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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

四王天延孝著『猶太思想及運動』 第五篇 猶太の運動 第七章 シオン長老會議 

2025-04-13 13:49:19 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

                四王天 延孝著『猶太思想及運動』 

             第五篇 猶太の運動(前記)



第七章 シオン長老會議
 

會議の要黠四項 
・・・・・議定書は當時の起案に非る可し
・・・・・ユダヤ側の議定書否定論 
・・・・・議定書は大英博物館に収蔵しあり 
・・・・・:偽文書問題に関するべルン裁判  
・・・・・偽文書に非ることをユダヤ人告白す。 

 此の會倉議は本篇第四章シオン運動の部にその一端を掲げた所である。
又前章ユダヤ解放問題に関聯するものであるが単なる會議でなく、
之に附帯する長老會議のプロトコールと言ふ議定書があったと傳られ、
その眞僞に就いて大論爭が起り裁判が幾度びかあった程の有名なものであるから
特に一章を設けて之を論述する。

〔會議の要黠四項〕 
 第一回シオニスト會議は1897年8月29日から3日間端西のバーゼルで開かれ、
有名なへルツ博士を議長とし、各國より多數の代表者を集めて盛大に行はれた。

 代表者は各国のシオニスト
(資格は18歳以上で25セントの税を納めるもの)400人に就て一名づゝの代表者(25歳以上)を出し
執行委員25人を選擧して事に當つた。
   
 へルツ博士生存中は此の第一會議で決定したプログラムを實現する方法を設ける事に主として盡力した。
そのプログラムとはパレスタインの中に公然認められ合法的に設定したユダヤ祖国を作ることであって、
其の目的を達成する爲に左の諸點を明にした。


一、有力な代表者を通じて、ユダヤの農、工、商業者をパレスタインに定住せしむることを促進す
二、目的達成に適し、且つ各國の法制に應ずる地方的、一般的制度に依り、ユダヤ民族を組織し且つ之を統合する。
三、ユダヤ人個人として又部落としての自覚を増強すること。
四、シオニストの目的達成の爲には彼等の向上を必要とするにより、互の協力を確實にすべく歩を進める
  (カーレン著ザイオニスムと世界政策第79,第80頁)

 比の決議文丈をすらりと見るときは、當然の決議で何等取立てゝ騒ぐことはない。
 殊に上記文獻にも會議は第二、第四項に主なる論點が置かれたと記されて居る。
併し又オデッサからの代表アハド・ハームが終始問題を起し、
反對派の位置に立つたことを報じてゐるのは注意すべきである。

 それは彼は本名をギンツベルグと呼び革命の實行家であり、
問題のプロトコールの起案者との説もあるからである。

 又第三項のユダヤ人の自覺のことを見てプロトコール全部を通讀すると、
あの文書は決議をした記録でなく、
第三頃の目的達成の為に豫め印刷したものを配布したかも知れぬ考へられる。

 之丈述べて愈々プロトコールの問題に移る。
 筆者が之を始めて手にしたのは皇紀2580年であった。
  〔注〕皇紀2600年が昭和15年(1926年)に相当する。
 一應再應讀んで、その構想の非凡に驚き、世界の現状にピタリと即應するのに胸を打たれた。

 

〔ユダヤ側の議定書否定論〕  
 併しユダヤ側から頻りに之を偽文書、怪文書として揉み消すしを行っゐるから、
次の様な立場を執ってユダヤ問題を取り扱った。
 即ちプロトコールを出發點とし、
之がユダヤ人の六韜三略で萬事は此の筋書からばかり割り出されるものとして論ずるときは、
論旨が不確定で動揺する場合があるかも知れぬ。

 之を演繹的に取扱はすして、帰納的に考へると、
幾多の現實から帰納して左様なプロトコールが有りそうになって来る。

 又その文書が確にユダヤ人の誰が書いたと白状をしても、
それに載ってゐる事柄が今日の現状と全然かけ離れて行くものならば
何等必要のない交書であるから焼却して然るべきものである。

 併しそれが假令所謂稗史小説であっても、
内容は現世界に参考すべきものであるならば、大に研究すべきである
と考へて来た。

 其の後眞偽問題に就いては論議は重ねられ、
裁判に於て告訴したユダヤ側が敗訴になった事などが明らかにされて来るから、
その文書を大前提的には扱はないが大なる参考資料とすることにした。
 既に本書に於いても数か所を引用してゐる。

 日本では近来迄ユダヤ問題とは
プロトコールのことだと誤認する人すら多数あった程だから比較的詳説する。

〔議定書は當時の起案に非る可し〕
 問題の文書の名鋼は「シオン長老の議定書(プロトコール)」と云ふので、
誤った出版物には「シオニストの議定書」とあって如何にも第一回シオニスト會議の参列者が決議した様に見えるのがあるけれども、
上述の會議の構成員から見ても、必ずしも長老が来た譯でなく、
3日間位で24章から成るユダヤの世界制覇を目的とする學問的、實際的の決議が出来る筈は無いから
「シオニスト議定書」とするのは誤りである。

 又第一回會議の2年前日露戰爭第2年にはロシアにその文獻があっ事實もあるから、
バーゼルではアハド・ハームか其の一派が之を朗讀したか、
印刷配附をしかも知れぬが、
あの會議で議決しものとは考へられない。

 
 比の文獻の執第者、年代、講述の場所、書き下ろした實際の日次等は
實は今以て明確では無い。

 執筆者に就てはアメり力の著者フライ氏はフォード翁が派遣した調査員の報告を基礎として、
オデッサで、ユダヤの著作家で民族指導者であるアハド・ハーム
(本名アツシャー・ギンスべルグ)であると認めてゐる。

 發表の場所はフランスのフリーメーソン會堂と認められる。
 實際フリーメーソンの政策は右議定書の筋書の線に實行されて居る。
 又之を外間に發表した本元の露人ニルース氏は1901年に手に入った一冊には 
“第三十三階級のシオン代表者等により署名す” 
と記されてあったと語ってゐる。

 ユダヤ人用の一般に流布する抹殺用の物語りは次の様になってゐる。
 あの議定書と云ふのは元とロシアの警察で書いものだ。
 特に参事官ラチコーフスキーがユダヤに對する反感を起させる爲に作ったものだ。 


 併し之は何等の論拠はない。
あれ程のことは餘程ユダヤの知識を持ち、
政治、経済、哲學迄亙った學識ある者でなければ書けるものではない。


 恐らく1897年バーゼルのユダヤ人丈のフリーメーソン結社ブナイ・ブリス兄弟の會合で
論議はされたろうと思はれるが、
書かれたのは1890年と95年の間であらうと思はれる。

 疑いもないことは議定書の原文フランス語のものを最初に手にしたのは
ロシアの少佐で宮内官であっアレキセイ・ニコラエウイッチ・スホーチン
であった。
 エス・アー・ニルース氏の著「小の中の大」にそのことを明らかにしてゐる。
 ニルース氏の息子エス・エス・ニルースは1936年に文書を以て
スホーチン少佐が故人となった父ニルースに議定書を渡すのを見たと發言した。

 又その年の12月3日にはスホーチン氏の親戚で
ロシアの提督の夫人となってユーゴスラーヴィアに住んでゐるアントーニア・マニコーフスカヤからも
若い時に度々スホーチン一家を訪れたが、
1895年頃行った時、スホーチンの妹と姪とで議定書の寫しを取って居るのを見たと書物で宣言した。 

 モスコーで元検事をしてゐたスラバーノフも1895年にスホーチンから写本を貰ったと言って居る。
即ちバーゼル會議の二年前に既にあつたことは確である。
 
 ニルース氏の子息の語る所では、
その父親が議定書を世に出したのは1902年から3年にかけての冬であった。
それは、モスコースキャ・ウエードモスチ誌上であった。
又、1903年8月28日及9月7日のズナーミヤーにも掲載された。

 ニルースが始めて
「小の内に大、そしてキリスト反對が将来政治上の可能性」と題する本の中に
議定書を入れたのが1905年である。1901年のにはまだ入れてなかった。

 1906年にジョージ・ブトミと云ふロシアの著述家が
「真實暴露、人類の敵」と云ふ本の中に議定書を公にした。

〔議定書は大英博物館に収蔵しあり〕
 歐州の他の諸國には全然知られなかったが
大戰後にロシヤの移民がニルースの本を北米とドイツに持って行った。
 ドイツでは1919年獨逸譯を發表しがフォン・ハウゼン氏は後難を虞れたか
ゴットフリートと云ふ變名で出した。
(議定書第二版が一冊英國に搬入され大英博物館に収蔵された。
此の書物の上には1906年8月1日の日附があり、其の収蔵番號は3926D27號である)

 之に対するユダヤ側の對抗手段は、1921年矢継ぎ早に3回現はれた。
同年2月25日に紐育のアメリカン・フェブリウは
ロシアノ亡命侯爵夫人カセリン・ラッジウイルのユダヤ記者イザック、ランドマンとの會見記を發表した。

 又同年5月12、13日にはフランスの伯爵アルマン・ドユ・シャイラが
巴里の露字新聞第ボスレードニエ・ノーウオスチ記者に與へたインターヴィウが現はれた。

 次はフィリップ・グレーヴスの筆になる記事で
1921年8月16、17、18の3日續きでロンドンタイムスに掲載された。
 
 ラッジウイル公爵夫人の言ふには、
議定書は日露戰爭及其の最中に起ったロシア革命の後に始めて書かれ、
執筆者は、ロシアの国務院参事官ペテル・イワノウイチ・ラチコースキーで、
巴里に來て秘密警察の長であつた。
 
 その協力者が彼の手先のマチウー・ゴロウインスキーである。
公爵夫人が巴里に居たときゴロウンインスキーは出来上ったばかりの寫本を見せて呉れた。

 それには表紙にインキのシミが出来て居た。
この本の目的は、之を發行して皇帝ニコラス二世を反ユダヤにしやうとするロシヤの現状維特派の策謀によったのだ。云々。

 シヤイラ伯爵は1909年にロシヤでニルースを訪問したところ、
表紙にインキのシミのある筆写本を見せられた。

 ニルースはその本は竹馬の親友ナタリヤ・アファナーシエウナから受取ったと語ったが、
アファナーシェウナは巴里でラチコーフスキーから受取っのである。
 (伯爵はその後アフハナーシエウナの名前はコマローフスカであったと訂正した)。

 英人フィリップ・グレーヴスは、
議定書はフランスの辯護士モーリス・ツョリーの書いた
「マキャヴェエル、モンテスキュー地獄對話」の助けによって書かれ、
一章、一句その儘引用した所もあっと書いた。
 地獄対話はプラッセルで1864年(第一版)、68年(第二版)に出版されたものである。

 ユダヤ側の論に對する批判は暫く措き、
議定書が地獄對話を大分多く使った事は唯一の眞實として認めなければならぬ。
 (それは無理が無いかも知れぬ。)

 マキャヴェルの素性は詳にしないが、
正義に見せた巧砂な僞瞞的な政治を唱導した人で或はフリーメーソンに加盟してゐたかも知れぬ、
世にマリャヴェリスムと云ふ言葉迄出来た有名な人で、
ユダヤ哲學者スビノーザが彼の主義を敷演した。

 一方のモンテスキューは、
フランスで發表されてゐるフリーメーソン人名鑑に名を載せて為る人だから、
ジョリーが描いた物語は正にユダヤ・プリーメーソンの本音を吐いたもので、
それをアハド・ハームが又善く承證知の上で気定書に取入れたかも知れぬ。
(ジョリー其れ自身がユダヤ人との説もある)。

 議定書にジョリーの著書の剽窃があったとて、
それが議定書の僞作だと云ふ證明にならないことは右の様な譯である。
 唯議定書の内そのものがユダヤの世界征服の計畫を載せ、
それがユダヤ民族の爲に一ユダヤ人の手で書かれたか否やが問題
である。

 剽窃は犯したかも知れぬが内容が僞作とは言へない。
議定書がユグヤを誣告する爲に反ユダヤ主義者が作ったことが事實なりやを證明しなければなぬ。 

 ユダヤ世界ではラッジウイル公爵夫人を引合に出して
ゴロウインスキーが作ったことにしようと試みて之は悉く失敗に終った。


〔偽文書問題に関するべルン裁判〕  
 之にも懲りず全世界各國別に幾種類かの言葉を用ゐて議定書否認の努力をしたが、
終に之を法定の解決に訴へることに決した。

  1933年(ヒットラー登場の年)の6月26日
端西國ユダヤ協會及ベルンのユダヤ人組合
は訴訟を提起し、
テオドル・フリッツ氏の發行した「シオン團の議定書」は文字通りの廃品であるから
爾今發行禁止の命令を發布することを請求した。

 訴へられたのは「端西國民戦線」及ハイマートウエールの5名である。
  ユダヤ側の専門家としてバーゼル大學の法學授バウムガルテンで、
被告側の専門家としてエーアフルトの「世界奉仕(ウエルト・デインスト)」の主幹フラ一シュハウワー中佐を法廷から指定した。

 専門委員長としては端西の著述家でユダヤ贔屓のシー・エー・ロースリが指名を受けた。
 1934年10月未迄に原告側の請求で證人が16人出廷した。

 1935年5月14日判決が下され、
議定書は僞作であり國民精神を惑亂する文書であると言ひ波された。
それ以上には何も判決は出來なかった。

 それはマルクシストである裁判官は、
侯爵夫人ラッジウイルや伯爵シャイラなどの僞證を眞實として取扱い、
従て僞證に基くバウムガルテンとロースリの専門意見丈を採用しからであり、
他方フライシュハウアー中佐が兩人の證言は眞實ならずと抗議したのを聞かずして判決したからである。

 のみならす裁判官等は議定書が僞作であると云ふ先入観に捕はれ、
ユダヤの露骨な壓迫の爲に客観的態度を失び端西民法の命ずる討議中の記録をも故意に中止させた。
 此くしてユダヤ原告個の請求した證人丈を喚問して、
被告團の請求にかかる人は唯の一人も召喚しなかった。

 それで記録は唯ユダヤ原告側のもの丈残ってゐる。
そして端西の法律では如何なる裁判でも法廷の公けの記録として大要を裁判所の役人が筆記することになって居るのに、
裁判官は此の規則に從はなかった。
 のみならずユダヤ原告側には2名の私設タイビストの入廷を許し
彼等の證人の陳述を公式記録として残すことにした。

 それで合法的の記録は一つも無くて裁判が行はれたのであるから、
裁判は判決に至るまで全部ゼロであって、無效と言はなければならぬ。  

 其の外にも各種の偏頗(ヘンパ、偏ったへんなやりかた)なやり方で、
フラインユ一クアー中佐には便宜を與へることを妨げた。
 即ち、ユダヤ側の端西専門委員には優に8ヶ月の準備期間を與へて置きながら、
フライシュハウアー中佐には6
週間で終る様に仕向けた。
 抗議の末漸く1ヶ月丈と云ふ不充分な日子を延期して呉れたのであった。

 被告は辯護士を通じて控訴した。
 2年半を過きて1937年10月27日ベルンの訴院第刑事部で裁判が再開された。
被告の辯
護士2名は第一審の判決は破棄し被告を無罪にすべく要請した。

 辯
護士は第一審の際の證人調書には署名がしてない事實があること
並びに證人達の證言には何等信を措けないことを指摘し、
又原告側のローシ専門委員の提出したロシア語の書類は原文に不正確なものがあり
且翻訳の際に多数の誤譯があることを指摘した。 

 最後に辯護士は問題の文書は政治上のもので道徳上のものでないから、
被告を瑞西の法律で慮罰することは出来ないと論じた。
 
 立會の検事は裁判記録の取扱いが第一審で正くなかった事
及び刑法の適用に多くの誤りのあることをも認めた。
1937年11月1日控訴院は次の如き判決を下した。

 被告シルヴィオシュネルの行爲は何等犯罪を構成せず、
由て無罪とし、何等の賠償を課せず。

 裁判は大要左りの如き説明を述べた。
 議定書が眞のものか、僞物かに就ての専門意見は餘計なことである。
シオンの議定書は政治上の議論に互るパンフレットでベルンの法律は之に適用すべきでない。

それで全面的無罪を宣告した。
 

 尚裁判長は第一審の裁判官が議定書の眞僞に就て調査する権限は無かった筈だ。
それは不徳義な公判であるか否かとは無関係であるからであると強く附加した。

 此くてユダヤ側は此の裁判に於て目的を達し得なかった。
 之にも拘わらず今以て第一審の判決が有效になって居て、
議定書は僞作と云ふことを主張して居るのは益々輿論を誤導することになるから之は明にせなければならぬ。

 第二審に於ては、
第一審の判決文並に其の誤れる判決の基礎も、
又僞物であることは掌を指すが如しと確言せることなどは悉く全面的に破棄せられたのである。
  
 公爵夫人等の僞證を簡単に明にすれば次の様である。

一、議定書が日露戰爭後に書かれた云ふが、
ステーパノフは既に1895年に之を持って居たしニルースは1901年に手にし、
1903年にはブナーミャー紙に掲載して居る。

二、議定書を巴里で書いたと言ふラチコーフスキー、ゴロウインスキーの兩名は
當時巴里には居らぬ。

 尚ラッジウイル公爵夫人と自称して1921年に米國新聞記者に倉見してゐる女は、
1914年には既に離婚となって公爵夫人ではない。

 其の後技師と結婚間もなく解消し、
新聞記者と會見當時は更にダンビンと結婚して居る有名な嘘つきであるから、
身分を僞ってゐるものの證言が當てにならぬけれども、
議定書を僞物として世間に信じさせるには、
公爵夫人と云ふ眞面目らしい名が附けたかったのであろう。

 第一審の裁判所はこの夫人の前身や職業につき調査することを拒絶し
その夫人は1900年頃阿弗利加へ行くときダイヤモンド王セシル・ローデスに喰っ附いた。

 虚栄の爲にグレート・ブリテーンと云ふ新聞を發刊して居たが、
南阿の政治情勢に就てサリスペリー卿との會見を仕組み、
この會見で卿はローデス氏を南阿の総理大臣にしてやると云ふ意向を述べた様に報じた。

 之を裏書する爲自稱公爵夫人は卿のステートメントに卿のサインを貰って之を發表することにし
ローデスの秘書に本文を見せた。
 夫人に面會したいと云ふ卿の電報も見せた。
所が實際はサりスベリー卿に面會もして居らず、電報も卿からは来て居ない。
秘書に見せ電報は自分が自分に打っ僞電であつた。

 1901年には彼女はセシル・ローデスの名前で二萬九千ポンドの手形を切った。
 それで遂に捕縛され、18ヶ月の重懲役に處せられた。
此等の罪状はまだ他にもあってセシル・ローデスの秘書等の公表した書物を繙どくとまだいくらもある。

 南阿を去ってからの此の女の生活様式は變らなかつた。
 1921年には紐育でホテルの食事傳票を誤魔化して立去ろうとして逮捕された。
 實に適當な證人が議定書の僞物を證明する爲に喚問されたものである。

 議定書が1905年の日露戰爭の後始めて書かれたと云ふ明白なを虚僞の申立は
首席専門委員ロースリとしては甚だまづいことになった。
そこで今度は自ら事實を曲げることに乗り出したた。

即ちラッジウイル夫人の申立を眞實らしくする爲に、
窃かに1905年と云ふのを1895年に書き直した。

 七ヶ月後に彼は法定で被告側専門委員フライシュハウアー中佐の爲に、
そのことを自白させられた。
それにも拘らずあの偏頗な裁判には何の影響を與へず議定書を僞物と判決して終った。

 恐らくラッジウイル夫人の出した申立と云ふのは、
瑞西の地元の人達が拵へて準備して置て、
それを夫人がいくらか自分の意見で直した位のものと思はれる節がある。

 尚あの婦人は米國ユダヤ界の指導者たるルイズ・マーシャルと云ふ
ブナイ・ブリス派のユダヤ・メーソンに面會して特に高給の月五百弗
で雇われたとの説もある。
 
 も一人のシャイラ伯爵と云ふのも相當恥を知らない人で唯自分の申立の眞實を言び張った。
後とで調べて見ると之も名前は違って居て、ウオロディメロツフが本名であった。
この人は未だ嘗てラチコーフスキーに面會したことは無い。

 ニルースの子息の話では父ニルースの持って居た議定書の表紙に
インクのシミなどは無かったとのことである。

 尚この伯爵は1921年にはウランゲル軍のドンコサック部隊の宣傳部長であった。
 その間に敵側の過激派の手先を勤めたが、發覚して逮捕され、反逆罪で死刑を宣告された。
然るにウランゲル將軍は友軍フランス軍の圧迫によって、宣告を取消し、
軍から追放した丈で終ったのてある。

 右の如く多数の人々の證言からすると、
 ラツヂウイル夫人やシャイラ伯爵の申立は毫も問題とならない虚構のことで、
ラチコフスキーも議定書と何等関係の無いことになって居る。

 此等の問題を離れ第れてプロトコールの眞の起因に就いて尚研究を進むべき點はあるが、
最も有効なるロシアの國内に捜索の行ひ得ざることが最も遺憾である、現政権が之を許すや否やは別問題として、

 1917年三月革命で臨時政府が出来た時、
その閣僚の一人フリーメーソン結社員ルウオフ等が
最も注意を加へて内務省及警視庁からユダヤ及フリーメーソンに関係ある一切の機密文書を運び出させて終まったから、
徹底的の調査が困難になったのである。

 此く執筆者及書いた時機などが今以て突き止められないけれども、
それは議定書が虚偽だと云ふ證拠にはならぬし、
内容が今日の現實と一致して居ること又数十年存在するがその価値が一向否定せられないで、
之を僞作と云った方が否定せられたのであるから之は實のものと見られ得るのである。

 

 ベルンの裁判は結局何れとも眞相を明にすること無く終ったが、
議定書の眞相が観破されると困ることがある人が、
ベルンで暴露した様な見苦しい窮策迄使って、
之を僞作として葬り去らうと考へることはハッキリした。

 

〔偽文書に非ることをユダヤ人告白す〕 
 之より更に進んで議定書が本物であることに就て
ユダヤ人の告白する所を發表してユダヤ人の宣傳
によりプロトコール研究の熱をさまさない事が必要である。

 1901年頃波蘭の都市ショッケン(今では之をスコキと呼ぶ)に
ルードルフ・フライシュマンと云ふ次席の猶太僧侶が居た。
その土地に勤務して居た検事ノスコーウイクツがそのラビと親しくなった。

 フライシュマンは上役の僧侶フハイルヒエンフエルドからいどく侮辱されたと云ふのは、
上役僧がフライシュマンの婚約者を殴打したからである。

 フラインユマンは友人たるキリスト敎徒の検事ノスコーウイクツに之を語った。
そのときユダヤ人の反キリスト文書に就て話が出て、つい話はシオンの議定書に及んだ。
 
 その頃、ロシヤの中にはあの本は知られて居た。
 フライシュマン曰く
 『議定書と云ふのは確に存在してゐた。
  そしてそれは決して僞物では無い。
  のみならず、あれは確にユダヤから出てゐるものだ。』
と説き、

 更にユダヤ禍に就て同宗の人々、同鄕の人々に警告を與へるのはキリスト教徒の義務だとまで述べた。

 ノスゴーウイクツは更に次の事を述べた。
 1908年波蘭で有名なユダヤ僧グルユンフェルト・シュワルツェッツに議定書の眞僞に就て直接聞いて見た。
すると、グルユンフェルトはにユダヤ式の答へ方で次の様に述べた。

 『親愛なる友よ、貴方は物好き過ぎる。
  餘り多くのことを知らうとする。
  此等の事に就て語ることは吾々に許されてゐない。
  自分は何事でも語ることを許されてゐる譯ではないし、
  貴方は何事でも知って善いとは思はれない。
  神かけて注意くおやらなされい。
  そうでないと貴方の命は危険に曝されるますぞ』

 如何にも含蓄ある答である。

 次には、ロシアの大尉(現職の爲絶對秘密)が
ユーゴ・スラーヴィアでユダヤ人のサウエリー・コン
スタンチノウイチ・エフロンを訪問したとき、
或る機會に議定書の眞僞の問題を持出して見た所、
エアフロン熱を見せて曰く 

 自分は永年善くその内容を知ってゐる。
あれが其の基督教徒の新聞に出るズット前からである。
尚エフロンは自分にプロトコールを通讀したかと聞ぐから、
然りと簽へると彼は
『あの議定書は元の原稿の儘ではない。
 同じ原本から圧縮し摘録したものである。
 自分は悶んで居るのだ。
 あの原本の秘密を語って仕まはうか否かに迷ってゐる、
 若し發表しても其の利益より害の方が多くはなかろうかを考へて居る。
(中略)
議定書の原本のあることに執て知って居るものは全世界を通じて十人しかない。 
 その一人は貴方の使用人ですよ。
 貴方屡々お出で下さるならばこの秘密を打空けられるでせう云々』
 (ベルゲマイスター著ぜ・ジューシュシュ・コンスピラシー参照)

   


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