日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

吉田松陰「吉田松陰から某へ 安静六年正月十一日」

2023-04-15 19:35:18 | 吉田松陰

吉田松陰より某へ 

安政六年正月十一日 

吉田松陰 

 今日は亡友重輔が命日なり。
僕は生を獄舎にぬすみ、亡友に九泉に恥ずるなり。

 もはや国家の一大変と申すものにつき、清末、岩国に走るも苦しからず、
おそれながら君公へ与訴(よそ)も苦しからず。

国相府の定算はいかん。
御参府論もそれなりにして置くつもりか。
国相府なお命脈あらば君公へ申しあげようもこれあるべきこと。
前田諸人も役目をすてて論ずることはとても出来まじ。
しかし浅智(せんち)なこと。

今日極論役目をかえることあい成り候えば、
行府の奸使傾覆(けいふく)ののちは立派なことなるが、
それが出来ぬとはさてもさても。

沢山な御家来のこと、吾輩のみが忠臣にこれ無く候。
吾輩皆に先駆(さきがけ)て死んで見せたら観感して起るものあらん。
それがなきほどでは、なんぼう時を待(まち)たりとて時は来ぬなり。

 ただいまの逆焔は誰がこれを激したるぞ、吾輩にあらずや。
吾輩なければこの逆焔千年たつてもなし。
吾輩あればこの逆焔はいつでもある。
忠義と申すものは鬼の留守のまに茶にしてのむようなものではなし。

吾輩屏息(へいそく)すれば逆焔も屏息しようが、
吾輩ふたたび勃興すれば逆焔もふたたび勃興する、いく度も同様なり。

その内には御参府もあい成り、たとえ天下無事にて御帰国ができ候とも、
吾輩逆焔とあい抗するはやはり前のとおりなり。
その内に天朝の御論もどうとか片づくか寝込むか、
なんにしても勤王の間に合い申さず候。

 桂は僕無二の同志、友なれど先夜この談に及ぶことあたわず、いま以て残念に覚え候。
江戸居りの諸友久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見違うなり。
その分れるところは、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり。
さりながら人々おのおの長ずるところあり、諸友を不可とするに非ず。

もつとも功業をなすつもりの人は天下(てんか)皆みな是これ、
忠義をなすつもりはただ吾同志数人のみ。

吾等功業にたらずして忠義に余りあり。

いく回も罪名論行つまらざること僕一生のあやまちなり。(以下欠)

 

           「現代日本記録全集 2 維新の風雲」筑摩書房

             1968(昭和43)年9月25日初版第1刷発行


吉田松陰 「留魂録」

2023-04-10 23:14:33 | 吉田松陰

留魂録

  吉田松陰

 

身はたとひ 
  武蔵の野辺に朽ちぬとも
    留とどめ置かまし大和魂 

    十月念五日     二十一回猛士 

 

 一、  余、去年已来(いらい)心蹟百変、あげて数へがたし。
なかんづく、趙(ちよう)の貫高を希(こひねが)ひ、
(そ)の屈平を仰ぐ、諸知友の知るところなり。

ゆゑに子遠が送別の句に
「燕(えん)(ちよう)の多士一の貫高。荊楚深く憂ふるは只屈平」
といふもこのことなり。 

しかるに五月十一日関東の行を聞きしよりは、
また一(いつ)の誠字に工夫をつけたり。
ときに子遠、死字を贈る。

余これを用ひず、一白綿布を求めて、
孟子の「至誠にして動かざる者は、いまだこれ有らざるなり」の一句を書し、
手巾へ縫ひつけ、携(たづさ)へて江戸に来たり、
これを評定所に留め置きしも、わが志を表するなり。

 去年来のこと、恐れ多くも天朝・幕府の間、
誠意あひ孚(ふ)せざるところあり。

天、いやしくもわが区々の悃誠(こんせい)を諒したまはば、
幕吏かならずわが説を是ぜとせんと志を立てたれども、
「蚊蝱(ぶんばう)山を負ふ」の喩(たとへ)
つひに事をなすことあたはず今日に至る、
またわが徳の菲薄なるによれば、
いま将(は)た誰れをか尤(とが)め、かつ怨まんや。 


一、七月九日、はじめて評定所呼び出しあり。
三奉行出座、尋鞠(じんきく)の件、両条あり。
一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をなせしや。

二に曰く、御所内に落文(おとしぶみ)あり、
 その手跡汝に似たりと源次郎そのほか申し立つる者あり、覚ありや。 

 この二条のみ。
それ梅田は、もとより奸骨(かんこつ)あれば、
余ともに志を語ることを欲せざるところなり、
何の密議をなさんや。

わが性、公明正大なることを好む、
(あ)に落文なんどの隠昧(いんまい)のことをなさんや。 

 余、ここにおいて六年間幽囚中の苦心するところを陳じ、
つひに、大原公の西下を請ひ、
鯖江侯を要する等のことを自首す。

鯖江侯のことに因りて、つひに下獄とはなれり。 


一、わが性、激烈怒罵に短かし。
つとめて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。
これをもつて吏に対して幕府違勅の已(や)むをえざるを陳じ、
しかるのち当今的当の処置に及ぶ。

その説つねに講究するところにして、
つぶさに対策に載するがごとし。

これをもつて幕吏といへども甚だ怒罵することあたはず、
ただちに曰く、「汝陳白するところことごとく的当とも思はれず。

かつ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届きなり」。
余また、ふかく抗せず、
「ここをもて罪を獲るは万々辞せざるところなり」といひてやみぬ。 

 幕府の三尺(せき)、布衣(ほい)、国を憂ふることをゆるさず。
その是非、われ曽(か)つて弁争せざるなり。

聞く、薩の日下部以三次は対吏の日、
当今政治の欠失を歴詆して
「かくのごとくにては往先三五年の無事も保しがたし」
といひて鞠吏を激怒せしめ、
すなわち曰く
「これをもつて死罪をうるといへども悔いざるなり」と。 

 これ、われの及ばざるところなり。
子遠の死をもつてわれに責むるも、またこの意なるべし。
  
唐の段秀実(だんしうじつ)、郭曦(かくぎ)においては彼がごとくの誠悃、
朱泚(しゆせい)においては彼がごとくの激烈、
しからばすなはち英雄おのづから時措のよろしきあり。
  
要は内に省(かへりみ)て疚(やま)しからざるにあり。

 そもそもまた人を知り幾を見ることを尊ぶ。
 
われの得失、まさに蓋棺(がいくわん)の後を待ちて議すべきのみ。 


一、この回の口書(くちがき)、はなはだ草々なり。
七月九日ひととほり申し立てたる後、
九月五日、十月五日両度の呼び出しもさしたる鞠問もなくして、
十月十六日に至り、口書読み聞かせありて、
ただちに書判(かきはん)せよとのことなり。
 余が苦心せし墨使応接・航海雄略等の論、一も書載せず。

ただ数個所開港のことをほどよく申し述べて、
国力充実の後、お打ち払ひしかるべくなど、
わが心にもあらざる迂腐(うふ)の論を書きつけて口書となす。

われ、言ひて益なきを知る。
ゆゑにあへていはず。
不満のはなはだしきなり。
甲寅の歳、航海一条の口書に比するときは雲泥(うんでい)の違ひといふべし。


一、七月九日、ひととほり大原公のこと、
鯖江要駕のことなど申し立てたり。
はじめ意(おも)へらく、これらのこと、
幕にもすでに諜知すべければ、
明白に申し立てたる方、かへつてよろしきなりと。

すでにして逐一(ちくいち)口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。

よつて意へらく、幕にて知らぬところを強ひて申し立て、
多人数に株蓮(しゆれん)蔓延(まんえん)せば、
善類を傷(そこな)ふこと、すくなからず、
毛を吹いて瘡を求むるにひとしと。 

 ここにおいて鯖江要撃のことも要諌とはいひかへたり。

また京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名など、
なるべきだけは隠して具白せず。

これ、われ後起人のためにする区々の婆心なり。
しかして幕裁、はたしてわれ一人を罰して、
一人も他に連及なきは実に大慶といふべし。

同志の諸友、ふかく考思せよ。 


一、要諌一条につき、事遂げざるときは鯖候と刺(さし)ちがへて死し、
警衛の者要蔽(ようへい)するときは切り払ふべきとのこと、
実に吾がいはざるところなり。
しかるに三奉行強ひて書載して誣服(ぶふく)せしめんと欲す。
 
誣服は吾れあへて受けんや。
ここをもつて十六日、
書判の席にのぞみて石谷・池田の両奉行と大いに争弁す。
吾れあへて一死を惜しまんや。
両奉行の権詐に伏せざるなり。 


 これよりさき九月五日、十月五日、両度の吟味に、
吟味役までつぶさに申し立てたるに、死を決して要諌す、
かならずしも刺しちがへ、切り払ひなどの策あるにあらず。

 吟味役つぶさにこれを諾して、
しかもかつ口書に書載するは権詐にあらずや。

 しかれどもことすでに爰(ここ)に至れば、
刺しちがへ・切り払ひの両事を受けざるは、かへつて激烈を欠き、
同志の諸友また惜しむなるべし。

 吾れといへども、また惜しまざるにあらず。
しかれども反復これを思へば、成仁の一死、区々一言の得失にあらず。

 今日、義卿、奸権のために死す、
天地神明照鑑上にあり、なに惜しむことかあらん。 


一、吾れ、この回はじめ、もとより生を謀(はか)らず、また死を必せず。
ただ誠の通塞をもつて天命の自然に委したるなり。
七月九日に至りてはほぼ一死を期す。

ゆゑにその詩にいふ、
「継盛ただまさに市戮に甘んずべし、倉公いづくんぞまた生還を望まんや」と。 

 その後、九月五日、十月五日、吟味の寛容なるにあざむかれ、
また必生を期す、またすこぶる慶幸の心あり。
この心、吾れこの身を惜しむために発するにあらず。

そもそも故あり。
 
 去臘大晦、朝議すでに幕府に貸(ゆる)す。
今春三月五日、吾が公の駕、すでに萩府を発す。
吾が策ここにおいて尽き果てたれば、死を求むることきわめて急なり。

 六月の末、江戸に来たるにおよんで夷人の情態を見聞し、
七月九日獄に来たり、天下の形勢を考察し、
神国の事、なほなすべきものあるを悟り、
はじめて生を幸とするの念勃々ぼつぼつたり。 

 吾れもし死せずんば、勃々たるもの決して汨没(こつぼつ)せざるなり。
しかれども十六日の口書、三奉行の権詐、
吾れを死地におかんとするを知りてより、
さらに生を幸ねがふの心なし、これまた平生学問の得力しかるなり。 


一、今日死を決するの安心は四時の順環において得るところあり。 
けだし彼の禾稼(くわか)を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。
秋冬に至れば人みなその歳功の成るを悦び、
酒を造り醴(れい)を為(つく)り、村野歓声あり。
いまだかつて西成にのぞんで歳功の終はるを哀かなしむものを聞かず。 

 吾れ行年三十。
一事成ることなくして死して、禾稼のいまだ秀でず実らざるに似たれば、
惜しむべきに似たり。

しかれども義卿の身をもつていへば、これまた秀実のときなり、
何ぞかならずしも哀しまん。
何となれば人寿は定まりなし。

禾稼のかならず四時を経るごときにあらず。
十歳にして死する者は十歳中おのづから四時あり。

二十はおのづから二十の四時あり。
三十はおのづから三十の四時あり。
五十、百はおのずから五十、百の四時あり。

十歳をもつて短しとするは、蟪蛄(けいこ)をして霊椿たらしめんと欲するなり。
百歳をもつて長しとするは、霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。
斉しく命に達せずとす。

 

 義卿三十、四時すでにそなはる、また秀でまた実る。
その秕(しひな)たるとその粟たると、わが知るところにあらず。

もし同志の士、その微衷をあわれみ継紹(けいせう)の人あらば、
すなはち後来の種子いまだ絶えず、おのづから禾稼の有年に恥ぢざるなり。
同志それ、これを考思せよ。 


一、東口揚屋(あがりや)に居る水戸の郷士堀江克之助、
余いまだ一面なしといへども真に知己なり、真に益友なり。

余に謂(い)つて曰く、
「昔、矢部駿州は桑名侯へお預けの日より絶食して敵讐を詛(のろ)ひて死し、
 果たして敵讐を退けたり。
 いま足下もみづから一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払はれよ、
 一心を残し置きて給はれよ」
 と丁寧に告戒せり。 

 吾れ、まことにこの言に感服す。
また鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。

 余に告げて曰く、
「いま足下の御沙汰もいまだ測られず、
 小子は海外におもむけば、天下のことすべて天命に付せんのみ。
 ただし天下の益となるべきことは同志に托し後輩に残したきことなり」と。 

 この言、大いに吾が志を得たり。
 吾れの祈念を籠むるところは、
同志のかひがひしく吾が志を継紹して尊攘の大功を建てよかし、なり。

 吾れ死すとも堀・鮎二子のごときは海外にありとも獄中にありとも、
吾が同志たらん者、願はくは交を結べかし。

 また本所亀沢町に山口三蟪といふ医者あり。
義を好む人と見えて、堀・鮎二子のことなど外間にありて大いに周旋せり。 

とても及ぶべからざるは、
いまだ一面もなき小林民部のこと、二子より申しつかはしたれば、
小林のためにもまた大いに周旋せり。

この人、想ふに不凡ならん、かつ三子への通路はこの三輶老に托すべし。 


一、堀江、つねに神道をあがめ、天皇を尊び、
大道を天下に明白にし、異端邪説を排せんと欲す。

 謂(おも)へらく、天朝より教書を開板して天下に頒示するに如しかずと。
余謂(おも)へらく、教書を開板するに一策なかるべからず。

京師において大学校を興し、上、天朝の御学風を天下に示し、
また天下の奇材異能を京師に貢し、
しかるのち天下古今の正論確議を輯集(いしふ)して書となし、
天朝御教書の余を天下にわかつときは、天下の人心おのづから一定すべしと。 

 よつて平生子遠と密議するところの尊攘堂の議と合はせ堀江に謀り、
これを子遠に任ずることに決す。

子遠もしよく同志と謀り、内外志をかなへ、
このことをしてすこしく端緒あらしめば、
吾れの志とするところもまた荒せずといふべし。 

 去年、勅諚綸旨のこと一跌すと雖も、
尊皇攘夷いやしくも已やむべきにあらざれば、
また善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。
京師学校の論、また奇ならずや。 

一、小林民部いふ、
京師の学習院は定日ありて、
百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる。

講日には公卿方出座にて、
講師菅家・清家および地下(ぢげ)の儒者あひ混ずるなり。
しからばこの基によりて、さらに斟酌を加へば幾等も妙策あるべし。

また懐徳堂には霊元上皇宸筆の勅額あり、
この基により、さらに一堂を興すもまた妙なり、
と小林いへり。

 小林は鷹司家の諸太夫にて、このたび遠島の罪科に処せらる。
京師諸人中、罪責きはめて重し。

その人、多材多芸、ただ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。
西奥揚屋にて余と同居す。のち東口に移る。
京師にて吉田の鈴鹿石州・同筑州別して知己の由。

また山口三輶も小林のために大いに周旋したれば、
鈴鹿か山口かの手をもつて、海外までも吾が同志の士、通信をなすべし。
京師のことについては後来かならず力を得るところあらん。 

一、讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諌め、
宗藩水家と親睦のことにつきて苦心せし人なり。

東奥揚屋にあり。
その子速水、余と西奥に同居す。
この父子の罪科いかん、いまだ知るべからず。
同志の諸友、切に記念せよ。  

 予はじめて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。
法、隻語をまじふることを得ず。

翁、独語するもののごとくして曰く、
「むしろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」と。
吾れはなはだその意に感ず。
同志それ、これを察せよ。 


一、右数条、余いたづらに書するにあらず。
天下のことを成すは天下有志の士と志を通ずるにあらざれば得ず。
しかして右数人、余この回あらたに得るところの人なるをもつて、
これを同志に告示するなり。 


 また勝野保三郎、はやすでに出牢す。
つきてその詳を問知すべし。
勝野の父、豊作、いま潜伏すといへども有志の士と聞けり。
他日ことたひらぐを待ちて物色すべし。

今日のこと、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同士を問訊するごとくすべし。
一敗すなはち挫折する、あに勇士のことならんや。
切に嘱す、切に嘱す。


一、越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。
左内東奥に坐する、五六日のみ。
勝保同居せり。
後、勝保西奥に来たり予と同居す。
予、勝保の談を聞きてますます左内と半面なきを嘆ず。


 左内幽囚邸居中、資治通鑑(しぢつがん)を読み、註を作り漢紀を終はる。
また獄中、教学工作等のことを論ぜし由、勝保、予がためにこれを語る。
獄の論、大いに吾が意を得たり。
予、ますます左内を起して一議を発せんことを思ふ。
嗟夫ああ。


一、清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。
ゆゑに余、これを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。
同志それ、吾れにかはりてこの言をふまば幸甚なり。


一、同志諸友の内、小田村・中谷・久保・久坂・子遠兄弟等のこと、
鮎沢・堀江・長谷川・小林・勝野等へ告知しおきぬ。

 村塾のこと、須佐・阿月等のことも告げおけり。

 飯田・尾寺・高杉および利輔のことも諸人に告げおきしなり。
これみな吾がいやしくもこれをなすにあらず。 

かきつけ終りて後
  心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ
  思い残せることなかりけり 

呼びだしの声まつほかに今の世に
  待つべきことのなかりけるかな  

討たれたる吾れをあはれと見ん人は 
  君を崇めて夷(えびす)払へよ  

愚なる吾れをも友とめづ人は 
  わがとも友(ども)とめでよ人々   

七たびも生きかへりつつ夷をば  
  攘はんこころ吾れ忘れめや  

十月二十六日黄昏書す    二十一回猛士   

  


吉田松陰『留魂録』

2023-04-08 23:28:25 | 吉田松陰

 

   『留魂録』 
            吉田松陰

        身はたとひ
  武蔵の野辺に朽ちぬとも
  留(とど)
め置かまし大和魂

   十月念五日   二十一回猛士

 

一、余、去年 已来(いらい)心蹟百変、あげて数へがたし。
なかんづく、趙(ちよう)の貫高を希(こひねが)ひ、楚(そ)の屈平を仰ぐ、諸知友の知るところなり。
ゆゑに子遠が送別の句に
「燕(えん)趙(ちよう)の多士一の貫高。荊楚深く憂ふるは只屈平」といふもこのことなり。
しかるに五月十一日関東の行を聞きしよりは、また一(いつ)の誠字に工夫をつけたり。

ときに子遠、死字を贈る。
余これを用ひず、一白綿布を求めて、
孟子の「至誠にして動かざる者は、いまだこれ有らざるなり」の一句を書し、
手巾へ縫ひつけ、携(たづさ)へて江戸に来たり、
これを評定所に留め置きしも、わが志を表するなり。

去年来のこと、恐れ多くも天朝・幕府の間、誠意あひ孚(ふ)せざるところあり。
天、いやしくもわが区々の悃誠(こんせい)を諒したまはば、
幕吏かならずわが説を是(ぜ)とせんと志を立てたれども、
蚊蝱(ぶんばう)山を負ふ」の喩(たとへ)、
つひに事をなすことあたはず今日に至る、
またわが徳の菲薄なるによれば、いま将(は)た誰れをか尤(とが)め、かつ怨まんや。

一、七月九日、はじめて評定所呼び出しあり。
三奉行出座、尋鞠(じんきく)の件、両条あり。
一に曰く、梅田源次郎長門下向の節、面会したる由、何の密議をなせしや。
二に曰く、御所内に落文(おとしぶみ)あり、
その手跡汝に似たりと源次郎そのほか申し立つる者あり、覚ありや。

この二条のみ。それ梅田は、もとより奸骨(かんこつ)あれば、
余ともに志を語ることを欲せざるところなり、何の密議をなさんや。
わが性、公明正大なることを好む、豈(あ)に落文なんどの隠昧(いんまい)のことをなさんや。

余、ここにおいて六年間幽囚中の苦心するところを陳じ、
つひに、大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等のことを自首す。
鯖江侯のことに因りて、つひに下獄とはなれり。

一、わが性、激烈怒罵に短かし。
つとめて時勢に従ひ、人情に適するを主とす。
これをもつて吏に対して幕府違勅の已(や)むをえざるを陳じ、
しかるのち当今的当の処置に及ぶ。
その説つねに講究するところにして、つぶさに対策に載するがごとし。

これをもつて幕吏といへども甚だ怒罵することあたはず、
ただちに曰く、
「汝陳白するところことごとく的当とも思はれず。
かつ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届きなり」。

余また、ふかく抗せず、「ここをもて罪を獲るは万々辞せざるところなり」といひてやみぬ。 

幕府の三尺(せき)、布衣(ほい)、国を憂ふることをゆるさず。
その是非、われ曽(か)つて弁争せざるなり。
聞く、薩の日下部以三次は対吏の日、当今政治の欠失を歴詆して
「かくのごとくにては往先三五年の無事も保しがたし」といひて鞠吏を激怒せしめ、
すなわち曰く「これをもつて死罪をうるといへども悔いざるなり」と。

これ、われの及ばざるところなり。子遠の死をもつてわれに責むるも、またこの意なるべし。
唐の段秀実(だんしうじつ)、郭曦(かくぎ)においては彼がごとくの誠悃、
朱泚(しゆせい)においては彼がごとくの激烈、
しからばすなはち英雄おのづから時措のよろしきあり。

要は内に省(かへりみ)て疚(やま)しからざるにあり。
そもそもまた人を知り幾を見ることを尊ぶ。
われの得失、まさに蓋棺(がいくわん)の後を待ちて議すべきのみ。

一、この回の口書(くちがき)、はなはだ草々なり。
七月九日ひととほり申し立てたる後、九月五日、十月五日両度の呼び出しもさしたる鞠問もなくして、
十月十六日に至り、口書読み聞かせありて、ただちに書判(かきはん)せよとのことなり。
余が苦心せし墨使応接・航海雄略等の論、一も書載せず。

ただ数個所開港のことをほどよく申し述べて、国力充実の後、お打ち払ひしかるべくなど、
わが心にもあらざる迂腐(うふ)の論を書きつけて口書となす。
われ、言ひて益なきを知る。

ゆゑにあへていはず。
不満のはなはだしきなり。
甲寅の歳、航海一条の口書に比するときは雲泥(うんでい)の違(ちが)ひといふべし。

一、七月九日、ひととほり大原公のこと、鯖江要駕のことなど申し立てたり。
はじめ意(おも)へらく、これらのこと、幕にもすでに諜知すべければ、
明白に申し立てたる方、かへつてよろしきなりと。

すでにして逐一(ちくいち)口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。
よつて意へらく、幕にて知らぬところを強ひて申し立て
、多人数に株蓮(しゆれん)蔓延(まんえん)せば、善類を傷(そこな)ふこと、
すくなからず、毛を吹いて瘡を求むるにひとしと。

ここにおいて鯖江要撃のことも要諌とはいひかへたり。
また京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名など、なるべきだけは隠して具白せず。

これ、われ後起人のためにする区々の婆心なり。
しかして幕裁、はたしてわれ一人を罰して、一人も他に連及なきは実に大慶といふべし。
同志の諸友、ふかく考思せよ。

一、要諌一条につき、事遂げざるときは鯖候と刺(さし)ちがへて死し、
警衛の者  要蔽(ようへい)するときは切り払ふべきとのこと、
実に吾がいはざるところなり。

しかるに三奉行強ひて書載して誣服(ぶふく)せしめんと欲す。
誣服は吾れあへて受けんや。
ここをもつて十六日、書判の席にのぞみて石谷・池田の両奉行と大いに争弁す。

吾れあへて一死を惜しまんや。
両奉行の権詐に伏せざるなり。
これよりさき九月五日、十月五日、両度の吟味に、
吟味役までつぶさに申し立てたるに、死を決して要諌す、
かならずしも刺しちがへ、切り払ひなどの策あるにあらず。

吟味役つぶさにこれを諾して、しかもかつ口書に書載するは権詐にあらずや。

しかれどもことすでに爰(ここ)に至れば、刺しちがへ・切り払ひの両事を受けざるは、
かへつて激烈を欠き、同志の諸友また惜しむなるべし。

吾れといへども、また惜しまざるにあらず。
しかれども反復これを思へば、成仁の一死、区々一言の得失にあらず。
今日、義卿、奸権のために死す、天地神明照鑑上にあり、なに惜しむことかあらん。

一、吾れ、この回はじめ、もとより生を謀(はか)らず、また死を必せず。
ただ誠の通塞をもつて天命の自然に委したるなり。
七月九日に至りてはほぼ一死を期す。

ゆゑにその詩にいふ、
「継盛ただまさに市戮に甘んずべし、倉公いづくんぞまた生還を望まんや」と。

その後、九月五日、十月五日、吟味の寛容なるにあざむかれ、また必生を期す、
またすこぶる慶幸の心あり。
この心、吾れこの身を惜しむために発するにあらず。そもそも故あり。

去臘大晦、朝議すでに幕府に貸(ゆる)す。

今春三月五日、吾が公の駕、すでに萩府を発す。
吾が策ここにおいて尽き果てたれば、死を求むることきわめて急なり。

六月の末、江戸に来たるにおよんで夷人の情態を見聞し、七月九日獄に来たり、
天下の形勢を考察し、神国の事、なほなすべきものあるを悟り、
はじめて生を幸とするの念 勃々(ぼつぼつ)たり。

吾れもし死せずんば、勃々たるもの決して汨没(こつぼつ)せざるなり。
しかれども十六日の口書、三奉行の権詐、吾れを死地におかんとするを知りてより、 
さらに生を幸(ねが)ふの心なし、
これまた平生学問の得力しかるなり。

一、今日死を決するの安心は四時の順環において得るところあり。  
     けだし彼の禾稼(くわか)を見るに、
  春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。   
   
秋冬に至れば人みなその歳功の成るを悦び、
  酒を造り醴(れい)を為(つく)り、村野歓声あり。

   いまだかつて西成にのぞんで
   歳功の終はるを哀(かな)しむものを聞かず。


吾れ行年三十。

一事成ることなくして死して、禾稼のいまだ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。
しかれども義卿の身をもつていへば、これまた秀実のときなり、何ぞかならずしも哀しまん。
何となれば人寿は定まりなし。

禾稼のかならず四時を経るごときにあらず。
十歳にして死する者は十歳中おのづから四時あり。

二十はおのづから二十の四時あり。
三十はおのづから三十の四時あり。
五十、百はおのずから五十、百の四時あり。

十歳をもつて短しとするは蟪蛄(けいこ)して霊椿たらしめんと欲するなり。
百歳をもつて長しとするは、霊椿をして蟪蛄(けいこ)たらしめんと欲するなり。
斉しく命に達せずとす。

義卿三十、四時すでにそなはる、また秀でまた実る。
その秕(しひな)たるとその粟たると、わが知るところにあらず。

もし同志の士、その微衷をあわれみ継紹(けいせう)の人あらば、
すなはち後来の種子いまだ絶えず、
おのづから禾稼の有年に恥ぢざるなり。
 同志それ、これを考思せよ。


一、東口 揚屋(あがりや)に居る水戸の郷士堀江克之助、余いまだ一面なしといへども真に知己なり、
真に益友なり。

余に謂(い)つて曰く、
「昔、矢部駿州は桑名侯へお預けの日より絶食して敵讐を詛(のろ)ひて死し、果たして敵讐を退けたり。
いま足下もみづから一死を期するからは祈念を籠めて内外の敵を払はれよ、
一心を残し置きて給はれよ」と丁寧に告戒せり。
吾れ、まことにこの言に感服す。

また鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。
余に告げて曰く、
「いま足下の御沙汰もいまだ測られず、
小子は海外におもむけば、天下のことすべて天命に付せんのみ。
ただし天下の益となるべきことは同志に托し後輩に残したきことなり」と。

この言、大いに吾が志を得たり。
吾れの祈念を籠むるところは、
同志のかひがひしく吾が志を継紹して尊攘の大功を建てよかし、なり。

吾れ死すとも堀・鮎二子のごときは海外にありとも獄中にありとも、
吾が同志たらん者、願はくは交を結べかし。

また本所亀沢町に山口三輶といふ医者あり。
義を好む人と見えて、堀・鮎二子のことなど外間にありて大いに周旋せり。
とても及ぶべからざるは、いまだ一面もなき小林民部のこと、
二子より申しつかはしたれば、小林のためにもまた大いに周旋せり。

この人、想ふに不凡ならん、かつ三子への通路はこの三輶老に托すべし。

一、堀江、常に神道をあがめ、天皇を尊び、大道を天下に明白にし、異端邪説を排せんと欲す。
謂(おも)へらく、天朝より教書を開板して天下に頒示するに如(し)かずと。

余 謂(おも)へらく、教書を開板するに一策なかるべからず。
京師において大学校を興し、
上、天朝の御学風を天下に示し、
また天下の奇材異能を京師に貢し、
しかるのち天下古今の正論確議を輯集(いしふ)して書となし、
天朝御教書の余を天下にわかつときは、天下の人心おのづから一定すべしと。

よつて平生子遠と密議するところの尊攘堂の議と合はせ堀江に謀り、これを子遠に任ずることに決す。
子遠もしよく同志と謀り、内外志をかなへ、
このことをしてすこしく端緒あらしめば、吾れの志とするところもまた荒せずといふべし。

去年、勅諚綸旨のこと一跌すと雖も、尊皇攘夷いやしくも已(や)むべきにあらざれば、
また善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。
京師学校の論、また奇ならずや。

一、小林民部いふ、京師の学習院は定日ありて、百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる。
講日には公卿方出座にて、講師菅家・清家および地下(ぢげ)の儒者あひ混ずるなり。
しからばこの基によりて、さらに斟酌を加へば幾等も妙策あるべし。

また懐徳堂には霊元上皇宸筆の勅額あり、
この基により、さらに一堂を興すもまた妙なり、と小林いへり。

小林は鷹司家の諸太夫にて、このたび遠島の罪科に処せらる。
京師諸人中、罪責きはめて重し。
その人、多材多芸、ただ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。
西奥揚屋にて余と同居す。のち東口に移る。

京師にて吉田の鈴鹿石州・同筑州別して知己の由。
また山口三輶も小林のために大いに周旋したれば、
鈴鹿か山口かの手をもつて、海外までも吾が同志の士、通信をなすべし。
京師のことについては後来かならず力を得るところあらん。

一、讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諌め、宗藩水家と親睦のことにつきて苦心せし人なり。
東奥揚屋にあり。
その子速水、余と西奥に同居す。
この父子の罪科いかん、いまだ知るべからず。
同志の諸友、切に記念せよ。

予はじめて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。
法、隻語をまじふることを得ず。
翁、独語するもののごとくして曰く、「むしろ玉となりて砕くるとも、瓦となりて全かるなかれ」と。
吾れはなはだその意に感ず。
同志それ、これを察せよ。

一、右数条、余いたづらに書するにあらず。
天下のことを成すは天下有志の士と志を通ずるにあらざれば得ず。
しかして右数人、余この回あらたに得るところの人なるをもつて、これを同志に告示するなり。   

また勝野保三郎、はやすでに出牢す。つきてその詳を問知すべし。
勝野の父、豊作、いま潜伏すといへども有志の士と聞けり。
他日ことたひらぐを待ちて物色すべし。
今日のこと、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同士を問訊するごとくすべし。
一敗すなはち挫折する、あに勇士のことならんや。切に嘱す、切に嘱す。

一、越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。
左内東奥に坐する、五六日のみ。
勝保同居せり。後、勝保西奥に来たり予と同居す。
予、勝保の談を聞きてますます左内と半面なきを嘆ず。

左内幽囚邸居中、資治通鑑(しぢつがん)を読み、註を作り漢紀を終はる。
また獄中、教学工作等のことを論ぜし由、勝保、予がためにこれを語る。
獄の論、大いに吾が意を得たり。
予、ますます左内を起して一議を発せんことを思ふ。
嗟夫(ああ)。

一、清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。
ゆゑに余、これを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。
同志それ、吾れにかはりてこの言をふまば幸甚なり。

一、同志諸友の内、小田村・中谷・久保・久坂・子遠兄弟等のこと、
鮎沢・堀江・長谷川・小林・勝野等へ告知しおきぬ。
村塾のこと、須佐・阿月等のことも告げおけり。
飯田・尾寺・高杉および利輔のことも諸人に告げおきしなり。
これみな吾がいやしくもこれをなすにあらず。

  かきつけ終りて後

  心なることの種々
(くさぐさ)かき置きぬ
   思い残せることなかりけり 

  呼びだしの声まつほかに今の世に
   待つべきことのなかりけるかな 

  討たれたる吾れをあはれと見ん人は
   君を崇めて夷(えびす)払へよ 

  愚
なる吾れをも友とめづ人は
   わがとも友(ども)とめでよ人々

  七たびも生きかへりつつ夷をば
   攘はんこころ吾れ忘れめや

    十月二十六日黄昏書す   二十一回猛士

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   「吉田松陰全集第七巻」岩波書店 
       1939(昭和14)年11月30日発行

 


吉田松陰より某へ 安政六年正月十一日

2023-04-07 16:21:53 | 吉田松陰

 吉田松陰より某へ    
   安政六(1859)年正月十一日 
         

 今日は亡友重輔が命日なり。
僕は生を獄舎にぬすみ、亡友に九泉に恥ずるなり。

 もはや国家の一大変と申すものにつき、
清末、岩国に走るも苦しからず、おそれながら君公へ与訴(よそ)も苦しからず。
国相府の定算はいかん。

 御参府論もそれなりにして置くつもりか。
国相府なお命脈あらば君公へ申しあげようもこれあるべきこと。 

 前田諸人も役目をすてて論ずることはとても出来まじ。 
しかし浅智(せんち)なこと。

 今日極論役目をかえることあい成り候えば、
行府の奸使傾覆(けいふく)ののちは立派なことなるが、
それが出来ぬとはさてもさても。
沢山な御家来のこと、吾輩のみが忠臣にこれ無く候。 

 吾輩皆に先駆さきがけて死んで見せたら観感して起るものあらん。
それがなきほどでは、なんぼう時を待(まち)たりとて時は来ぬなり。

  ただいまの逆焔は誰がこれを激したるぞ、吾輩にあらずや。
吾輩なければこの逆焔千年たつてもなし。
吾輩あればこの逆焔はいつでもある。

 忠義と申すものは鬼の留守のまに茶にしてのむようなものではなし。
吾輩屏息(へいそく)すれば逆焔も屏息しようが、
吾輩ふたたび勃興すれば逆焔もふたたび勃興する、
いく度も同様なり。

 その内には御参府もあい成り、
たとえ天下無事にて御帰国ができ候とも、
吾輩逆焔とあい抗するはやはり前のとおりなり。

 その内に天朝の御論もどうとか片づくか寝込むか、
なんにしても勤王の間に合い申さず候。

 桂は僕無二の同志、友なれど先夜この談に及ぶことあたわず、
いま以て残念に覚え候。
江戸居りの諸友久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見違うなり。

 その分れるところは、
僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり。

さりながら人々おのおの長ずるところあり、
諸友を不可とするに非ず。


 もつとも功業をなすつもりの人は天下(てんか)皆みな是これ、
忠義をなすつもりはただ吾同志数人のみ。
吾等功業にたらずして忠義に余りあり。


 いく回も罪名論行つまらざること僕一生のあやまちなり。 

     (以下欠)
   


徳冨蘇峰『吉田松陰』 第二十 事業と教訓

2019-12-17 15:20:40 | 吉田松陰

       「吉田松陰」
        徳富蘇峰


第二十 事業と教訓
  

 「真個(しんこ)関西志士の魁(さきがけ)、英風我が邦を鼓舞し来れり」。
これ彼が高弟高杉晋作の彼を賛するの辞、言い尽して余蘊(ようん)なし。
(まこと)にこれ彼が事業の断案といわざるべからず。
彼は維新革命の大勢より生れ、その大勢に鉄鞭を加えたり。
彼は鼓舞者なり、彼は先動者にあらず。
彼は先動者なり、成功者にあらず。


 彼は維新革命の健児なり、
(しか)れどももし維新革命の功、専(もっぱ)ら彼に在りといわば、
これ彼を誣(し)いたるなり。
彼は死後といえども、他人の功を窃(ぬす)んで、
彼に与うるが如き拙鄙(せっぴん)なる追従者を容(い)るる能(あた)わず。


 然れども彼の事業は短けれども、彼の教訓は長し。
為す所は多からざるも、教うる所は大なり。

 維新革命の健児としての彼の事業は、あるいは歴史の片影に埋もるべし。
然れども革新者の模範として、日本男児の典型として、長く国民の心を燃すべし。
 彼の生涯は血ある国民的 詩歌なり。
彼は空言を以て教えず、活動を以て教えたり。

 この教訓にして不朽ならば、彼もまた不朽なり。
即ち松陰死すもなお死せざるなり。


 彼が殉難者としての血を濺
(そそ)ぎしより三十余年、
維新の大業 半(なか)ば荒廃し、
さらに第二の維新を要するの時節は迫りぬ。
 第二の吉田松
陰を要する時節は来りぬ。
 
彼の孤墳は、今既に動きつつあるを見ずや。


                       「吉田松陰」民友社

             1893(明治26)年12月23日発行

                              初出:「国民之友」
             1892(明治25)年5月~9月


徳冨蘇峰『吉田松陰』 十九 人物 

2019-12-16 21:31:50 | 吉田松陰

       「吉田松陰」
        徳富蘇峰 


第十九 人物
  

 彼は如何なる人物なるか、普通の意味において、大なる人物という能(あた)わず。
何となれば大なる活眼なく、大なる雄腕なく、また大なる常識を有せざるが故に。

 然れどももし大なる人物というを許さば、許すべきはただ一あり。

 曰く、彼は真誠の人なり、仮作(かさく)の人にあらざるなり。
彼が真誠の人たるは、なおルーテルが真誠の人たるが如し。

 

 ルーテルの幼きや、胡弓を人の門口(かどぐち)に弾じて以て自ら給す、
弾じ終りて家人の物を与えんとするや、彼れ乍(たちま)ち赤面して遁(のが)れ去れり。
 彼 何(な)んぞかくの如く小心なる。

 彼がウオムスの大会において訊問せられんとするや、人その行を危ぶむ。
 彼 昂然(こうぜん)として曰く、
「否々我 往(ゆ)かん、悪魔の数 縦令(たと)い屋上の瓦より三倍多きも何ぞ妨げん」。
 あるいは曰く、「ジョルジ公あり、汝の強敵なり」と。

 彼泰然として曰く、
「否々我往かん、縦令(たと)いジョルジ公雨の如く九日九夜降り続きたりとて何かあらん」と。
 彼アウクスボルクに在(あ)りて、衆敵に窘追(きんつい)せらるるや、

 慨然として曰く、
「もし余をして五百箇の首ありて、むしろ尽(ことごと)くこれを失うとも、
余が信ずる所の一箇条を改むるを欲せず」と。

 彼は何故に前に小心にして、後にかくの如く大胆なるか。
怪む勿(なか)れ、真成の剛勇は、翼々たる小心より来るを知らずや。
松陰 固(もと)よりルーテルに比すべきものにあらず、
然れども彼が彼たる所以は、
至誠にして自から欺かざる故と知らずや。

 

 彼れただ小心翼々たり、
その世に処する、あたかも独木橋(まるきばし)を渡るが如し。

 彼は左にも右にも行くべき道を見ず、
故に思い切りて独木橋を鉛直線に進前す。

 彼が行くべき道は唯一の道なり、
故に彼は全力を出してこれを踏過す。

 彼はこれがために死すら辞せず、
何となれば彼が信ずる所は、死よりも重ければなり。

 故に大胆の事を為すは、小心の人なり、
傍若無人の事を為すは、至誠にして自から欺かざる人なり。

 彼(か)の非道横着にして、人を虐(しいた)げ世を逆して、
自から慚死(ざんし)する能(あた)わざる者の如きは、
これ良心の麻痺(まひ)病に罹(かか)りたるなり、
彼らが大胆は強盗殺人者の大胆なり、
未だ剛勇を以て許すべからざるなり。

 ただ一の真誠なり、赤心なり。

 父母に対すれば孝となり、
兄妹に対すれば友愛となり、
朋友に対すれば信義となり、
君に対すれば忠となり、
国に対すれば愛国となり、
道に対すれば殉道となる。

 その本は一にして、その末は万なり。

 万種の動作、ただ一心に会(あつ)まる。

 彼が彼たる所以、ただこの一誠以て全心を把持するが故にあらずや。 

 彼は殉難者 てふ(ちょう)筋書により、
吉田松陰 てふ(ちょう)題目を演ずる俳優にあらず。

 彼 自(みず)から活ける松陰なり、
彼は多くの欠点を有するに係(かかわ)らず、
仮作(かさく)的の人物にあらず、真誠の人物なり。

 彼は真摯(しんし)の人なり、彼は意の人に非ず、
気の人なり。

 理の人に非ず、情の人なり。
 識の人に非ず、感の人なり。

 彼は塩辛らく、意地悪ろく、腹黒き人に非ず。

 彼は多くの陰謀を作(な)したるに拘(かかわ)らず、
正義の目的を達せんがために作(な)したるの陰謀にして、
殆んど胸中、人に対して言うべからざるのものなかりしなり。

 彼は村田清風の手書に係る、
司馬温公の「吾れ人に過ぎるもの無し、但(た)だ平生の為す所、
未だ嘗(かつ)て人に対して言うべからざるもの有らざるのみ」の語を守袋に入れ、
常住坐臥、その膚を離さざりしという。

 また以て彼が功夫(くふう)の存する所を察(み)るべし。 

 彼は日本国民の通有性を有す。
彼は余りに可燃質なり、
彼は余りに殺急に、余りに刃近(はしか)し、
切言すれば彼は浅躁(せんそう)と軽慓(けいひょう)と雑馭(ざっぱく)との譏(そしり)を免るる能(あた)わず。

 然れども彼は敬虔なる献身的精神を以て、
その身を国家とその道とする所とに捧ぐ。

 彼は到底一の「殉」字を会得したるもの、
而して彼は到底一の殉字に慚(は)じざるもの、
略言すれば彼は天成の好男児なり、日本男児の好標本なり。 

       *  *  *  *  * 

 余 嘗(かつ)て維新革命前の故老を訪い、
以て彼が風丰(ふうぼう)を聴くを得たり。

 いう、彼れ短躯 癯骨(くこつ)、枯皮瘠肉、衣に勝(た)えざるが如く、
(かつ)て宮部鼎蔵と相伴い、東北行を為すや、
しばしば茶店の老婆のために、誤って賈客視せらる。

 宮部 戯(たわむ)れて曰く、
「君何ぞそれ商骨に饒(と)む、一にここに到る」と。

 彼れ艴然(ふつぜん)刀柄(とうへい)を擬(ぎ)して曰く、
「何ぞ我を侮辱するや」と。

 彼れ白痘(はくとう)満顔、広額 尖頤(せんい)
双眉(そうび)上に釣り、両頬下に殺(そ)ぐ、
鼻梁(びりょう)隆起、口角(こうかく)緊束(きんそく)
細目 深瞳(しんとう)、ただ眼晴 烱々(けいけい)
火把(たいまつ)の如きを見るのみ。

 彼れ人に対して真率(しんそつ)、漫(みだり)に辺幅を飾らず、
然れども広人 稠坐(ちゅうざ)の裡(うち)
自ら一種の正気、人を圧するものありしという。

 彼れ居常他の嗜好なし、酒を飲まず、
(たばこ)を吹かず、その烟を吹かざるは、
彼が断管吟の詩に徴して知るべし。

 書画、文房、骨董、武器、一として彼の愛を経るものなし。
衣服、玩好(がんこう)、遊戯、一も彼の嗜(し)を惹(ひ)くものなし。
机上 一硯(いっけん)、一筆、蕭然(しょうぜん)たる書生のみ。

 最も読書を好み手に巻を釈(す)てず、
その抄録(しょうろく)したるもの四十余巻ありという。

 嘗(かつ)て森田節斎の「項羽本紀」の講義に参ず。
これよりして「項羽本紀」を手ずから謄写するものおよそ四回、
随って批し随って読む。

 その愛読するもの孫子、水戸流の諸書、菅茶山詩、山陽詩文等は固(もと)より、
その他経史百家の書より、近代の諸著作に致るまで、寓目(ぐうもく)せざるなし。

 その博覧強識にして、言論堂々、翰(ふで)を揮い飛ぶが如きもの、
その著作編述、無慮五、六十種に出づるもの、その好む所によりて、
その長技を見るべし。
声色の如きは、殆んど思うに遑(いとま)あらざりしなり。

 ただ菓物と餅とは、平生すこぶる嗜(たしな)む所、
故に今に到りて、祭時必らずこれを供すという。

 彼は哲学において、「ストイック」派にはあらざれども、
その行状は確かに「ストイック」なりき。
剛健簡質以て彼が生活を尽すべし。

 彼は実に封建制度破壊の張本人たりしに係(かかわ)らず、
その身は武士風の遺影を留めたり。

 

 彼の友人なる維新革命前の故老曰く、
「人 誰(た)れか過失なからん。ただ彼は余をしてその欠点を忘れしむ」と。

 彼は多くの欠点を有したり。
然れども彼は人をしてその欠点を忘れしむるほどの、真誠なる人物なりき。
彼の赤心はかくまで深く人に徹せしなり。

    

                       「吉田松陰」民友社   
                1893(明治26)年12月23日発行  

              初出:「国民之友」 

                1892(明治25)年5月~9月 

 

 

 


徳冨蘇峰『吉田松陰』 十八 家庭における松陰 別紙〔以下一篇の女訓として読むべし〕

2019-12-14 21:33:44 | 吉田松陰

          「吉田松陰」
           徳富蘇峰 



第十八 家庭の松陰 別紙
〔以下一篇の女訓として読むべし〕

 およそ人の子のかしこきもおろかなるもよきもあしきも、大てい父母のおしえによる事なり。就中男子は多くは母のおしえを受くること、またその大がいなり。
 さりながら男子女子ともに十歳以下は母の教を受くること一しお多く、あるいは父はおごそかに母はしたし。父は常に外に出で母は常に内にあればなり〔母の家庭教育に大切なる事〕
 然(しか)らば子の賢愚善悪に関わる所なれば、母の教えゆるがせにすべからず。
 併(しか)しその教というも、十歳以下小児の事なれば言語にてさとすべきにあらず、ただ正しきを以てかんずるの外あるべからず〔家庭教育の主眼〕

 昔聖人の作法には胎教と申す事あり。
 子胎内に舎(やど)れば、母は言語 立居(たちい)より給(た)べものなどに至るまで万事心を用い、正しからぬ事なきようにすれば、生れる子形体正しく器量人に勝(まさ)るとなり。
 物しらぬ人の心にて胎内に舎れる、みききもせず物も言わぬものゆえ、母が行正しくしたりとてなどか通ずべきと思うべけれども、こは道理を知らぬ故合点ゆかぬなり。
 およそ人は天地の正しき気を得て形を拵(こしら)え、天地の正しき理を得て拵(こしら)えたるものなれば、正しきは習わず教えずして自然持得る道具なり。

 ゆえに、母の行正しければ自然かんずる事さらに疑うべきにあらず。
 これを正しきを感ずると申すなり。まして生れ出で目も見え耳も聞え口も物いうに至りては、たとえ小児なればとて、何とて正しきに感ぜざるべきや。
 さてまた正しきは人の持前とは申せども、人は至ってさときものゆえ、正しからぬ事に感ずるもまた速(すみや)かなり。
 能々(よくよく)心得べきことならずや。因(よ)ってここに人の母たるものの行うべき大切なることを記(しる)す。
 この他ちいさき事は記(しる)さずとも人々 弁(わきま)う所なれば略し置きぬ。

 

   いろはたとえにも氏よりそだちと申す事あり。子をそだつることは大切なる事なり。

 

  夫を敬い舅姑に事(つか)うるは大切なる事にて、婦たる者の行これに過ぎたる事なし。

 然れどもこれは誰しも心得ぬるものなれば申さずともすむべし。


 さて肝要は元祖以下代々の先祖を敬うべし〔祖先を敬するは、家風を保つ所以、家もまた国の如く歴史あり、祖先を敬するは、その家声を墜さざる所以。先祖をゆるがせにすればその家必ず衰うるものなり。

 およそ人の家の先祖と申すものは、あるいは馬に乗り槍を提げ数度の戦場に身命を擲(なげう)ち主恩のために働きたるか、あるいは、数十年役義を精励し尋常ならぬ績を立てたるか、あるいは武芸人に勝(すぐ)れたるか、文学世にきこえたるか、いずれにもせよ一方ならぬことありてこそ、百石なり五十石なり知行を賜り子孫に伝うるなり。

 

 それ以下の先祖と申すものもそれぞれ御奉公その筋を遂げたればこそ、元祖同様に知行を賜りぬる事なり。この処を能々(よくよく)考え、この一粒も先祖の御蔭と申すことを寝ても覚めても忘るる事なく、その正月(しょうつ)き命日には先祖の事を思い出し、身を潔くし体を清めこれを祭り奉りなどすべし。

 また一事を行うにも先祖へ告(つげ)(たてまつ)りて後行うようにすべし。
 左(さ)すれば自然邪事なく、する事なす事みな道理に叶いてその家 自ら繁昌するものなり。もしこの心得なく己(おの)が心にまかせて吾儘(わがまま)一ぱいを働きなば、如何でその家衰微せざらんや。

 聖人の教は死に去りて世に居玉はぬ親先祖に事(つか)うる、現在の親祖父に事う如くすべしとあり、今親祖父現在し玉えば何事も思召を伺ってこそ行うべきに、世に居玉わぬとて先祖の御心も察し奉らず吾儘(わがまま)ばかり働くは、これを先祖を死せりと申し、勿体(もったい)なき事どもなり。

 

 婦人己が生まれた家を出て人の家にゆきたる身なり。

 然れば己が生れたる家は先祖の大切なる事は生れ落つるときより弁(わきま)え知るべけれど、ややもすれば行きたる家は先祖の大切なるに思い付かぬ事もあらん。能々(よくよく)心得べし。
 人の家に行きたる家が己が家なり。故にその家の先祖は己が先祖なり。
 ゆるがせにする事なかれ。また先祖の行状功績等をも委(くわ)しく心得置き、子供らへ昔噺(むかしばなし)の如く噺(はな)し聞かすべし。大いに益あることなり〔家庭教育における手近き修身科〕

 

一、神明を崇め尊ぶべし。大日本国と申す国は神国と申し奉りて、神々様の開き玉える御国なり。

然ればこの尊き御国に生れたるものは、貴となく賤となく神々様をおろそかにしてはすまぬ事なり。
(しか)し世俗にも神信心ということをする人もあれど、大てい心得違うなり。
 神前に詣りて柏手(かしわで)を打ち立て、身出世を祈りたり長命富貴を祈りたりするはみな大間違いなり。
神と申すものは正直なることを好み、また清浄なることを好み玉う。
 それ故神を拝むには先(ま)ず己(おの)が心を正直にして、また己が体を清浄にして、外に何心もなくただ謹み拝むべし。これを誠の神信心と申すなり。
 その信心が積り行けば、二六時中己が心が正直にて体が清浄になる、これを徳と申すなり。菅丞相の御歌に

 

 心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん

 

 また俗語に神は正直の頭に舎(やど)るといい、信あれば徳ありという。

 能々(よくよく)考えて見るべし。さてまた仏と申ものは信仰するに及ばぬ事なり。されど強(あなが)ち人にさかろうてそしるも入(い)らぬ事なり。

 

一、親族を睦(むつま)じくする事大切なり。
 これも大てい人の心得たる事なり。従兄弟と申すもの兄弟へさしつづいて親しむべき事なり。
 然るに世の中従兄弟となれば甚だ疎(うと)きもの多し。能々(よくよく)考て見るべし。
 吾が従兄弟と申すは父母には姪なり、祖父母より見れば同じく孫なり。
 左(さ)すれば父母祖父母の心になりて見れば、従兄弟は決してうとくはならぬなり。
 併(しか)しながら従兄弟のうときと申すは、元来父母祖父母の教の行届かぬなり、子を教ゆる者心得べきなり。 
 およそ人の力と思うものは兄弟に過ぐるはなし。
 もし不幸にして兄弟なきものは従兄弟にしくはなし。従兄弟の年齢も互に似寄り、もの学びしては師匠より教を受けし書をさらえ、事を相談しては父母の命をそむかぬ如く計(はから)うは、みな他人にて届く事にあらず。ここを能々(よくよく)考うべき事なり。

 

 ここに一の物語あり。
吐谷渾
(とこくこん)と申す夷(い)に阿豺(あさい)と申す人、子二十人あり。

 病気大切なりければ弟の慕利延(ぼりえん)を召して申すには、汝一本の矢をとりて折れ、慕利延(ぼりえん)これを折りければ、また申すには汝十九本の矢をとりて折れ、慕利延折ること能(あた)わず。
 阿豺(あさい)申すには、汝ら能(よく)心得よ、一本なれば折りやすし、数本集むれは折りがたし、皆々一致して国を固めよかしと。
 国にても家にても道理は同じ事なり。とかく婦人の言よりして親族不和となること多し、忘るべからず。

 

 右に記(しる)しぬるは先祖を尊むと、神明を崇むると、親族を陸じくすると、以上三事なり。これが子供を育つるには大切なる事なり。父母たるものこの行あれば、子供は誰教えるとなく自から正しき事を見習いて、かしこくもよくもなるものなり。

 さてまた子供の成長して人の申すことも耳に入れ候ように成るからは、右らの事を本とし古今の種々なる物語りを致しきかすべし。

  子供の時聞きたる事は年を取っても忘れぬものなれば、埒(らち)もなき事を申し聞けるよりは少なりとも善き事を聞かするにしくはなし〔人の親たるもの能(よ)く記臆せよ〕
 杉の家法に世の及びがたき美事あり、第一には先祖を尊び玉い、第二には神明を崇め玉い、第三には親族を睦じくし玉い、第四には文学を好み玉い、第五には仏法に惑い玉わず、第六には田畠の事を親(みずか)らし玉うの類なり〔松陰家庭の活ける写真〕

 これらの事 吾(わ)なみ兄弟の仰ぎ法(のっと)るべき処なり。皆々 能(よく)心懸くべし。
 これ則(すなわ)ち孝行と申すものなり。

 

 これ実に彼が二十五歳の時にものしたるもの、その深き言外の真情はいうも愚か、その用意の懇切周到なる、如何に国家を懐うの彼は、かくまで家庭の事に濃(こまや)かなる思いを凝(こら)したるぞ。

 また安政六年四月十三日、同じく野山の獄中よりその妹に与えたる書簡あり。

 

 この間は御文下され、観音様の御せん米(まい)三日のうち精進にていただき候ようとの御事、御深切の御こころざし感じ入り申し候。精進 潔斎(けっさい)などは随分心の堅まり候ものにてよろしき事とぞんじ候に付き、拙者も二月二十五日より三月 晦日(みそか)まで少々志の候えば酒肴(しゅこう)ども一向 給(た)べ申さず、その間一度霊神様御祭のもの頂戴致し候ばかりにて御座候。

 まして三日の精進は左(さ)までむつかしき事にもこれ無く、御深切の事に候えば相果したく存じ候えども、当所にては当り前の精進の外にまた精進と申し候えば、連中または番人ども何故かと怪しみ尋ね候に付き、それをそれと相こたえる事面どうに存じ候。
 八日は幸(さいわ)い御精日なれば、その日一同にいただき申し候〔赤子の心を見るが如し、松陰の天真爛漫たる処、ここに在り〕

 

 そもそも観音様信仰せよとの仰せは、定めて禍をよけるためにあるべく、これには大きに論ある事に候えば、委細申し進ずべく候。拙者 未だ観音経は読み申さず候えども、法華経第二十五の巻 普門品(ふもんぼん)と申す篇に、悉(ことごと)く観音力と申す事尊大に陳べてこれ有り候。大意は、観音を念じ候えば縄目にかかり候えども忽ちぶつぶつと縄が切れ、人屋(ひとや)へ捕われ候えば忽ち錠鍵がはずれ、首の坐へ直り候えば忽ち刀がちんぢんに折れるもの、と申してこれあり。 

 これは拙者江戸の人屋にてこの経は幾度もくり返し読んで見候えども、始終この趣にて、それ故凡人はこれよりありがたい事はないと信仰するも無理はなく候。
 去(さ)りながら仏のおしえは奇妙な仕置にて、大乗小乗と二つ分ちて、小乗は下(げ)こんの人の教え、大乗は上根の人への教えと定めこれ有り候。
 小乗にて申し候えば、観音は右の経文の通りのものと心得、ひたもの信仰さするに御坐候。
 これは人に信を起さするためなり。
 信をおこさするとは、一心にありがたい事じゃとのみ思込み余念他慮なき事にて、一心不乱と申すもこの事なり。

 

 人は一心不乱になりさえすれば、何事に臨み候てもちっとも頓着はなく、縄目も人屋も首の坐も平気になれ候から、世の中に如何に難題苦患の候ても、それに退転して不忠不孝無礼無道等 仕(つかまつ)る気遣いはない。
 されど初めから凡夫に一心不乱じゃの不退転じゃのと申聞せてもさっぱり耳に入らぬもの故に、仮りに観音様を拵(こしら)えて人の信を起させる教に御坐候。これを方便とも申し候。

 ここにおいて法華経の都上(みやこのぼり)のたとえこれ有り。至極面白く候えども長ければ略し申し候。さてまた大乗と申し候時は、出世法と申す事が肝要にて御坐候。

 出世と申し候ても立身出世など申す事には御坐なく候。その初めは釈迦(しゃか)が天竺王の若殿に候処、若き時から感心のつよき人にて、老人を見れば吾(わが)身も往先(ゆくさき)は老人に成るかと悲しみ、死人を見ては吾身も往先は死のうかと悲しみ、虫けらの死んだの草木の枯れたのまでに悲しみを起し、是非に生老病死がこの世の習いなれば、この世を出でねばすまぬと志を立て、年二十五の時位を棄てて山へ入り、右の生老病死を免れる修行をしに参られ候。

 

   これにも色々ありがたき話あれども、事長ければ略す。

 

 左(さ)候て、三十出山とて僅か五年の間に生老病死を免れる事を悟り、生れもせねば老いもせず病も死もせぬ事を悟りて出で来りて、それから世の人を教化せられた。
 これが出世の法じゃ。故に出生せねば済世が出来ぬと申すもこの事なり。済世というは則ちこの世の人を済度
(さいど)する事に御坐候。さてその死なぬと申すは、近く申さば釈迦の孔子のと申す御方(おんかた)には、今日まで生きて御坐る故、人が尊(たっ)とみもすればありがたがりもおそれもする、果して死なぬではないか〔一種霊魂不滅の観念〕

 

   孔子の教もやはりこの通りに候えども、事長ければ略す。

 

 死なぬ人なれば縄目も人屋も首の坐も前に申す観音経の通りではござらぬか。
 楠正成公じゃの大石良雄じゃのと申す人には刃ものに身を失われ候えども、今以て生きてござるのは刀のちんぢんに折れた証拠でござる。

 さてまた禍福は縄の如しという事を御さとりがよろしく候。禍は福の種、福は禍の種に候。
 人間万事 塞翁が馬に御坐候。

 

 このわけは物知りに問うて知るべし。

 

 拙者なんど人屋にて死に候えば禍のようなものに候えども、また一方には学問も出来、己のため人のため後の世へも残り、かつ死なぬ人々の仲間入りも出来候えば、福この上もない事にて〔真個(しんこ)の楽天主義〕、人屋を出で候えば、また如何なる禍のこようやら知れ申さず候。
 勿論その禍の中にまた福も交り候えども、所
(しょ)せん一生の間難儀さえすれば先の福がある事なり。何の効けんもない事に観音へ頼りて福を求める様の事は本々(もともと)無益に存じ候。 

 

 尤(もっと)も右の通りに申し候えば、身勝手な申分、不孝な申分とも御存じがあろう。ここにまた論がある。易の道は満盈(まんえい)と申す事を大いにきろうなり。
 某(それがし)に七人兄弟中に、拙者は罪人、芳は夭死(ようし)、敏は唖に否様(ぶざま)の悪い様なものなれど、また跡(あと)四人はかなりに世を過せられ、特に兄様、そもじ、小田村は両人ずつも子供があれば不足は申されぬ。
 世の中の六、七人も兄弟のある家を見くらべよ。

 これほどにも参らぬ家は多いもの、近くはそもじの家にても高須様にても、兄弟内には否様の悪い人も随分あるもの、然れば父母兄弟の代りに、拙者、芳、敏の三人が禍をかぼうたと御思い候えば、父母様の御心もすめる訳で御坐らぬか。
 かつ杉は随分多福の家なれば、拙者の身上よりはかえって杉が気遣いなものじゃないか。
 拙者身上は前に申した通りつめが牢死、牢死しても死なぬ仲間なれば後の世の福はずいぶんあるが、杉は今では御父子も御役にて何も不足のない中なれば、子供らがいつもこのようなものと思うて、昔山宅にて父様母様の昼夜御苦労なされた事を話して聞かせても真(まこと)とは思わぬほどなれば、この先五十年七十年の事を得(とく)と手を組んで案じて見やれ。気遣(きづか)いなものではないか〔忠孝の言、忠孝の人〕

 去年も端午の客の多いのに人は目出度(めでた)目出度と嬉貌(うれしがお)すれど、拙者は先の先が気遣いでたまらんから、始終稽古場へかがんで、人の知らぬ所にては独り落涙したほどの事でありた〔家庭における松陰の本色〕

 もしや万一小太郎でも父祖に似ぬような事が有ったら、杉の家も危い危い。
 父母様の御苦労を知っておるもの兄弟にてもそもじまでじゃ。
 小田村でさえ山宅の事はよくは覚えまい。まして久坂なんどはなお以ての事。されば拙者の気遣いに観音様を念ずるよりは、兄弟おいめいの間へ楽が苦の種(たね)、福は禍の本と申す事を得(とく)と申してきかせる方が肝要じゃ。
 そしてまた一つ拙者不孝ながら孝に当る事がある。
 兄弟内に一人でも否様の悪い人があると跡(あと)の兄弟自然と心が和(なご)みて孝行でもするようになる。兄弟もむつまじくなるものじゃ。

 それでこれからは拙者は兄弟の代りにこの世の禍を受合うから、兄弟中は拙者の代りに父母へ孝行してくれるがよい。左様あれば縮(つま)る所兄弟中もみなよくなりて果は父母様の御仕合、また子供が見習い候えば子孫のためこれほど目出度い事はないではないか〔聖賢の心地、家庭における松陰かくの如し〕
 能々(よくよく)御勘弁にて小田村、久坂なんどへもこの文を見せ、仏法信仰はよい事じゃが、仏法にまよわぬように心学本なりと折々御見候えかし。心学本に

 

   長閑(のどか)さよ願いなき身の神 詣 

 

  神願うよりは身で行うがよろしく候。

      十三日

 

 これ彼が三十歳の波風荒き生涯を終り、死に就(つ)かんとして、江戸に赴く一月前の書簡なりとす。
 寔
(まこと)に以上の二書簡は、一部の女子教訓にして、家庭の金誡なり。
 その言は取捨せざるべからざるものなきにあらずといえども、その精神は何人も服膺
(ふくよう)せざるべからざる所なり。

 

 彼れ年少気鋭、頭熱し意 昂(あが)る、時事の日に非なるを見て、身を挺して国難を済(すく)わんとするの念、益々 縦横す。
 惟(おも)うにその方寸の胸間、万丈の焔炎、天を衝(つ)く大火山の如くあるべし。
 知らず、何の余裕あれば、かくまで懇到 慇懃(いんぎん)、その諸妹を教誡するの文字を作りたるぞ。
 惟(おも)うにこの二個の書簡は、分明に家庭における松陰を描き出して遺憾なかるべし。

 

 彼が檻車(かんしゃ)江戸の死獄に送られんとするや、その諸妹に与えて曰く、「心あれや人の母たる人達よかからん事は武士(もののふ)の常」と。
 これ勇士はその元を喪うを忘れざる大決心を、彼らに鼓吹したるものにあらずや。
 而して彼はさらに左の如き書簡を諸妹に与えたり。

 

 拙者義、この度江戸表へ引かれ候由、如何なる事か、趣(おもむき)は分り申さず候えども、何(いず)れ五年十年帰国相成るべき事とも存ぜず候えば、先ずは再帰 仕(つかまつ)らずと覚悟を詰めし事に付き、何かと申置くべき処あるべきように候えども、先日委細申し遣わし置き候故、別に申すに及ばず候。
 拙者この度 仮令(たとえ)一命差捨て候とも、国家の御為に相成る事に候えば本望と申すものに候。

 両親様へ大不孝の段は先日申し候よう、其許達(そこもとたち)仰せ合わされ拙者代りに御尽し下さるべく候。しかし両親様へ孝と申し候とも、其許たち各(おのおの)自分の家これ有る事に候えば、家を捨て実家へ心力を尽され候ようの事はかえって道にあらず候。
 各その家その家を斉(ととの)え夫を敬い子を教え候て、親様の肝をやかぬようにするが第一なり。婦人は夫を敬う事父母同様にするが道なり。
 夫を軽く思う事当時の悪風なり。

 また奢(おご)りが甚だ悪い事、家が貧になるのみならず子供のそだちまで悪しく成るなり。
 心学本間合間合に読んで見るべし。高須の兄上様に読んで貰うべし。
 
 高須兄は従兄弟中の長者なれば大切にせねば成らぬ御方なり。

 

     五月十四日夜

   寅二

 

     児玉お芳様
     小田村お寿(ひさ)様 
     久坂お文様

 

          参る

 

 なおなお時もあらばまたまた申し遣(つか)わすべく候。

 

 彼が訓誡(くんかい)到れり、尽せり。
 而して彼はなお慊
(あきた)らずして、左の書をその叔父玉木に与え、以て家族婦人の教養を托せり。

 

 『詩経』に「豈(あ)に膏沐(こうもく)無からん、誰を適(あるじ)として容を為(つく)らん」とか申す二句、
(かつ)て何心なく読みおり候所、後に曹大家(そうたいこ)『女誡』専心の篇を見候えば、上下の文ありて、
中に「出でては冶容
(やよう)無く、
入りては飾を廃すること無し……これ則ち心を専らにして色を正すと謂う」とあり。


 また上下の文ありて「入りては則ち髪を乱し形を壊(やぶ)り、出でては則ち窈窕(ようちょう)して態を作(な)す……これ心を専らにし色を正すこと能(あた)わずと謂(い)う」とこれ有り候。
 依(よ)って相考え候は、詩の語も徒(いたず)らに夫の居らざるを嘆くの事に非ず、膏沐(こうもく)は偏(ひとえ)に夫に事(つか)うる礼にて、他人へ見せものに致すにはこれ無き筈にて、詩語乃ち礼意かと存じ奉り候。
 当今少婦輩内にては乱髪壊形し、外にては窈窕(ようちょう)として態を作(な)すを当り前の事と考え候よう相見え候。
 これは古礼に叶わざる事と存じ奉り候。この説先年は心付き候えども、未だ前人の確証も得ず、また先輩へも質(ただ)し申さぬ故、人にも告げ申さず候間、丈人(じょうじん)様 尤(もっと)もと思召し候わば、家族中婦女どもへこの趣(おもむき)御講談願い奉(たてまつ)り候。
 閨門(けいもん)は正家の本に候えば、犯姪(はんてつ)の迂論に及ばずして人々講究の事とは存じ奉り候えども、訣語(けつご)申上げ候なり。

 

      五月十九日
    犯姪
(はんてつ)寅二

 

    玉木 丈人(じょうじん)

 

 『女誠』七篇、『後漢書』より抄録。「読余雑抄」四の冊の終りに置けり。

 これ豈(あ)に三十歳前後の壮年の殉国者、然(しか)も死に向って奔(はし)るものの懐い及ぶ所ならんや。
彼の婦人に関する用意の周匝
(しゅうそう)懇篤なる、今日のいわゆる女子教育家をして、忸怩(じくじ)たらしむるものなくんばあらず。彼の家庭における位地もまた分明ならずや。

 彼が江戸獄中にて、いよいよ死刑の詮議(せんぎ)一決したるを洩れ聞くや、彼は実にその父母に向って、左の歌を贈れり。

 

   親を思う心にまさる親心
       きょうの音ずれ何と聞くらん

 

と。彼は死に抵(いた)るまで、その父母を遺(わす)るる能(あた)わざりしなり。
否、死するに際して、第一彼れの念頭に上
(のぼ)りし者は、その父母にてありしなり。自(みずか)ら父母を懐うのみならず、父母の己(おの)れを懐うこと、さらに己(おの)が父母を懐うよりも幾層 殷(さかん)なるに想着し、「今日の音ずれ何と聞くらん」という。

 「親を思う心にまさる親心」の一句、実に世間幾千万、人の子たる者が、親に対する至情の、最後の琴線に触れ来りたるものにして、彼(か)の方孝友が、方孝孺と与(とも)に死に就(つ)くに際し、「阿兄何ぞ必ずしも涙 潸々(さんさん)たらん、義を取り仁を成すはこの間に在り、華表柱頭千載の後、夢魂旧に拠りて家山に到らん」の一詩を将(もっ)てこれに比すれば、さらにその深情、濃感、蘊籍(うんせき)、渾厚(こんこう)、一読人をして涕(なみだ)を零(おと)さしむるに至るを覚う。

 かくの如き人にしてかくの如き事を作(な)す、不思議なるが如しといえども、かくの如き人たるが故に、能(よ)くかくの如きことを為し得るなり。
 いわゆる忠臣を孝子の門に求むるの語、吾人(ごじん)実にその真なるを疑う能(あた)わず。

 家庭の光明は、光明の中において最も美妙なるものなり。
吾人は今この光明中よりして松陰を見る、あたかも水晶盤 裡(り)において、氷雪を見るが如し。


                   「吉田松陰」民友社   
              1893(明治26)年12月23日発行  

           初出:「国民之友」 

              1892(明治25)年5月~9月 



徳冨蘇峰『吉田松陰』 十八 家庭における松陰

2019-12-12 21:16:41 | 吉田松陰

         「吉田松陰」
          徳富蘇峰


第十八 家庭における松陰 

 彼が家庭の児たるを知るものは、
また如何に彼が家庭における生活を知らん。

 彼が世界における生活は、猛風悪浪の生活なりき、
彼が家庭における生活は、春風百花を扇(あお)ぐの生活なりき。


 彼が短命なる生活の三分の一は、
成童以後生活の過半は、旅行と囚獄とにおいて経過したり。

 然れども日葵(ひまわり)が恒(つね)に太陽に向う如く、
磁針が恒に北を指す如く、川流の恒に海に入る如く、
彼の心は恒に家庭に向って奔(はし)れり。


 家庭における彼を見れば、あたかも天人を見るが如きの想いあり。
彼はその全心を捧げて父母を愛せり、兄妹を愛せり、叔姪(しゅくてつ)を愛せり。

 彼は思い切りて藩籍を脱せり、
然れどもその亡邸の初夜において、彼の夢に入りしは、彼の父母兄妹なり。
 彼は万里 踏海(とうかい)の策を企てたり、
然れども彼はこの際において、兄に面別するに忍びず、
兄が寓する長州邸の門前を徘徊(はいかい)して涙を揮い、空しく去れり。


 彼は「磧裡(せきり)の征人(せいじん)三十万、
一時 首(こうべ)を回(めぐ)らして月中に看る」の詩を
(ののし)りて曰く、「これ豈(あ)に丈夫(じょうふ)の本色ならんや」と。

 然れども彼は故郷を懐えり、故郷の父母は、恒に彼の心に伴えり。
彼は死を決して間部を刺さんがために、同志を率い、京都に馳(は)せ上らんとす。
而してその父、母、叔、兄に告ぐる書において、
人を泣かしむるを禁ずる能(あた)わざりしなり。



 彼の家庭における生活は聖き生活なり。温かなる生活なり。
彼の家庭は真個(しんこ)に日本における家庭の標本なり、模範なり。
 彼 自から曰く、
「謹んで吾が父母 伯叔(はくしゅく)を観るに、忠厚勤倹を以て本と為す」と。

 吾人が曩(さ)きに描き来りし彼の父母伯叔の風を見るものは、
必らず彼の自から語る所の誣(し)いざるを知らん。

 彼と彼の兄との関係は、その人物の点において、
必らずしも子由と子瞻との関係にあらざりき。

 彼の兄は尋常一様の士人のみ、必らずしも超卓抜群の器能才力あるにあらず。
然れどもその友愛の深情に到りては、二蘇の関係も啻(ただ)ならざりき。
 「朝日さす軒端の雪も消えにけり、吾が故郷の梅やさくらん」、
これ獄中立春に際して、兄に寄するの歌、
吟じ来れば無限の情思この中より湧くにあらずや。

 これと同時に、彼が獄中より兄に与うる賀正の書あり。

  新年の御吉慶目出度く存じ奉(たてまつ)り候。

 尊大人(そんたいじん)様、

 大 孺人(じゅじん)様を初め御満堂よろしく御 超歳(ちょうさい)大賀 奉(たてまつ)り候。
獄中も一夜明け候えば春めき申し候。
別紙二、書初(かきぞめ)、蕪詞、御笑正 希(ねが)い奉り候。
(まず)は新禧(しんき)拝賀のためかくの如くに御坐候。
恐惶(きょうこう)謹言。

 

      安政二年正月 朔旦(さくたん)

 

   寅次郎

 

     家大兄案下

 

 なおなお幾重も目出度く存じ奉(たてまつ)り候。
相替らず拝正の儀、東西御奔走と察し奉り候。
さて今朝 雑煮を食い、遣(や)りきれぬ事、山亭にての如し。
これ戯謔(ぎぎゃく)の初め、初笑々々。

 詩有り曰く、眠り足り何ぞ新正を迎うるを用いん、
雑煮腹に満ち腹雷鳴る、
知るべし新年吉兆の処、かつ聞く善歳万歳の声。

 

 家庭における彼が、如何に小児らしきよ。

 彼は獄中において雑煮を喫しつつ、
その少年の日、兄と護国山麓の旧家において、
雑煮を健啖したる当時を想い出し、
ためにかかる天真 爛熳(らんまん)
佳謔(かぎゃく)善笑の文字を寄せたるなからんや。

 

 健全なる家庭は、男女の道において最も健全なり。
彼は独身者なり、彼は国家を以て最愛の妻となせり。
 然れども彼は夙(つと)に婦人の家における大切なる地位を知れり、
また社会における大切なる位地を知れり。

 

 彼の蹈海(とうかい)失敗後、野山の獄に拘せらるるや、
その同囚富永有隣を慫慂(しょうよう)して、
曹大家(そうたいこ)『女誡』を訳せしむ。

 彼曰く「節母烈婦あり、然りて後孝子忠臣あり、
楠、菊池、結城、瓜生(うりゅう)諸氏において、
これを見る」と。

 独り彼が眼識の尋常有志家に比して、及ぶべからざるのみならず、
その人品の崇高純潔にして、堅実健全なる、
酒を飲み気を使う暴徒にして、有志家の名を僭する徒輩に比し、
天淵 啻(ただ)ならざるを見るべし。

 

 試みに左に掲ぐる書簡を見よ、
これ彼が安政元年十二月野山の獄中よりして妹に寄せたるものなり
    〔細註は記者の挿入に係る〕

 

  十一月二十七日と日づけ御座候御手紙ならびに九年母(くねんぼ)
みかん、かつおぶしともに昨晩相とどき、
かこい内はともしくらく候えども、
大がい相わかり候〔獄中の情景観るが如し〕まま、
そもじの心の中をさっしやり、なみだが出てやみかね、
夜着をかぶりてふせり候えども、いよいよ涙にむせび、
ついにそれなりに寝入り候えども、まなく目がさめ、
よもすがら寝入り申さず、色々なる事思い出し申し候 [松陰その人懐うべし]

 

 そもじや父母様やあに様の御かげにて、
きものもあたたかに袷(あわせ)物もゆたかに、
あまつさえ筆紙書物まで何一ツふそくこれなく、
寒さにもまけ申さず候間、御安心 成(な)さるべし。

 そもじ御家おばさまも御なくなりなされ候事なれば、
そもじ万(ばん)たん心懸け候わでは相すまぬ事、
ことにおじさまも年まし御よわい高く成(な)らせらるる事ゆえ、
別して御孝養を尽したべかし。

 また万子も日々ふとり申すべく候えば、心を用いてそだて候え。
赤穴のばあさまは御まめに候や。

 御老人の御事万事気をつけて上げ候え。
かかる御老人は家の重宝と申すものにて、
金にも玉にもかえらるるものにこれ無く候。

 そもじ事はいとけなき折より心得よろしきものとおもい、
一しお親しく思いしが、
このほど御文拝しいらざる事まで申 遣(つか)わし候なり。

 

 

 別にくだらぬ事、三、四まいしたためつかわし候間、
おととさまか梅兄様に読みよきように写しもらい候え。
 少しは心得の種にもなり申すべく候。

 さて御たよりの中にも手習よみものなどは心がけ候え。
 正月には一日はやぶ入り出来申すべきや。
あに様の御休日をえらび参り候て、心得になる噺(はなし)ども聞き候え。

 拙もその日分り候わば、
昔噺(むかしばな)しなりとも認(したた)め遣(つか)わし申すべし〔情思懇篤〕
また正月にはいずくもつまらぬ遊び事をすることに候間、
それより何か心得になるほんなりとも読んでもらい候え。

 貝原先生の『大和俗訓』『家道訓』などは丸き耳にもよくきこゆるものに候。
 また浄瑠(じょうる)りほんなども心得ありて聞き候えば、随分役にたつものに候。

 さてまた別に認(したた)めたる文に付き、
うたをよみ候。ここにしるし侍(はべ)りぬ。

 

    頼母(たのも)しや誠の心通うらん文見ぬさきに君を思いて

 

 右したためたるはそもじを思い候より筆をとりぬるが、
その夜そもじの文の到来せしは定めて誠の心文より先に参りたるかなと、
たのもしくぞんじ候ままかくよみたり〔友情濃至〕

 

      三日
  

                        「吉田松陰」民友社 
                 1893(明治26)年12月23日発行  

 

              初出:「国民之友」 
                 1892(明治25)年5月~9月 

 


徳冨蘇峰『吉田松陰』 十七 松陰とマヂニー

2019-12-11 16:34:11 | 吉田松陰

                『吉田松陰』 
         徳富蘇峰

 

第十七 松陰とマヂニー

 松陰の最後に伴うて、その始終を回看すれば、
あたかもマヂ
ニーその人を想見せずんばあらず。


 何となれば彼らは、その時代において相近く、
境遇において相均しく、性行において相類し、
人物において相似(あいに)、運動において相同じく、
概言すれば、松陰は畢竟(ひっきょう)
小マヂニーというも不可なければなり。

 吾人は敢て小マヂニーという。
何となれば、彼は到底その人物の点において、
その事業の点において、またその理想の点において、
品性の点において、マヂニーに髣髴(ほうふつ)して、
さらにマヂニーの百尺 竿頭及ぶべからざるものあればなり。

 

 マヂニーは何人ぞや。
彼は実にイタリー新帝国建立の一人なり。
彼は実に千八百〇五年、ゼノアに生る。

 即ち文化二年、ロシア使節の長崎に来りし翌年、
露西亜が蝦夷を掠(かす)めし前年にして、
その死せしは、千八百七十二年、
即ち明治五年、京浜間の鉄道始めて落成したる当年にして、
廃藩置県、即ち我邦統一の業を成就したる翌年なりとす。

 これを以て松陰が、天保元年、即ち千八百三十年に生れ、
安政六年、即ち千八百五十九年に死するに比す、
彼は実に松陰に比して、二十五年前に生れ、十三年の後に死したる者なり。


 彼の生涯を以て松陰に比す、独りその長きを加うのみならず、
その危険 逼仄(ひっそく)なる、またさらに甚しきものあり。

 

 彼は松陰の如く初めより老成にして、
遂に純乎たる童子の生涯なる味を識ること無し。

 彼の学校に在るや、恒(つね)に黒衣を纏(まと)えり、
曰く、「これ我邦のために喪服を着るなり」と 
(けだ)し当時伊国の、如何に憐れなる形勢に陥りしやは、
(か)の圧制の権化、旧主義の本尊メテルニヒが、
伊国は地理学的の名目にして、
国家的称号にあらず颺言(ようげん)したるを以て知るべし。

 その天資、慷慨にして愛国の至情に富む、
何ぞその相 肖(に)たるの酷(はなはだ)しき。
 而してその文章を擲(なげう)ち去りて、
殉国靖難(せいなん)の業につきたるが如き、
二者ともにその轍(てつ)を同じうせり。


 松陰が生れたる天保元年は、
実に千八百三十年ブルボン朝の最後を遂げたる
パリにおける七月の革命出で来りたる歳にして、
マヂニーはこの歳を以て獄に投ぜられ、終に伊太利より放逐せられたり。


 彼は初め、「カルボナリー」の革命社に投ぜり、
而してその社の倶(とも)に天下の大事を謀るに足らざるを以て、
同三十二年、仏国マルセーユにおいて、「ヨング・イタリー)」を組織せり。


 彼が「少年伊太利」を組織する、何ぞそれ松陰が松下村塾におけると相似たる。

 彼れ曾(かつ)て颺言(ようげん)して曰く、
「革命は人民のために、人民の手に依りて成就せざるべからず。
吾人の全旨、約してこの一語に在り」と。

 彼は曰く、
「少年伊太利は、進歩と職分の大法を信じ、
而して伊太利が遂に一国民となることを信ずる所の伊太利人の協会なり、
彼らは実に自由平等の独立主権的国民として、
伊太利を再建するの大目的に向って、
その思想と運動とを使用するの健児を以て、
この協会を組織する者なり」と。

また曰く、「勝利における唯一の道は、殉難に依るに在り、殉難を耐久するに在り」と。

 

 苟(いやし)くもこの語を聞く者は、
また以て松陰の維新前における猛志を彷彿(ほうふつ)するを得べし。
松陰が新日本の一統におけるが如く、
マヂニーは実に新伊太利一統に向って、熱心せり。
ただこれを松陰に比すれば、マヂニーの見る所、甚だ明、甚だ大、甚だ弘。

 

 マヂニーも己を棄てて国と主義とに尽さんと欲せり、
松陰も己を棄てて国と主義とに尽さんと欲せり。

 松陰の主とする所は、尊王主義に在り。
マヂニーの主とする所は、平民主義に在(あ)り。
彼は独立、自由、平等、友愛、進歩を以て、記号と為せり。
彼は実に最善最賢者の誘導の下に、
衆民に由(よ)りて、衆民の進歩を以て、平民主義の第一義と為せり。
 彼は徹頭徹尾平民主義の信者なりし、預言者なりし。


 その預言者なるは、なお松陰が尊王的の打撃者たるが如し。
 而してその両(ふたつ)ながら国家的概念を以て充満するに至りては、
則ちその揆(き)を一にせずんばあらず。

 

 もしそれその生涯の困厄(こんやく)なるに至りては、彼れ此れより甚しきものあり。
マヂニーが死刑を宣告せられたる、実に三回とす。


 その捕に就(つ)き、獄に投ぜられ、他方に流寓(りゅうぐう)し、
あるいは探偵者のために覗(うかが)われ、
あるいは本国政府のために追跡せられ、
あるいはその到る処の客土より、放逐せられたるが如き、
流離 顛沛(てんぱい)の状に至っては、松陰をしてこれに代らしめば、
あるいは忍ぶ能(あた)わざりしものもあらん。


 実に彼はその千八百三十二年、即ち天保三年、仏国より追放せられ、
かえってマルセーユに潜匿(せんとく)してより、
爾来(じらい)二十年間は、殆んど暗澹たる小室に蟄居(ちっきょ)し、
自から一の孤囚(こしゅう)と為り、
以て社会の地層の下に埋伏
(まいふく)し、この中よりして千辛万苦、
その気脈を四方に通じ、あるいは欧洲において、
同志を糾合(きゅうごう)して、


「少年 欧羅巴(ヨーロッパ)」党を組織し、
あるいは本国において、蜂起者(ほうきしゃ)を募り、
以て恢復の途を拓(ひ)らき、
その画策の神秘、大胆、危険、雄放なる、
人をして殆んど戦栗せしむるもの無きにあらず。

 然れども彼れ寂然(せきぜん)としてその心を動かさず、以てこれを為せり。

 吾人は敢て此処(ここ)において彼れの行事を叙(の)べんと欲するに非ず、
ただこれを以て松陰の履歴に比すれば、
彼も此(これ)も、獄中の生涯と、陰謀の生涯とを以て、
(おも)なる生涯と為したることを、
一言するを以て已(や)まんのみ。

 

 もしそれその功名栄利に淡如(たんじょ)とし、
その志を行うて超然独往するの点に至っては、
実に及ぶべからざるものあり。

 千八百四十八年、ロンバルトの暴徒蜂起するや、
マヂニー率先してこれに投ぜんとす。

 サルジニア王彼を拝してその首相と為し、
かつ彼が意に任せて憲法を制定せんことを許し、
以て彼の驩心(かんしん)を得んと欲す。
然れども彼れこれに応ぜざるなり。

 彼がサルジニア王の伊太利を一統するや、
伊太利人民これに帰服するを視て、彼は心ならずもこれを識認せり。


 彼 自ら曰く、
「余は伊太利国民の多数の意志に忸怩(じくじ)として叩頭(こうとう)す、
然れども伊太利帝国は、到底余をその臣下の一に数うる能(あた)わざるべし」と。


 彼は実に心からの民主論者なりし。
その彼が伊太利国会に四たび選ばれ、
遂に特赦の命に由りて死刑の宣告を取り消さるるや、
彼はその特赦を拒んで曰く「余 未だかくの如き物を受るの理由なし」と。
彼が強項(きょうこう)不屈なる、実にかくの如きものなり。

 

 もしそれ彼が調和的の事を好まざる、
彼が欲する所直ちにこれを遂げんとする、
彼が徒(いたず)らに遷延せる機会を俟(ま)つが如きこと無き、
彼が冒険大胆にして不敵なる、
これみな一に松陰の人物を夕陽に照して、
さらにその丈余の影子を加えたるものというべし。

 而して彼が九 顛(てん)十起、堅忍 不抜、
いよいよ窮していよいよ画策し、
いよいよ蹶(つまず)きていよいよ奮うに至っては、
恐らくは十の松陰あるも、また及ぶ所無けん。

 

 もしあるいは正義を愛し、その正義を愛するの余り、
これを行うにおいてはその手段の如何を顧みず、
如何なる陰謀秘策をも頓着なく、
いわゆる聖賢の心を以て蘇張の術を行うの一点に至っては、
さらにその相類する所あるを見る。

 人あるいは松陰を以て、ただ一の正直者という、
これ未だ松陰を識らず。彼は目的においては誠実なり、
然れども手段においては、甚(はなは)だ術策に富み、
而してその術策中、不謹慎なるもの一にして足らず。

 

 いわゆる「ゼシュウイト」派の目的は手段を是認するの語、
松陰においては、その信仰の一たるを疑うべからず。
 看よや彼が伏見要駕策の如き、その大胆無頓着なる、
いわゆる鬻拳(いくけん)の兵諫(へいかん)も及ぶ所なきに非ずや。


 而して彼これを以て人を勧めて顧慮する所なきのみならず、
彼が自ら間部を刺さんとする、
何ぞそれその挙動の荊軻(けいか)
曹昧(そうまい)一流に類するや。
 而して彼これを作(な)すを恥じざるのみならず、
かえってこれを名誉とす。

 吾人は実にこの点において、彼らが太甚だ相類するを認め、
而して後の志士たる者、
これについて自ら警(いまし)むる所あらんことを冀(ねが)わざるを得ず。

 

 もしあるいは彼らが破壊家にして、
その経世的手腕に富まざるが如き、
(か)のマヂニーが、曾(かつ)て一時 ローマにおいて摂政官と為りし時において、
これを見るを得べし。

 彼が公文書の遒麗(しゅうれい)富贍(ふうせん)にして、
而も指画(しかく)明晰なる、而してその措置の尋常に非ざる、
決して誣(し)ゆべからざるものありといえども、
これを以て真個(しんこ)の経世家カブールの手腕に比すれば、
実にその十が一を望む能(あた)わず。
 彼らはこの点においても、相類したるなり。

 

 その文学の趣味を有するや、二者また同じ。
松陰は文学者にあらず、然れどもその文章質実明快、
勁健(けいけん)にして熱情活躍、
その謂(い)わんと欲する所を謂(い)う、
あたかも拇指(ぼし)を以て眼睛を突くが如し。

 彼の文を読んで解すべからざる事なく、解する所として感ぜざる所なし、
必ずしもその説の異同を問うに遑(いとま)あらざるなり。

 もしその満腔のインスピレーションの火山の如く燃え来るや、
坐する者みな立ち、立つ者みな舞う。

 これを彼(か)のマヂニーが一句一言、
その偉大なる品性の印象、道念の清遠 皎潔(こうけつ)なる高調、
人情の円満なる進歩を主宰する上帝の摂理を仰望する活信を以て横溢するに比す、
 固(もと)より同日の論にあらずといえども、
(しか)も松陰、人情の奥線に触れ、道念の絶頂に攀(よ)じたるものなくんばあらず。

 蓋(けだ)し松陰をして天下に紹介したるもの、
その革命的気焔を煽揚せしめたるもの、
即ち松陰をして松陰たらしめたるもの、
彼が雄文勁筆の力 与(あず)かりて多きにおらずんばあらず。

 もしあるいはその文学の上における、
マヂニーの淵博深奥なる哲学的識力、
宇内(うだい)の大勢を揣摩(しま)し、
欧洲の活局を洞観するの烱眼(けいがん)に到りては、
その同時の諸家、彼に及ぶもの鮮(すく)なし、
いわんや松陰においてをや。

 

 彼らがその真率(しんそつ)にして赤児の如き点、また対照の価値なしとせず。
 松陰 自から諸友の己を疎隔するを嗔(いか)るや、
曰く、「最早吾といえども尊攘を説くべからず」と。

 而してまた自から詫びて曰く、
「挙世一士無し、吾に放(ほしいまま)にせしむ第一流」と。
 マヂニー曰く、
「余は活動を喚起する喇叭(らっぱ)のみ、
汝もし余が勢力を減殺(げんさい)せんと欲せは、
(なん)ぞ自から活動せざる」と。
その異地同調の真趣は、言外に看取するを要す。

 

 もしそれ理想高遠にして、その志世界に在り、その意万民に在り、
その一呼吸は直ちに天地の大霊に通ずるが如きに至っては、
松陰僅かにマヂニーの門牆(もんしょう)を望むを得べし。

 マヂニー曰く、
「吾人が為さんとする所は、単に政治的に非ず、徳義的事業なり。
消極的に非ず、宗教的なり」と。

 彼が「上帝と人民」の二字を「少年イタリー」の標語となし、
一統と独立を旗幟(きしょく)の一方に、自由、平等、人情を他方に記したるを見、
また、総ての人類に向って自由、平等、人情の普及せんことを信じ、
この希望と将来とに向ってその心身を尽悴(じんすい)する、
これ吾党の本望なりというを見れば、
彼は実に、この志を以て一国に行うに非ず、
世界に行わんとしたる者なり。


 彼の横井小楠が、
「堯舜孔子の道を明らかにし、
西洋器械の術を尽す、何ぞ富国に止まらん、
何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布(し)かんのみ」といい、
「帝は万物の霊を生じ、これをして天功を亮(たす)けしむ、
所以に志趣は大にして、神(しん)は六合(りくごう)の中に飛ぶ」といいしに比す、
さらにその調子を一にせずんばあらず。


 想うてここに到れば、マヂニーは実に、
松陰の意気と精神とに小楠の理想と霊心とを加えたりというも、不可なきなり。
 吾人はただ松陰が何となくマヂニーに比して足らざる所あるを覚う。

 いわゆる我の卑(ひく)きに非ず爾(なんじ)の高きなり、
筑波山の低く見ゆるは、畢竟(ひっきょう)富士山の高きなり。

 

 然りといえどももし概括して、
我邦革命史上においてマヂニーに比する者を求めば、
革命の人物中実に松陰を推さざるべからず。
 松陰の我が維新革命史中における位置も、
(あ)にまた重要ならずと為(せ)んや。

 

 その性質の磊落(らいらく)なる、光明なる、大胆なる、
その百難を排(おしひら)きて屈せざる、
その信ずる所を執りて移らざる、その道念の鬱積(うっせき)したる、
その信念の堅確なる、その宗教的神秘の心情を有する、
要するにみな松陰において、多少マヂニーの典型を見ざるは莫(な)し。

 もしそれ松陰をして、その遭遇する事業を繁多(はんた)ならしめ、
その活動する天地を偉大ならしめ、多くの事と、
多くの人と、多くの思想と、多くの歳月との中に、
彼を練磨せしめば、彼が進境、あるいはここに止まらざりしなるべし。
故にその人物の長短について、肯(あえ)て一概に論ずべからざるものあるなり。

 

 然りといえども東洋孤島の裡(うち)に在り、
三十歳の生涯にして、彼が如き業を成し、
彼が如き痕跡を留め、彼が如き感化を及ぼしたる者、
(あ)に復(ま)た多からずと為(せ)んや。

                        「吉田松陰」民友社 
                 1893(明治26)年12月23日発行  

              初出:「国民之友」 
                 1892(明治25)年5月~9月 






徳冨蘇峰『吉田松陰』 第十六 最後(3)学習院興隆の事

2019-12-10 15:57:02 | 吉田松陰

       『吉田松陰』 
        徳冨蘇峰

 

第十六 最後(3)学習院興隆の事

 

一、天下有志の者出席を免(ゆる)し給うべき事([注]居寮寄宿を免す)

一、天下有用の書籍献上を免し給うべき事([注]古書近世書に限らず)

 

 但し神代の神々、式内の神々も時宜(じぎ)を酌(く)んで院中に祭るべし。
それ以下菅公、和気(わけ)公、楠公、新田公、織田公、豊臣公、
近来の諸君子に至るまでその功徳次第神牌を立つるなり。

 

 向(さき)に御相談申し候尊攘堂の本山ともなるべし。
人物集り書籍集りたる上にて、神道を尊び神国を尊び 天皇を尊び、
正論ばかり抜き取り一書として天下に頒(わか)つべし。

□慶ごろの人清原某「神代巻 跋(ばつ)」、松苗「十八史略序」、
この二編 小子(しょうし)深く心服 仕(つかまつ)る論なり。

 

一、院中へ史局を設け『六国史』以下の闕(けつ)を補う事。

 右等の趣向を眼目として御工夫を御こらし然るべく候。
 他日御出国出来候わば、先ず大原公父子へ御謀り、
公卿方の御論御伺い、
また関東 下向、掘江とも御相談 成され、
天下同意の人々申合せ、そろそろ京師にて御取建て然るべし。

 

 尤(もっと)も湖城、鯖江等〔井伊、間部〕威権を振う間は
少し御見合わせ成(な)されるべく候。
近年の内両権 仆(たお)るべし。
京師も九条公御辞職あらん〔先生 平生の口吻(こうふん)にあらず〕。

その後よき関白ありて関東と御一和の事も調(ととの)い候わば、
その節妙なり。
 その内 夷(い)事も日々禍深く相見え候に付き、好機会の出る事もあらん。
何分京と関東との形勢を熟覧して、
どうもむつかしくば最前の論の如く吉田にてなすなり。


 妙なれば学習院へ出るなり。
 この所は足下の眼中にあれば、悉くは申し難く候。
 堀江 何卒出牢させたきものなり。
僕より勝野保三郎へ申し遣わし置き候。
 山口三輶など好策なきかと申し遣わし置き候。
 堀江出牢と御聞きに成られ候わば、早速諸事御通信 然るべし。

 僕天下の士を多く見候えども、
無学にして篤志なることかくの如き人は多く見申さず、
実に奇人なり。
 学ぶべし、頼るべし。
 別封の一通御覧、この人の心中察し給え。

 

 僕出国以来五箇月に相成り候えども、小田村、久坂ら一書もなし。
足下は在獄なればせん方なし。
僕においては苦しからざる事には候えども、
諸友の踈濶(そかつ)は志の薄き故かと大いに懸念(けねん)致し候。
この事兄出牢せば一論あるべし。

 作間、弥二、徳民などのこと甚だ懸念なり。
 この三人は決して変ぜぬに相違はなくと存じ候。
岡部これまた棄つべからず。
この四人、兄 幸いにこれを愛せよ。福原は長進と察し候。
 如何にや。佐世も心にかかり候。
 来原、中村余り周布風を学び大人振り、
後進を導くこと能わざるが患(うれい)なり。
中谷は自ら妙、山口にて一世界をなせかし。

 これを要するに諸人才器 齷齪(あくさく)
天下の大事を論ずるに足らず、
吾が長人をして萎薾(いび)せしめん。
残念々々。足下(そっか)久坂をのみ頼むなり。
高杉大いに長進とは察し候えども、
この地にては十分の議論せず帰国、
大いに残り多き事どもなり

      未十月廿日
   松陰

 

     子遠兄

 

       足下

   ―――――――――――

 

     『留魂録』〔人の将(まさ)に死せんとする、その言や善し。〕

 

    身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留(とど)め置かまし大和魂 

 

      十月念五日
   二十一回猛士

 

 余去年 已来(いらい)心蹟百変、挙げて数え難し。
就中(なかんずく)趙の貫高(かんこう)を希(こいねが)い、
楚の屈平(くっぺい)を仰ぐ、諸知友の知る所なり。

 故に子遠が送別の句に「燕趙の多士一貫高、
荊楚の深憂 只(ただ)屈平」というもこの事なり。

 

 然るに五月十四日関東の行を聞きしよりは、
また一の誠の字に工夫を付けたり。
 時に子遠死字を贈る、余これを用いず、一白綿布を求めて、
「孟子の至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の一句を書し、
手巾へ縫付け、携(たずさ)えて江戸に来り、
これを評定所に留め置きしも、吾が志を表するなり。 

 

 去年来の事、恐れ多くも天朝、幕府の間、誠意相 孚(ふ)せざる所あり。


 天 苟(いやしく)も吾が区々の悃誠(こんせい)を諒し給わば、
幕吏必ず吾が説を是とせんと志を立てたれども、
蚊虻(ぶんぼう)山を負うの喩(たとえ)
(つい)に事をなすこと能わず今日に至る。
 また吾が徳の非薄(ひはく)なるによればなり。

 

 今 将(はた)誰をか尤(とが)めかつ怨(うらま)んや〔これ哲人の心地〕。

 

七月九日初めて評定所呼出しあり、三奉行出坐し、尋鞠(じんきく)の件両条あり。
一に曰く、「梅田源二郎長門 下向の節、面会したる由、何の密議をかせしや」。

 二に曰く、
「御所内に落文あり、
その手蹟汝に似たりと源二郎その外申立つる者あり、覚ありや」。

 

 この二条のみ。それ梅田は素(もと)より奸猾(かんかつ)なれば、
余 与(とも)に志を語ることを欲せざる所なり。
何の密議をかなさんや。
 余ここにおいて六年間幽囚中の苦心する所を陳じ
、終(つい)に大原公の西下を請い、鯖江侯を要する等の事を自首す。
鯖江侯の事に因(よ)りて、終(つい)に下獄とはなれり。

 

一、吾(われ)性激烈、怒罵(どば)に短し、
務めて時勢に従い人情に適するを主とす
 〔それ然り、豈(あ)にそれ然らんや〕。
 ここを以て吏に対して幕府違勅の已(や)むを得ざるを陳じ、
然る後当今的当の処置に及ぶ。その説常に講究する所にして、
(つぶさ)に対策に載するが如し。
 ここを以て幕吏といえども甚だ怒罵(どば)すること能)わず。

 直ちに曰く、
「汝陳白する所 悉く的当とも思われず、
かつ卑賤の身にして国家の大事を議すること不届(ふとどき)なり」。
余また深く抗せず、
「ここを以て罪を獲るは万々辞せざる所なり」といいて已(や)みぬ。
幕府の三尺、布衣(ほい)国を憂うることを許さず。

 その是非、吾 曾(かつ)て弁争せざるなり。
聞く、薩の日下部伊三次は対吏の日、
当今政治の欠乏を歴詆(れきてい)して、
かくの如くにては往先三、五年の無事も保し難しというて、
鞠吏(きくり)を激怒せしめ、乃(すなわ)ち曰く、
「ここを以て死罪を得るといえども悔ざるなり」と。

 これ吾の及ばざる所なり。
 子遠の死を以て吾を責むるも、またこの意なるべし。
唐の段秀実、郭曦においては彼の如く誠悃(せいこん)
朱泚(しゅせい)においては彼の如くの激怒、
然らば則ち英雄 自ら時措(じそ)の宜(よろ)しきあり。

 要するに内に省みて疚(やまし)からざるにあり、
そもそもまた人を知り機を見ることを尊ぶ。
 吾の得失、当(まさ)に蓋棺の後を待って議すべきのみ
〔隠然自負、蓋(けだ)し松陰直情 径行(けいこう)といえども、
また臨機応変的長州気質を免がる能(あた)わざるなり〕。

 

一、この回の口書(くちがき)甚だ草々なり。
 七月九日一通申立てたる後、九月五日、十月五日両度の呼出しも、
差したる鞠問(きくもん)もなくして、十月十六日に至り、
口書読み聞かせありて、直ちに書判(かきはん)せよとの事なり。

 余が苦心せし墨使(ぼくし)応接、航海雄略等の論、一も書載せず。
ただ数箇所、開港の事を程よく申 演(の)べて、
国力充実の後打攘 然るべしなど、
吾 心にも非ざる迂腐(うふ)の論を書付けて口書とす。
 吾言いて益なきを知る故に敢て言わず、不満の甚だしきなり。

 甲寅の歳、航海一条の口書に比する時は、
雲泥の違というべし
〔死に際して、なお口実の可否を論ず、
これ死を愛(いとし)まずして、名を愛む所〕。

 

一、七月九日一通り大原公の事、鯖江 要駕(ようが)の事等を申立てたり。
初め意(おもえ)らく、これらの事幕にも已(すで)に諜知すべければ、
明白に申立てたる方かえって宜(よろ)しきなりと。

 已(すで)にして逐一口を開きしに、幕にて一円知らざるに似たり。
(よ)って意(おもえ)らく、幕にて知らぬ所を強(し)いて申立て、
多人数に株連 蔓延(まんえん)せば善類を傷(そこな)う事少なからず、
毛を吹いて創(きず)を求むるに斉(ひと)しと。

 ここにおいてここにおいて鯖江侯
要撃(ようげき)の事も要諫(ようかん)とはいい替えたり。
また京師往来諸友の姓名、連判諸氏の姓名等、
成るべく丈(だけ)は隠して具白せず。
 これ吾 後人(こうじん)のためにする区々の婆心なり。
而して幕裁、果して吾一人を罰して一人も他に連及なきは、実に大慶というべし。
同志の諸友深く考思せよ。

 

一、要諫(ようかん)一条に付き、
事遂げざるときは鯖江侯と刺違(さしちが)えて死し、
警衛の者要蔽する時は打払うべきとの事、実に吾がいわざる所なり。

 然るに三奉行 強(し)いて書載して誣服(ふふく)せしめんと欲す。
 誣服は吾 肯(あえ)て受けんや。

 ここを以て十六日書判の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに争弁す。
吾 肯(あえ)て一死を惜しまんや、
両奉行の権詐(けんさ)に伏せざるなり。
 これより先九月五日、十月五日両度の吟味に吟味役まで具(つぶさ)に申立てたるに、
死を決して要諫(ようかん)す、必ずしも刺違え、切払い等の策あるに非ず。

 吟味役具にこれを諾して、
而もかつ口書に書載するは権詐(けんさ)にあらずや、
然れども事ここに至れば、刺違え、
切払いの両事を受けざればかえって激烈を欠き、
同志の諸友もまた惜しむなるべし、
吾といえどもまた惜しまざるに非ず、
然れども反復これを思えば、成仁の一死、区々一言の得失に非ず。

 今日義卿 奸権(かんけん)のために死す、天地 神明 照鑑上にあり、
何の惜しむことかあらん
〔松陰十五、六の少年を提げて、堂々たる諸侯の儀衛を衝(つ)かんとす。
人みなその大胆に驚く。

 彼曰く、
「昇平日久しく、苟(いやし)くも決死の徒二、三あらんか、
(か)の横剣荷槍の儀衛は、禽奔獣散せん」。
 松陰死するの明年、水戸十七士桜田の変あり。
 ここにおいて門人みな彼が先見の明に服すという〕。

 

一、吾この回初め素(もと)より生を謀らず、また死を必せず。
ただ誠の通塞(つうそく)を以て天命の自然に委したるなり。
七月九日に至っては、ほぼ一死を期す。
故にその詩にいう、
「継成ただ当(まさ)に市戮(しりく)に甘んずべし、
倉公 寧(いずく)んぞ復(ま)た生還を望まんや」と。
その後九月五日、十月五日吟味の寛容なるに欺かれ、また必生を期す。
またすこぶる慶幸の心あり。

 この心吾この身を惜しむために発するに非ず、そもそも故あり。

  去臘(きょろう)大晦(おおみそか)、朝議 已(すで)に幕府に貸す、
今春三月五日、吾公の駕已に萩府を発す、
吾策ここにおいて尽き果てたれば、死を求むること極めて急なり。
 
六月の末江戸に来るに及んで、夷(い)人の情態を見聞し、
七月九日獄に来り天下の形勢を考察し、
神国の事なおなすべきものあるを悟り、
初めて生を幸とするの念 勃々(ぼつぼつ)たり。

 吾もし死せずんば、その勃々たるもの決して汨没(こつぼつ)せざるなり。
然れども十六日の口書、三奉行の権詐(けんさ)、
吾を死地に措(お)かんとするを知り、
因(よ)ってさらに生を幸(ねが)うの心なし。

これまた平生学問の得(とく)か然るなり。

 

一、今日死を決するの安心は、四時の循環において得る所あり。
(けだ)し彼(か)の禾稼(かか)を見るに、春種し夏苗し秋刈り冬蔵す。
秋冬に至れば人みなその歳功の成るを悦び、
酒を造り醴(れい)を為(つく)り、村野歓声あり。
 未(いま)だ曾(かつ)て西成に臨みて、歳功の終るを哀しむものを聞かず。

 吾行年三十、一事成ることなくして、
死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば、
惜しむべきに似たり。

 然(しかれ)ども義卿の身を以て言えば、これまた秀実の時なり。
何ぞ必ずしも哀しまん。
 何となれば人寿(にんじゅ)は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。

 十歳にして死するものは十歳中 自ら四時あり、
二十は自ら二十の四時あり、三十は自ら三十の四時あり、
五十、百は自ら五十、百の四時あり。
 十歳を以て短しとするは、
(けいこ)をして霊椿(れいちん)たらしめんと欲するなり。

 百歳を以て長しとするは、霊椿をして蟪蛄(けいこ)たらしめんと欲するなり。
(ひと)しく命に達せずとす。
 義卿三十、四時 已(すで)に備わる、
また秀また実、その秕(しいな)たりとその粟たると吾が知る所にあらず。
 同志の士その微衷(びちゅう)を憐み継紹(けいしょう)の人あらば、
(すなわ)ち後来の種子未だ絶えず、
自ら禾稼の有年に恥じざるなり。
 同志それこれを考思せよ。

 

一、東口揚屋におる水戸の郷士堀江克之助、
余未だ一面なしといえども、真に知己なり、真に益友なり。
 余に謂いて曰く、
「昔し矢部駿州は桑名侯へ御預けの日より絶食して
敵讐(てきしゅう)を詛(のろ)いて死し、
果して敵讐を退けたり、
今 足下(そっか)も自ら一死を期するからは祈念を籠(こ)めて内外の敵を払われよ、
一心を残し置きて給われよ」と丁寧に告戒せり。

 吾誠にこの言に感服す。

 また鮎沢伊太夫は水藩の士にして堀江と同居す。
余に告げて曰く、
「今足下の御沙汰も未だ測られず、
小子は海外に赴けば天下の事総て天命に付せんのみ、
ただ天下の益となるべき事は同志に托し後輩に残したき事なり」と。
 この言大いに吾(わが)志を得たり。

 吾の祈念(きねん)を籠(こむ)る所は、
同志の士 甲斐甲斐(かいがい)しく吾志を継紹(けいしょう)して
尊攘の大功を建てよかしなり。
 吾死すとも、堀鮎二子の如きは海外に立つとも獄中に立つとも、
吾が同志たらん者願わくは交を結べかし。
 また本所亀沢町に山口三という医者あり、
義を好む人と見えて、堀鮎二子の事など外間に在りて大いに周旋(しゅうせん)せり。
 尤(もっと)も及ぶべからざるは、未だ一面もなき小林民部の事、
二子より申し遣(つか)わしたれば、小林のためにまた大いに周旋せり。
 この人想うに不凡ならん。

 かつ三子への通路はこの三老に托すべし。

一、堀江常に神道を崇め天皇を尊び、
大道を天下に明白にし異端邪説を排せんと欲す。
(おもえ)らく、天朝より教書を開板して天下に頒示(はんじ)するに如かずと。
 余謂らく、教書を開板するに一策なかるべからず、
京師において大学校を興し、上天朝の御学風を天下に示し、
また天下の奇材異能を京師に貢じ、
然る後天下古今の正論確議を輯集して書となし、
天朝教習の余を天下に分つときは、
天下の人心 自ら一定すべしと。

 因(よ)って平生(へいぜい)子遠と密議する所の尊攘堂の議と合わせ堀江に謀り、
これを子遠に任ずることに決す。
 子遠もし能(よ)く同志と議(はか)り内外志を協(かな)え、
この事をして少しく端緒あらしめば、吾の志とする所もまた荒せずというべし。

 去年 勅諚(ちょくじょう)綸旨(りんし)等の事一 趺(てつ)すといえども、
尊皇攘夷 苟(いやし)くも已(や)むべきに非ざれば、
また善術を設け前緒を継紹(けいしょう)せずんばあるべからず。
 京師学校の論また奇ならずや。

 

一、小林民部いう、京師の学習院は定日ありて、
百姓町人に至るまで出席して講釈を聴聞することを許さる、
講日には公卿方出坐にて、講師菅家、清家及び地下(じげ)の儒者相混ずるなり。

 然らばこの基(もとい)に因(よ)ってさらに斟酌(しんしゃく)を加えば、
いくらも妙策あるべし。
 また懐徳堂には霊元上皇 宸筆(しんぴつ)の勅額あり。
 この基(もとい)に因りさらに一堂を興すもまた妙なりと小林いえり。

 小林は鷹司家の諸太夫にて、この度(たび)遠島の罪科に処せらる。
京師諸人中罪責極めて重し。
 その人多材多芸、ただ文学に深からず、処事の才ある人と見ゆ。

 西奥揚屋にて余と同居す、後東口に移る。
京師にて吉田の鈴鹿石州、同筑州別して知己の由、
また山口三輶も小林のために大いに周旋(しゅうせん)したれば、
鈴鹿か山口かの手を以て海外までも吾(わが)同志の士通信をなすべし。
京師の事については後来必ず力を得る所あらん。

一、讃の高松の藩士長谷川宗右衛門、年来主君を諫(いさ)め、
宗藩水家と親睦の事について苦心せし人なり。
 東奥揚屋にあり、その子速水、余と西奥に同居す。
この父子の罪科如何、未だ知るべからず。
 同志の諸友切に紀念せよ。
 予初めて長谷川翁を一見せしとき、獄吏左右に林立す。
法、隻語(せきご)を交ゆることを得ず、翁独語するものの如くして曰く、
「むしろ玉と為りて砕くるとも、瓦と為りて全うする勿(なか)れ」と。
吾甚だその意に感ず。同志それこれを察せよ。


一、右数条余 徒(いたずら)に書するにあらず。
 天下の事を成すは、天下有志の士と志を通ずるに非ざれば得ず。
 而して右数人は余この回 新たに得る所の人なるを以て、
これを同志に告示するなり。

 また勝野保三郎早や已(すで)に出牢す。
 ついてその詳を問知すべし。
 勝野の父豊作、今潜伏すといえども有志の士と聞けり。

 他日事 平(たいら)ぐを待って物色すべし。
今日の事、同志の諸士、戦敗の余、傷残の同志を問訊(もんじん)する如くすべし。
一敗 乃(すなわ)ち挫折する、豈
(あ)に勇士の事ならんや。
切に嘱す、切に嘱す。

 

一、越前の橋本左内二十六歳にして誅(ちゅう)せらる、実に十月七日なり。
左内東奥に坐する五、六日のみ。勝保同居せり。
後勝保西奥に来り、余と同居す。

 余勝保の談を聞いて、益々左内と半面なきを嘆ず。
左内幽囚邸居中『資治通鑑』を読み、註を作り漢紀を終る。
また獄中教学工作等の事を論ぜし由、勝保余にこれを語る。
 獄の論大いに吾(わが)意を得たり。
予益々左内を起して一議を発せんことを思う。
ああ〔恐らくは松陰以上の人ならん〕。

一、清狂の護国論及び吟稿、口羽の詩稿、天下同志の士に寄示したし。
故に余これを水人鮎沢伊太夫に贈ることを許す。
同志それ吾に代ってこの言を践(ふ)まば幸甚なり。

一、同志諸友の内、小田村、中谷、久保、久坂、子遠兄弟らの事、
鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野らへ告知し置きぬ。

 村塾の事、須佐、阿月らの事も告げ置けり。
飯田、尾寺、高杉及び利輔の事も諸人に告げ置きしなり。
これみな吾が苟(いやし)くもこれをなすに非ず。

 

     かきつけ終りて後

 

  心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ思い残せしことなかりけり〔安心〕

呼だしの声まつ外に今の世に待つべき事の無かりけるかな〔静寂〕

討たれたるわれをあわれと見ん人はきみを崇(あが)めて夷(えびす)払えよ〔尊王攘夷〕

愚かなる吾をも友とめず人はわがとも友とめでよ人びと〔汝ら相い愛せよ〕

七たびも生かえりつつ夷をぞ攘(はら)わんこころ吾れ忘れめや〔七たび生れて賊を滅ぼす〕

 

    十月二十六日 黄昏(こうこん)書す
     二十一回猛士 
 

 


                         吉田松陰」民友社 
                 1893(明治26)年12月23日発行 

               初出:「国民之友」 
                 1892(明治25)年5月~9月 



徳富蘇峰 「吉田松陰」 第十六 最後(2)

2019-12-09 16:35:27 | 吉田松陰

      「吉田松陰」
       徳富蘇峰

 

徳富蘇峰 「吉田松陰」 第十六 最後(2) 


〔註〕以下掲ぐる所は、江戸獄中より同志への書簡、
及びその絶筆たる『留魂録』なり。
如何に彼が死に処して、
その平生の潜光(せんこう)を発揮したるかを見よ。

 慷慨(こうがい)死に赴くは易(やす)く、
従容
(しょうよう)死に就(つ)くは難し。

 彼その難きに処して、安詳静粛、意長く神遠く、
殆んど無極の精神に冥化するものあるが如し

 〔書中の註脚に〔 〕あるは、著者の挿入に係る。〕

 

     江戸獄中より高杉暢夫に与うる書

 

  唐筆(からふで)一本有難く拝受、
則ち相用いて別紙 認(したた)め上げ申し候。

 小生去冬十二月二十五日投獄〔長州野山の獄〕以来、
大分学問進み候よう覚え候。当五月までの文稿二冊これ有り〔幽室文稿〕
弥二郎に密蔵させ置き候。

 小生死して遺憾なき所全くこの二冊に在り、
他日御一見下さるべく候。

 

 ○貴問に曰く、丈夫死すべき所 如何。僕去冬以来、
死の一字大いに発明あり。
李氏 焚書(ふんしょ)の功多し。

 その説甚だ永く候えども約していわば、死は好む所に非ず、
また悪む所に非ず、道尽き心安んぜば、便(すなわ)ちこれ死所、
世に身生きて心死せる者有り、身亡びて魂存する者有り、
心死せば生くるも益無きなり、魂存すれば亡ぶるも損無きなり、
「いわゆる死生は吾(われ)久しく斉(ひと)しうするものか」

 

 また一種の大 才略(さいりゃく)ある人 辱(はじ)を忍(しの)びて事を為す、
([注]明徐楷が楊継成を助けざるが如し)

 

また一種私欲なきもの生を偸(ぬす)むを妨げず
 ([注]文天祥厓山に死せず生を燕獄に偸む四年これあり)
死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし、
生きて大業の見込あらはいつでも生くべし
 〔人生の目的は不朽に在り、人業に志すのは不朽ならんがためのみ〕

 僕が所見にては生死は度外に措(お)きてただ言うべきを言うのみ 
○貴問に曰く、僕今日如何して可ならん。

 この事在国の日にも御申越し成(な)され候故、
一通り貴答相 認(したた)め候えども、
この行ある故、その書は杉蔵へ密蔵させ置き候。
大意遠大の論なり。

 まず遊学御済まし成(な)され候わば、
妻を蓄(たくわ)え官に就(つ)く等のこと、
ひたすら父母の御心に任され、
もし君側にでも御出でなれば深く精忠を尽し君心を得べし。
然る後正論正義を主張すべし。この時必ず禍敗を取るなり。

 禍敗の後、人を謝し学を修め一箇 恬退(てんたい)の人となり玉(たま)わば、
十年の後必ず大忠を立つる日あらん。

 極々(ごくごく)不幸にても一不朽の人となるべし。
 清太、玄瑞、杉蔵なども吾(われ)を学んで軽忽(けいこつ)を遣(や)るな。
吾は自ら知己の主、上に在り、然らざるを得ず。

 三人暢夫と謀り十年ばかりも名望を養えと申し置き候。
三人へ示し候書、御帰国の日御覧下さるべく候〔静思は遠識を生ず〕

 

 ○読書は勉強さえすれば書中 自(おのずか)ら妙味有り、必ずしも言わざるなり。
『下学(かがく)邇言(じげん)』御読み成
(な)され候由また妙。

 王陽明の『伝習録』その外真味あり、
陸象山(りくしょうざん)いう、「六経はみな我が注脚」と、この見極めて妙。
読書論は申したき事あれども言うも無益なり。

 

○今日諸侯の処しよう、これも愚考の所、
在邸の節 密(ひそ)かに建白致し候えども、
囚奴の言、政府何ぞ信用あらん。
しかし知己のために一言して併せて高論を乞う。

 僕江戸に来り墨夷(ぼくい)の事体見聞、大いに驚き、
また窃(ひそ)かに喜ぶ。また深く惜しむことあり。
墨夷(ぼくい)本牧を以ていまだ足らずとし、
江戸に来居、市中自在に横行するは、
応接条約等の表にては当然の事には候えども、
現在に目撃すれば随分驚き申し候。

 しかし英夷(えいい)阿片(あへん)交易のことに付き、
瘍医を広東へ渡し療治を施させ、
これに継ぐに引痘を以てする等の苦心
  ([注]『海国図志』中奥東日報に見ゆ)
その思慮深遠というべし。

墨夷(ぼくい)は人心を懐柔(かいじゅう)するの手段大いに英夷に劣る。
 

を以て窃(ひそ)かに喜び申し候。
然るに機は得難く失い易し。

 墨夷の為す所市中の人心を失うとも、
また数十年無事ならば人心も自ら帖服(ちょうふく)すべし。
この機会を失うこと豈(あ)に惜しからざらんや。
 幕府初めは墨夷を借りて諸夷を制し諸侯を抑えんと欲す。
而して今は何となく悔悟(かいご)の色あり。
悔悟すれども膺懲(ようちょう)の奇策なければ
淪胥りんしょ)(とも)に喪(ほろ)ぶるの外致し方なし。

 

 将(はた)また京師の一条も幕府最初の思い過ちにて、
追々 糺明(きゅうめい)あればさまで不軌(ふき)を謀りたる訳にこれ無く候えば、

 今また少しく悔ゆ。ここを以て今諸侯において誠に大切の時なり。
 今正義を以て幕府を責むるは宜(よろ)しからず候えども
  〔これ平生(へいぜい)の口吻(こうふん)にあらず〕
上策は彦根、間部等の所は誠実に忠告するに如(し)かず。

中策は隠然(いんぜん)自国を富強にしていつにても幕府の倚頼(いらい)となる如く
心懸(こころが)くべし〔獄中の意見何んぞ実着なる〕

 今幕府への嫌忌(けんき)と見えて杉蔵らが獄さえ免ぜず、
遊学生も容易には出さず、坐(い)ながら事機を失う、残念なり。
せめては中策にても出(い)だせかし。

 

 ○京師の一条に付き、投獄の人少なからず。この獄みな失策なり。

  清水寺の僧信海、
  勅を奉じて敵国を調伏し万民を安穏(あんのん)にせんことを祷(いの)る。
  事、幕忌に触れ、捕えられて獄に下り、病を以て没す。
  実に今茲(ことし)四月某日なり、遺歌一首有り。

 曰く、
  西の海東のそらとかわれどもこころはおなじ君の世のため

 

  その兄僧某、また同志の人なり。
  これより先、薩摩の海に投じて死す。
  また遺歌あり〔僧某は月照なり〕

 

  大君のためには何にか惜しからん薩摩のせとに身は沈むとも
  くもりなきこころの月の薩摩潟おきの波間にいまぞしずめり

 

 余獄に入り、同囚のその事を説くを聞き、感慕に堪えず、短古を作る。

 

    弟は東獄に繋(つな)がれて死し、兄は西海に向って投ず。
    死その地を殊(こと)にすといえども、同じくこれ皇恩に酬(むく)ゆ。
    ああ、吾が身 未だ死せず、感慕 涕泗(ていし)流る。
    昔聞く暁月坊、国に死す承久の秋(とき)
    今見る公が兄弟(けいてい)
    真箇(しんこ)、古人の儔(たぐい)

 

 この詩郷友へ御贈り下さるべく候。
 もし珍説あらば承りたし。

 何卒(なにとぞ)御一答承りたく、態(わざ)と金六を遣わし候。
  御答出来かね候わば、爾後(じご)は使い差出さず候に付き、
 左様 抑聞(おおせき)け下さるべく候。

 両度の書とも相達し候事と存じ奉り候処、絶えて御答これ無きは如何や。
 何か故障にても起き候ことかと案労 仕(つかまつ)り候。
 何卒(なにとぞ)御一答待ち奉り候。


 小生投獄の信、国へ達し候後同志より未だなんとも音信これ無く、
最早六十日過ぎ候えば、一信これ有る筈なり。
ついては例の四円金([注]十円の内なり)今に参り申さずや。
 沼崎氏の出帆(しゅっぱん)も三十日内外なり。
 何卒(なにとぞ)それまでに届けかしに御坐候。


 水戸の臣鮎沢伊太夫、
鷹司の臣小林民部権太輔両人遠島の命にて揚屋(あがりや)預け、
 小林は同居仕り候。色々妙話あり。

 去月念七日水戸の大変物議如何。
かえって奇事これより生ずべしと驚裡(きょうり)胆を生じ候。

 今月五日小生評定所御呼出しこれ有り、
御吟味の模様にては軽典に処せらるることと察せられ候。
先ず御悦び下さるべく候。

 六日に十四年在牢の僧宥長出牢し愛宕下円福寺へ預けに相成り候。
獄中の様子御承知 成(な)されたくばこの僧を訪い玉(たま)え。
善く譚ずる人なり。

 

 

      九月十二日

    ―――――――――――

     江戸獄中より入江杉蔵に与うるの 

    〔これ刑につく一週前の書、死に垂(なんな)んとして、
      なお天下の経綸に汲々たるの情を見るべし〕

 

 兼(かね)て御相談申し置き候尊攘堂の事、
僕はいよいよ念(ねん)を絶ち候〔既に死を決するが故に〕

 この上は足下兄弟の内一人は是非僕が志を成就致しくれられ候事と
頼母(たのも)しく存じ候。

 春以来の在囚、飽くまで読書も出来、思慮も精熟、
人物一変なるべくと殊に床敷(ゆかし)く、
日夜西顧父母を拝する外、先ず第一には足下兄弟の事を思出し候。

 尊攘堂の事は中々大業にて、速成を求めてはかえって大成出来申さず、
また亡命などにて出国し候ては往先(ゆきさき)の不都合もこれ有る事故、
足下出牢の上は先ず慈母の心を慰め、
兄弟間遊学の事も政府辺の指揮を受けての事が宜敷く、
これは小田村その他の諸友も随分尽力致すべく候。

 さて僕も江戸に来たりて天下の形勢一覧致し、
余程知見の進み候処これ有り。

 神州 未だ地に墜ちず人物も随分これ有る事承知、
委細に御話申したく候えども、心に任せず候間、
ただただ何事も心強く抛(なげう)たざるよう御心懸け専一(せんいつ)に存じ候。

 尊攘堂の事に付いても一策を得たり。

 御聞き及びも候わん、堀江克之助と申す水戸の豪士あり、
羽倉の三至録に久保善助とあるはこの人なり。

 丁巳(ていし)墨使(ぼくし)登営の節、
信田、蓮田と共に墨使を討たんことを謀る。
 両田は獄死、堀江は今に東口揚屋に在り
  ([注]この人の事は追々高杉へも申し遣わし候、御聞き及びと存じ候)

 この人 殊(こと)の外神道を尊び 天朝を尊ぶ人なり。

 毎々(つねづね)申され候事に、神道を明白に人々の腹へ入る如く書を著し、 
天朝より開板して天下へ御 頒示(はんじ)(な)されたしと頻(しきり)に祈念仕り居られ候。

 僕が心得には教書のみ天下に頒(わか)ちても天下の人心一定と申すようには参り難きに付き、
京師に大学校を興し上は天子親王公卿より武家士民まで入寮寄宿等も出来候よう致し、
恐れながら 天朝の御学風を天下の人々に知らせ、
天下の奇材異能を天朝の学校へ貢じ候よう致し候えば、
天下の人心一定 仕(つかまつ)るに相違なし
  〔いわゆる皇室中心主義〕

 しかし急に京師へ大学校を興すと申しては、
只今の時勢、とてもとても出来ぬ事と誰しも存ずべく候えども、
ここにまた策あるべし。
小林民部より承り候。

 今学習院は学職方は公家なり、
儒官は菅清家と地下(じげ)の学者と混じて相務められ、
定日ありて講釈これ有り。

 この日は町人百姓まで聴聞に出で候事勝手次第、
勿論 堂上(どうじょう)方御出坐なり。

 然(しか)れば学習院の基に依り今一層興隆致し候えば、
何様(いかよう)にも出来申すべし。

 さて学問の筋目を糺(ただ)し候事が誠に肝要にて、
朱子学じゃの陽明学じゃのと一偏の事にては何の役にも立ち申さず、
尊皇攘夷の四字を眼目として、何人の書にても何人の学にても、
その長ずる所を取るようにすべし。

 本居学と水戸学とはすこぶる不同あれども、
尊攘の二字はいずれも同じ。

 平田はまた本居とも違い癖なる所も多けれども
『出定(しゅつじょう)笑語(しょうご)』『玉襷(たまだすき)』等は好書なり。

 関東の学者、道春以来、新井、室(むろ)、徂徠(そらい)、春台(しゅんだい)
みな幕府に佞(ねい)しつれども、
その内に一、二箇所の取るべき所はあり。
伊藤仁斎などは尊王の功もなけれども、人に益ある学問にて害なし。
林子平も尊王の功なし攘夷の功あり。

 兼(かね)て御話し申し候高山、蒲生、対馬の雨森伯陽、魚屋の八兵衛の類は、
実に大切の人なり、各 神牌(しんぱい)を設くべし。

 右諸家の書を聚(あつ)め長を抜取り、
人物格別功あるは学習院中へ神牌を設くる等の評議は中々大議に付き、
天下の人物を聚(あつ)めねば出来ず、
人物聚らずとも諸国へ京師より人を遣(つか)わし豪傑の議論を聞聚め、
京師にて大成すべし。この議論中に天下の正論大いに起るべし。

 また水戸『日本史』の後もこれ無く、天朝『六国史』の後も闕(か)く。
 天皇の御 諡号(しごう)も光孝天皇までなり。
その後の帝紀御撰述、諡号(しごう)御定め等、
勅諚(ちょくじょう)にて学習院に抑付(おおせつ)けられたき事なり。
(もっと)もこれは書籍と人物と大いに学習院に集りたる上の事なり。


               吉田松陰」民友社 
                 1893(明治26)年12月23日発行 

               初出:「国民之友」 
                 1892(明治25)年5月~9月 


徳冨蘇峰『吉田松陰』 第十六 最後(1)

2019-12-07 11:53:36 | 吉田松陰

       『吉田松陰』 
            徳富蘇峰


第十六 最後(1) 
 

 井伊直弼は、密勅の水戸に降りしを奇貨とし、
これを中心として、その打撃を始めたり、
史家称して安政の大獄という。
 然ればその犠牲者は、
概ね水戸と朝廷との間を周旋(しゅうせん)したる、

 在京都の諸藩士、諸浪人にして、松陰の如きは、
(もと)よりこれに対して何らの関係ある筈なかりしなり。

 彼は当時において、その胸中には、
千万丈の波瀾を湧かしめたりといえども、
これらの運動に関しては、
あたかも太陽系 圜外(えんがい)の小遊星に外ならざりしなり。
而して何物の酷漢ぞ、その禍の手を以てこの小遊星までには及ぼしたる。

 

 さても彼は、安政六年五月二十五日において、
いよいよ公(おおやけ)の筋より江戸 檻致(かんち)の命を聞くに至れり。

 彼はこれを聴いて、毫(ごう)も愕(おどろ)く所なし。

 彼の江戸の法庭に――刑場に赴くや、
新郎の新婦の筵(えん)に赴くほどにゆかざるも、
猛夫の戦場に出るが如く、勇みたりしなり。

彼れその反対党なる長井に書を贈り、如何なる場合に遭逢(そうほう)するも、
決して禍を彼らに嫁し、藩政府に波及せしむるが如き事なきを告げ、
かつ謂いて曰く、
「小生も兼て人を不忠とか不義とか、大言に罵り置きたれば、
(よんどころ)無きも、今度は一身を以て、国難に代らねばならぬ事、
疾に落着 仕(つかまつ)り居(お)るなり」と。

 何ぞその言の歴々落々として青天白日を覩(み)るが如き。

 

 もしそれ彼がいわゆる訣別のために、
門人 浦無窮(うらむきゅう)に描かしめたる肖像の自賛文に至っては、
彼が一生の抱負と特性とを視るに足るべきもの、
吾人はその文の既に人口に膾炙(かいしゃ)したるに拘らず、
これを掲載するを禁ずる能(あた)わず。

 

 三分廬を出づ、諸葛 已(や)んぬるかな、一身 洛(らく)に入る、
賈彪
(かひょう)(いずく)に在りや。

 心は貫高を師とし、而して素
(もと)より名を立つる無く、
志は魯連を仰ぎ、遂に難を釈
(と)くの才に乏し。

 読書功なく樸学三十年、滅賊計を失す猛気二十一回。
人、狂頑と譏
(そし)り、郷党、衆(おお)く容れず。 

 身は家国に許し、死生は吾れ久しく斉(ひと)しうす。
至誠にして動かざるは古
(いにしえ)より未だこれ有らず。
古人は及び難
(がた)きも聖賢をば敢て追陪(ついばい)せん。

 

 彼は実に死を決して行けり。
彼は固(もと)より死の来る偶然に非ざるを知れり。

吟じて曰く、

  鳴かずあらば誰(たれ)かは知らん郭公(ほととぎす) 
    さみだれ暗く降り続く夜は

 

 ここにおいて、彼は五月二十六日、梅雨を冒し、檻車(かんしゃ)萩城を発し、
一路の江山を随意に眺め、あるいは淡路島に対しては、

   
   別れつつまたも淡路の島ぞとは 
     知らでや人の余所(よそ)に過(す)ぐらん

 

と独唱し、一の谷を過ぎては、

    一の谷討死とげし壮士(ますらお)
       起して旅のみちづれにせん

 と戯れ、淀を過ぎては、

 

   こと問わん淀の川瀬の水ぐるま 
      幾まわりして浮世へぬらん

 

と懐抱(かいほう)を洩らし、途上あるいは史を詠じ、
あるいは文天祥正気の歌に和し、
七月九日直ちに江戸町奉行所に送られたり。


 彼は直ちに評定所に喚び出されたり。
幕吏(ばくり)彼に対して曰く、
「汝は梅田源次郎と密謀を企てたるに非ざるか」。
曰く、「否」。「汝は御所内に落文(おとしぶみ)なしたること無きか」。
曰く、「断じて無し、余は大丈夫なり、故に断じてかかる影暗きことなし。
然れども余は実になお言うべきものあり。

 余は書を大原三位に致し、彼を我(わが)藩に召し下し、
以て藩主を論諫(ろんかん)せんと欲したり。
余は同志を募りて間部を要撃(ようげき)せんと欲したり」。

奉行曰く、
「大胆甚し、覚悟しろ、吟味中 揚屋(あがりや)入りを申付ける」と。

ここにおいて彼は嘗(かつ)て蹈海(とうかい)失敗の余勇を養いたりし、
江戸伝馬町の獄に再び投ぜられたり。


 彼は自己の罪に非ざる罪のために檻致(かんち)せられたるなり。
何となれば、凡(すべ)て幕府が彼に対して鞠治(きくじ)したるものは、
みなこれ大楽(だいらく)源太郎が為したる所にして、
松陰の関したる所に非ざればなり。
而して彼はかえって叢(くさむら)を衝(つ)いて蛇を出し、
その自首したるがために、
遂に彼をして死刑に致さざるべからざるまでの罪を羅織(らしょく)せらるるに至りしなり。

 彼は曰く、
「もし奉行余が言を聴き、今日の急務を弁知し、
一、二の措置をなさば、吾れ死して光あり、
一、二の措置をなす能わざるも、また赤心を諒し一死を許せば、吾生きて名あり、
また酷烈の処置に出で、妄(みだ)りに親戚朋友に連及せば、
吾言うに忍びずといえども、昇平の惰気を鼓舞するに足る、皆妙」と。

 彼が獄中の生涯は、彼が獄中より諸友に与えたる書中に詳(つまびら)かなり。

 彼は死と同居しても、なおその飛揚跳梁の精神を全く棄てざりしなり。
彼はその友人に向って、種々の事を言い送れり、
あるいは唐筆を入れくれよといい、
あるいは『孫子』一巻を送りくれといい、
あるいは金子(きんす)の入用を申 遣(や)り、
またあるいはその郷里の友人に向ってその消息を通ぜざるを責め、
その来信を促したり。

 彼れ曰く、
「艱難辞せずといえども、安楽もまた自ら好に御坐候」と、
これ実に彼が獄中の生涯を言い顕したるものなり。

 何となれば彼は獄中に多くの知己を得、従って多くの便宜を得たればなり。
彼は獄中にて聴きたる大獄に関する諸有志の身の上につき、
その人物につき、その出来事につき、これをその獄外の友人に告げたり。

彼はその身は獄中に安坐するも、
その心は一日も平静なる能(あた)わざりしなり。
彼も自らその身の如何に落着(らくちゃく)するかを知らず、

ただ曰く、
「三奉行大憤激して吟味することにも相成り候わば、
小子深望の事に候えば、その節 株連(しゅれん)も蔓延(まんえん)も構わず、
腹一杯天下の正気を振うべし。
 事 未だここに至らざれば、
安然として獄に坐し夫(か)の天命を楽しむのみ」と。

 彼は実にその身の如何に落着するかを知らず、
ただその友人に向って、
「天下の事 追々(おいおい)面白く成るなり。

(くじ)ける勿(なか)れ、折(くじ)ける勿れ、
神州は必ず滅びざるなり」と言い贈れり。


 彼は獄中において朋友に富めり。
その同獄の長は、沼崎某という者なり、
彼もまた初めより松陰の名を知り居れり。
またその別獄には、堀江克之助、鮎沢伊太夫らの水戸藩士あり、
京都鷹司家諸太夫なる小林民部太夫あり。
彼らは獄中にて常に書翰を取遣り、
あるいは往を談じ、あるいは来を語り、
殊に死の眼前に迫るをも打忘れて、将来の経綸に余念なきものの如し。


 彼は獄中において多少の新見聞を広めたり、
何となれば天下の新聞は実に獄中に集れるなり。
故にまた新見識を加えたり。

 その九月十二日高杉に与うる書中に曰く、
「三人とも我を学んで、軽忽(けいこつ)をやるな、
吾は自ら知己の主、上に在り、然らざるを得ず。
三人(久坂実甫、久保清太、入江杉蔵)暢夫と謀り
十年ばかりも名望を養えと申置き候」。


 彼が言う所、何ぞそれ雍容(ようよう)悠長なる。
彼は実にこの三人の一人たる入江杉蔵に向って脱走を勧め、
佳賊となるべしとまで勧めたりしに非ずや、
彼は嘗(かつ)て久坂に序を贈りて、
鄭延平の挙を慕うの意を寓(ぐう)したるに非ずや。
 彼れ而して今に至って、十年苦学の要を説く、そもそも何ぞや。
独り新見聞のためのみならず、惟(おも)うに獄中の静想は、
彼をしてかくの如く清心遠識ならしめたるか。

 

 彼は十月七日その父兄に書を贈り、
「孰(いず)れ日月 未(いま)だ地に墜ちず候えば、
膝下(しっか)に侍し天下の奇談申上げ候日これ有るべし」といえり。

而してその八日高杉に書を与えて、
「橋本と頼(らい)は幕に憚(はばか)りて斬(き)ったも尤(もっと)もなれども、
飯泉喜内を斬ったは無益の殺生、それはとまれ喜内を斬るほどでは、
回も斬られずとも遠島は免れずと覚悟致し候」と言い贈れり。

 而して彼は未だ充分 自ら死の運命に支配せられたるを知らざりしなり。

 

 然れども十月十六日に至り、
鞠問(きくもん)全く畢(おわ)り、奉行は彼を流罪に当るものとなし、
案を具えてこれを老中に致す。
 大老井伊直弼、「流」字を鈎(こう)して「死」字と作(な)す。
彼もまたこれを漏れ聞き、遂に十月二十日永訣の書を作り、
これをその父兄に与えたり。

 

  平生の学問 浅薄にして、至誠天地を感格する事出来申さず、
非常のここに立至り申し候。
嘸々
(さぞさぞ)御 愁傷(しゅうしょう)も遊ばさるべく拝察 仕(つかまつ)り候。

 

   親思う心にまさる親心
      きょうの音ずれ何ときくらん

 さりながら去年十月六日差上げ置き候書、
(とく)と御覧遊ばされ候わば、左まで御愁傷にも及び申さずと存じ奉り候。

 なおまた当五月 出立(しゅったつ)の節、心事一々申上げ置き候に付き、
今更何も思い残す事御座無く候。

 この度 漢文にて相 認(したた)め候諸友に語る書も、御転覧遊ばさるべく候。


 幕府 正議(せいぎ)は丸に御 取用(とりもち)いこれ無く、
夷秋は縦横自在に御府内を跋扈(ばっこ)致し候えども、
神国未だ地に墜ち申さず、
上に聖天子あり、下に忠魂 義魄(ぎはく)充々致し候えば、
天下の事も余り御力落しこれ無きよう願い奉り候。

 随分御大切に遊ばされ、御長寿を御保ち成さるべく候。以上。

 

 死は人をして静かならしむ、死は人をして道念(どうねん)を警発せしむ。

 死は人の仮面を剥(は)ぎてその本色を露呈せしむ。
死は人をして舞台より移してその楽屋に入らしむ。
 かくばかり不穏なる精神も、実に如何なる厳粛、敬虔(けいけん)
幽静(ゆうせい)、崇高なる道念を発せしめたるか。


吾人はその父兄に与うる書についてこれを知るを得るなり。
もしそれ死に抵(いた)りて流涕(りゅうてい)し、
落胆し、顔色土の如くなるが如きは、
(もと)より死に支配せられたる者にして、言うに足らず。

 彼(か)のあるいは世を慨(なげ)き、時を詈(ののし)り、
危言(きげん)激語して死に就(つ)く者の如き、
壮は則ち壮なりといえども、なおこれ一点狂激の行あるを免れず。

むしろ若(し)かんや、自ら平生(へいぜい)の学問 浅薄なるを言い、
以てその限りなき懊悔(おうかい)を包むに限り無き慰安を以てす。


 その従容(しょうよう)自若(じじゃく)たる、
(まさ)にこれ哲人の心地(しんち)
観てここに到れば、吾人は松陰が多くの弱点と欠所とを有するに係(かかわ)らず、
ただ愛すべく、敬すべく、慕うべく、仰ぐべく、
真個(しんこ)の殉国 殉道(じゅんどう)の達人たるに愧(は)じざるを想見せずんばあらず。

鳥の将(まさ)に死せんとする、その鳴くや哀し、
人の将(まさ)に死せんとする、その言や善し。


彼はいよいよ死の旦夕(たんせき)に迫りたるを知り、
十月二十五日より『留魂録』一巻を作り、
二十六日 黄昏(こうこん)に至って稿を畢(お)う。
その中に言えること有り、

 

  七月九日に至りては略(ほぼ)一死を期す、
その後九月五日、十月五日吟味の寛容なるに欺かれまた必生を期す、
またすこぶる慶幸(けいこう)の心あり。

 十六日の口書(くちがき)、三奉行の権詐(けんさ)
(われ)を死地(しち)に措(お)かんとするを知り、
(よ)ってさらに生を幸(こいねが)うの心なし、
これまた平生学問の得(とく)か然るなり。

 

 彼は実に生を愛(おし)まざりしに非ず、欲せざりしに非ず、
彼は惰夫
(だふ)が事に迫りて自ら縊(くび)るるが如き者に非ず、
狂漢が物に激して自ら腹を劈
(さ)くが如きに非ず、
彼は固
(もと)より生を愛し死を避けんと欲したるに相違なし。


ただ彼は時に死よりも重きものあるを観、
これを成さんがために死をも辞せざりしなり。
然れば彼は要撃(ようげき)の事をも、
中頃に至って要諫(ようかん)とはいい更(か)えたり。

然れども井伊大老 已(すで)に彼を死地に処(お)かんとす、
それ将(は)た何の益有らん。

 彼はここにおいて死せざるべからざるを知り、
死を待てり、死に安んぜり。

彼は十月二十六日の黄昏、『留魂録』を書 了(おわ)り歌を題して曰く、

 

   呼び出しの声まつ外に今の世に 
      待つべき事のなかりけるかな

 

と。 読んでここに到る、吾人は実に彼が平生得る所のもの、
すこぶる浅からざりしを覚う。

ケートが死せんとするや、自らプレトーの霊魂不滅の文を誦せり。

 コンドルセーが山岳党(さんがくとう)のために獄に幽せらるるや、
獄中に安坐して、死を旦夕(たんせき)に待つに際し、
なお人類円満の進歩を想望(そうぼう)して、
人生進歩の一書を著(あらわ)せり。

彼 豈(あ)にこれに愧(はじんや、
実に彼の心は死だもなお動かすべからざるものありしなり。

 かくの如く彼は、十月二十七日において、
遂に評定所において死刑の宣告を受けたり。

その宣告たるや、実に幕法のすこぶる峻酷(しゅんこく)なるを見るに足るものあり。

曰く、
 

 [注]杉百合之助へ引き渡し蟄居申付け置き候浪人 吉田寅次郎 

   其方(そのほう)儀、外夷の情態等相察すべしと、

去る寅年異国船へ乗込む科(とが)に依り、
父杉百合之助へ引渡し在所において蟄居
(ちっきょ)申付け請(うく)る身分にして、
海防筋の儀なお頻
(しき)りに申し唱(とな)え、
外国通商数港御開き相成り候わば、
柔弱の御取計にて御国のためにも相成らず、
誠実友愛の義を唱(とな)え和親交易を相願う夷情
(いじょう)に基き、
御国において御不都合の次第これ有る儀を申し諭
(さと)し御断り、
追て御打払方 然るべしなど、

または当時の形勢にては人心一致天子を守護致し、
卑賤の者にても人を越え御撰挙これ無くては迚
(とて)も御国威は振い申すまじなど、
御政事向に拘り候国家の重事を著述致し、
右作、「狂夫之言」あるいは「時勢論」と題号し、
主家または右京家等へ差出し、

 殊
(こと)に墨夷(ぼくい)仮条約御渡し相成り御老中方御上京これ有る趣き承り、
右は外夷
(がいい)御処置 振(ぶり)の儀と相察し、
居(ちっきょの身分に在るとも下総守殿通行の途中へ罷(まかり)出で
御処置を相伺い見込の趣き申立て、
もし御取用いこれ無く自然行われざる次第に至らば、
その節は一死殉国の心得を以て、
必死の覚悟を極め御同人御 駕籠
(かご)へ近寄り、
自己の建議押立て申すべしなど、

 

一旦存立て候段、国家の御為を存じ成し仕り候旨申立つるなれども、
公議を憚(はばか)らず不敬の至り、
殊に大体 蟄居(ちっきょ)中の身分梅田源二郎へ面会致す段 不届(ふとどき)に付き、
死罪申付ける。

 

   安政六未十月二十七日

 

と。 ここにおいて安政六年十月二十七日午前十時、劊手(かいしゅ)の手は、
この数奇にして冒険なる革命の大精神をば、
五尺の躯より脱して長天万里に飛揚せしめたり。

彼 豈(あ)にこれを知らざらんや。
彼れ曾(かつ)て歌いて曰く、

 

   かくすればかくなるものと知りながら 
     やむに止まれぬ大和魂

 

と。 彼れ実にこれを知れり。

 然れども知りて悔いざるは、
これ実に彼が維新革命の健児たる所以なり。


 
             「吉田松陰」民友社
                1893(明治26)年12月23日発行
             初出:「国民之友」 
                1892(明治25)年5月~9月


徳冨蘇峰『吉田松陰』 第十五 革命家としての松陰

2019-12-06 21:41:20 | 吉田松陰

      『吉田松陰』
          徳富蘇峰 


第十五 革命家としての松陰 

 

 松陰は死に向って奔(はし)れり、然れども吾人の観察は、
容易に彼を死の手に渡す能(あた)わず。

 局面打破は、彼が畢生(ひっせい)の経綸なりき、
果して然(しか)らば彼はこの経綸に孤負(こふ)せざる手腕と性行とを具有したるか。
手腕はイザ知らず、性行に到りては、優にこれを有す。
然り、彼は実に革命の健児なり。


 革命の大悲劇を演ずるには、三種の役者を要す、
序幕に来(きた)るは予言者なり、
本幕に来るは革命家なり、
最後の打出しに来るは、
建設的革命家なり。 

 而してこの種別よりすれば、吉田松陰は、実に第二種に属す。


 革命の予言者とは誰ぞ、宗教革命におけるイラスモス、
英国革命におけるミルトン、
仏国革命におけるモンテスキュー、ウォルテールの如きこれなり。

 彼らは手の人にあらず、眼の人なり、実行の人にあらず、理想の人なり。

 

 心怒りて目 閃(ひら)めき、情悲んで涙落つ、思うは則ち動くなり。
もしこの原則をして、社会の狂濤(きょうとう)たる革命に適用するを得ば、
心理的の革命、中に勃興して、事実的革命、外に発作するなり。

 而して二者の関係、電 僅(わず)かに閃(ひら)めけば、
雷 乍(たちま)ち轟くが如く、霎時(しょうじ)に并(あ)い発するあり。

 あるいは肥料を植物に施したるが如く、
その効験容易に察すべからざるものあり。
 惟(おも)うに革命の予言者なるものは、
則ちこの心理的革命の打撃者にして、
彼らが事実的革命における関係は、
取りも直さず、理想と事実との関係を以て説明するを得べし。

 あるいは彼らが骨冷かに肉 朽(く)ち、
世人(せじん)の一半は彼等が名を忘却したる時において、
始めて彼らの播(ま)きたる種子の収穫を見ることあり。
 あるいは革命の激流 一瀉(いっしゃ)千里、
彼らかえってその後に瞠若(どうじゃく)し、
空しく前世界の遺物たることあり。

かくの如く彼ら革命に先ち、あるいは革命と同時に、
またあるいはその中幕以後においては、
革命の長物(ちょうぶつ)たることありて、
時と所との長短遠近あるに係らず、その予言者たるの実を変ぜざるなり。

 何となれば彼らが天職は、荒雞(こうけい)の暁に先だちて暁を報ずる如く、
哀蝉(あいせん)の秋に先ちて秋を報ずるが如く、
進撃を促すの喇叭(らっぱ)の如く、
急行を催す鉄笛(てってき)の如く、時に先ちて時を報ずるにあればなり。

 

 もしそれ第二種のいわゆる革命家に到りては、
大いに趣きを殊(こと)にするものあり、
彼らは眼の人たるのみならず、手の人たるのみならず、
眼に見る所、直ちに手にも行うの人なり。

 時の緩急(かんきゅう)を料(はか)らず、事の難易を問わず、
理想を直ちに実行せんとするは、急進家なり、
而して革命家なるものは、それ急進家中の最急進家にあらずして何ぞや。

 

 彼らは余りに眼の人たるべからず、

何となれば識見透徹する時においては、
革命家の資格一半を消失すればなり。

 彼らは余りに手の人たるべからず、
何となれば巨手鋭腕、結構建設の異能を有する時においては、
また革命家の資格一半を消失すればなり。

 識見は人をして事の成敗、物の利害、事物自然の運行を悟らしむ。

 既にこれを悟らしむ、必らず避くるあり、もしくは待つあらしむ、
而して避くると待つとは、革命家の大敵なりと知らずや。

 栗の実りて自から殻を脱するの時あるを知らば、
また何ぞ手を刺されて自から殻を劈(さ)くを要せんや。

 豆の熟して自から莢(さや)を外るるを知らば、
また何ぞ手を労して自から莢を破るを要せんや。

 而して彼(か)の革命家なるものは、生栗の殻を劈(さ)くものにあらずや、
生豆の莢を破るものにあらずや。

 

 いわゆる第三種の建設的革命家が結構建設の手腕を要するは、
革命の七、八合目以後に在るなり。

 クロンウエルの如き、ナポレオンの如き、アレキザントル・ハミルトンの如き、
これみな撥乱(はつらん)反正(はんせい)の人にして、
唱難 鼓義(こぎ)の人にあらず。

 彼らは乱雑の外に秩序を見、
波瀾の外に順潮を見、
理想の外に実際を見、
黒雲の外に太陽を見るなり。

 彼らは行わるる事の外は行うを欲せず、
而して彼らの行う所、みな実際に行わるる事なり。

 彼らは決して塗墻(としょう)に馬を乗り懸くるが如き事を做(な)さず、
而してかくの如き事は、革命家の最も為さざるべからざる所なり。
 故に余り多くの識見と余り多くの手腕とは、共に革命家に不用なる、
否なむしろ有害なる資格なりとす。

 

 この観察にして果して大過なしとせば、
松陰の如きは、豈(あ)に誂向(あつらえむ)きの革命家にあらずや。
彼は眼の人として横井、佐久間に譲り、手の人として大久保、木戸に譲る。

 而して彼が維新革命史上、一頭地を抽(ぬき)んずる所以のものは、
要するに見る所直ちに行わんと欲するがためにあらずや。

 彼は冒険好奇の人なり、
その自から品題するや曰く、
「吾が性は迂疎(うそ)堅僻(けんぺき)にして、世事において通暁する所なし。
独り身を以て物に先んじ、以て艱を犯し険を冒(おか)すを知るのみ」と。

 

 また曰く、
「人の為す能(あた)わざる所を為し、
人の言う能わざる所を言うは、余を舎(お)きてその人無きなり。
これを舎(お)きて余が事無きなり」と。

 その亡邸、蹈海(とうかい)、要撃(ようげき)
その他一として彼が生活、この言を自証せざるはなし。

 彼は甚だ性急なり、幾分か独断的なり、彼は冷淡ならず、
彼は手を袖にして春風落花を詠ずるが如き、優長なる能(あた)わず。

 青山に対して時事を談ずるが如く、幽閑なる能(あた)わず。
感情中に溢れ、動物的元気外に漲(みなぎ)る。
彼はある場合においては、他人の喧嘩を買うを辞せず、
如何なる場合においても、自家の意を枉(ま)げ志を屈するが如きことなし。

 

 彼は世路(せいろ)の曲線的なるに関せず、
自から直線的に急歩 大蹈(たいとう)せり。
 彼は顛倒を辞せざるのみならず、かえって顛倒を一の快楽に加えたり。

 彼は自から愛惜せず、
彼は匹夫(ひっぷ)の為すべき刺客を以て自から任ぜしことあり。
 彼(か)の横井、佐久間、もしくは大久保、木戸の徒をしてこの際に処せしむ、
彼ら如何に迫切なる死地に陥るも、
(あ)に自から甘じて刺客列伝の材料とならんや。

 

 彼れ平生日本の国士を以て任ぜり、
而してその為す所かくの如く、為さんと欲する所かくの如し。
彼実に自から愛惜する所以を解せざるなり。
 
 彼は信念堅固、道心不抜なり。
彼 自から信ずる頗る厚く、自から為す所、言う所、
一として自から是認せざるはなく、
則ち自から反して縮(なおくんば千万人といえども、吾 往(ゆ)かんの気象なり。


彼は真理の存在を信ぜり、精神の不朽を信ぜり、天を信ぜり。

 その「身は家国に許し、死生は吾久しく斉(ひと)しうす」といい、
その「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」といい、

「我、今国のために死す、死すとも君親に背かず、
悠々たり天地の事、感賞は明神に在り」というが如き、
みな直覚的宗教心を顕彰するものにあらざるはなし。


 彼は誠実なり、恐るべきほど誠実なり、
「至誠にして動かざるは、古より未だこれ有らず」といい、
「天下は大物なり、一朝の奮激の能(よ)く動かす所に非ず、
それただ積誠これを動かし、
然る後動くこと有るのみ」というが如き、
その真気の惻々(そくそく)として人を動かすを知るべし。

 

 彼既にかくの如し、これ豈(あ)に天産的の革命家にあらずして何ぞや。
 軽浮(けいふ)にして慓悍(ひょうかん)なるもの、
慧猾(けいかつ)にして狡獪(こうかい)なるもの、
銭を愛するもの、
死を恐るるもの、
(はじ)を知らざるもの、
即ちハレール、セイーの徒の如きは、以て革命家の器械となるを得べし。

 然れどもその主動力たるものは、
一種宗教的 殉道者(じゅんどうしゃ)の大精神あるを要す。

然り、彼(か)の薄胆(はくたん)狂妄(きょうもう)なる
ロベスピールすらなお一片の殉道心(じゅんどうしん)を有したりしなり。

 

 然りといえども彼はこれら資格の外に、なお特別の本色を有す、
曰く、不穏の精神これなり。
パスカルいえるあり、
「もし人安んじて一室に静坐するを得ば、
世上(せじょう)禍害の大部は出(い)で来(きたらざるべし」と。


 而して松陰は自から安んじて一室に坐する能(あた)わざるなり。
 彼は治世の能臣たる能わず。
彼の性質として固(もと)より維新後に生存し得る能わず、
仮りに一の不思議力は、彼を明治年間に伴(ともな)い来ることありとするも、
彼は維新の元勲として、巨冠を戴き、長裾を曳き、
以て廟廊(びょうろう)の上に周旋(しゅうせん)する人にあらず。

 もし大胆に評せば、
彼はその性質において化学的激変を来さざる以上は、
自から殺すにあらざるよりは、
人より殺さるるの人たるなり。

 

 彼は静坐せねばならぬ獄中においてすら、無事なる能(あた)わず、
獄中の人を教化し、獄則を改良し、
あるいは獄卒、監守、典獄の類まで、
これを同化して自家の門弟たらしむるなり。

 その獄中より兄に与うる書中にも、
「獄中は多閑の地に候所、読書に取かかり候えば、
かえって多忙に苦しみ申し候」と。

 而してその無聊(ぶりょう)に堪えざるや、
書を獄外に飛して同志を鼓舞し、
あるいは金を父兄に募りて、獄中の仲間を饗応(きょうおう)し、
あるいは書を鈔(しょう)し、
あるいは文を草し、あるいは詩歌を詠じ、
そのいよいよ無聊(ぶりょう)に堪えざるや傭書檄を発し、
筆耕を以て多閑を消ぜんとするに至る。

 いわゆる「死 已(すで)に名無く生また懶(ものう)し、
英雄恨み有り蒼天に訴う」の如き、
また以て彼が懊悩(おうのう)の情を察するに足らん。

 看よ、生また懶(ものう)しの三字、
如何に多量の不穏なる精神を含むか。
吾人は嘗(かつ)て上野動物園鉄檻中の虎を見る毎に、
幾分か生また懶しの消息を諒するを得るなり。

 

 彼 自から記して曰く、
「前日、某氏の別筵(べつえん)に、
一老生、佯(いつわ)りて酔態を作(な)し、
抗然として坐客を品題して曰く、
某は十万石の侯なり、某は十五万石の侯なりと。

 各々低昂ありて、頭より尾に到る。
 最後に一寅次の名を拈出(ねんしゅつ)して曰く、
これ三千石を過ぐべからず、過ぐれは則ち叛かんと。
 ああ一老生及びその主とその賓と、
みな余が平生のいわゆる知己なり。

 老生は酔語し、主賓(しゅひん)は酔聴す、何ぞ道理有らん」と。
これ彼が満腔(まんこう)の不平を攄(の)べたるなり。

 

 然れども吾人を以てこれを見れば、
一老生の言、実に彼が急所を刺すものあるを覚う。
嘉永三年彼が二十一歳の時、九州漫遊の途に上るや、
熊本に行き横井小楠の塾を過(よ)ぐ。
門人彼が年少にして風采揚がらざるを見て、
彼を軽易(けいい)す。

 

 彼の去るや小楠門人に告げて曰く、
「もし彼をして一万石の城主たらしめば、
天下を顛覆せんものは、必らず他人ならず」と。

吾人は実にその言の確的なるを疑う能(あた)わず、
彼は如何なる場合においても、為すあるの人なり、
彼は如何なる場合においても、為さざる能わざるの人なり。

 彼の眼中成敗利鈍なし、利害得失なし、
ただ為すあるは、為さざるに優るの一念あるのみ。

 彼は無事を以て死よりも苦痛となせり、
彼の為すや止むを得ずして為すにあらず、自から喜んで為すなり。

 彼曰く
「人間僅か五十年、人生七十古来稀、
何か腹のいえるような事を遣(や)りて死なねば、
成仏(じょうぶつ)は出来ぬぞ」と。
 これ実に彼が最後の白状なり。

 

 維新革命史中において、建設的革命家たる標式は、
独り島津斉彬においてこれを見る。

 勝海舟彼を評して曰く、

「天資温和、容貌整秀、以て親しむべく、
その威望 凜乎(りんこ)犯すべからず。
 度量遠大、執一の見なく、殆んど一世を籠罩(ろうとう)するの概あり」と。

 彼が水戸に処し、徳川氏に処し、朝廷に処し、浮浪に処し、幕吏に処し、
鎖港開国に処し、公武合体に処するを見るに、
百難を排して一世を平かにし、
千紛を除いて大計を定むるの雅量ありしが如し。

 

 然れども天年を仮さず、
空しく一方においては調和 塩梅(あんばい)の勝海舟、
他方においては善断の南洲、
剛厳の大久保らをして、僅かにその後を善くせしむるに到る。

 而して彼の松陰が一方において横井たり佐久間たる能(あたわざると同時に、
他方において大久保たり勝たる能わざるは、
則ち松陰の松陰たる所以にあらずや。

 

           「吉田松陰」民友社
              1893(明治26)年12月23日発行

           初出:「国民之友」
              1892(明治25)年5月~9月


徳冨蘇峰『吉田松陰』 第十四 打撃的運動

2019-12-01 22:23:42 | 吉田松陰

       『吉田松陰』 
        徳富蘇峰 

 

第十四 打撃的運動   

 

 彼の頭脳は、時勢と共に廻転を始めたり、
而して時勢に先(さきだ)って奔(はし)れり。
 彼は最初よりの顛覆(てんぷく)党にあらざりき、
然れども一たび顛覆党となるや、その急先鋒となれり。

 彼が攘夷尊王の大義も、その実行的経綸に到りては、
局面を打破するの一事に集注し来れり。
 破壊的作用、これもまた時に取りては、革新の絶好手段なるを知らずや。

 舞台には役者を要し、土豚(どひょう)には力士を要す。
 土豚に役者の不恰当(ふこうとう)なるは、なお力士の舞台に不恰当なるが如し。

 カヴル経国 済世の建設的偉図も、
あるいはマジニー一片の革命的 檄文に如かざるものあり。

 東湖の手腕用ゆる所なく、
佐久間の経綸施す所なく、
小楠の活眼行う所なく、
智勇 交(こもご)も困(くるし)むの極所に際し、
かえって暴虎 馮河、死して悔なき破壊的作用のために、
天荒を破りて革新の明光を捧げ来るものあり。

 その人は誰ぞ、踏海(とうかい)の失敗者、野山の囚奴(しゅうど)
松下村塾の餓鬼大将、贈正四位、松陰神社、吉田松陰なり。


 安政五年十月、彼轟武兵衛に書を与えて曰く、

 

 僕の屑見(せっけん)、誠に謂(おも)えらく、観望持重は、
今の正義の人、比々(ひひ)としてみな然り、これ最大の下策と為す。
何ぞ軽快拙速、局面を打破し、
然る後 徐(おもむろ)に地を占め石を布(し)くの、
勝れりと為すに如(しか)んや。

 

 

 「局面打破」これ彼が当世における主一の経綸のみ。
彼はさらにその後善策の如何に頓着せざりしなり、
否な、彼は胸中後善策を容るるの余裕あらざりしなり。
彼は思いしなるべし、雪消えて草木 自から生長すと。

 彼は檻中(かんちゅう)の虎なり、その夢は荒山、
莽野(もうや)の中に馳騁(ちてい)すといえども、身は自由ならず。
(すなわ)ち自由ならずといえども、なおその志を行わんとせり、
彼は蟄居(ちっきょ)中なるに係らず、
なお長防革命的運動の指揮官たりしなり。

 彼はしばしば京師に献言せり、彼は萩藩府に勧告せり、
彼は孝明天皇に向って後醍醐たらんことを希い、
藩主に向って義貞、正成たらんことを望めり。

 彼は慓悍(ひょうかん)の公卿 大原重徳を慫慂(しょうよう)して、
長州に下向せしめんとせり。
 その意大原を以て藩主を要し、藩論を一定し、
以て勤王軍の首唱たらしむるにありし。


その書中の一節に曰く、
 

 万々(ばんばん)失策に出で候て、私共同志の者ばかり募り候も、
三十人、五十人は得べくに付き、これを率いて天下を横行し、
奸賊(かんぞく)の頭二ツ三ツも獲候上にて、戦死 仕(つかまつ)り候も、
勤王の先鞭にて、天下の首唱には相成り申すべく、私義 本望これに過ぎず候。

 

 

 彼がこの言は、空言にあらず、
彼がこの書を草したるは安政五年九月二十八日にして、
その間部詮勝(まなべあきかつ)要撃のため、同志を糾合(きゅうごう)し、
京に入らんとし、その父、叔父、兄に向って訣別の書を作りしは、同十一月六日なり。

 そもそも彼は何が故に自から間部詮勝の刺客とまでにはなりしか、
彼が訣別書は、これを説明して余りあるべし。

 

 頑児 矩方、泣血再拝して、家厳君、玉叔父、家大兄の膝下(しっか)に白(もう)す。
 矩方 稟性
(ひんせい)虚弱にして、嬰孩(えいがい)より以来(このかた)、
(しき)りに篤疾(とくしつ)に罹(かか)る。而れども不幸にして遂に病に死せざりき。
 制行狂暴にして、弱冠より而還
(このかた)、しばしば重典を犯す。
而れども不幸にして遂に法に死せざりき。

 二十九年間を回顧すれば、当
(まさ)に死すべきもの極めて多し。
今に迄
(いた)りて死せず、復(ま)た父兄今日の累を致す、不幸の罪、
何を以てかこれに尚
(くわ)えん。
 然れども今日の事は、皇家の存亡に関わり、吾が公の栄辱に係わる、
万々
(ばんばん)休すべからず。

 古人のいわゆる忠孝両全ならずとは、この類
(たぐい)これなり。

 

 天下の勢、滔々(とうとう)として日に降り、以て今に至る。
 その由、蓋(けだ)し一日に非(あら)ざるなり。
 且(しばら)く近きを以てこれを言わん。
 墨使(ぼくし)、幕府に入り、仮条約を上(たてまつ)る。
 天子これを聞き、勅を下してこれを停(とど)む。
 幕府 遵(したが)わず、仮を定めて真と為す。

 列侯の議、士民の論、一も幕府に容れられず。
 天子また勅を下し、三家、大老を召す。
 大老は至らず、三家は則ち幕責を蒙る。
 幕府 反(かえ)って間部侯をして上京せしむるも、病を称して朝せず。
 偽言反覆す。

 謂(おもえ)らく、水戸と堀田と西城の議合す、
故を以て阿附(あふ)朋比(ほうひ)し、遂に違勅の挙を為す、
水戸、堀田を斬らずんば、夷事 (おさ
むべからざるなりと。 

 

 当今、幕府は幼冲(ようちゅう)にして、弁識する所なし。
大老これを上に主(つかさ)どり、間部これを下に輔(たす)くるに非ざるよりは、
天下の事、安(いずく)んぞここに至らんや。

 然れば則ち二人の者の罪、上は天子の明勅に違い、
下は幕府の大義を害(そこ)ない、
内は列侯士民の望に背き、外は虎狼(ころう)渓壑(けいがく)の欲を飽(あ)かしむ。
極天窮地、俯仰(ふぎょう)容るるなし。

 然り而して天下の士夫は安然黙然として、一m砲一艦の往きてその罪を問うなし。
神州の正気、既に已(すで)に邪気の消蝕する所と為るか。
 頑児の一念、ここに至りて、食 咽(のど)を下らず、寝 蓐(しとね)に安んぜず、
ただ一死の蚤(はや)からざるを悲しむのみ。

 

 頃(このこ)ろ忽(たちま)ち江戸の報を得るに、
尾、水、越、薩、将(まさ)に襲いて彦根の大老を誅せんとすと。

 頑児これを聞き、跳躍すること三百、
 曰(いわ)く、
「神州の正気、遂に消蝕せざるなり、政府の議、固(もと)より当(まさ)に四家を合従し、
邪気を鎮圧すべきなり」と。
 然れども児なお憾(うらみ)あり。事、四家に出づ。
(われ)人に因(よ)りて功を成すは、公等 碌々(ろくろく)の数を免れざるなり。

 ここを以て児、私(ひそ)かに自ら量らず、同志を糾合し、
神速に上京し、間部の首を獲て、これを竿頭に貫き、
上は以て吾が公勤王の衷を表わし、かつ江家名門の声を振い、
下は以て天下士民の公憤を発し、旗を挙げ闕(けつ)に趨(はし)るの首魁と為らんとす。
かくの如くにして死せば、死もなお生の如きなり。

 

 然(しか)れども事は固より私に為すべからず、而もまた敢て公に請わず。
 超の貫高のいわゆる、
「事成らば王に帰し、成らざれば独り身(み)坐せんのみ」。

 これ児らの志なり。ここを以て児ら、将(まさ)に某日を以て同志と偕(とも)に、
益田 行相(こうしょう)の門に詣(いた)り、故を告げて発せんとす。
 敢て許允(きょいん)を求めず、政府待つに逋亡(ほぼう)を以てするも可なり。

 事 捷(か)たば則ち師旅 当(まさ)に継ぎて進むべく、
不幸にして捷たざれば、他人あるいは死するも、
児は則ち身を投じて捕に就(つ)き、志士憤懣の発する所は、
決して公家の知る所に非ざるを明らかにせん。


 頑児虚弱にして狂暴、本より人の数の中に在らざるも、
天下 反(かえ)って虚名を謬聴し、認めて豪傑と為す者有り。
 向(さき)に愚論数道を以て、これを梁川緯に致せしに、
緯、窃(ひそか)に上(かみ)青雲の上を涜(けが)す。

 蓋(けだ)し乙夜(いつや)の覧を経るという。

一介の草莽(そうもう)、区々たる姓名にして、
聖天子の垂知を蒙るは、何の栄かこれに加えん。

児の死する、何ぞ晩(おそ)きや。

 近日、正三位源公、七生滅賊の四大字を以て賜わり、
かつその世子の詩数章を伝え、高徳(たかのり)を望み、
博浪の鉄椎を望む、その意甚だ切なり。
児 豈(あ)に死せざるべけんや。

 

 不孝の子は、ただ慈父これを愍(あわれ)み、
不弟の弟は、ただ友兄これを恕(ゆる)す。

 定省(ていせい)怡々(いい)、復(ま)た膝下(しっか)の歓を罄(つく)す能(あた)わず。
願わくば、愛を割き友を抑え、児を以て死すること已(すで)に久しと為し、
尋常の親肢、身体 髪膚(はっぷ)、併せて以て賜わらんことを。

 頑児の願いは、何を以てかこれに加えんや。
 泣血 漣々(れんれん)として、思う所を竭(つく)す能(あた)わざるなり。
 頑児矩方、泣血拝白。

 

 則ち知る、その近因は水戸、尾張、越前、薩摩の諸藩士、
江戸において、井伊直弼を襲殺せんとするの風説を聞き、
むしろこの機に乗じて、井伊と同謀同罪なる間部詮勝を京都に要撃し、
以て局面打破の先着を占めんと欲したるのみ。

 これ即ち松下村塾血誓書の出
(い)で来りたる所以なり。

 彼が心事は、またこの挙において齟齬(そご)せり。


 当時長州において藩政の枢機を掌(つかさど)る、
周布(すふ)政之助、長井雅楽の徒、松陰が才を愛せざるにあらず、
また彼が心事を諒せざるにあらずといえども、
彼が打撃的運動を以て、一藩の大事を破るものとなし、
陽に陰にこれを沮(はば)めり。


 彼が公然なる脱走をなして間部の首を竿頭に貫き、
天下に義を唱えんがため、京都に赴かんとするや、
周布彼に告げて曰く、
「勤王の事、藩政府既に成算あり、書生の妄動を費す勿(なか)れ、
妄動 止(や)まずんば獄に投ぜんのみ」と。

 而して周布の力は彼が行をして十二月 晦日まで延期せしめたり。
 而してこの延期中には如何なる変化をば彼が身に及ぼせしか。

 

 過激の罪は十一月二十九日、彼をして再び家に厳囚せしめたり。
 而して同十二月五日、藩政府はさらにその父杉百合之助に向って、
その投獄の命を伝えしめたり、
曰く、「お聞込みの趣きこれ有り、最前の通り、
借牢の儀願い出で候よう内移(ないい)仰せ付けられ候」と。

 聞込みの筋とは何ぞ。
血気の先生は、怒髪天を衝けり、血気の門人は激昂して、
藩政の当途者に迫り、その罪名を質(ただ)さんとせり。

 またこれ一種の保安条例のみ。
 当時参政周布政之助の家に押し懸け、その病を以て辞し、事を以て辞し、
不在を以て辞するに関せず、憤然として坐に上り、
火鉢を呼び、燈檠(とうけい)を呼び、
雪中松柏を高吟し、男児死すのみを激誦し、
その家人を驚かし、その四隣を惧(おそ)れしめたる、
子爵品川弥次郎の徒をして、回想せしめば、
(まこと)に今昔の感に堪えざるものあらん。

 

 彼らが罪名を質(ただ)して、その要領を得ざりしは、
また宜(うべ)ならずや、何となれば原来罪名の指定すべきものなきを以てなり。
 もし強いて罪名を付せんとせば、過激罪というの外なけん。
 而して過激罪とは、果して当時の人心を慊(あ)き足らしむべき罪名なるか。
 長州の地盤は、尊王攘夷を以て固められたり。

 松陰の打撃的運動、過激は則ち過激に相違なし、
然れどもこれ裏面の沙汰のみ。
 尊王攘夷の大趣意において豈(あ)に間然する所あらんや。

 その表面よりすれば言正しく名(な)(したが)い、
その裏面よりすれば、禍 未測に陥らんとす。

 周布一派の老練家が委曲 周旋(しゅうせん)
またその微衷(びちゅう)を諒すべきものあり。

 

 概論すれば彼が再度の投獄は、周布、長井等との衝突といわんより、
むしろ彌縫(びほう)的改革主義と、
打破的革命主義との衝突より来りし結果といわざるべからず。

 而してこの葛藤は各その極端に奔(はし)り、
一方においては久坂、高杉の攘夷倒幕となり、
他方においては長井の開港論、公武合体の周旋(しゅうせん)となり、
而して周布、来原の徒は、その心事時務と違い、
慚恚(ざんい)以て屠腹(とふく)して死するに到り、
延いて戊辰に及ぶまで、長州において一低一昂したるに係らず、
遂に打破的革命派の全勝を以て局を結べり。

 而してその局勢を養うてここに到らしめたるもの、
(もと)より松陰首唱の力に帰せざる能(あた)わず。

 

 彼は獄に投ぜられたり、彼は再び松下村塾の獅子たる能わざるなり。
彼の束縛せられたる自由は、今一層束縛せられたり。
 水 蹙(せま)れば魚いよいよ躍る、
彼は革命の精神に鼓動せられて、自から裁する所以を知らず。

 その獄中において安政六の新年を迎うるや、口占して曰く、

 

   花や鳥いまをさかりの春の野に 
     遊ばで猶(なお)もいつかまつべき

 

 然れども成すべき手段なし、則ちなしといえども、
彼が成さんと欲する心は、耿々
(こうこう)として須臾(しゅゆ)も熄(や)まず。
 彼が新年の賀状を兄に送るや、乍
(たちま)ちその本色を顕わして曰く、
「一度
(ひとたび)血を見申さざる内は、
所詮 忠義の人も著
(あらわ)れ申さぬかと存じ奉り候」と。

 当時天下の識者、各藩の謀臣等が焦心する所、
一に血を見るなからんことに在り、
 而して彼独り血を見んと欲す。

 而してこれを以て自から擬し、
これを以て人に擬す。人その擬する所とならざるや、
彼は全幅の憤怒を挙て、これに加えずんば休)まず。

 試みに彼が当時の文稿を閲
(けみ)せよ、
その交友中、何人か彼の怒鋒
(どほう)
罵刃
(ばじん)に触れざるものあるか。

 独り周布、長井の徒のみならず、松下村塾の徒といえどもまた然り、
間部要撃血誓の同志者もまた然り、
彼が投獄の際において、その罪名を当局者に質
(ただ)さんがため奔走し、
暴徒の名によりて拘禁せられたるものもまた然り。これその故何ぞ。

 彼が日一日にその血を見んとするに急なるを知るべし。

 彼が投獄中の経綸は多端なりといえども、
その要、藩主の参府を止むると、
要駕策とに過ぎず。

 

 梅田源次郎の徒大高、平島なる者萩に来り、
藩政府に向い議する所あらんと欲して得ず。

 彼ら颺言(ようげん)して曰く、
「止むなくんば同志三十余人を糾合し、毛利家参府の駕を伏見に要し、
三条、大原の諸公卿と周旋し、京師に入りて事を謀(はか)らん」と。
 松陰これを聞き、藩政府に向って能(よ)くこれを遇し、
共に事を謀らんことを勧む、顧みられず。

 而して共に伏見に走り要駕の挙に与(くみ)せしむ、諸友みな聞かず。
独り入江杉蔵憤然として起つ。松陰 踴躍(ゆうやく)して曰く、
「防長 絶えて真尊攘の人なし、吾といえども復(ま)た尊攘を言うを得ず、
然らば則ち防長の真尊攘者、ただ汝一人のみ、切に自から軽んずる勿(なか)れ」。

 また曰く、「伏見の事万一 蹶(つまず)かば嘯聚(しょうしゅ)賊となれ、
頼政の事汝 固(もと)より自から任ぜざるべからず」。
ここにおいては彼は破壊的本領を示して曰く、

 

 

 今の世界は老屋(ろうおく)頽厦(たいか)の如し。
これ人々の見る所なり。

吾れ謂(おも)えらく、大風一たび興って、それをして転覆せしめ、
然る後 朽楹(きゅうえい)を代え敗椽(はいてん)を棄て、
新材を雑(まじ)えてこれを再造せば、乃(すなわ)ち美観と為らんと。

 諸友はその老かつ頽なるものに就(つ)き、
一 楹(えい)一 椽(てん)を抜きてこれに代え、以て数月の風雨を支えんと欲す。
これ吾を視て異端怪物と為して、これを疎外する所以なり。

 汝に非ずして安(いずく)んぞ吾が心を知らんや。

 

 

 これ実に彼が福音なり、
而して入江はその母の養うなきを見て、棄て去るに忍びず、
その弟野村和作をして代り走らしめ、
而して野村もまた藩政府の追蹤する所となり、獄に投ぜられたり。

 いわゆる松陰が、
「国に酬ゆる精忠十八歳、家を毀(こぼ)つ貧士二十金」の一聯はこの事を指すなり。
ここにおいて要駕策また齟齬(そご)せり。

 

 百事齟齬す、正にこれ死して益なく、生もまた懶(ものう)きの苦境に迫る。
ここにおいて五月六日庸書檄を作り、筆耕以て無聊(ぶりょう)を消ぜんとす、
これもまた獅子 毬(まり)なるかな。

 然れども命運の鬼は、彼をしてここに安(やす)んずるを許さず、
井伊、間部の共謀に出でたる大獄は、瓜蔓葛藟(かまんかつるい)以て松陰に及び、
安政六年五月十四日その兄の口より、
檻車(かんしゃ)江戸に護送せらるることを聞かざるべからざるに到れり。

 彼は自からその所以を知らず、
然れども一の大なる力に駆られて、歩一歩血を見るに近づき進めり。

 

                              「吉田松陰」民友社 
             1893(明治26)年12月23日発行 
           初出:「国民之友」  
                       1892(明治25)年5月~9月


徳冨蘇峰『吉田松陰』 第十三 松下村塾

2019-11-28 22:05:09 | 吉田松陰

          『吉田松陰』 
           徳富蘇峰 


第十三 松下村塾    
 

 彼は天成の鼓吹者なり、感激者なり。
踏海(とうかい)の策敗れて下田の獄に繋がるるや、
獄卒(ごくそつ)に説くに、自国を尊び、外国を卑み、
綱常(こうじょう)を重んじ、彝倫(いりん)を叙(つい)ずべきを以てし、
狼の目より涙を流さしめたり。

その下田より檻輿(かんよ)江戸に赴(おもむ)き、
(みち)三島を経るや、警護のに向い、大義を説き、
人獣相距る遠からざる彼らをして憤励の気、
色に見(あら)われしめたり。

 その江戸の獄に在るやいうまでもなく、送られて長門野山の獄に投ぜらるるや、
その感化は、同囚者に及び、獄卒に及び、
遂にその司獄者までも、彼が門人となるに至らしめたり。

 彼が在る所、四囲みな彼が如き人を生ず、これ何に由りて然るか、
薔薇(ばら)の在る所、土もまた香(かんば)しというに非ずや。

 而して彼が最もその鼓吹者たり、
感激者たるの特質を顕わしたるは、松下村塾においてこれを見る。

 

 松下村塾は、徳川政府 顛覆(てんぷく)の卵を孵化(ふか)したる保育場の一なり。
維新革命の天火を燃したる聖壇の一なり。笑う勿(なか)れ、
その火、燐よりも微に、その卵、豆よりも小なりしと。
 赤馬関(あかまがせき)の砲台は粉にすべし、奇兵隊の名は滅すべし。
然れども松下村塾に到りては、独り当時における偉大の結果のみならず、
流風 遺韵(いいん)、今に迨(およ)んでなお人をして欽仰(きんぎょう)嘆美の情、
禁ずる能(あた)わざらしむるものあり。

 これ何に由りて然るか。
彼が門下の一人なる伊藤博文はいわずや、
「如今 廟廊(びょうろう)棟梁の器、多くはこれ松門に教えを受けし人」と。
一半の真理は、この句中に存す。

 

 彼は安政二年十二月、野山の獄より出でて家に蟄居(ちっきょ)せしめられたり。
而してその安政三年七月に至っては、蟄居中さらに家学を授くるの許を得たり。
その名義とする所は、山鹿流軍学なりといえども、その実は然らず。
彼は兵法家にあらず、彼は革命家なり、
その教る所革命の精神なり、その講ずる所革命の業なり。

 

 松下村塾の名は、その内叔(ないしゅく)玉木、外叔久保らが相接して用いたる村学にして、
松陰これを襲用したりといえども、
吾人がいわゆる松下村塾に到りては、松陰を推して、
その開山とせざるべからざるものあり。

(けだ)し松陰が、自ら松下村塾に直接の関係を有したるは、
僅かに安政三年の七月より、安政五年の十二月までにして、即ちその歳月は、二年半に過ぎず。
 而してこの二年半の歳月が、未来における日本の歴史に、
千波万濤の起激点となりたるは、何ぞや。

 彼れ何を以てかくの如き大感化を及ぼしたるか。
曰く、その人に在り。曰く、その時勢に在り。
曰く、その教育の目的に在り。曰く、その教育の方法に在り。

 

 彼は、精を窮め、微に入り、面に脺れ、背盎にき白鹿洞(はくろくどう)の先生に非ず。
彼は、宇宙を呑み、幽明を窮むる橄欖(かんらん)林の夫子(ふうし)に非ず。
彼は学 未だ深からず、歳 末だ高からず、
齢 未だ熟せず、経験 未だ多からず、
要するにこれ白面の中書生(老書生といわず)のみ。

而して彼が力よりも多くの感化を及ぼし、
彼が人物と匹敵する、ある点においては、むしろ彼より優れる弟子を出したるは何ぞ。
「感は知己に在り」の一句これを説明して余りあるべし。

 

 彼は造化児の手に成りたる精神的爆裂弾なり。
一たび物に触着すれば、轟然として火星を飛ばす。
この時においては物もまた砕け、彼もまた砕く。
彼の全体は燃質にして組織せられたり、火気に接すれば乍(たちま)ち焰となる、
その焰となるや鉄も鎔(とか)すなり、金も鎔すなり、石も鎔すなり、瓦も鎔すなり。
彼の人に接するや全心を挙げて接す、彼の人を愛するや全力を挙げて愛す。
彼は往々インスピレーションのために、精神的高潮に上る。
而してこれを以て他に接し、他を導いてこの高潮に達せしむ。

知るべし、彼が教育の道 多子(たし)なし、ただ己が其骨頭、大本領を攄(の)べて、
以てこれを他に及ぼすのみなるを。


彼れ「松下村塾の記」を作りて曰く、

 

 そもそも人の最も重んずる所のものは、君臣の義なり。
国の最も大なりとする所のものは、華夷
(かい)の弁なり。
今、天下は如何なる時ぞや。
君臣の義、講ぜざること六百余年、近時に至りて華夷の弁を并せて、またこれを失う。
然り而うして天下の人、まさに安然として計を得たりと為す。
神州の地に生れ、皇朝の恩を蒙
(こうむ)り、内は君臣の義を失い、
外は華夷の弁を遺
(わす)れば、学の学たる所以、人の人たる所以、それ安(いず)くに在りや。

 

 則ち知る、華夷の弁は攘夷にして、君臣の義、尊王なるを。
而してさらに、彼が金誡
(きんかい)たる「士規七則」に就いて見よ。

 

一、およそ生れて人たらば、宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし。
(けだ)し人には五倫あり、而うして君臣、父子を最も大なりと為す。
故に人の人たる所以は、忠孝を本と為す。

一、およそ皇国に生れては、宜しく吾が宇内(うだい)に尊き所以を知るべし。
(けだ)し皇朝は万世一統にして、邦国の士夫は禄位を世襲し、
人君は民を養い以て祖業を続
(つ)ぎ、臣民は君に忠にして以て父志を継ぐ。
君臣一体、忠孝一致、ただ吾が国のみ然りと為す。

 

一、士の道は義より大なるは莫(な)し。
義は勇に因りて行なわれ、勇は義に因りて長ず。

 

一、士の行いは、質実にして欺かざるを以て要と為し、
巧詐にして過を文(かざ)るを以て恥と為す。
光明正大、みなこれより出づ。

 

一、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせざれば、則ち鄙夫(ひふ)のみ。
書を読み友を尚(たっ)とぶは君子の事なり。

 

一、徳を成し材を達するに、師恩、友益は多きに居(お)る。
故に君子は交遊を慎しむ。

 

一、死して後 已(や)むの四字は、言簡にして義広し。
堅忍果決にして、確乎(かっこ)として抜くべからざるものは、これを舎(お)きて術なきなり。

 

 これ則ち質実、義勇、斃(たお)れて已(や)むの真骨頭を以て、
尊王攘夷の大本領を発揮したるものといわざるべからず。
彼これを以て自ら感激す、彼これを以て自ら鼓舞す、その一呼虎 嘯
(うそぶ)き、
一吸竜躍るものまた故なしとせんや。

 

 怪しむ勿(なか)れ、彼が教育の主観的なるを。その順序なく、次第なく、
人に依りてその教を異にする無く、才に応じてその器を成す無く、
その接する所は、才も不才も、壮も幼も、智者も愚者も、
(ことごと)く己が欲する所を以てこれを人に施せしもののみ。

 思い切りていえば、己を以て人を強(し)いしのみ、
而して他をしてその強いらるるを覚えしめざるは、
彼が血性と献身的精神とによるのみ。

 

 怪しむ勿(なか)れ、彼が師を以て自から居(お)らざるを。
彼の眼中師弟なし、ただ朋友あり、これ一は彼が年歯なお壮なるがため、
一は学校といわんよりも同志者の結合というが如きためなるべしといえども、
また彼が天性然るべきものあり。

 滔々(とうとう)たる天下その師弟の間、厳として天地の如く、
その弟子は鞠躬(きくきゅう)として危座し、
先生は茵(しとね)に座し、見台(けんだい)に向い、昂然として講ず。

 その講ずる所の迂濶(うかつ)にして乾燥なるは固(もと)より、
二者の間において、情緒の感応し、同情の迸発(ほうはつ)する甚だ難し。
これを彼(か)の松陰が、上に立たずして傍に在り、
子弟に非ずしてむしろ朋友、朋友に非ずしてむしろ兄弟の情を以て相接したるに比す、
その教育の死活、論ぜずして可なり。

 試みに看よ、『幽室文稿』の巻頭に、「岡田耕作に示す」の一文あり、曰く、

 

 正月二日、岡田耕作至る。余、ために孟子を授け、
公孫丑
(こうそんちゅう)下篇を読み訖(おわ)んぬ。
村塾の第一義は、閭里(りょり)の礼俗を一洗し、
(ほこ)に枕し槊(ほこ)を横たうるの風を為すに在り。
ここを以て講習は除夕を徹し、未だ嘗
(かつ)て放学せざるなり。
何如ぞ、年一たび改まれば、士気 頓
(とみ)に弛(ゆる)める。
三元の日、来りて礼を修むる者はあれども、未だ来りて業を請う者を見ず。
今 墨
(ぼく)使は府に入り、義士は獄に下り、天下の事 迫(せま)れり。
何ぞ除新あらんや。然り而して松下の士、
なおみなかくの如くんば、何を以て天下に唱えん。
耕作の至れるは、適(たまた)ま群童の魁(さきがけ)を為す。
群童に魁たるは、乃
(すなわ)ち天下に魁たるの始めなり。
耕作、年 甫(はじめ)て十齢、厚く自ら激励すれば、その前途実に測るべけんや。

 

 これ豈(あ)に十歳の童子に向って告ぐるの言ならんや、
而して彼の眼中には、幾
(ほと)んど童子なし。
彼は十歳の少年をも、殆んど己と同地位に取扱えり。

その「群童に魁(さきがけ)たるは則ち天下に魁たる始めなり」という一句、
直ちに他の頭蓋を打ち勃々然
(ぼつぼつぜん)
その手の舞い足の踏む所を知らざらしむ。
彼また嘗
(かつ)て品川弥二郎に与うる書あり。

 

 弥二の才、得 易(や)すからず、年、穉(ち)なりといえども、
学、幼なりといえども、吾の相待つは、則ち長老に異ならざるなり。
何如ぞ契濶
(けいかつ)(すなわ)ち爾(しか)るや。

時勢は切迫せり、豈
(あ)に内に自ら惧(おそ)るるもの有るか、
そもそも已
(すで)に自ら立ち、吾の論において与(くみ)せざること有るか。
逸遊
(いつゆう)敖戯(ごうぎ)して学業を荒廃するは、
則ち弥二の才、決して然らざるなり。
説有らば則ち已
(や)む、説無くんば則ち来たれ。
三日を過ぎて来たらざれば、弥二は吾が友に非ざるなり。
去る者は追わず、吾が志、決せり。

 

 これ則ち十五、六歳の少年に告げたるなり、
その真率
(しんそつ)にして磊灑(らいしゃ)なる、
直ちに肺肝を覩(み)るが如し。
その他高杉に与うるの書、久坂に与うるの書の如き、
互に切磋
(せっさ)、砥厲(しれい)、感激、知己の意を寓するもの、一にして足らず。
顧うにその弟子が、彼が骨冷なる後に至るまで、
なお沸
(なみだ)を垂れて松陰先生を説くもの、豈(あ)にその故なしと為(せ)んや。

 

 既に義勇節慨の真骨頭たり、
攘夷尊王の活題目たるを知らば、松下村塾のいわゆる教育なるものもまた知るべし。
教育とは何ぞ。
東坡(とうば)の「留侯論」中の語を仮(か)り来れば
「その意書に在らず」の一句にて足るべし。


 彼らが学問は、書物の上の学問に非ずして、実際の上の学問なり。
その活事実を捉え来りて直ちに学問の材料と為したるが如き、
時勢の然らしむる所とはいえ、その活ける精神を人に鼓吹したるもの、
豈に少しとせんや。
これを詳言すれば、堯舜三代というが如き縁遠き事に非ず、
いわば「米国より和親を申込めり、これは如何に為すべきか」、
「攘夷の大詔 煥発(かんぱつ)せり、これを奉戴して運動するには、
如何なる事を為すべきか」というが如き事にして、その学校たるや、
もしくは革命運動の本部たるや、学問たるや、運動の評議たるや、
殆んど区別する所なく、学問即ち事業、事業即ち学問にして、
坐して言うべく、起ちて行うべく、行うて敗るるもさらに意とする所なしというに止る。
然れば彼らが学問は、他日の用意に非ず、今日学ぶ所は、
即ち今日の事にして、今日これを行うを得べし、
また行わざるべからざるの責任を有するものにして、
これを譬(たと)えば、なお剣道の先生が、道場を戦陣の真中に開くが如く、
その勝負は、いわゆる真剣の勝負にして、勝つ者は活(い)き、負る者は死ぬるのみ、
その及第その落第、その試験の法、総てただ活劇の上に存す。

 彼らは如何にしてこの活学問を講じたるか。
吾人は彼が塾生に示す文を読む、

 

 村塾、礼法を寛略にし、規則を擺落(はいらく)するは、
以て禽獣 夷狄を学ぶに非ざるなり、以て老荘 竹林を慕うに非ざるなり。
ただ今の世の礼法は末造
(まつぞう)にして、流れて虚偽刻薄と為るを以て、
誠朴忠実、以てこれを矯揉せんと欲するのみ。

新塾の初めて設けらるるや、諸生みなこの道に率
(したが)い、
以て相い交わり、疾病
(しっぺい)艱難には相い扶持し、
力役事故には相い労役すること、
手足の如く然り、
骨肉の如く然り。
増塾の役、多く工匠を煩わさずして
、乃
(すなわ)ち能(よ)く成すこと有るは、職としてこれにこれ由る。

 

 二百年来、礼儀三千、威儀三百の中に圧束せられたる人心を提醒して、
この快活自由の天地に入らしむ。惟
(おも)うにその青年輩をして、
気達し、意昂り、砂漠の枯草が甘露に湿
(うるお)うて、
欣々然
(きんきんぜん)として暢茂(ちょうも)するの観を呈したるまた知るべし。

  また高杉晋作に与えたる書中に曰く、
 病肺の事最早昔話に御坐候。必ず御案じ下されまじく候えども、
甚だ壮なり。隔日『左伝』『八家』会読(かいどく)

勿論塾中常居、七ツ過ぎ会読終る。
それより畠または米 舂
(つ)き、在塾生とこれを同じうす。
米 舂
(つ)き大いにその妙を得、大抵両三人、
同じく上り、会読
(かいどく)しながらこれを舂(つ)き、
『史記』など二十四葉読む間に米 精
(しろ)げ畢(おわ)る、
また一快なり。(翁に話候えば評していわく、オカシイ事ばかりする男といった)。

 

 米を舂(つ)きながら会読(かいどく)するの先生あれば、
(ぬか)を篩(ふる)いながら講義を聞く生徒もあるべし。
 彼が他日再び野山の獄中に投ぜられたるの時において、
福原又四郎に書を与え、尊王攘夷の事を論じ、
諸友の因循
(いんじゅん)なるを尤(とが)め、
曰く、「彼らあるいはまた背き去るといえども、
(けだ)し村塾爐を囲み、徹宵の談を忘れざるべし」と。

 ああ寒爐火尽きて灰冷なるの処、霜雁月に叫んで人静なるの時、
三、五の青年相い団欒(だんらん)し、灰に画きて天下の経綸を講じ、
東方の白(しら)ぐるを知らざるが如き、
四十年後の今日において、なお人をして永懐堪うべからざらしむ。
いわんや時勢迫り、人物起ち、天下動かんとするの当時においてをや。


 彼は教育家としては、多くの欠点あるべし。
彼が主観的にして、客観的ならざる、彼が一角的にして多角的ならざる、
彼が情感に長じて、冷理に短なる、胸中今日多くして明日少なき、
これみな欠点の重(おも)なるものなるべし。

 彼は教育家としては実に性急の教育家なり。
何となれば、彼は卵を孵化し、これを養い、これを育て、
以て鶏と成さんとする者に非ず。
卵は卵の儘(まま)にてその功を為すべし、
(ひな)は雛の儘にてその功を為すべし、
時機に依れば、彼れ自ら卵を煮、
雛を燔(あぶ)るも、
以てさらに意と為(な)さざればなり。

 然(しか)れどもこれを以て、彼を残忍なりという莫(なか)れ。
彼が自(みずか)ら処するまたかくの如きのみ、彼は弾丸の如し、
ただ直進するのみ。彼は火薬の如し、
自から焚(や)いて而して物を焚く。
彼は毎(つね)に身を以て物に先んず。

 彼 嘗(かつ)てその門人の死生大悟を問うに、答えて曰く、

 

 死生の悟りが開けぬというは余り至愚故、詳(つまびら)かにいわん。
十七、八の死が惜しければ三十の死も惜しし、
八、九十、百になりてもこれで足りたということなし。
草虫、水虫の如く半年の命のものもあり、これ以て短とせず。
松柏の如く数百年の命のものあり、これ以て長とせず。
天地の悠久に比せば松柏も一時蠅なり。

 ただ伯夷などの如き人は、周より漢、唐、宋、明を経、清に至って未だ滅せず。
もし当時大公望の恩に感じて西山に餓死せずば、
百まで死せずも短命というべし。

何年限り生きたれば気が済むことか、前の目途でもあることか、
浦島、武内も今は死人なり。
人間僅か五十年、人生七十古来稀。
何か腹のいえるような事を遣
(や)りて死なねば成仏(じょうぶつ)は出来ぬぞ。
吾今よりは当世流の尊攘家へは一言も応答せぬが、
古人に対して少しも恥かしき事はない。

 足下輩もし胆あらば、古人へは恥かし。
今人はうるさし、この世に居て何を楽しむか。
さても凡夫の浅猿
(あさまし)さ、併(しか)し恥を知らずと、
「孔子いわく、志士仁人は身を殺して仁を為す有り」とか、
「孟子いわく、生を舎
(す)てて義を取る者なり」とかいいて、
見台
(けんだい)を叩いて大声する儒者もある。
そのうるさいを知らずに一生を送るものもある。
足下輩もその仲間なり。

 

 何んぞそれ厳冷酷烈なる。
これあたかも三百の痛棒を以て、他の頭脳を乱打するものにあらずや。
彼は如何なる場合においても、主観的なり。
怒るも、泣くも、笑うも、澄すも、
ただ己が全心を捧げて以て人に接するのみ。

 彼はまた野山の獄中より書を門人に与えて曰く、

 

 平時喋々たるは事に臨んで必ず唖、平時炎々たるは事に臨んで必ず滅す。
孟子の浩然の気、助長の害を論ずるを見るべし。
八十送行の日、諸友剣を抜く者有り、
また聞く、暢夫江戸に在りて犬を斬るの事あり。
これらの事にて諸友の気魄 衰萎
(すいい)の由を知るべし。
僕いま死生念頭全く絶ちぬ。
断頭場に登り候わば、血色敢て諸氏の下にあらず。
然れども平時は大抵用事の外一言せず、
一言するときは必ず温然和気婦人好女の如し。
これが気魄の源なり。
慎言謹行、卑言低声になくては大気魄は出るものに非ず。
張良 鉄椎
(てっつい)の時の面目を想見るべし。
僕去月二十五日より一 臠
(れん)の肉一滴の酒を給(た)べず。
これでさい気魄を増す事大なり。
僕 已
(すで)に諸友と絶ち、諸友また僕と絶つ。
然れども平生の友義のため、区々一言を発す。
これ僕が鑿空
(さくくの語に非ず。
実践の真また聖賢伝心の教なれば軽視する勿
(なか)れ。

 

 血気は尤(もっと)もこれ事を害(そこな)い、暴怒(ぼうど)またこれ事を害う。
血気暴怒を粉飾する、その害さらに甚し。

 

 中谷、久坂、高杉等へ伝え示したく候

 

 これ豈(あ)に煽動家の夢想する所ならんや。
彼は自から欺かざるのみならず、また人をも欺かざるなり。
彼は自家の胸中を吐くの外、他を勧化
(かんげ)するの術を知らざるなり。

而して前書においては、彼が死生大悟の功夫を知るべく、
後書においては、彼が存養、潜注の用意を察すべし。
吾人は彼が自から処する所以を視、人に処する所以を見れば、
他の自から水を飲み、人に酒を強い、他を酔倒せしめて、
自から快なりとする教唆
(きょうさ)的 慷慨(こうがい)家の甚だ賤(いやし)むべきを知るなり。
彼の人物は水戸派の志士に比して、高きこと一等なるやまた分明なり。

 

 彼が一生は、教唆者に非ず、率先者なり。夢想者に非ず、実行者なり。
彼は未だ嘗(かつ)て背後より人を煽動せず、彼は毎(つね)に前に立ってこれを麾(さしまね)けり。
彼はいわゆる己が欲する所を以て、これを人に施せしのみ。
もしくはこれを人に強いしのみ。

 

 彼は乱雑にして、少しく圧制なるペスタロジなり。
彼はある時は人を強ゆることあり、強いて聞かざれば、大いに怒ることあり。
然れども彼は実物教育の大主義を践行せり。
ただペスタロジに異なるは、一は天地万有を以て実物教育の資となし、
他は活世界の時事を以て実物教育の資と為したるのみ。
その嬰児(えいじ)の如き赤心を以て、その子弟を愛し、自から彼らの仲間となり、
彼らの中に住し、彼らの心の中に住するに到りては、二者 豈(あ)に軒輊(けんち)あらんや。

 

 彼は野心あり、修煉少く、霊想 未だ真醇(しんじゅん)ならず、
思慮浅薄なる保羅(パウロ)なり。
 彼の功名に急に事業に逼切なる、
而してその「不朽」の二字に手を打懸けたるに係(かかわ)らず、
未だ全くこれを攫(つか)む能(あた)わざるが如き、
而してその己れと異なりたるものを寛容するの雅量に乏しき、
真理を両端より察するの聡明なき、
人の師となるにおいて、大なる短所を有するに係らず、
その伝道心に到りては、この山を彼処(かしこ)に移す程の勢力ありしなり。

 彼は思うて言わざるなく、言うて服せざるなく、
服して共に行わざるなき勧化者(かんげしゃ)なり。
 彼の眼中には恒(つね)に一種の活題目あり、
これを以て自から処し、これを以て人に勧(すす)む。

その勧むるや、中心 止(や)まんと欲して止む能(あた)わざるなり。
 彼の狭隘(きょうあい)なる度量も、この時においては、俄然(がぜん)膨脹するを見る。
彼が眼中敵もなく、味方もなく、ただ彼が済度(さいど)すべき衆生(しゅじょう)あるのみ。
 彼をしてもし伝道師たらしめば、あるいはロヨラの後塵を拝せしならん、
あるいはザウイエルの下風に立ちしならん。
もしその修煉の功を積まば、あるいは雁行(がんこう)し、
あるいは連鑣れんひょう)先を争うも未(いま)だ知るべからず。


 彼は社会の寵孫(ちょうそん)にあらず、彼が子弟もまた然り。
 彼らはあたかも雪を踏んでアルプス嶺を攀(よじのぼ)る旅客の如し。
その隆凍、苦寒を凌(しの)がんためには、互に負載し、抱擁し、
自他の体温によりて、その呼吸を保たざるべからず。
艱難は同情を生じ、同情は恩愛を生ず、先生 前(さき)に斃(たお)れて弟子後に振う。

 彼は知己の感を以て、その子弟を陶冶せり、激励せり、
彼は活ける模範となりて、子弟に先ちて難に殉ぜり。
否な、子弟のために難に殉ぜり。
この時において懦夫(だふ)といえども、なお起つべし、
いわんや平生の素養あるものにおいてをや。
いわんや恩愛の情、知己の感あるものにおいてをや。
 彼はその子弟に向って我が如く做(な)せといえり。
而して做せり。彼ら豈(あ)に徒然(とぜん)として止(や)まんや。

 

 その時を以てすれば、二年半に満たず。
その所を以てすれば萩城の東郊にある、台所六畳、坐敷八畳の矮屋(わいおく)に過ぎず。
而して洪大尉が伏魔殿(ふくまでん)を発(あば)きて、一百八の妖星を走らしめたる如く、
ただこの中より無数の活劇、及び活劇をなせし大立者を出したる所以のもの、
(あ)にその由る所なくして然らんや。
世あるいは一人を以て興り、世あるいは一人を以て亡ぶ、
個人の社会に及ぶ勢力もまた軽視すべからざるものあり。 

        
          「吉田松陰」民友社 
             1893(明治26)年12月23日発行 
 
          初出:「国民之友」 
             1892(明治25)年5月~9月