日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

頭山満述「英雄ヲ語ル」西郷隆盛(4) 故山に於ける大西鄕 

2020-05-28 14:34:14 | 頭山 満


 頭山満 述  西郷隆盛(4)
   


故山に於ける大西鄕

   學問なければ痴人に等し
   英雄の心を執って眞を寫すべし
   天下紛々亂れて麻の如し
   肝膽錬磨して獨り仁を成さん
と詩った、大西鄕は征韓論で決裂後、飄然と故山に歸臥したのだ。
   正邪今安ぐ定らん
   後世必す清を知らん
とは、大西郷が帝都を去る時の心境を述べたのだ。

 大自然の好愛者である大西郷には都門紅
塵萬丈の地は到底不似合ぢゃ。
 故郷の山川は、大西郷安住の地だ。
   山老元帝京に滞り難し
   絃聲車嚮夢魂驚く
   探塵耐へず衣裳の汚るるを
   村舍避け來って身世清し 
などと言ふも、歸臥早々のと思はれる。

 短衣無帽止、瓢々然として、山紫水明の故郷のの山川を跋渉し、愛大を驅って兎を追ひ、入って
は自ら肥をくみ畑を耕し、悠々たな田夫野人の生活に詩情を養った。
 併しながら只徒らに安慰を愉むのは大西郷の本意でない。
憂国の至情抑へ難く、餘生を青年
子弟の敎化錬成に捧げようと決心したものと見え、茲に、愛民主義の「私學校」の創設を見

た譯だ。
大西郷は私學校の創設に自分の賞典祿二千石全部を投げ出しこれが費用に充て、自ら左の如き主義綱領を認め學校に張り出した。
一、道同じ義協ふを以て暗に聚合せり。故に既理を研窮し、道義においては一身を顧みず必ず踏み行ふべき事
一、王を尊び民を憐むは學問の本旨、然らば此天理を極め、人民の義務に臨みては一向難に當り、一同の義を立つべき事
の二項に存する。

 忠君愛國、敬天愛人、正義公道を踏み、一朝有事の際身を挺して國難に殉ずべき有爲の資士を養成するにあった。
私學校は本校の外城下に十二、更に各郷に百數十校、澌時創設され、大西郷の風格に傾倒せる青年子弟蝟集して國内を風する尨大なものとなった。

 別に開墾社や砲隊學校なども創設した。開墾駅の社生は晝は耕作し夜間修學する組織であ廬った。勤労、實践の上杉鷹山の主旨を實行したのであるが、大西郷はこの敎育法が大賛成で、自ら耕作し、糞尿を汲み、卒先して社生に範を示したと云ふことだ。

 かくして、大西郷は、武村の草廬自に俗塵を断ち一個の田園漢になりすました。大西郷が高踏
勇退して一介の百姓として悠々自適してをる間に、西郷の意志とはかかはりなく鹿児島は勿論各地に欝然たる西郷黨が結成された。

 この間、大西郷をして再び廟堂に起たしめ、國家経綸の策を建てて貰はうと、幾度か大西郷
の出廬を促す者も多かったが、固辭して起なかった。
 後進大山彌助(巌)に送った手紙のにも當今は全く農人と成り切り、一向勉強いたし居の候、初めの程は餘ほど難儀に御座候へ共、只今は一日二日位は安樂に鋤調へ申し候、もう今はきらずの汁に芋飯食ひなれ候處、難澁もこれ無く、落着はどのやうにも出來安きものに御座候、御一笑下さるべく候云々。
と返書もしてをる位で、一切の政治を断って、田園の一農夫になりすましてをつた。

 併しながら、天下は物情仲々騒然たるものがあ七年の佐賀の亂に次いで、九年熊本、神風連、つ、いて秋月の亂、更にこれに呼應して、前原一誠の萩の叛亂となった。
 何れも反政府、國内刷新の旗擧げである。

 その頃、大西郷は、日當山の温泉に氣を養ってをつたが、血氣の、邉見十郎太や、永山彌一郎、野村君介など前原を救けて呼應して起ち、大西郷の威風と徳望を以て、國政を改革すべきだと迫った。

 大西郷は、何時になく色をなし、彼等の軽擧盲動を厳戒し、前原等の企圖、只徒らに國家民人の不幸を招くのみだと痛歎し、彼等を追ひ返してをる。

 一方、江藤新平にせよ、前原一誠にせよ、更に神風連にせよ、秋月黨にせよ、大西郷の呼應することを豫期し、西郷の側近者の内でも、これ等の機會に蹶起せんにとを暗に慫慂したであらうが、大西郷の心境は不動心、更に動揺しなかった。即ち、大西郷の目的は更に數段高い處、遠大な處にあったのだ。勤皇愛國の至情、更に、更に、深く厚い處にあったのだ。

    

 私學校生徒の養成、開墾社の創設、何れも国家百年の大計を建つる爲めであった。大西郷が容易にに起たぬのは當然のことだ。その大西郷が、十年には到頭、郷黨、子弟に擁立せられ、遂に彼の不遇なる最後上なった。
 甘んじて鄕當子弟に托した。そこが又、大西郷の大英雄たる所以た。達人大觀の境地だ。



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