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日本の心

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四王天延孝著『猶太思想及運動』第五篇 猶太の運動 第六章 猶太解放の三策(第一世界大戰の眞因との関係)

2025-04-13 13:47:34 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

 
    四王天延孝著『猶太思想及運動』
     第
5篇 猶太の運動



 第六章 猶太解放の三策
   (第一世界大戰の眞因との関係)


   露、墺、獨への集中
 ・・・・・政治法律の變化
 ・・・・・阿弗利加等に土地を獲得す
 ・・・・・パレスタインへの復歸
 ・・・・・ユダヤ過激勞働團隊たるブンドの創立 

〔露、墺、獨への集中〕
  ユダヤ人にして法律、経済學者なるアルツール・ルツピン博士は、
今世紀の始め1904年伯林から「現今のユダヤ種族」と題する一書を公にし、
大戦開始直前迄に数版を重ねた。

 博士はその第十七章に於いて
猶太種族の地方的獨立と題して
ユダヤ人集團生活を以て、他民族への同化防止を唱導した。

 之は學者的立場から温健な文筆で書かれてあって、
その實際に触れていない憾みはあり、且つ冗長の嫌いはあるが
現在の戰爭後に於けるユダヤ問題解決の参考になることであるから
先づ基礎としてその全文を載せ、然る後實現した事柄と對比して之を批判することにする。 
(早稲田大日本文明協會「現今の猶太種族」354ページ以下)

一、従来如何なる土地に於て猶太人が堅密なる集團を爲して最もよく生活し
且つ其の中に於て一の確實なる猶太の経済的生活を建設し得るかてふ問題に對し、
三の答解ありき。
 此等は皆生活意志の相異れる表明、
即ち諸國民中に於ける獨立の實體として猶太人を保有せんとする要望の表明にして、
それぞれ眞面日に議論すべき価値あり。

 第一の答解は、
猶太人をして東方欧羅巴に集中し、
以て國民的基礎の上に自己を組織せしむべしと云ふにあり。

 第二は、――イスラエル・サングウイルの解答――
欧羅巴人の未だ触れざる阿弗利加乃至亜米利加の或地域を可となす。

 第三の回答は――猶太民族主義者の解答――
パレスタインを以って猶太新生活の為の唯一の可能的中心なりと為す。 


二、東方欧羅巴集中の豫想
〔政治法律の變化〕

 第一の解答は最も手近なり。
東方欧羅巴の或地域に於て、猶太人に既に人口の約五分分の一を構成す。
他地方より此等の地方へ獵太人の更に多数に流入する事は大なる困難にあらざらん、
蓋し其の距離は僅少にして、
社會上及風土上の状態は彼等が既に慣熟せる所のものと頗る似たるを以てなり。
一般通用語はイディッシュ語にて足らん。
 然れども其所に或る極めて大なる故障あり。

 第一今日の露西亜法律は猶太人の諸村落に定住するを禁じ、
之が為め實際、農業の望みは消滅す。
而して政府は其の國にある一切の少数國民を撲滅せんとの政策を以て、
猶太人の總ての地方的獨立にも烈しく反對すべきは明らかなり。

 然れども、こは或は消滅することあるべし。
法律や政策は時の経過と共に變化す。

 斯くして是等の困難は,墺地利に於て猶太人の平等と一切少数國民の權利とが、
少くも法律上承認せらるるを以て、之を排除するを得べし。

 而も二箇の障碍は尚残す。

 農業への復歸は東方欧羅巴に於ては成功せざるべく、
又猶太生活の培養は不断の故障と紛擾とを受くるならん。

 東方欧羅巴は實業主義の中途にあり、實業的社會は猶太人に無数の機會を掲供す。 
されば假令農業の試圖が成功するも、
而も常に極めて軽微なる失敗の暗示ある場合にすら、
猶太人は其の新活動を捨て、再び商業或は實業に立歸るの危険あらん。

 二千年の都市生活の後、猶太人が俄に農業に親しむとは思はれざるなり。

 新猶太文化創造の場合も亦之と甚だ相似たり。
東欧羅巴には欧羅巴文化の廣大なる分野に近きに過ぐ。

 猶太人自身の文化を発展せしむるには
猶太人が小期間他の文化より離れて生活せざるを得ぎるべし。

 彼等が文化の優越せる國民の間に残留する限り免るるべき同化の潮流に對して、
専ら獨得の國體と文化とを固持すること能はざ
るべし。

 彼等は恒に其の周囲に見る所のものを摸倣するの誘惑に陥り、
斯くして彼等の文明は猶太的ならずして
波蘭、獨逸若しくは露西亜文化の劣等なる出版となるべし。

 

 實際東欧羅巴に猶太人の中心を求めんとする意見に賛成する人は少く、
猶太人の「國家的自治」、
即ち立法部に於て、一國民として法律上の地位を確立し
且その数に比例して其の自治權を更に大ならしめん
(地方的獨立を行はすして)と言ふもの甚だ多し。

 國家的自治權は
ガリツイーンとブコヴィナとに於いて國民的大望を有する猶太人の一の主要なる要求なり。

 然れども斯かる國家的自治權は、
今日墺太利及ガリツイーンに於けるが如く猶太人が散在し以て農業に親しまざる限り、
同化に對する永続的の防護となり
或は一箇の國民的猶太文化を創造するとは思は
れざるなり。

 されど同化の過程は、恐らく法律上に於て國民的地位を保證することに依り遅滞せしめられて、
従ってガルツイーンとプコヴィナに於いて
猶太民族主義(其の理想はパレスティナにあり)が地方の國民的自治の為め働くはふべからざるなり。


〔阿弗利加等に土地を獲得す〕

三、植民地に於る獨立の豫想(領地主義)東方欧羅巴の猶太人の中心は諸種の困難を以って覆はる。
 發達せざる植民地は猶太人の定住のためよりよき分野を提供するや。
此の點に於て英國政府は、唯一の具體的提案を為しウガンダ
 (註 アフリカ州ナイル川の上流)を猶太の植民地に提供せんとしたるも、
そは猶太民族主義により拒絶せられたり。

 イスラエル・ザングウイルはウガンダの提供を受容すべしと主張したるも其の効なく、
其の後自ら「領地主義者」運動の頭目となれり。

 領地主義はパレスティナは實際の望みなきを以て
猶太人は或他の地域に集中せざる可らずと主張り。
即ちそは北阿弗利加の未開地方又は豪州かの何れか或いは適當なる土地の發見に努力す。

 然れどもそれは何等擧示すべき一定のものを有せす。
此等の一箇の土地の為の故國を捨つべき猶太人が同化より庇護せられ
又将来彼等自身の文化を発展すべきは明白なり。

 然れども問題は斯かる國土に猶太團體を定住せしむることが可能なりや否やかにあり。

 こは頗る重大なる疑問なり。
第一歐羅巴猶太人の植民に適合させる一地區が甚だ容易に發見せらるべしとは極めて信じ難し。
即ちウガンダは確に大殖民地に適せざりき。

 然れども斯かる國土が假に存在をすとするも、
人烟希薄なる未開の國の植民は勢力ある國家すら尚屡々打勝ち難き大なる困難を提起す。

〔パレスタインへの復歸〕
 所謂領地主義者が斯かる土地を可とするは、
唯パレステイナより困難を少かるべしと考ふるが為にして
彼等は其の困難を餘りに軽視するの嫌いがあり。

 パレステイナは事實殖民地に於ては
存せざる政治的障磚を提起するやも計るべからず。

 然れども其の社會的及経済的困難は之に比して軽徴なり。
最も好都合なる事情の下に於ても
外國の一地域に、今日既にパレステイナに定住させるだけの猶太人を定住せしむるには数多の年月を要するならん。
 而して其の時まで恐らく斯かる事業の無益なりしこと分明し
而して今日一大規模に於けるパレステイナの猶太移民を妨ぐる政治上の困難は最早存せざるに至るべし。

 されど未開植民地にあらすしてメソポタミア或いは小亜細亜に猶太人を定住せしめんとする場合には、
之と稍趣を異にすべし、
此處にパレステイナに比してより大なる経済上の困難はなかるべきも、
猶太人が古き郷國に對して感ずる熱誠
又パレステイナ殖民上に極めて価値ある熱誠は勿論此の場合に存在せざるべし。

 然れども土耳古政府がパレスナテイナよりもメソポタミア
或いは小亜細亜の猶太殖民を欣ぶの風は毫も之は奇なり。
さればこれは論議の必要なし。


四 パレスチナに於ける獨立の豫想(猶太民族主義)領地主義者が第一の論拠とする所は
東歐猶太人間の窮状――そは假令漠然たるものなるにもせよ――は実に惨憺たるものあり、
若し之を改善せんとするものあらば直に賛助者を得べしと云ふにあり。

 猶太民族主義は斯かる冒険的計画よりも更に以上のものなりや。
東方歐羅巴と植民諸國とに於てに實行せざれざる様に見ゆるものは、
パレステイナに於いて果て可能なりや。
吾人は直に然りと答ふる能はず。


 然れども吾人は直に先に列擧したる困難の多くは
パレステイナが獨立の為の土地として提起せらるるや否や消滅し、
或は然らざる迄も威力を減少すると言ひ得るなり。
其の気候は健康に宜く、且つ歐羅巴猶太人の居住を許容す。

 パレステイナは十分に開化し
又近代生活と密接に交渉するを以て、
新未開國に於て遭遇する如き植民の困難より免るゝを得るなり。

 されど之と同時に、
そは猶太人が非猶太人と結合せんとするの意を起す程までには開化せず。

 その文化の點に於て猶太人に必要なる環境を正確に提供す、
即ちそは彼等を阻碍するまでには遅滞せす、
彼等を他に轉移せしむる迄には進まざるなり。
 
 パレステイナは土耳古――幾多の小國民より成れる一國に――属し
又同時に猶太人を常に他國民と同等なる國民として取扱ふ唯一の國家なり。
パレステイナは一の農業國にして
又今後幾百年間農業國たるを失はざるべし。

 是を以てそは或は商業的職業を可として農業を委棄するやう農業移民を誘惑することなし。
今日パレスチイナには略十萬の猶太人あり
而して其所に植民事業は最近30年の間行はる。

 此等事實の重要なることを言ひ盡すは不可能なり。
此くして猶太團體の勘定と情操とは
總ての他の國よりも更に密接に猶太の古代の故國たるパレステイナと結合せらるゝなり。

 吾人にして若し此の一切に加ふるに、
農業生活への復歸並びに希伯来語(ヘブライ語)の復興の爲め、
パレスティナが特に好都合なりとせる以上の記述を記憶せんには、
吾人は猶太團體の定住と彼等自身の文化發展の為め
パレステイナは他の一切諸國に優るてう結論に到建せざる可らず。

 パレステイナに猶太居住地を提議せし最初の猶太人は、
パレステイナが宗教的に歴史的に重要なりとの意識が
甚た多數の猶太中に覺醒せしめたる感情の力より發せるものにして、
實際的動機より出でたるに非す。

 彼等の感情の正當なることは證明せられ、
且そは本能の歴史に尚一箇の例を添加するものにして本能は理性に先んじ、
後に至り理性に依りて證明せらるゝものなり。

 

 若し歐羅巴の猶太人の一部にしてパレスナイナに歸るべしとせば、
吾人はかの2500年以前に行はれたりしシオンへの復歸を再び目標することゝならん。

 當時猶太人の一部はバビロン追放後パレステイナに歸来せるなり。
 
 其の時バビロンは――今日の歐羅巴の如く――文化の中心にして
又同化の暖床なき。
 今日の歐羅巴猶太人に於けるが如く、僅に少数者のみが安楽なるバビロン生活を棄てゝ、
荒蕪なるパレステイナに行かんと決心するを得たるのみ。

 然れども少数なる一握の猶太人は再び發育して一の國家となり、
能く獨得の文明を確立し得たるなり。

 此の思想は現今の猶太人を岐舞するならん、
而して吾人が最後の一章に於て猶太民族主義
――パレステイナに於ける猶太種族の國家的存鑟を目的とする運動――
を論する寔(まこと)に至當のことたるなり。

 右ルツピンの告白は如何にも含蓄あり、
難解に見えるが(譯が原文に忠実過ぐ)前世紀末葉に、
ユダヤの今世紀に行ふべき解放策三つを赤裸々に示したことゝ、
ユダヤ民族が他民族に同化するのを危險として、
どこ迄も彼等自らを差別して、
自らの力によって行かふと云ふ猶太國民運動、
即ち第四章に述べたシオン運動の精神を充分観取することか出来る。


 之丈では彼等が世界一般に發表しない本心が掴み得ないから、
他の幾多の斷片的に諸交獻よりの材料を綜合して解剖すれば、
ルツピンも書いて居る通り、
ロシアはユダヤ人に對して法律を以て諸村落への定住を禁じて居るのは事實であって、

  “ロシア政府は其の國にある一切の少數國民を撲滅せんとの政策を以て
   ユダヤ人の総ての地方的獨立にも烈しく反對すべきは明らかなり。
   然れどもこは或は消滅することあるべし、
   法や政策は時の経過と共に變化す“ 

 と書いてある所が最も注意を要する點である。

 

 第二論者のイスラエル・ザングウイルは後年アメリカ同族に檄を飛ばして、
やがてロンアを開化させ・・・・ドイツをもと叫んだことなどと對照して、
消減云々はロシアの革命を婉曲に豫告したものと見るべきである。』

〔ユダヤ過激勞働團隊たるブンドの創立〕 
 1897年11月には波蘭の都市ウイルナに
ユダヤ勞働團隊が組織され露墺獨方面の革命運動の基礎を造った。

 其の名はドイツ語で附けてアルゲマイナー・ユディッシャー・アルバイター・ブント・イン・ルツスランド・ボーレン・ウント・リタウエンと云ふのであるが、
餘り長いので略して第にブンドと云ふてゐた。

 之がルッピン博士の區別した第一論者の主張を貫く役目に當り、
第三論者のユダヤ國民主義者即ちシオスト運動に反對をした。


 先年ハルピンでブンドの檄文を手にしが此の傾向が明瞭になってゐた。
 
即ち今日の社會にプールジョアとプロレアタリアの二階級に區分することが出来る。
 而してユダヤ國を復興し政府を樹てようとするものは
貧民擁護の假面を被った資本家の手先である。(中略) 

 パレスタインにユダヤ國政府を建てんと割策する
ロイド・ジョージ、バルフォーア・ミルラン(註 前記元佛國大統領、本名カーンと呼ぶユダヤ人)等は
ユダヤ人を盲人と認めてゐるのであらう。

 ユダヤ人に須らく赤旗を押立てゝ、資本主義と戰はなければならない。
   (中略)  

 ユダヤ勞働者を擁護するものはブンド以外にはない。
彼のシオン團なるものは唯英國の利益を主眼として、
ユダヤ人の利益を無視し勞働者を奴隷視しつゝある。
吾人は飽く迄彼等を排斥しなければならぬ。
 

 この第一論者の道具立たるブンドは
革命皮立し目的を達した後は、ロシアではポルシェヴィキーに加
盟して仕舞ったが、
波関では勢力を特ち
又ルーマニア、リスアニア、英國及米國合衆國内にも分散たれた同志を有して居のである。
 (エンサイクロペジア・ジューイッシュ、ノーレツジ87頁参照) 

 

 第二論者のイスラエル・ザングウイルの提案に共鳴して、
ウガンダを英國からユダヤに渡そうとした人は、
時の外務大臣ジョゼフ・チエムバーレン氏である。
(皇紀2600年未死去したネヴィル・チエムバーレン氏の先代)

 この第二論者のウガング建国に反對し人々の嘲笑は如何にユダヤ人が士地を要するからとは申せ、
ヴィクトリア湖の周圍の山奥で綿の産地に過きない、
すぐ隣りには今だに人猿の中間に位するホッテンドット族の居住する山奥へ追ひ込まれてまで建國をするのは善くない、
こんなことでユダヤ解放が一進展したなどと、
気の緩るむ様なことがあったら却て弊害が多いと強硬な反對をした。
 
 第三論のパレスインを是非共復興したいと云ふのは、
同地が神様から必ず返してやると云ふことになってゐる所謂 “約束の士地”であるから
建国の土地は必ずパレスタインに限ると云ふことである。

 而して後章説くごとく、
第一世界大戦の第四年11月2日に
英國バルフォアーア外相の宣言によって、
第三論者の宿願は成就し、
五日経った11月7日にモスコーに共産革命が成立し
プンド派が盡力したユダヤ政府とも稱すべき勞農政權が確立した
のであった。

 之が如何なる経過を取ったかは、後章に述べる。
本章には
このユダヤ解放問題が
第一世界大戰の蔭にひそむ大きな目的物であったことの示唆を與へて置くに止める。


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