日未明「マレー」半島の要衝に上陸を敢行したのであります」と述べたことを記憶しております。
 (弁護側証拠二七一〇号)

 

  124 

 宣戦詔書の決定と其の布告
 帝国は1941年(昭和16年)12月8日開戦の第一日宣戦の詔書を布告しました。

 右詔書は法廷証第一二四〇号がそれであります。
 而して此詔書はその第一項に明示せられある如く、
 専ら国内を対象として発布せられたものであつて、国際法上の開戦の通告ではありません。


  125 

 之より○(注、一文字、判読不明?)1941年(昭和16年)11月26日
米国の「ハルノート」なる最後通牒を受取り開戦はもはや避くべからざるものなるを知るに及び、
同年11月29日頃の連絡会議に於て宣戦詔書の起草に着手すべきことを決定しましたと記憶します。

 12月5日頃の閣議並に12月6日頃の連絡会議に於て詔書草案を最終的に確定し
12月7日に上奏したものであります。

 尤も事の重大性に鑑み中間的に再三内奏致しました。
その際に右文案に二つの点につき聖旨を体して内閣の責任に於て修正を致したことがあります。

 その一は第3項に
「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト戦端ヲ開クニ至る洵ニ己ムヲ得ザルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ」との句がありますが、
これは私が陛下の御希望に依り修正したものであります。
 
 その二は12月1日木戸内大臣を経て稲田書記官を通じ詔書の末尾を修正致しました。
それまでの原案末尾には「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」とありましたが、
御希望に依り「帝国ノ光栄ヲ保全センコトヲ期ス」と改めたのであります。 

 右二点は孰れも陛下の深慮のあらせらるるところを察するに足るものであります。
  (法廷証三三四〇号中二四〇節二四一節)

 右宣戦詔書発布の件は枢密院に御諮詢になりました。
即ち12月8日枢密院にて審議の後勅裁を経て
同日午前11時過ぎ内閣より発表せられたるものなりと記憶しております。

 枢密院に於る審議の概況は
法廷証第一二四一号昭和16年12月8日枢密院審査委員会の筆記にある通りであります。

 此の枢密院審査委員会の筆記中私の説明として
対米交渉は12月1日の御前会議に於て対米英蘭開戦に決し
従って爾後は作戦の関係より継続せしめたに過ぎざる旨の答弁を為したとの記事があります。
 
  又「オランダ」に対しては今後の作戦上の便宜を考へ敢えて
ここに宣戦布告を為さざる旨答弁を為したとの記事があります。

 しかし此等の記事は速記法に依ったものでなく唯私の申したことを書記官が要約して筆記したに過ぎません。
従て私が當時述べたところの真意を盡して居りません。
當時私の陳べた趣旨は次の如くであります。
 
 即ち対米英蘭開戦は12月1日に決した。
それ以後は専ら開戦準備行動に移ったのである。
而してその間と雖も米国の反省に依る外交打開に一縷の望みをかけて居った。

 その妥結を見たならば作戦中止を考へ居つたが遂に開戦になったと。

並びに「オランダ」に対しては開戦の當初、その攻撃を予期して居らず
 従って日本より好んで宣戦する必要はない。
それであるから「オランダ」のことは此の詔書より除外した
と述べたのであります。


    


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その18 十二月一日の御前会議   

2023-12-24 22:23:52 | 東條英機  

               パル判事の碑文 (靖国神社)

  

十二月一日の御前会議
 

 

   115 

 前に縷々述べた如く1941年(昭和16年)11月言うかの御前会議に於ては
一方日米交渉が誠意を以て進めると共に、
他面作戦準備は大本営より具体的に進められることとなりました。
  
 斯くして米国の反省を求め、外向の妥結を求めんとしたものでありましたが、
11月26日に至り米国の最後通牒に接し
我が国としては日米関係はもはや外交接触に於いては打開の道なしと考へ得ました。

 此のことは前にも述べた通りであります。
以上の結果を辿ってここに開戦の決意を為すことを必要としたのであります。

 これが為開かれたのが12月1日の御前会議であります。
此の会議は連絡会議の出席者ぼ外政府側からは全閣僚が出席しました。
此の会議では従前の例により御許しを得て私が議事進行の責に當りました。


 當日の議題は
「11月5日決定の国策遂行要項」に基く対米交渉遂に成立するに至らず。
 帝国は米英に対し開戦す」
 (法廷証第五八八号の末尾)
といふのであります。

 劈頭私は総理大臣として法廷二九九五四号の如き(英文記録二六〇七二号)趣旨を述べ
それより審議に入ったのであります。

 東郷外相より日米交渉のその後の経過に就き
法廷証第二九五五号英文記録二六〇七頁の如き報告を致しました。
 永野軍令部総長は大本営両幕僚長を代表して作戦上の立場より説明せられました。

 その要点は私の記憶に依れば次の通りであります。
(一)米英蘭其後の軍備は益々増強せられて居る。
   重慶軍は強力なる米英側の支援を受けて益々交戦継続に努力して居る。
   米英首脳者の言動に依れば米英側は既に戦意を固めて居るものと思われる。

(二)陸海軍は前回の御前会議(11月5日)の決定に基づき戦争準備を進め
   今や武力は発動の大命を仰ぎ次第作戦行動に移り得る態勢に在る。

(三)「ソ」聯に対しては厳重に警戒して居るが、外交施策と相俟ち目下の所、大なる不安はない。

(四)全将兵の士気極めて旺盛、一死奉公の念に燃えて居る。
   命令一下勇往邁進大任に赴かんと期して居る。と。

 私は更に内務大臣として民心の動向、国内の取締、外人及び外国高官の保護、非常警備等に就き説明を加へ、
大蔵大臣よりは我国財政金融の持久力、
農林大臣からは長期戦に至った場合の食料の確保等に就き説明がありました。

 原枢密院議長から次の数項に亘り説明があり、
之に対し政府及び統帥部より夫々説明したのであります。

其の要旨を簡単に言へば次の通りであります。
一、米国側の軍備並びにその後の増強に対し、
  海戦勝利の見通しの有無—之に対し軍令部総長より米国の軍備は日々増強して居る。
  米国の艦隊は其の全部の4割を大西洋に分割して居る。
  此は俄かに太平洋に持ち来ることは困難である。

 「イギリス」艦隊の極東増強は或る程度予期しなければならぬ。
 又現に極東に来つつある。
 但し欧州戦の観点より大なるものを持って来ることは出来ぬであらう。
 米英の全力は連合軍であるといふ弱点を包蔵して居る。
 故に彼が決戦を求めてくれば勝算はある。

 問題は長期戦になった場合である。
其の見通しについては形而上下の各種要素、国家総力の如何は
世界情勢の推移如何に因りて決せられるる処大にして
今日に於て数年後の確算の有無を断ずること困難である。
 (此時の説明に際して「ハワイ」攻撃其他の攻撃の統帥事項に関する具体的の事に就いては少しも口外せず)

二、泰國の動向と之に対する措置――此の問題については主として私が答へました。
 その趣意は泰國の動向は作戦お実施に伴ひ軍事上、外交上極めて機微なる関係にある。
 殊に泰に対しては「イギリス」政府の抜くべからざる潜勢力がある。

 政府及び統帥部に於ても米英に対する作戦実施に際し泰國に対しては
特に慎重なる考慮を払ひ適切たる処置を講じたひ。
近頃同国と帝国との間には緊密なる関係が増進して居るから
米英に対する攻撃開始に當っては平和裡にその領土を通過し得る自信がある。

三、内地が空爆を受くるの公算及その場合の措置
 之に対し参謀総長から開戦の初期に於ては勿論その後に於ても
緒戦の勝敗に関係することが多いが、
初期開戦に勝利を得れば日本内地の空爆を受ける恐れは少ないが、
時日の経過に依り之を受くる恐れなしとしとせぬ。

 場合によっては米国は窃に「ソ」聯に基地を求むる策に出るかも判らぬ。
これは警戒を要する。此の場合には内地の方は益々戒心を必要とする。

 軍としては開戦と共に或る程度の応急手段に依り対空警戒の措置を為す企画をもって居る。
然し乍ら作戦軍の方の防空戦力の増強を要するが故に當初は十分なる配置を為すことは出来ぬ。
戦争の経過とともに逐次増強せられるであらう。

 

 最後に原枢密院議長より総括的に次の如き意見の開陳がありました。

一、米国の態度は帝国として忍ぶべからざるものである。
  此上、手をつくすも無駄なるべし。従って開戦は致方なかるべし


二、當初の勝利は疑ひ無と思ふ。
 唯、長期戦の場合、民心の安定を得ること、
 又長期化は止むを得ずとするも之を克服して、早期に解決せられたし、
 之について政府に於て十分なる努力を望む。

三、戦争長期となれば國の内部崩壊の危険なしとせず政府としては十分注意せられ度し。

 

 之に対し私は次のように答へました。

 戦争のため萬段の措置につき御意見の点は十分に注意する。
又今後の戦争についても早期に解決する事についても十分努力する。
此の決意後と雖も開戦に至る迄の間に米国が日本の要求を容れることに依て問題の打開が出来れば
何時に手も作戦行動を中止するとの統帥部との了解の下に進んで来て居る。


 長期戦の場合の人心の安定秩序維持、国内より来る動揺の阻止、
 外国よりの謀略の防止に就いては十分に注意する。
 皇国隆替の関頭に立ち我々の責任これより大なるはない。

 一度開戦御決意になる以上、
今後一層奉公の誠を盡くし政府統帥部一致し、
挙国一體の確信を持し、
あくまでも全力を傾倒し速やかに戦争目的を完遂し以て聖慮に答へ奉り度き決心であると。

 斯くて此の提案は承認せられたのであります。
此の会議に於て陛下は何も発言あらせられませんでした。

 

  116

 此の会議に先立ち、
内閣に於ては午前9時より臨時閣議を開き事前に此の案を審議し
政府として本案に大體異存なしとして御前会議に出席したのでありますから、
此の会議をもつて閣議決定と観たのであります。
統帥部に於ては各々その責任に於て更に必要な手続をとったのであります。

 

  117 

 以上の手続きに由り決定したる国策については、
内閣及び統帥部の輔弼及輔翼の責任者に於て其の全責任を負ふべきものでありまして、
天皇陛下に御責任はありませぬ。

 此の点に関しては私は既に一部分供述致しましたが、
天皇陛下の御立場に関しては寸毫の誤解を生ずる余地なからむるため、ここに更に詳述致します。
これは私に取りて実に重要な事柄であります。 

(一)天皇陛下が内閣の組閣を命ぜらるるに當つては必ず往時は元老の推挙により、
  後年殊に本訴訟に関係ある時期に於ては
  重臣及常侍輔弼の責任者たる内大臣の進言に由られたのでありまして、 
  天皇陛下が此等の推薦及び進言を却け、
  他の自己の欲せらるる者に組閣を命ぜられたといふが如きは未だ曾てありませぬ。

 又統帥部の輔翼者(複数)の任命に於ても、
既に長期間の慣例となつた方法に依拠せられたものであります。

 即ち例へば、陸軍に在りては三長官(即ち陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の意見の合致に依り、
陸軍大臣の輔弼の責任に於て御裁可を仰ぎ決定を見るのであります。

 海軍のそれに於ても亦同様であります。
此の場合に於ても天皇陛下が右の手続に由る上奏を排して他を任命せられた実例は記憶致しませぬ。
 以上は明治、大正、昭和を通しての永い間に確立した慣行であります。 

(二)國政に関する事項は必ず右手続で成立した内閣及統帥部の輔弼輔翼に因って行われるのであります。
  此等の助言に由らずして陛下が独自の考へで國政又は統帥に関する行動に遊ばされる事はありませぬ。

  この点は旧憲法にも明文があります。

 その上更に慣行として、
 内閣及統帥部の責任を以て為したる最後的決定に対しては
 天皇陛下は拒否権を御行使遊ばされぬといふ事になって来ました
 
(三)時に天皇陛下が御希望又は御注意を表明せられる事もありますが、
 而も此等御注意や御希望は総て常侍輔弼の責任者たる内大臣の進言に由って行われたことは
 某被告の當法廷に於ける証言に因り立証された通りであります。

 而もその御希望や御注意等も、
之を拝した政治上の輔弼者(複数)、統帥上の輔翼者(複数)が更に自己の責任に於て之を検討し、
その當否を定め、再び進言するものでありまして、
此の場合常に前申す通りの慣例に依り御裁可を得て居ります。

 私は天皇陛下が此の場合、之を拒否せられた事例を御承知致しませぬ。

 之を要するに天皇は自己の自由の意思を以て内閣及統帥部の組織を命ぜられませぬ。
内閣及統帥部の進言は拒否せらるることはありませぬ。

 天皇陛下の御希望は内大臣の助言に由ります。
而も此の御希望が表明せられました時に於ても之を内閣及統帥部に於て審議上奏します。

 この上奏は拒否せらるることはありませぬ。
之が戦争史上空前の重大事に於ける天皇陛下の御立場であったのであります。

 現実の慣行が以上の如くでありますから、
政治的、外交的及軍事上の事項決定の責任は全然内閣及統帥部に在るのであります。
夫れ故に1941年(昭和16年)12月1日開戦の決定の責任も亦内閣及統帥部の者の責任でありまして
絶対的に陛下の御責任ではありません。

 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その17 重臣懇談會 

2023-12-24 21:56:29 | 東條英機  

            パル判事の碑文 (靖国神社)




重臣懇談會 
 

 

   110
 
 予定の12月1日の御前会議に先立つ事2日なる11月29日に天皇陛下の思召を體し
政府は対米英蘭開戦に関する意見を宮中に重臣の参集を求め、
政府の所信を披瀝し其の機会に於て陛下には重臣の所見を聴取あらせられました。
之は天王陛下の平和愛好の御精神より事を慎重の上にも慎重にするため斯る手続きを採られたものであります。
 
 召されました人々は、
近衛公、平沼男、林大将、阿部大将、米内大将、若槻、岡田大将の諸氏等
曾て総理大臣の前歴ある人々並に原枢密院議長でありました。
所謂 『重臣会議』 と称せられるものでした。
   
 実際は会議ではなく単に懇親的な物であります。
議長も措かず、又議題につき議決する物でもありません。
なほ明らかにして置きますが、ここに集まったん者を重臣といひますが、
日露戦争時代の元老重臣とは意味が異なります。
  
 此の當時の重臣即ち元老、
即ち元老は特に元老優遇の詔書を賜り国家的の高度の政治に参画するある種の責任を以て居ったのでありますが、
今度の重臣といふのは公式に重臣とま命名されたものでなく
単に首相たる前歴を有する者といふことで召されたのであって、
一般国民との間に特殊の差はないのであります。

 

  111  

 この会議に29日の午前中は政府と此等重臣との間に懇談を遂げたのであります。
政府の方からは総理大臣兼陸軍大臣たる私の外に島田海相、東郷外相、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁が出ました。
統帥部からは誰も出ていません。
 
 午前9時半から午後1時頃迄に亘りましたが、
私より我国は対米英戦争を避くべからざる所以を説明し、
東郷外相より日米交渉の顛末を説明致しました。

 之に対し各重臣側より日米交渉問題及国力問題等に関し質問があり、
政府関係者よりこれに対し詳細に亘り夫々説明したのでありますが、
その詳細は今記憶致しません。
 
 但し去る9月26日岡田啓介上人証人の述べました如く
私が重臣の質問に対し国家機密なりと説明を拒否したりとは事実ではありません。
唯純作戦事項については説明を避けたのであります。

 

  112

 次いで御餐後各重臣を御前に召されて政府の説明に基き各自の対米英戦開始に関する意見を求められました。
重臣の外に出席した者は午前中に出て居った閣僚の外、木戸内大臣も陪席せられました。

 出席者の意見の大要は木戸侯日記即ち法廷証第一一九六号(英文記録、一〇四五号)の通りであります。
此時発表せられました意見を綜合すると次の四つに帰着致します。

第一、仮令交渉が決裂しても開戦を為さず再起を他日に期すべし。
 
第二、政府は慎重な用意を以て開戦の決意に到着したるものであるから之を信ずる以外にない。 

第三、長期戦となれば日本の補給能力の維持、民心の動向に多分の懸念がある。
 (然し此点に関し帝国として採るべき方途に就ては別に意見の開陳なし)
 但し、東亜政策のために戦争に訴へるといふならば、それは危険千萬である。

 私は右の意見に対し一々政府の意のあるところを説明致しました。

 第一に対しては此点について、政府としては最も頭を悩ませたところであります。
政府は百般に亘り検討の結果、交渉不成立に拘らず、此の儘に推移すれば国防上至大なる危険に陥ってしまひ、
国家の存立に関する問題であると考えたる旨を説き、
前に述べた10月23
日より11月2日までの連絡会議の第一案不採用の理由を説明したのであります。

 第二の説については別に説明致しません。 
 
 第三については次の如き説明を加へました。
 即ち帝国として即戦即決を欲するが、然し相手の在ることであるから我国の意の如くならざる場合もあり、
 長期戦を覚悟せねばならぬ。

 長期戦の場合については連絡会議に於ても種々研究したが概ね二つのことが中心となる。  
(イ)日本としては長期戦に対し補給能力は耐え得るか否か
  又国民の戦闘意思につき破綻を来すことなきや
  
(ロ)戦争を何日如何にして終結せしむるや。
  
 右(イ)の事柄については緒戦の効果如何に関係する。

 戦争のことであるから確言は出来ないが、
統帥部に於ては緒戦の成功については相当の確信をもって居るようである。
 (「ハワイ」攻撃の事は勿論其他攻撃に関する純統帥事項は告げず) 
  
 もし統帥部の確信する如き成果を得るときは、
戦略要点の確保に依り重要軍需物資殊に石油の獲得に依ってある程度補給上の緩和が出来る。
軍も政府の此点については万全を盡す。

 爾後は輸送維持が問題である。
此点は主として海軍の活動に俟つ。
人心の同様については、既に支那事変4年後の後を受けて居り且つ敵側の宣伝謀略も加わり来るであらう。
政府としては十分い戒心を加へるが結局国民の忠誠心に信頼する者である。
    
 又(ロ)の点について連絡会議に於ても頗る苦慮したのである。
「ソ」聯又は「ローマ」法王庁を適当な時機に仲介を立てて平和には入らうとする案も検討した。
しかし、確信ある成案を得て居らぬ。妙案あらば承り度い。
   
 政府としては緒戦の成果を得れば速やかに戦略地点確保し長期持久の策を立て爾後
(一)作戦の活発なる遂行を図ると共に国力を培養する。
 (二)政戦両略を盡して先ず重慶政府及び英国の脱落を図る。之に依り米国の戦意の喪失を図る。
先ず之を基礎として進むのである。 
  
 更に如何にして戦局の終結を図るやはその後に於て定める外はないとの意味の説明を加えました
斯くて之れを終わり再び政府との懇談を重ね会議は午後四時頃終了したのであります。

 

   113 

 右1941年(昭和16年)11月29日重臣懇談会の後連絡会議を宮中に開き
12月1日の御前会議の議題(対米英蘭戦開戦に関する件)を決定しました。

 

   114

 11月30日午後3時過ぎ突然陛下の御召あり直ちに参内拝謁しました処、
陛下より先程高松宮より海軍は手一杯で出来るなら此の戦争は避けたしとのことであつた。
総理の考えはどうかとの御下問
でありました。

 依て私は、
「この戦争は避けた期事は政府は勿論統帥部も同じうする処でありますが、
 連絡会議に於て慎重研究の結果は既に内奏申し上げた如く、
 茲に至っては自存自衛上止むを得ずと存じます。
 また統帥部に於ては戦勝に相当の確信を有すると承知致して居ります。

 然し海軍作戦が基礎をなすことでもあります故、
 少しでも御懸念を有せらるるならば軍令部総長、海軍大臣を御召の上十分御確め願ひます」と
 奉答し退下しました。
 
 然るに午後7時頃、
木戸内大臣より電話がありまして陛下より軍令部総長、海軍大臣も共に相當確信ありとのことであるから、
12月1日の御前会議は予定の如く進めて差支なしとのことでありました。
 (法廷証一一九八号英文記録10468頁参照) 

  


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その16 東條内閣に於ける日米交渉 

2023-12-24 21:39:34 | 東條英機  

           パル判事の碑文 (靖国神社)

 

條内閣に於ける日米交渉 

 

  97

 東條内閣に於ける日米交渉は、専ら外務省が之を扱簸ました。
私が承知して居ることは、その大綱のみであります。 
  
 10月2日にアメリカより提出されました「ハルノート」を巡り繞り、
日米交渉に関連して第三次近衛内閣が崩壊したことは前に述べた通りであります。

 東條内閣の成立と共に内閣と統帥部は白紙還元お趣旨に基き、
取敢へず10月21日日米交渉継続の意思を外務大臣より野村駐米大使に伝達したのであります。
 (法廷証二九一七、英文記録25920頁)

 その趣旨は同月24日若杉公使より「ウエルズ」国務次官に之を通じて居ります。
 (証二九五九号、英文二六一〇以下)  

 日本政府は前述の1941年(昭和16年)11月5日の御前会議で決定せられたる対米交渉要綱により
外務省指導の下に甲、乙両案を以て日米交渉に臨み其の打開につとめました。


  98

 政府は日米交渉が益々困難に陥らんことを予見し
且つその解決は急を要する情勢にあるに鑑み同年8月中の野村大使よりの要請に基き
各交渉援助のため来栖大使を派遣することに致したのであります。

 来栖氏は11月5日東京を発し、同月15日に「ワシントン」に着したのであります。
之は真面目に日米交渉の妥結を企図したもので、日本の開戦意思の隠蔽手段ではありません。

 此の点に関しては既に当法廷に於て山本熊一氏により証言せられた通りであります。
 (法廷記録英文25957頁 25958頁参照) 

 来栖氏出発に當り連絡会議の成案で後に御前会議に提出せらるべき議題の内容は
外相より来栖氏に対し11月3日より4日に亘り詳細説明したとのことを外相より聞いて居ります。


  99 

 此の交渉は情勢上急を要する旨は外相より野村大使に対し十分に之を伝え、
之に依て日本が急速なる解決を必要とすることは米国政府にも十分伝えられて居ります。

 此の点も亦當法廷に於て山本熊一氏引用の証拠により証言せられた如くであります。
 (法廷証二九二八号、第二九五七号英文記録2598頁 及2610頁参照) 


  100

 日米交渉は甲案より初められたのであります。
同時に乙案も在米大使に送付して居ります。

 交渉は意の如く進行せず、
その難点は依然として三國同盟関係、国際通商無差別問題、支那駐兵にあることも明らか
となり、
政府としては両国の国交の破綻を回避するため最善の努力を払ふため
従来の難点は暫く措き須要且つ緊急なる者のみに限定して交渉を進めるため
予め送ってありました乙案に依て妥結を図らしめた
のであります。

 此の間の消息は既に當法廷に於いて山本熊一証人の証言せる如くであります。
 (法廷記録英文第26028頁以下)


  101  

 1941年(昭和16年)11月17日私は総理大臣として当時開会の第77議会に於て
施政方針を説明する演説を致しました。
 (弁護側証二二六号)
之に依り日本政府としての日米交渉に対する態度を明らかにしたのであります。
 
 蓋し、日米交渉開始以来6か月を経過し、両国の主張は明確になり、
残る問題は両国の互譲に依る太平洋の平和維持に対する努力を為すや否やのみにかかって居ります。
 
 之がため日本としては現状に於て忍び得る限度を世界に明らかにする必要を認めたのであります。
 日本政府の期する処は日本は其の独立と権威を擁護するため
(一)第三國が支那事変お遂行を妨害せざること
(二)日本に対する軍事的、経済的妨害の除去及平常関係に復帰 
(三)欧州戦争の拡大と東亜への波及の防止とであります。

 右に引き続き東郷外相は日米交渉に於ける我方の態度につき2つの事を明らかにせられました。
  (法廷証第二七四三号)

 その一つは今後の日米交渉に長時間を要する必要のなかるべきこと。
その二つは我方は交渉の成立を望むけれども大国として権威を毀ふことは之を排除するといふものであります。
 
 首相及外相の演説は即日世界に放送せら中外に明らかにせられました。
 米国の新聞にも右演説の全文が掲載されたとの報告を得ました。
 それ故米国政府当局に於ても十分之を承知して居る物と思われました。

  右政府の態度に対し
11月18日貴衆両院は孰れも
政府鞭撻の決議案を提出し満場一致で之を可決したのであります。
(弁護側証第二〇九、二七一二)

 殊に衆議院の決議案説明に當り島田代議士の為した演説は當時の我国内の情勢を反映したものと判断しました。 


  102

 前に述べました我国の最終案である乙案については日米交渉に於ても米国政府は依然として難色を示し、
野村、来栖両大使の努力に拘らず、
米国政府は依然6月21日案を固執して居って交渉の成立は至難でありました。
  
 他方11月24日より26日に亘って米国は、
英、蘭、支各国代表と密に連絡し各国政府間に緊密の連絡を遂げて居ることは當時の情報に依って判って来て居ります。 


  103 
 これより先、米英豪蘭の政情及軍備増強は益々緊張し又、
首脳者の言動は著しく挑発的となって来ました。
 (弁護側証第二九二三号)

 之が我国朝野を刺激し又前に述べた議会両院の決議に影響を与へたものと認められます。
 例えば1941年10日 「チャーチル」英首相は 「ロンドン」市長就任午餐会に於て
「アメリカ」が日本と開戦の暁には「イギリス」は1時間以内に対日宣戦を布告するであらうと言明したと報ぜられました。
 (法廷証第二九五六、英文記録1173、英文記録103452) 

 尚ほ當時の情報として次の報道が引続いて我国に入ってきました。
 その翌々日 「イギリス」の 「ジョージ」6世陛下は
議会開院式の勅語にて英国政府は東亜の事態に関心を払ふものであると言明せられたと報ぜられました。
 
 「ルーズヴェルト」大統領はその前日である休戦記念日に於て
米国は自由維持のためには永久に戦はんと述べ前記英国首相並に国王の言葉と相呼応して居ります。
 「ノックス」海軍長官の如きは右休戦記念日の演説に対日決意の時到ると演説しのであります。

 斯くの如く我が第77議会の前に於る米英首脳者の言動は頗る露骨且つ挑発的でありました。

 「ルーズヴェルト」大統領は11月7日には在支陸戦隊引き上げを考慮中なる旨を言明し、
14日には右引上げに決定した旨を発表して居ります。
 
 英国の勢力下に在った「イラク」は11月16日対日外交を断絶しました。

 一方11月中旬には「カナダ」軍「ゼ―・ローソン」准将麾下の香港防衛 「カナダ」軍が香港に着きましたことが報道せられて来ました。

 なほ、11月24日には米国政府は蘭領「ギアナ」へ陸兵派兵に決した旨を発表しました。
 米軍の蘭領への進駐は日本として関心を持たずには居られませんでした。

 11月21日は 「イギリス」の 「アレキサンダー」海相は
「イギリス」極東軍増強を言明しました。

 これより先11月初には米国海軍省は両洋艦隊建艦情況は1月乃至10月に
主力艦就役2、進水2、航空母艦就役1、巡洋艦進水5、駆逐艦就役13、潜水艦就役9、同進水12なる旨発表しました。

 11月25日には比島駐在の米陸軍當局は 「マニラ」湾口要塞に12月中に機雷を敷設する旨発表して居ります。
 之と呼応して英国海峡植民地当局も亦「シンガポール」東口に機雷を敷設する旨発表しました。

 11月下旬「ノックス」海軍長官は米の海軍募兵率は1か月1万1千名なる旨を言明致しました。
在天津の米人100名は11月下旬に引上を行ひました。

 以上の如く米英側の情勢は日本を対象とする開戦前夜の感を与へたのであります。 

 
  104 

 斯の如き緊張裏に米国政府は1941年(昭和16年)11月26日に駐米野村、来栖両大使に対し、11月20日の日本の提案に付ては慎重に考慮を加へ関係国とも協議をしたが、之には同意し難しと申来り今後の交渉の基礎としての覚書を提出いたしました。
 之が彼の11月26日の「ハル・ノート」であります。

 その内容は証第一二四五号1(英文記録一〇八一五)であります。

 此の覚書は従来の米國側の主張を依然固執する許りではなく
更に之に附加するに當時日本の到底受け入れることのなきことが明らかになって居った
次の如き難問を含めたものであります。

  即ち

(一)日本陸海軍はいふに及ばず警察隊も支那全土(満州も含む)及び仏印より無条件に撤兵すること、

(二)満州政府の否認

(三)南京国民政府の否認

(四)三國同盟条約の死文化

  であります。


  105

 これより先、我国では同年11月22日政府統帥部の連絡会議を開催し、日米交渉等につき審議を行ひました。

 そして日米交渉のその後の経過を見てその成立は極めて困難なる雲行であるとの印象を受けましたが、
しかし、政府としては、なほ希望を捨てず、
次の場合を予想して之に対応するの研究を遂げて居ったのであります。

 その一つは米国が日本の要求を全面的に拒否して来た場合、
その二つは米国が日本の要求、殊に石油の取得につき緩和して来た場合であります。
 
 第一の場合には11月5日の御前会議の決定に基き行動する以外にない。
第二の場合については日本としては直ちに之に
応ずる具体的要求を提出すべきである。
 此の場合石油を米国より合計600万噸を要求しようと決定したと記憶します。
  (弁護側文書二九〇三号)


  106

 11月27日には午前より政府と統帥部は宮中に於て連絡会議を開催して居りました。
  (開会の時には未だ米国の26日案は到着して居りません。)
 
 外務大臣から日米交渉の経緯を報告し、その成立が困難なる旨報告がありました。
そのうちに「ワシントン」駐在の陸軍武官より米国案の骨子だけが報道されていました。
之に依れば前に概略言及したやうな苛酷なものでありました。
同様な電報は海軍武官よりも言って来ました。


  107 

 同日即ち11月27日午後2時より更に連絡会議を開き各情報を持ち寄り審議に入ったのでありますが、
一同は米国の苛酷なる内容に唖然たるものがありました。
 その審議の結果到達したる結論の要旨は次の如くなりと記憶します。

(一)11月26日の米国の覚書は明らかに日本に対する最後通牒である。

(二)此の覚書は日本として受諾することは出来ない
  米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りて之を通知して来て居る。
  しかも、それは関係国と緊密なる了解の上に為されて居る

(三)以上のことより推断し又最近の情勢、
  殊に日本に対する措置言動並に之により生ずる世論よりして
  米国側に於ては既に対日戦争の決意を為して居るものの如くである。
 それ故に何時米国より攻撃を受くるやも測られぬ。
 日本に於ては十分警戒を要するとのこと。

 即ち連絡会議に於ては、もはや日米交渉の打開はその望みはない。
従って11月5日の御前会議の決定に基き行動するを要する。

 しかし、之に依る決定は此の連絡会議でしないで、更に御前会議の議を経て之を決定しよう。
そしてその御前会議の日取は12月1日と予定し、
此の御前会議には政府からは閣僚全部が出席しようといふことでありました。
  
 此の連絡会議と右の御前会議予定日との間の相当日を置いたのは
自分は天皇陛下が此の事態につき深く御軫念あらせられ
一応重臣の意見を聞きたいとの御考をお持ちになって居られることを承知して居ったので、
御前会議を直ちに開かず、数日後におくらせたのであります。



  108

 11月28日午前10時より閣議を開きました。
 その席上で東郷外相より日米交渉につき詳細なる報告があったと記憶します。
又前に述べた連絡会議の結論も閣議ではかりました。
之に対し全閣僚は同感の意を表しましたが、
併し、閣議では開戦の決議をせず、
此の事は12月1日に開かれる御前会議の決議を待たうといふことにしたのであります。

 此の日閣議直前東郷外相来訪し、野村、来栖の11月26日電(御親電に関する意見具申)
(法廷証第二二四九号)に就き話がありました。

 外相は此の件につきては既に島田海相と連絡したとのことでありました。
而して吾々は慎重研究の結果、其の内容よりするも本電の処置は時局を収拾するに適当ならざるのみならず、
既に「ハル・ノート」に接したる今日本電の意見具申は問題にならずとのことに吾々の意見が一致し、
其の旨東郷外相から変電しました。
 (野村来栖両大使の本電を発したるは「ハル・ノート」を受けた以前なりとのことでした。)


  109 

 次の事柄は私が戦後知り得た事柄であつて、當時は之を知りませんでした。

(一)米国政府は早く我国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府の意図は常に承知して居たこと、
(二)我国の1941年11月20日の提案は日本としては最終通牒なることを米国国務省では承知して居ったこと、
(三)米国側では11月26日の 「ハル・ノート」に先立ち、
  なほ交渉の余地ある仮取極め案を「ルーズヴェルト」大統領の考案に基づき作成し、
  之に依り対日外交を進めんと意図したことがある。

  此の仮取極め案も米国陸海軍の軍備充実のために余裕を得る目的であったが、
 孰れにするも仮取極は「イギリス」及重慶政府の強き反対に會ひ之を取やめ
 遂に証第一二四五号(1)の通りのものとして提案したものであること、
 並に日本が之を受諾せざるべきことを了知し居たる事

(四)11月26日 「ハルノート」を日本政府は最後通牒と見て居ることが米国側にわかって居つたこと、

(五)米国は1941年11月末既に英国と共に対日戦争を決意して居った許りでなく、
  日本より先に一撃を発せしむる事の策術が行われたること
であります。
  
  11月末この重大なる数日の間に於て、斯くの如き事が存在して居らうとは夢想だも致して居りませんでした。



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大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その15 十一月五日の御前會議  

2023-12-24 21:07:23 | 東條英機  

              パル判事の碑文 (靖国神社)   
 


 

11月5日の御前會議  
 

 

  92  

 以上は1941年(昭和16年)11月5日の御前会議に至る迄の間に於て開かれたる
政府と統帥部との連絡会議及軍事参議官会議で為された協議の経過並に結果であります。

 11月5日には右の案を議題として御前会議が開かれました。

 ここで申上げますが、私が1946年(昭和21年)3月12日検事より質問を受けた際答へましたことは、
 (法廷証第一一五八号に於て)
此の御前会議と12
月1日の御前会議とを混同して答へて居ります。

 それは記憶の錯覚でありまして、此の答は本日の供述に抵触する限度に於ては訂正を要します。


  93 

 元来この種の御前会議は政府と統帥部の調整を図ることを目的として居るのであります。
 日本の制度に於ては、政府と統帥部は全然独立して居りますから、
斯の如き調整方策が必要となって来るものであります。
此の会議には予め議長と言ふものはありません。
その都度陛下の御許しを得て首相が議事を主宰するを例と致します。
此の会議で決定したことは、その国務に関する限りは更に之を閣議にかけて決定いたします。
  
 又統帥に関することは統帥部に持ち帰り、必要な手続きをとるのであります。
斯くの如くして後、政府並びに統帥部は別々に天皇陛下の御允裁を乞府のであります。
従って憲法上の責任の所在は国務に関することは内閣、
統帥に関することは統帥部が各々別々に責任を負ひ其の実行に当るのであります。
又幹事として局長なり書記官長が出席しますが、之は責任者ではありません。
 
 御前会議及び連絡会議の性質は及び内容は右の如くでありまして
政府及び統帥部の任務遂行上必要なる当然の会議であり
検事側の観測しあるが如き共同謀議の機関とみるは、誣言(注、フゲン、無いことをあるように言うこと)であります。



  94

 11月5日の御前会議に於ては陛下の御許しを得て慣例により私が会議の進行の任に当たりました。

 此の会議に於ては私より此の会議を必要とするに至った理由を説明し、
外務大臣より日米交渉を中心とする外交問題を説明し、
大蔵大臣よりは戦争に伴ふ日本の財政に関し企画院総裁より戦争に伴ふ国内物資の見通しに関し、
又参謀総長及軍令部総長よりは作戦に関する説明がありそれから質疑応答に入り、
原枢密院議長より若干の質問が有り、
之に対し、政府及び統帥部の関係者より夫々答を致しましたが、詳細は今、記憶に存しません。

 結局、連絡会議で取纏めました第三案と之に引用せれた対米交渉要領とを採用可決したのであります。


   95

 ただ、ここに陳述しておかねばならぬことは、
当時の連絡会議並に御前会議に於て
斯くの如く決議を必要なりと判断するに至った原因たる事由であります
 (弁護側証第二九二三) 

(一)当時国外より齎された情報
 (これらの情報は当時大本営、外務省等より得たるものを記憶を喚起し蒐録したものであります)
に依れば米英蘭支の我国に対する軍事的経済的圧迫は益々緊迫の度を加ふるのみならず、
此等の勢力の間の協力関係は益々緊密となる傾きが極めて顕著に観取せられました。

 例へば1941年(昭和16年)8月下旬より
「ルーズヴェルト」大統領の東亜経済使節として「マニラ」に滞在した「グレーディ」氏は
9月初に空路 「バタビヤ」に飛び蘭印経済相 「ファンモーク」氏と会談、

 更に 「シンガポール」に飛び9月半頃には 「カルカッタ」に着、
更に10月初には 「ラングーン」に引き返し、
それより重慶に入り香港を経て「マニラ」に着し、10月半頃本国への帰途について居ります。
  
 それとは別に英の「ダフ・クーパー」氏は9月初頃 「マニラ」に着し、
「バタビヤ」を経て「シンガポール」に至りここにて9月21日「カー」英国大使と会見しました。
  
 9月29日には、「シンガポール」にて
「イギリス」極東会議が開かれ右「ダフ・クーパー」氏は「ブルックボッパム」、「レイトン」、「クロスビー」、「カー」、「ページ」、「トーマス」マレイ総督等と会見しました。
 
 「ダフ・クーパー」氏は10月初には「シンガポール」を経ち空路印度への途上バンコクにて
「ピブン」首相と会見し更に「ラングーン」に至り「カルカッタ」に到着して居ります。
 
 1941年(昭和16年)8月下旬には
「ルーズヴェルト」大統領は「マグルーダ」准将を団長とする軍事使節を重慶に派遣する旨言明しましたが、
此の使節団は10月初 「マニラ」に着、そこにて所要の打合を為し、
香港に至り同地に開かれた香港会議に出席したる後、
その一行は10月9日香港より重慶に乗込み
「我等来支の目的は」重慶を援けて抗戦を継続せしむるにある。

 今後重慶を本拠として各地に歴訪し任務遂行の実現を急ぐつもりである。
勿論「ラングーン」をも訪問、「ビルマルート」による武器軍需品の輸送能率増大に大いに力を注ぐ」旨
 豪語したとの情報に接しております。 

 1941年(昭和16年)10月初米英の軍事首脳者は 「マニラ」に会合しました。
 その当時の情報に依れば
此の会議では世界的関連を有する太平洋の諸問題につき専門的なる意見の交換を為し、
且つ其の戦略態勢を検討したものとされて居りました。

 会合した者は英の東亜軍指揮官「ボッパム」代将、
米の東亜軍総司令官「マックアーサー」将軍などであり、  

 (1)「ビルマルート」を通じて行われる米英共同の蒋介石援助問題 
(2)西南支那の重慶軍と「ビルマ」方面に増派されつつある英軍との共同作戦計画   
(3)太平洋に於る米英共同作戦の強化、殊に空軍作戦計画などを協議したと報ぜられました。


 1941年(昭和16年)9月下旬「レートン」英東亜艦隊司令官は
「シンガポール」軍港を「アメリカ」の要求あり次第米豪軍の使用に供する旨発表したとの報道に接しました。

10月中には「ニューマイヤー」氏は「シンガポール」より空路「マニラ」に着して居ります。 

 一方「ブルック・ボッパム」「イギリス」極東軍司令官は10月中旬には「シンガポールを」発し、
豪州に向ひました。
「カーチン」首相は10月下旬には太平洋共同戦線交渉が米、英、蘭、「ニュージーランド」豪州間に完了せる旨発表致しました。

 以上各情報に依り当時米英蘭支の間に日本を対象とする軍事的、経済的連鎖が緊密に行はれ
所謂一発触発の状況にあったもの 

 と判断せられました。
  
(二) 而も依然として米英豪其の他の陸海空軍の大拡張が継続せられつつあるとの情報が入って来て居ります。
 即ち、米国海軍省では1940年(昭和15年)1月以降72億3千400万弗を以て
艦艇2831隻の建造契約成り 現在968隻を建造中なる旨を発表しました。


 なお1941年(昭和16年)10月下旬には「ノックス」海軍長官は米海軍の建造状況に関し

(イ) 就役せる戦闘用艦船  346隻
(ロ) 同建造中乃至契約済  345隻
(ハ) 就役せる補助艦艇約  345隻
 (二) 建造中乃至契約済    209隻
(ホ) 10月1日現在、在海軍飛行機4035機
(へ) 同製造中のもの5832機なる旨発表いたしまた。
  
 「ルーズヴェルト」大統領は11月初に飛行機製造費4億4972万弗を要求したと報ぜられました。

 「スチムソン」陸軍長官は10月下旬に航空士官候補生及徴集兵を約3倍、
即ち40万人に増員方準備中なる旨発表しました。


 一方豪州 「カーチン」首相は欧州戦争開始以来45万人の兵が入営した旨発表しました。

 比島では比島陸軍参謀総長は其の現役兵の除隊中止を発表しました。
 同じく10月下旬には比島空軍新司令官「ブリヤーン」少将は華府発「マニラ」に向かったと報ぜられました。 
 
 1941年(昭和16年)9月中旬には「ルーズヴェルト」大統領は
国防促進法に基づく59億8500万弗の追加予算の審議を求むる教書を議会に発付し、
引続き1億5019萬8000弗の国防費追加予算案を米国議会に提出したのであります。
 
 以上の事実等により米国は引続き陸海空軍の飛躍的大拡張を計画しつつあることが窺われました。

(三) 前述の連絡会議及び御前会議の前に於ては米国の首脳者の言動は益々挑発的となって来たのであります。
 即ち9月下旬には 「ハル」国務長官は政府は中立法の改正若くは廃止を考慮中なりと言ひ
「ノックス」海軍長官は戦艦 「マサーセッツ」号進水式に際し、中立法は次代遅れであると言明したと報ぜられました。

 又同長官は10月下旬に日米衝突は日本が現政策を変更せざる限り不可避なる旨言明いたしたといふことであります。
   
(四)以上の外更に次のようなことが判明して来たのであります。
(1)即ち印度政府は同年9月12日以降日本より積出す綿布人絹等織物類の輸入許可を取消したこと。
(2)同年10月29日には印度政庁は一切日満両国の商品の輸入禁止を布告しました。
  斯くの如く連合国側の対日圧迫は益々露骨となつて来たのであります。

 斯くの如き状況の下に10月下旬以来の連絡会議
並に11月5日の御前会議の決定が行われたのであります。


  96 

 前述御前会議の決定に基き11月12日の連絡会議に於ては之に基く対外措置を決定しました。

 その内容は法廷証第一一六九号のとおりであります。
(記録一〇三三三以下、但し此の中一〇三三八の十四行より一〇三四〇の末行は此の決定には含まれて居りません。)
 
 一方 陸軍側に於ては11月6日には寺内大将を南方総司令官に任命し
統帥部に於ては南方の戦闘序列を決定し、
同日南方要域攻略の準備命令を下達し

尚ほ統帥部は同月15日には対米英作戦計画大綱を決定しました。
 (弁護側証二七二六) 
 無論是等は仮定に基いて統帥部の為した準備行為に準備行為に過ぎません。

 私は陸軍大臣たる資格に於て之を承知して居りますが、
他の閣僚は右統帥部の採りたる措置は一切知っては居りません。
海軍統帥部は此の間何を為したるかは承知致しません。
 


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹「宣誓供述書」(全文)その14 陸海軍合同軍事参議官会議

2023-12-24 20:21:08 | 東條英機  

              パル判事の碑文 (靖国神社)
  

 

東條英機 宣誓供述書
 

 
              

陸海軍合同軍事参議官会議

 

   91

 御前会議の前日、
即ち1941年(昭和16年)11月4日に陸海軍合同の軍事参議官会議が開催されました。
此の会議に於ては天皇陛下には11月5日の御前会議の議題に関連し、
対米交渉が妥結を見ざる最悪の場合に応ずる軍事の措置として陸海軍統帥部が、
太平洋戦争の作戦準備を促進する可否に関し御諮問があったのであります。
  
 本会議は陛下の御親臨の下に閑院元帥宮議長として議事の進行に当られ、
午後2時頃に亘ったと記憶致します。

 私は勿論陸軍大臣として軍事参議の資格に於て列席致しました。
議事の詳細は既に記憶を失して居りますが、記憶にある大要を述ぶれば以下の如くであります。 

 先ず永野軍令部総長より海軍統帥について説明がありました。  

 其の要旨は、
 在の情勢の儘で推移せば帝国は遂に国力の弾発性を喪失すると共に
戦略上極めて不利の地位に陥ること明瞭である。

 帝国としては今後も引き続き外交手段を尽くして極力この危急の打開を計ることに政府とも意見が一致し、
政府は目下賢明な努力を払って居る。
    
 然し他面遂にこれに拠り目的を達し得ざる場合、
帝国として戦争を決意せざるを得ざる情勢に立到る事も今後深く胸算し置かねばならぬ。

 統帥部としては此の場合に備ふるため作戦準備を本格的に進めて行きたき考へである。
此の作戦準備を進むることは他面現在の情勢段階に於ては、
これに依り外交交渉の進展に寄興し得るものと思ふ。
 
 然し幸いに日米交渉打開を見れば作戦準備遂行は直に之を中止する考へである。
政府とも此の点は約束されて居る。

 不幸日米交渉決裂し日米英蘭戦闘となった時の見透に就ては
彼我太平洋に於ける現有兵力の関係を以て開戦時機を12月上旬とせば
第一段作戦及邀撃作戦には勝利の算我に多しと確信する。
  
 第一段作戦に関して適当に実施せらるれば、
帝国は南西太平洋に於ける戦略要点を確保し、
長期作戦に対応する態勢を確立するであらう。

 而して対米英戦は確実なる屈敵手段なきを以て、結局長期戦となる算が多い。
之に対しての覚悟と準備を必要とする。
  
 長期戦となりたる場合の見透しは形而上下の各種要素、
国家総力の如何及世界情勢の推移如何に因りて決定せらるる厖大にして、
今日に於いて数年後の確算の有無を断ずることは困難である。
と言ふのであったと記憶します。
真珠湾攻撃の件に就ては何等触るる処ありませんでした。  


 次で杉山参謀総長より陸軍の統帥に関して説明がありました。
  其の要旨は、
 南方諸邦の陸軍軍備は益々増強せられ、
欧州戦争開始直前頃に比すれば其の陸軍兵力に於て3倍乃至8倍に増強せられ、
其の兵力20数万、飛行機600機に達す。
今後情勢の推移に伴ひ其の増加率は急速に増強せらるべし。
  
 若し不幸日米英の間開戦となりたる場合、
印度、豪州、新西蘭等より増強兵力戦場に輸送せらるべく、
これ等地域に保有する兵力は約80万 飛行機600と推定する。
  
 帝国陸軍の現有兵力は51師団基幹とし、
現に支那事変遂行途上にあり、
他方対「ソ」警戒に相当部分を充当しある関係上、
対米英戦争に対してはその内から抽出して之に応せざる可らざる苦境にありて、
目下の処斯くして之に充当を予定し得るものは約11個師団である。
  
 開戦時機は米英側の防備の増強及気象の関係より時日の遷延を許さず可く速やかなるを要し、
其の時期は12月の初頭を希望する。
  
 作戦の主体は上陸作戦なるを以て海軍の作戦の成否に期待する処多きも
陸軍としては相当の困難を予期するも海軍作戦順調に進展せば必成を確信する。
  
 南方要域に対する攻略作戦一段落後は
政戦両略の流用に依り米英側の戦意を喪失せしめ、
極力戦争を短期に終結せしむるに勉むべきも、
恐らくは長期に亙ることを予期せざる可らず。

 併し乍ら米英側の軍事根拠地或は航空基地を占領し飽く迄之を確保し
海上交通の確保と相待て戦略上不敗の態勢を占め得ば
諸般の手段を尽くし敵の企図を挫折せしめ得べし。  

 南方作戦に伴ひ対「ソ」防衛並に対支作戦は概ね現在の態勢を堅持し
之に依て北方に対し不敗の態勢を整へ支那に対しては依然其の目的達成に指向する。

 南方に伴ふ北方の情勢に就て「ソ」が積極的に攻勢を採る公算少し。
只満州支那に於て共産党を利用する積極的工作
又は思想宣伝等の謀略的工作を以て我を牽制するの策動あり得べし。

 又米国が極東「ソ」領の一部を
北方よりの対日攻勢拠点として飛行基地其他に利用するため之が使用を「ソ」連に強要することはあり得べし。
  
 従って「ソ」に対しては厳重なる警戒を要す。

 特に我が南方作戦が長期戦に陥る場合、
若くは「ソ」の内部的安定状態が恢復に向ふ場合は極東赤軍が漸時攻勢的姿勢に転じ来る可能性あり。
帝国としては成る可く速やかに南方作戦を解決して
之に対処し得る準備に遺憾なきを期せざるべからずと言ふのでありました。 

 右の説明の後に各参議官より質疑があり、之に対し両総長及私より所要の説明を致しました。
質問は専ら統帥に関する者でありましたが、其の詳細は記憶に在りません。
説明に当ては昭和16年10月23日乃至11月2日に亙る連絡会議の結論の主旨を以てなされた丈記憶致して居ります。 

 斯くして議事を終了し
「陸海統帥部が最悪の事態に応ずる戦争準備を促進せんとする統帥上の措置を適当とする」旨に全員意見一致し、
 其の議決を議長より奉答せられたと記憶致します。

 会議中陛下に於かれては唯御聴取あらせられたのみで一言も御発言はあ
りませんでした。
   


大東亜戦争の責任は我にあり 東條英樹 「宣誓供述書」(全文)その13 十一月五日の御前會議及其の前後 

2023-12-23 12:05:40 | 東條英機  

                          パル判事の碑文 (靖国神社)


東條英機 宣誓供述書 


              東條英機 
(ウィキペディア)

11月5日の御前會議及其の前後

 

   83 

 前に述べた通り私が組閣の大命を拝受したとき
天皇陛下より平和御愛好の大御心より前に申した通りの「白紙還元」の御諚を拝しました。

 依て組閣後、政府も大本営も協力して直ちに白紙にて重要国策に対する検討に入りました。
10月23日より11月2日に亘り縷々連絡会議を開催し、
内外の諸情勢に基づき純粋に作戦に関することを除き、
外向、国力及び軍事に亘り各般の方緬より清朝審議を重ねました。

 その検討の結果米側の10月2日の要求を斟酌して、
先ず対米交渉に関する要領案を決定したのであります。

 是は後に11月5日の御前会議決定となったもので
其の内容は法廷証第七七九号末段と略ぼ同様と記憶します。

 

   84

 次で此の対米交渉要領に依り日本お今後の国策をいかに指導するかに付
更に審議を尽くし最後に3つの案に到達したのであります。

 第一案は新たに検討を加へて来たる対米交渉要領に基づき日米交渉を続行する。
而して其の後の決裂に終わりたる場合に於ても政府は堅忍自重するといふのであります。

 第二案は交渉をここで打切り、直ちに開戦を決意しようというのであります。  

 第三案は対米交渉要領に基きて交渉を続行する。
 他面交渉不成立の場合の戦争決意を為し、作戦の準備を為す。
 そして外交による打開を12月初頭に求めよう。
 交渉成立を見たるときは作戦準備を中止する。
 交渉が決裂したときは直ちに開戦を決意す。
 開戦の決意は更めて之を決定するのであります。

 

  85

 以上各案について少しく説明を加へる必要があります。
 第一案について言へば米国の12月2日の案を其のまま受諾することは出来ぬとうふことは了解できる。
又従来の米国政府の態度より見て今回の対米交渉要領、
よりするも外交交渉に依る打開といふことは、
米国に於いて其の態度を変更せざる限り或は不可能かも知れぬ。
 
即ち決裂となることなしと保証できぬ。
 
 然し縦令決裂に陥りたる場合に於ても直ちに米英と戦争状態に入ることは慎重なる考慮を要する。
それは我国としては支那事変は既に開始以来4年有余となるが、而も未だ解決を見ぬ。

 支那事変を控えて更に対米英戦に入ることは、
日本の国力より言ふも、
国民の払う犠牲より言ふと、之を極力避けねばならぬ。

 今は国力の全部を支那事変の解決に向けて行きたい。
故に日本は外交決裂の場合に於ても、直ぐに戦争に入らず、臥薪嘗胆再起を他日に期すべきである。
 
 次の理由は国民生活の上よりするも、
亦支那事変遂行の途上にある今日、軍需生産維持の点よりいふも、
今日は至大なる困難にある。

 而して最も重要なる問題は液体燃料の取得である。
これさへ何とか片付けばどうにか耐へて行けるものではあるまいか。
それ故人造石油を取上げ必要の最小限の製造に努力しようではないか。
それ故人造石油を取上げ必要の最小限の製造に努力しようではないかと言ふことでありました。
  
 此の案に対する反対意見は
国家の生存に関する物資は米英の封鎖以来致命的打撃を受けて居る殊に液体燃料に於て然りである。
もし此の儘推移すれば、就中、海軍と航空は2年半を出でずして活動は停止せられる。
之は国防上重大なる危険である。
支那事変の遂行もために挫折する。
 
 人造石油の問題を其の設備の急速なる増設により解決し得るならば之は最も幸いである。
依てこの点に関し真剣なる研究を為した。

 その結論は日本はその1ケ年の最小限の所要量を400万噸とし、
之を得るためには陸海軍の軍需生産の重要なる部分を停止するも
4年乃至7年の歳月を要するとの結論に到達した。
 
 此の期間の間は貯蔵量を以て継がなければならぬのであるが、
斯の如き長期の間貯蔵量を以てつないで行くことは出来ぬ。
 
 そうすれば国防上重大なる危険時期を生ずる。
且つ軍需生産の重要部分の停止といふことは、
支那事変遂行中の陸海軍としては、之を忍ぶことは出来ぬ。

故に此際堅忍自重、臥薪嘗胆するならば日米交渉の継続中作戦上の準備を進めて行けば宜しいではないか。
寧ろ、かくすることに依り米国側の反省に資することも出来る。

又、斯くして置けば開戦決意の場合にも何等作戦上支障がなくなるのではなかといふのであります。

 

  87

 第三案、即ち交渉を継続し他面交渉不成立の場合戦争決意を為し作戦の準備を為す案の理由は
前記第一号二案を不可とする理由として記述したものと同一であります。

 

  88  

 連絡会議に於ては結局第三案を採ったのでありますが、
決定に至るまでの間に一番問題となつたのは前記第一案で行くか、
第三案で行くかといふ分かれ目でありました。

 11月2日午前2時に一応第三案に決したものの出席者中の東郷外相、賀屋蔵相は之に対する賛否は留保し、
翌朝に至って両人共第三案と決した同意して来たといふ経過でありました。

 

  89 

 此の案に付いては更に連絡会議に於ては第三案の主旨に基き
今後の国策遂行の要領を決定し必要なる手続きを経て後に
1941年(昭和16年)11月5日の御前会議で更にこれを決定しました。
これには私は総理大臣兼陸軍大臣として関与したのは勿論であります。

 これが11月5日の「帝国国策遂行要領」といふのであります。
此本文は存在せず提出は不能であります。
此の要旨は私の記憶によれば次の通りであります。
 (弁論側証二九四六号)  

 第一、要領は現下の危険を打開自存自衛を完うするため対米英戦を決意し、
別紙要領甲乙両案に基き日米外交交渉に依り打開を図ると共に
その不成立の場合の武力は発動の時期を12
月初頭と定め陸海軍は作戦準備を為す。  

第一 尤も開戦の決定は更めあらためてする。乃ち12月初頭に自動的に開戦となるわけではない。
第二、独伊との提携強化を図り且つ武力発動の直前に泰との間に軍事関係を樹立する。
第三、対米交渉が12月初頭迄に成功せば作戦準備を停止する。 
 といふのであります。

 右の中第一項に別紙として記載してあるものが前記証第七七九号末段である甲案乙案であります。
之を要するに我国の自衛と権威を確保する限度に於て甲乙の二つの案をつくり
以て日米交渉を進めようとしたのであります。
 
 その中の甲案とといふのは
9月25日の日本の提案を基礎とし
既往の交渉経過より判断して判明したる米国側の希望を出来るだけ取入れたる最終的譲歩案であって
慎重なる3点につき譲歩しております。

 其の要旨は法廷証第二九二五(記録二五九六六)にある通りであります。
 
 乙案といふのは甲案が不成立の場合に於ては
従来の行きがかりから離れて日本は南部仏印進駐以前の状態へかへり、
米国も亦凍結令の廃止其他日本の生存上最も枢要とし緊急を要する物資取得の最小限度の要求を認め
一応緊迫した日米関係を平静にして、
更めて全般的日米交渉を続けんとする者であります。
 其の要旨は法廷証一二四八号にある通り出会います。

 

  90

 右深刻なる結論を1941年(昭和16年)11月2日午後5時頃より
参謀総長、軍令部長と共に参内しました。

 その際天皇陛下には吾々の上奏を聞し召されて居られましたが、
其の間陛下の平和愛好の御信念より来る御心痛が切々たるものがある如く
其の御顔色の上に拝察しました。 
  
 陛下は総てを聴き終られ、暫く沈痛な面持ちで御考へでありましたが、
最後に陛下は
「日米交渉に依る局面打開の途を極力尽くすも而も達し得ずとなれば、
 日本は止むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね」と
深き御憂慮の御言葉を洩らされまして、

 更に
「事態言ふごおくであれば、作戦準備を進むるは止むを得なからうが、
 何とか極力日米交渉の打開を計って貰ひたい」 との御言葉でありました。
   
 
吾々は右の御言葉を拝し恐懼した事実を今日も静かに記憶して居ります。
 斯くして11月5日の御前会議開催の上更に審議を尽くすべき御許しを得たのでありましたが、

 私は陛下の御憂慮を拝し更に塾考の結果、
連絡会議、閣議、御前会議の審議の外に、
更に審議検討に手落なからしめ陛下の此の御深慮に答ふる意味に於て
11月5日御前会議に先立ち更に陸海軍合同の
軍事参議官会議の開催を決意し、
急據其の御許しを得て11月4日に開催せらるる如く取り運んだのでありました。
 
 此の陸海軍合同の軍事参議官会議なるものは
1903年(明治36年)軍事参議官制度の創設せられてより初めての事であります。