日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

松岡洋右『少年に語る』

2023-12-02 10:50:04 | 大川周明

      
 
    
松岡洋右 『少年五語る』  

はしがき  

 松岡先生が、満州事変の当時国際聯盟会議の帝国首席全権として、屡々ジェネバに使わし、日本の国威を全世界に宣揚されたことは皆さんのよくご記憶の事であります。又、先生が、今満鉄総裁として我が国の大陸国策遂行のため真っ黒になって働いておられることも御承知でありましょう。今一つ、松岡先生が、まことに忠孝の念篤く身をもってこれらを実行しておられる立派な人格者であられることも、新聞、雑誌の記事でよくみなさんが知っておられるところであります。

この松岡先生は、現在日本のもつ世界的偉人であり、日本精神の権化ともいうべき人です。

 

 この松岡先生は常日頃から『日本で一番大事なものは子供たちだ!』と言っておられます。ですから、子供たちに向かってお話しされるのは、本当に一生懸命で、熱をこめ力を入れて、真心からお話しされるのであります。

 このほんは、松岡先生が、大連において、小学校の生徒とそのお母さま方になされた講演でありますが、これまた同時に、全国の少年少女に贈る、先生の心からの叫びであります。

 

 皆さんは、どうぞ、此の本を粗末にせず、大事に読んでください。心で読んで下さい。そしてこの本の中に溢れている、松岡先生の精神を皆さんの精神として、志をたてて立派な日本人になってください。

                        編輯責任者 上村 勝爾 記す

 

 

     少年に語る   目次

 

一 少年に語る        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一

二 日清戦争の頃の日本  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 九  

三 支那分割論と団匪事変 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 十七  

四 臥薪嘗胆の十年     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二十五  

五 日露戦争と国威の発揚 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 二十九  

六 世界體汚染と日本    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三十五  

七 満州事変と聯盟脱退後の日本 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三十九 

八 忠 と 孝      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  四十六   

九 明治天皇様の御恩       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五十三         

 

 

 ただいま紹介を受けました私が松岡陽介でございます。控え室で聞いておりますと、餘り褒められたので顔が赤うなって、茲へ出るのが恥ずかしいような気がいたしまして、兎も角お約束いたしましたから出てまいりました。  

  
 あなた方の御年輩では、今日は土曜日で半ドンですからお遊びになりたいのだと思う。それがわざわざこのように大勢、私に会うためにおいで下さいました事は私にとりまして非常な光栄に思う所では無論ありますが、なんだか、わざわざお出でになり甲斐があるであろうか、というような気もして、お気の毒な様にも思うのであります。   


 併し、私と致しましては、之から先々大きくなられて日本のために盡される、大人になって天子様に忠義なさらなければならない皆さん方にお目にかかることは、非常に愉快に思うのであります。

 私は若いころからよく申しているのでありますが、自分が生まれた故郷に帰りまして自分の育ちました小学校に行って、お子供衆に話を致します時、又日本全国をまわりまして小学校に行って話をする時が一番愉快であり、且つまた力を入れるのであります。  


 観ようによっては、松岡という人は何故子供に話す時、一生懸命になるのだろうと、なぜあれほど熱を以ってはなすのであろうか、子供には宜し頃加減に話したらよさそうなものだ、という感を持たれる方があるかも知れませぬが、実のところ私は、大人に話を致します時よりも、御子供衆に話をする時の方が何倍の熱をもち、さうして諄くなる程話をするのであります。


 それはなぜかと申しますと、大人になった人は私の話を聞いて、よし感服致しましても、一晩寝るともう対外忘れてしまう。なかなかそれから人間が変ちゃ来ぬのです。ところがあなた御子供衆は、之から人間になる人達です。貴方方は良くもなれば悪くなることもできる、偉い人にもなれれば、良い人になれる代わりにがらくたの人間に成る事もできるのである。これからどうにでもできる。そういう御子供衆に話を致します時に、若し私の精神が此の千何百人かの今日集まって居られるるお子供衆の中でたった一人だけでも本当に判って貰って、その為に他日志を立てて、良い、偉い人になるならば、私がこれからの数時間を以って話しても、酬いられて余りがあるのである。  

話し甲斐あるのである。私は若い時からいつも、左様に思って、お子供衆にお話をするのであります。


 と申しますのは、自分に経験が有るからであります。私は山口県の室積という田舎の町にうまれたのでありますが、そのころ頃私共の教育を受けました学校は、餘り立派でない建物であり、又そのころの教え方も今の小学校の教え方よりもよほど幼稚であったのであります。


 或る日に、私の先生・・・・・この人は今から考えるとまだに二十歳餘のひとでありました。言はば青年であります。白面の一青年であったのでありますが、その先生が非常な精神家でありまして、そのころは遊歩時間と言っておりましたが、今は何でもお休み時間というそうでありますが、習う隙の休む時間に外に出て遊ぶ時間であります。その時間に、今でも私は眼を閉じるとはっきりと其の学校の廊下、其の場所の形も眼に映ずるのでありますが、其処に五六人の子供を集めて、この先生が「治外法権」ということについて話をされた、固より子供の事でありますから、治外法権というような難しい理屈は判らない、何やら頻りにこの先生が話してくれました。

 その時私は十二歳でありましたが、子供心に、兎も角、治外法権というものは、言語道断なものである・欧米人が我が国に来て、吾々日本人の頭を土足に掛けて踏みつけているのである。・・・・・・ということだけが判った。   


 そこで、そういうことが我が日本で行われていたのか、宜しい!俺が大きくなったら、欧米人を・・・・・實は心の中で、この毛等どもが!とおもった。ちつと下品でだが私は先年京都に於ける太平洋会議で、欧米人の前で、その通りの言葉を使って自分の経験談を下のであります。


 「毛等どもが!」 とその時申しました。・・・・・この毛等ども! けしからぬ奴だ、俺が大きくなったら追っ払ってやろう、叩き出してやろうあと決心しました。十二歳の時に田舎の小学校の廊下で遊ぶ時間に、青年の先生の話、之に動かされて決心したのである。この時の決心が今日まで、私の一生を貫いて、私を動かして居るのであります。尤も誤解のないように説明しておきますが、私がだんだん年を取りまして、理屈もだんだん判ってきましてからは、何も毛等どもが! と考えている訳ではありませぬ。子供の時はこの毛等どもが、と思った・その後は其の考えは捨てましたが、治外法権ということはどうしても止めてもらわねばならない。そうして白人に対して絶対に平等権を出張しなければならない。

 こういう考えを私は捨てなかった。唯、幸いに私が世に出まして、まだ若いうちに、我が国からこの治外法権と言うものが無くなって、そうして対等国となったのでのであります。併しこれも幾多の日本人が、私と同じような考えをもって、そうした我々の先輩が非常に奮闘したために、結局そういうことになったのであります。  


 この私の子供の時の経験を、後になって考えますと、小学校のお子供衆に話をする時、之だけ居る数の中に、どうかしたら一人や二人は当時の十二歳の松岡洋右というような少年が居りはしないか、若し其の心に本当に触れることが出来て、そうした子供が志を立てて、他日日本の為に、又進んでは世界の為に良いことをするようになったならば、私の話は話甲斐があったのであるという様に私は何時も考えているものである。だから、坤為地の話もその積りで話しますから皆さんもどうぞその積りでお聞きください。


 私は此処へ来る道でどういう話をしようかと考えてみた。大人に反すのは非常に楽であります。漢語を使ってもなんでもお判り下されるけれども、あなた方の御年配ではでは話が難しくなると、訳が判らぬことになる。お子供衆に分らぬ話は私はしたくない。判って貰わねばならない。そこで難しくなる。どういう話をしたら第一したら宜しいか。 
 と考えてみました所、私が日本全国を行脚しましたと時に、多くの小学校でした話、併しそれは大概二、三十分でありましたから、十分盡すことは出来なかった。今日一時間半かに時間は辛抱していただけるという話でありますから、多くの場合にお子供衆にしてきた話を、時間の許す限り詳しくお話したいと思う。


 それは難であるかと申しますと。どうして我が日本という国は、今日のような世界三大國の一つ、アメリカ、イギリス、日本、こういう国になったのか、そうして貴方方が、ある方は親に連れられてこの大連においでになった方もあろうが、又此処でお生まれになった子供衆も随分おありなさろう、どうして満州三界に来て、貴方方がこうやって小学校に行っているのか、どうしてそういうようになれたかということを話してみたい。軈てだんだん大きくなって、今後貴方がたが日本と言う者を背負って行かなければならないことについて、又背負って行かねばならない人間に成るについて、参考になるじゃろうと思う。


 あなた方はまだ子供であるから、なんとなく日本は昔からこんな偉い国であった、と思われるかもしれない。それは我が国は、国其のものとしては、二千六百年の歴史を持っており世界に類のない国体をもっている。万世一系の天皇様を戴いて、忠と考とを基として居るというような、最初から立派な国であったのでありますが、併し、極く平たく申して、主に物質的ではあるけれども、どうして国としてこんなに偉くなったのか、それはたつたこの間、貴方方のお祖父さんの時には、世界でこんな偉い国と思うて貰えなかった、いな、たつたこの間までは、みじめなくにであった。


 そのみじめな国として世界の舞台に現れて来た日本が、だんだんと偉くなって茲迄来た、その道行を私はお話致しましょう。  
 

〔関連記事〕 
 松岡洋右『東亜全局の動揺』 第四章 満蒙問題 一、満蒙問題の展望






大川周明 『日本文明の意義及び価値』

2022-03-19 20:57:22 | 大川周明


    日本文明の意義及び価値

                           大川周明

 

 吾等は屡々欧米人のために非難のを以て好戦国民と呼ばれて居る。
 されど吾等は主として嫉妬と恐怖の感情を根拠とせる
かかる非難に対して秋毫も顧慮する必要を認めぬ。

 マハン提督が既にいみじくも言へる如く、
国民は必ずしも常に貪欲のためにのみ戦ふものでない。

 そは国民的向上のためにも戦ひ、
国民的威厳のためにも戦ひ、
不義に対する憤怒のためにも戦ひ、
圧制するものに対する憎悪のためにも戦ひ、
圧制せらるるものに対する同情のためにも戦ふ。

 若し真に吾等を難ずるに好戦国民を以てする者ありとすれば、
そは未だ吾等が何のために戦へるかを知らめ人でなければならぬ。

 光栄ある三千年の歴史は吾等が国民としての戦ひは、
常に崇高なる意味に於いての戦ひなりしを最も力強く物語って居る。

 天孫瓊々柞尊が往きて治めよとの神勅を泰じ、
八重に棚引く材雲を押し分け天の浮橋うち渡りて、
此の豊葦原の瑞穂国に降臨し給ひ、
従ひまつれる神々と共に浦安の国の基を定め給ひし時より、
既に吾等は善き戦ひに勇み立つ国民であった。

 かりそめにも吾等の国民的品位を傷つけ、
若くは吾等の国民権利を蹂躙せんとするものあれば、
吾等の憤りは心の奥より発し、
愛国の血潮を総身に波打たせつ、
君国のために剣戟の鞘を仏はざるを得なかった。

 厖大なる漢帝国を目前に控え乍ら、
勇気なる神功皇后をして玄海の怒涛を渡らしめたのも之か為であった。

 呼ぶに『日没する国の天子』てふ称号を以てし、
強大を極めし隋の煬帝を驚かしたのも之が為であった。

 ウラルを超えてモスクワまでも攻入らんとせる
勝利と征服との絶頂に立てるフビライの暴慢なる威嚇を
手ひどく斥けたのも之が為であった。

 近くは清国と争ひ露国と戦ったのも亦実に之が為であった。

 独り過去に於いて斯くありしのみならず、将来に於ても正に斯くあらねばならぬ。

 国民としての権威と品位とを傷けられても、
尚はこれを忍べと命するやうな平和の神は吾等に取りて最も無用の存在である。
羲しくして強かれ。

 吾らの神は唯だこの短き一句を信仰個条として与へ給ふ生命と力との神である。
吾等の膝は断して不義の前に屈す可き膝でない。

 吾等の額は断じて届辱の烙印を甘受す可きでない。 
吾等の完全なる政治的独立が、天地と共に無窮なる可きことは、
既に建国の当初に於て天照大神によりて保証せられたる断乎たる事実で、
三千年の歴史が明白に裏書する所である。

 三千年の未来は三千年の未来を語る。

 吾等は全世界の国民に向ひ、殊には太平洋の彼岸の国民に向ひ、
最も声高らかに此の事の第一事実を語り聞かせねばならぬ。

 去り乍ら吾等の最も神聖なる誇りは、独り政治的生活に於いてのみならす、
思想、道徳、宗教、乃至芸術の如き精神的方面に於ても、
今だ曾て外来の勢力のために毫末だも自己の面目を傷つけられざりし一事である。

 吾等の歴史の初めより、
一切の亜細亜の文明は、逆捲く怒涛の勢を以て不断に吾等に押寄せて居た。

 併し乍ら巨巌の如き吾等の国民的自尊と有機的統一とは、
其等の澎湃たる思想の只中に立ちて、毅然として自己の独立を守る事を得せしめた。

 国民的精神は如何なる場合にてもまして新来の文明の奴隷となる事がなかった。
かく言へばとて吾等ら国民的態度を、かの支那人が濫りに他国の文明を蔑視し、
自ら其の固陋に甘んするが如き又笑うべき衿高と同視してはならぬ。

 他邦の人文に対して恰も素人が越人の肥瘠を見るが如く無感覚なる支那人とは痛く事変りて、
吾等は亜細亜大陸に咲香へる花を見るたびに、
常に新たなる感激に胸を躍らせて来た。

 最初に三韓文明と接したも時も、
次に支那の儒教文明と接した時も、
後に印度の仏教文明に接した時も、
吾等は他国民の追随を許さぬ敏感と、
驚嘆すべき自由なる批判的精神とを以て、
仔細に之を観察し、熱心に之を研究した。

 而して其の厳粛なる努力は、此等の文明を遺憾なく会得して、
之を国民的生命の内容として摂取し終るまで続けられた。

 盲目たる崇拝は吾等の敢てせぬ処であった。
それと同時に偏狭なる排斥も敢てせぬ処であった。

 数ある例証のうち吾等は其の一つとして大化革新当時の事情を下に述べよう。

 推古帝此かた隋唐の文明は江河を決する勢を以て吾国を風靡し、
天智天の御世に至りては制度文物の模範を悉く支那に取り、
さながら日本は小支那の如き有様となった。

 而してこの大文明の最も熱心なる歓迎者は、言ふまでもなく天智帝であった。
 大化三年に煥発せられたる庚午の詔を拝読する人は、
帝の御志が堯舜魯湯の冶跡を此国に実現し給ふに在ったことを直ちに知り得るであらう。
 
 夫にも拘わらず此の英明なる皇帝は、
吾国を以て決して支那の精神的属国たらしめ給ふ事がなかった。

 帝の御こころのうちには、大なる建国の精神が昔ながらの力強さを以て流れて居た。
 而して此の精神は帝をして百済に対する唐帝国の理由なき圧制に冷静なるを得ざらしめた。 

 帝は赫として茲に憤りを発し、
百済の請を容れて援兵を遺はし給ひ、
刀折れ矢尽くるまで唐軍と戦はしめた。

戦争は不幸にして吾軍の敗北に終った。
併し乍ら此の一戦は傲慢なる唐帝国をして嘆賞と恐怖とを禁ぜざらしめた。
かくて戦ひに於ては勝利を得たにも拘わらず、
却って彼より使者を派して和を吾国に請はしめた。

 誰か祖国の歴史を読んで此処に至る毎に、わが国民的積神の荘厳凛列して、
英雄的神経の琴線を鳴らさぬものあらうか。
此の精神は吾等をして他国の文明の摸倣者たらしめる事より救った。

 つぎつぎに人来れる文化の花が如何に美しく咲揃って居たにもせよ、
吾等の目は其美に幻惑される事がなかった。

 如何なる場合に於いて、
吾等の自由なる創作の精神が模傚のために幻惑される事がなかった。

 若し冷刻なる解剖の刀を加へて国の文明を分析する時は、一も特別に新しき要素が見当らぬ。
こは人々をして吾等の文明は何等の独創もなき
単に異邦の諸文明を取捨選択したものに過ぎぬと思はしめ易い。

 日本人は唯だ摸倣と折衷とにのみ巧みで独創の力を欠くなんと云ふ議論も此点に根差して居る。

 されどこは由々しき誤解である。
人類の精神的歴史は決して異種の思想や文明の器械的離合によりて消長するものでない。
石と材木と瓦とを寄集めただけでは千年を経ても家が出来上ぬ。
歴史の原動力は実に国民の創造力其のものである。

 既存の要素は活きたる国民情神に摂取をられて新しき全体となり、
此の新しき全体に於て於いて存せざりし
新しき生命と新しき意義とを得来るのである。

こは独り国民に於てのみならず、個人に於ても同様なる事実である。
誰か仏陀の宗教を全く新しき信仰より成ると断言し得やう。
誰かれ孔子の教を全く新しき道より成ると断言し得やう。

しかも古き娑羅門の哲学や信仰は、仏陀の人格に統一せられて新しさ生命を与へられた。

 孔子自身は述べて作らずと宣言して居るにも拘わらず、
昔ながらの支那思想は彼の人格を通過する際に全く新しき旨趣を発揮されて居た。 

 人格の創造力、これこそは世界史の開拓者である。
若し此の秘鑰を手に入れなければ、世界史の秘密蔵は永遠に吾等の前に閉ざされねばならぬ。
さらば吾等をして再び大化改新の歴史を回顧せしめよ。

 何となればこの革新は、吾国の史家によりて常に唐制模傚と呼ばれて居るにも拘はらず、
事実に於て吾等の偉大なる創造力を最もよく発揮して居るからである。

 

 大化の改新が其の模範を隋唐政治に採った事は固より吾等に於いて異存のあるべき筈でない。

 然れども少しく詳細に彼我の事情を考察する人には、
それが決して単純なる唐の摸倣でなかった事は直ちに明白になるであらう。 

 漢代このかた歴史的発達のまにまに、放任されて来た支那の政治組織は、
隋唐の世に至りて次第に附随されて来た一時的要素の纏綿のために、甚だしき矛盾あり、
緊縟なる重複ありて、
殆ど領会に苦しむほど錯綜紛糾を極めて居た事は、
当時の歴史に通ずる人の既に塾知せるところである。

 支都人自身にとりてさへも、
その複雑なる制度を根本と枝葉とに分ち中心と周囲とを見出す事が至難の業であった。

 然るに吾等は極めて短日月の間に支那の政治組織を領会して之を自己の薬篭中のものとなした。

 而してこの雑駁なる制度を最も見事に解釈して、驚嘆す可き制然たる秩序を与へ、
綱挙がり目張れる八省百官の制度となし、
之に依て当時の政治的問題に最も満足なる解決を与へたのである。

 誰か単なる摸倣者に此の水際立ちて鮮かなる腕前を期待し得やうぞ。
若し之をしも摸倣と称す可くんば、天下孰れの処にか創作なるものがあらうか。

 エマソン曰く、天才の前に秘密なしと、
如何なる文明も吾等の前には秘密密であり得なかった。
如何なる思想もを吾等の前には解き難き謎であり得なかった。

而して旧を失ふ事なくして新を抱懐する新なる帰一精神は、
亜細亜文明の一切を摂取して、之を吾等が国民的生活の上に復活せしめた。

 それ亜細亜には渾然たる一如しである。
ヒマラヤの連山は、孔子の共同主義を根底とする支那文明と、
吠咜の個人主義を根底とする印度文明とを分けて居るけれど、
これは唯だ一如の面目をして益々鮮やかならしめるものに過ぎぬ。
雪山の障壁は、今だ曾て平等とを普遍とを愛する亜細亜精神の遍満を坊げ得なかった。

 而して平等と普遍とを慕う心こそは、全亜細亜民俗に通ずる伝来の思想で、
此こころ即ち彼等をして世界に於ける一切の偉大なる宗教を生ましめ、
此こころ即ち彼等とかの局限と差別とを重んじ、
目的よりは手段を求める事を好む西欧民族とを分っ所以である。

 固よりこの精神は異なれる郷土で異なれる花と咲乱れれた。
 されど其等は皆な一つ太洋に起伏する女波男波にすぎぬ。
亜細亜の任侠も、波斯の詩歌も、支那の論理も、将又印度の宗教も、
総て単一なる亜細亜を物語って居る。

 然るに此の『復雑の中に存する統一』を殊に鮮かに実現して、
亜細亜の一如を最も十全に発揮するとふ事が、常に吾等の偉大なる特権であった。

 而して世界に比類なき皇統の連綿と異邦の征服を受けざる気高き自尊と、
祖先の思想感情を保つに絶好なる島国たりし事が、
日本をして亜細亜の思想及び文明の真の護持者たらしめた。

 されば吾等の意識は全亜細亜意識の綜合である。
吾等の文明は全亜細亜思想の表現である。
日本文明の比類なき意義及び価値は実に此点に存するのである。

 

 吾等をして空論者たらしめざれる吾等の主張は
常に厳粛なる事実の上に其の根拠を求めねばならに。

 さらば吾等をして日本は如何にして
『亜細亜の一如』を国民的生活の上に実現して来たかを語らしめよ。

 

 総ての起原が知り難いように、大和民族の起原もまた知り難くある。
吾等はかの東南亜細亜の沿海諸島を進み来る間に、
印度韃靼人の血を混へたるアッカディヤ人の一部であったか、
或いはまた満洲朝鮮を経て夙くより印度太平洋に植民せる土耳古遊牧群の一部であったか、
将又カシミルの高原を過ぎり来りて、
西蔵、ネパール、暹羅(シャム)、緬甸(ビルマ)等の諸民族を形成しつつ、
ツラニヤン人の間に其姿を没せるアリヤン移住民の子孫であったかは、
今尚は揣摩憶測の雲に蔽はるゝ考古学並びに人類学上の難問である。

 

 吾等は祖先が初めて歴史に現はれた時は、既に戦争に於いて雄々しく、
平和の仕事に於て優しく、
詩歌を愛好し女性を敬愛する一個堅実なる国民となって居た。

 而してこの原始日本を吾等に物語るものは言ふ迄もなく古事記である。
寄異なる漢文を以て書かれたるこの古き書物は、今や空しく高閣に束ねられて居る。
併し乍らこは吾等の祖先の思想と行蹟とを伝へる大和民族の聖書である。
完全なる木は萌芽の前に在る。

 日本の歴史は古事記に現はれたる『神ながらの道』が、不断に実現され往く道筋である。
吾等に敬虔と歓喜とのこころを以て、古事記を通して吾等の祖先の思想信仰を研究し
且つ之に関する徹底せる理解を得ねばならぬ。

 さて古事記の叙述は世界観の叙述を以て始まって居る。
吾等は曾て或る学者が、旧約の世界観と古事記のそれとの類似を聞いた。
されど世の中に箇程の誤解は多くあるまい。

 旧約の思想は天地を以て超越的一神の創造に帰するものである。
然るに古事記は決して天地の創造を説かぬ。
そはたゞ天地の啓発、天地の展開のみを説く。

 古事記は其の開巻に下の如く述べて居る。

 天地の初発の時、高天原に成りませる神の御名は、
天御中主神(あめのなかぬし)、
次に高御産巣日神(たかむすび 高皇産霊神)、
次に神産巣日神(かみむすび 神産霊神)。
 この三社の神はみな独り神成りまして、御身を隠し給ひき。

 次に国稚く乳脂の如くして海月なす漂へる時、
藁牙のこと萌騰れるものに因て成りませる神の御名は、
宇麻志阿斯訶備比古遲神(うましあしびひごろ 美葦芽彦舅神)、
次に天常立(あめのとこたち)神この二柱の神も独り神成りまして、
御身を隠し給ひき。

 次に成りませる神の御名は、
国常立(くにとこたち)神、次に豊雲野(とよくもね)神、
この二柱の神も独り神成りまして、御身を隠し給ひき。

 次に成りませる神の御名は、宇比地邇(うひぢに)神(泥土根神)、
次に妹須比智遲(いもすひぢに)神(沙土根神)、
次に角杙(つねくび)神、次に妹浩杙(いもいくくび)神、
次に意富斗能地(たほとのぢ)神(大殿道神)次に妹意富能斗弁神(いもたほとのべ神、大殿辺神)、
次に た母陀琉(たもだる)神(面足神)、
次に妹阿夜訶志古泥(いもあやこしこぬ)神(綾惶根神)、
次に伊邪岐神、次に妹伊那美神。

 

 この意味多き一節は、混沌CCHaosが宇宙Cosmosに成り往く道筋を述べて居る。
天御中主神は中心生命、神産霊高皇産霊の両神は宇宙の生成力の神格化である。

 そは決して宇宙に超在するものあらで、
内在せる生命力と力とが、自らの意志によりて神となったのである。

 この生命と力とが動き始めて、
浮脂の如く海月の如き混沌の中に、次第に秩序が展開されて往く。
美葦芽彦舅神は、無形は形式を得来る最初の開展原理の神格化である。

 美(うまし)は、美称、彦舅(ひこぢ)は男性の尊称、
葦芽は春来たりて萌え出づる壮んな葦の若芽である。

天常立国常立の二神は、
かくして展開せられたる天地の神格化、
豊雲野神は国土の生成力の神格化である。

 泥土根沙土根の二神は、大地未だ定まらず沙泥相混ずる国土成形の第一段の神格化、
角杙活杙の二神は、大地将に固定せんとする国土形勢の第二段の神格化、
大殿地大殿辺
の二神は、大地瀬く凝固せる国上形成の第三段の神格化、
面足綾惶根の二神は、円満に成就せられたる国土の神格化である。

 而してこれを男女神に分けて居るのは、一個の神格を男女の両名より命名せるもの、
換言すれば一個生成の力を能動所動の両面より神格化せるものに外ならぬ。

 例へば欠くる所なく具はれる国土と云ふ方面は面足神(おもあるのかみ)てふ男神として、
嘆美し畏敬すべき国土と云ふ方面は綾惶根神てふ女神として表現されたのである。 

 

 この宇宙の生命と力とは、更に伊奘諾伊奘冊の男女両神として現はれた。

 古事記の語るところに依れば、この両神は交互生殖によりて先づ大八島国を生み、
次で山神、木神、火神、風神、海神、石神、上神、他几百の諸神を産み、
更に伊奘諾神は女神を待たずして自ら一挙手一投足の間に百千の諸神を産み、
然る後に此等諸神の一切を統率すべき神を生んだ。

 その神こそは光華明彩にして六合の内に照徹し給ふ天照大神である。

 是の如き古事記の記事は、
往々にして吾等の祖先の恣まゝなる空想の所産と斥けられ易い。
されども唯だ其人の浅はかなる見識を自自するものに過ぎぬ。

 物の表面に蹉かすして、能くその内面を見得る人々は、
この簡朴なる象徴的記述のうちに、尽きざる醍醐味を見出すであらう。

 古事記は正しく次の如く語らんとするものである。
宇宙は諾冊二神として自己を顕現し、
之によりて国土山川草木地水火風、さては一切の万物を展開し、
最後に其等の一切を統一する究竟の原理として活動を始めたと。

 

 これが取りも直さず吾等の祖先の世界観であった。
少くともその世界観の根底たりし思想であった。

 かくして宇宙に内在する最後の一原理は、
天照大神てふ神格として彼等に現はれたのである。

 

 さて彼等は日本国の天望を以て天皇大神の子孫とし、
彼等自身は此国を経営せよとの神を蒙むりて、
天孫に供奉し来れる神々の子孫と信じて疑はなかった。
此の信仰は動かし難き真理を語って居る。

 日本国に於ける天皇の地位は、
さながらに宇宙にける天照大神の地位である。

 宇宙の一切が天照大神によりて統一せられたる全体の中に於てのみ
存在の意義があるやうに、
総ての日本人は天皇によりて統一せられたる国家の中にてのみ存在の価値がある。
日本の皇室をして世界の不思議たらしめたのは実に此の思想である。

 帝国大学名誉教授チエムパレン氏は
『新宗教の発明』と称する近著に於いて、吾国にて幾多の天皇がせられ、
幾多の天皇が弑せられたこと、武家政府か皇室を窮境に委して顧みざりしことをべて、
日本の天皇崇拝は近時の発明なりと断言し、
凡そ国民の君主を遇するに倨傲なりしこと日本人に過ぐるはなかったとさへ言って居る。

吾等は茲にかかる誤解を事々しく論する必要を認めぬ。
ただチエムパレン氏の主張に対する活きたる反証を挙げれば十分である。
 
 その反証とは奈良の正倉院である。
多くの人々に看過せられてるけれども、
吾等の見るところを以てすれは
正倉院ばかり力強く皇室の尊厳を証明するものは他に求め難いと思ふ。

 正倉院は人の知る如く奈良東大寺大仏殿の後にある皇室の宝蔵で、
今を距る千百五十余年の昔に作られた木造の建物である。
奈良朝の天子は一つには大仏に寄進のため、
又一つにはかくして永く後世に伝へんために、帝室の御物をこの宝蔵に収めをた。
而して建物も其中の宝物も共に聊かかも変らず今日まで遺って居る。

 

 戦国時代又は他の時代に於いて、
若し横暴なる人間が押入らうとへ思へば容易く破り得た木造の建物であるにも拘はらず、
更に左様の事はなくして、
中に納めらた火鉢の内には、千年前の灰までが其儘に残って居る。
これ程の不思議が凡そ世に多くあらうか。

 而してこの不思議は皇室の尊厳を以てせすに何を以て解き得るか。
吾等は之をチエムパレン氏に質し度い。
皇室の力は見えざる所に働らく。

 木曽に育てる無学の武将義仲が、東山北陸の野式士を従へて京都に侵入し、
あらん限りの乱第を振舞った時でも、
天皇法皇の前には只だ拝伏する外何事もし得なかった。
彼等は夫とも知らすに法皇の御輿に向って散々に射奉つた。

 されど『是は院にて渡らせ給ふぞ、過ち仕るな』との一言に、
悉く馬より下りて畏まった。
 彼等は又夫とも知らで主上の御船に矢参らせた。
されど『是は内にて渡らせ給ふそ』との一言に、
等しく馬より下りて大地に俯れ伏した。

 而して皇室に対する此の厳粛なる感情は吾等の歴史を通じて間断なく流れて居る。

 かくして吾等は皇室を中心として比類なく強固なる共同生活を営んで来た。
而して其間に自尊の精神を養び、忠義の感情を燃え立たせて来た。
四囲の自然はまた歓ばしき感化を吾等に与へた。

 波打てる黄金の田野、銀の如く朗かな空気の色、
己がじゝ芽出度き姿を競へる島々の趣、
白簾を懸くる山々の翠色、
絢爛たる四季の推移、
総て此等の美しき自然は、その典雅なる純一と、ロマンチックな醇精とを吾等の魂に刻み付けた。

 吾等の精神的沃土は見事に耕やされて、
善き種の蒔かれる準備は調ひ、
豊かなる収穫を得べき希望は熟した。 

 さる程に人文発展の機運は漸く熟して、今を距る千六百年の頃ほひより、
亜細亜大陸の精華と一部とべき支那文明と接触し始めた。

 吾等は厳粛なる努力によりて此の新来の文明を研究し、
能く之を同化して国民的繊緯の一部となし、
他年燐然たる花を咲かすべき文芸道徳の素地を造り上げた。

 吾等の芸術的天分はこの新しき文明に刺激せられて非常に急速の進歩を遂げた。
吾等は支那の文字を仮りて自己の言語を写すことを発明し、
所謂万葉仮名を作りて国語の文体を其儘に保持するの道を拓き、
次で平仮名、片仮名を発明し、
茲に象形文字の桎格を脱し、音標文字によりて思想を発表することを得せしめ、
之によりて国文学の発達を策進した。

 吾等はまた支那文明の核心たる儒教を取入れて道徳的生活を充実せしめた。
儒教の道徳は素と家族を単位とする共同生活の理想を説くものに外ならめ。
従って吾等の道的琴線は容易に之と共鳴する事が出来た。

 その教ゆる人倫五常の道、
父子君臣の義は、
文字なき文学なき吾等によりて適切なる言語に発表せられて居らなかったけれど、
実生活の上に於ては既に実行し来れるものに外ならなかった。

 例へば人君の民を視る父母の如し、
僭怛(サンダツ、いたみ悲しむ)の愛あり、忠敬の教あり、
葡萄の教ありと云ふような理想は、
直ちに吾が皇室の建国以来の理想其者を言表はしたものであるである。

 されど此の共同生店の大義も支那に於ては十分に徹底せしめられなかった。

 吾国にては民族の主が直ちに政権の主であったけれど、
支那に於てはく趣きを異にして居る。

 支那の政治は優れる力を有する一の人種が、
他の弱き人物を支紀するもので、決して一の人種が自ら治めるのてはない。

 

 こは支那の歴史が明かに証明する所である、
是の如き事情は支那に於ける君臣の関係を以て唯だ外部の威力によりて保たれるものたらしめた。

 家人父子の心を以て一国を経営する理想はあっても、
王侯将相豈種あらんやと豪語し、
革命を以て天与の権利と信し、
甚の心に於て悉く将門純友なりし人民に対して、
真に家父の心を以て君臨する事は、
支那の帝王に取りては殆ど不可能の理想であった孔孟の主眼は
王者の道を闡明するに在ったから貢の教説は為政者の為にしたものが多い。

 されば儒教精神に支配をられた漢代に於ては、
君主の理想を説く事に於て最も高潮に達して居た。  

 試みに漢の刑法志を開き見よ。

 古人言あり、満堂を飲むに、一人あり隅に向って悲涙すれば、
即ち一堂これが為に楽します。
王者の天下に於ける猶ほ一堂の上の如し、故に一人其平を得ぎれば之が為に心悽愴たり。

 誰か之を読んでその偉大なる観念にうたれぎるものぞ。
而も此の崇高なる理想を実現するのは、孔孟の郷土なる中華国民にあらで、
実に吾が日本国の役目であつた。

 恐多き事ながら、吾等は、明治天皇の大御心に於て、
儒教が待焦れし王者の理想の最後の完成を拝し奉るものである。 

 為政者の教訓が主となって居た儒教は、
当然の結果として臣民の君主に対する道徳を説く事が少なかった。
そは家族道徳を説く事に於ては殆ど遺憾なきに拘はらす、
国民道億を説く事に於ては最も不十分であった。

 それのみならず偶々孔孟の説き及べる臣子の道は、
吾等の国民性とは相容れぬものであった。

父の場合には三度び諫めて聴かれずば即ち従ひ、
君の場合には三度び諫めて聴かれすば即ち去れと言ひ、
君、君たらずば、臣、臣たらすと云ふが如き思想は、吾等の精神と背馳するものであった。

 

 かくて吾等は儒教の此の一面を訂正し且補充して、日本的儒教を造り上げた。
かくの如くにして儒教は吾国に於て最も美しき実を結んだのである。
支那を見よ。
孔孟の郷土を見よ。
支那は今や家族の集団に過ぎなくなった。
支那には国家なくして唯個々の家族あるのみに過ぎぬ。
彼等の至高の善は孝門である。
彼等の最大の罪悪は先祖の祭りを絶つことである。
而して国家のためには指一本だも喜んで動かさうとせぬ。

 

 公共のためには一毫を抜くことだも之を厭ふ。
偶々慈善を行ふものあれども、
そは之に由て更に大なる応報を期待する利己的打算を動機として居る。
彼等は家族の外に共同生活の意義を解せぬ人間と成り果てたのである。

利己主義が跳梁して富者益々富み貧者愈々窮するのも当然である。
国運の悲しむべき衰頽も必然の結果である。
これが果して孔孟の本意であらうか。
吾等は断して否と答へる。
孔孟の精神は其の郷土に於て亡んた。
而して誤解せられたる孔孟の精神は其の郷土を亡ばした。

儒教の至深の生命は吾等の国民的生活に於て復活し、
その至高の理想の実現は、吾等によりて完成せられねばならなかった。
 
 儒教によりて代表せらるる支那文明の渡来より約二百五十年を経て、
欽明帝の第十三年には印度文明の精華と称すべき仏教が伝来した。

 もと仏教は既に継體帝の御時に吾等に伝へられ、
殊に梁より帰化せる司馬達等は大和国坂田原に於て熱心に之を信じ、
且恐らくは之を伝道して居た。
されど此時に於ては吾国民は仏を呼ふに『韓人神』の名を以てし殆ど念頭にも置かなかった。

 

 然るに欽明帝の御時に至り百済国王が特使を派して仏教を吾が皇室に勧奨するに及び、
この新しい宗教を如何にす可きかと云ふことが、
国家全体の大問題となった。

 而してこの問題の解決を殊に困難ならしめたのは、
余りに強き国民性其者であった。

 当時廟堂に勢力を振へる蘇我氏は、印度を始め支那朝が昏な仏を信するに、
独り吾国のみ之を信ぜぬ理由がないと主張し無批判的に仏教を取入れやうとした。

 然れども物部氏を筆頭とする国粋論者は極力これに反対した。
彼等の理由とする所は、吾が皇室は由来天地祗を祀るを以て恒典として来たのに、
今更かかる蕃神を拝まば天神地祗の御怒り目当りなる可しと言ふにあった。

 然るにこの衝突は信仰問題として以外に政治的意味を含んで居たから、
茲に蘇我物部氏の激しき確執となり、事態は愈々紛糾を極めて来た。

 物部氏の主張は『神ながらの道』を以て一個の宗教とする見解に立てるものであった。
而して千二百年後の今日に於ても、吾等の周囲には尚ほ多くの『物部氏』が居る。

 併し乍ら神道を以て一個の宗教となし、
之を仏教又は基督教と対立せしむるは決して正しき見解でない。
神道は決して宗教にはあらで日本国の構成原理であり且規定原理である。 

 換言すれば神道は国民的生店の根本主義である。
国民としての総ての日本人は神道によりて生存し、
同時に神道に日本人の国民的生活の上に実現せられねばならぬ。

 されば神直は常に吾等に向って善良なる政冶、
厳粛なる道徳、高尚なる宗教を要求して居る。
 何となれば日本国民が此の三方面の生活に於て向上して行く事は、
取りも直さず神道の月ざる内容を発揮し行く事になるからである。

 
 今翻って仏教渡来以前の宗教を見よ。
行はれたりしものはだ素朴なる自然崇拝と祖先崇拝とに過ぎなかった。
かかる原始的信仰がいつまで精神の要求を満足せしめ得よう。

 史を繙きて欽明帝の朝に及べば、
伊勢大神言の斎宮たりし帝の皇女が、
皇子と慇懃を通じて其職を解かれたる記事を見るであらう。

 更に進んで敏達帝の時に至れば、再び同一不祥事が繰返された事を知るであらう。

 こは何事を吾等に教へるか。
それ天照大神は皇室の祖神として無上の崇敬を仏はれたる神である。
然るに今や之に仕へ奉れる皇女にして、処女の神聖を保ち得ぬものを生じた。

 一葉落ちて天下の秋を知る。
彼等は此の一事によりて
宗教としての祖先崇拝は最早過去のものとなった事を明白に知り得るのである。
彼等の道徳的生活は儒教によりて向上させられた。
 
今や彼等は更に新しき力ある信仰によりて宗教的生店の充実を図らねばならぬ。
さらば仏教を如何に可きか。

この問題の解決はわが聖徳太子の任であった。
而して太子ならでは何人も果し得ぬ重任であった。
吾等をして先づ太子伝補註の一節を引照せしめよ。 

 神道は道の根本、天地と与に発り、以て人の始道を説く、
 儒道は道の枝葉、生黎と与に発り、人の中道を説く。

 仏道は道の華実、人智熟して後に発り、人の終道を説く。
強いて之を好み之を悪むは、是れ私情なり。 

 こは固より太子の言葉を忠実に伝へたものでない。
 されどそは最もよく太子の精神を語るものである、
その神道を根とし、儒を枝葉とし、仏を華美とし、
三者相扶けて日本国てふ一大樹を成せる所以を説き、
然る後に濫りに一を好み他を悪むが如きは私情なりとの鉄案を下すところ、
真に虚空をして稀有と叫ばしめねば巳まぬ概がある。

 かくの如くにして印度文明の精華は吾等の生命に取入れられた。
而して吾等の精神的文明は限りなく豊かにせられ且高められた。

 仏教は火の原を燎く勢を以て弘まって住った。
聖徳太子の後一世紀を過ぐれば、天子自ら三宝の奴と称し、
国費を以て京都及び諸国に寺院の建立せらるるあり、
醇乎たる大和民族の間より幾多の高僧を出だして、
日本固有の精神と印度宗教との渾一は次第に成就をられて来た。

 此の点に於て特に吾等の注意を惹くものは行基其人である。
 彼は其の足跡殆ど六十余州に遍く、
常に声高らかに岡弥陀仏の名号を唱へて街衢を行き、
市の如く其後に従ふ道俗を済度するの傍ら、
橋梁を架し溝渠を通じ堤を築き地を拓くなど、
在らゆる方法を講じて衆生利益の本願を全うし、
実際的に仏教と国民生店とを結合せるのみならず、
驚く可き高遠なる形而上学によりて、
理論的にも日本思想と印度思想との統一を図った。

 彼は法華経の本地垂跡説を根底として、
日本の諸神は悉く諸仏の権化なること、
諸仏も本地に於ては同一にして、
其等は唯だ独一の真理の異なれる表現であると考へた。

こは実に日本的仏教の最初の試みであった。

 彼の本地垂迹論は固より単に第一勝たるに過ぎぬ。
されど此第一勝は踰え難き障礙を除き去りて全勝の道を開いたものであった。
仏教が善き意味に於ても悪き意味に於いて日本化せられ了ったのは平安朝に於てである。

而して平安朝末期より鎌倉時代に至りて、
法然親鸞道元日蓮等の偉大なる宗教的人格に於て、
仏陀の蒔き給へる信仰の種は、印度にも支那にも類ふべきものなき美しき実を結んだ。

 かくて仏教は其郷土に於て匸び、
支那に於て亡んだにもは拘わらず、
極東の彩花島裡にてのみ今尚ほ国民の生命と共に栄え、
その汎神論的信師と、観念論の哲学とは、此国の文化の一切の方面に面影を留めて居る。

 如上の粗雑なる叙述によりて知り得る如く、
吾等の文明は直ちに亜細亜文明の統一であった。

 吾等は過去に於て接触せる一切の文明を摂取して不断に高度の文化を展開して来た。
これが旧日本文明の意義及び価値である。

 今や全亜細亜を表現する日本は、更に一個の新しき文明と接触を始めた。
そは歴史と遺伝とを誇り、
文明を以て自己にのみ属すべきものと自負する欧羅巴人の文明である。
吾等は此の新しき文明、及び其の根紙たる基督教を、
曾て吾等の祖先が支那及び印度の文明を摂取せる如く、
遺憾なく同化して国民的生命に取入れる事が出来やうか。

 而して亜細生の表現者たる日本が、遂には世界の表現者たる日が来るであらうか。
而して『神ながらの道』の最後の実現を成就し得やうか。

 此の問題に対して正しき答案を造るためには、
吾等は日本西教史、並に日本西学史、
殊には現代の傾向を仔細に研究せねばならめ。

 こは他日更に一篇と成して必ず諸君の批評を仰ぐ存念であるが、
若し吾等をして単に結論だけを提出する事を許すならば、
言下に答へて下の如く言ふ。

 日本文明の完成は取も直さす世界文明の完成を意味すると。

 見よ、今や講会の椅子は無智の俗漢によりて占められて居る。
軽率なる哲学は思想界を攪乱して居る。
低調なる趣味は芸術界に跳梁して居る。
何人も決して軽々しく楽観してはならぬ。
されど吾等は遂に最後の希望を失はぬ。

 吾等はこの希望に励まされて、物質界に於て固より、
精神界に於ても常に、勇み立ちて善き戦ひを戦はねばならぬ。

            (『大陸』第三号、大正二年九月)  



四王天信孝著『猶太思想及運動』附録第2 英猶帝国主義の秘密政治機関と見られるフリーメーソン (3)

2021-09-07 08:49:51 | 大川周明


        四王天信孝著『猶太思想及運動』

附録第2 英猶帝国主義の
   秘密政治機関と見られるフリーメーソン(その3)

四、英國フリーメーンンの紋章は
     ユダヤ式で、ユダヤ人の考案に成る

ユダヤとフリーメイソンとの密接なる関係に就いて疑間が殘ってゐるとしても、英國フリーメーソンの絞章を研究して見ると、その疑問は消敝する。今日に蹌ては実等の枚章は一ユグヤ人の考察に成るごが明になった。
     
 千八百九十四年、九十五年の「トランスアクション・オブ・ゼ・ジュウイッシュ・ヒストリカン・ソサイエティ・オブ・イングランド」の第二巻に於いて有名なユダヤ人歴史家ルシアン・ウオルフと云ふユダヤ協會會長が執筆した一文が第百五十六頁にある。

 ―ヤコブ・エユグ・レオン通称テムプロと云ふので英國を訪問した。それは初めてでは無かったらしい。彼は巧みな画家で幾多の紋章の外に今日の英國グランド・ロッジのフリーメーソン紋章を考へ出した。美しい古い一枚此頃開催された英=猶歴史博覧会に出品された。(挿図参照)

   
   
     

 此の紋章は全部ユダヤの象徴ばかりから出来ている。之はエゼキエル書第一章に書かれたケルビム(天使)の出現を色々な違った形で顕はそうとする試みである様に見える。――熊、人、獅子、鷲、此等の物はヘブライ象徴の最高、最神秘の範囲に属する。

 紋の頭は「出埃及記第二十五章第十八節~二十節に示した神聖な姿勢にあるケルビムを以って仁慈の王冠を形作っている。
“紋章を支える臺は、エゼキエル書十一の中に現れる様な體を蔽ふ外翼と、左右から壙げた翼を以って神秘的様相を顕はしてゐる。

 テムプロの考察した初めの紋章に記入した文字はヘブライ語で書かれフリーメーソンの著述家ローレンス・デルモットが譯したものだ。彼が千七百五十九年に見たのはヘブライ語の「コデス・ラ・アドナイ」と云ふので「猶太神ヤーヴェに光栄あれ」と云ふことである。

 挿図にあるリボンには英語で「ホーリネス・ツー・ゼ・ロード」と書いてあり、それにフリーメーソンの象徴が附け加えてあるが、デルモットはそれに就いて何とも書いて居ない。彼は文字の方は後から附け加えられたものでテムプロの原画と一致せないものらしい。原画はテンプロの用紙の中から發見され、そしてそれは彼が絞殺したと云ふ事は甚だ確實とは言えない。

 彼は神學者で,科学評論家で、言語學者で、紋章画家で、芸術家であって誠に多趣味、有能な人であつたから、ソロモン殿堂と沙漠のタベルナクルに関係する事物を研究する趣味を持つてゐた。

 千六百四十三年に既に此等二種の建築に関する多大の模型を買って居り、それに就いて英、蘭、西お角國語で説明本を著わした。彼は殊に注意をケルビム研究に注ぎ、二種の書物で説明した。
(一つはラテン語、一つは西班牙語で)、西班牙語の書物にはケルビム出現の種々の形を縦横に論じ、ヘブライ陣営の傳統的の四つの旗と結び付けた。

 旗は四部に区分され、沙漠集會用天幕は次のものから取り囲まれてゐる。
即ちユダの獅子、ルペンの人、ダンの翼、エフライムの牡牛、聖画に對して彼が熱心であつたことは、彼が神化された有名な人々の紋章のことを以って研究に錦を添えたことによつて窺ひ知られる。デルモットが論じた如く彼は真に紋章のことを考案したものと思はれる。

 テムプロは又ユダヤ僧侶(ダビ)で、アムステルダムの高僧(ラビ)メナセ・ペン・イスラエルの良友であつた。此のイスラエルは方逐されたユダヤ人を再び英國に復帰せることに熱心に奔走した。

 近来の研究は、英國のゲランド・ロッジの紋章はユダヤ人ヤコブ・エユダ・レオン・テムプロの考案したもので、それを後にデルモットがその考察を基礎として完成した事を證明するに努めつつある。

 千八百十三年には英國の古式メーソンのユーナイテッド・グランド・ロッジの絞章は、英國グランド・ロッジと古式メーソンのグランド・ロッジと双方の紋章を以て組立てた。

 此等の紋章が古式メーソンのグランド・ロッジの凡てのユダヤ象徴を包含してゐることは注目に値する。英國貴族は英國王すら此の紋章を彼等のものとして認知してゐる。故に吾人は鼓に於いて再び英國王及貴族が如何にフリーメーソン及びユダヤと密接に結び附いてゐるかを知るのである。
   
                  〔続〕


大川周明 「国際聯盟と日本、所謂挙国一致内閣の出現」

2021-02-26 13:33:51 | 大川周明

国際聯盟と日本
 曩(さき)に満州事変に関し、今亦上海事変に関して国際聯盟が、吾国に対して甚だしく不利なる態度を示すに及んで、国民は漸く国際聯盟の本質について反省し、かつ欧米人の支那に関する認識不足を憤かるに至った。

 国際聯盟は、その成立の当初より、世界の現状を釘づけにしておくためのものであった。世界の現状を釘付けにすることは、新興国の成長発展を拒むことであり、弱小民族の自由と独立とに対する努力を阻止することであり、白人欧米の夕食人種に対する搾取関係を永久に保持することである。

 この種の機関が、吾国と利害相容れざるものなることは、火を睹るより、燦然たるに拘らず、人類共栄、世界平和といふが如き標榜に眩惑せる国民の一部は、恰も弥陀来迎の如くにこれを礼賛した。
 国民は今更欧米人の支那に対する認識不足に不平を言う前に、まずは国民自身が、如何に国際連盟に対して認識不足なりしか、如何に欧米に並びに欧米人に対して誤れる認識を抱いていたかを反省し、白人欧米に対する正確なる認識を得るに努めなくてはなぬ。(大川生)

   (『東亜』第五巻第五号、昭和七年五月) 
        

所謂挙国一致内閣の出現 
 非常事変(注、五・一五事件)によって倒れし犬養内閣の後を承けて、元老重臣が一週間に亘る慎重なる考慮の後に、斎藤老子爵を首班とする新内閣が生まれた。この内閣は、政友民生両政党政治家と新旧官僚政治家との合作なる点に於いて、あるいは挙国一致内閣との謂へるであらう。
   

 其の政績如何は、国民が一斉に瞳を凝らして見んと欲するところである。

 日本の今日は言ふまでもなく非常時である。内は蒼生の疾苦、日に甚だしきを加へ、外は満州問題を契機として深刻なる国際的危機が孕まれて居る。内外ともに一刀両断の政策を敢行するに非ざれば、ついに国難の並びに至るを免れない。

 老齢七十五歳の首相の下に、七十九歳の蔵相、七十七歳の内相を以ってして、果たして電光影裡斬春風の政治を行ひ得るか否かは、吾等の先ず危惧に堪へぬところである。加ふるに昨日まで倶に天を戴かずとせる両政党より官僚を出だし、互いに牽制するに於いては、啻に緊急なる政策の断行が容易ならざるのみならず、その決定すらも容易でなからうと憂へられる。

 この内閣は形式的に協力内閣であっても、断じて強力内閣ではない。または政党と官僚と網羅しただけで、澎湃たる新興勢力を度外せる点に於いて、決して真の意味の挙国一致内閣でもない。それ故にこの内閣に対する吾等の期待は極めて消極的ならざるを得ない。それはやがて生るべき真個に強力な国民内閣への過渡的役割を勤めるに過ぎぬであろう。(大川)
   (『東亜』第五巻第六号、昭和七年六月)




大川周明『たがいに相手を知らぬ外交、日満交渉の転換期』(昭和6年)

2021-02-23 19:53:45 | 大川周明

             
互いに相手を知らぬ外交

 真偽のほどは不明であるが、こういう話しを聞かされた。昨年、ある問題で上京した在支邦人が、陳情のために幣原外相訪問した際、支那の国民性を正しくしていることが、対支外交の上で極めて重要であると述べたところ、外相は国民性の知識などが外交上で何の役に立つかと、一言の下に斥け去ったとのことである。
 果たして事実とすれば、日支外交は行き詰まるべき運命に在る。

 支那の歴史を知らず、支那の思想を知らず、しかし、支那の特殊なる国民性を無視して、正しき対支外交が生まれる道理はない。然るに坤為地の我が国の外交官中、経学詩文に通ずる者が果たして幾人あるか。

 また複雑極まるところなき支那の国民性を熟知するものが果たして幾人あるか。一遍の常識で立派に処理することもできるが、根本の問題に触れ来れば、それだけでは間に合ひかねる。相手の国民性を的確に把握していないと、或いは無用の譲歩屈従を敢えてし、或いは無益に彼の感情を害するやうになる。 

 日本の外交官が支那の本質を知らず、または知ろうとせぬと同じく、支那の外交官もまた日本国民の本質を知ろうとしない。国民性の寛容と外交当局の弱腰とが、支那の要求に対して譲歩するところあれば、直ちに日本国民を弱小無為なりとして望蜀の態度に出て、つひに止まるところを知らざらんとする。

 日本の外交官は、支那国民心理を知らざるが故に、ひた押しに押されて譲るべからざるものも譲らうとするかもしれない。さりながら日本人は、個人としても将又国民としても、或る程度までは極めて寛容であり堪忍袋強くもあるが、限度を越えての無礼に対しては烈火の如く憤激を勃発させずば止まぬ民族である。吾等は日支両国のために、今日の外交を悲しまざるを得ない。(大川生) 

     (『東亜』第四巻第五号、昭和六年五月) 
 

満蒙交渉の転換期 
 万宝山事件、及びこれに伴へる朝鮮事件を導火として、満蒙問題は俄然重大化し、これまでは対岸の火災視せる国民も、ようやく緊張する態度をもって之に対するに至った。もしこれが機縁となり、満蒙問題の解決に資するならば、禍い転じて福となるであろう。
 
 満蒙に於いては吾等は幾多の権益を所有している。吾等は決して新しい要求を操出せんとするものではない。ただ、既得の権益を実際に実現せんとするだけである。しかるに従来わが国は、支那が条約を無視する行動に出ても、吾が権益を蹂躙し去りて、将来また不幸なる圧迫を在満同胞に加えても、千篇一律『厳正なる抗議』を繰り返すだけで、その抗議を徹底せしめた例しがない。
 それ故に未解決の満蒙懸案は、おそらく大小百件以上に達するであろう。その百有余件は、百余の問題についての日本の屈譲を意味している。

 朝鮮事件は、朝鮮人が幣原外交、したが、日本政府に対する不信任を、実行の上に現せるもので、本質に於いてまさしく独立運動である。間島における朝鮮人は、人口において八割を占め、既耕地の半ばを所有し、日本警官五百名を以って保護すると言われながら、無残至極の境遇に在る。
 満州奥地に於ける彼の境遇が、いかに不安と悲惨を極るかは想像に難くない。日本は既得の権利を堂々と主張し遂行して、彼らの堵を安んじてやるか、さもなくば朝鮮自体をも失ふかの岐路に立つ。

 当局者が、独り朝鮮人問題に於いてのみならず、満蒙問題全般に亘りて、積極的態度に出でんことを切望する。それは決して横車を押せといふことではない。ただ支那の横車を押し返せといふことである。(大川生)
     (『東亜』第四巻第八号、昭和六年八月)   

  


 
 
 

問題の国民的解決 
 満州に於いて我が国の正当なる権益を擁護し、かつ在満同胞の財産を保護する目的の下に、帝国陸軍が断固として敢行せる臨機応急の処置は、全日本国民の異常に熱心なる支持を得た。幣原外交に極度の不満を抱ける国民は、むしろ感謝に近き歓びを以って陸軍の行動を迎へている。

 満蒙に関する未解決の案件は、大小実に数百件を数へる。而してそのほとんどすべてが、わが国の正当なる権益の蹂躙、条約の無視、不法なる排日思想によって惹起せられ、日本政府は只『厳重なる抗議』のみを繰り返し今日に至れるものであるが故に、近年の日満交渉史は、見る目にも惨めなる日本外交の交際費である。

 国民は漸くこの間の真相を知り始めた。知ると同時に外交当局に対する信頼を失った。宛もこの時に陸軍が断乎たる行動に出でたので、国民は吾を忘れて喜んだのである。
 而も事態は決して楽観を許さない。若し此の問題の解決を、政党内閣の下に現在の外務省に委ねるならば、誰かシベリア出兵乃至山東出兵の二の舞を演ぜぬと断言し得るか。国家は今やまさしく興亡の岐路に立つ。国民の政党の手に、此の重大事を委ねることに大なる不安を感ずる。

 満蒙問題は真個に国民的解決を必要とする。国民はこの重大なる機会に於いて、自ら満蒙問題を解決するの覚悟を抱くと同時に、事茲至らしめたる国内の責任者を葬り去る覚悟を堅めねばならぬ。(大川)

     (『東亜』第四巻第十号、昭和六年十月)

 

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松岡洋右『東亜全局の動揺』第三章 對支外交 四、蒋介石、王正廷の放言

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松岡洋右『東亜全局の動揺』第五章 結言 二、満蒙に對する認識と政策の基根




大川周明『満州新国家の建国』(昭和7年3月) 

2021-02-22 13:23:07 | 大川周明

                         
大川周明 『満州新国家の建設』  

満州新国家の建設
 現奉天市長趙欣伯市長は、昨年(昭和6年)十二月、中旬奉天において、下記のごとく演説を日支両国語で放送した。
 『世界文明国の国民ため諸君、もしここに一人の男が居り、毎日昼間は睡眠し、午後3時か4時ごろになって初めて目の覚め、目覚めた後はモルヒネの注射をなし、その注射によってはじめて元気になり、あるいは婦女を弄び、或いは賭博をうち、あるいは猥談に耽り、正しい言葉は決して聞こうとせず、あるいは夜を徹して遊びに狂ひ、朝の7時になってようやく床に就く。
  その性質は極めて残忍で、ある時は恣に人を虐め、時には虐殺することもします。諸君このような人間に逢う時、諸君はこれを何の役に立たせようとしますか。あるいは彼を貴方の秘書として用いることができますか。或いは彼を貴方の長官として尊敬することができますか。おそらくそれは至極困難なことだろうと思います。

『併し諸君は 右のような人間がいるだろうかと疑問を抱くかもしれません。諸君、今日まで東北四省の政権を握っていた 張学良はこのような人物であります。誰でも召使としてすら使えないような人間が、東北四省の政権を握って、人民の膏血を搾って自分一人のための歓楽に供していたのであります。
 自分一人の欲望を満たすために、東北四省の人民に対して交換しえない紙幣を発行し、この紙幣をもって農民が終日攷々として働いて作った糧食を強制的に買い占め、之を外国の価値ある紙幣に取り換へて、自分の私有財産にするのであります。また人民が負担するに堪えないほどの税金を強制的に徴収して鉄砲弾を買い入れ、数十万の同胞を虐殺する軍隊を養い、自分の地盤を拡張するのであります。

 殊に部下の美顔なる妻女を犯し、また万悪の爪牙を以って良民を虐げるのであります。
彼の財産は日に日に多くない、彼の軍隊は日に日に増加すると同時に、東北四省の人民は日に日に貧乏になるのであります。最近三四年以来、東北四省の人民中に、あるいは逃亡し、あるいは餓死する者があっても、彼は毫も憐れむことをせず、唯だ、東北四省の人民の膏血を以って関内に入り、自分ひとり発展向上を求めるのであります。

 つまり彼一人の欲望に満足を与えるために、東北3千万民衆の生命財産の安全が犠牲に供されるのであります。彼の悪事を輔ける人は、賢臣良友として認められ、彼に対して悪事をとめて善政を施すことを忠言する人はことごとく排斥されるのであります。彼が東北四省の軍民の首脳者になって以来 茲に四年でありますが、人民は家をつぶされ財産をなくされ、商店は大損害を蒙り、閉店する者が数ふるに遑ないほどであります。故に東北三千万民衆は、恰も地獄の中に居ると同様でありまして、悲惨な生活以外なにものもないのであります。

『諸君、もし彼張学良は英国や米国の執政者でありましたら、英国や米国の国民は、一日でも彼をその地位に置くでしょうか。東北民衆には唯二つの道がある。一つは忍んで死を待つか、あるいは起って彼に反抗するかであります。
 しかし、彼には虎狼の如き数十万の軍隊を持っているのであるから、身に寸鉄を帯びぬ民衆はどうして彼を排除することができましょうか。幸いに、天祐とも申すべきは、彼が東北民衆を圧迫する手段を以って隣国である日本人民を圧迫したので、そのために九月十八日の事変を惹起したことであります。

 

 9月18日の事変(注、満州事変)は、皆な張学良と彼一党が起こしたことで、東北三千万民衆の受けた損害および苦痛もまた張学良と彼一党の招いたものであります。日本軍隊は、唯だ張学良と彼一党を怨むけれども、決して東北人民に対し怨みはありません。

 東北人民も張学良と彼一党を怨むけれど、啻に日本軍隊を怨まぬのみならず、日本軍隊の張学良とその軍隊を殲滅して大悪人の手から東北人民を救い出してくれたことに対して、深く感謝している次第であります。吾等はすでに張学良と彼一党の暴力から救い出された。よって吾等は民族問題として、吾等が明るく生存する道を開拓しようと思って、茲に新政権を立てたのであります・・・・・・』
       
   

 趙博士が平明に説破せる如く、9月18日事変は明白に満州史の一画期となった。張学良政権は見るに忍びざる苦悶の後に、ついに解消し去らざるを得なかった。而して郷紳と地主を上層に戴く満州農業社会は久しく彼らを圧迫し来れる政治的・経済的勢力から解放され、ここに彼ら自身の判断と利害に従って、新しき統治機構を創造し得る機会を与えられたのである。

 この革命的な機会に遭遇して、満州の民衆は、あるいは意識的に、あるいは半意識的に当然下の如き希望をその心に描き始めた。
第一に 彼らは2度と軍閥の支配の下に立ちたくないと考えた。
第二に 満州を騒乱果てしない支那本部から絶縁させたいと考えた。

第3に この目的のために国民党勢力、並びに共産党勢力の浸透を防がねばならぬと考えた。
第4に それらの希望を達成するためには、新満蒙国を建設する必要があることを痛感し始めた。

 満蒙民衆の此の意識は、いろいろな機関または個人を通して、あるいは部分的に、あるいは全体的に声明された。例えば干沖漢氏は下のごとく言明した。
・・・・『旧軍閥の覇道政治が亡んで、東北には真固に政治革命の時期が到来した。今や吾等は民意を基調とする善政主義を実行しなければならない。而して其の新旗幟は絶対的保境安民主義であり、そのためには旧軍閥政権及び南京政府と完全に絶縁せる新国家を建設することが必須の条件である』と。

 さらにまた12月8日の東北日報のごときは、東北新国家の組織と題して、実に下のごとく述べている。
・・・・・『遠くに新国を組織するの利は、已に人々の熟知する所であるが、更にその緊切なる所以を論ずれば、例えば米国が英国本土より離脱し、平和の新国家を建設するが如く、吾等は、中国より分離して平和の楽土を建設すべきである。

 しかるに現在奨励国の間に入って別に国家を建設するとしても外交・国防・経済の独立はきわめて困難である。茲に於いて吾等は日本と協約を締結して国防及び外交の優先を保ち、その陸海軍の実力を利用し、之を背景として外交上の後援を得、以って国防を堅くしなければならぬ。
 経済的には日本と経済同盟を結び、日本の資本と科学を利用して、実業の発展と 産業の開発を図れば、決して憂うるところがない。吾等に於いて何ら詐謀を用いず、誠意を以って共存共栄の道を講ずるならば、東北は必ず世界の楽土となるであろう。
  
 スイス、オランダ、ベルギーの繁栄と隆昌とは、諸強国を利用してかち得たものに外ならない。かくして新国家の成立せしめるたる後、徐に武備を整へ、教育の普及を図るならば世界の列強と比肩する日も決して遠いことではない。』


 干沖漢氏の掲げるとする保境安民主義は、決して新しいイデオロギーではない。この政策は、張作霖の下に奉天省長たりし玉永江氏によって、理論的ならびに実践的に展開せられたものであるが、張父子の野心はついにこの政策の実現を阻止してしまった。
 而もこの政策は、満州民衆の最も歓迎するところのものなるが故に、張学良政権崩壊の後、干氏は率先して此の政策の課長主張し、これをもって新国家の旗幟たらしむることを提唱したのは、まさしく機宜を得たるものであり、満州民衆の大多数はこれに共鳴するし、少なくともこれに反対する者はいないであろう。
 かくて保境安民を目的とした新国家建設運動が、急速に而も順調に進展して来た。  
 
  
  
  

 

 満州民衆の要求、並びに此の要求に伴へる建国運動は、甚だ幸福にも日本国家及び国民の満州問題の 久的解決は、満州に独立国家を建設を見たる後にのみ初めて可能なるが故に、吾等は衷心より建国運動を喜び、その実現お速やかならんことを祈るものである。
 然らば新たに建設せらるべき満州国家は如何なる組織及び性質を持つべきか、又は持つことが望ましいか。吾等は此の点について若干の考察を試みるであろう。

 新国家の領土は多く、奉天・吉林・黒竜江・熱河四省とウルムチを含む面積凡そ 七万方里の地域にして、人民は満・蒙・漢・鮮・日五民族大凡三千万人である。

 此の地域に於いて、此の人民を以って組織せらるる新国家は、第一に国家として国防を安全ならしめ、第二に社会として治安維持せられ、第三に個人として租税の軽減によって生活が保障せられ、かくして産業が開発せられ、福利が増進せられ、文化の向上をすることを望むであろう。この目的のためにいかなる統治機構が満州において最も適宜であるか。

 満州民衆の大多数すなわち、全人口の九割以上は、農業牧畜を営んでいるが故に、この上に建設せらるる国家は、必然の農業国家である。而して農業社会に対する最も合理的なる統制は分極的自治国家なるが故に、新国家は決して近代的中央集権制を採ってはならない。而して満州社会に適応性がある自治も、また近代法治国の地方制度に見る如き自治制度の直訳にあらず。支那社会の伝統的自治を助長し成全するものでなければならない。

 顔習斎、李恕谷に思想の流れを汲む北方支那の村治学派の主張は、満州分権自治の理論的根拠として最も適切なるものである。現に干沖漢氏を委員長とする自治指導部は上述の如き方針の下に、自治組織の整理建設に努力しつつある。

           

 支那における国家および社会の構成単位は家族であるが、この原則は新国家においても存続せしめなければならぬ。支那農村に於いては、家族は拡大さされて宗族、そのいくつかが集まって自然をなし、それらのの経済的条件に応じて聨荘を構成している。
 都市においては地域的な構成せられたる、前述の組織の外に、職業的に構成せられたる帮即ち同業組合がある。
 自治指導部は、その自治組織を基礎として、これを拡大して県を中心とせる自治体を建設し、ついで県自治体の連合としての省、省の連合としての国を建設せんとしつつある。この新国家が、日本と特殊の関係に立つべきは言うまでもない。
 新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟並びに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うと共に 日本を救い、且つ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなしてやろう。
       (『文芸春秋』第10年3月号、昭和7年3月) 



大川周明 「満州未だ楽土たらず」

2021-02-21 20:47:22 | 大川周明

   『満州未だ楽土たらず』 
     大川周明 

満蒙をバルカンたらしむもる者
 
 満州は縷々欧米諸国において『アジアのバルカン』と呼ばれ、また多くの記者は好んでこの地域を『次の世界戦の舞台』とさえ呼んで来た。シナが満州事変を国際連盟に訴え、国際連盟が軽率なる行動に出たために、満州は今や国際政局の中心問題となってしまった。 
 
 平日は大国を以て世界に誇り、一旦事あらば他力本願に急転するは、シナの哂うべき伝統的態度にして、曾ては琉球事件を米国大統領グラントに訴え、また日清戦争後に三国干渉を招き、今また国際連盟に訴へて事端を紛糾せしめんとして居る。

 而も満州をアジアのバルカンたらしむるものは決して日本ではない。若し此の地をして世界戦の舞台たらしむる虞れありとすれば、それは堂々四億の民を以て自ら自国の問題を解決せんとせず、倉皇として外国の干渉を招かんとするシナの罪か、然らずんば日本を満州における正当な発展を、道理なく抑圧せんとする列強の態度にその責を負わせねばならぬ。

 満蒙が我が国に取りて生命線なることは最早や説明するまでもない。従って満蒙より我が国を駆逐せんとする如何なる国の企図も、それは我が国の国家的存在を拒むものにほかなら故に、我らは寸毫も譲歩する意思が無い。(大川生)

     (『東亜』第四巻一二号昭和六年十二月 230頁) 

上海における暴行 
 万もの権益が極力擁護されねばならぬことは言うまでもない。而もわが国民は単り満蒙においてのみ活動しているのではなく、わが権益は満蒙以外にも厳存している。それゆえに権益擁護は当然シナ全土に及ばねばならなぬ。現に揚子江流域殊に上海の如きは在留同胞三万を超え、その貿易は満蒙の上に出て居る。

 長江一帯における多年の排日、その暴戻に於いて満蒙における排日よりも甚だしく、権利は侵害せられ、同胞は侮辱されてきたにも拘わらず、何らこれらに対して積極解決を試みなかった。満州における不当な、軍部の決意によって終息せしめられた。
 いま上海における極端な排日は、ついに容すべからざる暴動にまで激化した。帝国の権益は、此処にてもまた擁護せられねばならぬ。国民は満蒙にその心を奪われて、長江を忘れてはならぬ。(大川生) 

     (『東亜』第五巻二号 昭和七年二月 231頁) 

満蒙未だ楽土ならず 
 新満州国家の建設は、満州問題の一段落に相違ないが、決して問題の終結ではない。新満州国の建国宣言と共に、忽然として朔北窮寒の曠野に楽土が出現せるかの如く考へ、満州問題に於いての緊張と覚悟とを聊かでも緩めるならば、やがて大なる失望落胆を嘗めねばなるまい。
 
 吾等は『100里の途は九十九理を以て半ばとする』と言へる古語の真理を、特に満州問題に於いて切実に感ずる。
 昨秋満州事変勃発してより今日に至るまで、第一線に立てる皇軍は言うまでもなく、在満民間の同志もまた水も漏らさぬ連携を保ちつつ万難に善処し、内に在りては国民がナショナル・ロマンティシズムとも呼べる感情の昂潮を以って、満腔の後援をおしまなかった。それなればこそ内外幾多の障害を突破して、新国家の建設を見ることができたのである。

 満州国はとにかくも建設された。而もそれは畢竟名目だけのことで、実は海月なす漂へる国たるに過ぎない。将来の修理固性は、一に日本の扶エキ(助けるの意)誘導を待つものである。而も日本は能く此の重圧に堪えへるか。第一線の功労者間に巧妙と権力の争いを生じて結束を破りはせぬか。考へ来たりて前途転た憂心に堪へない。

 さり乍ら満州に於ける日本の事業は、実に日本と満州を兼ね済ひ、惹いて東亜全局を救援する所以なるが故に、吾等は一層覚悟を堅確にし、満蒙の野に流された鮮血の犠牲を、断じて空しきものたらしめぬやうに心懸けねばならぬ。(大川生)

     (『東亜』第五巻四号 昭和七年四月 231頁)

 
 
   






大川周明 「満蒙問題の重大性」 (昭和七・六・十五日「月間日本」)

2020-10-11 17:00:57 | 大川周明

二重の難局に対する覚悟

 満蒙問題の徹底的解決とは他なし。満州と日本を有機的に一体ならしむることである。而して其のためには日本国内の生活組織を改造しなければならぬ。
 現実の日本は、台湾・朝鮮をさえも其の生活に組織し得ぬ日本である。したがって満州国を見事に消化するが如きは、現実日本の到底企及し得ざるところである。

 満蒙は、しばしば繰返さるるごとく、之を国防の見地からしても、之を経済の点からしても確実に日本の生命線である。この生命線が脅威された故に吾等が敢然として起こってその脅威の本源たる満州軍閥を掃蕩した。
 満蒙三千万人民衆も多年軍閥の虐政の苦しみを嘗め来れるものなるが故に、この好機に乗じて独立する新国家を建設し、永久に軍閥再興の禍根を立ち去った。
 而して生まれたばかりの新満州国は、其の補導者として日本の提撕を待っている。満蒙をして日本の生命線たる事を挙げしめるためには、最初に立言せる如く、之を日本の生活に組織化しなければならぬ。そのためには軍事同盟及び経済同盟を結んで、日本と満州国とを有機的に一体ならしめねばならない。
 若し之を能くせずば、満蒙は遂に日本の生命線たり得ざるのみならず、実に朝鮮―従って日本の脅威となる。日清、日露の役は、取りも直さず其のために戦われたのである。それ故に日本は万難を排してこの目的を遂げねばならぬ。


 然るに日本は、此の目的を遂げる上に於て、内外二重の障礙に当面している。
即ち、満蒙を日本の生活に体系化するためには、必然現在の経済機構と撞着扞格するが故に、之を依持することによって利益を得つつある階級、取りも直さず財閥と而して政党とが、あらゆる妨害を試みるであらう。

 彼らは唯旧式なる植民政策を墨守し、満蒙に対して植民地的搾取を主張するであらう。かくするこは暫くの間だけ彼等のみには利益を与へるであらう。而も其の利益は永続すべくもなく、やがて彼らと日本とを共に破滅に導くであらう。故に吾等は先ず此の敵と戦ひ、日本の経済機構改造して、内には国民の多数を彼等の搾取より救ひ、外には満蒙の国民的消化を可能ならしめねばならぬ。

 第二の障礙は国外より迫る。それは日本の隆興を喜ばざる列強が、若し日本にして満蒙の勃興きわめて可能なるを信ずるが故に、極力その進出を阻止せんとしつつあるが故である。
 イギリスは、恰も戦前のドイツが新興工業国として台頭せるに対すると同様の警戒と嫌悪とを吾国に対して抱いて居る。日本の発展を妨げるとするイギリスの外交政策は、リットン卿が旅先で機嫌を良くすると悪くするとに関せず、一貫不変である。

 アメリカの対日政策が甚だしく非友好的のものなることは言ふまでもない。而してロシアは、日本の満蒙進出によって、その太平洋政策の根底を覆へされることを恐れ、戦争までに至らざる程度に於て、即ち出先官憲に責任を帯びさせ得る範囲に於て、吾国の満州政策を極力防止するであらう。

 列強は虎視眈々と常に乗ずべき機会を覗って居る。此の内外の国難は、同時に迫りつつあり、また同時に解決せらるべきものである。
 吾等は日本の今日が、真に文字通り「非常時」なることを明確に認識し、これに処するの覚悟を一層堅固ならしめねばならぬ。

         (昭和七・五・十五日「月間日本」)

 

満蒙問題の重大性 

 満蒙問題は今や空前の重大性を帯びてきた。
 外、国際的圧迫が非常の勢いを以て加はらんとするに先立ち、内、満州新国家そのものが動揺不安の状態に陥り、建設の歩みよりも崩壊の歩みが急速に進みつつあるかに思はれる。若し形成がこのままに推移するならば、誰が今度の満州事件がまたもや「シベリア出兵」乃至は「山東出兵」の轍を踏まぬと断言し得やう。

 満州問題の適切なる解決は今や日本を内外の難局より救ふ無二無三の途となって居る。
 従って其の解決の成否は直ちに国家の運命そのものに影響する。
 若し満州を失ふ如きことあらば、吾国はロシア・支那・アメリカ三国に圧迫せられ、列強の限りなき軽侮を満身に浴びつつ、永久に浮かぶ瀬もなき小国として、恰もベルギーがヨーロッパに於て占むるが如き憐れなる地位を、かろうじて極東の一角に保ち得るにすぎぬこととなるであらう。
 それは断じて吾等の忍び得るところではない。


 国民は満州問題の解決が如何に非常の努力を必要とするかを十分に知って居ない。
吾等は日露戦争に於て、実に三十億の国帑を費やし、三十万の生霊を犠牲にして、僅かに満鉄と関東州の租借権とを獲得した。

 然るに今日は、自国に二倍する広大なる満州全土に亘りて、その治安を維持し、その統治に助力し、その資源を開発し、三千万の住民に幸福と安寧を与えつつ、満州新政府と協力して、一個の楽土を実現とするのである。
 それは非常の事業である。これによって得らるべき結果は、日露戦争のそれに数倍する偉大なるものである。以上の確認をとることなくしては、この大業は成就することは考ふべくもない。

 然るに国民は、大業のために、日露戦争にあらゆる努力と犠牲の十分の一をさえ払はうとしない。
 単に之を経費の点だけについて見るも、日露戦争当時の二十億円は、恐らく今日の六十億円乃至八十億円に相当するであらう。
 当時の国富と国民所得を以てしても、君国のための屹度必要であると覚悟すれば、其れ程の無理算段も出来たのだ。それであるのに今日は、満州問題のために費やされた軍事費以外、一億の金さえも出そうとしない。

 嘗て予の談話筆記が某雑誌に発表されたが、そのうちに予が満州開発のためには、三十億円以上の資金を投ぜねばならぬと言へるに対し日本論壇の雄として日頃尊敬して居る若宮卯之助翁さへ、極めて冷笑的なる批評を加へたことがある。其他の人々の見識押して知るべしと言わねばならぬ。


 日本の国富は、内閣統計局の調査で大正十三年末に約一千億円、これは今日と雖も減じて居る筈がない。
 国民所得は大正十四年に約百三十億円と推算されて居り、これは若干の減収ありとするも、尚百億円内外と見て宜しからう。三年間に三十億円を支出するとすれば、国民所得の一割に四か当たらない。
 これをソヴェート・ロシアが国民所得の四割を取立てて五か年計画の遂行に充当しつつあるのに比ぶれば毫も驚くに足らない。

 日露戦争によって得たものより、幾層倍も偉大な結果を収めるのに、その十分の一にも足らぬ努力で目的を達しうるかの如く考えて居ることが、実に満州問題に対する吾国の根本的なる心得違いである。

 左様なことは決して有り得べからざることである。個人と言わず民族と言わず、努力と犠牲の大小に応じて収穫にも大小がある。言ふに足らぬ努力と犠牲を以て、莫大なる結果を掴もうとするが如きは、天人倶に許さぬところである。

 日本は直ちに此の根本的なる心得違いを改め、日露戦争以上の緊張と覚悟を以て、満州問題の解決にあたらねばならぬ。
 この問題の徹底せる解決のみが、能く日本を当面の経済的窮境より脱却せしめ、能く天業を恢弘する基礎を築くことを得せしめる。国民の金鉄の如き決意を要求する所以である。

                            (昭和七・六・十五日「月間日本」)



大川周明『北一輝君を億ふ』

2020-04-02 08:52:39 | 大川周明


大川周明『北一輝君を億ふ』 



〔北君の支那革命観〕

北君の支那革命観並びにその在支中の活動は其著『支那革命外史』に述べ尽されて居る。もと此著は日本の対支外交を誤らしめまいため、人々に対する建白書として、『支那革命党及び革命之支那』と題し、大正四年十一月起稿して翌五年五月に脱稿するまで、成るに従つて之を有志に頒布せるものを、後に題名を支那革命外史と改めて、公刊せるものである。

 此書が刊行された時、吉野作造博士は『支那革命史中の白眉』と激称したが、それは単に支那革命党に対する北君の厳格なる批判であるだけでなく、支那革命を解説するために、縦横に筆をフランス革命と明治維新とに馳せ、古今東西に通ずる革命の原理を提示せる点に於て比類なき特色を有する。

 私は甚だ多くを此書によって教へられた。若し私が生涯に読んだ夥しき書籍のうち、最も深刻なる感銘を受けたもの十部を選べと言はれるならば、私は必ず此書を其中に入れる。北君は既に此書の中で、明治維新の本質並に経過を明かにして、日本が改造されねばならぬことを強力に示唆して居る。従って此書は『日本改造法案大綱』の母胎である。

 北君は、大西郷の西南の変を以て一個の反動なりとする一般史学者とは全く反対に、之を以て維新革命の逆転又は不徹底に対する第二革命とした。そしてこの第二革命の失敗によつて、日本は黄金大名の聯邦制度と之を支持する徳川其儘の官僚政治の実現を招いた。維新の精神はかくして封建時代に逆行し、之にフランス革命に対する反動時代なりし西欧、殊にドイツの制度を輸入したので、朽根に腐木を接いだ東西混淆の中世紀的日本が生れた。

 かくの如き日本が民族更生のために第三革命を必要とすることは北君にとりては自明の結論である。而も目本の第三革命の前に、支那はまた風雲動き、北君は其年の夏再び上海に急行して支那の第三革命に参加したが、事志と違ひて空しく上海に滞在することとなった。
 
〔霊感によって法華経に帰依〕
 北君は大輝君への遺言にある如く、大輝君誕生の年、即ち大正三年に霊感によって法華経に帰依し爾来一貫して法華経行者を以て自ら任じ、『支那革命外史』もまた読誦三昧の間に成ったものであるが、この上海仮寓時代に法華経信仰は益々深くなった。そして大正八年夏に至り、法華経読誦の間に霊感あり、日本の第三革命に備へるため、国家改造の具体案を起稿するに至ったのである。

 当時北君は私より三つ年上の三十七歳、白哲端麗、貴公子の風姿を具へていたが、太陽館の一室で私と対談する段になると、上着を脱いで猿又一つになった。その痩せた裸形童子の姿は、何んとも言へぬ愛嬌を天然自然に湛へて居た。 
 そして一灯の動作におのづから人の微笑を誘ふユーモラスなものが漂っていた。 

 私は北君の国体論や支那革命外史を読んで、その文章には夙くから傾倒して居たが、会って対談に及んで、その舌端から迸る雄弁に驚嘆した。似た者同志といふ言葉通り、性格の似通った者が互に相惹かれることは事実である。併し逆に最も天稟の違った者が互ひに強く相惹く場合もある。私と北君の場合は此の後者である。

 私の精神鑑定を行った米国病院の診断書は、冒頭に私のことを『この囚人の風貌は、思切って不愛想である』と書いて居る。誰かが『大川の顔を見ると石を投げっけたくなる』と言ったそうだが、どうも私には愛嬌が欠けているらしい。また同じ診断書に私の英語を『用語は立派だが発音はまずい』と書いてある。
 まずいのは英語だからでなく、私の日本語の発音そのものが甚しく不明瞭で、殆んど半分しか相手に判らないだけでなく、話に抑揚頓挫といふものがない。その無愛想で口下手な私が、人品に無限の愛嬌を湛へ、弁舌は天馬空を往く北君に接したのであるから、吾と吾身に引きくらべて、一たまりもなく感服したことに何の不思議もない。

 また真剣に書かれた北君の文章は、まさしく破格の文章である。北君の文章は同時に思惟であり、感興であり、また行動でもある。私の読書の範囲では、少くも明治以後の日本に於て、かやうな文章を書いた人を知らない。従って北君の文章は絶倫無比のものと言ひ得る。人々は思惟して論文を書き、感興が湧けば詩歌を詠じ、意欲すれば行動する。従って左様な文章は論旨の一貫周匝を、詩歌は感情の純潔深刻を、行動は適切機敏などを物さしとして、それぞれの値打を決めることが出来る。然るに北君の揚合はその精神全体を渾一的に表現した文章である。

 言い換へれば北君の魂の全面的発動である。そして此事は北君の談話の場合も同然である。北君が真剣に語る時、北君の魂そのものが溌剌として北君の舌頭から迸り出る。それ故に之を聴く相手は、魂の全部を挙げて共鳴するのである。かやうにして北君に共鳴した者は、殆ど宗教的意味での『信者』となる。

 尤も電気に対して伝導体と不伝導体とがあるやうに、北君の生命と相触れても、一向火花を発せぬ人々もある。其等の人々のうちには、北君の言論文章は難解だという者もある。併し難解とか不可解とかいうことは、人間の理性の対象となるべき事柄についての取沙汰である。

 然るに北君の書論文章は、禅家の公案と同じく、理性の対象として理解すべきものでなく、精神全体で感受又は観得せらるべきものである。それ故に北君の言語文章から、その理論的一面を抽象して、之を理性の俎上にのせ、論旨が矛盾しているの、論理上の飛躍があるの無いのと騒いで見たところで結局無用の閑葛藤である。

 白隠和尚は『女郎のまことに、卵の四角、三十日(みそか)三十日の良い月夜』といふ唄を、好んで説教の際に用ひたという話である。女郎の嘘八百が、そつくり其儘天地を貫く至誠であり、円い玉子がそつくり其儘四角四面の立方体であり真闇な三十日の空が、そつくり其儘千里月明の良夜であるといふのである。

 如何に哲学者や科学者が、そんな馬鹿な話があるものかと、その途方もない矛盾を指摘して力んで見たところで、白隠和尚は泰然として『これが禅の極意だ』と言ふのだから仕方がない。若しまた此の矛盾を解かうとして、此唄の本旨は、女郎も改心すれば誠に返るし、丸い卵も切りやうで四角になるし、三十日の闇はやがて十五夜の明月を約束するといふことだなどと、当時流行の『合理的解釈』を加へるならば、和尚の真意を相距ること実に白雲万里であらう。 
此事は北君の文章の場合も同然である。

 マホメットに親灸し得なかつた初期の回教信者達は、アーイシャ初めマホメットの諸未亡人に向つて、しきりにマホメットの為人を語り聞かせよと懇請した。その都度アーイシャは『あなた方はコーランをお持ちでないか。そしてアラビヤ語を知って居るではないか。コーランこそマホメット其人です。それだのに何故あなた方はマホメットの為人を訊ねるのか』と答へたさうである。
 
 『文は人なり』といふビユボンの言葉は、マホメットと同じく北君の場合にも極めて、適切で、北君の人物は実に北君の文章そつくりである。それ故に北君の文章を色読し得る人でなければ北君の人物を本当に把握することが出来ない。

 禅家の語に『天堂と地獄と、総て是れ閑家具』とある。極楽や地獄など、有っても無くても、構はないと書ふのであるが、北君は正に其の通りに生活していた。其の文章が然る如く、北君の生活は渾一的、即ち無拘束、無分別であった。貧乏すれば猿又一つで平気であり、金があれば誰揮らず贅沢を尽した。その貧乏も贅沢も、等しく身について見えて、氷炭相容れぬ双方が一向無理を伴はぬところに北君の面目がある。

 一言で尽せば北君は普通の人間の言動を律する規範を超越して居た。是非善悪の物さしなどは、母親の胎内に置去りにして来たやうに思はれた。生活費を算段するにも機略縦横で、とんと手段を択ばなかった。誰かを説得しやうと思へば、口から出放題に話を始め、奇想天外の比喩や燦爛たる警句を連発して往く間に、いつしか当の出鱈目が当人にも真実に思はれて来たのかと見えるほど真剣になり、やがて苦もなく相手を手玉に取る。 

 口下手な私は、つくづく北君の話術に感嘆し、『世間に神憑りはあるが、君のは魔憑りとでも言ふものだらう』と言つた。そして後には北君を『魔王』と呼ぶことにした。

〔君が私に遺した形見『大魔王観音』の五字〕
 処刑直前に北君が私に遺した形見の第二の品は、実に巻紙に大書した『大魔王観音』の五字である。北君がこれを書く時、その中に千情万緒が往来したことであろう。一つ大川にからかつてやれと言ふ気持もあつたらう。また私が魔王々々と呼んで北君と水魚のやうに濃かに交って居た頃のことを思ひめぐらしたことであらう。また今の大川には大魔王観音の意味が本当に判る筈だと微笑したことでもあらう。いずれにせよ死刑を明日に控えてのかのやうな遊戯三昧は、驚き入った心境と言はねばならぬ。

 私が北君から離れた経緯については、世間の取沙汰区々であるが、総じて見当違ひの当推量である。離別の根本理由は簡単明瞭である。それは当時の私が北君の体得してた宗教的境地に到達して居なかつたからである。当時私が北君を『魔王』と呼んだのに対し、北君は私を『須佐之男』と名づけた。

 それは、往年の私は、気性が激しく、罷り間違へば天上の班駒を逆剥ぎにしかねぬ向ふ見ずであったからの命名で其頃北君から来た手紙の宛名にはよく『逆剥尊殿』としてあつた。北君自身は白隠和尚の『女郎の誠』の生れながらの体得者で、名前は魔王でも実は仏魔一如の天地を融通無礙に往来したものであるが、是非善悪に囚はれ、義理人情にからまる私として見れば、若し此儘でいつまでも北君と一緒に出頭没頭して居れば、結局私は仏魔一如の魔ではなく、仏と対立する魔ものになると考へたので、或る事件の際に北君に対して『須佐之男』ぶりを発揮し、激しい喧嘩をしたのをきっかけに、思ひ切つて北君から遠のくことにしたのである。

 爾来世間では、北君と私とが全く敵味方となって互ひに憎み合つているものと早合点し、好き勝手な噂を立てて居る。併し北君と私との因縁不可思議な間柄は、世間並の物尺で深い浅いを測り得る性質のものではない。一別以来二度と顔を合せたことはないが、お互の真情は不断に通って居り、何度か手紙の往復もあつた。そして私自身の宗教的経験が深まるにつれて、北君の本領をも一層よく会得出来るやうになった。私は別離以後の吾々の交情が如何なるものであったかを示すために、北君から貰った手紙のうちの二通を下に掲げる。

〔北君から貰った手紙〕
 その一通は北君が宮内省怪文書事件で約半年間市ケ谷に収容され、翌年初春に保釈出所した直後のもので、精確には昭和二年二月二十二日附の手紙である。━━ 

 拝啓 相別れて一年有半、獄窓に在りて黙想するところ、実に兄と弟との分離に候。来また切に君を想ふて止まず、革命目的のためにすることの如何に於ては、小生一個の見地によりて進退すべきは固より乍ら、君との友情に阻隔を来せし点は小生一人に十二分の責任あることを想ひて止まず候。
 仮令五分五分の理屈ありとするも、君は超脱の仙骨、生は辛酸苦楽の巷に世故を経たる老怪者に候へば、君を怒りし如きは以ての外の不行届と恥入りて日を送り候。何も世の常の人の交りの如く、利害感情によりて今後如何にせんと云ふ如き理由あるには無之、只この心持を直接君に向って申述べ度、一書如斯次第に御座候。此心あらば今後幾月の後、大川に対する北の真情の事実に示さるる機なきにもあるまじく、それなしとするも両者の心交は両者の間に於てのみ感得致度ものに御座候。
 獄窓の夢に君を見る時、君また小生を憂惧せらるる御心持をよくよく了知仕候。相見る幾年幾月の後なるも可、途中ヤアヤアと悦び会するも可、あの魔王もおれを忘れることは出来ぬと御一笑被下度候』

 第二の手紙は、私が五・一五事件に連座して市ケ谷に収容されて居た時、獄中の私に宛てたもので日附は昭和八年十月七日である。━━ 

大川君 吾兄に書簡するのは幾年振か。兄が市ケ谷に往きしより、特にこの半年ほどは、日に幾度となく君のことばかり考へられる。何度かせめて手紙でも差上げようかと考へては思返して来た。此頃の秋には、小生自身も身に覚えのある獄窓の独坐瞑想、時々は暗然として独り君を想つて居る。この胸に満つる涙は、神仏の憐れみ給ふものであらう。

 断じて忘れない、君が上海に迎へに来たこと、肥前の唐津で二夜同じ夢を見られたことなど、かかる場合にこそ絶対の安心が大切ですぞ。小生殺されずに世に一分役立ち申すならば、その寸功に賞でて吾兄を迎へに往くこと、吾兄の上海に於ける如くなるべき日あるを信じて居る。禍福は総て長年月の後に回顧すれば却て顛倒するものである。
 今の百千の苦労は小生深く了承して居る。而も小生の此の念願は神仏の意に叶ふべしと信ずる。法廷にて他の被告が如何に君を是非善悪するとも、眼中に置くなし。是と非とは簡単明瞭にて足る。万言尽きず、只此心と兄の心との感応道交を知りて、兄のために日夜の祈りを精進するばかりです。 
                   経前にて。

 以上二通の手紙を読む人は、白の夏服並に大魔王観音の五字を、形見として私に遺した気持を納得出来るであらう。

 第二の手紙で私を迎へに往くといふのは、第一審で私に対する求刑は懲役十五年であったつたから北君は私が容易に娑婆に出されぬものと思ひ、其迄に屹度革新を断行する。其時に自分が監獄に私を迎へに来るといふのである。而も『小生殺されずに』の一句は、身を殺して仁を成さんとする志士仁人としての北君の平素の覚悟を淡々と示し、また『寸功に賞でて云々』は、革新運動への貢献に対する一切の報賞を私の釈放と棒引にしようといふのであるから、私がその友情に感激するのは当然であるが、それにも勝りて私は北君の無私の心事に心打たれる。 

 一死を覚悟の前で、己れのためには如何なる報賞をも求めぬ北君を、恰も権力にあこがれる革命業者の範疇に入る人間のやうに論じている人もあるが、左様な人はこの手紙を読んで北君の霊前にその埒もない邪推を詑びるがよい。常に塵や泥にまみれて居りながら、その本質は微塵も汚されることのない北君の水晶のやうな魂を看得しなければ、表面的に現れた北君の言行を如何に丹念に分析し、解剖し、整理して見たところで、決して北君の真面目を把握することが出来ないであらう。

〔二・二六事件の首謀者の一人として刑死〕

 北君は、二・二六事件の首謀者の一人として死刑に処せられ、極めて特異なる五十五年の生涯を終へた。私は長く北君と往来を絶つて居たから、この事件と北君との間に如何なる具体的関係があつたかをしらない。北君が西田税君を通じて多くの青年将校と相識り、彼等の魂に革命精神を鼓吹したこと、そして彼等の間に多くの北信者があり、日本改造法案が広く読まれて居たことは事実であるから、フランス革命に於けるルソーと同様、二・二六事件の思想的背景に北君が居たことは拒むべくもない。併し私は北君がこの事件の直接主動者であるとは金輪際考へない。

 二・二六事件は近衛歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊、野戦重砲兵第七聯隊に属する将兵千四百数十名が干戈を執つて蹶起した一大革命運動であったにもかかはらず、結局僅かに三人の老人を殺し、岡田内閣を広田内閣に変ただけに終ったことは、文字通りに竜頭蛇尾であり、その規模の大なりしに比べて、その成果の余りに小なりしに驚かざるを得ない。

 而も此の事件は日本の本質的革新に何の貢献もしなかつたのみでなく、無策であるだけに純真なる多くの軍人を失ひ、革新的気象を帯びた軍人が遠退けられて、中央は機会主義、便宜主義の秀才型軍入に占められ、軍部の堕落を促進することになった。

 若し北君が当初から此の事件に関与し、その計画並びに実行に参画して居たならば、その天才的頭脳と支那革命の体験とを存分に働かせて、周匝緻密な行動順序を樹て、明確なる具体的目標に向って運動を指導したに相違ない。恐らく北君は青年将校蹶起の覚悟既に決し、大勢最早如何ともすべからざる時に至つて初めて此の計画を知り、心ひそかに『しまった!』と叫んだことであらう。

 支那革命外史を読む者は、北君が革命の混乱時代に必ず来るべき外国熱力の如何に恐るべきものなるかを力説したるを看過せぬ筈である。北君は日本の国際的地位を顧みて、中国並びに米国との国交調整を国内改造の先決条件と考へて居た。昭和十年北君は中国行を計画して居たと聞くが、その志すところは茲に在つたと断言して憚らない。果して然らば二・二六事件は断じて北君の主唱によるものでないのみならず、北君の意に反して尚早に勃発せるものである。

 二月二十七日北君は直接青年将校に電話して『一切を真崎に任せよ』と告げたのは、時局の拡大を防ぎ、真崎によつて犠牲者をできるだけ少くしようとしたもので、真崎内閣によつて日本改造法案の実現を図ろうとしたのではない。現に北君は法廷に於て『真崎や柳川によつて自分の改造案の原則が掌現されるであらうとは夢想だもして居らぬ』と述べて居る。北君を事件の首謀者といふ如きは、明かに北君を殺すかめの口実にすぎない。而も北君は冤抂に甘んじて従容として死に就いた。私は豊多摩刑務所で北君の処刑を聞いたのである。

 今日の日本にも一芸一能の士が沢山居る。多芸多能の人も稀にはある。其等の人々は、之を適所に配して仕事をさせれば、それぞれ適材を発揮して数々の業績を挙げる。そして其の業績が其等の人々の値打ちをきめるのであるから履歴書にテニオハをつけるだけで、ほぼ満足すべき伝記が書ける。

 然るに世の中には、其の人のやつた仕事を丹念に書き列ねるだけでは決して満足すべき伝記とならぬ人々が居る。例へば大ピットの演説を聴いた人は、その雄弁に驚嘆しながら、いつも彼の人間そのものの方が、彼の言論の総てよりも、→層立派だと感じさせられたということである。これは大西郷や頭山翁の場合も同然で、やった仕事を洩れなく加算して見ても、決して其の真面目を彷彿させろことが出来ない。これも人間の方が常に其の仕事よりも立派だからである。

 かやうな人物は、其の魂の中に何ものがを宿して居て、それが其人の現実の行動を超越した或る期待を、吾々の心に起こさせる。言葉を換へて言へば、其の人の力の大部分が潜在的で、実際の言動の現れたものは、唯だ貯蔵された力の一部にすぎないと感じさせるのである。
 
 それ故に吾々は、若し因縁熟するならば、何等か偉大なる仕事が、屹度其人によって成し遂げられるであらうといふ希望と期待とを抱くのである。私は多種多様の人々と接触して、無限の生命に連って生きて居る人と然らざる人との間に、截然たる区別があることを知った。北君は法華教を通じて常に無限の生命に連って居た。それだからこそ人々は北君の精神のうちに、測り難い力の潜在を感じ、偉大なる期待をその潜める力にかけたのである。
 最も切実に北君の如き人物を必要とする現在の日本に於て、私は残念ながら北君に代るべき人物を見出さない。『洛陽知己皆為鬼』まことに寂寥無限である。

  昭和三十三年八月十九日午後二時より、目黒不動尊滝泉寺に於て、
  北一輝氏の建碑式が挙行された。
  碑文は大川周明博士の撰である。
 
     北一輝墓碑銘

 歴史は北一輝君を革命家として伝へるであらう。然し革命とは順逆不二の法門その理論は不立文字なりとせる北君は決して世の革命家ではない。君の後半生二十宥余年は法華経誦持の宗教生活であった。
 すでに幼少より煥発せる豊麗多彩なる諸の才能を深く内に封じ唯だ大音声の読経によって一心不乱に慈悲折伏の本願成就を念じ専ら其門を叩く一個半個の説得に心を籠めた北君は尋常人間界の縄墨を超越して仏魔一如の世界を融通無礙に往来して居たのでその文章も説話も総て精神全体の渾然たる表現であった。
 それ故に之を聴く者は魂の全体を挙げて共鳴した。かくして北君は生前も死後も一貫して正に不朽であらう。
   昭和三十三年八月 
                  大 川 周 明 撰  




大川周明『北一輝君を億ふ』

2020-04-01 13:44:43 | 大川周明

大川周明『北一輝君を億ふ』 


 本稿は、廿八年の頃、故笠木良明、里見良明氏が北一輝氏の『日本改造法大綱』の復刊を計計画した時、乞いによって大町明博士が同書のために執筆されたものであるが、同書はゲラ刷まで出た時、印刷所が不慮の火に遭って遂に刊行されず、本稿も全く末発表のまま故博士の手許に留められ、没後遣品整理の際に発見された。


 北君が刑死したのは昭和十二年八月十九日であるが、その前日、獄中で読誦し続け折本の法華経の表に、最愛の遺子大輝君のために以下の遺言を書留めた。

〔遺書〕
 『大輝よ、此の経典は汝の知る如く父の刑死するまで読誦せるものなり。汝の生まるると符節を合する如く、突然として父は霊魂を見、神仏を見、此の法華経を誦持するに至れるなり。即ち汝の生れたる時より父の臨終まで読誦せられたる至宝至尊の経典なり。父は只此の法華経のみを汝に残す。父の思ひ出ださるる時、父恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、此の経典を前にして、南無妙法蓮華経と念ぜよ。然らば神霊の父、直ちに諸神諸仏に祈願して汝の求むる所を満足をしむべし。
 経典を読誦し解説し得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、読持三昳を以て生店の根本義とせよ。即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、而して諸神緒仏の加護の下に在るを得べし。父は汝に何物をも残さず。而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり』

〔北一輝と法華経〕
 北君と法華経とは、生れながらに法縁があったといえる。それに北君が呱々の声をあげたのは、日蓮上人流謫の聖地と言はれる塚原山根本寺の所在地、佐渡の新穂村の母の生家であり、其家には日蓮上人方は日蓮上人が誦持したといふ法華経が、大切に伝へられて居たからである。大輝君が生れたのは大正三年であるが、北君は、大正五年に此の由緒ある法第経を譲り受けて郷里から取り寄せ、爾来死に至るまでの二十余年間を読誦三昧に終始した。大輝君への遺言は、此の秘蔵の法華経の裏に書かれたものである。

〔二つの形見の品〕
 北君は私にも二つの形見の品を遺してくれた。その一つは白の詰襟の夏服で、上海で私との初対面の思ひ出をこめた物である。大正八年の夏のこと、吾々は満川亀太郎君の首唱によりて猶存社を組織し、平賀磯次郎、山田丑太郎、何盛三の諸君を熱心な同志とし、牛込南町に本部を構へて維新運動に心を砕くていた。そして満川君の発議により、当時上海に居た北君を東京に迎て猶存社の同人にしたいと言ふことになり、然らば誰が上海に往くかという段になって、私が其選に当った。

 この事が決ったのは大正八年八月八日であった。八の字が三つ重なるとは甚だ縁起が良いと、満川君は大いに欣び、この芽出度い日付で私を文学士大川周明兄として北に紹介する一書を認めた。そして何盛三君がの愛蔵の書籍を売って、私の旅費として金百円を調達してくれた。かやうにして事が決ったのは八日であったが、事を極めて秘密に附する必要があり、その上旅費も貧弱であったので適当な便船を探すのに骨が折れ、愈々肥前唐津で乗船することになったのは八月十六日であった。

 其船は天光丸という是亦な縁起の良い貨物船で、北海道から鉄道枕木を積載して漢口に向ふ途中、石炭補給のため唐津に寄港するのであった。私は十四日夕刻に唐津に着き、其の時直ちに乗船する筈であったが、稀有の暴風雨のために天光丸の入巻が遅れ物妻い二晩を唐津の宿屋で過ごし、十六日漸く入港して石炭を積み終へた船にのり、まだ風波の収まらぬ海上を西に向って進んだが、揚子江口に近いところで機関に故障が生じ航行が難儀になった。
 本来ならば天光丸は漢口に直行するので、私は揚子江口の呉淞に上陸し、呉淞からは陸路、排日の火の手焔々燃えさかる上海に行くのであったが、機関の故障を修繕するため予定を変更して上海に寄港することになったので、私は大いに助かった。


 そして上陸に際して面倒が起った場合は、船長が私を鉄道枕木の荷主だと証言してくれる手筈であった。私の容貌風采は日本ではとても材木屋の主人としては通すまいが、上海では押通せるだらうと思った。さなきだに船足の遅い天光丸が機関に故障を生じたのだから、殆ど匍うやうにして遡江し、実に二十二日夜に漸く上海に到着した。
 訊問の際に若干でも商人らしく見せようと思って、船中で口髭を落したが、案ずるよりは産むがく、翌二十三日早朝私は何の苦もなく上陸して、一路直ちに有恒路の長田医院に北君を訪ねた。

 北君は長く仮寓していた長田医院を去って、数月以前から仏租界に居を構へて居るとのことだったので直ちに使者をやって北君に医院に来て貰った。そして初対面の挨拶をすまして連立って太場館という旅館にき、その一室で終日語り続け、夜は床を並べて徹宵語り明かし、翌日また仏租界の巷にあった北君の陋居で語り、翌二十五日直ちに長崎に向ふ汽船で上海を去った。
 この二日は私にとりて決して忘れ難い二日であると共に、北君にとりても同様であったことは、後に掲げる北君の手紙を読んで判るし、又、白の詰襟の夏服を形見に遺してくれたことがなによりも雄弁に立証する。 

〔『日本改造法案大綱』〕
 装丁を新にして刊行される『日本改造法案大綱』は、実に私が上海に行く約一ヶ月前から、北君が『国家改造法案原理大綱』の名の下に、言語に絶する著苦悶の間に筆を進めて、私が上海に住ったのは、その巻一より巻七まで脱稿し、巻八、『国家の権利』の執筆に取りかかり、開職の積極的権利を述べて、『註二。印度独立問題ハ来るベキ第二界大戦ノ「サラエヴ」ナリト覚悟スペン。而シテ日本ノ世界的天職ハ当然ニ実力援助トナリテ現ルべシ』と書いて筆を休めた丁度其時であった。

 私は北君がかかる日本改造の具体案の執筆に心魂を打込んで居るとは知らなかったので、日本の国内情勢を述べて乱兆既に歴然であるから、直様日本に帰るやう切願した。北君に乱兆は歴然でも革命の機運は未だ塾しては居らない。 

 但し自分も日本改造の必要を切実に感じて、約一カ前から改造案の大綱を起稿した。参考書は一冊もない。静かな書斎もない。自分は中国の同志と共に第三次次革命を企てたが事は志と違った。日本を憎んで叫び狂ふ群衆の大怒涛の中で、同志の遺児を抱えて地獄の火焔に身を焦がれる思いで筆を進めるのだが、食事は喉を通らず、唯毎日十杯の水を飲んで過ごしてきた。

 時には割れるやうな頭痛に襲われ、岩田富美夫君に鉄腕の痺れるほど叩いて貰ひながら、一ニ行書いては横臥し、六行書いては仰臥して、気息奄々の間に最後の巻八を書き初めた時に、思ひがけなく、君の来訪を受けたのだ。自分は之を天意と信ずるから、欣然君等の招きに応ずる。原稿の稿了も遠くない。脱稿次第直ちに後送するから出来るだけの分を日本に持ちって国柱諸君に頒布して貰ひたい。取敢ず取ず岩田富美夫君を先発として帰国させ、自分も年末までにはを屹度帰国すると言った。

 私は之を聞いて抑へ切れぬ歓喜を覚えた。そして吾々は文字通り肝胆を披歴して忘れ難き八月二十三日の夜を徹した。指折り数うれば茫々三十五年の昔となったが、瞑目願望すれば当夜の情景が鮮明に脳裏に再現する。二人は太陽館の三階の一室に床を並べて横になって居た。猿又一つの北君が仰向けに寝ながら話して居る内に、次第に興奮して身を起こし、坐り直って語り出す。私もまた起き直って耳を傾ける。幾たび寝たり起きたりしたことか。実に語りても語りても話はつきなかった。

 私は一刻も早く、東京の同志に吉報を伝へるため、二十五日朝の船で直ちに帰国の途に就いた。そして北君は私が去ってから三日間で残存の原稿を書き上げ、約束通り岩田富美夫君に下の書翰を添えて東京に持参させた。
            
〔岩田富美夫君 持参の書翰〕
拝啓 今回は大川君海を渡りて御来談下されし事、国家の大事とは申せ、誠に謝する辞もありませぬ。残りの「国家の権利」と云ふ名の下に、日木の方針を原理的に説明したものを送ります。米国上院の批准拒否から、世界大戦の真の結論を求めらるる事など、実に内治と共に外交革命の時機も一時に到来して居ります。
 凡て二十三日の夜半に物語りました天機を捉へて、根本的改造をなすことが、先決問題であり、根本問題であります。大同団結の方針で、国際戦争と同じく一人でも敵に駆り込まざる大量を以って御活動下さい。小生も早く元気を回復して馳せ参ずる決意をして居ります。

八月二十七日 
  大川
  満川 盟 兄 侍 史 


〔『国家改造法案原理大綱』の印刷〕

 この『国家改造法案原理大綱』が満川君を初め吾々の同志を歓喜勇躍させたことは言ふ迄もない。それは独り吾々だけでなく、当時の改造運動にたづさはる人々の総てが切望して止まざりしものは、単なる改造の抽象論に非ず、実にその具体案であったからである。北君の法案は暗中に模索していた人々に初めて明白なる目標を与へたものであった。
 吾々は直ちに之を謄写版に附することにした。岩田君が刷役に当ったが、彼にステロを握らせると豪力無双の当世近藤勇のことであるから、二三枚刷ると原紙が破れて閉口したが、とにかく第一戸分として四十部を刷り上げた。四十七は言ふ迄もなく赤穂義士の人数である。

〔反響〕
 そして主として満川君が人選の任に当り、同君が当代の義士と見込んだ人々に送って其の反響を待った。その最も著しい反響は翌大正九年一月体会明け議会の劈頭に、貴族院議員江木干之が秘密会を要求し、此の書の取搬方に就て府に質間したことであった。そのために改造法案は正式に発売頒布を禁止され満川君は秘密出版の廉で内務大臣から告訴されたが、幸ひに不起訴となった。

 さて北君は約束に従って大正八年暮上海を去って日本に帰り、長崎で大正九年の元旦を迎へ、五日、東京に帰って駒込南町の猶存社に落つくことになった。北君帰国の報は当局を驚かした。それは北君が八十名の部下を動員し、まず東京市内に放火し、次いで全国を動乱に陥人れ陰謀を抱いて帰るといふ途方もないデマが飛ばされたからである。

 上海から尾行の警官が、丹念に長崎警察部に引継ぎを行ひ、尾行は東京まで続けられた。彼等が最も注目したのは、北君が「極秘」と銘打って携行せる信玄袋で、過激文書を詰め込んだものときめ込み、着京と同時に北君諸共押収する予定であったらしい。然るに君が何となく危険を予感して、静岡辺で着て居た中国服を洋服に着換へ、別の車に座席を変へたので、尾行に気付かれずに東京駅で下車することができた。

 そして夜に満川君の家に一泊し翌朝猶存社に移ったのである。

〔『極秘』の信玄袋〕
 さて問題の『極秘』」信玄袋である。北君の言行は、天馬空を往くのであるから、下界の取沙汰は途方もない見当違ひのことが多かったが、この信玄袋程馬鹿々々しい誤解を受けた事も珍しい。北君が此の信玄袋の中に大切に蔵って来たのは、決して極秘の危険文書ではなく、実に三部の妙法蓮華経で、その内特に見事に装丁された一部は、今上陛下即ち当時の摂政官殿下に奉献するため、その他は満川君と私にそれぞれ一部ずつ贈るためのものであった。そして摂政宮殿下には、小笠原長生さんを通じて献上することが出来た。



〔革命の道は法華経の無上道である〕

 大輝君への遺書にある通り、大正三年以来北君は法華経誦持三昧に入り、大正五年五月に配布した『支那革命党及革命之支那』は下の一句を以て結んでいる。ー「宇宙の大道、妙法蓮華経に非ずんば、支那は永遠の暗黒なり、印度終に独立せず、日本亦滅亡せん。国家の正邪を賞罰するは妙法蓮華経八巻なり。法衣剣に杖いて末法の世誰か釈尊を証明する者ぞ』

 北君の革命の道は法華経の無上道である。従って真実の革命家は法第経の行者である。それ故に北君に朝夕法華経を読誦するのみならず、独り居る時には殆ど読経三昧に終始した。本来大音声であったが、それとも多年の鍛錬の結果であったかは確かでないが、躰駆の華奢なるに似合はず読誦の声は声は轟き渡る程大きかった。

 北君の帰京当時、私は新宿駅に近い千駄ヶ谷の家に、フランスの哲人リシャル氏夫婦と同居して居たが、大正九年秋、リシャル氏夫婦は滞留四年の後に印度に向かって日本を去り、私は北鎌倉にある北条泰時の寺常楽寺に引越すことになったので、北君が牛込南町から此家に移って裕存社の本拠とした。
 此家は屋敷が千坪に近い広大な邸宅で門から玄関まで相当距離があったが、北君の読経の声は門外まで響いて聞えたので、未た門を入らずして其の在否を知ることが出来た。


〔革命とは順逆不二の法門なり〕

 北君は『革命とは順逆不二の法門なり。その理論は不立文字なり』と言って居る通り、如何なる主義にも拘泥しなかった。口を開けば直ちに咳唾直ちに珠玉となる弁舌を有ち乍ら、未だ曽て演壇に立たず、筆を執れば百花立ちどころに繚乱たる詞藻を有ち乍ら、全くジャーナリズムの圏外に立ち、専ら猶存社の一室に籠りて読誦三昧を事とし、その諷誦の間に天来の声を聞き、質す者には答へ、問う者には教へて、只管一個半個の説得を事とした。此点にて北君は世の常の改造運動者乃至革命家とは截然として別個の面を有して居た。


〔生い立ち〕
 北君は明治十六年四月十日、新潟県佐渡郡港町の裕福な洒屋の長男として生れ幼少の頃から聡明抜群であった。当時小学校は尋常四ケ年、高等四ケ年であったが、北君は六歳で小学校に入り、尋常小学半ばに眼病のため一年半も休学したにも拘わらず、一学級飛ばせられて高等小学に入り、四ケ年間優等生で卒業した。 

 そしてこの四ケ年の間、通学の例ら漢学塾に通って勉強し、中学に入った頃は立派に漢文で文章が書けるやうになり、その一部は今なお県教育会の参考品として保存されて居るとのことである。其上に高等小学校時代から絵が非常に上手で港町の人々は勿論、数里離れた村々から酒を買いに来る人々まで、一枚五銭で北君の絵を買ひ求め、枕屏や襖に張ったといふことである。
 当時は焼餅一個一匣の時代だから五銭は決して少い金ではない。

 中学に人ってからも成績優秀で、一学年の終りに三学年に飛はきれたが、幼年時代の眼病が再発し、新潟と東京で二年近く病院生活を送り全快はしなかったが一応帰郷して復校した。この入院中に北君は片眠で必死に読書を続け、その思想は急激に成塾した。そのために中学校の学課に対する興味を失ひ、五学年への進級に落第したのを機会に退学した。

 従って中学校学在学期間は正第二年に足らない。そして中学校を退学した年の暮、佐渡新聞に日本国体に関する論文を連載し、十八歳の年が、一朝にして佐渡の思第界を風靡し、佐渡新聞の社長・主筆を初め、佐渡の有識者の多くが、挙って北の所論に共鳴した。併しこの論文は新潟県警察の指金によって連載を中止させられ、北君は多くの歌を詠んで其の鬱憤を漏らした。

 その頃北君は、思想界に飛躍し続けたのみならず、その昂潮せる感情を盛んに詩歌に盛っていた。北君の最も愛好したのは与謝野鉄幹・同晶子夫婦の詩で明星にも数多くの詩歌を投稿した。そして明星に載った北君の『晶子評論』に対しては、鉄幹が感謝と書簡を送ってきた。中学中途退学の十八歳の青年が、思想的に内村鑑三の弟子なりし佐渡新聞社長を傾倒させ、文学的には与謝野鉄幹に推重されたことは、北君の天稟が如何に豊かであるかを語るものである。


〔『国体論及純正社会主義』の刊行〕

 然も北君の名を一挙天下に高からしめたものは『国体論及純正社会主義』の刊行である。この著書は既に佐渡新聞び連載し、不穏思想の故をもって掲載中止を命ぜられた研究論文の完成で、二十三歳の時に筆を執り、半年ならずして脱稿し、二十四歳の春、精確に言へば明治三十九年五月九日の日附で発刊された菊版約千頁の大冊である。

 明治三十八年、北君は上京してく早稲田大学の聴講生となったが、多くの講義に満足せず、谷中清水町に下宿して上野図書館に通ひ詰め、数ヶ月にして二千枚以上の抜粋を作ったほど、精根籠めて勉強した。そして準備なるや、直ちに紙を展べ、疾風迅雷の勢を以って筆を進め、半年ならずして完成し去った。 その驚くべき読書力並びに批判力と共に、まさに絶倫と言ふ外はない。而も北君は恐らく過労りために呼吸器を痛めて吐血病臥するに至ったが、幸ひに幾はくもなくして健康を回復した。これも其の強大なる精神力によるものであらう。

 此の書に対して福田徳三・田嶋錦治・田川大吉郎を始め、多くの知人が賞賛の手紙を北君に送った。福田博士の如きは、日本語は勿論のこと、西洋語に於いての著作中、近来斯くのき快著に接したることなしとし、『一言を以って蔽へとならば、天才の著作と評する尤も妥当なるを覚え申候』と書いて居る。矢野竜渓は、二十四歳で斯やうな著作の出来る筈はない、北輝次郎といふのは幸徳秋水あたりの偽名ではないかと熊々佐渡の原籍地地に照会の手紙を出し、北君が真なる著者であることを知ってから、終生北君に敬意を表し続けた。当時読売新聞に社会主義論を連載して頓に名声を揚げて居た河上肇は、此書を読んで喜びの余り直ちに北君を訪問した。

〔社会主義運動への参加勧誘〕

 当時の社会主義者達は、北君が日露戦争を肯定せるの故をもって、此書に対して意見を公表することを避けたが、幸徳秋水・堺枯川・片山潜などが、屢々牛込喜久井町の寓居に北君を訪ひて、社会主義運動に参加させやうとした。而も一世を驚倒したこの書は発売以後僅に旬日にして朝憲紊乱の廉で発売頒布を禁止された。

 そしてそれが自費出版であったたけ、北君は物心両面に於て大打撃を受けたが、やがてこの書の法規に触れぬ部分だけを分冊して自費出版することとし『純正社会王義の経済学』及び『純正社会主義の哲学』を刊行した。此の時北君は喜久井町から矢来町に居を移して居たが、自分の思想は孔孟の唱へた王道であるとして、その寓居に『孔孟社』という看板を掲げた。

〔出版所を孔孟社と標榜したこと〕
 北君が『純正社会主義』の書籍の出版所を孔孟社と標榜したことは、北君を知る上に於て決して看過してならぬ重要な事実である。北君の社会主義はマルクスの社会主義でなく、二十歳前後に於ては、孔盂の『王道』の近代的表現であり、後に法華経に帰依するようになってからは、釈尊の『無上道』の近代的表現であるに外ならない。さればこそ、北君は、一切の熱心なる誘致を斥け、君の謂はゆる『直訳社会主義者』と行動を共にせず、中国革命の援助を目的として、菅野長知・清藤幸七郎・宮崎寅蔵・和田三郎・池享吉等が相結んで居た『革命論社』の同人となった。

〔袁孫妥協は成立、第二革命の挫折〕
 そしてこれが機縁となって当時つぎつぎに日本に亡命し来れる孫文・黄興・張継・宋教仁・章炳麟・張群などと相識り、明治四十二年その二十九歳の時、武漢に革命の烽火上がるや、宋教仁の召電に応じて直ちに上海に赴いた。この革命は清朝を倒すことには成功したけれど、結局袁世凱をして名を成さしめるに終わった。

 北君は袁孫妥協による革命の不徹底を憤り、宋教仁と謀りて討袁軍の組織に着手したが、日本政府の方針によって袁孫妥協は成立し、宋教仁は暗殺されて所謂第二革命は中途で挫折した。そして北君は、帝国総領事から三年間支那在留禁止の処分を受け、大正二年、その三十二歳の時に帰国した。




大川周明 「日本の国際的地位を省みる」 アメリカの東洋政策と利害が背反する日本

2020-03-15 21:49:40 | 大川周明

大川周明 
     「日本の国際的地位を省みる」

  私の話は今晩のやうな御集まりに適当か不適か、自分にも判断しかねますが、昨今私が日本の国際的地位に関して深刻な反省を促されておりますので、今晩は之について卑見を申し上げようと思ひます。

 国際的日本にとって今日最も重大な問題は、謂ふまでもなくロンドン会議であります。

此の会議は我々が今日国際的に如何なる立場にあるかということを深刻に考えさせるものであって、この会議の本質を明らかにしますと、我国の世界に於ける立場を明瞭に摑むみ取ることができると思ふのであります。

 それ故に私は、ロンドン会議の本質、その由来を顧みながら、私の考えを申し上げようと思ひます。  


〔ロンドン会議はアメリカが
   自国海軍を拡張する目的で招集した〕

 ロンドン会議は普通に海軍縮小会議と言われておりますが、此の会議は決して軍備縮小を目的とするものではなく、アメリカが自国の海軍を拡張する目的をもって招集したものであることを皆様の御承知のとおりであります。単に表面から見ましても、会議の中心問題は8吋砲一万噸級巡洋艦の各国の比率であります。
 この会議の大眼目であるところの大巡洋艦をアメリカは幾隻持って居るかといえば、本年出来上がったのは、たった一隻であります。其の巡洋艦を1936年後には15隻にしよう、その後、更に3隻加えて、18隻にしようというのでありますから、是は明瞭に大拡張であります。

 一体アメリカがロンドン会議招集の腹を決めたのは昨年の1月であります。しかるに会議招集の決心を決めますと、俄かに8吋砲巡洋艦15隻建造の計画を立てまして、其の実現に着手したのであります。そうしてその中の1隻が今年出来上がったと云ふ事情であります。
 軍艦と云うものは、装飾品ではないことは云ふ迄もない。一朝ことある場合には敵国の艦隊を打ち破る為のものであります。云ふ迄もなく仮想敵国よりも強大なる艦隊を持つことを目的とするのですが、此の目的を遂げる手段は2つあります。

 其の一つは積極的に仮想敵国の艦隊よりも大なる艦隊を建造することであります。他の一つは消極的に、何らかの方向によって他国の艦隊を自国の艦隊よりも劣勢ならしめることであります。消極、積極の差異はありますが、自国の海軍を拡張する上に於いて、言い換えれば、他国よりも優秀な艦隊を持つという目的を遂げる上において、聊か(いささか)の相違もない。
 今アメリカは、積極消極両様の手段を以て、自国の海軍を大西洋においてはイギリスよりも、太平洋においては日本よりも強大ならしめるとして居るのであります。此の事は我々が第一に考えておかねばなることであります。 


〔アメリカは世界の覇権を握る〕
 第一にしからばアメリカは何の動機から海軍拡張を企てたかと云ふことであります。此の動機には明白に2つあります。その一つは大西洋においてイギリスよりも優秀な艦隊を持とうと云ふ動機であります。曾てイギリスに向かって大西洋の覇権、従って世界の覇権を争ったものにドイツがあつた。
 この英独の世界争覇がついに世界戦を招来し、結局ドイツの惨敗に終わったことは皆さまの御承知の通り、しかるに今日のアメリカは、当時のドイツよりもはるかに強大な実力を以て、しかもドイツよりも遙かに巧妙な方法も以て、イギリスに此の戦いを新たに挑み始めたのであります。さうして此の戦に於いてアメリカは既に勝利の一歩を踏み出しております。

 御存じの如くロンドン会議はジュネーブ会議の延長でありますが、このジュネーブ会議に於てイギリスは、自国の大巡洋艦50隻に対してアメリカに18隻許すと云ふことを申し出たにも拘わらず、アメリカはこれで慊らずに20隻を要求して物別れになったのであります。
 さうして今度のロンドン会議で相談をやり直すということになって居るのであります。イギリスは過去300年間世界最大の海軍を持っていると云ふことを、神聖な国の誇りとして居った。そのイギリスは今やむざむざとアメリカに誇るべき地位を譲るということが、是は非常に重大な世界史的事実であります。世界史の新しい頁が、ジュネーブ会議並びにロンドン会議の後に始まるものであると云ふことを我々が明らかに知っておかねばならぬのであります。


 大西洋の争覇ということは、極めて重大なことでありますが、しかしながら其の我々に対する利害関係は間接であります。然るにアメリカの第二の動機に至っては、実に我々は最も直接な、従ってわが日本の興廃存亡に関する程深刻にして重大なる意義を持っております。
 その第二の動機というのは云ふまでもなく太平洋を於いて覇権をにぎろう、したがって此の覇権を握る上に於いて最大の邪魔者であると所の我が日本の海軍を無力ならしめようという企みであります。此のアメリカの動機を明らかにするためには我々は過去4半世紀に遡ってアメリカの東洋政策の跡を辿らねばならぬ。

 此の跡を辿ることによってのみロンドン会議の国際的意味がはっきりすると思ふのであります。あの会議のみを取り離して見たのでは、此の会議の重大性は決して分からない。アメリカの25年來の東洋政策の最近の現れとしてあの会議が今開かれつつあるのであります。

 アメリカが東洋に対して、また太平洋に対して手を伸ばそうと云ふ腹を決め、それが具体的に表れたのは1899年に米国務卿ジョン・ヘーが支那に対して門戸開放、機会均等主義を唱へて、列国に同意を求めた時から取り組みが始まったと言ひ得るのでありますが、しかもこの趣意に則って実際に太平洋進出を試みたのは日露戦争以来のことであります。


 1905年年6月某日、新興アメリカ精神の権化でありましたところのルーズベルトが、ベンジャミン・アイド・ホヰーラーと云ふ友人に手紙をたつて居りますがその中に 『アメリカの将来はヨーロッパに対する体制を武器によってではなく、支那に対する太平洋における地位によって定まる』 と云ふことを書き送っております。
 それは、ルーズベルトの考え通りでありまして、第19世紀においては、大西洋が世界政策の中心舞台でありましたが、第20世紀になりましてはこの表舞台が太平洋に移ったのであります。

 さうして今日は世界の政局が、実に太平洋を中心に最も活発に、又深刻に動きつつあるのであります。
従って太平洋の覇権を握るということは、取りも直さず世界の覇権を握るということになります。従ってアメリカの太平洋に於いて大なる艦隊を持とうと云ふことが、世界の覇権を握らうと云ふことに外ならないのであります。

      二

〔アメリカの東洋政策がわが国の利害と相衝突する〕
 然らば更に進んで、太平洋を斯くの如く重要さに置いたものは何であるか。太平洋を今日の如く重大ならしめたものは、取りも直さず太平洋に沿って支那間満蒙という尨大な国土があるからであります。先程、綾川さんが懇々と説かれたやうに、今や、ヨーロッパは其の大なる工場を養うべき原料を求めなければならぬ。またその大なる工場が進出したところの商品を売る市場を求めなければならぬ。

 然るに太平洋に沿うて国を為している支那に於いては、いまだ開発せられる。無尽蔵の富源がある。此の資源を開発することに依って此の開発の権利を得た国は、茲暫くの間は豊かに其の工場を養ふことができる。又支那は貧乏な国であっても、4億5千万という膨大な人口擁して居る。各国の工場が其の商品を持ち込むのに是程都合の良いところは今日は残っていないのであります。

 今日、我々日本人は一体外国の品物をどれだけ買って居るかと申しますと、最近5カ年の平均をとってみると、一人当たり約38円ばかりであるのに、支那人は今日僅かに3円70銭しか買っていない。しかし、支那の動乱が止み、生活の程度が高まり、経済的にも余裕が出来ますれば、支那は必ず外国の品物をどしどし買うようになることは分かり切って居ります。
 仮に今日の三倍弱、即ち一人当たり10円宛買ふとしましても45億と云ふ莫大な金が、忽ちにして品物を見込むところの外国商人の懐中に入り込むのであります。同時に原料の生産地であり、かつ、かつ世界最大の市場であるところのこの一帯の土地が垂涎の的となるのは云うまでもないことであります。

 従って太平洋の覇権を握るということは、取りも直さず東洋の覇権を握り、東洋に優越なる権力を確立するといふことになるのであります。アメリカは実に斯くの如き目的を以って太平洋政策を進めてきたのであります。アメリカの東洋政策がわが国の利害と相衝突することは、是亦云ふ迄もないことであります。


 私が申し上げる迄もなく日本は若し東洋に発展しなければ国家の存在は断じて不可能であります。この小さい国にのみ我々の活動範囲を限って居っては立って行くことは出来ないのは、明白すぎる程明白な事実であります。それ故にこそ東洋における立場を確保する為に大なる犠牲を払って、日清戦争をやり、日露戦争戦って今日迄の地歩を占めたのであります。

 然るに日本が斯くまで大なる犠牲を払って確保した東洋の地歩を、実にアメリカが近世外交史に断じて比類を見ざる程の傍若無人な態度、乱暴な方法を以て、日本から奪い取ろうとするのである。

 先ず最初に日露戦争の講和談判の進行中に、満鉄を吾が日本の手から奪い取ろうとした。この計画は失敗しますと、今度は1907年にイギリスの一会社は満鉄と並行せる鉄道の敷設権を得たのに乗じて無理矢理と其の権利に割込み、所謂法庫門鉄道の敷設を計った。

 之に依って満鉄の効果をふいにしようと企てたのでありますが、その計画も失敗に終わりますと、其の次には 1908年に満州銀行を設立して満州における鉄道の敷設費並びに開発を自分の手でやろうとした。是も失敗に終わりますると、今度は渤海湾頭の錦州から黒龍江岸の愛琿に至る是又満鉄並行線を敷設する権利を支那から窃かに得たる後、突如として国務卿ノックスの名において満鉄を含む満州鉄道の国際管理を唱へたのであります。此の計画も失敗に終わりますと、その当時出来て居りました所謂4国財団なるものを利用しまして、日本の地位を満州から追い払はうとした。

 これは従来は手を換へ品を換へて自分の国独りでやりましたが、総て失敗に終わりましたので、今度は列国と力を併せて日本を満州から追い払うとしたのであります。是もほとん出来やうとしましたが結果意を果たさずに終わった。そうすると自ら主唱して某財団を利用して置きながら、1913年になりますると此の財団は支那の行政権独立を脅のす虞れありと云ふ理由の下に自分だけが脱退して仕舞った。


かやうに日露戦争直後世界戦に至るまで迄のアメリカの東洋政策というものは、無礼無遠慮の限りを尽くしてき来たであります。


〔アメリカ国内に於ける日本人排斥の動き〕 
 斯様な間に世界戦争が始まった。この戦争に乗じて日本が東洋に特殊な地位を築くといふことは、アメリカが非常に欲せざるところでありましたが故に、例の無遠慮な横槍を入れましたが、其中にアメリカ自身も世界戦に参加した。
 この参戦も口では実に色々な立派な標語を掲げて居りますが、世界戦の勝敗の見込みが立ったから、漁夫の利を収める為めにこれに加わったのであります。其以前にルシタニア号がドイツの潜水艦の為に撃沈されました時に、国内の輿論が盛んにドイツを責めたのであります。

 その時に米国政府は何と言ったか。我々の自尊心は戦争をする事は許さぬ。アメリカは戦争といふやうな馬鹿なことをする国民でない高言して、勝敗の見込みがつく迄は高みの見物をし、最早聨合軍側の勝利疑いなきに至って世界戦争に参加したのであります。
 そうしますと、兎角東洋方面において日本と、緊張関係にあることは好ましくないので、石井ランシング協定によって、漸く満蒙における日本の特殊権益を認めざるを得なくなったのでありますが、併し1918年にはシベリア東支鉄道の管理を自分一国でやるという我儘を言い出してきた。是がアメリカの東洋に対する遣り方であったのであります。

 同時に一方においては、1906年に日露戦争中も、是亦乱暴な日本人排斥を本国において行った。1906年にカリフォルニアにおけるアメリカの学校で日本の児童を放逐したのを手始めとし、翌1907年には無礼極まる数10名のアメリカ人が日本の料理屋を襲うて家屋器物に多大の損害を与へる騒ぎになった。
 そうしてその年12月に所謂紳士協約が結ばれまして、爾来日本人は在留者の父母妻子、及び商人学生等以外は、永住の目的をもってアメリカに行くことが出来なくなった。

 然るに米国は、更に在住の権利を得ている日本人を追い払うために色々な手段で排日を行い、1911年には日本人はアメリカにおいて土地の所有が出来ないという法律まで制定して仕舞った。さうして地震直後日本が非常に難局に対している時に、更に過酷な植民法を通過しまして、我が日本人を絶対に排斥したのであります。

      三 

〔日本の東洋に於ける権益を奪い去ったワシントン会議〕
 斯様に東洋に於いては乱暴な要求を次から次へと、手を換え品を換えやって居る。国内に於いては日本人を実に乱暴至極に排斥するのみならず、1916年には例のダニエル海軍卿の時に、戦闘艦10隻、巡洋艦6隻を基幹とする大海運計画を樹て、直ちにその実行に掛かって仕舞った。
 1919年に更に第二次の海軍拡張計画を提出した。是は議会を通過しなかったのでありますが、1916年の計画は着々と進んで居る。

 是が日本にとっては実に非常な脅威であった。日本のみならずイギリスに取っても是は大なる脅威でありましたが故に、日英両国は此のアメリカの海軍に備える為に、自国の海軍を止むを得ず殖やさなければならなくなって来た。
 日本のいわゆる八・八艦隊は実にアメリカに依ってその実現を促された計画であります。英国も同様に海軍の拡張を始めねばならなくなった。所が日本とイギリスがアメリカの海軍に対して、海軍を拡張するとなって来ますと、アメリカにとっては極めて不利な結果となるのであります。此の不利な結果を脱却しよう、自分の大西洋に太平洋、分けても太平洋における地位を有利にしようといふ目的のために開かれたのが1920年、21年のワシントン会議であります。此の会議においてアメリカは、日米両国の戦闘艦の比率を10対6にして仕舞った。 

 同時に彼らが東洋発展の最も大なる障害と考えて居った所の日英同盟もこの会議に於いてなくして仕舞ふ、且つ石井ランシング協定・・・・・・たつた5年前に日本の満蒙に於ける特殊権益を認めた協定を茲に破棄させて仕舞った。
 同時に4国条約を結びまして、西太平洋におけるフィリピンの地位を確保した。9国条約を支那に関して結び、東洋における日本の特殊な地位を、その条約によって見事に無効にして仕舞った。かような次第でワシントン会議は、少なくとも形式に於いては、日本が世界戦争中に於て確立した所の東洋における地位を悉く奪い去ったと同じ結果になってしまった。
 もっと大きくいへば、日露戦争以来日本が築き来つた所の東洋に於ける特殊の地位を奪い去ったといってもいい。従ってアメリカは有頂天になってワシントン会議の成功を祝ったのは当然であります。

 先刻を申し上げる如く、アメリカは20年来無鉄砲な東洋政策をやりながら、未だ寡って成功したことはなかった。然るにワシントン会議に於いて、彼らが欲するところの殆ど総てを得て仕舞った。日本の東洋に於ける特殊の立場を払拭し去ったのであります。さうして日本の戦闘艦はアメリカの10に対する6に制限されたのでありますから、戦はずして日本の戦闘艦4隻は太平洋の藻屑にしてしまったと同じ効果を挙げた。是はアメリカに取って、少なくとも表現から見ますると、20世紀における外交史上の偉大なる成功であります。

 然るに其後になりましてアメリカは、ワシントン会議を成功は其実際の効果は疑わしいものであるといふことに気が付き始めた。何故ならば、日米両国の如き遠距離に隔てて国をなしている間柄に於いては、大型巡洋艦が往々にしてその戦闘艦よりも勝るということに気が付いたからであります。
 従って、この大型巡洋艦をも日本をしてアメリカと太刀打ち出来ぬ程のものに制限しなければ、20年来の目的は一歩も具体的に実現されないのであります。この目的をもって開かれたのがジュネーブ会議で、さうして今ロンドンにおいてその続きをやって居るのであります。
 従ってこの会議に於いて、アメリカ自国が我が国との補助艦の比率を10対6としても、或いは10対7七にしても、舌先三寸で我が国の補助艦の3割を撃沈したと同じ結果になりますから、それが為に彼等が全力を注ぐのは当然であります。

〔アメリカの横暴を止めるため〕 
 只今まで申し上げましたことは極めて明瞭である如く、ロンドン会議は米国が、大西洋においてイギリスよりも優勢な艦隊を持つこと、太平洋上においては日本をして戦って勝つ見込みのないだけの艦隊を持たしめようという企みの下にやって居るのであります。
 日本がアメリカと戦ひ得ざる艦隊を持つということは取りも直さず太平洋に於ける発言権を捨てると云ふこと--即ち、東洋に対する我が国の発展を止めてしまうということであります。

 私は10対7の比率は技術上問題ではないと思ひます。是は経験の問題であります。私は海軍の専門家でありませんから、技術の上から、又は戦術の上から10対7の比率が必要であるかどうかということは分からぬ。私のごとく素人なら考へますれば、今日の世の中に於いては、10対10でなければ戦争ができぬものと考へるのであります。将校の素質、兵隊の能力、天候の関係、其等の色々な付加的条件を取り除いて考えれば、10対10でなければ戦争は出来ぬものと思ふ。

 所が日本の海軍当局は10対7で出来るといふから、それならそれで結構である。
 アメリカが日本に対して要求している7割以下の比率にしてみても、単に技術の上からならば左程の問題でないと思ふ。それは何故かといへば、今ロンドン会議に於いて日本が7割の補助艦の比率を保有しても、戦争が始まると間もなく、如何なる不測の災変によって1隻2隻海の藻屑とならぬものでもない。さうすると7割が6割8分、6割5分に落ちるかもしれませぬ。その時に5割の比率より下がっても見込みのないから降参するだろうかといふと、降参せぬ。

 飽く迄戦ふのであります。それ故に比率問題について我々が飽く迄当初の主張を貫徹せよといふのは、戦術上の立脚点からのみではない。私共が飽く迄も之を守り通さうといふのは、アメリカの横暴なる東洋政策の歩みを、此の辺で止めて置かねばならぬと思ふからであります。

 今までの遣り方のやうに、一歩一歩日本が譲ってきましたならば、アメリカは今後何を主張して我国に不利を招くか分からぬ。アメリカが日本の比率を7割以下に下げようといふのは、7割を持たしては日本の海軍が恐ろしいと考えて見るからに違ひない。若しアメリカが恐れないだけの比率で我国が甘んじて居るならば、アメリカの横暴は過去の歴史は明瞭に証明する如く、今後益々大なるを加えると私は固く信じて居るのであります。
 日本がアメリカの属国となって仕舞ふ気ならそれでも宜しい。併しながら御互ひは如何なることがあてっも此の日本国に依って、先程綾川さんが申されたやうに、世界の如何なる国も実現することのできない大使命を実現しなければならない約束されたる民族であります。其使命を果たす為には、アジア大陸に発展する以外に於いて手段がない。今日の如く支那とアメリカから物を買ったり売ったりして、辛うじて国を樹っている間は、何時までたっても不安です。

    四

〔亜米利加と利害が背反する日本、
   且つ最も大なる領土を有する三国に挟まれた日本〕 

 今日では小さい国が国際的に存立していくことは不可能になってしまった。今日は自給自足のできる大国でなければ世界の表面に立派な独立国として存在することは不可能となったのであります。此の時代に於いて我々がアメリカをして侮らしめる艦隊を持つといふことは従って日本の国を滅亡に導くことであると考へます。これが我々のロンドン会議に対して大なる関心を有ち、世界に向かって声明した所を飽く迄貫徹させようとする理由であります。 

 今日のアメリカは善くとも悪くとも世界第一等国となって仕舞ったのであります。それはイギリスは大西洋に於いて苦もなく譲歩したことに依っても知られる。このアメリカが先程から申し上げたやうな無遠慮な歩みを東洋に向かって歩み続けてきました。而してこの世界第一の国と一番利害の背反するのは実に我が日本であります。 
 加ふるに日本の西に位している露西亜、是はまた我国を以て東洋における資本主義の根城と考へ、之を倒せば東洋を赤化できるといふ考えの下に、平常に我が国家の顚覆を企てて居る。西に於いてはイギリス、東に於いては日本、此の東西に於ける資本主義の根城を倒すことは、世界革命を成就する所以であると考へて、あらゆる機会に戦ひを挑んで居ります。

 更にまた支那はどうです。今日の支那は日本を明瞭に敵国として行動して居ります。其少年青年は、実に非常な程度に於いて、あらゆる学科に於いて、排日思想が鼓吹されて居る。日本から琉球台湾朝鮮を奪ひ返す迄は、汝等は日本と共に天を戴くなといふ思想が、支那教科書に漲っている。
 かやうに東西の、然も太平洋に沿へる最も大なる領土を有する3国に挟まれながら、日本は国を立てていかねばならぬ状態にあります。 

 然も翻って内を顧みますと、実に心配に堪えないやうな状態が充満しております。国家のあらゆる方面に、もはや防止することのできない欠陥が生じてきております。

 斯様な国内状態で、さうして、斯様な険悪な国際的地位に日本が立って居ると致しますれば、之は余程の覚悟を以て行動しなければ、内外に善処することは困難と思ひます。

 若し表面に現れたる事実だけを見ますれば、日本は滅びるのじゃないかという心配に堪へない。唯私として僅かに心を安んぜしむるものは、我が日本民族は、縦令現在の状態に於いて如何様であらうとも、其の本質に於いて優秀な民族であるといふ信念があります。我々は大和民族が総ての点に於いて他のいずれの国民にも劣って居ると思ひませぬ。

 例えば紡績の事業にしましても、我々はこれをイギリスから習ったのであるに拘わらず、今や其造った品物がマンチェスター迄も脅かすほどの技術を習得した。 船を造ることを習ひ始めてから60年足らずの間に、今や造船の技術に於いて我が日本は押しも押されぬ世界一等国となった。其他、学問に於いても決して外国に劣るところがないのであります。

 唯だ今日は指導宜しきを得ざるが故に斯の如き常体に彷徨して居るのであらうと信じます。指導幸ひに宜しきを得たならば、唯一無二の大使命を成就するに足る民族であるといふことを信じ、斯の如き彷徨、斯くの如き混沌から、一日も早く国家を救いたいといふことが、吾々の日夜考へて居るところであります。(拍手)

                 (於大東文化協会)
     ( 『大東文化』 第7巻第5号、昭和5年5月)


大川周明『日本精神研究』 小楠とエマソン

2019-01-22 21:38:07 | 大川周明

大川周明『日本精神研究』 第一 横井小南の思想及び信仰

   三 小楠とエマソン

 横井小楠が松平春嶽のために起草せる『学校問答』と云ふ一篇がある。『政治の根本は、人才を養成し風俗を敦くするにあるを以て、学校を興すことは施政第一着てはなからうか』と云ふ冒頭の質間に対し、小楠の返答はまた意外なものであったーー『「和漢古今を問はず、明君出で給ひては屹度先っ学校を興します。然るに其の実際の成績を見るに、学校で抜群の人材を出した例なく、また是から教化行はれ風俗敦くなったと云ふやうなことは、尚更以てありませぬ。先づ之を支那に見ますれば、聖人君子とも言はれた人で、大学生から出たものは絶えてありませぬ。唐の太宗は、大学を興して生徒八千の夥しきを集められたが、其の八千人の中からたった一人の英傑も出て居らず、徒らに分運興隆と云ふやうな虚名を博したに過ぎませぬ。之を吾国に見ましても、当今の列藩、往くとして学校を設けざるはなきに関わらず、是亦一向人才を出しそうにもありませぬ。』

 なるほど考へて見れば小楠の言葉通りである。殷鑑遠からず実に東京に在る。何と云ふ夥しい学校だ。大学だけでも十指に数え切れぬと云ふまでないか。凡そ世界の都市のうちで、東京ぐらゐ多くの大学のある国は、今も昔も曽てなかった。学生の数も唐の八人千どころの沙汰ではない。外面に就てのみ観るならば、実に昭代の盛事である'

 

 さり乍ら此等の学校は果して真個の学問を成しつつあるか何なうか。吾等は小楠と共に嗟嘆せざるを得ない。――『一向人才の出で候ひ無之候』と。また学校が夥しく興ったか為に東京の風俗は敦厚になったか。断じて否である。

 今日学校が良風淳俗の淵源であるなどとは、恐らく何人も期待しておらぬであらう。曽て一政治家、軍備縮小を高調して、軍艦一隻の費用優に一大学を建てるに足ると言った時、此の上大学を増設して不良青年と高第遊民とを殖して何とするかと駁撃せる人があつた。言は鐈激に過ぎるとは言へ、担み難き事実の一面を指示小せるものである。

 

 さて是には必ず由来する所がある。吾等は小楠と共に篤と其の原因を究めねばならぬ。学校とは学ふ処である。故に問題は、抑々学校とは何ぞと云ふことになる。何となれば、正しき学間へ教える否とによって、学校は最上ともなり最悪ともなり得るから。

 最も一般に解せられる所に従へば、学間とは知性を鍛練することである。師に就て知識の門に人り、更に自ら読書思索して其の薀奥を極めるのが学問であって、学者とは取リも直さず豊富なる知議体系の所有者であると考へるのが、現代人の普通の思想である。そは現代のみならず古へも亦爾く考へられて居た。小楠の当時には『経を講じ詩を談じ文詩に達する人』即ち学者であった。

 または学問を一層広義に解して、徳性の涵養をも含ましめることがある。普通は学問と修養とを二つにするけれど明治維新以前吾国の儒者が考へて居た学問は、此の二つを兼ねたるものであった。而して其の修養とは、専ら一身を修めることを意味し、小楠が述べて居るやうに『書を読み其義を講じ、篤実謹行にして心を政事に留めず、独り自ら修養するを以て真の儒者』と心得て居た。

 

 さり乍ら小楠に従へば、読書思索による博覧強記は、決して学問の全体でもなく、又至深の意味に於ける学問でない。殊に書を読むことは学問の至要条件なるかに考へられて居るが、それは明白に謬見である。『堯舜は以来孔子の時にも、何ぞ曽て当節の如き許多の書あらんや。且又古来の聖賢、読書にのみ精を励み給ふことも曽て聞かず』。

 

 読書は決して学間に非ざるのならず、専ら書籍によってのみ学間しやうとすれば、却って人心の自由なる発展を抑圧し、往々にして真個の学より遠ざからしめる慮れがある。されば小楠は下の如く言ふ。

「准だ書に就て理会す 是れ古人の学ぶ処を学ふに非ずして、所謂古人の奴隷と云ふものなり。今朱子を学ばんと思ひなば、朱子の学ぶ処如何んと思ふべし。左はなくして朱子の書に就くときは、全く朱子の奴隷なり』。

 この小楠の書籍を読んで吾等が直ちに想起するは、エマソンの『「米国学者』中に、全く同一の思想が発表されて居ることである。彼も亦日――『温順なる青年は、図書館裡に育ちて、シセロ、ロック、ベーコンの意見を信奉することを自分の務であると信じシセロ、ロック、ベーコンが、其の書籍を草せる時は、同じく又図書館裡の青年に過きざりしことを忘却し去ってる。かくて吾等は、思索する人間を得ずして●(振り仮名:「し」とあるが不鮮明、不明)』し魚(“し”魚=魚類の成長過程における初期の発育段階の一つ。)を得るのである。『書籍は、魂を吹込む以外には無用のものである。予は書籍の引力に牽かれて自己本来の軌道を外づれ、自ら一星系とならず他の衛星となるが如くんば、寧ろ一巻の書をも読まぎるに若かない』。

 

 小楠も、またエマソンも決して書物の価値を認めなかったのではない。言ふまでもなく書籍は高貴なものである。善良なる書籍は、偉大なる魂が、四囲の世界を自己の心裡に摂取し、之を心に長養し、自己の心裡の新しき秩序を之に与へ、然る後に再び之を言語にに表現せるものである。世界の彼に来るや生命として来り、その出づるや真理として出でた。その彼に来るや短命なる行為、その彼より出づるや不滅の思想となる。その彼に来るや俗事 その彼より出づるや詩歌となる。そは死したる事実であったが、今や生ある思想となり、能く立ち、能く行き、能く停まり、能く飛び、而して能く人の魂を動かす。そは出でりし心の深さに従ひて、高く翔り、永く歌ふ。

 

 さり乍ら書籍の真個の価値は、書籍其ものに非ず、実に之を生みたる精神に在る。而も往々にして敢えてせらるる過誤は、書籍を生みたる精神に帰すべき荘厳が、書籍其ものに移されることである。詩を詠じたる人、神聖なる人間と感ぜられた。その為に彼の詩歌其ものが、神聖なるものとされる。文を書きたる人、賢明にして徳高き人間であつた。その為に彼の著作其ものが、完全無謬なるものとされる。

 そは恰も英雄を愛慕する念が、堕落して彼の偶像を崇拝するに到ると似通ふて居る。

而して之と同時に、書籍は忽ち有害無益と為る。そは心霊の指導者たるべきもの直ちに豹変して心霊の専制者たるに至るが故である。

門を開いて霊覚の神来をえ迎ふる術(すべ)を知らぬ人々は、一度び或る書籍を読んで之に傾倒すれば、全く思索の自由を奪われ、他の之を蔑視するあれば疾呼して反抗する。かくして茲に『古人の奴隷』が出来上がるのである。

 

 さればエマソンに下の如く言って居るーー『読書は真個の学者に取りて閑暇の折のものである。若し彼にして端的に神を読み得るならば、他人が神を読んで之を写し置きたるものに貴重なる時間を空費すべくもない。而も大陽は隠れ、星また退いて光を現さゞる時ある如く、吾等の精神的生活にも必す昼夜がある。其の暗黒の来れる時、吾等は古賢の光明に燃ゆる燈火につき、黎明を宿す東方に向って吾等の歩みの指導を乞ふのである。吾等の聴くは言はんが為である。亜刺比亜の諺に曰く、『「無花果は無花果を挑めつつ実ぶ』と。

 かくて書は学問に非ず、ただ学問の一つの道である。而して一身を修めると云ふことは紛れもなく学間の本質に属するけれど、兢々として自ら守るだけでは決して真個の修養でない。学者が世と遠ざかりて独り修養に没頭する間に、時勢は彼れの殊勝な必懸けとは没交渉に推移し、却って不法非道の跋扈を見るやうになる。

 『是に於て世を憂ふるの人傑出づる時は、一切学者を以て迂闊無用と押片付け、専ら武の一途を以て国を起さんとす』。さて其の結果は何うか。強力を以てする政治は、恰も劇薬を以て病毒を討つが如く、一時は妙効を奏し、一旦は民心を作興することが出来ても、若し其の強力が正義に拠って立ち、正道に依って行はれなければ、忽ちにして幾多の弊害を招かずは止まぬであらう。『或は客気粗暴の手荒いき風とも成り、或は権変功利の拙き術とも流れて、其末ついに如何とも成し難き勢に落入るは、鏡に懸けて見るが如し』。 是くの如き次第であるならば、学者は其の生を托する社会国家に対し、何等本質的なる貢献を為し得ぬものと言はねばならぬ。故に人に向って専ら小廉曲謹を教へる学間は、決して『治乱常変を通じて天下有用の道』たるを得ない。

 

 されば若し学校なるものが、或は書籍を読ましめ、或は修身を説くだけのものならば、遂に人生に大なる益を与へるま所以のものでない。而して小楠の見る処では、和漢古今の学校滔々として此れならざるは無かった。是れ実に彼をして学校の無用を力説せしめた所以である。而して其の無用論は、真個の学を教へる学校の必要を高調するための序曲である。

 

 然らばち真個の学とは何ぞ。小楠は明かに之に答へて下の如く説いたーー「古人の所謂る学なるもの果して如何と見れば、全く吾が方寸の修業なり。良心を拡充し、日用事物の上にて功を用ゆればる総て学に非ざるはなし。父子兄弟夫婦の間より、君に仕へ友に交はり、賢に親つき衆を愛するより、百工技芸豊商の者と咄し合ひ、山河草木島獣に至るまで、其事に即いて其理を解し、其上に書を読みて古人の事歴成法を考へ、義理の究まりなきを知り、孜々として止まず、吾心をして日々霊活ならしむる、是則ち学問にして修行なり。堯舜も一生修行し給ひしなり。古去聖賢の学なるもの、是を舎いて何に有らんや』。

 学間とは一心の成満(じょうまん)であるーーこは実に貴き真理である。学問の第一義は、吾裡に在る至上法を把握するに在る、把握して之を生活に実現するに在る。而して真個に之を能くせる者は、取りも直さず聖賢に外ならぬがに故に、学問とは聖賢となるの修行である。聖賢の言行を其の末節に就て学ぶに非ず、直ちに源頭に遡って聖賢の学ぶ所を学び、自ら聖賢をたるを期することである。吾等をして再び彼れ詩を引用せしめよーー 

  「功利に流れずに  禅に流れず 
   大丈夫の心    聖賢を希ふ
   終生第苦の力を尽して得て  
   雲霧を披いて青天を見んと欲す』