中国の日本人虐殺事件 通州事件 その2
証言
安藤証言
生存証言者であった同盟通信記者安藤利男は1937年10月、「虐殺の巷通州を脱出して」を日本外交協会で発表し、同年『通州兵変の真相』(森田書房)を刊行した。ただし、彼自身は7月29日処刑のために他の者多数と屋外に連れ出され、逃げろという他の女性からの掛け声で後も見ずにいっせいに逃げたため、脱出直後の証言では、安藤自身は数名の死体を見たというだけである。
戦後、東京裁判で旧軍人らによる通州事件における残虐行為の証言がなされた後のことであるが、安藤は1955年(昭和30年)『文藝春秋』に「通州の日本人大虐殺」と題して、彼自身の回想を発表した。
前日28日夕刻まで冀東政府の建物に出入りしていたが、ラジオは国民党軍の勝利を報じていたため、役人らは「合言葉は、『勝』といえば『利』だな」と語り合うなどざわめき立ち、何か起きそうな剣呑な雰囲気だったという(安藤の証言は、冀東政府の役人らも実際には日本側に相当な反感を抱いていたことを窺わせる)。
翌午前4時頃銃声が始まり、飛び起きたが、そのときはまだ保安隊の寝返りとは分からなかった。8時頃旅館のボーイが駆け込んで、特務機関のあたりで日本人が多数殺されているといったのが第一報だった。銃声が近づき、屋根裏に隠れ始めたが、じきに屋内でも銃声が響き、暴徒が殺害や略奪を始めていた。保安隊は最初は声を嗄らして制止していたが、発砲してまでは止めることなく、やがて保安隊も略奪を始め、彼らが去ると今度は殷女耕長官の衛兵ら(笠原は警衛大隊とする)が来て、家捜しされ、安藤らも発見された。結局、男6名ほどが麻縄で腕を数珠つなぎにされ、女性は後ろについて行く形で、保安隊に引き立てられた。
その際、旅館の女中ら3~4名の死体を見ている。はじめ、既に一群の日本人が集められていた政府建物の一角に連れ込まれ、後からやって来る日本人もいて、80~100名くらいになり、おそらくこれが一番大きな虐殺被害者の集団だったろうとしている。その後、北門近くの城壁内側の処刑場所まで連れて行かれたところで土壇場で脱出に成功した。
なお、戦前のものも含めて、安藤記者の回想談には、保安隊らから略奪はあったものの殊更な暴行や凌辱行為があったというものはない。
脱出後は、ときには出逢った中国人らに持ち物を投げ捨てて与えるかのようにして北京まで逃げている。
安藤は、反乱の原因を第一に保安隊への誤爆事件をあげ、少なくともこれが保安隊にふんぎりをつけさせたと見ている。また、日本に協力した冀東政府の殷女耕が最終的に国民党政府に親日のかどで処刑されたことに同情、また、通州事件も大きく見れば、当時の日本の中国側を思いやらない不明な政策と強硬方針が禍いしたものとしている。
村尾大尉夫人の証言
東京日日新聞は1937年7月31日付号外「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」との見出しで報道した。その中で冀東政府長官秘書孫錯夫人(日本人)と一緒に逃げた保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人の証言が紹介された。
保安隊が叛乱したので在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち29日の午前2時頃守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーツと近水楼や特務機関の前に殺到して来て十分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。近水楼の前は日本人の死体 が山のやうに転子がってゐます、子供を抱へた母が二人とも死んでゐるなど二た眼と見られない惨状でした、私達はこの時家にゐました、29日午前2時頃保安隊長の従卒が迎へに来たので洋服に着かえようとしたところその従卒がいきなり主人に向かってピストルを一発射ち主人は胸を押へ「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。
私は台所の方に出て行って隠れていると、従卒がそこらにあるものを片っ端から万年筆までとって表へ行きました、そのうちに外出してゐたうちのボーイが帰って来て外は危ないといふので押入の上段の蒲団のなかにもぐってゐたところさきの従卒が10人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入のなかを捜したが上段にゐた私には気づかず九死に一生を得ました、家のなかには主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残ってゐました、それを主人の唯一の思ひ出の品として私の支那鞄の底に入れ主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈りボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書孫一珊夫人の所へ飛び込み30日朝まで隠れてゐましたが、日本人は鏖殺(みなごろ)しにしてやるといふ声が聞えいよいよ危険が迫ったので孫夫人と2人で支那人になり済まし双橋まで歩きやっとそこから騾馬に乗ったが日本人か朝鮮人らしいと感づかれて騾馬曳きなどに叩かれましたが絶対に支那人だといひ張ってやっと30日午後朝陽門まで辿りつきましたが、門がしまってゐたので永定門に廻りやっと入り30日夜11時日本警察署に入ることが出来ました。
冀東銀行の顧問三島恒彦氏が近水楼で殺され冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく近水楼にゐた日本人は殆どころされてゐるでせう、昔シベリアの尼港惨劇も丁度このやうな恐ろしさであったらうと思ひます。叛乱した張隊長は毎日家に遊びに来て「好朋友(ハオポンユウ)、好朋友」などといひ非常に主人と仲良しだったのにこんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでせう、主人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。
— 保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人、東京日日新聞1937年7月31日付号外「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」
日本軍将校の東京裁判における証言
東京裁判では、弁護側は通州事件を取り上げ、日本側の行為の弁明に用いようとした。1947年4月25日に通州事件に関連する14件の証拠が却下され、1件が撤回され、1件が未提出であった。
このうち通州事件に直接言及しているのは、昭和12年8月2日付の外務省情報部長声明「通州事件に関する公式声明書」(弁護側文書番号: 1109)と同年8月4日付の外務省情報部長談「通州事件」(弁護側文書番号: 1107)であったが、双方とも「外務省スポークスマンの発表は証拠価値無し」との理由でウェッブ裁判長の即決で却下された。
一方、萱嶋高中将、桂鎮雄少佐、桜井文雄少佐の3名の証人の口述書が受理され、1947年4月25日午前11時から11時58分の間に萱島と桂が出廷し宣誓供述書を読み上げ、午後1時32分に桜井が出廷し証拠写真三点を提出し宣誓供述書を読み上げた。なお、これら東京裁判における証言には、虚偽が判明しても偽証罪の適用はないことになっていた。
萱嶋高中将:7月30日午前3時、河邊旅団長から事件救援を命じられ急行した。敵は退却しており、戦闘なく午後4時到着した。
城内は實に凄愴なもので到る處無惨な日本居留民の死體が横はつて居りまして殆ど全部の死體には首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死體や婦人の虐殺死體は殆ど見るに耐えませんでした。(略)私は直ちに城門を閉ぢ城内の捜索を始め殘つて居る日本人を狩り集めました。七、八百人居りました日本人で集まつて来たのは百五十名位でありまして三百五十名位は死體として発見されました。殘り二、三百名は何處かへ逃げたか或ひは虐殺されたか不明でありました。(略)
一、旭軒とか云う飲食店を見ました。そこには四十から十七、八歳迄の女七、八名は皆強姦され、裸體で陰部を露出した儘射殺されて居りました。其の中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていました。家の入口には十二、三歳位の男子が通学姿で射殺されてゐました。家の内は家具、布団、衣類等何物もなく掠奪されていました。其の他の日本人の家屋は殆ど右同様の状態でありました。
二、商館や役所の室内に残された日本人男子の屍體は射殺又は刺殺されたものでありますが殆どすべてが首に縄をつけ引き回した形跡があり、血潮は壁に散布され全く言語に絶したものでありました。
三、錦水楼と云う旅館は凄惨でありました。同所は危急を感じた在通州日本人が集まった所でありましたものの如く大量虐殺を受けております、玄関、入口附近には家財、器具破壊散乱し目ぼしきものは殆ど掠奪せられ、宿泊していた男子四名は座敷で射殺されていました。錦水楼の女主人や女中は数珠繋ぎにされ手足を縛された儘強姦され、遂に斬首されたと云うことでした。
四、某日本人は夫婦と嬰児の三名で天井裏に隠れ、辛うじて難を逃れていましたが、其の下で日本人が次から次へと虐殺されてゆくのを見たと私に告白していました。
— 萱島高、法廷証番号2498: 萱島高宣誓供述書、弁護側文書番号: 1090、速記録
桂鎮雄少佐:通州第2連隊歩兵砲中隊長代理。7月31日午前2時半通州到着し、掃討に従事。
一、私は七月三十一日午前八時頃、旅館錦水楼に参りました。錦水楼の門に至や、変り果てた家の姿を見て驚くと共に屍体より発する臭気に思はず嫌な気持になりました。玄関の扉も家の中の障子も家具も取り毀され門の前から家の奥まで見透すことが出来ました。入口に於て錦水楼の女将らしき人の屍体を見ました。入口より廊下に入るすぐの所で足を入口の方に向け殆ど裸で上向きに寝て顔だけに新聞紙が掛けてありました。本人は相当に抵抗したらしく、身体の着物は寝た上で剥がされた様に見え、上半身も下半身も暴露しあちこちに銃剣で突き刺したあとが四つ五つあつた様に記憶します、これが致命傷であつたでせう。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱して居ました。帳場や配膳室の如きは足の踏み込み場所もない程散乱し掠奪の跡をまざまざ見せつけられました。
廊下の右側の女中部屋に日本婦人の四つの屍体があるのを見ました。全部藻掻いて死んだ様でしたが銃殺の故か屍体は比較的綺麗であつて唯、折り重なつて新で居りましたが一名だけは局部を露出し上向きになつて死んで居ました。室内の散乱は足の踏み場所もない程でありました。
次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり或はうつぶし或は上向いて死んでおりここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが闘った跡は明瞭で男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の様でありました。女二人は何れも背部から銃剣をつきさされた跡が歴然と残つて居ました。
次に廊下へ入りました。階下座敷に女の屍体二つ、これは殆ど身に何もつけずに素つ裸で殺され局部始め各部分に刺突の跡を見ました。
次に二階に於て四五人の屍体を発見、これは比較的綺麗に死んでおり布団をかぶせてありました。唯脚や頸や手が露出しておるのを見ましたが布団をはがす気にはなれませんでした。
池に於て二三人の屍体が浮かんでおるのを望見しましたが側へ行つて見る余裕はありませんでした。
二、市内某カフエーに於て、 私は一年前に行つたことのあるカフエーへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが部屋は散乱しておらずこれは何でもなかつたかと思ひつつ進んだ時、一つのボツクスの中に、素つ裸の女の屍体がありました。これは縄で絞殺されておりました。カフエーの裏に日本人の家がありそこに二人の親子が惨殺されて居りました子供は手の指を揃えて切断されて居りました。
三、路上の屍体
南城門の近くに一日本人の商店がありそこの主人らしきものが引つぱり出されて、殺された屍体が路上に放置されてありました。これは胸筋の骨が露出し内臓が散乱して居りました。
— 桂鎮雄、法廷証番号2499: 桂鎮雄宣誓供述書、弁護側文書番号: 1139[56]、速記録
桜井文雄少佐:支那駐屯歩兵第二連隊小隊長。7月30日午後4時、通州到着し、掃蕩開始。
1.先づ守備隊の東門を出ますと殆んど数間間隔に居留民男女の惨殺死體が横はつて居るのを目撃し一同悲憤の極に達つしました敵兵は見当たりませんでしたので夜半迄専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼し乍ら各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等から彼所此所の塵、埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました。
2.某飲食店内には一家悉皆首と両手を切断惨殺されて居るのを目撃しました。婦人と云う婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして全く見るに忍びませんでした。
3.旭軒と云う飲食店に入りますとそこに居りました七八名の女は全部裸體にされ強姦射(刺)殺されて居りまして陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に断ち割つてあるもの等全く見るに堪へませんでした。 4.東門の近くの或る鮮人商店の附近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せてそれに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠継ぎにして引廻された形跡歴然たる屍体がありました池の水は血で赤く染まつて居たのを目撃しました。
斯くして一応の掃蕩を終了しましたのは夜の九時過ぎであつたと思ひますそれ迄に私の掃蕩担任地域内で目撃しました惨殺死體は約百名で収容しました重軽傷者は約二十名と記憶して居ります此等の死傷者中には発狂して居る者も若干あり殆ど茫然自失の状態でありました。(略)
— 桜井文雄、法廷証番号2500: 桜井文雄宣誓供述書、弁護側文書番号: 1140[57]、速記録
その他の日本人生存者の証言
吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された新道せつ子は、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという。
当時中国人男性の妻であった大分県出身の佐々木テンという日本人女性がいて、その女性から1980年代後半頃に聞き書きしたとして、佐賀県の西本願寺派の寺の住職である調寛雅が1997年出版の自著で、その内容を公表している。ただし、これは伝聞である上、この日本人女性が実在の人物であるかさえも不明である。それによれば主犯は保安隊員と中国人学生であり、かれらは胎児を妊婦の腹から引きずり出す、その父親を数人がかりで殺して腸を引きずり出し、切り刻んで妻(妊婦)の顔に投げつけたという。
これらは通州市民の面前でおこなわれた虐殺であったが、市民は概して手を拱いて見ているばかりであり、虐殺後の日本人を見ても同情の念を示さず、身につけていたものを剥ぎ取るばかりであったという。
また、この調寛雅が女性から聞いたとする内容によれば、当初、日本人と現地中国人の関係は良好であったが、冀東政権成立後の1936年春ごろから中国人の日本人に対する雰囲気が変化し、それは朝鮮人が日本人の悪口を中国人に対して言い触らしたからだとする(ただし、通州事件では、中国人らは、日本人と朝鮮人をほとんど同類視して-実際に同じ”大日本帝国”臣民である-、現実に事件ではともに襲撃の対象となっていることから、この話は極めておかしい。)。
通州事件の生存者
1937年8月5日の陸軍省調査では、死者184名(男93名、女57名、損傷がひどく性別不明の遺体34)、生存者は134名、その内訳は「内地人」77名と「半島人」57名であった。
その翌日8月6日付の朝日新聞報道では、死者184名、生存者は内地人77名と半島人135名という数字が報じられている。
1937年8月5日の在天津日本総領事館北平警察署通州分署の発表では、死者合計225名(内地人114人、鮮人111人。
陸軍大学が1939年に作成した「支那事変初期ニ於ケル北支作戦史要」によると、通州在留邦人385名のうち223名が虐殺された。
支那駐屯軍司令官香月清司中将が1940年2月に記した『支那事変回想録摘記』には犠牲者邦人104名(内冀東政府職員および関係者約80名)鮮人108名(大多数は阿片密貿易者及醜業婦にして在住未登録なりしもの)とある。
その他
児島襄は「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34名は性別不明なまでに惨殺されていた」とした。
(なお、当時の報道に、惨殺の結果として性別不明となったとして書かれているものはない。守備隊本部あたりの表通りは砲撃で破壊され、特務機関のあった裏通りは日本軍機による爆撃で灰燼に帰し焼死体もあったという。
また、新聞記者が市内に入れた8月4日の時点では、真夏のことで既に腐敗と腐臭がひどかったという。写真で処刑場とみられる場所に連行されて集団処刑された死体は比較的原形を保っているものの、反乱蜂起当初に路上や家屋等で殺害された者の死体には、腐敗を怖れてか、石油等で焼かれたものや池に放り込まれたものもあった。性別不詳はこれら焼かれたり、砲撃で損壊した遺体の可能性も高い。)
中村粲は「在留日本人380名中、惨殺された者260名」とし
渡部昇一は、保安隊の兵力は千数百人、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されたとしている。
職業別内訳
被害者の職業別では、外務省東亜局報告で、
内地人:冀東政府職員、同顧問、特務機関員、同雇員、満鉄社員、冀東銀行員、電話局員、土木業、飲食店業、旅館業、その家族、旅行者
朝鮮人:無職、歯科医、洗濯業、製菓業、外務省警察官、教員、餅商、金貸業、女給、酌婦、その家族、旅行者。
小林元裕は「日本人被害者の多くが冀東政府の職員、特務機関員だったのに対し、朝鮮人被害者は無職者が目立った。彼らの多くは「不正業」特に阿片・麻薬密売者が多かったと考えられる」と述べ、このことは巴金や香月清司支那駐屯軍司令官の回想によっても裏づけられるとしている。
当時の報道・論説
新聞各紙
天津の支那駐屯軍司令部は、監督していた保安隊の反乱を不名誉として、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に新聞報道を制限するよう要請したが、松村は、事件は北京近くで発生し、すでに北京租界から全世界へ報道されているので無駄と応じた。
国内では通州事件は一斉に報じられ、むごたらしい行為の詳細が日本国民に知られると、「暴虐支那を懲らしめろ」という強い国内世論が巻き起こった。
東京日日新聞は1937年7月30日付号外で「通州で邦人避難民三百名殆ど虐殺さる/半島邦人二百名も気遣はる」と報じた。また7月31日付号外で「通州の事態 憂慮消えず」「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐極まる暴行」との見出しで報道し、8月9日の大山事件発生まで通州事件を報道した。
東京朝日新聞は1937年8月2日付号外で「掠奪!銃殺!通州兵変の戦慄/麻縄で邦人数珠繋ぎ/百鬼血に狂ふ銃殺傷」、8月3日夕刊では「ああ何といふ暴虐酸鼻、我が光輝ある大和民族史上いまだ曽てこれほどの侮辱を与へられたることがあるだらうか。悪虐支那兵の獣の如き暴虐は到底最後迄聴くに堪へぬ......恨みの七月二十九日を忘れるな」、8月8日付号外で「痛恨断腸の血 衂られた通州」「惨!痛恨の通州暴虐の跡」と報じた。
読売新聞1937年8月1日号外(天津発)は「叛乱は計画的」と報じた。
通州保安隊反乱は計画的に敢行されたもので事前に不穏な形勢があったので殷汝耕長官は親兵の手薄を感じ薊県から増援の保安隊を呼びよせたがこれ又グルになって29日未明天津に事件が起ったのと相前後して総勢4千名(一説に6千名位と伝へらる)が冀東政府特務機関野戦倉庫、近水楼4ヶ所を目標に叛乱行動に出たものであった。守備隊は辛うじて安全であったが、その他は兵力と防備が手薄であったためにこの惨事となった。
— 読売新聞1937年8月1日号外[4]
アメリカ人記者
当時中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ(Frederick Vincent Williams)は1938年11月にBehind the News in Chinaを刊行し以下のように報道している。
日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。
それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。
— Frederick Williams、Behind the News in China, New York: Nelson Hughes Company, 1938, P.22.
山川均と巴金の応酬
社会主義者の山川均は、雑誌『改造』1937年9月号「特集: 日支事変と現下の日本に「北支事変の感想」の一本として「支那軍の鬼畜性」という文章を寄稿し、「通州事件の惨状は、往年の尼港事件以上だといわれている。」「新聞は<鬼畜に均しい>という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。
同じ鬼畜でも、いま時の文化的な鬼畜なら、これほどまでの残忍性は現わさないだろうから。」「こういう鬼畜に均しい、残虐行為こそが、支那側の新聞では、支那軍のXXXして報道され、国民感情の昂揚に役立っているのである」、「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果であるといわれている」「支那の抗日読本にも、日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし、人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で煽動すると、鼻の孔に針金を通させることになる」「支那国民政府のそういう危険な政策が、通州事件の直接の原因であり、同時に北支事変の究極の原因だと認められているのだから。」と、事件の残虐性と中国の反日政策を批判した。
これを読んだ中国の作家巴金は、9月19日に「山川均先生に」(初出不明)を書き、「混戦のさなかには、一人一人の生命が傷つき失われることはすべて一瞬の出来事です。細かいことまで気を遣ってはいられなくなって、復仇の思いがかれらの心を捉えてしまったのでしょう。」「抑圧されていた民衆が立ち上がって征服者に抵抗する時には、少数の罪もない者たちが巻き添えをくって災難に遇うことも、また避けがたいことです。」「このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり、特務工作をしたりしていた人たちなのです。」「通州事件を生みだした直接の原因は、それこそ、あなたの国の軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。」と反論した。
宮田天堂
当時天津にいた宮田天堂(1908年-1994年)は1938年の『冀東政権大秘録』の「通州事件の真相」においてこのように述べた。
元々保安隊というものは大体が于学忠の部下を改変したものであった。だから根強い排日思想の薫陶を受けた分子が大変多かったのである。しかも事変勃発以来、南京政府は怪ニュースを盛に放送して、日本軍は全面的に敗退した。支那軍は連戦連勝、もはや北支から日本軍を掃蕩するのもさして遠くもあるまし。という風のデマを放送するこれを保安隊が通州で聞いてじっとしていられるはずがない。そればかりか考へてみれば宋哲元が前々から保安隊を20万元とかで買収に来ていた由で第一、金はほしいだろうし、負けている日軍に味方したくない。そこで彼らは中国人は最後の血の一滴となっても祖国の寸土を死守せよ。満州の二の舞いをされるな、と坩堝のごとき煽情に馳られたのである。
— 宮田天堂、『冀東政権大秘録』1938年
宮田は殷汝耕が事件に関与していたと報じられたことについて、殷は断じて無関係であったという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』