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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

四王天信孝著『ユダヤ思想及運動』第六扁 近代のユダヤ運動 第五章 獨逸革命と猶太

2025-04-14 11:55:44 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン


 四王天信孝著『ユダヤ思想及運動』

    第六扁 近代のユダヤ運動 
 
  

第五章 獨逸革命と猶太 


ロシア革命後は獨逸はユダヤの御用済
 前既に説くけるが如く、ドイツに於てはカイザーのユダヤ利用論に災され、
ラテナウやバリンなどのユダヤ人が重用されて國政の要部や経済交通の重任に當り、
初めの間は實際ドイツの抗戰力を高め、ロシヤ崩壊の仕事に便益を與へて協力の實を示したが、
ロシヤ既に倒れて次はドイツ、オーストリアを屠って、
前世紀未からのユダヤ解放策を完成する段取となると、既にドイツに協力の必要は無くなり、
之よりは寧ろ物資の缺乏を招く様、ユダヤ式唯物経済統制を行って人民の窮乏を來し、
米國の参戰によって聯合國を強化し、ドイツの長期戰爭を不可能ならしめる策に出た。

〔プレスト・リトーフスクの露獨休戰〕
 ドイツの統帥部としては、かくて即決の必要に迫られレーニン等の政府とプレストリトーフスクに体戰條約締結の爲の會議を開き、未だその終了を見ざるに拘らす、ロシヤ領土内に止めた約九十師團の内僅か三十師團餘を止め主力を五條の鐡道によって西部戦線に送り、一擧に英米佛の聯合軍を撃破せようとした。

が 之より先きドイツ社會黨は恐らく國政に参加しカイゼルの信頼を受けたユダヤ同胞等の裏面的援助を受けて暗躍を續け、着々國内に革命工作を進めたのである。千九百十六年瑞西内にけるインターナナショナル會議の際の報告にも明なる如く、ロシヤよりは寧みドイツ國内の方が革命工作は進んで居た。

 加ふるに千九百十七年十一第十七日からのプレストリトーフスク体戰會議に於ては差し當り極めた覚書の中に、ロシヤから決してロシアヤ領内にあるドイツ軍に対して赤化宣傳は行はないと確約してあるに拘らず、翌年二月二十五日にはドイツ参謀本部からトロッキー事ブロンシテインと云ふユダヤ人に抗議書を提出しなければならぬ程赤化宣傳を始めた。

 トロッキー等は抗議は承ったらうけれども、本気に取る意志が無いのみか、益々之を強化したらしい。一たび西部戰線に向けて、送り出したドイツ軍を再びロシヤに逆送して来る気遣ひのない事は萬々承知の上であらう。


〔獨軍の思想悪化
 翌千九百十八年三月十二日には普魯西陸軍大臣は左の意味の秘密訓令を出すに至った。

 近来戰線から帰還する軍人が拳銃、手榴弾等を國内に持ち込むことが屡々發覺され治安維持上に多大の注意を拂はなければならなくなった。各軍に於ては目立たない方法によって此等違法を取締り、入浴、檢疫等の機會を利用して右武器弾薬等を没収するに努めよ。

 同年三月下旬よりドイツが英佛聯合軍に對する大規模の攻勢は最初の突破に成功したが一週間後には膠着状態に陥り、兵力の補強を要する爲、ロシヤに残した兵力の内から更に二、三師團を引抜き之を西方戦場に送らうとすると、其の或る師團ではロシヤのユダヤ宣傳が大に行き渡ってゐたと見えて、抗命、上官抵抗などの不軍紀行爲が行はれた事實がある。

同年九月頃には佛國軍正面では既に一大隊位の兵力が將校が會報の爲不在に乗じて、團隊降伏の擧に出たものがある。
 

〔ヒトラーの述懐〕
 之等軍隊内に於る不軍紀問題とユダヤ人との関係に就ては兵卒としてのヒットラーの左の體驗記は大に参考となる。即ち ”我が闘爭“第七章革命の中程に、 
 
 自分に十月七日に負傷し(中略)誕生日の頃であったベルリン附近のベーリツツ病院に後送された。ソンム戦場のの中から立派な建物に入り、眞白な寝臺にねかされた。何たる境遇の變化か、初めの間は何となく寝苦しい様であったが、次第に馴れた。併し此の環境の變りは不幸にして別の方面にも及んで居た。
 戰場に於ける軍隊精神は、ここでは幅が利かなかった。戰場では曾て無かったことが此処で始めて耳に這入った。即ち卑怯が却て褒められるのだ。戦場では臆病者はドコ迄も臆病者であって一般から軽蔑され、勇者は尊敬せられるのである。
 然るに病院では全く反対とも言ひ得る様であった。煽動者は大きな聲でまくしたてて、善良な兵隊を滑稽扱ひにし、卑怯者の意志の薄弱なことを模範的にした。つまらぬ奴ばかり奴らが會話を指導してゐたが、その一人は病院に這入りたいばかに、手に刺鐡條網で引き裂いたことを自慢してゐた。
 そんな見苦しい負傷に拘わらず彼は當富長期入院してみて退院しそうにも無い。そんな擦過傷が入院する時にも麗々しく病院列車で来た。こんな奴が宣傳して、戰場で散った有士以上の勇敢な意義ある行為かの様に喋り立てた。多数の者が之に聞入ってゐる、或る者は立去って行くが、中には之に賛成する奴もあった。

 自分は此等の話を聞いて胸が悪くなったが、何故か病院はそんな宣傳者をその儘にした。

歩行が出米る様になってから許可を得てベルリンに行ってると、窮乏は目立ってひどかった。あの大都市が食物難で苦んでゐた。不満は到る處に漲った。兵隊の足繁く行く家庭の空気は病院と同じ様であつた。怪しげな兵隊等に故意にそういふ處へ足を運んで宣傳をしたらしい。ミユンヘンに行ってると状況はモツトひどかった。(中略)
 
 補充隊に編入されて見ると、本部や事務室はユダヤ人が溢れてゐた。殪どん凡ての書記はユダヤ人で、凡てのユダヤ人に書記になってゐた。神の選民と称するユグヤ人が此くも多く後方勤務にしてゐるのに一驚し、戰線には極めて稀に見るユダヤ人と率を比較して見た。

 経済的に見ると状況は一層悪かった。此の方面ではユダヤ人は無くてならぬ人になって居た。縄を張ってゐた蜘蛛はおそらくドイツ民族の血を吸ひ始めた。
 戰争による社会の歪曲に乗じて國民の自由な生活に止めを刺す方式を見出した。即ち極端な中央集権、統制の必要を感じ、千九百十六年から十七年に互る冬から、殆ど几ての産業は、事實上はユダヤ財政の監督下に置かれてゐた。

 併し國民の怨嗟は誰に向けられたか? その頃自分に考へさせられた。適富に方向を變へないと間もなくドイツの崩壊が来るぞと。
 ユダヤ人にドイツ全國民の皮を剥ぎ、搾取しながら國民の怨りを普魯西人に向けて煽った。此の宣傳は戰線で判ってゐたが、後方には影響になかつた。
 人は普魯西内の崩壊がバイエルンに何か起すことも、又バイエルンの方が沒落すれば普魯西を深淵に引込むことも考へなかった。自分は此等のやり方にひどく心を痛めた。それはユダヤ人の天才的猾智が本目的達成の爲に一般の注意を他に向けさせる爲のものに過ぎなかったのた。
 普魯西とバイエルンが互いにロ汚なく論爭しあって居る間にユダヤ人は革命を仕組み、普魯西とバイエルンと双方共に骨抜きにして仕舞った。
  (中略)
 マルキシストの首領等と協調の手を差しべたドイツ皇帝はカイザー・ウイルヘルム二世を以て嚆矢とする。彼等は片手でカイザーと握手して居る時既に他の手は匕首を捜して居た云々  

〔物資の缺乏、銃後の弛緩〕
 又國内に於る物資の缺乏と銃後思想の大崩壊に就ては、同年夏フランス戰線で戰死しドイツ兵の中し母よりの左の如き手紙が立證した。 
 ベルリンでは今や無いものばかりだ、スープも一週間に一回位、それもバタ^-が無く悪質のヘツトだから不味くて咽喉を通らない。いつ迄戰爭が續くのか。進めと云はれても進むな、好機會があったらサッサと帰って来い。

 之はユダヤ人の家庭からであるかどうかは明かでないが、當時其の兵の心中を察したらば誠に暗涙を催うさせられた。ドイツ軍人としての良心は祖國の爲勇猛邁進を要求するであらうし、母からの手紙は退却逃亡を要求して来るのである。此の内部攪亂に就てはユダヤ人がその主る原因の物資欠乏を故意に引き起し、それに得意の宣傳を加へたとと思ふ。
 それはシュッツトガルトのインターナショナル會議以来正に大に計晝されて居たことで彼等としては當然である。

〔キール軍港暴動、皇帝蒙塵〕
 此の知、情勢下に於て十月未同盟の隣國墺太國に革命を見たることは、一響ドイツ革命を促進した事は疑なく、終に翌十一月五日キール軍港に水兵の暴動起こり、九日ベルリンに及び、カイザーの蒙塵を見るに至りドイツ革命成就し、二日後の十一月十一日世界大職の武力闘争はコムピエーニュの森に於て終熄の体戦ラッパとなった。

    ・・・・  ・・・・  ・・・・  ・・・・

〔革命後の獨大官にユダヤ人〕
 此くて革命成立後ユダヤ人が擡頭して要路に立つに至ったのは自然の勢である。當時ドイツ政府及び普魯西其の他の聯邦政府國務大臣の椅子を占めたユダヤ人を列擧すると、

獨逸政府 
  外務大臣   ハーゼ (キール軍港騒動指導者、獨立社會主義黨首領) 
  同 次官   カウッキー(同右黨員、元チエックの猶太人)
  新聞局長   コーヘン 
  司法次官   コーン  
  同      ヘルツエリト  
  大蔵大臣   シノフエル   
  同 次官   ベルンシュタイン 
  内務大臣   ブロスエ(共和國憲法案者) 
  同 次官   フロエント  

普魯西政府 
  司法大臣   ローゼンフェルト
  同 次官   ハイネマン 
  大蔵大臣   シモン 
  内務大臣   ヒルシュ 
  農商務大臣  ブラウン  
  文部次官   ブツシ (大成金で、猶太人メンデルスゾーン女婿) 

バイエルン共和国 
  大統領    アイスネル 
  大蔵大臣   ヤツフエ  
  商工大臣   ブレンタノ(半猶太人) 

ザクセン共和國 
  国務大臣   リビンスキー 
  同      シュワルツ 

ウユルテンベルグ共和國 
  國務大臣   ハイネマン  
  同      タールハイメル   

ヘッセン協和國

         ブルダー 
 
 前記にヒトラーの「我が闘争」中に述べた帰還軍人煽動の遣り口は、本篇第三章ロシヤ革命の部に於てフランス大使手記中に述べてある傷兵、病兵、休暇兵等がインテリやユグヤ人の所へ出入して思想の悪化を来したことと全く同様であることに注意すべきである。
   ・・・・・  ・・・・・  ・・・・・

〔大戰獨逸のユダヤ懷柔とその失敗〕
 獨逸革命を終るに先ち是非叙述しなけれはならぬことは、第一世界大戰間ドイツが猶太懐柔に力を盡したに拘わらず上述の如く、ユダヤ人の為に革命で倒された事實である。之は現日本に於てもユダヤ人懐柔を真剣に考へて居る人も朝野にある様だから参考の爲にユダヤ人の文献を借りて稍々詳説する。

 佛國ユダヤ人アンドレ・スビールは其著「猶太人と大戰」第九十六頁に、英國ユダヤ人イスラエ・ザングウイルの著「世界の爲の戰爭」の左の一節を引用してゐる。 

 

 然り近年のドイツにはロシアの如く露骨なユダヤ人虐待を行ってゐない。それはロシヤよりはユダヤ人の数が少くて脅威を感ぜないのと、又一つには波蘭及ロシヤからドイツを通り抜けて米國へ移住するユダヤが多数で、之がが独逸の汽船會社に金大の利を興へるからである。

 

又同書第百〇三貢には  
 猶太のイディシュ語は多数のドイツ語源を交へてゐること、猶太人がロシアで虐待され、波蘭でボイコットを受けてゐることから考へて、獨逸人に容易にユダヤ人の同情を集め獲ると信じた。

 尚其他数ヶ所に記載する所によれば、

 ドイツは波蘭の自治と共に猶太人の社会的地位を改良すべき約を與へた。又事實上獨軍の波蘭進入に當てはユダヤ解放者の立場に立った。即ち市街の爆弾攻撃を行ふ前にはユダヤ解放を約束したユダヤ文の宣傳ピラを飛行機から撒き、又は間諜を使って諸所に貼り出させユダヤ人をドイツ側に引き附けようとした。
 そして占領當初には愛想の限りを盡した。
 波蘭のロツジ市に人った時にはカイゼル自らユダヤ寺院に臨幸した事を全世界に宣傳させた。又ドイツの占領地守備軍はワルショウの市會議員に十五人のユダヤ人を加へることを評し且つ同市の秩序維持に任ずる民響には波蘭人と同様にユダヤ人を採用した(勿論高級の位置には波蘭人を用ゐた) 

 獨逸政府は波蘭の國家主義者が'波蘭語を以て唯一の國語と定められたしと請願したのを評さないで、ユダヤ人のイディッユ語又はヘブライ語を用ゆるのを許した。
又ワルショウに波蘭大學の開設をすと同様に、ユダヤ人の民間大學をウイルナに設けることを評した。

 ドイツの此等の懐柔策は初めは相當に成功したが、後になると、ユダヤ人は何者よりも目己の傳統と過去の追憶を固執することが判り、ユダヤ人に之を同化して掌中に収め得る民族でないことを了解して其方を變更することとなった。
 即ち、ユダヤとドイツの神聖同盟は極めて短命であつた。

 ベルリーナー・ターゲブラツトは波蘭及びロシヤから約三、四百萬のユダヤ人を土耳古に送るべく宣傳した。即ち前世紀末以来ユダヤ解放の為、露、墺、獨の東歐中歐対策上之に革命を行ふと決心したユダヤはアンドレ・スビールが述べた如く、一時の懷柔、傘下に集めるなどの方法でユダヤの意志を翻がヘさせ得るもので無い事を悟るべきである。
 重ねて、ユダヤ利用、ユグヤ懷柔の不得策を叫んで本章を終へる。


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