日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

内田良平『支那観』九 満蒙問題と列強

2020-09-17 21:25:13 | 内田良平『支那観』


         

   内田良平「支那観」

       


満蒙問題と列強

 吾人は前章に於て支那の南北を比較し、
歴史的に北人
の強兵たるに適する所以、
地理的に北方の形勝たる所以、
経濟的に北方の棄つべからざる事跡を明にせり、
吾人の言ふ所は頗ぶる簡單に過ぐるの嫌ひありとするも、
要するに、帝國今日の急務は北支那を經營するに在りとなすなり、

 

 帝国にして北支那経營に其歩を過らざらんを東亞大政策の根本は茲に樹つなり、
帝國にして能く支那北方
の強を懷撫し、地理の勝を占め、經濟の鍵鑰を握らば、
に由て一帝国の国是たる支那の領土を保全し、
東亞の平和
を保つも亦た我意の欲する所たるなり、
吾をして
更に適切に之を言はしむれば、帝國は速に南滿洲及び内蒙古の問題を解決し、
我が大陸發展の地を鞏周に
し、我が國防の壁を完成せぎるべからず、

 若し今日此
問題を解決するに非ずんば、
列強支那分割の趨勢、他日
或は我に留むるに、殘肴冷炙を以てせざらんとす、
是れ
眞に一日を猶豫すべからざるなり、
見ずや露国の施設
は着々として進行するに非ずや、
而して其爲す所常に
我國防的軍事計畫を超越するを以て標準となすにあらずや、
此時に於て狐疑決せず是れ眞に薪火の上に安
臥するものといふべきなり、
吾人は再言す、三言す、四言
す、五言す、
帝國に速に滿蒙間題を解決せざるべからず
と、
今日帝國の位置は如何にして贏得たるものなりと
なす乎、
帝國大正の臣民は亦た明治の臣民にあらずや、
大正明治の臣民は亦た皇祖皇宗臣民の子孫に非ずや、
仰いで謨訓を思へ、仰いで遣烈を思へ、
我が同胞が百戦
流血の痕未だ乾かざるを思へ、
帝國が地を大陸に併せて、爾楽幾日ぞ、
今にして、一等国の名譽を棄つるを思忍び得るか、
今にして新附の朝鮮を棄つるを忍び得るか、
吾人は絶叫す否、否、否、

 吾人は十言す、百言す、千言す、萬言す、
帝國は速に滿蒙問題を解決せざるべからざるなりと、
易に曰く、鴻あり陸に漸めり、夫征いて復らず、
婦孕んで
育はれざらんとす、寇を禦ぐに利ありと、
此語何を意味
するか、
鴻の水に在るや固より言ふべき處なし、
然れど
も既に陸に進めば、或は綱羅の災に逢はん、
或は獵銃の
狙撃に逢はん、此故に苟も是等の寇を禦がずんは、
に夫征いて復らず、婦孕んで育はざるの悔を免れざるなり、
帝國の位置も亦た此くの如くなるに非ずや、
滿蒙
問題の解決は謂ゆる寇を禦ぐものなり、人或は云はん、
滿蒙問題の解決は實に可なり、
然れども、
國にして若し手を滿蒙に下さば、
支那の中原は直ち
に列強の分割に歸すべし、
是れ計に非るなりと、是れ理
勢を知らざるものの言なり、

 現時、支那に於て武力的分割を遂ぐべきの實力あるものは、
日露兩国の外、未だ之あらず、是時に當り、帝國にし
て滿蒙を守らば、
露如何に勇武たりとも、之を超へて中
原に進出することは、容易ならざるべし、
是れ帝國が其
咽猴を扼すればなり、

而して英佛獨の諸国に至ては、各
々其利權を攫取せることは之れ有り、
武力を用ひて支
那を分割せんには其準備未だ完からざるを以て、
若し
萬里懸軍、兵を支那に出すとせば、鉅大なる軍費を支出せざるべからず、
・・・・泰西より支那に出兵するには尠くとも一人に付き三千圓有許を要するを以て
一師團兵數二萬とせば六千萬圓を給すべからず
其他後鑟準備滞軍費等を合わせれば頗る巨額に上るなり・・・・・

而して戰局の終るは決して一二月の短時日を期し得べきものにあらざれば、
軍團の出兵は忽ち拾餘億圓の失費に上るに至らむ、
らば此多額の軍費を使用したるの結果、
彼等能く支那
に於て其れ以上の巨利を博し得べきかといふに、
現今
の状態に在ては、列強中、那の一国も、未だ拾億圓の失費を惜まざる程に、
支那に於ける施設の進捗したるもの
はあらざるなり、
列強の活動は決して數字圏外に逸出
することなし、
吾人故に曰く、
滿蒙問題の解決を以て列
強の中原分割を促すべしといふが如きは、是れ理勢に通ぜ-す、
夢に鬼を見るが如きの論なりと、

 然れとも若し假りに、列強にして數字を無視し、
無謀に
も支那分割に着手したりとせん乎、
拾億圓の軍費は支
那に撤布せらるべきを以て、支那の國民は大に利益を得べく、
吾人も亦た徃いて之を拾得するの便あり、
即ち
我が滿蒙問題の解決は何れにしても失計とはならざるなり、
但だ斯かる珍事は萬々あるべきにあらず、
將た
何を苦しんで躊躇することあらんや、
支那大陸に対する武力あるものは我と露國と而巳亶に然り
而して
英佛米の出兵難に論及す
是れ被の三十三年役の實状を知れるもの
にして始て首肯する所あるべし、
     (權藤成卿)


内田良平『支那観』八 支那南北の関係

2020-09-14 16:08:39 | 内田良平『支那観』


         

   内田良平「支那観」

       

 

八 支那南北の関係 
 滿蒙間題の解決は、既に朝鮮を併合したる我帝國に取りては、
其國防上亦た必須の關係たることは、
軍事の局に當るもの之を知らざるものなきのみならず、
日露戦役に於ける我百萬の流血をして無意義に終らさらしめんと欲せば、
亦た實に之を以て我國民の義務なりとなさざるべからず、

 况んや、満蒙及び北支那は古來政治上地理上經済上に於て、
南支那の死命を司れる地方にして、我帝國にして之に據らしめば、
支那の國民にして如何に其悪性を発揮し、
自ら危亡に陷らんとするも、帝國は必ず之を監視するを得べぐ、
我帝國が今や覚醒せる亜細亜各邦を組織して之が盟主となり、
 以て將に來りつつある人種的竸爭、宗教的競争、経済的競争に於ても
亜細亜人をして決して
他の人種の蹂躙踏藉に附せざるを得べし、

 是豈我帝國の使命に非ずや、
吾人請ふ試みに支那南北の関係に就いてか卿が吾人の研究する所を遽べむ。

 

一 歴史的関係
 支那北方の強に就いては、
数千年前孔子既に之を明言して金革を衽し死して厭はざるは北方の強なりといへり、
是れ當時周室の微なるに乗じて、北方人種の跋扈跳梁を逞うし、
文弱なる南方の漢人種に似ざるをいへるものにして、
今ま歴史の傳ふる所に就いて其大略をいへば秦の西に綿諸、畎戎、翟、●(不明?)あり、
北に義渠、大茘、鳥氏、●(不明?)衍の戎あり、
是れ今の伊犁、新彊、内外豪古の諸方面より甘粛陜西に侵人せる人種なり、
晋の北に林胡、樓煩あり、

 是内蒙古より山西に侵入せら人種なり、燕の北に東胡山戎あり、
是れ滿洲より直隷に侵入せる人種なり、
其後秦の時に至て北方人種は或は胡と稱せられ、或は匈奴と稱せらる、

 而して秦の始皇が秦を亡ばすものは胡ならんとの讖言に怖れ、
蒙恬に命じてを険塞を築かしめたるもの、
是れ今日尚ほ其痕跡を留むる調ゆる萬里の長城なり、
然れども北人豈之に辟易するものならんや、
 漢の高祖の如きは匈奴冐頓のために下城に圍まるること七日、
終に和を講じて小康を保ち、漢武の遠略、聊か漢人の爲めに氣を吐くに似たりしも、
漢の代を終るに
至るまで、匈奴及び鳥桓、鮮卑等の東胡種に悩まされざるなく、
三国曹猛徳の時に至りて匈奴は終に山西に人りて劉氏石氏と稱し、
鮮卑亦た皆支那内地に闖入して跖跋氏となり、慕容氏となり、

 晋末の僣國多くは此の北方人種たらざるはなく、
特に渾べての僣國の倶に敗れたる後、
獨り支那を中分して其北朝に臨御せる跖跋魏は是れ紛れもなき今の滿蒙地方より直隸山西の北部に移住したる、鮮卑とする古代の東胡たりしなり、

 北人侵入は晋をして、東南建康に偏安せしむるの已むなきに至らしめたり、
是れ漢人種南遷の最も惨烈を極めたるの始めににして、
其後宋となり、薺となり、陳となり、謂ゆる南朝の漢人種は其意気終に競わず、
建康の形勢其地富庶ならざるに非るも
亡國の民情風聲鶴唳に戦き攻守の失費胼胝給する能はざるに至りて尚ほ民に望むに恒心あるを以てせんことは寧ろ酷なりと謂ふべく
漢人種風俗の堕落蓋し此を以て其一因とす、
隋唐の初は漢人種のやや勢力の回復したるの時なるに、
庶幾し、然れども唐の放縦なる政策は再び北人をして其釁に乗ぜしめ、
五代の乱に至りて、契丹漸く大を致せり、契丹は東胡種なり、
太祖耶律徳光に至りて國を遼と號す、

 而して宋の支那本土を統一するに至りても能く之に克つ能はず、
眞宗親しく
澶淵に次して之と和を講じ、
志士胡邦衡をして秦檜王倫斬るべしと叫ばしめ、
文人蘇老泉をして天北狄を生ず之を大戎と謂ふと罵らしむ、 
漢人種の窮状亦憐れむべからずや、
 
 遼は女眞の爲に減ぼされたり、
女眞は古の粛愼、今の吉林の東北部より起り、國號を金といふ、
宋亦た之に克つ能はず、
高宗終に南に渡って都を杭州に移す、
而して後、元の太祖奇渥嗢鐵木眞、不世出の資を以て蒙古より起り、金を併せ、
宋を覆すに至て、漢人種は北支那に於て全く立錐の地を失ひ、
明の太祖一時之を恢復したるも清祖愛新覚羅氏粛愼の裔を以て満州より起るに及び、
四珀餘州を擧けて其髪を辮にすに至る、漢人種は到底北方の強に敵する能はざるなり。

 漢人種は南へ南へと流亡したる人種なり、
勿論其流亡せる原因は北方の壓迫一なり、
河漢の横溢二なり、禀性の懦弱三なり、

 而して今や南支那一帯の地區はこの流亡せる古怪老敗の漢人種を以て充され、
其俗倫、其人詐、口に囂くしく行ひに篤實ならず、
之を滿蒙若くは北支那人種の其の風渾、
其人直なるに比し、苟くも對支那政策を劃せんと欲すする者、
果たして執れに興せんとするか、吾人が南方左祖論者の説に首肯する能はざるは、其懞る所實に二十四史の上に在るなり、

二 地理的關係 
 支那の水流は、漢江、長江、皆北より流れて東南に傾注す、
凡そ上游より下るは易く、
上游に遡るの難きは水路を利用するものの、
自然の勢いにして古来支那南人の北人に抗敵する能わざりしは其一因亦た此にあるべし。

 然も此くの如き推理の關係は五方百貨をして南方に輻輳せしめ、
流亡の民をして南方に聚合せしめ、
是に於て乎其住民は生存競争の結果、悉く個人主義の人となり、
個人主義の結果、悉く道徳を冷笑するの人となり、
道徳を冷笑する結果悉く國家の存亡を問はざるの人となり、
國家の存亡を問わざるの結果、悉く戰闘力なきの人となる


是れ亦免れざるの趨勢にして、
其類似を求むれば之を我が浪華地方に見るを得べし

 而して我が浪華地方の兵種の之を九州兵に比しやや差等あるを知る者は、
支那の南人が北人に比して大に差等あるを知るも敢て難からざるべし、
是れ亦た地理的関係に於て、支那の南人が北人に抗敵する能わざる一因たるに庶幾し、

 其他風土自然気候の陶冶よりする南北気風は既に千年前周代著作者の認めたる所にして、其説によれば、
支那の南方を以て揚州と稱する所以は、厥性軽
揚なるを以てなり、
其北方を幽州と稱する所以は、幽は深なり、
其地幽深に處るを以てなりといへり、南方氣習の篤實ならず、
北人性情の朴實なる、説き得て餘薀なしと謂ふべし、

 且夫れ支那の南方は、川流匯澤、所在地を劃し、水村山廊區々點在して、
事に臨み其の利害観念に富みたる人民の統一を計らんと欲する固とに容易ならず、
且つ大部隊の人馬を聚合して武を用ふるの地亦甚だ少きに反し、
北支那並に滿蒙地方は、其地勢比較的平衍にして、
假りに内蒙古に就て之を言は、東は吉林に抵り、西は賀蘭山に至り、南は長城に界し、北は瀚海に抵る、
廣袤數千里の間、快馬一鞭、容易に其人民の結合を促すへく、
容易
に百萬の大軍を運用指揮するに難からず、

 然らば則ち南方漢人種の古來北人の制馭を受けたるもの、
其地理の關係大いに與って力ありしなり、
故に對支那政策を攻究するに當り先づ此北方形勝の地に據り、
建瓴の勢を以て南方漢人種の無節操的行動を監視することを思はずんば、
豈東亞の形勢を知るものとなすべけんや。

三 経濟的關係

 或は云はむ、北支那並に滿蒙の如き、其地寒荒にして南支那の沃饒に比すべきにあらず、
北方の強と稱するは唯た蛮勇のみ、
若し經濟的關係を比較するに至らば、北
の南に敵する能はざるは啻に霄壊のみに非るなりと、

 然れども吾人の研究によれば、北方の富、單に南滿洲内蒙古に就いて之を言ふも、
石炭鑛あり、金鑛あり、石油池あり、雑穀の産出數千萬石、米田試作の結果も亦大に發展の見込あり、
其他大森林あり、大鹽田あり、牛、馬、驢、羊、山羊等の畜密類に富める、 
甜菜、棉、煙草等の耕作地に適せる、何ぞ之を不毛磽确の地に比するを得んや、

 又果して論者の言の如く、南支那にして眞に天然の恩澤あり、
土地豊饒、産物夥多なりとするも、
其れ等の産物の需用先は北支那たるを以て、
若し權を北支那に握る者あり、河道を塞ぎて南の産物を北に通ぜさらしめば
南は容易に北の爲めに死命を制せらるべく、
是れ北人の屡々試みたる慮にして經驗の教ゆる所によれば支那南北の経濟的關係に畢竟不可分に屬し、
此の経済的不可分の夤縁は、魏晋六朝以來屡々分裂せんとしたる南北を接續して、
其統一を失はざらしめたる所以たるなり、

 蔡炳九甞て云く、江南を論ずる者、目して豊饒となし、
概ね視て澆僞と爲す、皆未だ其地を履まざるの言なりと、

 吾人亦た將に言はんとす、支那を論じて南を豊饒となし、北を寒荒となすが如き、
亦皆耳食の論を免れずと、
且更に知らざるべからさることは經済的關係なるも
のは、
天然人事の變動により、必ずしも一定不變のものに非ず、

 例せば歴代の國都の知き、昔日に在ては獨り政治上の中心たりしのみならず、
亦経済上の中心たりしならんも、今日長安洛陽の荒涼、人をして徒らに牛山の木嘗て美なりのを生ぜしむ、
 然れども物は衰あれば復た盛あり、
海蘭鐵道の貫通して中亞に聯絡し、
地藏の鑛物續々發掘せらるるに至らは昔日帝王の地たりし北支那一帯の面目、
亦豈大に復舊せずといふを得んや、東亜萬年の大計を建てんと欲する者、固より目前の幻况に眩惑すべからざるなり、
沿革、地理、経済の三大目に憑りて、支那南北の關係を説く高朗明快眞に是れ利刀一断の概あり、
予此に平生我大和國人北進の管見一斑を掲出して本論を補す。

 大和民俗が南方より移轉し來れるは其道程の如何に拘はらす、
學者の定論たり、然り其南地よ、北地に發展すべき、
既往數千年の歴史は、決して一朝人為的に左右し得らるべきものに非す、
帝國は一千年の歳月を費やし、明治照代に至り、始めて朝鮮半島の解決を成し、
北展の衡路を開きしは、
吾人及び吾人の子孫をして、
上代にける天孫種族が、出雲種族を同化せしめしが如く
将来に於て半島人及び滿蒙人をして赤た侔しく我天孫人種の血脈に同化せざるべからず、

 要するに人類の移殖は商業移民と農業移民とに二別され、
商業移民は農業移民の基礎あり根底ある勢力に企及すべからす、
同胞の南支に向ふものは、悉く商業に從事し、
北支に向ふものは多く農牧林業及鉱業に着眠せるの状あり、
是れ南支の人口稠密にして農牧の餘力な
きに反し、
北支の土壌に餘裕多くして、
猶ほ農牧諸業の遺利多き結果となす、

 且つ日本帝国が今日の場合に於て、北方満蒙に基礎あり根底ある移民を企つるとするも、
決して南方の通商に影響を與ふるの理由なき而巳ならず、
寧ろ其共北方の開發に依り、南方に於ける我通商に有利なる反響を與ふるは、
知者を俟たずして明なり、

 故に予は堅實確手なる南方の通商を振作せんとすれば、
北方の供給地たる満蒙に基礎あり松底ある施設の必要を認むるなり、
且つ日本の南方開展は、啻に南支の一局に限るべきものに非ず、
南洋の各地帝國人の生存し得らるる風土気象は、
我商工農業權域を壙充して可なり、
彼の所謂る北守南進とは何の義ぞや、
      (權藤 成卿)


内田良平『支那観』七 満家經營の急務 

2020-09-11 08:56:51 | 内田良平『支那観』

 
         

   内田良平「支那観」

       



七 満家經營の急務

 由來我帝國の支那に對する是は
當局者の示す所に泛然たる領土保全の語に過ぎざるを以て、
國論浮動各々其見るを所を偏執し、
或は南方に左祖すべしといひ、
或は北方を援助すべしと論じ、
擾々として適歸する所を知らぎるものの如し、

而して其の南方に左祖すべしといふものはち曰く、
江淮の間は五方の聚る所なり、
百貨の集る所なり、
田疇沃衍の利、
山川藪澤の富、
道近の及ぶ能はざる所なり、
故に宜しく此くの如き富力ある南方に結托し、
以て我が貿易上の安固を圖り、
併せて其土壤の利源を開發すべしと、
又た北方を援助すべしとなすものはち曰く、
今や袁世飢は兎にも角にも中央の政權を握れり、
而して袁の老獪なるに能く南方慷慨の書生を壓遉し、
孫黄輩をして身を置くに地なく、
亡命の已むを得ざるに至らしむ、
たとひ革命の餘燼未だ消せず、
慮々に密謀陰計の跡を絶たずとするも、
南北の力を角するに、
其勝負の決、智者を待って知るべきに非
す、
故に宜しく此機に乗じ袁を援けて秩序を囘復せしめ、
以て一日も早く我が通商上の康和を計るべきなりと、

我が在朝在野の意見に一定の規準を有せず、
此くの如く浮々搖々として目前の計較打算に陷り、
爲めに列強と支那人とをして頻りに之を國際上の折衝に利用せしめ、
其極、我が東亞大政策の基を危うせしむるに至りては、
吾人頗る之を遺憾となさるをざるなり、

吾人は必ずしも南方左祖論者の如く袁の横暴を憤り、
孫黄一類の逆運を憐むものに非ず、
然れども一時の成敗に眩惑して、
詭譎騙詐、其私福のために自國を賣り、
友国を賣り、
終に東亞千歳の禍根を啓かんと欲する袁世凱の飜弄に
我立國の運命を托するの危險なるを感ぜずんばあらざるなり、

吾人の念々忘る能はざる所のものは、
我が三千年来の光輝ある歴史なり、
我が皇祖皇宗の遣議鴻漠なり、
世界競爭の大勢なり、
東亞永遠の平和なり、

日本民族發展の現在及び將來なり、
我が血を以て羸ち得たる一等強国の位置なり、

然らば即ち吾人の意見は如何、
借りに百歩を讓りて南方左袒論者の説に從ひ、
我が對支政策の基本を北に求めずして南方に求むべしとするも、
南支に於て國際上の約束により我帝國の收受
せる權域は
(一)長江の水運に關する件
(二)福建不割讓の件
(三)大治鐵鑛に關する件等に過ぎざるに非ずや、

而して
我帝國の南支那在留者が、
其通商上、果して如何なる
實况にあるかを問へば、
亦た常に列國民の牛後に蠁〇(注、判読不明)するを免れず、
若し夫れ南方左袒論者の垂涎措く能はざる長江流域一帯の地區の如き、
吾人が前に言へるが如く、
既に英国の経濟的占領圏内に屬し、
今に於て其殘
肴冷炙に與らんと欲するも、
能く一臠を餘すべきに非ず、

我帝國が南支那を基礎として東亞大政策の經倫を伸べんと欲するは亦た難しからずや、
夫れ然り、故に我か帝國の今日に於て執るヘき方針政策は唯一あるのみ、
即ち先づ南滿洲及び内蒙古を経營し、
大陸に於ける帝國の優越なる地歩を占取し、
列國の支那本土に對する分割の勢を掣肘し、
以て南方に向って我経濟的勢力を進むるに在り。

是れ實に刻下の急務なり、
大陸に於ける帝國の地盤を鞏固にし、
列國と其均勢を維持して以て、
東亜永遠の平和を擔保し得べきの策、
此を措いて決して他に良策あらざるなり、

我兄の満蒙経營を論するや、或は之を難して云ふ、
是れ彼の陸軍擴張の前提なりと、
我兄固より陸罩擴張論者なり、
唯だ其論據頗る陸軍當局と趣を殊にするのみ、

我輩の如きは當局の陸軍擴張論にも、

我兄の陸軍擴張論にも、賛襄せざるものなれども、
滿蒙経營意見に對しては、切に同感を表するものなり、

是れ我兄の満蒙経營意見は、
我帝國の国防域を擴大するの方策に非すして、
寧ら之を節約ならしむるものなればなり、
且其経済上の方策に在ても、
其基礎を農業移民の上に置けるを以て
南方に於ける商業移民の如く浮泛ならざるものなり、
唯其軍事経營に開する我兄意見の要旨は巳に刊行されたる日本之三大急務あれば、
我兄に対する論難を試みんとするものは須らく之に依りて其真想を明にし、
取捨を決するを要す。
            (權藤成卿)


内田良平『支那観』六 対支政策の錯誤 〔其野生悪癖を矯正する如きは益なき・・・。〕

2020-09-10 10:12:34 | 内田良平『支那観』


         

   内田良平「支那観」

       

 

 

 

六 對支政策の錯誤 

 列国支那分割の趨勢は此の如し。
即ち厖然たる四千二百萬方哩の老大國に向って、
列強は或は武力的蠶食の端を肇めたるあり、
或は經濟的分割の實を啓きたるあり、
此時に當り、
我帝國にして其の趨勢に反抗し依然として舊來の國是たる支那の領土保全主義を膠守せんとす、
是豈落後の花を賞翫せんとするの愚に類せらんや。

 仍て思ふに我が謂ゆる支那保全主義なるものは、
支那の國民性と衲鑿相容れさる者なり、
故に支那の國民は我帝國の屡々彼に好意を表し、
或は之がめに強
露と戦を挑みは其革命の擧を暗助したるに對し、
却て恩に報ゆるに仇を以てし、自ら好んで減亡の境遇に陥りたるものにして、
支那の國民性と恰も好く適合すべき所のものは、

即ち列強の爲す所の知く、
冷頭冷血彼の存亡を以て彼自ら存亡するに任じ、
我は之に對して專ら高壓的手段を取り、
酷烈に我が勢力を扶植し、
嚴密に我が利益を戄取するに在るなり、
列強對支政策の着々功を収めむるに反して、
我帝国の爲す所一も其肯綮を得さるが如き観あるは、
職として其れ之に由るに非ずや、 

 我帝國は今にして東亞大政策の根本に反らざるへからず、
畢竟支那保全といふが如きも、
東亞自防の一策に過ぎるを以て、
我國防の大計を忘れ、
光輝ある日露戦爭の歴史を破却し、
我が一等強国たる位地を拠棄し、
消極退守-、遠く祖宗の謨訓に背き、
近く先覺の遣謀を無視し、
徒らに衰亡腐朽の隣園に對して情死的犠牲となるが如きは、
是本を忘れ末を逐ふなり、吾人もとより支那領土の分割を好まず、

然れども此事や、之を我が光輝ある歴史に照し、
之を皇祖皇宗の遺訓鴻謨に照し、
之を世界的竸爭の大勢に照らし、
之を東亞に於ける地形に照し、
之を日本民族發展の現在及將来に炤し、
之を一等強國の位地に照し、
此の如くにして左石逢源前後扞格なきにあらざれば、
以て動かすべからざるの規準となすに足らず。

 而し
て列國支那分割の趨勢彼が如く、
支那国民性の恃むに足らさる此く如きに當り、
我帝國獨り言詮に墜ち自縄自縛進む能はず又退く能はざるがき、
其陋寧ろ一笑に價せさるに非ずや、

 吾人を以て観れば、支那は寧ろ不保全を以て保全し得らるべきなり、
我帝國にして能く積極進取大に力を東亜の大政策に用い、
以て永遠に世界の覇者たる地位を喪はざらしめば、
支那國民の騙詐術数も亦た再び之を弄するの餘地なく、
彼等は必ず没有法子の一語を以て、
我帝国の爲さんと欲する所に屈従すべし、
  
實に支那の
國民は強に阿ねり弱を凌ぎ、
一たび強者に逢へば彼等は絶叫して沒有法子の一語を凝するのみ、
列強の高壓的對支政策は皆能く箇中の消息に通ずるものなり、
故に我帝國をして亦た彼等の國民性に適合せる此の高壓的政策を取らしめば、
是に於て乎、
始めて能く其國民の無謀なる領土の割譲若くは利權の交附を掣肘し得べく、
支那は即ち不保全を以て保全せらるるに至らむ、 

 語に曰く父嚴なれば子孝なりと、

 對支政策は一面に於て高壓手段を必要とすると共に
又た能く支那の國民性に從って能く之を駕馭するの術を講ぜざるべからず、
而して是れ亦た列強の熟知する所にして、
此術に依らば、支那人は當に箪食壺槳して我を歡迎すべく、
帝國の東亞大政策を行ふに當り、萬に一矢なきを保すべきなり。

 従我帝國の支那に對する方針は
其根本義を謬りたるのみならず手段も亦た大に不可なるものあり、
此故に帝國は支那の保全に努め、
支那人の歡心を得るに汲々たりしも彼等は毫も之を徳とせざりしなり、
然らば支那人に對する手段とは何ぞや、

蓋し支那人は其先天的性格に於て、
極めて千渉を嫌ふの国民にして、
被等の常言にも薬多ければ病甚しといひ、
水を打てば魚頭痛むと稱す、

然るに帝國の被等を待つや、
彼等をして日
本化せしめざれば己まざるの概あり、
世に似我蜂と稱する蜂あり、螟蛉の子を取り来って、
必ず其の己れに似んことを求む、
帝国の爲す所恰も之に類す、

而して此の我蜂主義は支那人をして帝国を嫌悪して
他の列強に倚僻せしむる所以にして
列強の支那人に對する政策は決して帝國の如きものに非ざなり、
列強は決して一々支那人の行為に立人ることなく、
たとひ其行爲が文明的ならざるも、
順然として其爲す所に放任するなり、

たとひ其行為が道徳的ならざるも亦た順熱として其爲す所に放任するなり、
たとひ其行為が法津的ならざるも、
亦た順熱として其爲す所に放任するなり、
列強の支那人に對する政策は、
彼等の生命財産を保護するに過ぎず、

決して其自國の人民を津すると一様なる法津の制裁を加ふることなきなり、
支那人は支那人として之を待ち、
決して其野性悪癖を矯正するが如きことをなさるなり、
支都人の悦んで其下に集合する所以は、
實に此の冷淡不干渉の態度に在るなり、

 昔は支那の哲人莊周、
人の己を以て他を律せんとする者を嘲りて曰く、
毛嬙麗姫は人の美とする所たるも、
魚之を見ば深く入らむ、
鳥之を見ば高く飛ばむ、
鹿之を見ば快く驟らむと、
是れ物各々其性を異にするをいふなり、
支那人の如き、帝王本位に非ず、國土本位にあらす、
本来個人本位にして、
個人の利福の外、其眼中更に何物もなきの國民に對し、
帝國従来の執る所の如く、
必ず似我蜂主義を以て之を律せんとせば、
彼等の深く入り、
高く飛び、快く驟らざんことを求むるも、
固より得べからざるなり、
支那人を悦服せしむるのは術は、
勧告せず、命令せず、禁止せず、
彼等の行く所に行かしめ、
彼等の止まる所に止らしめ、
唯だ彼等個人の生命財産を保護するに在るなり、
此くの如くんば、彼等は國を擧げて我に服従すべし、
即ち一面高壓的手段を以て、
彼等の政治社會を威服し
一面放任主義の下に彼等の農工商社會を保護せば、
支那を駕馭するは、掌を反すよりも更に容易たるべく、
獨り對支那政策の此に出でざるべからざるのみならず、
我が東亜萬年の大政策も亦た此くの如くにして始めて完璧と稱すべきなり。

 

 予三回の戰役に依り、支那人の統治状況を概見するに、
軍制の下に怨聲なくして、
民政の下に憤言多気を知れり、
彼れ支那人の、古来萬威一恩を以て統治せられたるは、
忽にして恩に慣れ、
命令を遵奉せざるの性質を具せるが為なり、
我兄の所謂高壓手段なるもの、蓋し此意義に外ならず、

我兄嘗て予等数人と、支那留学生を集めて時事を談笑ぜしことあり、
當時山西地方土匪頻發し、良民殆ど其堵に安んぜず、
予先づ其留学生等に向て其平定方法を質せしに、
彼ら皆な今數句を出でずして自ら鎮静せむとて平然たり、
予怪訝に堪へず、更に進んで其事由を質せしに、
冷然として謂へり、民衆の財物已に竭れは、
匪類亦た自ら散するなり、何ぞ必ずしも武を用ふるの要あらむ哉と。

我兄予等と呆然たること之に久ふせり、
彼ら固より民治の何物たるを解せず、
習慣の久しき、放漫其性を成せる是の如し、
之を帝國人民と同型に律せむと擬するが如きは、
狗子に向って人語を誨ゆるの愚のみ。   
 
       (權藤成卿)


内田良平「支那観」五 列國支那分割の趨勢 三佛國 四 獨逸 五 米國  

2020-07-06 15:03:43 | 内田良平『支那観』

 
         

   内田良平「支那観」

       

 
五 列國支那分割の趨勢  

(三) 佛國 
 佛国の安南に據りたる、由來亦た淹し即ちち明の萬歴の末、
其宣教師始めて此地に入りしより、
乾隆中、阮福映を援けて越南王とならしめ、
咸豊中福映の曾孫弘任の教師を毅し耶蘇を厳禁するの事あるや、
終に兵を出して其罪を鳴らし、
柴混を攻陷し交阯を取下し同治の末(我が明治七年、1874年)
終に弘任と盟約を結びて之を其保護の下に置きたるもの、
是れ實に佛国東亞經營の第一歩たりしなり。

 而して其後クールべー提督の遠征は一時厥功を奏する能はざりしも、
日清戦爭の終るや、謂ゆる三国同盟の力を以て、
我に逼りて遼東還附をなさしめ尋いで一八九八年廣州灣租借を以て、
其東亞経営の基礎を固うし、
終に其力を雲南、貴州及び廣東廣西一帯の地に伸べて
此地點を以て他國に割讓若くは租借せざるの約を結び、
又た英佛協商によりて四川鐵道の共同敷設を策せり。

 而して其獲得せる鐵道利權は實に正太鐵道一五一哩、
雲南鐵道二九一哩、四寗鐵道五〇哩等にして、
着々として其経營を進むるを怠らず、
是亦た露英に次きて其勢力の侮るべからざるものなり。

(四)
 獨逸  
 獨逸の東亞に於ける根據地は山東の一角
即ち一八九八年に於て租借したる謂ゆる膠州灣に過ぎず、
然れども其辛辣なる外交政策は深く袁世凱との夤縁を繋ぎ、
終に之に依て山東省全部の鐵道及び鉱鑛權を獲得し
以て漸次中原に進出せんことを策せり。

 即ち現に獲得せる、
 膠濟鐵道二四五哩、
博山支線二四哩、
津浦鐵道北段三九一哩、
 の鐵道敷設權を其着手とし、
此諸線を延長して、
一方は省南線即ち靑島より江蘇省宿遷地方に至り、
一方は西北線即ち青島より直隷の一部に出で、
更に西南線によりて河南省に至らんとするの豫定にして、
若し其計書にして成らしめば、
齊桓管仲の遣劇は再び獨逸によって演奏せらるるやも
亦た未だ知るべからざるなり。

五 米国  
 米國はモンロー主義の国なり、
然れども其東亜の利権に朶頤するや、
或は滿洲中立意見の發議者となり、
或は四国借款の主動者となり、
決して永く冷淡の態度に甘んずるものに非ず。

 其の巴奈麻連河の開鑿事業を進捗したる、
比律賓群島の防備を増修したる、
太平洋艦隊を增設したる、
若し一朝好機の熟するものあらば、
亦た必ず
比律賓を根據として、
嶺南の一部又は揚子江流域の間に加入し
以て其勢力圏を割定せんとするの意あるに、
孰れか之を燭炤數計龜トを待って而して後知るべしといはんや。

 
 露国の北歐よりする南下と、
英人の印度よりする東浸は、漸勢なり、
漸勢は其餘力溢れて、自然の勢をなせるものなり。

 故に其根帯牢乎拔く可からざるものあり、
獨佛二国に至りては、其の沿革侵略的にして、
露英二国と其軌準を同ふせず、
隨て其の實力の上に於ても自ら懸隔あり、
米伊以下の諸邦に至りては国際壇上の陪賓にして、
最恵園の利益谷を均濡せんが為に伴列する者面己、
然れども国際間の干繋は、
其利害を一局に決するものに非るを以て、
陪賓にして正賓の権を犯し、
累を比隣に嫁するもの大に之れ有り、
米人の驕慢帝国を汚辱するの類、
乃ち爾り、而して日本に至りては自國の防衛上、
必す大陸に於て、堅固なる権域なかるべからず、
安全なる漸路を開かざる可からず。

 而も今の支那大陸は、支那人の支那大陸に非すして、
露英獨佛諸列邦の権力均衡上の爭區なり、
諸列邦の之を分割分取せざる所以のもの、
唯だ一の日本帝國あるが爲のみ、
然り、將來日本帝國の位置は、
永久に此疆域をして諸列邦の爭區に放擲し、
朝に一利権を取り、
夕に一権域を奪び税源は攀げて
之を其借款の担保に盡さしむるを託すべき乎。

 支那保全の言下に、此の尨大なる敗國にして、
之を擧げて白色人の手中に移さば、
日本帝国は洋上の一孤國に化了せむ。

 彼の好辯漢、北守南進を説いて、
帝國の防備を放棄せむとし、
大陸發展の漸路を塗塞せむとす。

 南門を開いて南出せば、
北門は忽ち虎狼人間の巷に跳らむ、
慮らざるも亦甚しいかな。

      (權藤成卿)


内田良平「支那観」五 列國支那分割の趨勢 一露國 二英國

2020-07-04 07:58:37 | 内田良平『支那観』

 
         

   内田良平「支那観」

       

 
五 列國支那分割の趨勢  
事實に就いていへば、我帝国を除き、
他の列強の支那に對する從來の趨勢は悉く皆保全の名を藉りて分割の實を行ふものなり。
 或は割讓若くは租借の名を以て其領土を占領するの政治的叡食主義あり、
或は鐵道若くは借款を利用して特種の利益を壟断するの經済的蠶食王義ありと雖も、
要するに其手段の如き唯だ鳥の雌雄たるのみ、
若し靜かにその施設の跡に就いて之を窺へば、
何れも皆兩者併進併行して、
敢て或は他に後れざらんことを期せざるはなし。
請ふ左に聊か其趨勢を畧述せむ。


一 露国
 日清戦争の後、族順大連灣を租借し、
東清鐡道を敷設し、
以て滿洲一帯の地を取り之を自己の勢力下に置かんとせる露国の企劃は、
日露戦役の一敗闕によって一旦悉く破壊せられたりと雖も、
露國は毫も其素志を届することなく、
一面には西比利亞鐡道の複線工事並に墨龍江鐵道の敷設を進捗し、
一面には蒙古新疆方面の経営に従事し支那革命の動乱起こるや、
露國は其機を逸せずして外蒙古の自治を提唱し
終に其保護權を獲得して此事を以て形式的に之を支那政府に交渉するに至れり。

 露國の志は決して小ならず、
即ち北満州、伊犁、新疆、外蒙古に跨る
其面積三十一萬四千九百二十三方里の地を併呑せんと欲するのみならず、
機會若し許さば、支那の内地に侵入して、
直隷、山西、陝西、甘粛の諸省即ち河北一帯の地を以て、
自己の勢力圏内に置かずんは己まざらんとするなり。

 即ち露國は現に支那借款の條件として佛白資本團の名義の下に
其南下の孔道たる中央亞細亞鐵道に連絡すべき支那の
甘肅省蘭州より陝西西安府、河南開封府を經て江蘇省海州に達すべき
謂ゆる海蘭鐵道敷設權を獲得し、
又た動亂中に於ける袁世凱の窮境を看破し
同じく佛白資本團の名義の下に
更に海蘭鐵道の中央たる潼關より山西太原府に達するの鐡道及び、
太原府より歸化城
若くは直隷張家口に達するの鐵道敷設權を獲得せんことを商議せりといふに非ずや。

 北浦洲、伊犁、新外蒙古等の折れて露國の手中に入るべきは、
識者既に之を時日遅速の問題にして事實有無の問題にあらずとなせり、
是れ或は拒ぐべからざる事なるべし、
然れども山西、陝西の二省の利權にして、
果たして、露國の割取にせんを此二省の石油と石炭ととに富めるは、
實に世界第一の稱あり、
其無烟炭の如き、専門家の調査によれば、
之を世界に供給すること凡そ二百年にしてほ盡きざるべしといふ。

 然らば露國の鷙翼をして此方面に舒びしめんことは、
我帝國の主義たる支那保全の前途に於て、
果して何の障礙を與るものとなすべきや否や、
况んや露國各種の經營は
明かに我帝国の国防的軍事計劃を超越するを以て標準となすものたることは
國際上公然の秘密たるに於てをや、
吾人之を思うて轉た寒心に耐へぎるなり。

二 英國
英國は我同盟国なり、又た其支那保全主義の主唱者たることも固よりなり、
然れども其の久しく廣東の一部
並びに支那の南方に勢力を植うることは掩ふべからぎるものあり、
且つ英國が支那をして他国に割讓せざることを約せしめたる揚子江流域一帯の地點、
即ち江江蘇、安徽、江西、湖南、湖北、河南の諸省は、
實に支那本部中の形勝を占め、
其水利四通八達して、
地味の膏腴、産物の豊饒、運輸の便、通商の隆、
他の各省に冠絶するのみならず、
英國の獲得せる鉄道利権を見れば、
滬甯鐡道一八三哩、
松滬鐡道十哩、
滬杭鐡道百十四哩、
唐河秦皇島鐵道九十六哩、
廣九鐡道百十哩、
津浦鐡道南段二五十哩等にして
要するに支那通商上重要の地點に向っては、
英國は他國をして一指を染めしめざるの概あり。
更に印度より縦貫する大鐡道をして之に聯絡せしめ
以て支那に於ける經濟的實權を其自國に攪取して動かぎらしめんとす。

 而して英國は又た単に此の如き平和的施設の外日露戦爭の機に乘じて、
西蔵遠征の師を出し、
既にして革命動亂の起るや、
露國が外蒙古の自治を提唱したるに傚ひて、
英國も亦た西蔵の自治を提唱し、
終に英露協約に由りて、
西蔵を擧げて之を其勢力圏内に歸せしむるに至れり。

抑も西蔵は唐代吐審の地、地薄く氣寒く五穀登らず、
英國の必ず此地を爭ふもの、
固より通商貿易の利あるに非るヘし、
たゞ其地勢、北はホータンを控へ、
西は哈密高原を負ひ、
南はネボール、プータンに接し、
東は打箭路を經て、四川の雅州に達すべき天然の要害にして、
此に據れば露国南下の路を抛し印度緬甸の北門の鎖鑰たるに足るを以て、
英國は支那に於ける利権確保の背面計劃として、
此くの知き外見無用の地に戀々たるのみ。

 西蔵は其路四川に通ぜり、
四川は支那最大の富源にして面積十六萬六千八百方哩、
人口六千七百七十一萬二千人百餘、平野悉く桑樹を以て蔽はれ、
山には諸種の鉱物を産し、
石油層の知きは其廣さ方二十五萬吉米に及び、
而して揚子江の上游に當り、緬旬西蔵の咽を占む。
是れ英國の必ず閑却すべからざるもの、
果然英佛協商の結果によりて
英國は佛國と共に四川鐵道の共同敷設をなすことを約せり。

 其他英国が威海衞を以て其租借地となし居ることは、
ここに之を辨するの要なし。

 


内田良平「支那観」四 共和攻府の前途如何

2020-06-30 09:05:08 | 内田良平『支那観』

 
         

   内田良平「支那観」

       


四 共和攻府の前途如何


  支那の國民性は以上述ぶる所の如し、吾人は此に至て左の一間を凝せざるを得ぎるなり、曰く、現代の支那は果して自ら其政局を收拾し、其國家を統一し得べき歟、
 假に一時小康を保ち統一の形を成すを得るとするも、果して克く其内政を整頼し財政を整理して堅實なる國家建設の目的を達するを得べきや否や、

 實に前章にいへるが如く、世界の國民中、その性情の劣悪なる、支那國民の知きは稀なり、
彼等は自家を中心として其政權慾を逞うするの兇漢に匪ずんば自家の私利私福のためには如何なる差恥をも忍受するを辭せざるの険民なり。
 彼等に政治的機能なく、彼等に國民的精神なく、彼等に敵愾自強の志気なし、主義といひ、主張といひ人道といひ、名分といひ、彼等の前にて固より何等の意義をなすものに匪ず。
 彼等は自家以外の何物をも顧みることなければなり。

 故に支那の國民若くはその政治家に臨むに時局を収拾し國家を統一し内財政を整理し、外威信を列國に立てん事を以てするが知きは、寧ろ之を望むものの事理に通ぜざるなり。

 動亂以來、其國民は爭うて外人勢力の保護下に避難し、一向自家の生命財産を拝禦するの外、國家の存亡の如きは、未た嘗て之を眼中に置かざるなり。

 其政治家は滔々として放縱なる黨爭を事とし、手段を擇はず、羞耻を知らす、唯だ自家の便宜のために一時の窮策を弄して、國家百年の大計の如きは、未だ嘗て之を顧慮するに遑あらぎるなり。

 看よ彼等は其國土内の至大の利權を以て之を外人に附與し、若くば其土壞を割讓するに至るも、恬として視て尋常茶飯の事となすに非ずや。
 此くの如くにして、彼等の希望する謂ゆる共利政治の社會を創成するは、木に縁りて魚を求むるよりも甚しきものありといふべく、樅し千萬歩を讓りて、其形式に於ては意法制定せられ、大總統確撰せられ、共和の新政府組織
せられたりとするも、支那の國民が其新政治の連用を全うせんことは、水中月を撈ふるよりも難かるべし。

 或は曰く支那の大勢は既に大に定まれり、長江討袁軍の失敗は、瞶々無節制なる支那の政論に變調を生ぜしめ、老奸袁世凱に與ふるに、共利政體は中國に適せず、共和は内亂の基なりとのロ實を以てし、袁は孫黄をして再起の餘地なからしめんがために、此機に乗じて其黄袍の理想を實行し、茲に變形の立憲帝政を樹立し、兎にも角にも時局は一時定すべしと。

 然れども果して此くの如くならしめば、東亞の形勢は益々混沌に陷らざるを得ず、何となれば、現今列強の中、何れの一國も袁世凱の如き不信、騙詐不信爲さゞる所なきの政治家に依賴して、其權域の安全を保ち得べしとなすものはあらざるべく、袁世凱にして優孟的ナポしオンに化したるの日は、勢ひ列強の其酷烈なる武力と厳密なる經濟的制肘を加ふるの日たらざるを得ず。
 語を換へて言へば支那分割の巨霊は之より大に實現すべければなり。

 我日本帝國の軍事的位置と、経済的位置は、支那の憲政たると、共和たると、固より干繁ある筈なし。
 然れども其支那彊域の靖和なると、擾亂なるとは其通商上に於て、利害の波及する所、實に他列強と同日にして論すべからす。

 加之ならす対強権域の変化に依る軍事経済兩面の変遷に至りては、帝国安危の分るる所にして、場合に依りては、決して一歩を輸するを許さゞることあり。
 見ずや、帝國の経營に依りて、其の他方富力を増進し来れる南満鐡道沿線の重要税目の如き、無謀なる支那政府は之を借款の担保に供し、若しくは其競争線たる、蒙古鐡道を擧て、之を露国の権域に置かむとするが如き、其列國の均勢を平和の標準に置かすして、交讓の間毎に禍胎を包蔵するもの、將來をト想するに難からす。

 嗚呼支那民國、竟に共和同治の素質なくして、列強抗爭の根を蔵せり、他日其政局を收拾し、統一的平和を迎ふるの期は、我輩の豫想する所に非る也。
                          (権藤成卿)


内田良平「支那観」三 農工商社會

2020-06-23 10:30:36 | 内田良平『支那観』


内田良平「支那観」
      


三 農工商社  

 支那の普通社會とは、農工商の加き、唯だ個人の利を逐うて生活するものを謂ふ。
彼等は全然個人本位にして、個人の生命財産だに安全なるを得ば、君主の如きは戴くも可なり。
載かざるも可なり。
  
 其の國土の何なる國に属するが如き、強いて問ふ所にあらす。
数千年来、彼等の國王には、或は姓劉なるあり或は姓李なるあり、姓趙、性奇渥恩、性愛新覚羅、皆固より問ふ所にあらざるなり。
一朝にして其姓變じて、英となり、露となり、佛となり、獨となり、若くは日となり米となるも、又た固より問ふ所にあらざるな。彼らの祖先の謠ひし所、井を鑿(うがち)
飲み、田を耕して食ふ。

 帝力我に於て何かあらむとは、實に能く彼等の性格を表白せるものにして、彼等はただ租税を徴せらることの少きを願ふのみ。
徭役の累なからんことを願ふのみ、文法の繁苛ならざることを願ふのみ。

 彼等は數千年來の謂ゆる爲政者なる者、種々の文法を設けて百姓の錢財を奪ひ、既に錢財を得れば、自己の房室を營み、自己の衣服を營み嘗て百姓の休戚を以て其心頭に置かざるを熟知し、終に賊と官とを同視するに至る。
故に彼等は、個人の利益とならざることは決して爲すを好まざるなり。

 政事上の爭闘の如きは、彼等に在ては寧ろ其産業を妨害するの一大非行にして、其事や政治社界一流の人に屬し、一般人民は、其理非を問ふの要なきものとなすなり。
政事上の闘爭と雖も、固より正不正の別なきに非るべし。然れども支那社會の感想に於ては如何なる正義の者をも、自己の利益を損して之を助くるが知きは其分に非ずとなすなり。

 彼等は唯だ力あるものに届従して、自己の生命財産を全うすれば、以て足れりとなすなり。
政爭者の理非善悪を評する如きは史家の任務にして後世心ず定論あるべく、普通社會の之を云々するが知きは唐喪難唾、極めて無用の事なりとなすなり。

 吾人嘗て西漢の文人楊惲が其友に送るの書を讀む。
曰く、
君子道に遊び、樂しんで以て憂を忘る、小人驅を全うし、説(よろ)こんで以て罪を忘る。
窃かに自ら思ふ、長く農夫と爲り以て世を沒(おわ)らんと是故に身妻子を率ゐて力を耕桑に戮(つ)くし、園に灌ぎ産を治め以て公上に給す。
田家苦と作す、歳時伏臘(=夏まつりと冬まつり)、羊を烹、羔を炮り、斗酒自ら勞す。

 家本(もと)秦なり、能く秦聲を爲す。
婦は趙の女なり、雅(が)と善く瑟を皷す。
歌ふ者數人、病後耳熱すれば、天を仰ぎ缶を拊て鳥々と呼ぶ、其詩に曰く、彼南山に田す。
蕪穢治らず、一頃の豆を種うれば、落て萁(まめから)となる。

 人生は行樂のみ、富貴を須ふる何の時ぞと是(この)日や衣を拂って喜び、袖を奮って低昻し、足を頓て、起舞す。誠搖荒にして度なきも其不可を知らぎるなり。
賤を糶し貴を販して什の利を逐ふ。

 菫生云はずや明々仁義を求めて常に民を化する能はざるを恐るる者は、卿大夫の意なり、明々財利を求めて常に困乏を恐るる者は、庶人の事なりと、故に道同からざれば相爲に謀らず。
看るべし支那の農工商社會が、自己利益以外の事を以て我れ関せず焉となすは、其由來極めて遠く、今日支那の覺醒と稱するものも畢竟一部外國遊學生等の洋籍を生呑活剥したるに過ぎずして、一般國民に在ては、政爭のために自家の産業を妨害せらるるは、事ろ其苦痛に耐へざるものたる事を。

 或は云はん舊日の支那は實に此くの如し。
 今日の支那は大に其面目を一新せりと、然れども、支那の一般國民にして、眞に悉く世界の潮流に促されて其の頑夢を一掃し國家の何物たるを解し、憲法の何物たるを解し、民權の何物たるを解し、自由の何物たるを解せしめば、我が帝國が今夫の革命に對して如何に好意を表したるかを聞くに及んで、彼等は涕泣して感謝を表せざるべからざるに非ずや。

 然るに事實は全く之に反し、袁世凱政府の欺瞞、革命煽動の責任を帝國に嫁するや、彼等は早くも我商品に對して排貨運動を開始したるを見は、彼等は依然如何なる政爭と雖も、自己の産業を攪亂するに過ぎざるものとなすを知るべし。
 吾人は我が政論家中、毫も此消息に通ぜぎるものあるを見て、轉た慨歎に耐へざるなり。

 伊集院査吉、袁世凱の譌に圖り、大養毅、孫文黄興諸輩の爲に圖り、各其の説を作し、之を以て其旗鼓を樹つ。
然れども是れ南北支那政爭の是非荷する所あるのみ、支那一般農商工社會に在りては、敢て関する所に非す。
 但だ我政府の對支方針は、畏首畏尾疑懼を間に彷徨し、南方諸人には威信を曠ふし、北方諸人には怨憤を買ひ、笞後の姦夫の如く爾るもの、吾曹の遺憾となす所なり。

 我兄只だ日本帝國を基礎として對支政策を論す。
其民俗性能を説いて、此一節に入る、百尺竿頭一歩を進めたるものと謂はざる可からず。
                                   (權藤成卿)


内田良平「支那観」二 遊民社曾

2020-06-19 20:31:38 | 内田良平『支那観』

               
    内田良平 「支那觀」


二 遊民社曾

  支那には一種遊民社會なるものあり。
是れ秦漢以来、豪侠を以て自ら任ずるものにして、
彼等平生の職業は人家を叝奪するに在り。
墳墓を發掘するに在り賭博をな
すに在り。

 其の眼中に政府もなく、祖國もなく、仁義もなく、道もなく、
其理想とする所、唯た自己の快活を得れば足れりとなすものにして、
秤を論じて金銀を分ち、異様に紬錦を穿ち、成瓮の酒を喫し、
大塊の肉を喫せんとするの外他の何物も顧みる所にあらざるなり。

 馬賊と呼ばれ土匪と呼ばれるるは、此徒の一類に属す、
而して支那國民性の惨刻狼毒は實に此徒によって代表せらるると謂ふべく。
今小説水滸によって、其の殺人の残忍なるを状せば、
那の婦の婦人の頭面首飾衣服を把って都ベて剥了し、
兩條の裙を割き、婦人を綁して樹上に在り、
刀を把り、先ず舌頭を舌を穵出して一刀ち割了し、
且つ那の婦人をして叫(サケ)び得ざらしめ、
罵って道(イ)ふ、這の婆娘(ヲンナ)の心肝五臓怎地(イカ)にか生着する、
我且つ看一看せむと、一刀心窩裏より、
直ちに割いて小肚子下に到り、心肝五臓を取り出して、
掛けて松樹の上に在り。

 又た彼等が古墳を發掘するのは状は、
司馬遷の史記、既に之を看過せざりし所にして、
唐の詩人杜甫亦た
   昨日玉魚蒙葬地、 蚤時金盌出人間
の句あり。

 而して支那の國民性が先天的盗心あることは孟嘗君の客中、鶏鳴狗盗あり。
呉の孝子陸郎が橘を懐ろにしたるあり。東方朔が桃を偸みたるあり。

 俚諺に巡
人夜を犯すと云ひ、論語に季康子盜を患へて孔子に問ふ。
 孔子封へて曰く苟くも子の不欲なる、之を賞すと雖も竊まずといへるが如き、
古來支那はその官民を通じて盜心の發達したりし明證にあらずや。

且つ支那人は食人族なり。

   腿上兩現の肉を割下し來り、些の水を把って洗淨し、
   竈裏些の炭火を抓し來って便ち燒く、
   一面に燒き一
面に喫し、喫し得て飽了す。
といふが如き、支那小説を除き、世界何の處に斯かる殘忍の記事あらんや。

 支那は孝を以て道德となす。
而して支那の謂ゆる孝子は多くは孝を賣りて自利を計り、
孝を名として其性命の急を免れんとする者なり。

 定めて我を殺さんと要す、
我が假意(イツワリ)叫んで家中個の九十歳の老娘あり。
人の養贍する無し、定めて是れ餓死せんと道(イ)ふを喫し、那の驢鳥、
眞個に我を信じて、我が性命を饒了し、
又た我に一個の銀子を與ふ、
といふが如き、吾人は一部孝経の功徳、唯だ此くの如くなるを歎ぜざるを得ず。

 支那人は詐欺を以て能事となすの風あり、
席を相て令を打すとは當座間に合せの詐欺をいふなり。
贓を抱いて屈と叫ふとは其厚顔なるをいふなり。
是皆支那人を
實寫したるの語なり。

 賭博は支那に於ては、決して罪悪に算へられざるなり。
孔子の聖を以てするも、其論語中、
飽食終日爲す所なからんよりは、博奕をなすを可とすといへり。
故に支那の遊民等は日々賭場に去り、
輸し得て分文なきに至れば、其老母頭上の釵兄を討了するに至る。
其兄此くの如し、其弟何ぞ然らざらむ。
説く莫れ哥哥贏たずと、我も也(マ)た輸し得て赤條條地といふもの比々皆然り、
回也屢空し、賜也屢中る、
豈個中の消息にあらずといふを得んや。

 如何なる社會を問はず、支那は賄賂を以て罪悪となさざるのみならず、
信敎の経典の如きも、大要賄路を用ふるの手段を講じたるものといふを可とする如し。

 周易に包むに魚有れば咎なし、
包むに魚なければ凶を起す、
杞を以て瓜を包めば、
章を含で天より隕ると有りといふが如き、
包むとは苞苜の義なり。

 苞苜は則ち賄略なり、
孔子の語に禮と云ひ禮と云ふ玉帛を云はんやとは、
支那の謂ゆる禮は賄賂と其意義を同ふすることを暗示せるなり、
孟子の王何ぞ必ずしも利をいはん。

 また仁義あるのみとは、支那の謂ゆる仁義は賄賂を用ふるの良法たることを暗示せるなり、
到底支那は黄金萬能の國なり、
有錢千里通無錢隔壁聾の語は、支那に在ては警策の語といはんよりも、
寧ろ事實の直叙なり。

 公人の錢を見るは、蠅子の血を見るが如しの語は、
獨り之を公人
一のみに嫁すべきにあらず。
支那人の錢を好むや、幾んど水裏には水裏に去り、
火裏には火裏に去るものなり、
彼等が戦鬪に怯なるに似ず、
弾丸雨飛の間に闖入して死屍の懷中を探るが如き、
吾人は論語に根也慾焉くんぞ剛を得んの語あるを思うて、
咥笑を禁ずる能はざるもの有り、
彼等性格の改まらざる、數千年猶ほ一日の如きものあるなり。

 支那人潘慾の肉的なることも亦た、其特性の一に算へざるべからず、
何ぞ唯だ奴の婢を見て慇懃なるを笑はんや、
孔子の謂ゆる德を好むこと色を好むが如きものを見ざるは、
支那人を知るものにして、始めて其語の味あるを知るべきなり。

 支那人の不潔を不潔とせざるは亦た他邦人の顰蹙する所なり、
彼等の語に抛屎撒屙といひ、屙屎送尿といひ、
屎意の氣人を薫ずといふが如き、
支那全地擧げて是等の語の實證たらざるなく、
試に杭州岳王廟畔に至らば、支那第一忠義の霊、
亦た此不潔中に血食するを見るべし。

 支
那人に物の保存力なきは、
幾んど亦た呆然に價するものあり。
 彼等は道路の敗壊を見て之を修覆するを知らざるなり。
山林を濫伐して之を補植するを知らざる
なり、黄河の汎濫を防がずして、
北方地力の減退を致せるが如き、其由來亦た此に存す。

 此故に彼等は其郷土に戀々たるが如きものに非ず、
苟くも一身を利するに足れば、
天涯地角、何くに徃くとして可ならざるなきなり。
彼等言ふ鈍鳥巣を離れずと。

 以上は必ずしも遊民に限りたる特性にあらす、
唯だ一般支那人の劣惡なる性格は、遊民も亦た免る所に在らず、
彼等を以て眞々實々半點兄の假性なきものとなすの謬見を恐れて、茲に列記したるのみ。

 遊民社會の記事を終るに蒞み、
吾人が特に注意せざるべからざる事は、
此社會は政治社會と普通社會の中間に在りて相互勢力の消清長を支配するものたること是なり、
遊民社會にして、政治社會の驅使を甘んぜば、
普通社會は如何なるを虐政をも忍ばざるべからず、
遊民社會にして農工商社會の爲に力を出さば、
知何なる權力も行はるべからず。

 昔は洪秀全の亂、秀全實に此社會を驅りて其兵となせるなり、
而て之を用ふるの術は、固より財を興ふるの外なきも、
彼等に一の悪癖ありて、其財餘あれば決して他人の用をなさず、
茲に於て秀全爲に一計を接出し、
障中購博に巧なるもの多數を養ひ、
一方に於て之に財を與へ、一方に於て其財を奪ひ、
彼等をして常に貧に、常に驅使を甘んぜしめたりしといふ、
是れ實
に此社會を駕馭するの法たるなり。

 古墳發掘盗賊、食人、竇孝、詐欺、賭博、賄賂、淫慾、不潔、保存力なし、等の
支那民俗の性情的動作は彼禮儀三千威儀三百中に胚胎せるものが、
周公の時、既に是の如き煩瑣なる文法あるにあらされば、
此畸形國民を如何ともする能はざりしものか、
子は往年長江地方の饑饉に際し、我海産物の賣行を危虞し、調査せしことあり。

 其派遣者の報告中海産物を要求するものは、
大抵中流以上の紳士なれば假令饑饉死者あるも、
別段賣行及時價に影響なかるべしと云へるを見て稍奇矯の感をなせしが
翊春季に及び、日々數百の餓莩あるにも拘わらず、
我海産物の購買力は依然として戀ずる所なかりしなり。
餓莩を並べて美食する支那紳士は尚ほ饑人の食を奪ふを忍ふものに非すして、
饑人を見ること土塊の如きものなり。
                       (欇藤成卿)

               


内田良平「支那観」三 支那人の國民性

2020-06-18 22:33:20 | 内田良平『支那観』


  内田良平 「支那觀」

三 支那の國民性

 元来支那の社會には大要三別あり、
  一、 讀書社會即ち政治社會 
  二、 遊民社會即ち政治社會
  三、 農商工社會即ち普通社會
請ふ一々此の三種の社會の特質を観察せん乎、

    一 讀書社會
 唐宋以後、科舉の法を設けて官吏を登庸せしより讀書人は社會の上流を占め、
支那に於いて政治の得失を談義するものは皆此社會に属す。
 特に清初李自成の亂ありしより康帝の意中、
天下を亂るものは讀書人に在りとなし、
讀書人を優待して以て其禍根を絶つの策を建て状元試験に及第せしものに、
一躍知府の位地を得せしめたるにより、人々競うて此に従事したるは、
是れ讀書社會の起りたる所以なりとす。
 
 而して俗諺に三年の清知府十萬の雪花銀とは、
能く此社會の状態を描寫せるものといふべく、
彼等は賄賂を以て試験に及第し、
賄賂
を收めて私産を造り己れに賢るものを妬忌排セイ(注:ハイセイ=陥れる、押しのける)して以て其権勢利福を求むるの外、
一念の国家の存亡國民の休戚に及ぶものに非ず。

 今や科擧の法は廃せられたりと難も、
是れ唯だ讀書其物の形式を變じたるのみ黄金萬能が支那國民性の痼疾を成し、
堂々たる政治家と自稱するものにして、
言清行濁、其心事里巷の牙婆と
毫も擇ぶことなきは今猶ほ古の加きなり。

 吾人曾て金聖嘆の言を聞く、曰く
   銀の在る所、朝延の法綱も亦惟だ命ずら所なり、
   銀の在る所、名誉身分都ベて復た惜まざるなり、
   聖賢豪傑の心事、青天白日の如しと雖も、
   亦必ず此を以て其愛敬を將(オコナ)ふ、若し之れ無くんば、
   便ち冷淡の甚しきが若きなり、是物あれば陌路皆親み、
   豺狼猿亦た顧み、分外熱鬧なるなり、
   千古人倫甄別の際、或は月にして易り、
   或は旦にして易るは、大約此を以てなり、
   本官の屬吏と親しと謂ふ可きも、而かも必ず指を染む、
   諺に蝨を搯(ツカ)んで脚を偸むといふもの比比然るなり、
   但だ是物あれば、即ち事として周旋す可らざる無く、
   人として力を効(イタ)すを願はざる無きなり、
   只是れ金多く人に分てば、口々傳へて美談と爲す、
   信乎名は銀を以て成る別法無きなり。
   嗟乎士にして貧なる、尚門を閉て道を學ばすして、
   尚ほ世間に游ばんと欲す、
   多く其の時務を
を知らずと爲すを見るのみ、豈大に哀まザらんや。

 是れ實に支那國民性の痼疾癒すべからざるものにして、
今の革命、共和假政府の建設を見るに至りても、黨爭排サイ其極に達し、
終に南北の軋轢となり暗殺となり、挌鬪となり、再亂となり、亡命となり、
内には土匪の績發を招き、外には外藩の抗命、列強の逼壓を見るに至るも、
彼等恬として自ら省みるを知らざるもの、
皆な此の國民性の劣悪に原因す。

 之をかの佛国革命の際バレールが國會議場に於て發議したる、

 凡そ我國民は皆債を自由に負へる者也、
力ある者は力を竭し財ある者は、財を致し、
均く其血を国家に灑がざる可らず、
苟くも國民たる者は、男女となく、老幼となく、自由の爲に扞禦するを勗めよ、
あらゆる物質的精神的力量、あらゆる政治的社會的手段、
皆此一事に集注せよ、
あらゆる金銭、あらゆる物資皆此一事に傾倒せよ、
国民は、内に在りて國民たると、外に在りて軍たるとに論なく、皆同心事に從へ、
壯丁は戦闘を力めよ、有妻者は式器を造れ、行李大砲を運搬せよ、食糧を準備せよ、
婦女は兵衣を縫へ、傷者を看護せよ、大砲を造れ、小児は綿撒絲を解け、
老人は路上に演設して戦士の勇気を鼓舞せよ、
國民の一致を奨働せよ、
公共の房屋は兵營に充てよ、廣場は工廠にせよ、地窖には硝石
を蓄へよ、
鞍馬は騎兵用とせよ、駄馬は砲兵用とせよ、
獵銃刀槍は内國守備の用に供せよ、
共和国を擧げて重圍中の一大都城の如くなれ、
佛国を變じて一大陣營の如くなれ。

 といへるに比し、其氣概の涇涇、固より同日にして語るべきものにあらざるなり。

 周の時其後を率ゐて天下を横行せし讀書人は、孔丘孟軻張儀蘇秦の類なり。
其口治國平天下を唱へて、諸危を傅食す、讀書人の典範此に立って、
秦の焚書坑儒に及び、而て竟に其迹を絶たず。
 
 支那の讀書人、自ら畸形國の畸形児、
其欲望する所は十萬の雪花銀、
之を被の佛國の革命に比するは、只氷炭の別のみ。
予は、一昨年支那革命の乱に際し、
海峡殖民地を中心とせる各開港地に於る歐米人の設立せる銀行に支那人の預入せる金額の概略を計上せしに
無慮三十餘億に上れるを見其各地在留の支那人が、
毎戸に革命旗を飄せし結果は、
彼の革命仮政府が發賣せし公債の景気良好ならむと思惟せしに豫想は全く之に反し、
些々たる五十萬圓も、
わずかに強壓の下に応募せしめしに過ぎす。

 而して彼れ革命黨諸輩は一転して我帝国に借款を要請し、
其不成立を見るに至り、終に悪口毒言を以て之に酬いたり。

 沓々たる支那國民は如何なる場合に於いても、
力あものは力を竭(ツク)し、
財あるものは財を竭すの意気あるものに非ず。(權藤成交卿) 

              





内田良平 「支那観」二 支那革命の性質

2020-06-17 21:50:49 | 内田良平『支那観』

           
    内田良平 「支那觀」
          

二 支那革命の性質

 革命の動亂は、一面より視ればに支那國民の醒覚たるべし、滿廷を破壊し、共和制を建設し、到る所に民権拡張の講説を聞くもの、其外観何そ嘗て英佛の昔日に似ざらんや。

 然れども支那は一の畸形國なり。政治結社とも普通社会と全然分離して別社会を形成し相互の間、風馬牛相関するところなし。
民は之に依らしむべからずの語を以て、数千年来支那政治家の金科玉条となしたる結果、此くの如き一種の畸形国を鎔冶するに至たる。
固より朝夕の事にあらず、故に支那の革命に對して、其革命の名があるがために、
之を泰西の革命と同視せんとするものあらば是れ黒白を混一するものといふべし、
由来泰西の謂ゆる革命成るものは、
政治的得失を以て痛切に其休戚を感ずる人民の發意に出るを以て革命の序幕は常に其政治の首府に於て開始せらるるを例とする。
即ち首府に行ける國會の抗争の如き是なり。

 然るに支那の革命なるものに至ては、
其事情大いに異なり之を数千年間の歴史に観るも、
革命の主唱者は多く地方より起り如何なる秕政に對しても首府の人民の起つて之に反抗したる例は幾ど稀なり。

實に支那に於て首府の人民が眞に革命に近きの擧動うぃおなしたるは唯僅に周の厲王の暴虐なるに當り國人之を襲うて王をして西山に奔らしめたることあり。

有史以来前後唯だ此一回稀有の例となすのみ。
吾人請ふ左に三代以来、革命當時の首府と

革命の唱へられたる地方とを掲げて、此の畸形國の實相を示さん。
  時代   革命當時の首府    革命者の根據地 
  夏    安邑山  山西省     毫   河南歸徳府   
  殷    朝歌   岐豊      陝西省  
  周    洛     河南      七雄割拠 
  秦    咸陽   陝西      山東の豪傑並び起こる
  西漢   長安   陝西      簒奪  王莽
  新    長安            春陵  湖北嚢陽府
  東漢   洛陽   河南      簒奪  曹丕 
  魏    洛陽            簒奪  司馬炎

    當時は成都に拠り、呉は秣陵に拠り、魏を併せて三國と称す、
  晋    建業  江蘇江寧府   簒奪 劉谸 
    當時跖跋魏北荒より起りて洛陽に都す、
  宋、斉、梁、陳、建業
   跖跋魏分れて東西となり、東魏は鄴に都し、西魏は長安に都す。
   魏は長安に都す、 
   東魏は北斉の簒奪によりて亡ぶ、
   西魏は宇文周の簒奪によりて亡ぶ、
   字文周遂に北齊を併せ、長安に都す、
   内戚楊堅其位を奪ふ、之を隋となす。

  隋   長安   大原 山西省   
  唐   長安   抃州 滝南灯磨
  梁   抃     晉 
  後唐  洛陽   河東 
  石晉  抃    契丹の滅す處となる
  劉漢  同    鄴 
  郭周  同    陳橋驛  
   梁以下五代の間、契丹強盛、塞外を奄有し、國號を遼と稱す、
  宋    杭州府  蒙古
      北方の強、遼の次に金、金の次に元起れり、元の根據地は即ち蒙古なり、
  元   燕京    濠州
  明   北京    満州
  清   北京    武漢地方 

 要するに、支那の革命なるものは、秦西の謂ゆる革命なるものとは、
原因を異にし、経過を異にし、結果を異にし、決して彼此同一視すべきものに非ず。
而して其此くの如きを致せるものは職として支那の社會組織が畸形的なるに由るなり。

 我當局
者始め清朝政府に寄託し愛新覚羅氏の為革命黨員の監視に任にせしこと多年
一朝南支那の自旗気勢を加ふに至り亦愛新覚羅氏に一顧を與へず
乃ち信を両面に隤し國際の軌準殆ど憑る所を失へり支那民族の雷同的にして一致的ならざる大原因を明らかせば
清朝滅亡と革命成立の容易なりし所以を知るべく
而して其将来に於ける人心の変動と共和政府の基礎如何に浮弱にして危殆なるかを想像するに難からず
我帝国當局者は歡を袁政府に結び信を逃亡せる當年の革命諸子に賣らんと欲する乎(權藤成卿)
 


内田良平 「支那觀 一 支那保全論の起源

2020-06-16 20:57:47 | 内田良平『支那観』

               
    内田良平 「支那觀」

 支那の將來は如何、是れ今日荷も時局に注目するものの、
聲を同うして發する所の疑問にして、亦實に至大の疑問なり、
此疑問を決するに匪ずんば、
我帝国は、其軍事外交、皆都ベて手を下すの道なく、
獨り鄰邦の存亡に關するのみならず、
惹いて東亞の大局世界の大勢に波及し、利害の渉る處、
將に其津涯を測る能はざるものあらんとす、
是れ吾人が自ら揣らず、
爰に鄙見を被瀝する所以、
吾人豈に謾りに言を好むものならんや。

一 支那保全論の起源 
 喜望峯の航路一たヴスコ・デ・ガマによって開かれしより、
世界列強の支那分割を夢みたるは、
蓋し一日にあらざりしも然かも未だ敢て卒爾に手を下さす、
纔に英の緬甸香港を占領し、佛の安南を略し、露の北邊を侵すが如きに止りたりしが、
日清戦爭の結果、日本の一撃は憐むべし彼の老敗国の弱勢をして、
大に世界に暴露せしめしかば、
是に於て乎、獨逸の膠州灣租借となり、露の旅順大連湾租借となり、
佛国の廣州灣租借となり禹跡の金甌も忽ち瓜剖豆分の状勢を現ずるに至り、
支那保全論の始めて唱へられたるは此時にありき、
葢し日本の立場よりいへば、支那を列強の分割に附し、
列強をして忽然我が一衣帯水の對岸に出現せしめ、
以て我が国防の位置を危うからしむるは、
固より其の忍び得る所にあらざる、一なり、
  
支那は我が唯一絶好の貿易市場にして、
其衰滅は我が通商上の大利害に関繫する。二なり、

支那は我が數千年來の善鄰にして且つ同州同文唇齒輔車の勢あるもの、
之をして看す看す印度猫太の伍に班せしめんことは、
我が日本男児稜々たる侠骨の
肯んぜぎる所たる、三なり、

此三故あり、
是れ實に我日本の國論をして支那保全に傾かしめたる所以にして爾来日英日英同盟となり、
日露戦役となり國帑を空うし、壮丁を殲くし、咄嗟叱咜を以て強露と相抗爭せるもの、
皆此國論に基づきたるに非ざるはなし、
而して日露戦役に於ける日本の連戦連勝は勿論支那保全主義の勝利にして、
露は之がために遼東半島の根拠地を失ひ物、獨佛二國亦たやや、気勢を減するものあり、
東亜の均勢將に大に恢復せられんとするに庶幾かりしに、
時乎、支那は再び混亂紛糾の状陥れり、謂ゆる革命の動亂是なり、
當時、支那保全の意義は、唯だ国土を保全するものの如く、
清朝を其國土と共に保全するものの如く我當局者の如き、
固より眼前の趨向を顧みず、
徒に列強の對支外交の潮流に浮動し彼の革命亂の突發に際し、
在朝諸公一人も、大勢の巳に決するを予測するものなく、
大隈伯の如くに至りては、口を極めて革命黨の為すなきを豪語せられたり、
而して事己に決するに及んで、我帝國の之に處する所以を討究せんは、
亦甚だ遅暮の感なくんばあらざるなり、
宜なるかな、是の如きの大勢に居りて、
此の三故を決するを得ざりしや(権藤成卿)

                   


 


内田良平「日本の亜細亜」徳川氏と鎖国及び油井正雪  

2020-03-27 17:11:24 | 内田良平『支那観』




内田良平
「日本の亜細亜」
(212頁~220頁)
 


徳川氏と鎖国

 

 豐臣秀吉薨去の後、德川家康專私にして秀吉の遣命に背くものあるを憤り、天下の諸侯は二派に分れて、大阪方其實石田三成方と家康方となり、遂に關ヶ原の戦役に及び、小早川秀秋の裏切りによりて家康大勝するを得、政權は全く徳川氏に歸した。家康の政策は秀吉の積極的進取と正反對なる消極的退嬰であって、秀吉の非閥族主義、生産主義を寶行せし政綱は、閥族主義、金融資本主義に改められた。

 之れは積極政策の後に消極政策の必要あるより起った變革なるかと云ふに、決して左にあらす。秀吉は國家本位にして家康は自家本位なること、恰も現代に於ける國家主義者と個人主義者の如く、思想の根底に於て異なるものがあったからである。



〔家康の殘忍性と利己主義〕

 家康の極端なる利己的個人主義は、自己の利のためには如何なるものと雖も犧牲に供する殘忍性を持って居た。我が子の信康が信長の嫌疑を被り、自身の立ち場に困る事が起りたるより、猫子を棄てるよりも容易に我が子を殺して仕舞ふた。信康は勇猛の性質であったから、近臣を手討にするなど過激な行爲もあったのであらうが、信長の嫌疑に對し、辯解の道も陳謝の道も盡さず殺したと云ふのは、秀吉の秀次を殺したこととは全く性質を異にして居る。

 秀次は關白の重職に在りながら、外征軍國の重大時に當り、暴虐無道、淫蕩極りなく、世人より殺生關白と呼ばれし位なれば、秀吉が之れを殺したるは賞罰の私なきを天下に示した譯ともなって居る。

次に家康の秀頼を殺したるは、秀吉の委託に背くのみならす、討滅すべき理由は少しもなかったのである。


〔秀頼の討滅と家康の後圖〕

 家康は當時天下の諸侯が秀吉の恩顧を思はざるものなき状態に在り、且つ秀頼の性質凡庸にあらす、身長六尺有餘堂々たる美丈夫にして人心自ら之れに歸すべき虞れあるを見て、茲に己れの死後を思ひ、陰險なる謀を廻らして鐘銘に口實を設け、遂に兵を催して大阪方を滅ぼした。
 之れ等の行爲は秀吉が天下統一の必要上、信長の子に對して執った處置と其の事情を異にするのみならす深刻なる殘忍性を發揮して居る。

 秀吉は国家主義より、家康は自家主義より、寡婦孤兒を滅ぼした。然るに徳川氏は三百年に亘りて政權を握り、子孫今尚ほ繁榮して居るに見れば、大道の是非を疑はざるを得ぬ次第ではあるが、天道は常に善に興みし惡に與せす、只だ當時の人心が悉く個人主義に墮し、自己の利害に動きたる結果の世相を現はしたるのみで、天道に於ては、毫も怪むを要せないのである。



鎖國と由井正雪

〔島原の亂と鎖國の發令〕

 徳川家康は、慶長五年關ヶ原の戦役後十四年を過ぎた十九年の冬に至って大阪を討ち、一旦媾和して外壕を埋めしめ、元和元年の夏に豊臣家を滅ぼし、其の翌年薨去した。二代秀忠の時代は短かく、三代家光臣家の寛永十四年、大阪の殘黨及び諸国の浪人は、耶蘇教徒が禁教壓迫せられ居るを利用し肥前島原に亂を起こした。
 於此、徳川氏の退嬰政策は愈々極點に逹し鎖国の令を發して海外に在るものは日を期して歸國せしめ、後るる者は嚴罰することにした。其のため海外在住の多數は歸ることを得す遂に異境に一生を終ることとなった。

夫れのみならず、日本の經濟上には大なる影響を及ぼし、鎖國反對の潜勢力は非常なものがあった。


〔鎖國と諸侯の困迫〕

 其處に乘じて起ち上ったものが山井正雪と云ふ浪人てあった。正雪は當時沿海に領地を有する諸侯の多くが、海外貿易によって領地の石高以上に收入を得、其の收入は所領に添ふた所調表石高幾何、實收幾何あるものとして居た大切なる財源を封鎖せられ、所領削減に遇ふたと同樣なる憂き目に遇ひて不平滿々たると、
 他面には通商貿易に從事して居た商人等が、遂かに業を失ひて生活上の打撃を被り、其の結果氣慨ある者等は痛く德川氏を怨み、又た貿易業者にして、中小貿易者の金鎖国と油井正雪融を爲し居たる富豪等が悉く諸侯に對する金融業者となり、
 諸侯は収入減より借款の止むなき財政難に陥り、爲に富豪に制せらるる苦痛に堪へず、鎖国解禁の志あるを見て、諸侯及び富豪を論き、窃かに鎖國反對同盟を結び德川氏を倒す謀を廻らしたのである。



〔正雪の着眼〕

 故に正雪が多くの浪人を養ひ壹萬石以上の生活を爲して居たと云ふのも、畢竟諸侯及び富豪中の同志者間より後援を得て居た結果に外ならぬのである。正雪の知謀は、天皇を奉じて旗を擧げ、總帥を戴き諸侯の同盟を堅くすべく、總師には事を擧ぐるに常って直に天下の人心を歸向せしむるに足るべき地位と名望ある人物を必要とし、之れを物色して紀州の徳川賴宣を得たのてあった。

德川賴宣は、家康の子供の中に於て最も勝れたる英雄児にして、奥底の知れぬ器量があった。
此の人が単純なる自己の欲望や私的不平に驅られて甥の天下を奪はんとするが如き小人であらう筈はない。然るに正雪と結びたる所以のもの鎖國反對意見の一致を見たからであると思はれる。
 由來紀州の地は、太古より海外と交通せる土地で、鎖國令に對する領民の不平は頼宣の志と合致したるため、賴宣は如何にもして鎖國令を解かしめんと苦心せられたに相違ない。



〔明国の救援と頼宣〕

 時恰も明国は愛親覺羅に滅ぼされんとし、救ひを我が國に求めて來た。賴宣は之れを好機として鎖国令を自然解禁に導かんと欲し、明救援の出兵を主張して自ら之れに當らんと希望せられた。然るに絶對保守の幕議は、斷乎として援軍の派遣を否決したので、賴宣の憤りは勃然として破裂し、正雪と手を握るに至ったと推定せられるのでてある。


〔正雪と賴宣〕

 慶安四年、正雪は賴宣を得、擧兵の準備を急ぎつ、ある際、四月二十日、將軍家光の薨去に會して好機逸すべからすとなし、愈々擧兵の期日を定め、同志をして江戸城を襲はしむるの手筈を爲し、自身は京都に赴き直ちに擧兵に從はんと欲し、江戸を出發して靜岡に到着するや、七月二十六日捕吏の襲ふ所となった。
 正雪は密謀の發覺せるを察し、忽ち同行の同志と悉く自殺し、密謀には何等の語跡を殘さなかったが幕府は搜索の結果頼宣の正雪と關係あるを知り、江戸に召して之れを糺問した。



〔慶安事件と幕府の善處〕

 賴宣は平然として『徳川家に叛かんとする逆徒さへ、徳川一門の名を借らざれは下に信を得られざるに至っては、御家の基礎、最早萬々歳』なりと言ひ放った。老中等は頼宣の答辯に舌を捲き、尋問並に検擧を打ち切りとなし、表面市井の浪人が食ふに困りて暴動を企てたのであると取り繕ひ、大事件を小事件として落着せしめた。

 若し正雪の事件を飽く迄追及檢擧したならば、其の中には賴宣は言ふに及ばず多くの諸侯や富豪があったので、茲に窮鼠猫を嚙むの類ひに洩れず、天下は大亂となったに相違ない。其の機微を察して追及しなかった所に、常時の幕府には偉い人物の居たことが知られる。徳川三百年間に於て世に喧傳せられし程の大事件は、島原一揆と由井正雪の慶安事件及び赤穂義士の復讐位のものであったらう。


〔正雪の同情ある所以〕

 就中、由井正雪は一介の浪人に過ぎすして、徳川太平の世を亂さんとした反逆者である。其の反逆者に對して社會一般は大なる同情を有し、少しも悪く云ふ者のなかったことは抑も何に原因するか。
 それは正雪の謀叛が全國民の希望せる鎖国令の打破と天皇親政の實現を目的とし、且つ彼が事破るるも累を密盟の巨頭や後援者に及ほさなかった用意周到なることなど眞に傑出したる人物であったからであらう。



〔鎖國と國家經済〕

 徳川慕府の鎖國は、和蘭、支那の兩國艪に限り、長崎に於て貿易を許し、日本國民には全然外國と往來貿易するを禁ぜられたのであるから、國民經済の上より見れば、輪人計りで輸出は殆ど無いことになった。
 斯くて二百四十年間輸入のみを繼續した爲め、富強なりし國家も衰弱するに至るは當然である。



〔三百年間の居食ひと其の結果〕

 徳川氏は國民が三百年間險を冒して倭寇となり貿易を爲して蓄薇し來りたる富と、豐臣秀吉が天才的財政の怪腕を振ひ、未曾有の富強國を築き上げたる大身代とを、三百年間居食ひを續け、遂に食ひ潰して仕舞ふた姿となった。

  其の居食ひの存外永く續きたる所以は、國家經濟の根本たる産業政策を一轉して金融政策を行ひ以て國家經濟を彌縫したので大下の有らゆるものは悉く商品化せらるるに至り、山林田畑は申すに及ばず士の祿や知行も賣買する、商人の營業權も將た人身迄も賣買する、賣り盡した末が借金の大山と云ふ始末で降りも登りもされぬこととなり、結局、鎖国の撤廃、幕府の没落となったのは、縱令歐米諸國に其の門戸を叩かれずとも、最早沒落すべき時期が來て居たからである。


内田良平「日本の亜細亜」支那外交と足利幕府

2020-03-24 13:43:55 | 内田良平『支那観』



内田良平
「日本の亜細亜」
(144頁~147頁)
 

 

支那外交と足利幕府

〔倭寇取締りの妙策〕
 朝鮮も支那も倭寇に侵され困り拔いた末、持ち前の狡猾なる智惠を絞った結果、日本政府をして倭寇を取り締らしむるを以て妙策なりとし、足利幕府に向って第一に交渉して來たのが朝鮮であった。


〔朝鮮修交を求め来る〕

 朝鮮は應永三年使覺鎚を遣はし、義滿に寄って書を呈して隣好を修めんと請ふた。義滿は僧の中津に命じて朝鮮に答ふるの書を作らしめた。
 應永九年には明國より使節の船が來た。僧の道彜正使となり、一如副使となり三月六日海に浮び、八月兵庫に着いた。義滿は兵庫に行き、自ら明船の人を見物に出かけたと云ふ次第て、やがて使節を迎接した。
 其の状況は頗る盛大を極め、北山殿に於て正砌使の道彜一如を引見した。此の時は明國皇帝より義滿をして倭寇を禁ぜしめんとする交渉の使節であったが、義滿は逸早くも之を呑込み、八月十六日には邊民の明國侵犯を禁ずる令を出した。


〔義満の明使引見と日本國王の封冊〕

 十一年、明国皇帝は使節趙居仁を遣はし、義満に啗はすに名利を以てし、表面義滿を日本國王に封ずるなど、野郞自大振りを發揮しながら、裏面には年期毎に永樂錢を與へ、且つ數を限って貿易を許し、倭寇を巖に取り締ることにした。
十四年復び使を遣はした時の如きは、『日本國王道義(義満の道號)に勅論す』と命令的に出て來た。


〔義時明使の引見を拒絶す〕

 義満は、水樂錢に釣られ、封册も受け倭寇取締りも請け負ひ込んで、見事外交手段に引き懸けられたが、日本天皇の臣子として外國の皇帝より封册を受けたことは、内心頗る平かならぬものがあったと見え三十六年又々明の使者が渡來した時、義滿の子義時は使節を引見しなかった。


〔臣子の分 他國の封冊を受けず〕

 其の理由に『我が國は古より外邦に向って臣と稱したことはない。然るに先君が外邦の暦を受け印を受けられたことは、皇祖神靈の許さざる處。爲に病を得られ、大に恐懼して神明に誓を立てられて居るから、今後外國の使命は受けられない。子孫も亦た此の誠を忘るるな』と云ふて居る。


〔拙劣外交の今昔感〕

 日本外交の拙劣なるは、今も昔に遜色なく、民間の志士が多大の犧牲を拂ふて築き立てた国家發展の基礎さへ、片っ端から打ち壞はして行くことや、或は國際協調と構して國家の主權迄も冐さるる、ことを意とせぬものが、歴代政府の當局者である。
 明治初年より今日に至る外交の成績を見れば、思ひ半ばに過ぐるものがある。嗚呼。


〔倭寇取締料〕

 義滿より代々足利幕府は、僅か計りの手上産を持たせて明国皇帝の許へ使節を遣はした。其の御返禮に、土品の物價に幾十倍する永樂を興へられた。之れが倭寇の取締料であって、外に勘合船と稱して慕府より官營的の貿易船が數を限って出された。

 此の利瓮も大なるものであった。然るに足利幕府の力で倭寇が取締らるるものでなく一時は鎭定した姿であったが、後には皇帝の御膝許地方だけを荒さなかったに過ぎす、段々舊の如くなり來ったので明国政府は足利幕府に興へる永樂錢を定額より減じて渡さんとした。使の者は大に怒り、倭寇の二の舞を爲さんとしたので、明國政府は膽を潰し、定瀬を與へて穩便に済んだ珍事もあった。


〔帆影印度に及び英船舌を捲く〕

 日本海国男子の遠征軍は、支那北方の沿岸より南方各地に及び、安南・暹羅・呂宋、印度に至る八幡船の帆影を印せざるなく、印度支那海上に於て英船と戦ひ、英人をして日本人の勇敢に舌を捲かしめ、日英兩國人は、以來決して相侵さざるべき約東をなしたる如き、既に日本の亜細亜に還元せしめんとする勢であった。


〔織田信長の出現〕

 此の時足利慕府は、所謂戦國時代となり、全國的に鬪爭の花をかせて居た。其の中に在って嶄然頭角を顕はし、社會の各方面に向って革新の一石を投じたのが織川信長であった。


内田良平『日本の亜細亜』倭寇の大飛躍

2020-03-20 22:17:43 | 内田良平『支那観』



 内田良平
「日本の亜細亜」
131頁~144頁


  倭寇の大飛躍

〔八幡船と朝鮮及び支那四百四州の震駭〕
 北風起って南風はず、勤王の講將前後して歿する時、獨り東風に乗じて八幡船を操り、朝鮮より支那四百餘州を震駭せしめたものは倭寇である。倭寇に就ては、後村上天皇の正平五年、楠正行戦死の翌年、高麗で『忠定王二年二月、固城、竹株、巨濟等處々に寇す』と東国鑑にあり、支那では元の『至正二十三年八月酉朔、倭人蓬州に冦す。十八年より以來、倭人連りに瀕海縣に寇す。是に至って海途に安からず』と順帝本紀にある。

 元は是より四年後、至正二十七年に亡びて明の代となり、高麗も元と前後して亡び李朝となったのであるが、李朝の元祖李成桂は、倭冦を撃って之を破った功で、威名並ぶものなく、八道を風靡して高麗に代り、王位に即くを得たのである。之を以て見るも、朝鮮に於
ける倭寇が何に猖獗なりしかを知るに足るであらう。

 偉大なりし元朝も倭寇に脅されて僅々八十餘年で滅亡した。然るに倭寇は依然として襲撃を繼續し、明朝二百餘年間、思ふ存分に暴れ廻はり、結局豐臣秀吉の大明征伐となり、明の精兵は朝鮮に於て殆ど殺し盡され、明朝も滅亡することとなった。左に此の間に於ける倭寇の最も驚くべき勇猛振りを發揮せる二三の事件を擧げやう。


〔明史日本傅〕

 明史日本傅に「倭寇は杭州北新關西より、淳安を剽め、微の歙縣を突き、蹟谿旌徳に至り、涇縣を過ぎ、南陵に趨り、遂に蕪湖に達し、南岸を燒き、太平府に奔り、江寧鎭を犯し、徑に南京を侵す。


〔杭州より南京を経て林橋迄〕

 倭、黄衣黄蓋、衆を卒ゐ、大安徳門及び夾岡を犯し、乃ち抹陵關を超えて去り、漂水より徑陽、宣興を流劫し、官兵太湖り出ると聞き、遂に武進を越え、無錫に抵り、惠山に駐り二晝夜百八十里を奔りて滸野に抵り、官軍の爲に圍まれ、楊林橋に追及して殲さる。


〔賊六七十人、徑行數千里、殺傷四千人〕

 是役や賊六七十人に過きず。而して徑行數千里、殺戮戦傷する者幾んど四千人、八十餘日を經て始て滅す。此れ三十四年九月の事也』とあり。此の三十四年は、明の嘉靖三十四年(後奈良天皇の弘治元年川中島戦の年)であって、實に驚くべき行動である。彼等の杭州に上陸せし時は、百人計りの人數であったと見える。


〔皇明實録〕

 皇明實録には『六月己已(六日)倭賊百餘、浙江紹興府上虞縣爵蹊所より登岸し、會稽高蟀を突犯し、民居樓房を奪ふて之に據る。知府劉錫、千戸徐子懿等、兵を分て圍守す。賊潜かに木筏を縛し、東河より夜圍みを潰して出づ。卿官御史錢鯨、豐浦に遭ひて殺さる。賊遂に流れを逐ひ杭州を流劫して西し、潜興昌化を經、内地大に駭く』とあり。


〔寧波府志〕

 然れども寧波府志には『倭賊九十三人、四月某日に於て錢倉白沙灣より上陸し、奉化の仇村に人り夫れより金峨を經て七里店を突き、此に寧海鵆の百戸劉夢祥を敵殺し、甬東より定海の崇丘鄕に走り、此に定海衞百戸劉夢祥を敵殺し、折れて鄞江橋に趨く。鄞江橋は寧波府郭外南塘河に架する橋にて、府治西南五十里、白龍王廟東に在り。小溪樟村を經て、此に寧海衛千戸韓綱を敵殺し、通明壩を走って曹娥江を渡り、此で御史錢鯨を殺し、夫より蕭山縣を過ぎて錢塘江を渡り、湖酉の富陽へ上った』とあり。


〔寧波府志〕

 曹家江は紹興府治に屬し、紹興府志には『四月松浦の賊、錢倉白沙灣より寧海を抄掠し、樟村に趨き、遂に上虞東門外に至り、居村の房處を燒き、曹娥江を渡りて此に鄞人御史錢鯱に遇ふて之を殺し、皐埠に至る。


〔皇明實録〕

 兵備使許東望、知府劉錫、典史呉成器等兵を率ゐて之を圍む。夜に到り兵の倦むに乗じて逃れ去る』とあるに見れは、倭寇の上陸せしは四月の初めであって、皇明實録に『六月己、倭賊浙江紹興府上虞縣爵蹊所より登岸す』とあるは、銭倉の白沙灣に上陸して二ケ月計り後からの行動を記したものであらう。


〔大胆不敵千古無比の偉觀〕

僅か百人内外に過ぎぬ、小勢の倭寇は、杭川より奥地に行進し、安徹省に入った頃は六十餘人となり、尚ほ猪突邁進する剛瞻不敵なる行動に至っては、千古無比の偉觀と謂ふべきである。


〔皇明實録〕

 皇明實録は更に記して曰く、『徽州府、隘、官民兵壯五百餘、賊を見て悉く潰ゆ。績溪を流劫して旌徳に到る。典史蔡允、兵千餘を卒ゐ之を禦いで克たず。戦遂に南門より火を縱ち、屠掠して涇縣を過ぐ。縣知丘時庸、兵をゐ埠塘に追撃して敗潰す。賊乃ち南陵に赴く。縣亟覚逞三百人を以て分界山を守り、賊を見て奔竄す。賊遂に縣城に入り、火を縦ちて民居房屋を焚く。乙建陽衞指揮膠印、當途縣亟郭快、蕪湖縣派陳一道、太平府知事郭撲、各檄を承け、兵を以て來り、賊と縣の東門に遇ふ。印等兵を引て之を射る。


〔敵の射矢を攫み取る〕

 捍
賊悉く手に其の矢を接す。諸軍相顧みて愕怡す。一道率ゆる所皆な蕪湖の驍健なり。乃ち衆を麾て獨り進み、賊の殺す所となる。一道の義男子、身を挺して賊を捍き亦た死す』と。
 以上の記事を見るだけにても、倭寇が、驍勇にして何れも精妙なる武術に逹し、敵の射懸くる矢を手にて攫み取りをなし、常に十倍二十倍する大敵と戦び之れを撃破する手並に至っては、百職の勇士てあって、支那全國民が、倭寇と聞けば戦慄したのも無理からぬことである。


〔蕪湖の市街戦に同志十二人を失う〕

 倭寇は之れより蕪湖に入り、市街戦に於て失敗し、同志十二人を失ひ、總勢五十餘人となりたるが、加之も屈せず、太平府に赴いた。此處の操江都督御史襄善は、千戸會苧を遣はし、馬蔽に禦がしめたけれども、忽ち撃破せられ、賊の府城に逼り來る河橋を斷って防禦しため賊は遂に引いて江寧に進んだ。
 江寧鎭の指揮朱襄、勇士を率ゐて之を禦がんと欲したが、未だ倭の板橋に到るを知らず、方さに祖裼して酒を縱にして居った。そこに突撃せられ盡く殺された。皇明實録には此處で殺された官兵を三百餘人として居る。


〔應天府志〕

 萬暦五年細の應天府志には『三十四年秋七月、倭奴五十人、太平より板橋に到り、江に沿ふて焚掠す。指揮蒋陛、千戸朱襄を遣はし、兵を帥ゐて之を禦がしむ。櫻桃園に到りて敗沒し、城中震恐す』とある。


〔僅々五十餘人白昼堂々南京城を刧かす〕

 之れは七月二十九日の事であって、翌三十日拂曉に至り、僅か五十餘人の倭寇は堂々として南京攻県に取り懸ったのてある。何んと云ふ大膽、何んと云ふ不敵の行動であるか。古今東門五十餘人の小勢を以て、江南第一の大都城を攻め得たものがあるか。例しも聞かず後世にも爲し得ないことであらう。蓋し之れが日本人の本質的勇猛精神の顕現であるのである。


〔南京城内の震駭〕

 南京に於ては、倭寇の襲來を聞き、驚愕猤狽の状は實に想像以上のものであった。七月二十一日倭寇が南陵縣城を占領した頃、指揮王漢に、新江口の水軍一千人を統領して釆石鎭を守らしめ、又大勝關、龍江關、觀音港等へも夫れんぞれ、兵を配して守備を嚴重にした。又た此の日指揮朱襄に勇士五百名、指揮蒋陛に官軍一千三百名を引率せしめ、龍山場に出で、伏を設け憸に據り截殺せしめんとした。之れが二十八日に全敗したのである。

 而して南京城の守備は、指揮張鵬、夾欽及び各把總指揮に、各々官軍一千三百名を附して外門を守らしめ、内十三門、亦た各手分けして嚴重に守備し蕕ほ總督楊宜、巡撫曹邦輔、操江御史褒善等に檄を飛ばして各來り助くる事を嚴逹した。


〔皇明實録〕

 『賊遂に南京に赴く。其酋、紅を衣、馬に乘り、黄を張り、衆を整へ、大安徳門を犯す。我兵城上より火銃を以て之を撃つ。賊、外城小安徳、夾岡等の門に沿ひ、往來窺覘す。たまたま城中その遺す所の諜者を得たり。賊乃ち衆を引き、舖岡より抹陵關に赴きて去る』と皇明實録は記せり。


〔學者の目撃記〕

 此の時南京城中狼狽の有樣は、現に城内に在りて目撃して居た二人の學者の自記に依り、眼前に浮ぶやうに観られる。曰く『某恰も試事を以て都に在留す。寇、蕪湖より邐迤南下、直に安徳門に抵るを聞き、擧城鼎沸。某、時に亦た周章を免かれず。之を詢ふに及んで逋寇五十餘人に過ぎざるのみ。覺えす天を仰ぎ活歎胸を推し、泣を飲むもの之れを久ふす』と、歸震川は書いて居る。


〔何良俊の記録〕

 次に何良俊の記録に『乙卯年、倭賊、浙江より嚴衢に由り、饒州を過ぎ、激州寧國、太平を歴て南京に至る。纔かに七十二人の南京兵之と相對し、兩陣把總一指揮を殺し、軍士死者八九百(南京に来る迄の戦を云ふ)、七十二人一人を折らずして去る。南京十三門緊閉、傾城百性皆な點して城に上り、堂上諸老、各司屬と各鬥を分守し、賊退くと雖も尚ほ敢て嚴を解かす』と記してゐる。


〔何良俊の又記〕

 次に何良俊は『夫れ敵人、鬼と爲り蜮と爲る。詭譎萬端、前有の賊、嚴浙より歙州に由り、寧國太平を歴て、南京に抵る。たヾ五十七人のみ。
 巳に安德門外に至る。而して探細の者猶ほ言ふ五百人、或は言ふ千人。蓋し賊人六七群を爲し草莽に竄伏し、一去一來、一起一伏、循環の如く然り其の端を測るなきによる。此れ正に所謂寡を以て衆と爲し、弱を以て強と爲す。蓋し兵法の妙を得るもの矣』と。


〔倭寇の戦術見るが如し〕

 之れに由って見れば、何良俊が前に七十二人のみと書けるは誤聞にて、五十七人の正しきを知らるるのみならず、倭寇の戦術に巧みなる行動が眼のあたりに見るが如く書かれて居る。


〔二年前の倭寇〕

 此の南京襲撃は、初めて爲されたものにあらず、之より二年前、倭寇の常州に到りし時も、南京を震動した。應天府志に『三十三年四月、倭寇窃かに發す。居民皆な逃避して城に入る。守臣復た外兵を調して屯聚し、依りて民をして磚を運び、城に上らしめて防護し、燈火晝夜に徹す。數月乃ち定まる』とある。
 此の時は支那の土匪多數を引率したる倭寇であったが、今回の五十餘人が南京を襲ふたのは、第二回目で、我が弘治元年であった。同年は武田上杉川中島三度目の合戦頃であって、織田信長二十二歳、秀吉二十歳、家康十四歳の頃である。


〔北京襲撃〕

 倭寇は南京のみならす、北京も襲撃して居る。威海衛も全減させて居る。北京攻撃は嘉靖二十九年八月(後奈良天皇の天文十九年)即ち五十人組の南京攻より五年前のことであって、彼の史に記する所によれは『帝奉天殿に御して一詞を發せず、諸將皆な壘を堅ふして一矢を發たず。虜、城外盧舍を燒き、火光天に燭す。


〔御史の記録〕

 内地に縱横する凡そ八日、掠むる所巳に望に過ぎたり。乃ち輜重を整へ圍を解いて去る。諸將遺屍を收斬し、八十餘級を得、睫を以て上聞す』とあり。


〔城内の恐怖と昔も変わらぬ欺瞞手段〕

 支那人の欺瞞的報告ほど滑稽なものはない。一矢も發せず壘を堅ふして守った人々に倭寇の殺せる筈はなく、倭寇に戦死者の出來る筈もなければ、諸將が遺屍を收斬したと云ふ其の屍は、倭寇に殺された自國人であることは、何人が見るも疑なき所であらう。


〔威海衞襲撃〕

 威海衞襲撃は嘉靖年代よりずっと遡った永樂四年(後小松天皇の応永十三年足利義満時代)のことであって、『倭寇帆を劉公島に揚げ、聲言して曰く、百尺崖を攻めんと。而して卒かに威海衞を撃ち、幾ど礁類なし』と威海衞史に記して居る。
倭寇が二百餘年間に亘り、朝鮮、支那の各地方を襲撃報復したる状況は、兩國の書史に記載られたみもの頗る多く、其の概要を摘記するだけにても幾千頁の書物を編することが出來るであらう。


〔倭寇の目的性質〕

 元來倭冦なるものは初より掠奪を目的としたのでなく、元寇の報復より一變して貿易となり、頗る平和となり來りたるも、支那の貪官汚吏と、狡猾なる商人に欺き愚弄せられ、且つ彼等が日本人を輕侮するより、公憤私憤一時に破裂し、再び報復膺懲を加へんとする爲め、武力鬪爭を開始したるものと認めらるる節あり。
 而して支那特有の土匪は、強き日本人の傘下に集り來り、大掠奪を行びたる爲め、土匪の暴虐と混合せられたる點あり。


〔鄭曉の著書〕

 鄭曉と云ふ人の著書に(嘉靖三十一年也)倭奴黄厳巖に入りてより今に到る十年、閩、浙、江南、廣東の人皆な之に從ふ。賊中皆な華人、倭奴十の一二に居る』と。


〔都御史章煥の記〕

 又た都御史章煥の記に『倭夷何に依って至るや。首亂あり、脅從あり、導引あり、此を明にして後に理す可き也。夫れ吾民、重困盜を爲さんとするや久し。然れども時に執へらるるの思あり。賊間に入り之が用を爲してより、進んで望外の獲あり。退て盗賊の形なく、海濱關隘の阻詰するなく、柔櫓輕舟、往來甚た捷。賊と連衡し、良民と維居し、賊未だ至らざるや皆良民也。賊至るや良民去りて奸民留る。賊去る又皆良民也。これ禍の獨り難き所以なり』と云ふて居る。


〔江南經略書〕

 江南經略書には『凡そ海賊一起、陸地の賊機に乘じて窃發す。所謂土倭子是れ也』とあり。


〔皇明實録〕

 皇明實録にも此の寇源を叙して嘉靖二十八年四月の條に『抑も海上の事、初め内地の奸商、中國の財物を輸出し、蕃客と市易せしより起り、遂に島夷及び海中の巨盜を勾引し、所在劫掠、汛に乘じ岸に登り、動もすれば倭寇を以て名と爲す。其の實眞倭幾ばくもなし。蓋し患の從起する所者微矣』とあるによっても證せられる。又た倭寇は襲撃掠奪の猛威を逞ふするも、子女を姦し無抵抗者を殺戮するなどの暴虐行爲は敢てしなかったのである。