内田良平「支那観」

八 支那南北の関係
滿蒙間題の解決は、既に朝鮮を併合したる我帝國に取りては、
其國防上亦た必須の關係たることは、
軍事の局に當るもの之を知らざるものなきのみならず、
日露戦役に於ける我百萬の流血をして無意義に終らさらしめんと欲せば、
亦た實に之を以て我國民の義務なりとなさざるべからず、
况んや、満蒙及び北支那は古來政治上地理上經済上に於て、
南支那の死命を司れる地方にして、我帝國にして之に據らしめば、
支那の國民にして如何に其悪性を発揮し、
自ら危亡に陷らんとするも、帝國は必ず之を監視するを得べぐ、
我帝國が今や覚醒せる亜細亜各邦を組織して之が盟主となり、
以て將に來りつつある人種的竸爭、宗教的競争、経済的競争に於ても
亜細亜人をして決して他の人種の蹂躙踏藉に附せざるを得べし、
是豈我帝國の使命に非ずや、
吾人請ふ試みに支那南北の関係に就いてか卿が吾人の研究する所を遽べむ。
一 歴史的関係
支那北方の強に就いては、
数千年前孔子既に之を明言して金革を衽し死して厭はざるは北方の強なりといへり、
是れ當時周室の微なるに乗じて、北方人種の跋扈跳梁を逞うし、
文弱なる南方の漢人種に似ざるをいへるものにして、
今ま歴史の傳ふる所に就いて其大略をいへば秦の西に綿諸、畎戎、翟、●(不明?)あり、
北に義渠、大茘、鳥氏、●(不明?)衍の戎あり、
是れ今の伊犁、新彊、内外豪古の諸方面より甘粛陜西に侵人せる人種なり、
晋の北に林胡、樓煩あり、
是内蒙古より山西に侵入せら人種なり、燕の北に東胡山戎あり、
是れ滿洲より直隷に侵入せる人種なり、
其後秦の時に至て北方人種は或は胡と稱せられ、或は匈奴と稱せらる、
而して秦の始皇が秦を亡ばすものは胡ならんとの讖言に怖れ、
蒙恬に命じてを険塞を築かしめたるもの、
是れ今日尚ほ其痕跡を留むる調ゆる萬里の長城なり、
然れども北人豈之に辟易するものならんや、
漢の高祖の如きは匈奴冐頓のために下城に圍まるること七日、
終に和を講じて小康を保ち、漢武の遠略、聊か漢人の爲めに氣を吐くに似たりしも、
漢の代を終るに至るまで、匈奴及び鳥桓、鮮卑等の東胡種に悩まされざるなく、
三国曹猛徳の時に至りて匈奴は終に山西に人りて劉氏石氏と稱し、
鮮卑亦た皆支那内地に闖入して跖跋氏となり、慕容氏となり、
晋末の僣國多くは此の北方人種たらざるはなく、
特に渾べての僣國の倶に敗れたる後、
獨り支那を中分して其北朝に臨御せる跖跋魏は是れ紛れもなき今の滿蒙地方より直隸山西の北部に移住したる、鮮卑とする古代の東胡たりしなり、
北人侵入は晋をして、東南建康に偏安せしむるの已むなきに至らしめたり、
是れ漢人種南遷の最も惨烈を極めたるの始めににして、
其後宋となり、薺となり、陳となり、謂ゆる南朝の漢人種は其意気終に競わず、
建康の形勢其地富庶ならざるに非るも
亡國の民情風聲鶴唳に戦き攻守の失費胼胝給する能はざるに至りて尚ほ民に望むに恒心あるを以てせんことは寧ろ酷なりと謂ふべく
漢人種風俗の堕落蓋し此を以て其一因とす、
隋唐の初は漢人種のやや勢力の回復したるの時なるに、
庶幾し、然れども唐の放縦なる政策は再び北人をして其釁に乗ぜしめ、
五代の乱に至りて、契丹漸く大を致せり、契丹は東胡種なり、
太祖耶律徳光に至りて國を遼と號す、
而して宋の支那本土を統一するに至りても能く之に克つ能はず、
眞宗親しく澶淵に次して之と和を講じ、
志士胡邦衡をして秦檜王倫斬るべしと叫ばしめ、
文人蘇老泉をして天北狄を生ず之を大戎と謂ふと罵らしむ、
漢人種の窮状亦憐れむべからずや、
遼は女眞の爲に減ぼされたり、
女眞は古の粛愼、今の吉林の東北部より起り、國號を金といふ、
宋亦た之に克つ能はず、
高宗終に南に渡って都を杭州に移す、
而して後、元の太祖奇渥嗢鐵木眞、不世出の資を以て蒙古より起り、金を併せ、
宋を覆すに至て、漢人種は北支那に於て全く立錐の地を失ひ、
明の太祖一時之を恢復したるも清祖愛新覚羅氏粛愼の裔を以て満州より起るに及び、
四珀餘州を擧けて其髪を辮にすに至る、漢人種は到底北方の強に敵する能はざるなり。
漢人種は南へ南へと流亡したる人種なり、
勿論其流亡せる原因は北方の壓迫一なり、
河漢の横溢二なり、禀性の懦弱三なり、
而して今や南支那一帯の地區はこの流亡せる古怪老敗の漢人種を以て充され、
其俗倫、其人詐、口に囂くしく行ひに篤實ならず、
之を滿蒙若くは北支那人種の其の風渾、
其人直なるに比し、苟くも對支那政策を劃せんと欲すする者、
果たして執れに興せんとするか、吾人が南方左祖論者の説に首肯する能はざるは、其懞る所實に二十四史の上に在るなり、
二 地理的關係
支那の水流は、漢江、長江、皆北より流れて東南に傾注す、
凡そ上游より下るは易く、
上游に遡るの難きは水路を利用するものの、
自然の勢いにして古来支那南人の北人に抗敵する能わざりしは其一因亦た此にあるべし。
然も此くの如き推理の關係は五方百貨をして南方に輻輳せしめ、
流亡の民をして南方に聚合せしめ、
是に於て乎其住民は生存競争の結果、悉く個人主義の人となり、
個人主義の結果、悉く道徳を冷笑するの人となり、
道徳を冷笑する結果悉く國家の存亡を問はざるの人となり、
國家の存亡を問わざるの結果、悉く戰闘力なきの人となる、
是れ亦免れざるの趨勢にして、
其類似を求むれば之を我が浪華地方に見るを得べし
而して我が浪華地方の兵種の之を九州兵に比しやや差等あるを知る者は、
支那の南人が北人に比して大に差等あるを知るも敢て難からざるべし、
是れ亦た地理的関係に於て、支那の南人が北人に抗敵する能わざる一因たるに庶幾し、
其他風土自然気候の陶冶よりする南北気風は既に千年前周代著作者の認めたる所にして、其説によれば、
支那の南方を以て揚州と稱する所以は、厥性軽揚なるを以てなり、
其北方を幽州と稱する所以は、幽は深なり、
其地幽深に處るを以てなりといへり、南方氣習の篤實ならず、
北人性情の朴實なる、説き得て餘薀なしと謂ふべし、
且夫れ支那の南方は、川流匯澤、所在地を劃し、水村山廊區々點在して、
事に臨み其の利害観念に富みたる人民の統一を計らんと欲する固とに容易ならず、
且つ大部隊の人馬を聚合して武を用ふるの地亦甚だ少きに反し、
北支那並に滿蒙地方は、其地勢比較的平衍にして、
假りに内蒙古に就て之を言は、東は吉林に抵り、西は賀蘭山に至り、南は長城に界し、北は瀚海に抵る、
廣袤數千里の間、快馬一鞭、容易に其人民の結合を促すへく、
容易に百萬の大軍を運用指揮するに難からず、
然らば則ち南方漢人種の古來北人の制馭を受けたるもの、
其地理の關係大いに與って力ありしなり、
故に對支那政策を攻究するに當り先づ此北方形勝の地に據り、
建瓴の勢を以て南方漢人種の無節操的行動を監視することを思はずんば、
豈東亞の形勢を知るものとなすべけんや。
三 経濟的關係
或は云はむ、北支那並に滿蒙の如き、其地寒荒にして南支那の沃饒に比すべきにあらず、
北方の強と稱するは唯た蛮勇のみ、
若し經濟的關係を比較するに至らば、北の南に敵する能はざるは啻に霄壊のみに非るなりと、
然れども吾人の研究によれば、北方の富、單に南滿洲内蒙古に就いて之を言ふも、
石炭鑛あり、金鑛あり、石油池あり、雑穀の産出數千萬石、米田試作の結果も亦大に發展の見込あり、
其他大森林あり、大鹽田あり、牛、馬、驢、羊、山羊等の畜密類に富める、
甜菜、棉、煙草等の耕作地に適せる、何ぞ之を不毛磽确の地に比するを得んや、
又果して論者の言の如く、南支那にして眞に天然の恩澤あり、
土地豊饒、産物夥多なりとするも、
其れ等の産物の需用先は北支那たるを以て、
若し權を北支那に握る者あり、河道を塞ぎて南の産物を北に通ぜさらしめば南は容易に北の爲めに死命を制せらるべく、
是れ北人の屡々試みたる慮にして經驗の教ゆる所によれば支那南北の経濟的關係に畢竟不可分に屬し、
此の経済的不可分の夤縁は、魏晋六朝以來屡々分裂せんとしたる南北を接續して、
其統一を失はざらしめたる所以たるなり、
蔡炳九甞て云く、江南を論ずる者、目して豊饒となし、
概ね視て澆僞と爲す、皆未だ其地を履まざるの言なりと、
吾人亦た將に言はんとす、支那を論じて南を豊饒となし、北を寒荒となすが如き、
亦皆耳食の論を免れずと、
且更に知らざるべからさることは經済的關係なるものは、
天然人事の變動により、必ずしも一定不變のものに非ず、
例せば歴代の國都の知き、昔日に在ては獨り政治上の中心たりしのみならず、
亦経済上の中心たりしならんも、今日長安洛陽の荒涼、人をして徒らに牛山の木嘗て美なりのを生ぜしむ、
然れども物は衰あれば復た盛あり、
海蘭鐵道の貫通して中亞に聯絡し、
地藏の鑛物續々發掘せらるるに至らは昔日帝王の地たりし北支那一帯の面目、
亦豈大に復舊せずといふを得んや、東亜萬年の大計を建てんと欲する者、固より目前の幻况に眩惑すべからざるなり、
沿革、地理、経済の三大目に憑りて、支那南北の關係を説く高朗明快眞に是れ利刀一断の概あり、
予此に平生我大和國人北進の管見一斑を掲出して本論を補す。
大和民俗が南方より移轉し來れるは其道程の如何に拘はらす、
學者の定論たり、然り其南地よ、北地に發展すべき、
既往數千年の歴史は、決して一朝人為的に左右し得らるべきものに非す、
帝國は一千年の歳月を費やし、明治照代に至り、始めて朝鮮半島の解決を成し、
北展の衡路を開きしは、
吾人及び吾人の子孫をして、
上代にける天孫種族が、出雲種族を同化せしめしが如く
将来に於て半島人及び滿蒙人をして赤た侔しく我天孫人種の血脈に同化せざるべからず、
要するに人類の移殖は商業移民と農業移民とに二別され、
商業移民は農業移民の基礎あり根底ある勢力に企及すべからす、
同胞の南支に向ふものは、悉く商業に從事し、
北支に向ふものは多く農牧林業及鉱業に着眠せるの状あり、
是れ南支の人口稠密にして農牧の餘力なきに反し、
北支の土壌に餘裕多くして、
猶ほ農牧諸業の遺利多き結果となす、
且つ日本帝国が今日の場合に於て、北方満蒙に基礎あり根底ある移民を企つるとするも、
決して南方の通商に影響を與ふるの理由なき而巳ならず、
寧ろ其共北方の開發に依り、南方に於ける我通商に有利なる反響を與ふるは、
知者を俟たずして明なり、
故に予は堅實確手なる南方の通商を振作せんとすれば、
北方の供給地たる満蒙に基礎あり松底ある施設の必要を認むるなり、
且つ日本の南方開展は、啻に南支の一局に限るべきものに非ず、
南洋の各地帝國人の生存し得らるる風土気象は、
我商工農業權域を壙充して可なり、
彼の所謂る北守南進とは何の義ぞや、
(權藤 成卿)