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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」) 20 獨立獨行の精神を訣く、居候根性(終)     

2019-09-12 11:57:35 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯 

 

イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」

 

20 擱筆に莅みて   
  (註、擱:カク、おく。手に持っているものを下におく)(註、莅:リ、のぞむ)

 読者は私の拙き筆の跡を辛棒し、談んで下さいました。日清戦爭以後の事伴の進行、行政の改革、教育、貿易、財政等の進歩發達の状況は朧げながらも了解せられた事と思ふ。尚ほ読者は著者の筆に連れて或は田舍の旅行をしたり、其の生産状況を見たり、市日に行商人に逢つたり、家庭生活やら家庭の慣習やらを見たり愚な迷信を憐れんだり、官吏貴族に虐げらるる國民に同情したり種々な經驗を得られた事と思ふ。
 読者は朝鮮人の無気力、懶惰、居候根性、貪乏を審さに観察され朝鮮の獨立は甚だ困難にして將來望少きこと、而も其國土は現在人口の二倍を收容し得ること、両大強國の中間に介在して進退難に陷れることを推測されたことであらう。私は読者に別るるに臨み今少しく案内の役目を勤め度いと思ふ。

〔朝鮮必しも貧ならず〕

 先づ私は申上げ度い朝鮮必しも貧ならす、貧なるは其の資源を消盡せるが故に非ずして却って資源を開發せざるが故である。国土は農業に適して居りながら其の成功を見ざるは成功すべき利用法を過って居るからである。気候に申分なく、降雨量は適度で決して不足して居らぬ、而も土は肥へて居る。地下には石炭あり、鐵あり、銅あり、鉛あり、更に金がある。海岸線千七百四十浬は有利なる漁場であって前人未到の富源である。住民は強壯且つ從順、欧米に言ふ乞食は見當らぬ。私は朝鮮必しも貧ならずと言ひ度い。

〔空しく眠る〕

 一面から言えば朝鮮は有り余る勢力を抱いて空しく眠っているのである。上流階級は不都合な社会組織に麻痺せられて無為無能の生涯を送っている。中流階級の為めに何ら出世の門戸を開き興へず、彼らの奮起研鑽を要すべき職業が無い。下流階級に至りては其の運命を繋ぎ野獣の害を免るる程の家に住む以上決して労働をせぬ。
 京城第一の商店と雖も資本を抱いて働かぬ。普通の商店以上の建築をせぬ。餘る精力を用ひずして眠って居るといふ所以である。普通の事々物々悉く低級である。貧弱である。劣等である。特権階級の猖獗、官吏階級の誅求、正義公道の全滅、財産の不安、取得の危険、政府の頑迷等悉く是れ朝鮮自滅の禍根である。更に國王は後宮に耽溺して億兆の赤字を顧みず、外は老朽腐敗の帝国に兄事し、内は列國の詰め歯牙相争ひ、猛鷲翼を拡げて一目でそれと知られる野心を抱いている。眠れる人には海に陸に利源が溢れ、五體に力充も何の利益にも立たぬ為、朝鮮は汏々乎として危い哉と叫び度くなる。 

〔獨立獨行の精神を訣く〕

 朝鮮を亡ぼす更に大きな普遍的な原因は国民挙げて独立独行の精神に缺けて居ることである。健康な體格を有ち乍ら、親族知己に少し福裕な人があれば其の内に居候して終日何一つ仕事せずに暮らしている。而も世人之を羞とせず、輿論は之を糾弾せぬ。苟も確実なる収入ある人は、如何に其の収入が少額なりと雖も自己の親類は元より妻の親類、自己の友達、親戚の友達、友達の友達等実に沢山な人を扶養しなければならぬ。産ある者は忽ちに喰ひ潰される。この恨を脱がれる唯一の方法は即ち官吏となることだ。

 官吏となれば其の位置の高低を問はぬ。幾百の居候来るとも差支ない。お役所の金を持ち出して養ふのだから世話は無い譯だ。此の唯一の方法を得るために人は役所に突進して位置を求め、従って役所の地位は商売道具化して仕舞ふ。而して役人の数は増加する。役人は仕事も無ければ目的も無い。役人にならなければ喰へぬのだ。喰へぬから小陰謀小革命が繰り返される。生きんが為の革命故死して主義に殉ずる道理が無い。朝鮮の官吏も居候根性なら朝鮮の革命も居候主義だ。

〔居候根性〕

 居候も朝鮮人の居候根性は徹底的である。京城市中稍々高官有福の人の家には屈強な大の男が相當な教育もありながら幾十人となく寄食して居る。三度三度の飯も食べさせて貰へば煙草一服も人の物を吹かして居る。見苦しい話だ。話すことは到底耳にされぬ野卑なことばかり、名誉心に跌け独立の志を失って居る。嗜のない話だ。主人公が居候を養ふ力がなければ、追ひ出す譯には行かず別に官職を探してやるか、又は人の為めに官職を設けねばならぬ。故に政府の官吏なる者は世のヤクザ者の寄合處帯に過ぎぬ。

 朝鮮を数百年の久しきに亘りて困憊せしめたる朋党比周の争闘は主義主張の対立に非ず、朝鮮に在りて政権を得、政権を握って後に監禁を自由に処分して懐を肥さんが為めである。故に等しく廟堂を立ちて政治を議すべき閣僚は内実互いに相嫉み相斥け、己獨り國王の寵を得、其の子孫、其の朋党を挙げ用ひて権勢を張るに汲々として居る。

 朝鮮字典の著者は言ふ。「朝鮮語の働くとか骨を折るとかの言葉は損をする、馬鹿な目に逢ふと言ふ義にとられ、仕事をせぬのが上品で、怠惰なのが柔和と心得て居る。」と。官吏が自己の子分の為に極力地位を求むるは別意は無い唯々生活の為めだ。こんな人が偶々官吏となるも官吏としての手腕は有たぬ。ほとんど一事も為し得まい。彼等の辣腕は到る所で民の膏血を搾り俸給を溜め込む点に在る。

〔匡救の途如何〕

 私は既に飽く程百姓は働いても働いても無駄働きをして居る事を書いた。農夫は誰よりも一番能く働いて稍々幼稚であるが朝鮮の風土に適した方法を以て容易に生産量を二倍にすることが出来た。然し乍ら彼らの労苦に報いらるる所は何か。彼らの所得は何時掠奪せられるか判らぬ。彼らは僅かに其の家族を養ひ襤(ラン、ぼろ)褸(ロウ、ル)【註、襤褸=らんる、破れ衣】を身に纏ひ得れば満足しなければならぬ。新築の家に住み新調の衣服を着る事は禍を招く所以で百姓の最も惧るる所である。

 水呑百姓の数の如何に多きことよ彼等は官吏と両班の強奪に遭ひ年々其の耕地を減じつつあるであは無いか。彼等現在の状態は漸く三度の食事を支ふるに過ぎぬではないか。この境遇に在る農夫が未来に何の希望を有しえるか。肉を剝れ骨を削らるるは免れ難き歴然たる運命ではないか。彼らが無精になり無感覚となり無気力となり行屍走肉となるのも不思議は無いでは無いか。

 朝鮮には種々の改革が行われたが國民階級は依然として掠奪階級と非掠奪階級の二つである。前者は両班の出である官吏で実に天下御免の國家の吸血虫である。後者は総人口の五分の四を占むる下人にして吸血虫に生血を吸われに生きて来た者である。此の不名誉な組織體から新朝鮮は築かれなければならない。其の方法は教育である。生産階級の保護である。不良官吏の處罰である。才幹技能に応じて官吏の俸給を支払うことである。

〔ブラオンの功績〕

 曾て國庫の整理に試みられたるが如くデッシリした腕利きの外國人顧問を置いたならば朝鮮の改革必ずしも望み無しとは言へぬ。官庁の不整理、官吏の腐敗は既に極点に達し、中央官庁の好む所は地方官庁之を範し、國中隅から隅迄悪政に満ちて居る。唯ブラオン氏が其の人格と手腕を以て財政顧問の職に居りて難局に當ったが惜しむ可し何人も氏の功績に感謝の念を抱く者無く、却って陛下左右の奸臣妖妃に拒まれ腐官亜吏に遮ぎられた。彼らは財政の厳正なる制度を好まず陛下を唆かして之を破壊したるのみならず、氏は彼等の諫言、妖計、腐敗に手を焼き、信頼すべき助手の在らざるに困脚し、因習的悪風に包囲せられ、陰に陽に官吏全體の反対に遭つたけれども百折不撓遂に千八百九十七年の如き好成績を収め得た。

 マックレビー、ブラオン氏が大蔵省のオーゼアンの厩の清潔法を始めて未だ数か月ならざるに遂に支出は一定の形式を踏むこととなり、収入は支出を超過し穀潰しの兵隊は解散せられ、遊惰無職の冗員は淘汰せられ、地方官庁も亦中央に倣び、総て大緊縮方針に則って改革を断行した。各省の会計は精査の後に非れば承認を輿へず、一々に意義あり一々に効果ある改善を試みた。

 曾て千八百九十六年七月には一人として朝鮮の破産を疑わなかったのが翌年四月に終わる会計年度では百五十萬圓の剰餘を生じ内百萬圓を以て日本に対する債務三百萬圓の一部弁済を為すことが出来た。若しブラオン氏同様の熱勢あり才幹ある人が各省の顧問となつて働いたならば朝鮮の復興敢えて難事ではないと思ふ。唯時間の問題である。

〔啓蒙時代〕

 當今の朝鮮は啓蒙の時代である。日清戦争の結果を直視して生ける経験を味った。日本の勢力時代には立國の道は他に在ることを悟った。祖先が尊重し固持した制度慣習必ずしも執着する価値無き事が明らかになった。最早朝鮮は舊夢を因はれて居る譯には行かぬ。

 京城は或る意味に於て朝鮮そのものである。歐米式教育を輸入して以来朝鮮人が受けたる新たな衝動、新たなる思想は次第に地方に流れ出なければならぬ。彼等は先進國民と接触する毎に迷夢から醒める。新聞を手にする毎に自己を省みざるを得ぬ。支那の冊封を受け支那の宗主権の下に生活していた間は両班は実に強奪者として暴君として至らざるなき我儘を振舞って居たものだ。

 然るに日本は萬人等しく法律の前には平等であり、両班に畧取の権なく下民に自主の権在ることを教へた。新聞亦同一の智識を輿へた。即ち日本人の手を経たり泰西の教育を受けたりして百姓は吸血虫に生血を吸わるる宿命でもなければ義務でもないことが夜の明けるが如く彼らの頭の中に明らかになって来た。

 簡単に綜合すれば朝鮮は過去三年の間に於て数百年来続いて来た支那と属邦関係を断った。日本の武力の真価値に驚嘆した。紙の上丈けなりとも上流と下流の區別は撤廃せられ、土隷は自由となり、庶子と雖も尚腕次第高位高官たるを得ることとなった。惨酷な刑罰拷問は廃せられ、舊式の制度に代わる新式の鋳造貨幣が流通することとなり、進歩せる教育制度が輸入せられ、組織的な規律ある軍隊と警察が編成せられ、官吏資格登用試験と支那文學は其必要なしとせられ、仁川京城間の鐵道は着々進行して近々完成せんとし、商人團體の團結は次第に瓦解し郵便制度は普く八道に適用せらるることとなり、財政の基礎漸く強固ならんとし、地租の米納に代ゆるに金納を以てせることは著しく官吏の不正を防ぎ、

中央にも地方にも官吏の無法非道は矯められることとなった。

 

 右の様な事情にして社会は啓蒙の時代に入って来たが千八百九十七年(明治三十年)八月十二日の官報は次の如き勅語を発布した。

〔明治三十年の勅語 その一〕

   勅語 その一 

 朕は國家の立場を顧みて國難が足許に迫って来るのを見て惧れて居る。然し乍ら國民は上下共に全然無関心なるかの如き観がある。朝鮮は現下の状況では到底繁栄せぬ。朕は内閣諸大臣が朕を導き朕を扶けるのに信頼して居るけれども彼らは一向朕の附託に応じない。如何したら朕は我が臣民を此の混沌の状況から救ひ出すことが出来るのか、朕は國家の保護が完全でなければ家に在ても幸福を享くることが出来ない事を國民が反省せむことを希望する。
 朕は朕親ら朕の務めを怠って居たことを告白すると共に朕の大臣及其下僚の官吏は朕の過失を諫め非違を匡して呉れなければならなかったのだ。璽等の祖先は能く朕於の祖宗を扶養して呉れたでは無いか。朕は國家の為めに正當であり適切であるならば何でも之を実行し度いと努めて居る。而して璽等臣民が朕の意を體し忠義の精神を新たに奮起して朕を扶けるものと信頼して居る。
 朕は璽臣民悉く一身の利害よりも先づ國家の公益を考へることを望んで居る。

 億兆悉く朕と心を合はせ國家保全に努めよ。

〔明治三十年の勅語 その二〕

   勅語 その二

 朕が臣民の安寧幸福は朕の不断の希望である。客年の擾乱以来平和破れ秩序乱れて臣民甚しく困憊して居るのを朕は能く承知して居る。臣民は生きんが為めに死する程の苦しみを受けて居るにも拘らず政府は手を束ねて生活状態の改善を計らない。
 朕の周囲は不義にして富める者のもみなるを思へば決して愉快では無い。朕は之を悲しむ。地方の官吏は宜しく全力を擧げて人民の生活向上に當らなければならない。従来不當な租税は強制的に課徴せられ、幾千の無理非道な官吏は何かと言へば口実を設け掠奪を横にし援無き朕が赤子を困らしめた。
 何故に彼等は朕が臣民を残酷に取扱ふのか。仍て朕は茲に地方官に向って如何なる不法の租税が課徴せられつつあるか之を巨細に取調べ猶豫なく之を廃棄すべきを命ずる。若し朕が命令に従はざる者あらば法に照して刑罰を課するであらう。

〔未来なきにならず〕

 朝鮮の弊風は数百年の痼疾(註、コシツ、長い間治らない病)であって一朝一夕に治癒するものではあるまい。然し乍ら過去一年間観察し調査した結果、私は朝鮮に決して未来なしとは思はぬ。反動的勢力が擡頭しても夫れは一時的現象に過ぎぬ。只次の二点は何處迄も之を認めなければならない。即ち

一、朝鮮の改革は朝鮮人自身の手を以てしては不可能であるから外部から之を援助しなければならぬ。

二、國王の大権は憲法的に永久的に且つ厳重に制限を加へなければならない。

 

 以上、私は朝鮮の内部的観察の梗概を書き留めた。これから記載の方面を政治外交に求めて見たい。朝鮮の地理的位置は日本とはホンの僅かの海一重の隔たり合せ、露領と支那領とは陸続き、此の相互関係が自ら絡む因果を織り出して行く。抑(註、ソモソ)も朝鮮に支那が久しきに亘り其の威を振って居たのは大國なるが上に風俗、宗教、哲学の大先輩であったからだ。然し乍ら支那の弱点が現実に暴露した以上は最早昔の通りには参らぬ。

 日本は実力を以て支那と相争ひ朝鮮の従属的外交を破って獨立國たらしめ、自己の朝鮮に於る地位は列國と共に同一の権利を有することを主張した。日本政府は朝鮮と一衣帯水の関係に在って内政改革より受くる影響の甚深なる旨繰返し聲明した。斯の如き利害関係ある日本は誠意を以て事に當り特権階級の急所に触れ社会的秩序に変動を齎(註、モタラ)した。

 日本は過去の経験に乏しい。改革手段が多少乱暴過ぎて無用の敵愾心を唆り出したかも知れないが私は日本の誠意熱心を疑はぬ。日本は決して野心を包蔵して居ない。朝鮮の師友となり獨立の補佐役たる役目を忠実に果たして居るに過ぎぬ。多少の過失があったかも知れないが日本は一年以上も善良なる先達となって朝鮮を導き種々の有効且つ必要なる改革を行日其他にも計画する所があった。今日着々行う所は実は日本が豫め引きたる線上を歩むに外ならぬ。露西亜が代わって日本の勢力を奪うは日本の顧問官、監督官、陸軍教官及駐在軍隊は本國に引揚げ、成るに任せよ行くに任せよの政治が始まった。其実は朝鮮が成るが儘に乱れ、行くが儘に滅びるのが野心ある露國の腹の中であったのだ。

〔露國の魔の手〕

 露西亜勢力時代が継続すれあばその魔手が遠からずして伸びて来るのは無論である。而も露西亜の意の儘になる時朝鮮と英國との貿易も終わりを告げる時だと思はねばならぬ。木浦と鎮南浦が開港場となった即下、即千八百九十七年九月九日ノーヴエ、ヴレミヤ紙は之を以て英國が朝鮮市場獨占の野心を以てせる如く書き立て、朝鮮政府に於ける英國官吏の減少と日本守備隊の撤退を主張して居る。

 千八百九十七年(明治三十年)末の朝鮮の様子は大略上述の通りである。獨立はしたものの獨行の道を知らぬ朝鮮は列國の間に挟まれて今後如何に成り行くものか誰も知る者はあるまい。

 私は露西亜と日本とが顔と顔を突き出して睨み合ってる最中に名残惜しくも朝鮮を去った。左程興味を惹かなかった事柄もイザとなれば懐かしく心惹かれてならぬ。従来方々大旅行をしたが朝鮮旅行程親切な友達の世話になった事は無い。私は夫等の人々と別れるのがつらい。私が京城を立つた時は雪景色であった。空は晴れ渡つた最も気持ち良き朝であった。翌日は朝鮮政府の所有汽船ヒエニク丸に便乗して甲板から仁川に左様ならを告げ上海に向けて旅立った。 

            (終)


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)19 千八百九十七年の亰城    

2019-09-05 11:01:18 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯

  

イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」

 

19 千八百九十七年の亰城

〔再度の入城〕

  私は一八百九十五年クリスマスに當って朝鮮を去りて支那に遊び六ヶ月間の旅行を續け、夏の三月を日本の男体山に暮らし、一八百九十六年(明治二十九年)十月半ばに又朝鮮に帰って翌年の春迄京城に滞在した。恰も私が日本から仁川に来て、仁川から徒歩で京城に着いたのは十月満月の光冴ゆる真夜中であった。高く聳ち低く崩れた不規則な城璧が繪になるなら日光を浴びた二層樓の西大門も繪であった。開門の手績は容易に渉取らす通譯の李君ど門番との間に稍暫く押間答があった後に鐵鋲打ちたる城門の厚き扉は重々しき音を立てながら数人の手によりて開かれた。私は復た京城裡の人となることが出來た。

 當時京城府尹は代が更って李彩然氏が其の職に在った。李氏は新人であり精力家である。京城は其人を得たと言はなければならない。四時惡臭を放ち到る所行人を惱した埀れ流しの糞小便も餘り目に立たなくくった。夜になれは大路小路には犬眠り猫眠り人一人姿を見せず、灯一つなら漏る窓も無かったのが貞洞即ち外國人區域に着いて見れば露國公使館に至る道々は所々歩哨が立て居る、尤も無様な姿勢で居眠はして居るが私が厄介になって居る家の庭は新宮殿と地鑟で陛下及皇太子殿下は澤山な隨行員を從へ絶へす此處を御通御りなって露園公使館に往来遊ばされる。

〔謁見〕

 着城後後二三日目に陛下は日本皇族接待の爲めに慶雲宮に出御になった。宴會後私は謁見仰せ付けられた。通用門は澤山の歩哨が日本式軍服を着て警戒して居たが曾て断髪令発布後の髪の毛が伸びに伸び耳の後ろに乱雑に垂れ一種の野蠻人を見る感があった。第二の門で輿から下らされ謁見室に参入した。この謁見室を使用遊すのはこれが最初である。横十二呎縦二十呎の小部屋、全體白木造り、窓も戸も障子を立ててあった。陛下も殿下も麻の喪服例のクレノリンの帽子を召され一段高きに御揃で御立ち遊ばせば侍従、御籠姫の朴、玄は無論、其他の女、宮内官等皆規定の喪服を着用して室内殆んど立錐の餘地なき程の人数で裾長のスカートの女達は己を得す其の裾を捲り上げて居た。

 陛下及殿下は莞璽として御會釋遊ばされた。私は教はった通りに三拜の禮を爲し、通譯は宮中禮式により拝跪の儘聞き取り難き程の低聲で通辯申上げた。私が此の前に拝謁したのは正に二年前である。此の二年は陛下の爲めには内豪外患交々至り有為転変叡慮の安まる暇は無かったのだ。けれども陛下は格別憔悴疲労遊はされた風に見上げなかった。

〔陛下御満足〕

 私が陛下の安泰に渉らせられること、御親政の盛なることを御喜申上げたら陛下は如何にも満足に思召されて御答辞を賜はった短時問の拝謁であったが皇太子殿下は往年に比し著しく心身共に健康に復せもたのを拜し種々第言葉を賜ったのが嬉しかった。此の後にも私は新皇居慶雲宮内陛下の御居間に参内して二度程非公式に謁見申上げた。
 御居間は朝鮮第一等の名工の手になれる朝鮮式の建築で瓦葺の深く突き出で、梁には丹青を施し、垂木の端は李王家御紋章五葉の李花を畫いてある。御部屋は温突造りの廣間績く小部屋とは障子を以て隔て、窓も同じく薄葉の紙を張ってある。陛下及殿下の御寝室と覺しく極々手狭の部屋には青絹張りの寢臺が見へる。家具と名くべきは僅かに十枚折の屏風う一双あるのみ、簡素とも極端な簡素振りでてある。

 居間の向川は先っ年の秋凶漢の毒に斃れた給ふた閔妃を祀るお霊屋となり廊下績きになって居る。

〔新宮の工夫〕

 新宮に参内して第一に目を惹くは一旦緩急の場合を慮って逃げ道を工夫せられてあることだ。元より護衛兵は澤山に屯して居るが御居間に参進するに二の門を開き、その一つは露国陸軍士官の詰所に通じ此比處を抜け出たら露国公使館の庭先だ。他の一つは兵營への通路になって居る。露國士官とは千八百九十年秋の頃軍隊組織の為めに國王陛下態々露國より招聘せられたる者で兵営とは露國士官が教練する朝鮮兵の兵舎である。兎角陛下の胸の中には「逃げるには」と言ふ御考が第一に浮んでたに相違ない。
 次に目を惹くは宮中人数の多い事だ。小さい建物は相接して立ち並び其の部屋々々は全く兎小屋同様の混雑である。此の宮殿完成の暁には侍從、宦官、宮内官、書記、侍講、女官、官婢、料理番、使丁、下男、東洋特有の取り巻連中彼れ此れ合計したら千人以上に登るだらう。而して斯くの如く有象無象の群居する兎小屋は圍厳重に警戒せられ私を参内の折りに護衛して呉れた護衛兵すら門内に入ることは禁せられた程である。

〔撮影を許さる〕

 陛下は英國ビクトーリャ女王陛下に献上する写真の撮影を私にお許し下さった。私は撮影の準働を終わり通譯が其旨言上したら陛下と殿下は宮内官と閣員数名を従へ出御になった。陛下は不相変御親切で陛下御正服姿も撮り度くばと夘せられた御正服は真紅の縫ひ模様に金線の縁を取りたる御胸飾り、御肩にも同様の縫ひありて見るから高責の有様であった。陛下は親しく殿下の姿勢やら位置やらに心を配って下さったがそれは無効に終った。撮影後に陛下はカメラを御取り遊し興味あり気に御覽になって喜ばれた。数週後に暇乞の爲めに参内した折に陛下は英國々務大臣の事に話頭を向け其の制度に反対し寧ろ朝鮮の制度を信用遊された。

 通譯が常に閣員任免に震襟を惱まして居られる旨話して呉れた。

 國王陛下は一年以上も露國公使館内に御起居遊ばされ、群臣は一國の元首にして外國公使の保護の下に在るを以て國家的耻辱と心得て甚しく不服であった。元より然るべきであらう。軈(やが)て又た流言連りに起って陛下に舊王城第還御を奏請する由叡聞に達し陛下は露國士官の護衛無くしては閔妃の御霊屋参詣すら暫くは止めになった。

〔露國公使ウエバー氏〕

 期くも信頼を受ける露國公使ウエバー氏は京城に駐箚すること実に十二年、在留外國人の尊崇を受け、朝鮮人民の朋友として暮して来た大政治家である。彼の忠言あって陛下の不当なる官吏の任命を廃し、無法の逮捕監禁を廃し、理由なくして官吏を轉任せしむるを止め、單に形式を整ふるが爲めに各國に公使を派して巨費を投ずるを止め、無用の軍隊警察官を增加して國費を濫用するを防ぎ得たる等の事少しとせぬ。

〔不可思議なる露国の政策〕

 然し乍ら露國の対朝鮮策は一種不可解な遣り口である。露國は懷に飛び込む窮島に恩を賣るとも進んで救ふ親切は有たぬ。露國は肉は自分の肉汁丈で煮る事を知って居る、朝鮮も料理するに人手は要らぬ自分で人の食膳に登って來る時機あることを知って居る。朝鮮が自ら衰亡するは朝鮮の自業自得で他人は知らぬと済して居るのは露國だ。首を吊るのに綱が欲しければ綱造りにも御手するのは露國だ。
 露國はウエバー氏の始き辣腕家を京城に置き而も絶対的の地歩を占めながら他の外國使臣以上に差出口するでもなく、進んで陛下に忠告を事るでもなく、手を拱いて朝鮮自ら内政干渉を慫慂(註、シュウヨウ、さそいすすめる)して來るのを持つ風があるのは不可思議千萬である。

〔日露地位を代ふ〕

 露国の対朝鮮政策の如何は別として、国王が露國公使館内に於て有せられたる自由は必しも朝鮮に利益を齎(註、もた)らさなかった。曾て公道に基き進歩の階庭を辿って居た日本勢力時代の政策に比し惜しい哉悉く反對の方面に萬事逆転して居る。舊時代の弊風は日に復活擡頭し、内閣諸公其他陛下の寵臣は地位を恃み寵を笠に着て臆面も無く賣官を試みて金を儲ける様になった。陛下の愛妾を相手取って訴へた所が原告は間も無く文部次官に任命された。今や陛下は硬骨直諫の臣を遠けた。勢力陛下の上にあった閔紀の制射より免れた。
 曈々たりし日本の勢力は自ら蔭に引き込んだ。玉體は多くの護衛兵に衛られて安全である。李朝代の悪習は芽を吹き返した。幾分の制限はあっても王命は法律でり王の意思は絶對的になった。而も其の意思たるや陛下の愛錢欲に付け込んだ人が、陛下の恐怖心を捕へた人が陛下の寵姫朴氏又は玄氏の何れかに取入った人か、又は閔氏一族が賣官により推薦したる愛妾か嬖臣を抱き込んだ人か、何か一つ陛下の弱點を握れる人々の意の儘な御意思であるから叶はない。
 陛下は十二分の王室費を有し其他にも少からぬ收入を有ち給ひつつ、其の實領土内第一の赤貧者に在らせられる。総體朝鮮では陛下に限らぬ或る官職を有する人の周圍には無数の乞食根性の居候が付き纏ふてアレも頂載コレも賜はれと人の財産で腹を肥す奴等か群って居る。坐して喰へは山も空しやと陛下の御手元は常に窮乏して御不自由勝だ。

〔世は逆轉〕

 世は豢々逆轉して野蠻の古へに戻る。多くの人々は罪無くして獄に投せられた。或は暴徒にして國務移大臣に任命された。金玉均を毅害せる下手人か禮式院長になった。悪徒の生活に終始し而も有罪の判決を受けたる人が所もあらうに司法大臣の椅子に坐った。官を買った役人は國庫の收入を途中で橫取りして腹を肥す。位階を奥へる爲めに三日大臣も出来る。友達やら親戚やらを養はねばならぬ貧乏官吏は官金を使用せざるを得ぬ。高位高官と雖も其地位は不安定である。

 行政に何が何だか薩張り判らぬ。善人ながら意思薄弱なる國王は何にして統治すべきか見当が付かぬ。途方に暮れた陛下は愛妾と日夜耽溺する。其嬖妾と称する者は無學低級、陛下の寵に狎れ、貪懲飽く無き居候の餌食であり時には外国人の道具に使はれる。善政を紊り良制を破り、財政の改善も經済の進歩も行はれ難く、佞臣出でては陛下に盡くる無き浪費贅沢を勧め、整理も改革も手の下し様が無くなった。陛下の治世紊れたらと雖も露國公使館移御以來の如き悪政弊政乱世蔟出した時代は又とあるまい。

〔治績挙がらず〕

 私は好んで陛下の治世を罵らんと欲する者では無い。陸下は個人的には實に叮寧慇懃に亘らせられる、御性格は愛すべき御方に坐まし深い憂國の念も抱かせられる。然し乍ら陛下は朝鮮の現在及将来の運命を雙肩に担って立たせられる唯一の御方である。お人善しで丁寧なばかりでは國は立ち行かぬ。陛下の期の知き御性格、御統治法が朝鮮を不幸に導きつつあることを看過してはならぬ。陛下の祖先は五百年来朝鮮を統治し既に典体統的に府中の事務と宮中の事務は混淆して陛下には其區別が無いかも知れぬ。陛下から見れば公益を廣むるも國事を●(註、?不明)すも寵臣に官を授け嬖妾に財寳を賜ふも同一であるかも知れない。政治とは申乙の閣臣が内閣を争奪する遊戯と御召してるかも知れない。

〔米國陸軍顧問の異彩〕

 日本陸軍士官の敎育を受けたる軍隊の反抗を買って米國人陸軍顧問は遂に失敗したがプチアタ大佐が堂々たる體軀に制服を着用し下僚たる三人の士官と十人の教官を伴ひ行く有樣は京城市中の偉観であった。此のお雇外園武官は勇気を徹底とを信条として教育に從ひ、凛々しい服に演習帽を被り長靴を穿って闊歩する所は常に衆人の羨望の的となった。

〔少年隊〕

 尚ほ京城の新名物とも称すべきは良家の子弟三十七名より成る少年隊が七名の士官に卒ひられ、露國公使館背後の營舎と景福宮近き練兵場との間を日にニ回、太鼓を叩き旗を捧げ、足拍子揃へて往来する光景であった。此の少年隊は二年間露國士官の教育を受く可く厳格なる規則生活をして居る。彼等が兵舍に收容せられ最も驚いたのは下男を仲ふこが出事ぬ事であった。下男は無用の贅沢として厳禁せられ、三十七名の公達は自ら銃器、装具の手入、それも一點の曇りを許さぬ最しさに驚いた。更に一日絶へ間なき猛烈なる練習に魂げた。今や京城に在る兵数四千三百名、内八百名は近衛兵として訓練せられ、地方に駐在する兵数千二百名、小銃三千挺は所謂ベルダン銃にして露国が朝鮮に贈輿したものである。而して軍隊語号令は悉く露語を使用せらるるに至った。

〔露國の野心〕

 朝鮮治安の爲めなら現役兵二千で充分であるのに之を六千に増加せんとするは財源の乏しきを顧みざる無謀なる濫費である。然し乍ら成る可く澤山の兵を露国式に武裝し調練し露国士官に絶対服従の習慣をつけて置くのは露國の飽くなき野心の現れであって、露國は朝鮮人が傳統的に日本人を憎悪せるを幸ひ他日一旦緩急の場合に之を有効に利用せんとする伏線に外ならない。

〔朝鮮軍人〕

 繪の様に綺麗な着物を着て茜染の羽毛の長きを飾って居た憲兵即ち旗守は其の数漸く減じて僅かに大官の徃來に随行するを見る位になった。之に代って巡査が殖へた。而もそれが多すぎる。京城丈けで千二百名もある。此の四分一もあれば澤山だと思ふ。一寸日本の軍服に似た洋服姿にニッケル鞘の劔を吊り至る所五人十人と所在無さにブラブラして居る。
 元来軍隊及警察の編成は日本制に傚ったのだが
過分な俸給を貰って居る。軍人には衣食全部給輿した上に五圓五十錢を與へ、巡査には食料以外全部を給輿して八圓乃至十圓を興へてある。朝鮮軍人は恐らく世界第一の高給者であらう。

 總じて朝鮮人は寛濶なる股引を穿ち、例の鍔廣の帽子を載き、廣袖の上着、周衣の長羽織で服装から言へば文雅温厚の趣があるが之に洋服を着用せしめると獰猛な、不逞な、殘忍な人に変わって権勢と職禄に渇したる無情不忠の漢となって仕舞ふ。陸軍の地方分遣隊は地方人の之を憚ること虎の如く千八百九十七年の殘忍なる撩奪的行爲に震へ上って居る。
 実際軍人の多きは朝鮮には考へものだ。国富に不釣合な程の人数を擁し過分の給興を施して居ては却て力を減殺し秩序を紊乱する基とならとは言へぬ。露國士官たるものは此の點を慮って軍紀を振粛し教育を真に峻厳にせねばなるまい。

〔市街の整頓〕

 京城は到る處不規律不整頼不清潔であるが特に西大門方面及南大門方面に於て甚しかった。所が大通は少くとも五十五呎に其の幅を懭げ、両側に深き石畳みの溝を作り石蓋を以て虎列拉養成所を隠蔽し、横道も擴張して小溝を設け、以前は大通りと雖も自轉車なら無事に走らせられなかったが軈ては馬車を驅っても差支ない程にならんとし、場所を撰んで佛蘭西ホテテル建設の目論見となり、障子戸立てた商店も追々に増加し、汚物を街路に捨てる慣習は法令を以て禁し、且つ汚物一切官費を以て掃除人夫を傭ひて市外に送らせることになった。期くて無類に不潔な都は東洋一の清潔な都にならうとして居る。

〔尹李彩淵氏の功績〕

 都市の美化作業は、特に京城の整頓は大事業であるのに右の如き市區改正を四か月間に埒を設けたの税関監督のブラオン君の誠意と手腕でであって、而も氏をして其の手腕を振るわしめたる京城府尹李彩淵氏の見識技量と謂はなければならない。李彩淵氏は元米國ワシントン府に在って親しく都市事業を観察して帰れる新人であって、市區改正事業の功を全然ブラオン氏に帰せしめ自ら謙遜して其の功を誇らざる紳士的の政治家である。

 私は京城は不潔だ不潔だと繰返して言ったが、舊京城がどれ位不潔であったか一口で之を言へば道は掃溜塵捨場、臺所のお餘りも二便も道に捨てて顧みぬ。冬の日に捨てては凍り、凍る上に捨てたる汚物は、春の日の雪消ゆる頃となればドプ々々に解けて泥の深さは踝を埋める程だと思へば大凡の様子が判る。此の穢き道路を改造すべく前期の事業が起されたのだ。然し乍ら大改造大修築と思った事業は其の實復舊に過ぎない。と云ふのは曲りくねった細道も昔は整たる道路だったらしく両側に道幅を限れる小濤がチャンと存在してるのが発見されたからだ。

〔面目一新〕

 府尹は道路擴張の爲めに取り毀はした家には賠償した。廣げた道路には舊下水道を修理した。新築の家屋は道路面より一定の間隔を置くべきことに定めた。大通りに沿ふた家は悉く瓦葺になった、曾ては璧の裾から温突の煙湧き出でて、行人を惱まして居たのが亜米利加から輸入した石油の空罐を継ぎ足して烟突を作るのが流行し出した。店舗に幾分か整頓の心か仄見える樣になった。今や数哩の間は敵歩路として格好のものとなった、商賣は以前に比して頗る活発になった気がする。店舗は段々充實する。香港上海銀行は支店を仁川に置き、更に京城にも之を設けんとし其利用漸く盛りとなり、京城は繁華の運勢に乗りかけた。

 道路の改築は必しも大通のみに止まらなかった。刺激の強いイヤな臭気は京城から消へなんとし、衛生思想が芽生へ、自分の家の前の雪丈けは自分で掻きのける丈けの公徳心も普及した。私は京城特有の貧民窟を撮影し度いと思ったが夫れ等は早く除去されて容易に見當らなかった。京城の非文明は過去の世に葬り去られ、新らしき京城は日に月に發達する。
 が然し乍ら市區の改造は到底朝鮮式であって泰西の進歩したる式に則って居ない。若し国王陛下が慶雲宮を新築遊ばされなかったらアノあたり一蔕は外国の公使館、領事館、敎曾等を以て理められ、商店は西洋人の経營に成り全く朝鮮趣味を脱したる區域になったに相違無い。佛蘭西公使館は新たに高地を撰んで聳ち露国公使館と其の偉観を競って居る。亞米利加メソジスト、エピスコバル協會も大きな赤煉瓦建を建てた。仏蘭西教曾の建物と共に京城の雙璧である。

〔北京街道の面影なし〕

 或は丘を登り或いは下り、路面凹凸甚しき北京街道は幾世幾代駄馬を疲れせ人を困らせたことであらう。支那皇帝の使臣は派手な行列之れ見よがしに此の街道を通って来たものだ。朝鮮国王は支那の使臣を此の道迄出迎へたものだ。然し今は此の壯観此の儀式は見ることが出来な:なって北京街道の意義が無くなった。 道に迫る岩角は削られ、躓く石は捨てられ、危き穴は埋められ、峠の岩の堀切道は廣められ、岸は平となり、昔の峻道は変して今の大道となり、廣々として往来安全となった。

 桑滄の変は市區の改正、道路の改修に止まらぬ。多年政界の中心人物として偉を振ひ腕を鳴した大院君も事實上幽閉せられて姿を消して仕舞った。東西の王城は其の無数の建物と秘苑玉池と共に空屋となり廃墟となって仕舞った。曾て景福宮に迄も兵舎を作り駐屯した大部隊の日本兵は居留地に引挙げ、其の数は僅かに公使館守備に充つるに過ぎなくなった。真洞一圓外國人區域に塊って居た各宗派の教會は市中到る所に進出發展した。學校と言ふ學校は軍隊的氛分が横溢して非常に活発に景気よくなった。學者も小供も之を飲迎して居る様だ、萬事進歩主義である。但し新舊思想は陰に陽に或いは絡み合ったり渦巻たりする。

〔文部大臣申箕善の著書〕

 滑稽なのは文部省だ。千八百九十六年時の文部大臣申箕善は一書を著はし文部省・参輿官二人の序文を添へ官費を以て出版した。其の第五十二頁に日く「歐羅巴は文明の中心即ち中華大帝國を距ること遠く、彼の露西亞人、土耳古人、英吉利人、佛第西人、獨乙人又は白耳義人の如きは之を人と言はんよりは寧ら野獣に近きものと知るべし。
 彼等の言語は即ち鴃舌にして聞く可らす云々」又た日く「西人の所謂耶蘇教と称するは野卑、淺薄誤謬に充てる蛮族の邪宗に過ぎす、君子の以て論ずるに足らざる所也。西人鬼神を尊んで父毋を顧みす、天を称して世を紊る、斯の如きは一に夷狄の風俗にして吾人の範とすべきに非す、況や時艱にして宗教の要を見ざる時に於ておや。
 近世西人勢に乗じて鴟張を縦にし、地球上彼等の厄を被らざるもの獨り大清帝国あるのみ。而して此等鴟族の尊信する所は耶蘇教に非すや。大清の學者すら又た漸く彼等の誘感汚染に陥らんとす。惧る可き哉」。

 其の第四十二頁には「輓近耶蘇宗は夷狄の敎を以て世界を荼毒せんとし、祖先崇拝の善風は天堂地獄を説く荒唐無稽の邪宗の爲めに覆されんとしつつあり。狂人の囈語到底耳を借すに足らず庶民之を誡むべし。其の第五十頁に日く「嗚呼偉なる哉大清帝國、盛なる哉中華帝國、廣袤並ぶものなく、富は字宙に冠たり、人材雲の如く偉人豪傑世界に比肩する者なし」。此の激越なる官選長談義は外國公使圑に抗議の價値ありと認められた。

〔獨立門なる〕

 北京街道に近く優美なる牌樓がある、歴代の國王は此處に清國の使節を迎へ、清國の宗主権を認め清國ちり冊封を受けたものだ。然るに時世は変化して迎恩門と大字を掲げた此の髀樓は撤去せられて僅に礎石のみ其の昔を語るに過ぎなくなった。而して之に代るべき建築の基礎工事が私の滞在中に進行した。それは千八百九十五年正月の朝鮮國獨立宣言の紀念牌で、名けて獨立門と稱する。門に近き離宮を利用して倶樂部とし之を獨立倶樂部と名け、國民的自治の維持增進を目的とし目下二千の會員があると称せられる。
 恰も獨立門建設の定礎式の當日は獨立倶樂部主催者となって外國公使館員及外國居留民一同を該倶樂部に招待し、交驩の演説が朝鮮人と外國人との間に試みられ打ち解けた宴會が行われた。倶楽部委員は素より漢城府尹、内閣諸公も出席し、主客の間に親しんで狎れず、和して禮を失はざるところがあった。

〔ゼーソンの新聞発行〕

 京城で特筆大書す可きは千八百九十六年四月英韓字新聞「インデべンデント」がドクトル、ゼーソン氏によりて創刊された事實てある。該新聞は一週三回、ニ頁大のもので英文及朝鮮文を以て印刷し、翌千八百九十七年には四頁に擴大し英文と朝鮮諺文とは別刷にする様になった。

 從來自國内の事件すら道聽途説、嘘が八部の又聞きで朧げに推量する位であった朝鮮國民が――流言蜚語を輕信して突き止めた証拠も見ずに喧嘩の押し賣りした朝鮮国民が――一度新聞出でて社曾の真相は敎へられ國民は迷夢を開き、官吏の悪政、裁判の不當に厳正な批判を加へ、輿論を作り得る様になった。一度新聞出でて、影暗き不正を太陽下に引張り出して世を警しめ、合理的教育、正當の改革を鼓推して人智を開き、不正官更、不正官吏は舌を巻いて驚き該いた。

 實に諺文新聞を小腋に抱込んで町々を走り歩く光景と、店々に新聞を拡げ讀む光景は千八百九十七年(明治三十年)来の新規の現象であった。

〔其他の新聞紙〕

 「インデベンデント」紙の外に目今京城には「コレヤン、クリスチャン、アドボケート」紙と「クリスチャン、ニュース」紙がある、二週一回の發刊である。朝鮮獨立倶樂部は新聞「朝鮮」を発行し、政治、學術及海外事情を主として掲載して居るが既に購読者二千に達して居るさうである。

「漢城新報」は日本人の経營に成り日鮮両文を掲げ隔日に發行して居る。尚ほ釜山及び仁川には日本人新聞がある。

〔楔〕

 弱き者、虐げらるる者は衆相倚りて相互扶助の團體を作りて強き者に對抗しなければならない。朝鮮の「楔」はこのために生れた組合であって最も注意すべき組織を有って居る。楔は保險曾社の濫觴に似て相互的利益のアスソシエーンヨンであり、資金融通のシンヂゲートであり、トンチンでもあり、冠婚葬祭のクラブでもあり、商人團體の大なるギルドでもあるし、其他種々の性質を有して居る。

〔團體企業の核心〕

 数多い楔の中私はホンの二三に就き調査したが之を以て察するに朝鮮人の社會生活は甚だ複雑である。甚だ複雑であって而も其の間に欧米に見る可らざる整然たる組織が立って居る。例えば朝鮮中の商人は悉くギルドの組合員であって必要ある場合は必ず相倚り相助くる義務の下に固き團結を作って居る。此の協同の風習及び真面目なる服従は團體的企業成功の核心であって株式会社成立の骨髄である。製革事業は實に

 此の傾向を利用したるに過ぎぬ。従来朝鮮に産する獣皮は生皮の儘日本に輸出し製造したものである。

 朝鮮人は製革業は迷信的に此を賎しんで賎民の手に委ねてあった。所が會社を設立して教師を日本より雇い入れ古来の迷信より脱し有利なる事業を開拓することとなり、其の他の事業も亦會社組織に做はんとして居る。

〔司法行政の混淆〕

 東洋諸國に有り勝ちの事であるが朝鮮の法規の運用頗る感心せぬ。元来司法と行政の區別が立って居らぬ。裁判官即行政官、行政官即裁判官である。外國人と朝鮮人とで制度改正委員が任命されたが朝鮮人委員は脱退の意がある。司法省顧問グレートハウス氏ハシッカリした法律家で同君の意見により不當な處分を阻止した部分もあるあが矢っ張り京城裁判所は不正不法な行政官庁廳と同一である。

 司直の官吏が賄賂を貪って居る。但し高等法院は司法大臣及び次官の監督を受け外國人顧問陪席し重要事件に就て忠告を怠らざるが故に最も有望視せられて居るものの、最近嫌忌すべき醜い事件が起こって居る。乱暴な判決、大ピラな収賄、残忍な仕打ち等は、裁判所として是非改正しなければならぬ事共であると言ふ以上に私は何も書き度く無い。

〔ストリブリング氏の監獄改善〕

 千八百九十六年に行われた大變化の一は監獄の改善であらう。此の改善事業は警察顧問ストリブリング氏に負ふ所が多い。氏は曾て上海警察に在った人で朝鮮に招聘せられ、曩きに日本人により提唱せられたる所に従ひ人道的啓蒙的主義によりて改革を實行して居る。第一拷問が廃せられた。但し最近迄政治犯人か過酷な拷問に逢った噂も立ったから果して全部撤廃せられたかは疑問とせねばならぬ。
 私は東洋国の監獄と言へば曾て小亞細亞、波期及支那の夫れも見た。京城の舊監獄も見た。夫の印象は生々しく私に殘って居る。然るに新監獄は大に舊態を革めて居る。四角な大きな中庭の中央には看守室が建てられ、監房に最早昔の穴蔵然たるもので無い。間取は廣く光線を充分に引き通風に注意し、床は高く疊敷になって居る。私が観察した日は寒くて華氏十八度の気温を示し、囚人は震へて特に私の姿を見ると同情を買ふが如く故意に震へてゐた。結搆なことに彼等囚人は日本式の大浴場を有し、食事は一日二度米飯を大椀に盛り上等の汁を副へてある。勞働に出る折には三度の食事を輿へることになって居る。食費一日分一斤四分の一。

 檻房は概ね十二名乃至十八名を収容し、未決囚五十名は一室に監禁してあった。死刑囚両名は長大な首枷を嵌めて居たが足は見ることか出來なかった。囚人等は皆各自白蒲団を携帯入監するを宥されてあるが褥に體を横へ枕するのが一日の喜びである。大體に彼等は清潔で市中の苦力等よりも遥かに清潔である。床の上に幾つも打抜きの孔を明けた横木があるのは囚人の足を縛って置く木である。病室は薄暗い温突であったが何とか明り窓を作ればよいと思った。
 囚人の数凡そ二百二十五人、皆男であった。犯罪別に分房してないから殺人犯人がかっぱらいと同室するのがあれば、謀反罪に問はれた聯隊長が重罪犯人と共に起臥し、つまらい一市民の告訴により收賄罪に問はれ終身刑の宣告を受けたる朝鮮第一の高官が首枷を嵌められ穴蔵の様な所に監禁されて居た。刑期は必しも罪の大小に比例せものと見へヨボヨボのお翁さんが他人の山の松を切って薪に持ち歸った科によりて三年の懲役に處せられたのがあれば、身許賤しから盲目の老人か他人に煽動せられ墓地を發(アバ)いたから十年の禁錮を申渡されたのがある。
 依って按ずるに監獄改善は既に多くを爲されたけれども、尚ほ爲すべき多くが殘って居る。就中囚人の分類最先に試みらる可きであらう。さはさりながら京城監獄は支那の監獄に比すれば格段の相違があるし、其他東洋諸國の旧式監獄に比し数等上等である。

 拷問は少くとも名義上禁止せられ、首を梟し死屍を鞭つ等の蠻風は日本の勢力時代に終を告げた。私は午過ぎに監獄の視察を終った時に僅かに二年前に三つ竹にブラ下って居る生首を見たり、首無しの胴體が血に塗れて道端にころがってるのを見たろした事が夢の樣で自分乍ら真實とは思はれ無かった。


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)18 敎育、貿易、財政    

2019-08-31 20:43:52 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯   


イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」 

18 敎育、貿易、財政 

〔教育の概要〕

 朝鮮の敎育法は従來愛國者、思想家又は真面目な人を出すべく失敗であった。

数育法の概略を話すとコウだ。普通書堂と称する學校に於ては生徒は床の上に直に坐り支那文の教科書を滕の前にチャンと置き、上體を前後左右に揺り動かし、聲の届く限り聲の出る限り高聲に朝から日沒迄同じ所を繰返し繰返し暗記する、支那字の手習をする、支那聖賢の話やら、神話的の歴史を學ぶ、博學で尊大振った、そして大きい眼鏡をかけた先生は手に笞を有ち書物を前にして喧々噪々たる讀み方を訂正して呉れる。生徒は斯のき教育を彼れ是れ十年を授けられて科擧の試験を受け得る年輩になる。

 

〔科擧〕 

 科擧とは千八九十四年迄繼績して毎年京城に於て行はれた欽定試験であり、官吏登用試験である。

官吏たらんとする者は此の試験に及第するを要し青雲の志ある者は此の登龍門を超へなければならない。然るに上述の如く朝鮮の数育法には想像力を養成すべき何等の方法を講せす、己か住む世界を解釋すべき何等の學課を授けない。六かしき支那文字を學習する努力、自己一人を満足せしむる智識は元より排斥す可らざる精神修養に相違ない。孔子孟子の道義的教訓は假令不完全なりと雖も尊崇す可き價値、理念を含んで居る。

 

〔教育法の欠點〕

 然し乍ら之を以て現代教育の全部として賞讃する譯には行かない。狭量、因盾、自惚、尊大振ること、労働を賤しむこと、我利々々の利己主義、公共観念の缺如、社曾的の不信用、二千年前の風俗傳説に盲目的に服從すること、智識見識の狭きこと、道義心の淺薄なること、及婦人を虐待して怪しまざること悉く是れ朝鮮教育法の生み出した缺点である。

 

〔新教育起る〕

 科擧の試驗せられて當局の官吏登用方法は自ら変化して泰西の學風興り、諺文の利用盛となり、漢文全能の時代は終り、新思想暫次擡頭し、新育方法によりて總て教育其のものを一新し學術の趣味を鼓舞奬勵する必要を認めた。而して此等の主張は京城を中心として四方に流れ出た。
 現今(千八百九十七年十月)朝鮮語を以てする官立諸學校の外に官立英語學校あう、外國語學校あり、幾多のミスションスクールがある。英語學校では百名の生徒は制服を着用し英國兵の教練を受けフットボールなどの遊戲さへ輸入し、其の様子なら態度なら語學なら進歩中々に著しく敎官を心から信頼して居る。英語學枚に倣って日語學校、佛語學校、露語學校も出來甚だ盛んである。

 露語學校経営者ピルコフ氏は露國陸軍軽砲兵大尉で其の生徒は佛語學校生徒と共に露国士官の兵式操作練を習って居る。

 

〔培材學堂〕

 此等諸學校中数育に道徳に智識上に最大の効果を收め得たるは培材學堂で、其の名は千八百八十七年國王陛下親しく御撰定になったものだ。本校は亞米利加メソジスト、エジスコバル教曾に屬しシヴィー、ジー、アッペンツエラー僧正既に十一年間校長として働いて來た。爲めに校風振ひ愛國的精神が生徒間に澎湃として起った。

 實際に本枚が深い印象を興へた事も、智識を廣め道義心を深くした事も疑無き顕著なる事柄である。或は朝鮮を救ふべき源泉は此処より流れ出づるのではあるまいか。本校に於ては基督の教義は勿論教へると共に禮拜堂の集りは強制的に強られる、而して其の生徒は會て千八百九十年軍隊騒の折には軍服を給輿せられた事もある。

 支那語諺文科に於ては支那古典及萬國歴史を教へ、神學科英語に於ては英語の他歴史地理算術化學博物の初歩を教授し、手藝科に於ては印刷製本を試み、何れも生徒滿員の状況である。本校の数育の健實有効なるを認め既に千八百九十五年政府は本校生徒二百名迄の月謝を負担し並に教師若千名の俸給を支給することにした程である。

 

 同教曾は培材學堂の外に男女の學校を作り特に産業上の訓練を施し、米國プレスピテリヤンは種々有要なる學校を建て特に女子教育に精力を集中して居る。

 佛蘭西のレシエラ、デ、ミスシオーン、トランゼールは京城に孤児院及小學校を興し二百六十名以上の生徒を収容して居る。主義とする所は孤児を導きて善良なる羅馬舊教徒たらしむるに在る。小學校では諺文及支那文の讀み書きは勿論或る程度迄は支那古典も教へる。宗敎教義は諺文で教へ他日朝鮮人教化の階梯たらしめる。孤児院では單に諺文のみを敎授し、年十三となれば京城か田舍の教會に引とられ農業なり商業なりを敎へ込むか又は教曾に使ってやる。少し年をとれば縫針世帯の道を教へ、十五歳となれば信徒の孤児男子と結婚せしめる。京城に近く龍山がある。
 龍山には羅馬舊教の神學校があって僧呂を養成して居る。

 

〔日本人側の學校教育〕

 以上の外に日本人海外敎育の學校がある、日本人基督数徒の手により千八百九十六年設立せられたるもので漢文、諺文、作文及泰西の學門修業の便法としての日本語を課し、諸種の科學及宗教も講義して居る。期の如く種々の學校は次々に設立せられ千八百九十七年(明治三十年)現在ではミスション、スクー及其他の外國人経営の學校生徒合計九百に達して居る。元来子供は老人の親である。

 學生時代に受け入れたる思想、人生観等は生涯を貫いて容易に髪化せざるものである。他日此等の學生は國民の中堅となり国家に寄輿する所尠からぬものがあるだらうと思ふ。

 総體朝鮮の散育改善思想は日本人が勢力を張り改革を企てたる時にせるもので小學校、中學校及師範學校を普及せしむる豫定であった。而して此の計劃は曲りなりにも寳現せられ小學児童既に千人を超へ算術、地理、歴史又は先進文明の梗概などを學んで居る。加之七十七人からの留學生は官費を以て日本に派遣せられて居る。聞く所によれば語學には最も堪能なるも数學及論理學の才能に劣って居る様だ。然し乍概括して朝鮮教育の将来は有望では無いとは言へない。 

 

〔外國貿易〕

 朝鮮の外国貿易は年額百五十萬磅に過ぎぬが、一千二百萬人以上の人口を包容して居る國柄から推しても看過す可からざるものであらう。
 第一現在の貿易額は開港以來僅か十三年後の状況たることを承知してかからねばならぬ。朝鮮は純粋の農業國にして而も其の農法たるや原始的なるを顧る時に、到る所肥沃なる田野は山脈に隔てられて各孤立して交通の便を缼けることを顧る時に、
 朝鮮農夫は今日漸く海の彼方には米豆に對し無限の需要の存在せることを知り初めたることを顧る時に、
 更に人民の莫大なる綿織物の需要は海外より棉糸布を輸入して有利に手にし得べく、外國産の貨物を輸入して諸種の幸福を増加し得べく、更に此等の事實が単に鎖国隠遁の門戸を破りたるばかりの時節なるを顧みる時に、
朝鮮質易の小額なるに驚くと同時に将来大に發展すべき餘地の綽々たるを感ぜざるを得ない。

 輸入貿易は千八百八十六年(明治十九年)二百四十七萬四千百八十九弗なりしが同千八百九十五年(明治二十八年)に於ては六百五十三萬千三百二十四弗に増加して居る。

 

〔輸出品〕

 輸出品の重なるは大豆、乾魚、牛皮、人蔘、紙、米、海草等で仕向地は支那及日本に限られて居る。尤も朝鮮は日本の米倉と看做すべく千八百九十年の輸出品既に二十七萬磅に達して居る。輸出先が日清両國に限らるるに反し、輸入先は欧米諸國及印度等がある。私の見る所では他日道路が改造せられ鐵道が布設せられ百姓が官吏及貴族の壓制誅求より免れる時代が到來したならば斯くも見苦しき貧乏状態を脱し得て、一方には生産を増加し一方には清費を増加し物質の幸福を享け生を楽しむ事が出來るだらう。
 既に一部の住民は露西亜統制の下に此の曙光に浴して居るではないか。朝鮮が舊態を脱し文化の自由を味ふべき時機の到來は最早疑われぬ理由がある。二十世紀の初期に朝鮮外國貿易が年額一億圓に達すと聞くも敢て驚くに足らぬ。此の貿易に英國が如何なる地歩を占め得るかは将来の重要な問題であらう。

 

〔日本の成功せる所以〕

 朝鮮市場に於ける英國の好敵手は日本である。日本人は二十時間以内に船を朝鮮海岸に送り運輸業を独占し得るのみならず炯眼敏捷、能く機を察し、不撓不屈なる進取的國民である。英國商品は日本の安価品によりて駆逐せらるるは避け難き勢ではないか。鐵、小刀、燐寸、針、鋤、鎌、石鹸、香水、石油、洋燈、包丁、鐵釘等は概ね日本品の占む所だが、綿糸布類が日本品の競爭を受くるに至っては英國人は緊褌一番せなければならぬ現象であらう。

 

 朝鮮の輸入額は千八百九十五年に於て八十七萬五千入百十六磅なりしものが翌千八百九十六年には七十萬八千四百六十六磅に減少して居る。而して此の減少の主因は英國品の輸入減少に在りて日本品は何等減少する所のみならず却て増加したものさへある。
 日本製シーチングは英國製及米國製の減少せるを償って尚ほ餘りある増加を示し、日本製綿糸は英國製及印度産の綿糸を逐年駆逐して居る。日本線糸は英國よりも非常に安価に印度産よも遥かに品が上等で而も同価格を以て販売するから日本製が歡迎せらるも亦理由ありと謂はねばならぬ。

 

 然し乍ら私の両度に互る旅行で開港場も内地も奥深く観察した結果によると、日本品の優勢なるは必しも右の如き関係からばかりでは無い。現に日清戦役終了後支那人は英國の保護の下に追々に朝鮮に帰還し、既に日本人に對し企業に取引に竸爭を始め、マンチエター産を上海から輸入して版路を拡張して居る。
 日本品が竸爭場裡に優勢の地位を占むる所以は恰もペルシャ及中央亜細亜に於ける列国商品の競爭と其の勝敗の原因に彷彿たる所がある。即ち需要者の趣味嗜好に通せざる供給者は破れる。領事其他外交官の報告を無視する商人は負ける。自己製法に執着して需要者の好む色合、柄、幅等を顧み無い商品は賣れぬ。包装荷造りが需要者の手頃と感ずるもので無ければ取引は起こらぬ。

 英國製綿糸布の需要の増加せざるが其の劣等なるが故では無い。朝鮮人の欲する所を無視するが故である。鑑む可きであらう。

 

 朝鮮市場に於て日本人の成功せる所以は、彼が一衣帯水の関係を巧みに利用せるのもならず能く都鄙の需要状況を精査し能く朝鮮人の趣味を解する故である。日本より来る綿糸布は陸揚げすれば直ちに子馬に積載する様に梱包してあるし、更に其の幅、其の長さ、其の価格、其の色柄共に朝鮮人向きに出来て居る。若し英國商品を更に朝鮮に入れる為には恰も日本人が試みたるが如く綿布の幅は十八吋とし長さも朝鮮地木綿織と同一とし、地合も数度の洗濯に堪ゆる如きゴツイものを造らねばならぬ。此れが商売の道であらう。
 何はともあれ日露両国の援助の下に朝鮮は暫次開発され一歩一歩外國商品を購入する実力を得つつある。此の状況に在りながら英國商品のみ独り貿易上の劣敗者たるは本國の製造家が朝鮮人の趣味性格に無頓着であるからである。

 

〔金地金の輸出〕

 金地金の輸出は年々増加し.千八百九十六年に於ては元山一港より百九十萬弗に達して居る。而して此の金輸出を加算する時は朝鮮の輸入超過は約五萬磅に過ぎなくなる。それから朝鮮近海には英國旗を掲げた船は一向に見へぬ殆どが日本の独占に委ねた形で、僅かに露西亜船が競争を試みる位である。尚朝鮮貿易は単に三つの開港場に於てのみならず未開港の沿岸に於て及び支那露國の国境方面に於て相當営まれて居るが其の価額は不明である。

 事実上朝鮮貿易は日本の独断場である。私は日本を以て英國の好敵手と謂った所で日本の物価は急速に騰貴しつつある。勞銀は年々引上げを要求せられて居る。遠からず英國と同様の状態となって餘り安く賣り込むことは困難になりはしないか。英國と日本の真の競争は其の時に行われに相違ない。

 

〔租税〕

 財政方面は私は餘り言うことを有たぬ。歳入の大部分は地税で、地税は豊沃の地一結に付き六弗、山間の地一結に付き五弗、家屋税(京城は例外)一戸に付き年額年額六十錢、其他人蔘税等合せて歳計大略四百萬弗、之を以て正規の歳出を償って餘りがある。然し乍ら官吏の腐敗其の極に達し徴収されたる租税の三分一位しか国庫にはいって来ない。幸に地税の負担は非常に軽い。若し夫れ政府が国民敎育に熱心で而も之に要する費用に窮するならば酒税煙草税を新設して優に之を求めることが出來るだらう。
 蓋し酒幕の如きは京城のみにて四百七十五戸に登り煙草店は千百軒に達する。加之新に税源を搜索せすとも租税徴収の法を厳重に適切にしたらば現制の儘にて収入は著しく増加すること請合いである。

 

 既に指摘したる如く朝鮮宕吏の腐敗は言語同断である。千八百九十五年迄は國庫の紊乱手もつけられなかったが、概括して財政は有望である。千八百九十五年の暮、税関監督ブラオン君は無給の財政顧問を置き国庫の支出は皆國王の裁可を必要する制度を建てられる様陛下に進言した。総體朝鮮人の脳髄は奸策を回らし公金を着服する手段を発見するには驚くべき才能を所有して居る。又朝鮮官吏程不真面目で而も絶滅し難きは世の中にあるまい。

 外國人顧問が漸く一方面の不届者を押へ付けると直ちに他方面の奴がニヨキニヨキ頭を擡け始める。實に手に終へない厄介者だ。然し有爲な欧米人が財政整理の衝に當って其の基礎を強固に築きつつある。細心なる管理、線密なる節約。國庫組織の整理、地税徴収法の改善、歳出入の権衡等極力勵行せられた。

 お蔭を以て千八百二十七年三月に至る一會計年度には尠からざる剩餘を生し、日本より借入れた三百萬圓の中百萬圓は之を返還することが出來た。のみならす千八百九十九年迄に悉皆の外國債は之を辨濟する見込が充分に立った。そしたら借金なしの國、澤山の剰餘分を殘す有福な朝鮮となるのだ。

 

 千八百九十六年の財政は上乗の成績を擧げた。何しろ此の年を以て新たに二個聯隊が増設せられ、旧式の言はゞ無用の玩具的工厰は廃せられ露西亞技師を聘して面目を新たにし、慶雲宮は新築せられ、閔妃改葬の巨費も支辨せられ、而も京城西部の改修費用も支出した。且つ軍隊警官の俸給も月々滞り無く支拂ふし官吏には充分の俸給を輿ふると共に戸位餐のウヨウヨした奴サン達を暫次に淘汰して居る。

 銀貨、銅貨は第一装飾にもなるし段々廣く流通する様になって穴開きの葉錢を駆逐して居る。銀行も漸く社会の知る所となり利用せらるるに至った。


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)17 斷髪令    

2019-08-29 12:41:34 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯

 

イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」

 

17 斷髪令

〔日本の勢力衰ゆ〕

 新玉の年事ち返り朝鮮にも千入百九十六年(明治二十九年)の正月が迎へられた。然し乍ら舊年が暗澹の裡に暮れたるが如く新年は陰惨たる程に明け初めた。

 京城市中所々小暴動が起こり、官吏の誰れ彼が殺され、反乱者は却て市中を横行して民を恐させた。日本の勢力は日に日に衰へて段々撤兵し始めた。各省の日本人顧問は免ぜられ、日本の提議によりて成れる諸種の改革は逆轉した。反改革運動は現實に起って來た。政府は全土に信を喪ひ瓦解に近づきつつある。

 国を挙げて不安に襲はれ、所々の暴動は一段と險悪になってきた。他國人にと何でも無いことであるが朝鮮人には祖先の遺風を破壊すべき大事件に直面したのである。と言ふのは千八百九十五年十二月三十日斷髪令が發布さ鼎の沸くが如き騒動が持ち上がった。王妃の暗殺事件にも大君院の專横なる振舞にも國民は大人しく忍んだ自己頭上のチョン髷問題に至っては最早我慢ならぬ。眉に火が着た様なものである。頂髷の朝鮮人に於けるは辨髪の支那人に於けると意味を異にする。
 支那人の辨髮は満州朝廷に対する服従の形式である。夫れ以外に何等の意義を有たぬ。子供の髮長くして組むに足れば即ち辮髪とする。言はば強られたる習慣である。之に反し朝鮮の頂髷は國籍を標榜し、神聖なる祖宗の遣風(或は五
百年來の風俗と称し、或は二千年來の民風ご称する)を顕彰彰する所以である。

 

 假分若年たりとも頂髷を結べる者は一人前の男たるを示し、家庭の呼び名たる幼名を捨て、堂々社會的に名乗りを揚げたる證據となり、誇る可き系図に其の名を列することとなり、妻を娶れる看板となる。中年者であらうと老年者であらうと妻帯せざる者は名無しの木偶の坊であり無力者であり尊き頂髷を頭上に結ぶことは出來ない。
 極々稀には未婚者たる肩身の狭い名と未婚者の印に組み垂れたる總角を隱さんが為めに無理に無理して無け無しの金を掻き集め綱巾、帽子を求め周衣と呼ぶ長羽織を求めることもあるが百人中一人も無い。九十九人迄は頂髷は結婚に伴ふものである。頂髷に対し總角は年の老幼を問はす敬意を拂はねばならない。

 

 頂髷の櫛入式は即ち元服で人事の大禮である。其の子の新嫁定まり結婚の日も近けば両親は財布の底を叩いて衣服帽子等成人に要する調度を仕度し、ト者を呼んで吉日を澤ばしめ、縁起の時刻、方角を定めて貰ふ。比のト者は新郎新婦の運命を左右する專門家で報は頗る高いから昔通には座頭坊主を招いて占って貰ふことなって居る。
 斯くて定められた吉日が到來する家族は一室に和集まり定刻に元服の式か治まる。本人は部屋の中央設けの席にト者が教へた方角を向いて坐する。少しでも向き方が違へば北の日から悪運が一生涯本人を困しめるから最も愼重に注意せねばならぬ。
 それから結髮が始まる。父親の運勢吉ならば父之を行ひ、凶なれば他に適常な人を選んでく。静々と立ら上って今ぞ男になる人の總々と組み垂れたる總角を解く、頂上直徑三吋ばかり圓形に髪を落す、残る髪は之を束ねて今剃った真中程に集め元結で根もとを堅く縛る。縛り寄せた毛は更に長さ二吋半及万至四村位に括って髷が出來る、髷は角の如く天に冲する。

 網巾は馬毛を以て造る鉢巻眉際より後頭部にかけて堅く後年前額骨にさへ型が残る程に締めつける。網巾の上に帽子が乗る、帽子の纓は顎の下に重れる。加冠が済めば周衣とて外套に似たる上着を着せる。これで元服の式を終りて一人前の男になつた譯である。新成の男は衣冦を正し父母より父母其の他家族に成人の挨拶を告げ恭々しく禮拜を交換する。
 次で祖先の位牌に対し供物を捧げ謹で滞りなく頂髷の式が済んで本日元服成人した旨を告げる。真鍮の臺には燭台には蝋燭輝いて之を祝福するやの感がある。式終って宴會となる、成人の待遇を受ける交際の.始りである。夜は父の家に祝宴.が催され友達は悉く招待せられる。

〔帽子〕

 帽子は立派なクレノリン製で重さ僅に一オンス半位、頂鬢は帽子越しに幽かに見へる。所で此の帽子たるや、濡れたら臺なしになって仕舞ふから始修心配の種になって居る。外出する時は扇形に疊んだ輸子蔽ひを必す持参し、之を冠らざる時は飾り立てた箱に蔵むることになって居る。朝鮮では脱帽して人に接するを非禮とし官吏参内して陛下に謁する時は尚更の事、只極親密な友達と和會する時に帽子を脱る位である。硬玉、琥珀、土耳古石などが能く頂髷の飾りに用ひられる。

 若き公達は好んで鼈甲の小櫛を挿す様だ。劍を取りて國家に反抗しても尚保存せんとする程の大事な頂髷の飾としては餘り簡單に過ぎるが別に事変った趣向も見付からなかった。

〔青天霹靂〕

 祖宗より相承けて其の風を紊さず、國籍の證據となり、忠誠の標榜となり、人格の要件たる頂髷に國民が強い執着を有って居るは勿論、子孫に之を傳ふべき不易の良俗心得るのに斷髮令は青天の霹靂の如く国民を震駭せしめた。蓋し此の斷髪令は早くより亜米利加帰りの數子により提議劃策せられ、内閣に於て審議せられ、只だ國民全部の反感を虞れて其の發布を躊躇して居た。

 所が勅令發布前訓練隊の将校三名抜刀の儘内閣會議室に侵入し斷髪分の即時を発布を要求し、苟も政府の使用人たる者は一人残らず先づ頂髷を切すべしと強要した。諸大臣は白刄を見て命が惜しくなり強迫者の言ふが儘になった。只一人之に反對し閔妃葬送後迄其の發布を見合はせることを主張せしが其實は間もなく國王の御裁下を得て十二月三十日に突如として公布せられた。

 次て國王陛下、皇太子殿下及大院君の断髪となり、軍隊と警官が其の範に傚った。翌日の官報は勅令を掲載し尚陛下既に断髪せられたれば官民共に速に之に則り陋習を改めて世界の文明に浴すべきことを通達した。左に内部大臣の告示を譯して見る。

     其の一

斷髪は衛生的で執務上便利である。聖上陛下は行政改革と国民向上の御見地からして最先に範を臣民に垂れ賜ふた。大韓國民たるものは謹んで叡慮を奉載しなければならない。

尚今後服制は左の通り定める。

一、国喪期間中衣服帽子共に白色のこと
二、網巾は爾今之を廃すること
三、洋服着用は各人勝手たるべきこと

臨時内部大臣  兪 吉 春

   十一月十五日     

 

     其の二   

本日御發布になった勅語には左の御言葉がある。

股率先斷髪して其範を爾臣民に示す、衆庶能く朕が意を體して列強と比肩すべき大業の達成を期せよ。

方今革新の期に際し聖旨を拳戴熟読したら、朝鮮國民たる者は感涙奮起せざるものはあるまい。我々臣民たるは心肝に銘じ革新の聖意に答へ奉らねばならない。

                         臨時内部大臣  兪  吉  春

     開國五年十一月十五日

 

〔斷髮令反対の他面の理由〕

 斷髮分が人民に不評判だった理由は元より舊慣を一朝にして破壊するからであった。尚ほ他の理由は斷髮すれば坊主と區別がつかなくなるからだ。朝鮮では僧呂は社會の尊敬を受ける所か世の邪魔者と賤められる、其坊主が髪を短く刈り込んでいる。斷髮令は庶民を驅りて賤しい坊主の風俗を學ばしむるになる勿論である。

 加之一旦頂髷を撤したら何を以て日本人と区別するのか、斷髮は日本風俗の採用である。無論不愉快である。命より大事な頂髷を切り取るのだ。何とかしなければならなぬ。乃ち所謂頂髷騒動が所々に持ち上がった。大官連中も右せんか左せんあか戸惑せざるを得なかった。斷髮すれば暴民の襲撃を受けて動々もすれば命が浮雲ない。斷髮せざれば馘首せられるは必定、今日の栄誉を捨てねばならぬ。
 或る地方では新たに赴任した官吏の頭に頂髷が無かった。之を見た出迎えの群衆は承知しない。彼等は激怒した。我々の郷土は在来朝鮮紳士を牧民官としか戴いて来た。安んぞ知らん今日頂髷なき者来つて我々に蒞とは、賣僧か非國民か、どえらい見幕で詰め寄せ新任の官吏は踵を廻らし京城に逃げ戻った。

〔到る處に悲劇あり〕

 兎も角も斷髮令は朝鮮中に喜劇悲劇を巻き起した。商人百姓など所用あって都に舞ひ上った人達は無理強に頂髷を切らされた。手を髪にやれば最早頂髷は無い。妻に顔逢はす面目もなければ、郷黨の迫害も恐ろしい。帰るに家なく行くに處なき身となった哀れを悲まざるを得ぬ。食糧も薪炭も京城にはバッタリ來なくなった日用必需品は無暗に騰貴した。身分ある人達は年賀の参内もせぬ。仮病を遣って引籠る有様。期くてはならじと使を以て召し出して断髮励行する。宮中にも官署にも到る所の門と言ふ門には鋏(註、キヨウ、やっとこ)の昔が絶へ間ない。或る老人は其の二人の子供が断髮したるを見て憤慨措く能はず世と交りを断って自ら幽囚の身となった。

頂髷なる哉、朝鮮社會組織の基礎は實に挙げて頂髷に繁がれて居る。頂鬢亡びて秩序は紊乱し始めた。

 

〔道尹惨殺〕

 一旦頂髷を切り取った人々は京城を離れて遠く旅行することは困難になった。

地方暴民の憎悪を受け菲道い目に逢ふからだ。京城を距る五十哩にして江原道の首府春川がある。春川の道尹勅令を奉じて斷髮を勵行せんとするや暴民大擧して起り道尹及職員を惨殺し市街を包囲攻撃して之を占領した程である。ウカウカ出歩くことは儉難である。

警官は各城門を固めて入城者を片端から捕らへて断髪してやる結果、正月半に及んで物價は人の生活を脅威し京城内にも一騒動起るべき形勢となった。事態刻々悪化し、凶兆々濃厚にーなって來た。

 

〔國王露国公使館に逃る〕

 果然千八百九十六年二月十一日極東諸国を震駭せしむる底の電報が京城より傳はった。電報に曰く「韓国陛下秘かに宮中を離れ露國公使館に遷御し給へり」。

此の日早朝、天未だ暗きに女官の輿二つ竊かに景福宮を出て露西亜公使館の門内に消へた。其の一は陛下であり一は皇太子殿下であらうとは知る人ならでは知る由も無かった。爾来一年有餘陛下の御座所となつた部屋に入らせられた時は陸下は蒼白となって打震へて居られたさうである。

 抑も此度の陛下御逃竄は早く計劃せられ、一週間前より殊更朝夕に南輿の住來を滋くして歩哨の疑を避けられて居た。而も陛下の御日常は深更政を臠せられ朝御寢所に人らせられるから、貴願大官連が御座所に呼ばれ新内閣組機が進行中の噂が立っ迄は閣員も監視人も陛下は未だ御寢中とばかり信じて居た。露公使館で陛下は始めて周園の圧迫千渉より逃がれ長く失はれて居た大権を恢復せられた。間も無く左の効語が發表せられた。

 

     勅  語

 噫々、朕不徳にして政治宜きを得ず奸臣進み賢臣隱れた。特に最近十年間或は験の股肱頼む人を擧げ用ひ、或は骨肉の人に大政を託して見たが一人も無事に動め上げた者は居ない。連綿五百年の李朝は為めに國礎揺ぎ、億兆益々窮乏になって仕舞った。期のき事實は實に朕の耻辱で汗顔に堪へぬ。惟ふに国歩の艱難は朕の不明と我見に本づく所にして爲めに不逞の徒を化して草賊たらしめた。徹頭徹尾朕の過失である。

 然し乍ら幸にも忠實なる臣民は好臣を除く可く蹶起した。朕は忠臣の苦節能く國歩の艱難を救ひ得て暴風一過晴天を望み得るものと信じて居る。人道は長き壓迫の後に非ざれは自由を実へ與ぬ。天道は長き試練の後に非ざれば成功を許さぬ。朕は仁政を布き徳政を行はんと努力して居る。けれとも千八百九十四年七月事件及び千八日九十四年十月事件の巨魁を許す譯には行かぬ。天人の共に許さゞるには相当の罪科に處せなければなら。其の他は罪の大小を問はず文官も武官も、市民も苦力も共に大赦に圴霑し完全なる自由を享有することが出來る。朕か愛撫する臣民よ。爾の心を改めよ。爾の心を和げよ。行けよ而して爾等の公私の業を勵めよ。

 

 頂髷切りに就いては朕何をか言はむ。其の事たる斯の如く火急的強制的に爲さねばならぬのか。不忠の逆臣が其の権成を振ひ亂暴を働いたのだ。朕が意の茲に存ざるは臣民皆能く承知の筈だ。且つ全国の良民が義憤忍ぶ能はずとして起ち、訛傳に迷ひ爭闘死者を出すか如き亦朕の欲せざる所で鎮壓隊を差遣せざれは動亂止まざりしが如き甚だ遺憾に思,ふ。逆臣北は其の毒手を到る所に肆にして居る。彼等の罪.は双手の指を折っても數へ盡せぬ。髮の毛の數より多いのだ。

 討伐に行く軍隊も朕の赤子なら討伐される暴民も亦朕の赤子だ、伐つも伐たれるも我手で我指を切る様な話では無いか。戦が績けば績く程に運輸咬通を妨げ血を流し屍死を積み上げるに過ぎぬ。兄弟墻に閲ぎて和せなければ國民悉く死ぬ外は無い。悲い事だ。朕は反亂暴動の報を耳にし其の結果を瞑想する時に心緒亂れ涙流れて止まぬ。朕は軍隊が遂に京城に帰還し、反徒は直ちに正業に復するを庶幾つて居る。

 頂髷を切るも切らざるも衣寇を革むるも革めざるも勝手である。當今国民を窘める悪政尚ほ存するも、適當に朕が信頼する政府が之を改むるであらう。民朕が意を體し謬ること勿れ。

         陛下の命を奉し

              内務大臣總理大臣  朴 定 陽 
       建陽元年二月十一日


軍人に賜へる勅語

 國家の否運に乗し逆臣年々事を構へ今復た陰謀を廻らして居る報告を得たる故に朕は皇居を露国公使館内に移した。諸外国使臣亦悉く参集した。

 軍人よ来りて朕を衛れ、爾等は朕の赤子なるぞ。過去の禍亂は皆逆臣の企つる所だ、爾等軍人の知る所で無い。爾等にして誤って逆臣に加担した者も其の罪を宥して之を問わぬ。爾等の義務を盡し謹んで動揺するな。爾等若し逆臣の巨魁趙義淵、高麓善、季斗璜、学範來、季軫鎬、横永鎮等に逢はゞ直ちに首を刎ねて仕舞へ。

 爾等軍人よ朕が居住する露西亜公使館を護衛せよ。

   建陽元年二月十一日 
      御 名 御 璽

 

 同日数千の群衆は斷髮令廃止を読んでる間に内閣諸大臣逮捕の命令は発をせられ総理大臣及農商務大臣は大通りの真中で斬首せられた。血を見て群集は狂った。彼等は総理大臣を以て頂髷斬りの首唱首と認め野蛮極まる方法を以て死屍を責.

    (余白)

 奉安式が行われた。此の日陛下の身辺は憲兵八十名警衛申し上げ、列國使臣も亦御座近く参集して居たが、日本公使館のみは其顔を見せなかったのが人の気を惹いたたのも已むを得ない。軸物仕立になって居る歴代の御尊影(.尤も陛下より遡りて五人の王樣迄)は一々に金鋲打たる函に蔵められ宮廷古式に則りて通御になった。

 これを手始に種々な催しがあり、稍々後れて巨大なる葬壇は麻の喪服を着けたる七百の人夫によりて景福宮を輓き出たされた。前後に宮廷の役員を従へ、官兵に衛られ、豫定の道筋を練って新宮に導かれた。陛下と殿下は新宮の門迄御出迎へになる。長い長い行列が幄舍に入り終って零棺は位牌堂に納められた。堵列見物する群集は静粛に奉送した。此の儀式は既に亡びて再び見られぬ朝鮮古式行列の複活であった。

〔ブラオンの財政整理〕

 千八百九十六年(明治二十九年)七月一日税関事務長ゼー、ブラオン君は勅令により國庫支出の監督となり財政の紛紏腐敗を調査し身を以て其の整理に當り大に成果を擧げた。九月に至り日本の推薦により會議體組織はせられた。其の議員十四名、内閣會議に代るものであった。一朝にして瓦解した改革派の擡頭とも看做すべきであらう。

 

 日本が勢力を張れる時代に企てた悪政改革事業は共に閑却せられ國礎安定を缺き宮内大臣は又は其他の寵臣は再び君寵を笠に着て地位を利用して破廉耻な利慾に耽ることになった。國王御自身も亦常に職員録.を懐にして御手許金の蓄積に抜け目あらせられなかった。日本其の他の制肘を離れて陛下は舊慣に帰り、専制君主にお成り遊した、綸言即法律、君意即絶対の世の中となった。此の間日本はと言へは段々影か薄くなって其の喪へる勢望は露西亞之を捨ひ上けた。然し乍ら朝鮮として此の変革か果して幾何の利益を齎すかは不明である。
 

 


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)16 女房、巫子、白拍子(続)「巫子、白拍子」    

2019-08-25 21:10:40 | 朝鮮・朝鮮人 

 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯

 

 

 

イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」

 

 

 

16 女房、巫子、白拍子(続)



〔巫女〕

 又の日私は他の集りに出席した。其の集りは賢さうな信者が澤山に参集して居た。この集りの日私共は鬼神崇拜には無くて叶はぬ儀式に出會った。何でも病気の源だ!恐れられる悪魔の様だ。私は二度平壤に來たが二度乍ら夜に昼に太鼓の音がどんどんと鳴り鐃鈸が尹ャーンと鳴るのを聞た。今日も此の音が連りにするので私達は音する方へ近いて行った。

 行って見れば小さい荒屋の裡に大病人が臥せって居る。窓の外には蓆を引きして台を据へ、台上には餅、飯、煮島、萠し豆其の他種々の供物を載せてある。供物の前には三人のお婆サンが蹲まり、其のニ人が大太皷を叩き一人か鐃鈸を書して居る。お婆サンに向ひ合って緋色の衣裳に紗を羽織り、絎は長く床に引摺る程の筒袖せる巫女が紗の帯締めて立って居る。そして髮は日本の社に見る御幤に似たる紙ぎれを以て飾り、紗の帽子を載き、餘りゾットしない服装である。扇子を持参しては居るが之を用ゆる踊りは少い様だ。左肩に色とりどりに塗り立てた棒を擔ぎ、棒の先きに銅鑼を吊し、唄に合せて拍子をとりなら時々叩いて居る。一渡り踊りが濟むと供物を小皿に集めて鬼神に勧める。此の時「此の上にこの家を困しめ給はぬ様にお祈り致します、私共は御好きな物を拵らへまして御気に召す様致します、どうぞ病人をお助け下さいまし」と祈願するのである。
 尤も此の巫女なる者には有力な鬼神が乗り移って居るものと信ぜられ、其の呪文により病人を苦しめて居る鬼神を追ひ出すのだそうだ。若し病気が癒えなかったら更に澤山の供物を供へ、一層強い鬼神をお招きして巫女に乗り移って貫ふ外は無い。

 

 私共が見たお祓ひは翌朝四時前後通して十四時間績いて漸く効驗現はれ、病人は稍々気持よくなったさうだ。蓆ろを廻りて群る人は重に女子供だが、彼等はこの中に疉み込んで行くのである。

 

〔狂女〕

 私が平壌で宿った宿屋は普通の宿屋と違って客主呼ぶ仲買業兼営の宿屋である。通譯の林君は都の宿の特に西洋人珍しさに群る見物人に閉口して退いて呉れ退いて呉と絶へ間なしに追い拂った。但し一人の狂女と白拍子は例外として歡待した。彼女は容姿湍麗なる美人で私が平壤に来てから毎日毎日朝から私に付き纏って離れない。見物に行く時も教會にお詣りする時も私の側を離れなかった。其の言ふ所を聞けば私は彼の女のお祖母さんださうな、だから孫の彼女は到る所にお祖母さんの世話を燒いて呉れるつもりなのである。思へばイヂラしくも可愛想にもある。

 此の狂女は以前平壌府尹の妾であった。そして彼女が避難する以前に平壌は日清戦爭の戦場と化した。而も彼女の眠前で支那兵は日本軍に征め立てられ銃劍の犧牲となって血烟を擧げて死んだ。殘殺の悲劇を見た彼の女は身も消へ入る程に驚き且っ恐れた。哀れな彼の女はそれから気が狂って仕舞って魂の抜けた屍を引摺って行く。行く所に情知ら群集は彼の女の後を蹤けて笑ひ罵り囃し立てて居る。

 

〔官妓〕

 平壌は白拍子の名産地として名高い。白拍子と唄女のこと舞妓のこと、最もよく日本の藝者に似て居るもの政府の手に養成せられ宮中の玲人と共に政府の監督の下に置かれてある。故に普通之を官妓と呼んで居る。彼等はまだうら若く稚児の頃より弾琴、謠曲、簽、舞踊、詩歌を始め女の嗜を仕込まれ読み書き手習繪画に至る迄普通の女の敢えてせぬ事に熟して居る。

 白拍子の役目は上流縉紳の間に雑りて接待に努め気持よく時間を過させることだ。朝鮮人が其の妻の無智たると無識たると少しも意に介せぬのは之れ有るが為だ。何時も華美な衣裳を着て、暇ある時も遊ぶ折も平壌の泥道を行くさへも、目も醒むる粧をする。そして幽囚生活より解放せられ幼き頃より男女の自由交際を續け來れる彼等の所作も態度も勝れて麗はしい。敢えて朝鮮と謂はす東洋の舞踊は穏かな所作事で決して活発な不作法な振舞をせぬ。

 

 亞米利加公使館秘書官ドクター、アレン氏はコーレアンレポジトリーに舞踊の事を書て居る。或る時王室の御招待で蓮華舞なる舞踊りを見た。見ると舞臺には將に綻びんとする大きな蓮華を壺に挿してある。鶴が二朋現はれて羽ばたきをしたり嘴をパクつかせたりして蓮の花の美しさに見とれて踊る。其の踊は實に見事である。鶴は静かなる音律につれて段々花の側に近寄ってトウトウ花欲しさに花を壺から引き抜く、引き抜かれて搖るる花から紅の花弁が散る、散る拍子に花の精の小さな綺麗な白拍子が現はれる仕組みである。元より二羽の鶴はピックり仰天するが見物する若き公達の喜びたらない。

 

〔妓生は人妻たり難し〕

 男を惱殺する情を含み傾城の粧を有する美妓は多く平壌から出るが夫等は必しも平壌生れとは限らぬ。嬌名天下に馳する者は八道の何処から出て來るか判らなぬ。上は皇帝陛下より下は下級の官吏に至る迄多少の産ある者は宴席に舞妓を侍らせて興を添ゆるは欠く可らざることとしてある。白拍子は外務省の宴會にも陛下賜宴の際にも京城近郊の野遊にも必す唄ひ興じ舞ひ踊ることになって居る。而も普通の紳士と雖も必要ある時は白拍子を政府から借り受けることも出来る。

 彼等は期の如く高位顕官の間侍して見聞を廣め藝道の修養を志し普通の婦人に比し数等の智識を有しては居るもの、決して人の正妻となることは出來ぬ。日本に藝者が責族或いは政治家の妻となる風習あるに比すれば遥かに賤しきものに看倣されて居る。

 

〔恋に悲しむ〕

 朝鮮内房生活に通じて居るドクター、アレン氏に言はせると白拍子は曾て恋を知らず夫の愛情を知らす只正妻の虚名を宿して居る夫人にとりては気を揉ませる種である。由来朝鮮の昔噺には白拍子に繞る家庭の不和やら、若き公達が白拍子に恋して恋されて夫婦の約束は固めても世の慣習の冷さに遮られて泣くことやらが頗る多い。妻は空閨を守るものと定められ、空閨を守る妻いいじらしと同情して我子の耽溺生活を悲む父も、幾年の昔同じく白拍子と甘き恋に陥り其の父をして悲しましめた人に相違無いのである。

 

〔宴會〕

 私の宿れる宿屋は前に書いた通り宿屋にして問屋を兼ねて宿る客は概ね商人である。宿の亭主は客の為めに口銭を貫って商売の世話をすることになって居る。だから毎日呼んだり呼ばれたり取引上の宴會が績く。李君其の度毎に御馳走になって居るから出立の前の晩に李君はお返へしの意味で皆の爲めに一タの宴を開いた。お客一人に就きセントゼームス、レストーラントの晩餐位の費用を要する。

 

 朝鮮では静かなる宴會は無い。宴會とは喧噪會で聲を限りに唄ひ怒鳴る猛烈な集りある。尤も宴會は旅館に限らぬ實は平壌を擧げて宴會場と心得て居る。公人の家は來客の爲めに開放せられ主人の接待馳走の費用として毎日少くとも六十弗を降らぬさうだ。有閑有産階級の人達は隙潰しに家から家に飲み廻り喰ひ歩いて居る。想を練るでも無く智見を廣くする譯でもない。又た政治を論する――政治を口にすることは其の身が危い。酔生夢死、只た僅かに宮中市中の出来事を話し合ひたわいもない噂の交換する位である。

 内房又は内室に対し舍廊とは男の部屋であり客間である。此の部屋には來る者は拒ます去る者は追はず案内無くして訪問勝手である。上品な家庭では此の舍廊で朋友和集り詩文を作り之を評して楽しむが此の部に屬する人は最も少数である。詩文とは勿論支那の詩文である。

 

〔道聴途説の國〕

 以上は両班階級の様子であるが常民は酒色に耽る隙はあるも金が無いから無駄話で日を暮らす。或いは路上に佇んだり門前に蹲んだり時には宿屋の一隅に陣取ったり愚にもつかぬお喋りを無限に喋べる。其の中何か新らしい事を聞き出すと尾をつけ鰭をつけて觸れ廻る。噂は噂を生んで話は段々大きくなる。 

 甲も乙も誰も彼も、春の日永も秋の夜長も、耳と口とで日を送って行く、朝鮮は實に道聽途説の國、流言輩語の國である。一旦聞いたら真僞を問はす話さないでは置かぬ民である。自分の事は僞はらざる告白を爲し得ない癖して人の事なら不謹慎を極めて憚らぬ。胸に持ち耐へることを知ら國民である。家には澤山の人が同居しながらお互に信頼し和愛する家庭の情合を知ら國民である。男の子は早く、内房から引き離されて朝夕不規律な不實な生活を見聞し何時とはなしに自尊自大の風を養ひ婦人を虐待し輕蔑することを覺へて來る。

 

〔江を下る〕

 私は小さい小さい舟に乗せられて大同江を下り保山に着た。一行六人と其の荷物を載せて二十哩六時間の波の上は心細かった。心細い六時間の後にハリオン號の姿を見た時は嬉しかった。其の實私は保山に船が來て居るのやら何等の確報を手にしないで冒険的に江を下ったのだ。幾日かを過し様々の事を見聞した平壌を捨て將に使船に乗じて別れを告ぐる身には名殘が情しい。

 領事カールス君が語る如く平壌は商業地として充分の資格を具へて居る。大同江は市を過って舟揖通すべく格好の河港である。此の河口を利用して大豆を出し得べく棉花を出し得るだらう。事實多少の豆と綿は江を下って黄海の対岸牛荘に送られて居るでは無いか。饟鑛は江岸に橫はり金鑛は二十哩の彼方にある。豊富なる石炭亦師顧の間に埋れ、毛皮は現今人肩馬背によりて仁川送られて居る。加工絹工業地として將來を囑望されて居る。平壌には未来がある。

 

〔大同江の史實〕

 大同江は史實に富む。箕氏は五千の部族を伴ひ此の江を遡って朝鮮の始組となり交化の建設者となり平壌に都を奠めたのだ。江を下りつつ三千年前箕子の築けりと稱する域壁なるものを眺めた。江の右岸に沿ふこと約四哩にして北に折れ、其の向ふ所の岡に箕子の廟がある。流域一蔕土地肥へ能く耕やされて居た。支流も尚ほ小舟が絵に似たる遠き連山の麓迄通ふと聞いた。

 

〔強いてハリオン號の客となりて〕
 ハリオン號には乗り込みさへすれば大丈夫だ。綺麗な室を有する乗り心地よき船だと聞いて居る。霧雨に濡れそばち、足も伸ばされぬ窮屈な目に数時間逢って來て、私は未だ汽船に乗り移らぬ中から嬉しさ楽しさ心地よさを想像し早く乗り度いと懇望した。ハリオン號は今日本式の艀に取り巻かれ舷門には日本の兵隊が群り、士官は荷積を指揮して居る。私達は舟を艀に縛いで一時間餘も雨の中に待ったが何の昔沙汰も無い。耐らなくなって李君は汽船に懸合に行ったが待てど暮せど歸って來ぬ。

 

 其の中に宵闇の暗くなってから李君は漸く顔を出したが懸合の結果は船室は一つも明いて居ないから陸に上る外道無いとのこと。陸に上ればとて宿るべき家は無い。家が在っても待つべき船は無い。ハリオン號が今年の最終船だ。今更途方に暮れるべき場合でも無い。私は汽船に駆け登った。林君は私の荷物を取急ぎ船に担ぎ上げた。南は降る、風は吹く、濡れて寒い、覆いも無き甲板に下等船客然として込み合ひ押し合ひ小さくなって居なければならなかった。日本兵と兵站將校連がいい場所は皆占領して仕舞って居るのだ。

 季君は朝鮮の官吏である而も日本兵は彼のめに非常に便宜を得て居ながら待遇の方法を過って居るとして立腹して顏膨まして居る。此の船は兵站部の御用船で仁川に寄港し長崎に行くのだ。私共はほんとうに心ならずも厚かましい厄介者になったものだ。寳際船室は一つも明いて居ない。最初に連れられた所は全然日本式であったが間もなく兵站部將校の部屋に都合して貰へたのは有り難かった。

 

 事務長は朝鮮人であったが面喰って姿を隱して仕舞って見当たらない。背の低いキッとした男が代理して居たが其の男中々に如才ない仕事の隙を求めては手帳手にして英語の稽古に來た。事務長は只一度元気を振って「日本人は嫌いだ。己達の船を勝手にや爲がる」と怒たのを見た限りついぞ顔を合はせなかつた。

 幸に海は穏やか快晴だった。鎮南浦に約一日停泊し、保山出帆後第三日目のタ方、唐紅に沈み行く日を眺めつつ、又しても懷かしき仁川に上陸した。

 


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)16 女房、巫子、白拍子  「女房」     

2019-08-23 17:01:30 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」
イザベラ・バード・ビショップ女史著
法學士 工蔭重雄抄譯 


 

イザベラ・バード・ビショップ「30年前の朝鮮」

 

16 女房、巫子、白拍子

 著者は平壤を出て大同江に沿ひ、田舍の山を旅して幾日を経たりけん、節を改め筆を績ける。

 ムーチンタイの村は風光明媚、大同江畔に位し、四時舟を通ずべきも交易の行はれるを見ない。此のあたりを丘陵突如として平地となり、河幅廣く水緩やかに格好の渡船場である。舟はあれども船頭在らず、渡らにやならぬ旅なれば馬諸共に船き索き入れ「船頭さあん」と呼んで見る。稍々ありて何處からか頭がヒョッコリ河岸に出て來た。

〔自ら棹して渡る〕

 ヤレ嬉しや比の舟向ふ岸に着けてと命すれは意外!金はいくらくら貰っても外國人の御用を勤めるのは真平だ、日本人の相手になったら後の祟りが面倒だとばかりと取り合って呉れぬ。私を日本人と思ったのだらう。私は止を得す自ら舟に棹さして渡った。馬夫殿怒るまいことか渡って仕舞ってから水棹を河に投げ捨てた。

 捨て難き、風情の田舎を、再び大江を渡る或る夜スンチェンに宿った。郡衙の頽廃見る影なきも、在りし昔輪奐の美を誇りしものなるべし。内庭何処か栄華の跡を留め、鼓樓は二層となり、政堂の魏然然たる、丹青色褪せ、漆、金箔共に斑らに禿げ落ちたれども尚ほ往年のを盛りを忍に充分である。
 此処の衛門に限らざれども役所と言へば必ず書記、小使、守衛の類、制服の破れて見窄らしきを着け爲す事も無く群れ居る。両班の子弟のみは己が家門を矜る雪白埃も留めぬ衣裳を着ながし庭を緩く漫歩して居る。
 事務室は朽ち傾き只下級吏員打ち寄り長煙管を手より離さずカルタを弄して居る。徒らに群がり終日散歩し無聊に刀筆の吏となり、朝夕城門開閉の欠伸雑り鼓楼の太鼓を叩く位が仕事と言へば仕事朝鮮の官吏程有閑階級は又とあるまいと思はれる。

 かくて昨日も今日も暇あるに苦しむ輩は市中の暇人と連れ立ち、私か道にあれば周囲を取り参きて騒ぎ立て、宿に入れば窓の障子を破りて覘き喚く、二時間計りは私はホトホト此奴等に苦められた。特に両班の生意気なる、無作法なる、到気我慢も心棒も出来兼ね奴共である。堪え兼ねて私は内房婦人の部屋に逃げ込んだはよけれど其所では叉た好奇心に燃え立つ婦人の囚となって仕舞った。

 

〔下級婦人〕

 総体朝鮮下級社曾の婦人は教育なく、躾なく、嗜みなく、日本の下級婦人の典雅なる、支那農家の婦人の親切なるに較べて似ても似つかず、着る着物は垢染み生地は黒か白か、世の中に生れ来て、人の妻となれるは己が着物を他處にして唯男の衣裳を洗濯するがための、何處の小河も布を水に浸したるを平たき石に延べ洗濯棒を諸手に振り上げて急がはしく叩く女の多きことよ、叩き上げたる布は水に滌ぎて河原などに乾す、丹念に叩ける甲斐あっ日を受けたる目映しきほどの艶を出して居る。夏の単衣は我慢もしゃうが。春秋の袷、冬の綿物入れ洗ふ度に解きて洗ひて又た針目細かに縫はねばならのは女一生の辛き動めであらう。

〔妻のつとめ〕

 農家の妻は家族の衣衾全部の世話する外に、台所一切、精米、水汲みも妻の務、重き有物を頭上に載せて市場通ひも妻の仕事、米は臼にて剥す、執る杵は重く、水は甕に入れて運ぶ。汲む井戸は遠い。朝は人に先ちて起き、夜は人に後て臥し戸に入らねばならぬ。荒き妻の仕事に疲れたる手に夜は小き針仕事糸を績くも機織るも妻と名のつく人の役目、其の上に少から子供の母なとなり休むも働くも年の三つとなる迄は背に負ふて居らればならの惨めさ、農夫の妻となりて何をし楽しみ何を喜ぶうか、恐らく喜びも楽しみもあるまい。
 幾年の後我子に嫁の来る迄は苦労は到底逃がれ様も無い。憐れむべし彼等は齢漸く三十にして既に五十の老相を呈し、四十の聲を聞く時は歯さへ抜け落らて高齢の媼(おうな、年老いた女)に似る程だ。
恋に酔ふ若き盛りを何時超ゆる早くも色香を失って仕舞ふ、来る日來る日の味気なき女の身の上、而も心を慰むべき信仰は只た鬼神を拝む位なのも可愛想だ。

〔婦人の地位〕

 朝鮮に於ける婦人の地位を如何に説明す可きか其の一般観念を述べることは困難である。上流程女は隔離せられ絶対的に世の中との関係をたれる。婦人は家に在りては内房と称する部屋に押し込められ男の部屋に向かって窓開くことさへ禁ぜられる。訪問者は幾度訪問するも内房の様子は推量も出来ぬ。夫人の安否を問ふは失礼とされる。
 丁重なる幽囚の身にある婦人に元より教育も無ければ躾も無い。只だ低級の生物として扱われるのみだ。さればとて男は女に勝る何物があるのか。只だ年来の慣習上女に向って尊敬を強ゆれど自ら學び自ら修養する所は男尊女卑を教ふる淺物な哲學、簡単なる歴史、其他多少の文學に過ぎぬ。只男に生れ出でたる冥加にて成年の列に入れば理由なくして女人の尊敬は一段と加はる譯である。

 

〔婦人幽閉の起源〕

 婦人の隔離幽閉は何時の頃より何の爲めにせし習俗なるや詳しくは知り難けれど、李朝の初期、社會の道義廃れ淫卑の風甚だしき時代に始まったらしい。爾来五百年傳へ傳へて今日に及んだ。ヘーベル、ジョーンズ氏が言へる如く其の起源は夫が其の妻の素行を疑ふが故に非すして、夫が其の友を疑ふが故だ。
 当時京城の腐敗、特に上流の紊乱せる驚く可きものがあったらしい。夫は其の妻を隠し、娘を隠し、堕落せる男性に近くを欲せず、下賤の婢女に非らざれば戸外に出づるを許さなかつなのが、何時かは風俗となって法律以上に力あるものとなって仕舞った。されば婦人の外出は人目をけた夜中に限られ、昼出でんとする時は密閉したる駕篭に乗り、乗らざるは下賤の労働者の嬶(かかあ、妻)である。會て閔妃に拝謁した折に殿下は「京城の町は見た事が無い、朝鮮は尚更何事も知らぬ」と仰せれた。

 

〔法は内房に及ばず〕

 故意たると過矢たると問わず荀も男の手が女に触れ様ものならそれこそ大変である。ダレット氏の書物によれば此の事ありたるが爲めに父は其の娘を、夫は其の妻を殺した、或いは妻自ら自殺した。而も此等の犠牲たるは敢て珍しとせぬ。最近の事である。一人の貴婦人が火事で焼死した、危急の場合或る男が火中に飛び込んで婦人を抱き上げた。然し乍ら男女相触るるは慣習の固く禁ずる所、此の場合と雖も男は女を救命するに及ばすとせられ、男は此の法度を犯した事になった。事茲に至らしめたのは侍女の油斷だとして咎められた。

 法律は内房に及ばずとは實際で、謀反に非る限り夫が妻の部屋に隠れたが最後逮捕御免である自分の家の屋根の修繕は先づ隣家に至って「今日は屋根に登りまする、過って御
宅の御夫人令嬢の姿が見ることがあるかも知れませぬ程に悪しからず」と挨拶をして置かなければならぬ。男女七歳に至れば席を同じくせす、結婚の夜迄は父と兄弟に顔合せる外に絶対に男の顔を見ぬ。結婚後とて顔合はせるのは夫と夫の近親に限られる。如何に下と雖も堂々人中に押し出すことは決して無い。

 私の長い間の旅行中六歳以上の娘の子に逢つたことは減多に無かった。世の中の花にも喩へつべき若き乙女は影さへ見せぬ國柄である。ささりとて女は斯くの如き社會組織を怨みもせず、自由に憧れても居らぬ。数百年來の幽居生活は女人の自由精神を消磨して仕舞った。寧ろ女子は家庭の最も責重なる財産として叮重に貯蔵せられる位に婦人自ら思って居る。

 

〔女子は貯蔵品〕

 蓄妾は社会の制度と認められ、男の妻たり母たる者は子の妾夫の妾の選擇をなければならぬ。尤も一家の主人たる者は妾は無くて叶はぬ。自用車、乗馬位に心得て居る。從て妾腹の子は家庭内に在りて家族たるの地位を得す、社会に出でては社会に賤められ、官に仕へても高官に出仕は六かしい。斯く妾を蓄へても形上厳格なる一夫一婦主義で、生きても死んでも正妻は只一人、寡婦の再婚は非難せられ、再婚しても其の子は先妻の子と同一視せられぬ。

 

〔女子の学校〕

 女人に學校なし、上流家庭の女子のみ僅か諺文の素読書を學ぶに過ぎない。書を読むは千人中二人あるか無きかの率であらう。哲學も、迷信も、敎育も、文盲たることも、人権の尊重せられざることも支那より輸入した制度であるが、此等の観念が結びついて女子の地位を野蛮國の夫れの如くして仕舞ったものと思ふ。
 然し乍ら自由観念を央ひ幽居生活を強られて來た女子は生れながら陰謀家となり、一旦母となれば其子の血痕には犯し難き権勢を振るふ様になった。

 

〔女人に権利なし〕

女人に複利なし、若し僅かなりとも種利と認むべきを数ふれば寡婦再婚の権利これは輓近暫次社曾の商人を得つつある。十六歳迄結婚せざるの権利、妾と同郷せざるの権利等である。妻より離婚を申出るの権利は無い。之に反し男子は七去の権利がある。

 七去とは不治の病ある者は去る、盗癖ある者は去る。
子無き者は去る、不義する者は去る、嫉妬するものは去る、夫の父母の好まざる者は去る、爭ひを好む者は去る、の七つである。
 若し比の一箇条に該当する事あらば妻は其の家に送り還へされても文句は言へぬ。離婚よりも比の七去の原則に因る抛棄が遥かに多い。實に家庭の幸福を味ふことは女には望んで得られれぬ。朝鮮には家はあるも家底は無いと云って宜しい。妻は夫の外的生活は全く知らぬ。如何なる友と交り如何なる婦人と心安くしてるかは知り様も無い。
 實際に夫の生活と妻の生活は無関係である。朝鮮の男は「妻と結婚はした、然し妻には何も用事は無い、自分達の恋人は別に在る」と言って居る。可愛想なのは朝鮮の女、朝鮮の人妻である。

 私は旅を續け支那兵が逃亡の道すがら掠奪し、強姦した所も通過した。日本兵が隊伍粛々恰も観兵式にでも參列するが如くにして引場げ來るのにも出逢った。或る夜は物置に馬と隣り合せに安からぬ夢を結んだこともある。雨に降られて難儀をしたこともあるが、先づは恙なく再び平壌に帰り來る前に宿った家に六日間逗留することになった。

 

〔平壌と海上交通〕

 大同江は氷結して舟留めになる迄は小汽船か仁川から通って來る、と言ふが其實汽船は平壌の下流六十理まポサン迄周航するのでそれ以上は浅瀬多くして駄目である。所でポサン平壌間は電信が無い。荷足舟に有物を積んで來るので汽船が入った事を承知する外にも何日に汽船か發着するのか知って居ない。私は其の船に乗り度いので毎日気が気では無かった。元より郵使も無い。日本軍の軍事郵便軍事電信はあっても未だ地方人の使用は絶對的に拒絶して居る時だ。

 平壌在中私の特に興趣を惹いたのは亞米利加宣教師の傳道事業であった。私はこの傳道状能を書きしるすに当たり筆の序に京城の様子も書き加へたい。京城は因習の久しき基督教傳道は餘程困難とされて居る。然し乍ら事に富る宣教師諸君は自己の職務に熱と力とを以て献身的に從事し、百折不撓、望を永遠の未来に嘱して働いてる。各派各協調を保ち、鮮人に對しては克く親切に同情を注いで居る。 

 實に朝鮮の敎曾史、傳説、習俗を見るならば幾多の興味を喚起し驚嘆すべき事實を發見するだらう。

 平壌は曾てキリスト教傳道に失敗した。平壌は物資に富める都であると共に道義頽廃した都であった。教曾は屡々排斥せられ敵意を以て迎へられた。市中到る所娼婦婦あり売春婦あり妖婦あり誠に不名譽であった。メソヂスト敎曾は暫し解散の憂目を見、プレスピテリアン敎會は六年の努力僅かに二十八名の歸依者を得るに過ぎなかった。

 期のき困苦と戦って居るのに日清戦爭なった。都市は破壊せられ住民窮乏し、六萬乃至七萬と称せられるる人口は一萬五千に減し、從って信者も減じた。宣敎師多年の苦心は將に水泡に歸せんとする有様であった。然し乍ら彼等は報ひらるべき時が到來した。惨たる戦が止んで廃墟歸って有爲転変の現實を見せつけられて信仰心は茅ばへて来た。怱ちにして二十八名の洗礼を受くる者を生じ、從來罪の限りを尽くせる中流以上の人々は過去の生涯を振り返って清浄潔白の新生命に導かる様になった。法悅に浴して新に帰依する者百四十名は洗礼前の試練を受けつつあった。

 私の留守の間に假の拜堂には信徒の群れ堂外にあって説教を聞く者すら少くない様になって居た。曾て喜捨する事を知らなかった人々が慈善事業に金錢を義捐する様になって居た。京域クりスチャン・ニュースの報する所によればチャンヤンの教會には印度飢饉の噂を聞いて義捐したる額八十四磅に登り、或る婦人は銀の指輪を出して現金に代へたさうである。 
 近郷の村々より來れる者は宿るに家無く郊外半壞の家に起臥し神の真理を信じ基督の敎を乞はんが爲めに一切の不便を偲んで居る熱心さである。夫等の人々約三十名、既に三週間も毎日教師の傍に來り、或いは祈祷會を行ひ、或は讚美歌を謡ひ、或は時々の集會を催し、而も必ず一日六時間は教師の教訓を受けて居る。私はモフェット氏の通譯を得て教會に三度出席し。故国に於て見ることを得可らざる異端者の中に於ける傳道開始の状を経験することを得た。

 前記三十名の求道者以外にも尚ほ多数の信者あり新婦依者ありて室内にも室外にも充ち満みて居る。その一隅には二人の宣教師坐し、柱に吊す石油洋燈はあれども闇い、燭臺の幾基かは蝋燭を點じて求道の群集を照して居る。讚美歌は終った。祈りが始まる。皆額を床に常て、之を聞く、説教が始まる、「如何にして神の道が私の村に導かれたか」と題して次々に人は語る。私は少しく之を書き添へて置く、神の道は斯くの光景の下に日々に不幸なる霊を救済して行く。

 

〔彼等何故に道に入りしや〕

 或る日の午後可なり澤山の求道者は遠い遠い田舎から基督の敎を聞きに來た。其の夜は彼等は交る交る立て何故に道に入るか其の動機を物語った。戦禍を避けて田舍に逃げた信者は彼等田舎人に鬼神を祭ることの罪悪にして且つ愚なることを教へたさうだ。彼等は不善を爲し、不善を爲す者は在大の神の裁きを受けざる可らること、神は不善の裁きを爲すも父なる愛を捨て給はざることを教へたさうだ。これを聞いた村人は始めて目醒めた。目醒めた村人は二十数名毎夜相集って神を礼拝した。女は鬼神の像を葬って真の神樣に帰依した。然し乍ら彼等は神様の教えを聞き、神を拜するの方法を學びたさに來たのださうである。

 

〔求道者の述懐〕

 或る若き人は語る、自分の父は年既に八十に垂らとして居る。或る日のことモヘット氏の路傍演説を聞た。老人は如何なる善事を聞たか家に帰るや「我れ今日言を聞けり、大事を聞けり」と叫んで聖書一冊を求めて基督教に帰依し、爾後始めて幸福なる生活を送った。該老人は近降の人々を集めて天來の福音を語り聽者道に入る迄は之を止めなかったさうである。又た或る老人は妖術を以て渡世して居たのだか商賣道具一式をモフェット氏に委して懺悔した。「私はこの年になる迄悪魔と住んで来ました。今ぞ私の過れる生涯をを知りました。これから真の神樣に仕へ、真の道を行ひ度ひと思ひます」

 

〔神か金か〕

 同じ日の午蘰、十五名乃至四十名の署名ある基督敎傳道開始請願書が教會に届いた。そんな乞に任かせて集まりをする時には必す室の内外は人を以て埋まり、敬虔なる態度で説教をを傾聽する。説教を聽けば必す数名の者は罪の生活を離れて淨き生涯に入って行く、私の目に見る集りもそれだ。蝋燭に照らされるる人も戸外のきに立つ人も、共に顏は熱に輝いて來る。一人の老人の如きは額を床に摺り付けて子供の如くなって祈った。見よ彼等の救はれて希望に燃ゆるを、朝鮮人特有の鈍感な沈鬱なる陰影は消え去って居る。何故か、彼は罪を知った、天の裁きを知った、神の愛を知ったからだ。而も教會の誌す所によれば鬼神崇拝を捨て真の神様を恐るる人程基督教に歸依する所か深いさうな。然り朝鮮人間に正義を求むる人々は段々多くなりつある。然し乍ら私胸中一點の疑は彼等は果して神を拜するか金を拜するか判らぬ。彼等の所謂不安とは貧乏と同一語義に使用しては居ないかを恐れて居る。

 

 日曜日に私は京城より來れるドクトル、スクラントンと共に初めて開かれる婦人の集りに参列した。集まる者は多く百姓の妻君であり、鬼神崇拝者であり、西洋婦人見度さに出席した者も元よう尠くなかった。彼等は神に就いて何等の観念が無い。祈が何やら、罪が何やら、善とは何の事やら薩張り譯が判らぬ。こんな婦人を集めて一度に其の注意を促かすとは無理だ。到底集りの形式を整ふる事は不可能である。宗教心は全然欠如せる波等には耶蘇の神は鬼神の大將で、彼等の竊まれた家財を取り返して呉れる親切者だ位しか心得て居らかも知れぬ。

 


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)15 古戦場へ     

2019-08-16 10:55:57 | 朝鮮・朝鮮人 

            「三十年前の朝鮮」
            イザベラ・バード・ビショップ女史著
              法學士 工蔭重雄抄譯 

 


15 古戦場へ 

旧都開域に暇を告げ、晴れ渡る秋の空に馬を急がする心地よさ。移ろ行く田合の景色、谷細くしての姿面白し、丘に植えるたる名は何と言ふやらん。故郷英国にもこれに似たる紫の花あるは旅の身には懷かしい。

〔沿道秋色〕
 緑の葉繁る松の枝にからむ蔦の紅葉せる飽かの挑めである。処々の村は村と名づくる程にもあらす二つ三つの苫屋、畑と言へば畑ならむ谷に畦の跡か見ゆ。多きは雉、山鳥の類、道端の叢の馬夫は屡々追ひ出す程、更に多きは水鳥、何れの川にも詳れ遊ぶ、特に景色なりけり思ったのはさる岡越の高きより眺めた時であった。
古色蒼然たる樓門の指さす彼方に建てるを、左右に迫る域璧の崩れ落ちたる様、時は秋の最中載くは碧緑の空、點綴する古木老樹の枝は紅葉を散し、雄大な物だと感心した。
道路の到る所よく修復せられたるは近く官吏の來遊するものか、果して進む程に四人掛り七人掛りの鋤は道普講に働いて居た。災なる哉、朝鮮の百姓達は官吏の旅行の度毎に家々の男は苦役に駆り立てられ、かくは餘儀なく働くのである。
 開城又の名は松都よりの一日は麗らけき日に目を樂しませたが、今日は天気模様一変して急に寒くなった。私の宿れる部屋は温突でなかった爲めに殆んと寒くて眠られす燭を照して寒暖計を見たら華氏二十度に足らなかった。

〔風強し〕
 宿を出つる頃は西北の風強く、午頃には暴風になった。後に至って知ったが仁川沖で英国軍艦エドガー号のボートが転覆して乗組四十七名を海の藻屑としたのは私か今逢ふ此の暴風であった。或る古橋に差し懸った時又た一連り吹き上げた風に私は馬諸共にアハヤ河中に吹き飛されんとしたが幸に馬夫に助けられて危きを助かった。橋を過ぎり河畔に立った頃は凛々たる風●(?)々乎して馬さへ顔を背けて進み得なかった。遂には馬に乗ること覺束なく、吹き巻くる中を徒歩で行かねばならなくなった。道すがら李君と話す息か詰って言葉績かす、續く言葉は吹き飛ばされて仕舞った。

 午後に至るも風雨は止まず。気温は華氏二十六度を示し居れども心臓も氷り脳髄も凍へる心地がした。私はこんな寒い目に逢った事は往年波期旅行中ザクロス峠で例の魔の風に襲はれて以來曾て経験せざる所であった。今日の目的地には未た程遠きに拘らず李君も馬夫も「最早寒さに堪へられぬ、日は尚ほ高くとも、何処なりと早く宿どらばや」と嘆願して止まぬ。さらばとて近きを求めて一夜の情を乞ひける案の不潔さ、むさくるしさ、貧しさ、これこそ想像以上であった。
廐は追ひ込みの狭ければ各々昂奮して、蹴る咬むく騒ぐの物凄く、それにも増して騒がしいきは馬を叱る馬夫の怒號叫喚、偖ても此の世ならぬ物音である。私の部屋は縦八尺に横六尺の穴に似たる窮屈さなるを、窮屈さなるも喋り續くる不作法漢に共の半を占領せらるるのみか、限りも知らあらぬあぶら虫に寢ねもやられす、此の埃比の不潔の中に農夫が命を永らへる不思議に堪えぬ。

 不愉快の限りを尽くして宿を立ち出で進む道は或るは禿山の趣味なき麓を廻り、或いは水涸れたる河の礫磧たるに遮られ、或は夏の頃の洪水が爲せる砂河原に消へ、或は八重葎繁りて道かと怪しまれた。芦荻枯れて花に風あれば、処々の紫苑の花の濃紫の花の匂へるが僅かに心を慰めて呉れた。これらの花もやがては温突薪に刈取られるかと思へば只一目見し草ながら名殘が惜しれた。野も山も子供の鎌の及眠りは情も容赦もなく荒莞されるのだ。このあたり見渡せば家と言へば家の賤か家、村と言へば村と名の付つくばかりの小村、人稀に耕地は漸く谷間に小麦大豆を見る位で、家畜とては犬程の豚が飼はるるに過ぎぬ。

〔朝鮮官吏の腐敗〕 

 貧しき村の幾つかを過ぎ、淋しき道を辿り辿りして京畿道ど黄海道の境のタオジョルに着いた。朝鮮の官吏の腐敗は茲にも眼に餘った。私は遠慮なく朝鮮官吏を批評する。役等は民の膏血を搾取る吸血鬼だ。彼等は任地に赴かす京域に在りて宴樂を縦ままにし、自已の管轄内の住民を保護し善導するにあらずして寧ろ虐待し誅求するのだ。住民こそ迷惑な話である。

〔日本兵の規律〕

 頽れかかった役所には四十名程の日本兵か屯して居て私の國籍、出發地、行先地などを試ねた。宿に着いたら十二三名を卒ゆる一軍曹は再び來って通訳の李君に同様の訊問を試みた。そしてその軍曹は帽を取り一礼して立ち去った。尤も訊問は之に止まらす慮々操り返へされたが皆叮嚀に待遇して呉れた。到る所朝鮮人の日本兵を憎むこと甚しかったが、日本兵が常に静粛で乱暴せず秩序を保って居たから日本兵の為す所を誹謗するに訳にはゆかなかった。

〔一睡難し〕

 翌日も単調な田舎を終日馬で通してポンサンの例に依りて、穢き宿に宿った。温突は氣持よく温められた迄はよかったが、半死半生の儘で璧に柱に眞黒に重なって居た幾萬の蠅は甦って活動し初め、スープと言はす、カレーと言はず怱ち被等の蔽ひ盡す所となり、蝋燭皿は彼等の死屍を以て埋まり、私の頼は数百匹の襲撃に息も詰まりさうになった。
 鑟いてあぶら虫は密集部隊の前進するが如く勢を以て動き出した。大なるあり小なるあり、迅きあり遅きありゾロゾロと無限に出て來る更に蚤と南京虫の大軍は恐るべき攻撃を開始した。彼等の為すに任かせたら、とても私は生きては居られなかったらう。私ばかりでは無いと見へ隣の部屋も終夜彼等の威力に脅成せられ最後には怪しげな嘆聲を漏す者さへ聞へた。翌朝試みに季君に「昨夜は眠れましたか」と聞たら只一語「アイゴー」と答へたのみだった。

〔貿易なし〕

 次の日は大きな村の市日に出會った。抑も朝鮮の中部及北部の市は一地域内生産物の交換行わるるも他の地域との貿易なるものはない。その之れ有るは南鮮就中全羅道に限られて居るる。少なくとも今度の私の旅行せる地域ででは平城以外に交易と称すべきものは無かった。斯くの如き経済事情ではもちろん貨幣は発達せぬ。有る貨幣は馬に積まねば百圓が持てぬ。従って銀行――支那も西部支那に見る様なものすら無い。商売に信用無くお互いに僻んで解けぬ。
 
 驚くべ可き程の無知識で信ず可らざる無学だ。加えふるに種々雑多の商人団体即ちギルドがあって事実上商業を独占して居る。けれども此の頃は日本人勢力の伸長せらるるに連れ「圓」銀が漸く使用せらるる様になって来た。お陰で金剛山登り時の様に葉錢の運搬に気を揉んだり、葉錢が無い為めに迷惑したりしなくなった。
現在若し貿易なる文字を用ひるならば日本商人の五穀の買ひ出しであろう。彼らは村々宿々を渡り歩いて来て、小麦、大豆の類を買ひ出し港に集めては日本に積み出して居る。次に負褓商と称する行商人団体中最も有力有用なるもので興味ある組織を有して居る。

〔田舎の市〕

 田舎に商店は無い。會々有っても例外中の例外だ。故に市日で無くば何物も買へぬ。平常沈鬱な死せるが如き村も市日計りは幾千幾壱百の人だかり、色取々の物売り商ひ中々賑やかになる。朝まだき夜のほのぼのと明ける頃には東より西より北より、南寄り、或いは売らんが為めに或いは物々交換船が為めに集る農夫で押すな押すなの有様である。檻を負へるは鶏を売る人だ。豚を販く人あれば草鞋を売る人もある。帽子屋の隣に木の杓子を並べて居る。市の中心広場と思はる所は商人の場所、例の褓商は着る着物も目立って美し、自分で商品を憺いでも来るが多くは人夫を用ひ,品が多くなれば牛に積ませて。市から市に規則的に巡廻して働く丈に顔も売れ地方で尊敬を受けて居る。絹、紗、帯紐、他所行きの靴、琥珀、紐釦、懐中鏡、煙草入、鼈甲の櫛、腰紐、鏡付きの小函など売る店は特に屋台を設けたのがあるが、大抵は地上に板を並べ、又は蓆を敷いて客を呼ぶ。それ等の商品を見れば朝鮮人生活の必要品、贅沢品、凡そは見当が付くから面白い。先づ目に付くは飴ン棒だ。
 
 板に引延べたる其の太さ人の腕に似て豆を振り懸けてある。次には何か砂糖の菓子が夥しい。日本製のシャツには英國製も雑って居るだらう。寒冷紗、麻布、綿、朝鮮絹(餘り上等で無い)染料(主としてアニリン)がある。
それから例の長煙管、日本製紙巻煙草(これは此頃青少年間に珍重歓迎せられ大流行だ)巻煙草入レ、日本製燐寸、木櫛、髪飾り用のピン、最近流通する貨幣の銀貨人等がある。朝鮮第一等の工業品たる紙の流石に屋臺店だ。半透明に美麗な油紙、見た所の樣子も手觸りもベルラム(皮紙)に似たる温突用紙、薄く白く且つ強きは文掌を書く紙なりとぞ。厚く強靭なるは壁紙とかや。貴重品を裏む軟かき包裝紙、葛籠張り張り抜き)紙など総有紙を販賣する。朝鮮の紙の用途は廣く以上の種類に限らす物括る紐さへ紙を用ふる程だ。紙の原料は桑の一種楮と稱す。
 
 草の蓆に並べたるは第一には蓆、草鞋、かく●石と●金、帽子、如何にも不手際な手織木綿、馬の手綱、 荷綱、箒、木履、菅の笠、竹笠、網代笠等の鐵製品は幼稚粗雑製見る影も無いのが並ぶ。果物には梨がある。堅くて歯が立たぬ。立たぬのみか味が無い。栗に胡桃に柿がある。柿は水に浸して澁を取ったものだ。鶏やら雉や六羽一圓とは有り難い。牛肉も賣って居る。お末な土器、磁器、上等は色どり下等は鐵の様に黒い。大小の壹が多いが壊れ易い安価品だ。全体朝鮮人の家庭では土器は無くてかなはぬもの臺所の水甕、漬物甕、汚物入レ、米櫃、麥甕皆土器だ。
 特に漬物甕に至りては高さ五尺優に人を容るるに足る程の太さ、牛の背に着けて賣りに出る。その大甕が賣れる漬物の季朝の特殊現象である。此頃農夫は畑に大根を掘るに忙かしい。大根は太きは四磅に達し小きも尚ほ二磅位はある。家には女房か葉を毟つて泥を洗って甕に物け漬け込むに忙がしい時だ。
 畳めば扇に似て開けば帽子蔽ひの油紙、言はゞ懐中雨傘に唐傘、蕃椒の粉、米、大豆、豌豆、豆腐なども見受ける。群がる人の住うさ来るさの賑やかなれども取引の悠長さ如何に暇を潰すも意とせぬ。主人が主人なら牛も牛、眠るが如く終日静かである。午後となり夕暮となれば商人はそろそろ荷物を片付け一人去り二人去り次の市に出懸けて殘るは蹣跚たる酔漢の節哀れな咀が宵暗に聞へるばかり、村は再び舊の如く淋しくなって仕舞ふ。

〔黄州付近〕

 平壌に着く二日前に或る峠を越して黄州に出た。屋根落ら壁壞れ人去り廃墟の如き有樣であった。過ぐる日に支那兵の屯する所となり斯くも掠奪蹂躙せられたのである。黄州以北大同江畔四十哩の間は地味肥へ石少く沖積層の農地、家富み人多き地方ながら、或る村は兵焚に罹り、或る村は住民四散し、耕夫逃れて田園荒び、鷄犬影を潜め、牛豚は滿洲兵の犠牲となり悉く彼等の腹中に葬られて仕舞って居る。 
斯くて日ねもす半壊のを過ぎり、荒廃の野を越へ、枝は折られ幹は伐られたる林を分けて行く旅は陰氛で物悲しきもの、道に人を見ず、風惨して鳥も飛ばぬ。日慕れては馬夫は虎害盗難を懼れ、宿を求むれども家に人なく、人居れども外國人の來るを憚る。憐れなるかなれ彼れ等住民は外国人の爲めには重ねがさねヒドイ目に逢ったのだ。宿を借さないのも無理はない。
 コーンクリのいと小さき小屋に一夜を明かし今日は愈々平壌入りの日、村落は漸く繁く、路傍に祠堂あり、時に茶小屋もある。行く行く人来たり馬走るに逢ふ既に都に近くが故だ。永世不屈の碑の左右に立ち並らべるは二百十年間に平壌に在りし数々の官吏の頌徳標である。

〔平壌望遠〕

 嬉しや平壌が見へた。平壌は實に形勝の位置を占め、加ふるに人工天然に配して凡ならず、遠く之を望めば堂々たる壯観である。午後の空の隈なく晴れたるに見渡す野の廣きを低き丘綾起伏して之を廻り、洋々たる大同江は藍を湛へ紫を湛へ緩く折れ遠く曲り、逝く水は清冽氷の知く、泛ぶ舟は帆を張て動くこと静に、地を覆へる蒼穹には一片の塵も無い。平壌は此の水に莅み空の下に造らた町だ。

 丘陵突兀として河畔より起り、丘上の城璧巓を傳ひ匍ふが如く挙がる如く江上に迫る松林に消ゆる風趣は正に一幅の絵である。域壁を抽んで、亭々たるは大同門なり、簷牙高く啄ばめるは衙門なり、高地に魏々乎たるは佛殿の樓閣なり。丹碧の色遠くより望むは軍神の廟なり、大方の朝鮮の都市が貧弱頽廃を極めたるに比し平壌は實に一頭地を抜いて居る。
 馬諸共に渡し舟に引き入れて江を横ぎれば透明の水は波を擧けて光り、軈て大同門に着た。聞論く平壌の城壁は地を匝る其の形舟型に似たるとかや。市中井を堀るは舟底に穴を穿つ如くして之を許されず、市民は皆飲料を江に酌む、今私が着いた大同門は水酌む人か群れてた居。私は市中より稍々距れたるいとも閑静な或る商人の家に宿ることが出來た。部屋は珍ら敷贅を盡し温突は樫板に漆したかと怪まれる油紙を張り詰めてあった。但し寒空に温突の火を焚かす火鉢一つで身を温めねばならなかったのは辛らかった。

〔宣教師を訪ふ〕
 気がきいた1人の子供を案内にして私は城壁の外郭、耕地を横ぎり、亞米利加の宣教師の住むといふ家を訪れた。其家は徒らに小き部屋のみ多く鮮人の家族こそあれ西洋人の住む気配は少しも見へなかった。聊か不審に躊躇せる私を伴ふ子供は小部屋に導き更に戸を開き中なる部屋に押込んだ。この部屋こそ外人の隠れ家、子供は椅子を取りて私に勧め、煙草持ち出して歓待した。部屋の廣さは汽車の客車に及ばず。荒壁の飾りなく、寝臺三個、椅子三脚、トランクを以て机に代へ、男の洋服の彼れこれ璧に吊されてあった。私は此処の教會事業に就ては後日の物語に殘して略筆する。歸途には最早日暮れて暗かった。星の光に透かして見れば黒く聳つ大同門のあたり魔術使ひの太鼓かと怪まるる響きとムータンの唄ふ奇聲闇を通じて聞ゆる外に闃として淋しく餘り気持よくなかった。
 朝鮮の冬の空の麗かなるは屡々記した。翌朝も限なく晴れて見物日和ながら京城以來の通訳李君と暫し別れねばならぬ。代りに來た三人の通訳は、何れも馬鹿叮嚀に叮嚀なばかりで英語は丸でたつて居らぬ。只ニヤニヤと微笑してお辞儀を綴り返すのみ何も要領を得ぬ。折よくモフェット君が來て市中見物、載跡見物の案内をして呉れたので助かった。

〔戦跡見物〕
 輝く日の光に萬象悉く其の全美を示すも又た其の弱点を曝し隠す所が無い、見よ八萬の人を養って繁華を誇りし都市は寂漠として居民を失ひ、約四分一の家は破壞せられ、街衢は處々廃墟の観を呈し、曾て農園の整然たりし所は凄婉として纔に其の片影を止め、屋根落ち、煙突挫け、牀破れ、塀倒れ、夫等の破片狼藉を極めて居る。璧残るも戸牖形無く、内に住む人は眼異様に光って未だ恐怖の念が去って居ない。斯くの如き光景は到る所に見るを得べく数哩に亘り鑟いて居る。火を出して焼けたるあり、瓦礫となって形を止めざるあり、餘りに明かなる日光は無情惨鼻の有様を照し過ぎる。
 平壌の占領には市街載は無かった。逃げた支那兵も勝った日本兵も共に朝鮮人には友邦国民の態度を持し故意に民家に對し乱暴を働いては居ない。乱暴を働いたのは彼にあらや此れにあらす其實は朝鮮の獨立、政治の改善を標榜する不逞の輩であった。戦去って避難民は散乱狼藉たる廃墟に帰って來た。何慮か住みし我家なるらん見覺への標は何も殘って居らぬ。僅かに壊れ歿る軒壁を頼りに戸を立て窓を張り一間に集って家族全部の雨露を凌ぐ假りの宿と定むる惨めさ。

〔日本兵による秩序〕

 日本軍入城後は平壌の秩序は規律的に整頓せられ、住民が恐れた掠奪は眞に杞憂に過ぎなかった。彼れは物資を求むるに必ず相當の代價を支拂ひ、鮮人如何に彼等を憎むと難も日本軍の軍紀あり軍律ある点には罵言誹謗を加ふる能はざるのみか却て讃嘆せざるを得なかった。加之既に強盗と化して人のヌスミ藕み、鐵拳を振って無辜の民に危害を加へ官を怖れす暴擧を敢てせんとする訓練隊は、日本兵の撤退を待って正に平壌を蹂躪す可きは住民の等しく豪.ふる所で、暗に日本軍の駐屯を歡迎せざるを得なかった。私か二度目に平壌を訪ねた折には舊態を脱しての小商店は日光・こ察氛の当かなる日本式大商店に夐化し、商業區の中心は概ね彼等の店補となって居た。
 生々の気溢れ、古屋用ゆ可らざるものは之を破壊して新たに建築し、倭小、陰暗の小商店は日光と空気の豊かな日本式大商店に変化し、商業区の中心は概ね彼等の店舗となつて居た。

〔平壌の形勝〕
 先きにも記せる如く平壌は清冽透明の大同江の右岸に莅み蜿蜒たる丘陵の一部形勝の位置を占め、城璧は江畔繪の如き大同門に始まり忽らに断崖を登りて四百呎の嶺を極め、崖上城壁に臨んで樓を造り、直ちに西に折れ高地の西側に沿ふて走り山腹を下りて膏殿の平野を縱貫す。而して此の平野こを曩日硝煙漲り銑聲土地神を愕かした古戦場である。城壁には銃眠あり高さ凡そ二丈、所々に望樓を配し城門を設けてある。城壁に新舊あり舊は外側にありて新は内。

 按ずるに平壌は古都にして曾て人口は今に倍して居たのであらう。西に方りて舊壁は新壁よりも遥か廣い地域を抱いて居る。若し夫れ高低起伏する草原を傅って北個松林の山巓に立てば風光明媚人をして恍惚たらしむるものがある。東を望めば沃野開け遥に建山を見る。大同江亦山に至りて其の来る所を失ふ。北は即ら千五百九十三年(文祿役)の大古戦場指顧の間に展開して居る。明軍と朝鮮兵とは和合して日本軍に對し平壌恢復戦を挑みし所とかや。海に向へば颯々たる清風波を擧げ土を掠め村々の屋根を越へて吹く。内城小丘多く、丘上松林繁茂し、林中廃趾あり、衛門あり、寺院あり、廟あり、陵あり共に一幅の好書題ならぬは無い。

〔此に鐵あり石炭あり〕

 清軍の前衛地と市街地!の間は蓋し朝鮮切っての沃野であり又た大平野である。東の方稍々黒く紫色を帯ぶるは大同の本流と支流が相抱く峡谷である。此の地絹を産し鉄を産し更に綿花を産し、近く十哩の地に石炭を産する。此等の産物は悉く河を下だり三十六哩にして直ちに海と連絡することが容易である。 嗚呼平壌なるかな。十里万至三十里にして最上の石炭を有し尚ほ鐵鑛を有し繁昌隆興の資源既に存して居るものの、惜しい哉鑛主時勢を知らず幼稚の採掘法を用ひて改めす單に平壌内の需要を充たして居るに過ぎない。誰か鐵道を布き運送の便を計る者ぞ。
無尽蔵の良炭と鐵鑛は人の来るを待って居る。要するに只資本と企業のみでは無いか。石炭には採掘量に對して五分の税を課してあるが千八百九十五年の全輸出量僅々六百五十二頓、価格一噸四弗二十仙に過ぎない。

〔牡丹臺の守備〕
 平壌の河壁は既に記せる如く丘陵に沿ひて走ると二哩にして望樓に達し急に方向を転じて居る。望樓の外は突如として谿谷となり、再び盛り上がりて嶮峻なる丘となり、其の頂上馬背に似たる要害の地牡丹臺を擇んで清軍は防御障地を築造した。急転した蜂を追阪を下りて七星門に連り、更に北走して布徳
門に達する。左寶貴將軍は城壁の突角を爲す所、松林を擇んで保爨を作り自ら其處に起臥して全軍を指捧した。林中石を並べて竃に似たるがある。煙に燻れるは被等の最後の庖厨の形見であらう。時しも千八百九十四年九月十五日の午後、左寳責將軍は彼れの幕僚と部下の軍を督し七星門を開ひて最後の突撃を試みた。急阪を電光形に走り下って平地に出て七星門を距る三百碼迄進んだ時一弾来って彼を斃した。
朝鮮人の語る所を聞けば、部下の将卒彼を後送せんとしたが銃丸相次で來り将軍の周には更に死屍を加ふるに過ぎなかった。日本軍は左將軍戦死の場所を園むに玉垣を以てし慕標を建て正面に奉天軍司令官左寶貴終焉の地と書き記し、側面には日本軍と交戦中に戦死すと註された。武士の情、敵の名將を遇する其の道を得たる美談である。

〔清軍負る〕
 左將軍死して清軍は最早收拾す可くも無かった。日本軍の猛射益々加はり進むに路なく退くに路なく四途路となって浮足立った。或る者は再び堡塁内に隠れたが多くは絶望的盲動的に乗り捨てたる馬に跨り松林に鞭を揚げ空濠を傳ひ遙亡四散した。戦後三週間にしてモフェット君は平壌に歸り来れば死馬相重りて濠を埋めて居たさうである。
明くれば九月十六日、月明に乗じて日本軍は突撃を行ひ前陳の岐嶺牡丹臺の堡塁を占領した。一度此地を占領すれば平壌を脚下に俯瞰し清軍の陣営恰も掌を指すが如く縱儘に砲彌を選るを得べく、正に平壌の死命を扼するの地であった。哀れ昨日迄姿態の豊かなるを誇りし望樓も巨弾の爲めにいみじく破壊せられた。支那兵は算を乱し先を爭って砦を捨てた。山腹を走り逃ぐるは日本軍の瞰射に逢ひ腕を延べ草を幗んで整れた。萬事体す、当時清軍は尚ほ一萬二千の兵力を擁して居たが踏み止って反噬する気力は無い、只逃げに逃げて銃丸の犧牲となった。私は思ふ、何故に清単は此の際無条件降伏を爲さなかったのか、合點が行かぬ。砲を捨て銃を捨て其他の武器を捨て、傷ける戦友を捨て、荒廃寂莫たる平壌市街を踏み荒らし、淺瀬を波り、義州街道を北に群り逃げた。時は深夜の事なり其の混雑たら無い。誰も其の夜の有樣を正確に知る者はあるまい。名けて戦跡と言ふが戦跡と称するよりも寧ろ壊滅の跡、虐殺の跡と称すべきであらう。

 彼等は逃亡することなく退却すべきであった。而して佛暁前陣形を立て直して戦況を盛り返すべきであった。然し乍ら彼等は隊伍に復帰せず單に掃討せられ空しく銃火の的となって仕舞った。此の戦ひに於て清軍は二千乃手四千の兵と数千の牛馬を失ひ、騎兵は乗馬と共に敢なき最後を遂げ折り重って死屍を橫へた。モフェット君は三週間を過ぐるも未だ整理終らざるを目撃して「惨鼻見るに堪へす能く筆舌の盡す所に非す」と書き付けて居る。硬直したる人馬の屍少からす、各々最後の苦悶の状を其の儘に示して居る。義州街道には路上尚ほ数百の死者横はり、濠は彼れ等を以て埋まり、田野は點々數へきれぬ程銃、唐傘、扇子、上着、帽子、劍、帯革、弾薬盒等逃げるに邪魔な物は悉く之を拠棄したのが遙亡の跡を蔽ふて居たさうだ。負傷者は匐ひながら家を探して逃げ込んで其慮で死んだ。死せざる者は苦痛に堪へす自毅した。此等の死者は葬る者なく日に日に黒くなって腐敗した。主人に給てられ飢餓に迫った犬ばかは豫期せざる御馳走とばかり喜んで人肉を貧り喰った。こんな無情な話に心を傷めつつ、案内せらるままに古戦場を弔へば頭蓋骨の半ば土に埋もるるあり、脊柱尚ほ筋骨を支ふるあり、骨盤に下肢の附着せるあり、手あり、腕あり、劍鞘あり、鬼哭啾々、涙潜々として下るを禁じ得ない。

〔チブス流行〕
 日本軍は戦死者百六十八名の爲めに城中小高き地點を擇び奇麗な石の記念碑を建てた。彼等は軍神廟を病院に充て負傷者を収容し、更に他に家々を悻んで支那兵の負傷者を収容し懇切に治療した、感ずべきの至りであるが、清兵の戦死者を野晒しにて埋葬しなかった報ひはチブスの大流行となって現はれた。如何に猛烈に日本軍に流行したかは仁川陸軍墓地に並ぶ慕標を数へても其の一端を知ることが出來る。
城璧外、松疎らなる松原は暫しは弾雨降り注ぎし所、枝は盡く傷き多くは折れ裂けて居る。朝鮮文明の創始者てふ箕氏の廟あたりは激戦の中心點たりし所、柱梁は蜂の巣の様に孔を穿たれ砲弾為めに裂け爛れて居る。床上の血痕は戦過ぎし後日軍の負傷者が血に染めて橫はりし形見とて見るら鬼気人に迫る趣がある。或る堡塁は頑強に抵抗すること十時間に及び勇敢な日軍も攻めあぐんで見へたが大島將軍の突撃により漸く陥落し、之によりて既に勝敗は決したと噂せられる。
 戦跡見物も此のあたりで筆を擱(註、おく。手に持っていた物を下に置く)いて、私はこれからは北へ北へと旅しなければならない。
 


 


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)14 王妃暗殺    

2019-07-30 11:37:14 | 朝鮮・朝鮮人 

 「三十年前の朝鮮」 
     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯

 

 

14 王妃暗殺 
 千八百九十五年(明治二十八年)五月に日清間の平和修約は下関にて締結せられ、清国は臺灣を割譲し日本は大に國威を發揚することを得て戦爭は局を結んだ。
 爾來極東に利害関係を有する列強は從前の如く日本を無視する訳には行第なくなった。
私は数か月間を中部支那及南部支那に費し、夏期は日本で暮し、十月長崎に出て朝鮮王妃暗殺の風評を耳にし、亞米利加公使シル氏が急き京城に還るを幸ひ駿河丸に同乗し、仁川に上陸、直ちに京城に駆け付けヒリエール氏の客となり、二か月を京城に暮らすこととなった。

 元より朝鮮人も諸外人も前章に説き來った国政の改革には敏感となり流言蜚語に耳を欹てた。一般の信頼を受けて居た井上伯は月餘前に京城を去り三浦子と交代した。三浦子は將軍であって曾て外交上の経驗を有たない人である。


〔井上伯の進言〕
 井上伯は帰国前に参内した。井上伯は此の日の参内の模様を認め「自分は王妃に謁し十分に改革事情を開陳して王妃の疑問を解くことか出來た。而して朝鮮獨立の基礎を固くすることは日本国皇帝及皇帝の閣僚の衷心熱望する所で、同時に朝鮮王家の景福なる所以を説明し、若し王室を覬視する如き者があったらその何人たるを問はす、假分皇族たりと雖も日本は之を排除するに機宜を失するものにあらず、已を得すんば兵力に訴へても断じて王家保護及王国保全の任に当るに躊躇しないこどを確言した。この拝謁により国王及王妃の憂慮は充分薄らいだ様に思ふ云々」と書いて本国の内閣に送ったさうだ。

 日本第一流の政治家にして且つ朝鮮国王及王妃が尊信せる井上伯か胸襟を開き熱誠を被瀝して進言せるに対して兩陛下は心大に動き日本を信頼すべき道理を了解せられたものと見える。其の証拠には大事件勃發の当夜すら日本人にして対しては一點の含む所なく警成の念は毛頭無かった。然し乍ら危險は日々王宮の周囲に迫りつつあった。大院君は三浦子を語らひ日本軍の一将功をして朝鮮訓練隊を指揮せしめ、一方日本人壯士を招き大院君自身の護衛たらしめた。非番巡査も亦和服に日本刀を蔕し一味に組して大院君邸に行った。


〔大院君の参入〕
 十月八日午前三時一味の徒黨は大院君の乗輿に扈従した。大院君は事態已を得す王宮を犯し自狐を退治する旨を公言した。光化門前で訓練隊に合し門衛を毅し宮中へ参入した。以上の事實は頗る詳細に判って居るが、内房の一段に至れば誰も判らぬ。話が甚に飽き足らぬ心地する。それで私は自餘の物語はどゼネラルダイ氏皇宮警官サバチン氏の手記及公文書の記録を辿りて書いて見たい。

 王妃殺害の事を叙するには順序として少しくそれ以前に遡りて見る必要がある。事の起りはこうだ。十月訓練隊と近衛隊と衝突した。


〔訓練隊〕
調 練隊はその数一千洪大佐の率いる所で、皇城は舊式の近衛隊之を守護し玄大佐の指揮の下に在った。而して洪氏は千八百八十二年(明治二十五年)王記の危急を救ふて信頼淺からす、玄氏は千八百八十四年(明治二十七年)国王の危難を助けた人である。右衝突の結果近衛隊は著しく縮少せられ、頼みとする武器は取り上けられ、弾薬は何慮かに移転されて仕舞った。その後月の七日訓練隊は王宮内を反覆行進して地理を暗する迄演習した。果然翌八日の未明にはゼネラルダイ氏の夢は驚かされた。二百名以上の訓練隊は忍ぶ姿は蔭き所を擇んて居るるのが見えた。ダイ氏及サバチン氏は俄に取る可き手段も無い何せんと相談中光化門の方に当りて銃声か聞えだした。(ダイ將軍は亞米利加合衆国の人にして近衛隊の教官だしサバチン氏は露人で歩哨監督の任務を有って居た)

 ゼネラルダイ氏は近衛隊を呼集せんと試みたが出來なかった。のみならす訓練隊は二人の外国人を追ひ出す為に数回の一斉射撃を試みて後、国王及王妃の御室の門際に押寄せて來た。正確の記録はこれ迄でこれからは頗る分明せぬ。話は後に戻る。訓練隊長洪大佐は光化門側て斬殺された。訓練隊は方々へ亂入した。
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 嗚呼斯くの如くして野心家たり術数家たり魅惑的な女丈夫は――其の反面には敬し可き愛すべき性格の所有者たる王妃は――義父の教唆による暴漢の手に斃れ給ふた。時に御年四十有四、御存命中の事を語り井上伯は、「王妃殿下は韓国稀に見る女傑で敏感聡明の人であつた。特に反対派の人々を懐柔し部下の信任を得ることの巧なる一人も比肩する者がま無かった」と言って居る。

〔大院君の宣旨〕 
 悲風惨雨の劇的な夜は明けた。大院君は次の様な院宣を發布した。
一、王宮は小人輩の巣窟となり民心離散した、由て大完君ば改善を計り小人を除き舊制を復し皇帝の尊厳を維持すべき權力を興へられた。
ニ、皇帝を補佐し小人を除き国家を救ひ平和を維持せんか爲めに今宮中に入ったのだ。


〔訓練隊の勢力〕
 装弾し着劍したる銃器を執れる訓練隊は宮円を警戒した。其等の門を出つる者入る者隊を爲して居た。舊近衛隊の兵士は兵器を捨て軍副を捨てれ逃れと試みたが一々搜索せられ逮捕せられた。近衛隊の退去お構ひなしのお觸れが出たが後の祭であった。光化門邊碧血妻しきは洪大佐最後の場所である。内閣諸公或る者は逃亡し或る者は其の地位を失った。其他の高位大官多くは危急を免かれて生命丈は安だったらしい。皇帝御信任の者は一人も殘らす宮中を去って各省主要の椅子は訓練隊の有力者によりて占められた。


〔三浦子爵の参内〕
三浦子爵は杉村公使館書記官及び数人の日本人を帯道して早朝参内した。国王の眼には数人の日本人には見覺えがあつた。国王は一瞥甚しく当惑遊ばされた。三浦公使謁見の間大院君は陸下と共に進言を聞いた。三浦公使に引績き列国の使臣は国王に謁見した。


〔お痛はし陛下〕
 陛下は固より心亂れて時々咽び泣きにお泣き遊ばれた。而もお痛はしい事には、王妃の御落命の趣は少しも御承知なく無事に逃け延びて居られるものと信じ、御自身独り非道な父上と暴徒との間に居られることを淋しく淋しく感じられた。外国の使臣を見るや思ひ除って陸下は舊慣を破り使臣の手を堅く握ってどうか凶事出来きせぬ樣盡力頼と仰せられたさうである。

 王妃暗殺後一日経ち而も尚国王陛下も一般国民も王妃御存命だど信じて居た。三日目になって其の顧顛末か官報に詔勅として掲載された。然し陛下は此れの認識に御親署遊ばすことを拒み「朕の名を署暑するよりも寧ろ朕が雙腕を斬って捨てろ」と仰せられた。然し事實は勅語として公にされ宮内大臣、総理臣及六大臣か副署した。即ち  184頁


〔勅語出づ〕
  勅 語
 朕の即位以來三十二年になるが未に治績擧らない。皇后閔姫は其の一族を国家の顕職に据へて朕の側に侍らしめの朕を明を蔽ひ、國民を困め府中を紊り官を賣り職を售り、虐政單り行はれ盗賊全道に蜂起した。斯の如き状態で李朝の社稷は真に懽るべき危殆に瀕して居た。朕は閔姫か豫ねて無道悖徳の女たるを知って居たが彼の徒黨の勢力は朕の獨力以て如何ともし為し難かった。

 朕は彼等の勢力を遏め之を制するに務めた。昨年第十二月朕は祖宗の神霊に誥け皇后及皇后の一族並に及朕及び朕が子孫は國政に容喙せざらんこどを誓った。朕は之を以て閔の私黨が其の前非を悔ゆるのを希ふた。然し乍ら閔姫の陰険前非を改めざるのみならす却て不逞の徒を合して朕に背かしめ内閣諸卿と国政を議することを妨げた。加之暴動を教唆煽動し愈それか勃發するや、閔妃は却て逃亡回避した。朕は閔妃の居所を搜索せしめしも遂に隠れて出です依って朕は閔妃が既に皇后の地位に在るに適せず且つ其の資格なきのみならず其罪大にして之を廃するに充分なるものと認めた。朕は閔妃と共に祖宗の位を紹く譯に行かない。茲に閔妃を皇后の位より際きに下すのだ。
       御 名 御 璽 
         各大臣副署


〔賎民より一牌妓生へ〕
 虚構的な不名春な右の勅令に績いて當日更に勅令が發布せられた。此の二度目の勅令によりて一旦に貶せられた故閔妃は一牌妓生に昇叙せられた。盖し皇太子殿下が父陸下に對する孝心深く在しますことと殿下かの子に渡らせられるも如何にやとの意見があったからだ。

 外交は混乱憂慮すべき状態になって朝鮮の地位は絶えす議論の中心となつた。勿論暗殺事件の如き極端な凶事が一小範囲内に局限された因果相とも思はれぬ。暗殺劇の背後には黒幕がある。黒幕の裡では水も漏らさぬ陰謀か工らまれてある。

 而もあらうことか可弱き婦人に屈強の男が多勢を恃んで毒刄を振ふなど、政情の前後を考ふれば邪推すべき節が少-くない。


〔流言蜚語起こる〕
 流言蜚語は刻々に傅はりそれが耳より耳に私語するが如く而も流るが如く迅速に擴がって行く。遣り口が巧砂だ。朝鮮人の手際ではない。人を斬ることの鮮かさ朝鮮人の腕前では無い。後宮悲劇が演ぜられる間其の周囲を警戒して居たのは服装が違って朝鮮兵で無いらしい。門内月影に閃く銑剣は朝鮮兵の持物では無い様だなどと噂が傅はる様になった。

ゼネラルダイ及サバチン氏の言ふ所は間違の無い所だが民衆の猜疑心は取り取に暗鬼を書く様になる。

〔公使召喚〕
 其の日の午後には子爵三浦將軍は刑法上連坐すべきものかなど勝手な儀論さへ傳はった。十日後になって日本政府は、本事伴には全然無関係な事が明になり、面して三浦子爵及杉村、韓国軍部顧問岡本外四十五名は日本に召喚逮捕せられ、廣島裁判所の手に移された審判せられる事になった。然し乍ら「罪に処すべき証拠不十分」の故を以て方免された。  187頁105面


〔小村公使来る〕
 三浦子爵の後任として小村氏公使として京城に駐在する事となり、間も無く井上伯は日本皇帝の弔儀を齎して來城した。極東に於ける文明の指導者たる日本の地位聲望は可なりの大打撃を受けざるを得なかった。日本政府の本件に関する無関渉の聲明も軈て忘れられ不快な事のみ記憶せれる様になった。即ち虐殺事件は日本公使館内で劃策せられたとか、日本の居留民が和服姿で大刀を蔕ひ拳銃を持参した奴が直接の下手人であるとか、暴徒中日本の警官も加はり壯士を加へ六十人の日本人が居たとかの類である。外国使臣は、今次の暗殺事件に付き裁判上夫々の手段を講じ、訓練隊を王宮内より撤退せしめ、本件に責任を有する閣僚を起訴するか又は少なくとも之を罷免する迄は政府の一切の法令を認むることも出來ねば国王の名によりう發布せらるる一切の勅令を眞正のものと認めることも出來ぬと通牒した。

 十月十五日官報号外を以て「皇后の地位は一日も●(不鮮明、読めず)して置くべきでないから直ちに新皇后の選択が始まる」旨の勅令が發布せられに外に十一月を超ゆるも何等政局に変化は無かった。只何となく陰惨幽霊暗の趣があった。國王陛下は引見の際か招待の際を除きては毒殺暗殺の何時身に及ぶやを恐怖し御部屋に幽居して自ら囚人の如き生活を送って居られた。宮城は閣僚の手にあり、閣僚は軍隊の道具であり、軍隊は上官を物の数とも思はぬ獄卒同然の暴れ者である。誠に此の裡にある國王及皇太子殿下程、世に淋しき頼りなき生活はあるまい。閣僚は陛下の好まぬ勅令に無理強に國璽を欽せしめる程の者、御左右に信頼する者は一人も居ない。耳に聞くもの眼に見るもの彼も恐ろしく此れも疑はしく一分間も気を安んられる折は無い。軍事顧問ゼネラルダイは老齢痩軀の人で亞米利加宣教師の人と共に王室図書館に近き所に宿泊し、両人代る代る不寝番の役を承った。實際哀れなる陛下の近侍の者にして陛下に味方するものは此の両人であった。外國使臣は毎日交替謁見して慰問申上げた。


〔御食事〕
 食事は露國公使館乂は亞米利加公使館で料理し錠を下ろした箱に人れて宮城に送り陛下に差上げた。而し監視厳しく鑰(注、ヤク、かぎ、戸締りする錠前の意)を陛下にお渡することさへ容易でなかった。陛下にに物申上るなどの事も取り急ぎ私語するが如くで、御信任を憺へる公使とのの間の通信も陛下の意の儘には出事なかった。實際陛下は屡々傷ましくも啜り泣きせられ外國使臣の手を握って同情を求められた。

 在留外國人も遊興娯第を禁じた。陛下の落胆は見る目も気の毒で御悲嘆の遺る瀬が無く冬の夜の宴楽も陛下のの笑を誘ふこは出第なかった。外國婦人、特に曾て閔妃の侍医たりしアンダーウッド夫人曾て閔妃より殊遇を給はりしウェバー夫人は他所事とは思はず悲しみ暮れた。生前閔妃が恐る可べき辣腕を振った事は忘れられ御臨修に同情を寄せる人のみとなつた。閔妃は危難を免がれ、宮城を逃れて何處かに隠れて未だ物存命中だとの噂も立った。但し朝鮮人は口を噤んで決して自己の意見を發表しなかった。うかうか口を滑らしたら怱ち危険其身に及び既に幾十人となく逮捕せられたからだ。然し心では誰しも陸下が早く御自由の身とならせられる様に熱望して居た。
仁川には外国軍鑑の数隻が入港碇泊し陸戦隊は京城に入り各自國の公使館を警衛した。


〔列強日本に守護を委す〕
 閔妃毅事件後約一月を経過して或いは御存命かも知れないの一縷の望の繩は断たれた。同時に世間は騒々敷なって新内閣の政治も治安覺束かなく覺える様にった。之を察知した外國使臣は井上伯に訓練隊の武装を解除し国王が信頼し得べき兵を募り之を充分敎育するは日本兵を以て王宮を守護せられんことを希望し進言した。此の一事は實に日本政府が這般の暴擧に無関係たるを内外に表明したるのみならず却て日本兵か列強外交官より信頼せられたる証左となったのだ。然し井上伯は比の進言を用ひなった。 蓋し井上伯は此際武装せる日本軍隊が王宮に進入するは其の目的假令陛下の守護に任し治安を確保するに在りとするも、誤解を招き易く事件を紛糾せしめ易いと思ったに相違ない。成程兵を王宮に進めるのは列強の公式の委任が無ければ日本として甘受し難い所であらう。電信局は多忙になった。


〔日本の躊躇〕
 各公使は各國本の訓分を待った。而して列国は公使等の意見に賛意を表して來た。然し尚ほ日本は嶹第して斷行し得ず、訓練隊は舊の如く勢威を保有し陛下は昨の如く囚人生活を送られて居た。私は思ふ、当時日本が列國の進言に從って居たら後日に至り其勢力を露國に譲る様な結果を来さなかったであらう。時の外国使臣中最も前説を主張したのは露國公使ではなかったか、露西亞の言ひ分は正当であった。之を斥けた日本は他日露西亞の爲す所を指を銜へて見て居なければならなくなった。

 霜月を通して朝鮮人の新政に對する反感は高まった。而して列國の使臣も責族も平民も十月八日の事件は飽く迄も追及して其の真相を明にすべしとの意見か強くなって來た。王妃存命の希望も段々怪しくなって閣僚は不本意乍ら王妃の身上に不凶事か行はれたことを承認せざるを得なかった。そこで月の二十六日外國公使は陛下の御召により参内し、總理大臣侍立の上に勅語を下賜せられた。


〔前勅廃し崩御の発表〕
 其の文意は曩きにに貶したる詔勅を廃し當初より発布せざらりしものと看破し、閔妃は依然として皇后の位にあることを宣し、更に十月八日の事件は之を裁判に付して審議し、罪ある者は之を嚴罰に處する旨を明にせられたのであつた。同時に皇后崩御の旨も御発表になった。




イザベラ・バード・ビショップ『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」) 13 過渡時代

2019-07-28 16:29:29 | 朝鮮・朝鮮人 
 「三十年前の朝鮮」 
     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯

 
 

13 過渡時代


〔日本の指導〕
 千八百九十五年(明治二十八年)の正月は京城には旧制減びて新制未だ定らす一種混沌裡に暮れた。海に陸に連載連勝を博した日本は常然支那を挑して改革の後見たり指導者たる立場に在った。曾て権勢並ぶ者無かりし閔氏一族は悉く斥けられて其の位置を去った。昨年九月十七日清軍に平城に破るや日本は最早改革の断行に何の遠慮も要らなくなった。
 明治維新の功臣井上伯は公使となって十月二十日京城に赴任し、皇帝の名により事實上政府を監督した。即ち各省に監督官を置きて行政を指導し、軍隊の編成を変更して日本式に之を訓練し、警官も亦新編成せられ日本式の制報を着用させた。尤も其制服たるや不格恰で見つともなかった。改革案作製の爲めに會議体を組織し他日の韓国議會の階梯たらしめ、而して井上伯は顧間として何時にても陛下に拜謁するの権を得、内閣會議に列する折には必ず速記者を帯同した。官吏の任命、規則の發布、舊法の廢止、改革の聲明は日々行はれ正に日本は沖天の概があった。 

 日本は其の意思行政の改善に在るを宣言した。恰も英国が埃及に爲せると同様の意味である。私は日本に自由に手腕を振はしめるならば其の成功敢て難くないと思って居た。然し乍ら井上伯は改革事業は、曾て豫想したるよりも遥か困難で、到底一朝一タに爲し得べからざるを發見した。伯は考へた、朝鮮は改革の大任を托す可き人物が居らぬ、改革を遂行するには人を養成しなければならない、此の上は改革の準備として貴族の子第の大多数を日本に送り、一年は教育を施し一年は實地を見習はせ、帰国の後之を重用するより外に道は無いと。成程改革には組織の改革よりも人の改革が先立たねらぬ。


〔五か條の要求〕

 日本が要求した種々の要求は暫し国王の手に握り潰されて居たがそれも束の間十二月に至り井上伯が提出した五箇條の項目は速時實行せられた。五箘の條項とは
  一に日く千八百八十四年(明治十七年)の謀反者の罪を許すこと、
  二に日く大院君及王妃は国事に容嘴すべからざること、
  三に日く皇族を官吏に任命す可からざること、
  四に日く宦官及女官の數を最小限に減少すること、
  五に日く貴族平民の別を撤廃することである。
 此等の項目が新聞に掲載せらるるや夥しき宦官は女官と共に荷物をまとめ夜陰竊かに宮中を逃れ出た。けれども翌朝になって廣い宮中ガラとして人無き淋しさに陛下は直ちに命分を発して逃れ出た宦官と女官を呼び戻した。歸來せざる者は厳罰に処するとあるから彼等は無論再び宮中に舞ひ戻った。陛下の意思の動搖して朝分暮改の様子が覗はれるではないか。


〔兩班の憤慨〕
 朝鮮の兩班階級は少々の親日派を除き盡く新制に反對し舊制の変革を目靚して憤慨に堪えざるものの如くであった。一般の人民亦自分等の国王が国政の改革を●(不鮮明で読めず)許することを恰も王家傅來の尊厳を傷くること甚しきものとて激昻した。
 朝鮮人に真の忠義観念は欫げて居る。彼等の言ふ所、欲する所は間違って居る。然し乍ら国王を犯すべからざるものと信ぜる以上憤慨し激昻するは已を得ざる所である。兩班は比の改輩・を以て被等特権の新奪であり、取權の停止であるど思ひ込んだ。果して然うすれば被等貴族階級にとりては由々敷大事である。飽く迄も改革を阻碍し妨害せねばなら。彼等は彼等の一族郎党を提げ積極に消極に改革反対の態度を採るに至った。官吏の腐敗は京城に於て最も甚しく、彼等は徒らに人民の膏血を搾って私腹を肥して居た。

 首府然り、地方官庁は首府を学ぶぶ。破廉恥な懶惰な官吏は常民を誅求するを是れ自己の職務とした。朝鮮官界の廓清に當る日本こそオージーアス王の廐舍を掃除するヘラキュレスである。朝鮮の官吏には名誉も誠実も無い、有っても數百年前に喪はれて居る。服務規律の如き彼等の曾て想像せざる所である。私に言はすれば朝鮮には只二つの階級があるばかりだ。一は掠奪階級であり、他は被掠奪階級である。而して前者に屬するは即ち官吏及軍隊に外ならぬ。搾取、誅求は貴属が常民にする常例である。官金浪費は官吏の慣例である。


〔勅令雨下〕
 恰も私が朝鮮を去った千八百九十五年二月十二日に至る過渡期は頗る注目に値する。官報を繙いたら当時は特殊の時代を劃して居ることと判る。或る日の勅令には長さ三尺以上の煙管を取持するを禁ずてな滑稽なのがあれば、次に日の官報には京城周囲の禿山に植林すべしてな具面目なものがある。

 又た或る日の官報には陛下皇震御拜可有之に付き吉日ト筮方を命ずてな辭令が見えるかと思へば、残酷なる刑罸を廃するなど文明的法令が掲載せられ、或るは支那人追放虐待の旨を告示し之
に違背する者は百弗の罰金又は百笞の体刑を課する由も見える。何しろ矛盾撞着の法令が相隣りして雨の如く發布され、而して結局は日本の失敗に終った。
 就中、それが不可解な政治的必要に迫まられた結果だとは云へ、從前の反逆者の罪を許して高位高官.に列せしめた事、長煙管の禁止、宮延服の改正等は些細の様に見えても朝鮮百年來の慣習を破ることで人民の反感を買ひ新制度反対の気勢を畯るに過ぎなかった。
 

〔臬首と斬り捨て〕
 皇帝に既に外国人の補ふる所となったと訛傳行はれ東學党は陛下を見捨てた。そして他に新帝を擁立したが正月匆々討伐せられ、新帝は斬られて西小門外義州街道に梟せられた。其処は最も人通りの多い市場の外側であって、私が見た時は新帝の首なるものは三つ竹を細み他の首と二つ並べてプラ下げてあった。首は冷静な寧ろ荘重な表情をして居た。少しく離れて更に一組の曝し首があったが、首は竹から振り落されて路傍の埃の中に轉がって而も犬に喰はれ、其の顔からは最後の苦悶が消えて居なかった。
 轉げた首の側に蕪青が一つあったが一人の子供が其の蕪青を取り上げ如何にも軽蔑した態度で黒ずんた死人の口に捩ぢ込んだ。こんな無惨な光景が一週間も続いた。

 其後三日間は朝鮮のお正月でこれぞと云ふ事件も起らす静謐なものであった。私は此の機會を利用して一人の友達を語らひ南大円と東大門の外側、松の小山の高く低く打績けるあたりに馬を騙った。雪は道をひ蔽ひ、曇れる空は何となく嵐ではないかと思はれた。風は寒かつれ。手繩取る手は凍へる程だったのに三人の苦力が夏服着たる儘路傍に眠れるのに少からす驚かされた。けれども段々近いて見て眠れるは永久の眠、首は鈍刀で叩き斬ってあるのが判った。さもさうづ道には迸れ血汐赤く氷って居る。彼等は東學党の一味、昔とぜルサレムに行はれたる如く何等の審を受けず朝鮮の所謂大罪を此処で贖ったのである。それから数日後の官報に斬首の刑とか、嬲殺の刑とか、民事に絞殺の刑を用ゆるとかを廃止する記事が掲載された。此の勅分は国王の勝手に振って居た生毅与奪の権を事實上將來に向って棄したのであった。


〔改革と世評〕
 日本人顧問の推攀により舊制の宜しからざるは次々に廃せられ一日一日と改善せられて行った。尤も其の改善たるや一般の気受宣しからす不満不服を以て迎へられ、未だ混沌たる状混を脱することを得なかった。
 而も朝鮮として見れば改革の断行は甚だ心苦しき話しで、右して全然日本の意に從はんか他日支那が勢力を輓回し來れる場合が恐ろしい、左して支那を頼み日本の忠告を拒まんか支那が遂に敗戦国として終わる場合が恐ろしい。全く板挾みの立場に在る朝鮮は見るも気の毒な有様である。


〔正月の行事〕
 同じくお正月の話である。或日のタ、京城市中は髪の毛を燻べる嗅気に包まれてしまった。松葉を焼く臭気も強烈なものであるが其日計りは松葉の煙も物の数でない。町より町に、戸毎戸毎に戸の前は毛を燒く焔がノロノロと赤い舌を出した。これは朝鮮の年中行事の一つで髪を櫛る時、結ぶ時に抜け落ちる毛は丹念に一年間蓄へ置き、今宵これを燒き捨てるのである。かくすれば臭気に辟易したる厄病神は逃げて其の年丈けは近寄らぬさうな。

 尚厄病避けの呪として薹人形を作り二三文の銭を抱かせて道に捨てる風習がある。此の人形は家の災難を背負って出て拾った人に取付くと信せられて居る。此の夜は木の小枝に白赤の紙片を結び付けたのを屋根の上に振り上げて月に祈り災難避けの呪とする。まだ奇習がある自分の嫌いな人の似顔を書いた紙を子供に燒せて咀の呪とする。それから、これは京城のみの風習か知らぬが、正月の或る真夜中に男も、女も、子供も、自分の年の數だけ橋を牲復する。期うすれば其の年は足に煩ひが無いそうだ。


〔石合戦〕
 正月十五日は石合戦の日だ。石合戦は無くてはならぬ年中行事だと信じて居る。乱暴な話である。墓所には親戚相集り食物を供へて祖先を祭る。宮中の宦官は松火を打ち振り打ち振り祈願の歌を誦する。此の秋も豊作なれかし祈るのである。
沢山の栗を潰して其の皮を口に含み吹き飛ばす、此の夏も無病息災なれとの呪だ。尚ほ正月十五日には小竹を割って十二の豆を並べ、又た竹を合せて堅く縛り、糸でつるして井戸に浸し、翌朝之を引揚げて今年の雨を占ふ風習がある。豆は一端から數へて月々を代表しフヤク加減で其の月の雨量を豫告する。 

 若しひからびた豆でもあったら大変、それは旱魃の兆である。子が生れたら其の軒に長い竿を建て、晝は紙製の魚を吹き流させ、夜は提灯に灯をともしてつり下げる。そして親達は燃ゆる蝋燭を飽かず挑めて居る。中途で消えたら其の子は短命だし、仕舞迄燃へ盡したら長命の吉兆だと言はれる。


〔仁川の戦時気分〕
 私は二月五日京城を辭去して仁川に下った。恰も京城に日本から人力車が始めて輸入されたのを幸ひそれに乗ったが輓子が不慣な爲め途中でにヒックリ返され一年計りを云ふものはその痛みがとれなかった。戦争開始以來何時汽船が入港するのやら全然見当付かす、私は仁川に肥後九を待っこと一週間、其の時が戦爭談の最高調に達して居る際であった。
 日本は勝ち続けに勝ったけれどもほ尚ほ最後の勝利を收め得べきや疑を抱く人すらあった。然るに威海衛陥落し、北洋艦隊を捕獲せると確實となって疑を抱くにも抱かれなくなった。勝利の報知が來た折には私は日本郵船會社の事務所に行って居た。事務員は又た勝ちましたと弁舞雀躍した。仁川は晝は旗夜は提灯に飾られ、祝勝の行列があり李鴻章の人形を燒いて氣勢をげ、辻々には酒樽の鏡を破って來る人の酌むに委かせてあった。
 
 日本は勝ち績けた。然し勝つ可く多くの犧牲が拂はれた。見よ仁川の野戦病院は滿員だ。軍人墓地は日に日に埋まって行く、軍人の葬式は幾つとなく町を通過するでは無いか。満洲から選り還された軍夫六百は身に襤褸を纏ひ、或る者は生の毛皮を着て店る。彼等の手も足も唇も霜燒に罹り、繃帯から露出した手足の指は凍傷で黒になって居る。

 總體日本の學校では国家の爲めなら一切のものを捨て、顧みるな、生命を犧牲とするも惜しむなと数へ、この数育が今日實を結んで居るのだ。曾て私は大阪の波止場で義捐になる軍需品が山を爲し、市民熱狂裡に第三師圏が出征するのに出會ったが、こんな熱烈な光景は生來見たことが無い。

 送還された前記の軍夫が病院に収容せられ新らしき服を着せられるや、身の傷病も忘れ果たるが如く又これを着て戦に出懸けるんだと喜んで居るでは無いか。軍人が死する折には載場たると病院たるとを問はす大日本萬歳を唱ふとかや、えらい国民である。

 右の様な有様を見す見す私は仁川を去った。当時の状況を掻い摘んで記せば、朝鮮政治の改蓍を朝鮮自己の手により成就せしめんとて日本は全力を挙げ誠意を盡して居る。而して既に少からぬ改革が行はれ、或いは其共の計画中である。国王は絶對専制の権力を制限せられ、十省の大臣は内閣を組機し、国王の名によりて行政に當ることになった。真に過渡期であると私は思って居る。





イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)12 韓帝と閔妃    

2019-07-27 09:38:48 | 朝鮮・朝鮮人 

「三十年前の朝鮮」 
     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯

 

12 韓帝と閔妃

〔変わる仁川〕
 奉天を逃れて牛莊に落ち延びた著者は便を求めて長崎に出て、浦塩に渡り、西比利亞を仔細に見て、特に同地方に於ける朝鮮移民の状態と西比利亞鉄道に注意を拂ひ、浦塩から又た元山に出た。元山の山々は最早雪で白くなって居た。曩に此処に上陸した一萬二千の日本軍は既に平城に向け出撃をした後で少数の歩哨の外には軍隊の姿は見えなかった。元山から釜山に來た。釜山には僅かに二百の日本兵が屯し、丘には戦病死者の墓が夥しく作られて居た。それから一旦長崎に寄港して漸く仁川に上陸したのが千八百九十五年(明治二十八年)五月五日の事である。昨年六月牛莊に私が逃れた当時に較べて餘りに閉靜なのに驚た。 

〔支那町のさびれ方〕
 沖には二隻の外国軍繿が浮び港内には日本商船三隻が碇を下ろして居る。曾て群がる軍隊に活躍して居た町々も今日はホンの僅かの守備兵が居るばかりで、十棟に餘る野戦病院と木の慕標が整列する墓所が新らしく眠を惹た。晝は商賣の掛引に聲を嗄らし、夜には鋼羅太鼓の音喧しかった支那町は寂として淋しく、私が支那ホテル怡泰棧に行く.途中-一人の支那人にも逢はなかった。夜は人無き家と思はるる家から幽かにかに洩るる登火にそれかと人の疑はしきも、語る聲など聞く可くもなかった。日本軍の仁川占領は支那商人に徹底的の打撃を興へ、中世紀頃ベストに襲はれた西欧の都市なら斯くもあったらうかと思はれる。

 支那町に引き換へ日本町は上々の景気、出卅入舟は荷物を満載し、路といふ路は米、豆を山と積み、叺や俵の梱包に忙はしく、牛は並び、擔軍は群り、肩磨穀撃の有様だった。物価は昂り、賃銀は倍加し朝鮮人は喜んで働いて居た。

〔変わる京城〕
 私は雪降る中を馬で京城に行った。昔危険だった田舎道も今日は極めて安全で私は護衛も無く馬子も連れずに旅を績け得る程であった。過くる道は日本軍の兵站線で、幕舍毎に私は親切に待遇せられ、茶を饗せられ、火鉢に温まることが出來た。そして京仁鐵道布設の準備として測量隊か居るし、往き来るさの牛馬と人夫で道は常に賑やかであった。

 京城では五週間程英国總領事ヒリー氏の食客となった。空朗かに、日麗かに京城入りの日は気温零下七度の寒さながら気持よき日和であった。これが今年のレコードである(譯者日く著者は華氏寒暖計を使用して居るから零七度は接氏の零下三十度五分になる)。京城では居留外人圑の温き歓待を受け馬に騎り護衛もつけられて渦巻く京城の内外を視察することが出来た。

 冬去って春の日の輝くが如く日本は今、日の出の勢である。駐屯する大部隊は日本兵である。内閣を組織するは親日派である。陸軍は日本の士官之を教練し、改正も改造も悉く日本の後押しで行はれて居る。国王陛下は王権をして統治するも、目前の事實、大勢の赴く所は如何ともすることが出来ぬ。皇后陛下は排日の辣腕を振ふにも振はれぬ。日本公使井上伯は沈毅果断の有力なる政治家である、少くとも表面上に波風を起させぬ程の力がある。

〔朝鮮独立宣誓式〕
 千八百九十五年正月八日は朝鮮史上永久に記念すべき日なった。日本は此の日を以て朝鮮をして完全なる獨立国たらしめた。国王は支那の宗主權廃棄の宣言を布告し、政海の廓清を期し、官吏の腐敗を矯め、有爲有能の士を擧げて重用するころを社稷に告げ、獨立を宣し、改革の斷行を祖宗の霊に誓った。
 この事たる實は韓国皇帝の頗る好まざる所で嫌でたまらない。宣誓式の前夜祖宗の神霊陛下の夢枕に立て古来の遺風を變革すること勿れと宣ふと共に亡霻は消え去り陛下をして益々危惧の念を抱かしめた。然し乍ら井上伯の意思は頑宗の神霊よりも強かった。式は最も神聖なる地を撰み、林間に祭壇を築き、貴臣官悉く参列した。

 但し老臣やら頑固の人々は二日に亘り斷食して之を悲しみ、黒帽白衣の群集は稀代の儀式を拜観せんとて周囲の岡に押し寄せ、崇厳なる光景をいと静かに跳め、私語する者なく胲の聲すら聞えなかった。恰も天曇り、日曛く、寒風凛として寧ろ凶氣として山河を包んだ。

 朝鮮特有の鹵薄は一種蠻的なる装飾で私達欧州人の目を惹た。實際未開とか野蠻とか評する外なき光景であったが、然し隱約の間に新時代の曙光を認め、西洋文明の大浪が澎湃として寄せ來つつあるのを感ぜざるを得なかった。宮城外の道路の兩側は騎兵隊堵列して警備し(彼等は背を国王に向けて居た)行進する歩兵の数は隨分多数に登った。
 其の歩兵たるや垢じみた黒木綿の制服に綿入足袋を穿き草鞋を履き、或る者は地に曳き摺る程に着込み、帽子は例のチロル風のフエルト帽にリボンの縁をとり、種々雑多の銃を擔ぎ、歩調もなければ列伍も無く進んで行った。最近に創設された警官は洋服を着込んで彼等の間に伍して居た。就中異彩を放ったのは一群の宮内官吏であった。彼等は毒々しく飾り立てた小馬に鞍置いて揚々と進み、群集は身動きもせず見送って居た。

〔国王迷ふ〕
 国王は御發輦の時刻過ぎても此の曠古の祭典を行ふべきか行ふべからざるかにお迷ひになった。日本の忠言に從はざるを得ないのか、何とか逃れる方法は無いものか。時刻は過ぎた。一刻も二刻も延引して漸く行列は動き出した。大施は門を潜って出た、旗竿の頂は三叉の槍になって居る。緋色の服に緋の帽子の一隊、靑色の服に青の帽子の一隊、次て黄色の服に黄の帽子は陛下近待の廷臣だ。
 陛下はと見てあれば、今日は興丁四十人擔ぎの大輿にはあらで四人擔きの小興に召され顔色憔悴して通御になった。皇太子殿下も同様の御仕度、績いて各部大臣其他の顯官、將校各々馬で扈従した。馬は例の飾り馬。乗るにも下りるにも人の手を借り行くに馬丁左右より馬の口を取り、更に二人し挽き繩を引く物々しさ。

〔朴永孝氏〕
 かくても笑止や一人は内務大臣の後ろに落馬した。内務大臣朴泳孝氏は千八百八十四年(明治十七年)の改革党の一人、曾ては陸下の逆鱗に触れ遠島申付けられたるが、時節となれば致し方も無い。陸下は嫌々ながら其の罪を許し、曩に貶黜したる朴氏の祖先を新たに叙動した。氏を擧けて内務大臣の願職に任じた。氏の周圍は武装せる日本巡査護衛の任に當り、氏自身は驢馬の太く逞しきに西洋鞍置ける凛々しさ一際衆目を惹いた。

〔宣誓文〕
 祭壇では要職顯官及侍從のみ扈従して其他は皆門外に屯した。茲に陛下の祭文の冒頭を譯して見る。 

 時維れ開国五百三年十ニ月十二日、皇朕れ、皇祖皇宗の神靈に詰げ申さく、皇朕れ幼冲にして皇位を紹ぎ今に至りて三十有一年に及びぬ。其間国歩多屢艱難に陥りしも祖宗の遺制に則り幸いにして過つ事無かりしは祖宗の神祐の然らしむる所なりとす。而して祖宗王統を肇め給ひしより既に五百有三年、今や時勢大に変し人事共に舊態を存せす、信義の友邦外に援け、忠實の諸臣内に計り、朝鮮を富強に導くの道は一に独立の統治を始むるに在ることを知れり。云々

〔井上伯の言明〕
 期くして朝鮮は独力を以て改革に從ったが、無論一歩一歩日本の指導を仰がねばならぬ。
 井上伯は日々新聞記者に「余の眼中皇室と国民とあるのみ」と語ったのも此際の日本の立場が窺がわれる。伯の意見は明治二十八年早春の事情としては正当である。自分達も之に依りて申分なき内閣の成立を喜んだ。間も無く私は皇后陛下から御招待を賜って面目を施した。其の節の付添いは亜米利加の牧師にして皇后宮の侍医たるアンダーウッド夫人、総領事ヒリュエール氏の斡旋により公式人憺ぎの輿に乗じ、朝鮮正規兵の護衛を従へ景福宮に参内した。其の後私は前後六回も参内し、参内する毎に宮中の入り組んだ事情に驚き、珍奇と華麗途に眼を睜った。

〔陛下の御座所〕
 景福宮の正門を光化門と名づける。巨然たる石を畳みて築き、石階を登れば樓となる。三箇のアーチを仰ぎ見る程に高い。門前には左右に石造の唐獅子石造の台上に踞し、門を潜れば石畳みの廣場、廣場の彼方此方にも樓あり、台あり、亭あり、石橋あり、廻廊あり、夫々の趣がある。
 正門は日本の警官之を守り、門内の各門―それは数知れる程ある―は朝鮮兵.の歩哨之を守り、八百の軍隊、千五百の従者、、宮内官、大臣、秘書官、使者、其の他に無官の太夫たる居候等群れを爲し、宮城内は宛然たる一小都曾の賑やかさである。私は門を出て門を潜り、半哩も樓閣相連る所を過ぎて非常に綺麗な池の端に出た。池中島あり、島の中中央に亭あり、亭に近く洋館があった。此の亭こそは当時国王及び王妃の御住居となって居る。私共は二三の宦官と数多くの女官及び通譯官の出迎えを更けて王妃に拝謁すべく案内せられた。

閔妃の御召物〕
 私共か最初に招せられた所は黄色の絹を垂れた簡素なる部屋であった。其処で茶菓を賜り、次いで昼食を賜り、食事には端麗な女官達か倍侍した。食事は洋風で、スープ、魚肉、鶉、鴨、雉、コールドビーフ、野菜、クリーム、何れも上手に料理されてあった。食事後稍暫くしてから通譯に伴われて謁見の間に参内した。上段には緋色の天鵞紙を張りつめた椅子並び、椅子の前に国王陛下、皇太子殿下、王妃殿下の順に立たせられた。私共の爲めにも椅子を用意してあったのは有難い。

 王妃殿下は御年四十を越されたかスラリとした優型の美人に渡らせられ、御髪は漆黒で御化粧に真珠の粉を用ひ給ふものから玉顔蒼白に見へ、眠は鋭く冷静で、御様子全体が機敏な性質の方だと察せられた。さても見事の物召物、眼も覺むるばかりの瑠璃紺の長袴を腰高に着け、かき合せたる上衣の御衿は頸近く珊瑚の玉を以て止め、青赤とりどりの紐六條を合わせて帯となし、一條毎に珊瑚の飾りを付して止金となし、尚ほ帯には絹の總燃めるが如く垂れ、御冠と申すべきか天井なき頭巾の毛皮の縁を取りたるに寳石を鏤め、赤き總は御額を飾って居た。御靴も亦御袴同橇に縫とりがしてあった。妃殿下は斯くして親しみ易き態度で話を始められ、話が興に乗れば御顏色輝き一人美はしく見上げ参らせた。
 

〔陛下と殿下〕 
 国王陛下は背丈け餘り高からず、薄き口髯と頥髯を蓄へられ、神経質と見え時々引き釣るが如く手を震わせられた。全體平凡の御風格だが御姿勢御態度何処かに威厳備はれるは争はれぬ。陛下は常にニコヤカで親切で、王妃は何時も陛下の話を助けられた。陛下と皇太子殿下は共に綿入れの絹股引と白靴白足袋、上衣は薄青色と白無垢の襲せ着、瑠璃紺の袖無しを召されて居た。
 皇太子殿下は御體質を虚弱にして頗る肥満せられ、強度の近眼だが儀禮の作法として眠鏡を許さぬのは御気毒である。殿下に拜謁した人は皆言ふことであるが、私も殿下の健康には重大なる歃陥がある様に見上げた。何しろ殿下は妃殿下の一人子である。妃殿下が殿下の御健康に対しては朝タ絶え間なく心遣ひ遊ばされ、特に庶子の方が皇位に登られる場合が起こらないとも限らぬとの危惧の念に駆られて遂に妖僧の手を籍り屡々無残なことを断行せられた。私の拝謁して居る間も王妃は王子殿下の手を握って椅子にかけられて居た。盡きぬ母親の心からである。

 王妃は上品で聡明で私に色々御物語あらせられ陛下は直に物語に加はって二三十分間も寬がれた。私がお暇を申上げる時に拝謁した御殿撮影の許可をお願したら、陛下はこの家のみか彼も寫せよこれも撮影せよと親ら手を挙げて示して下すった。私共は喜ばしい楽しい時を過して御前を下れば時刻移りて既に薄暮の頃故陛下は兵を読んで私共を護らせ、紅緑ダンダラの竹の提灯の幾つかは私の道を照して呉れた。それから二日して私は又た禁裏を拜観した。此日は軍隊の半箇大隊に将校五名及若干の宮人の群の騒がしさに悩まされた。

〔勤政殿と慶會樓〕
 勤政殿は實に見事な建物である、私は少からす其の荘厳美に印象を得た。地上高さ五尺の基礎を盛りて臺とし、御影の石階は中央と左右に分れて居る。臺上に巨然として格好の宮殿が聳つ、殿裡に入て仰げば格天井は赤に青に繰に色どられ、朱塗りの大柱之を支へる。廓然として廣きが故に全体薄暗く、薄闇き奥に玉座は幽に爆たる光を発つて居る。これに劣らぬは夏宮慶會樓である。慶會樓は廣き玉池の中に建てられた大建築、池は一面の蓮、蓮を超へて石橋があり、橋を渡れば即も樓である。三沢四角の石桂は総て四十八本、各々其の長さ十六呎、二階を支へ大屋根を支へて居る。其の場所と云ひ光景と云ひ中々に見事である。

〔閔妃の御生活〕
 三週間の問に私は更に三度程参内した。二度目には前回同様アンダーウッド夫人に伴はれ、三度目は儀式に招待を受けて之に参列した。四度目は全然私一人で拝謁仰せ付けられ一時間以上も御前に侍った。そして私は参内の度に王妃の優雅で、愛橋があって、お話上手なのに、且つ又た其の智謀、精力に関心せざるを得なかった。私は敢えて王紀の政治的勢力が国王陛下を凌げるのに驚かぬ。さりながら王妃は陸下の父君大院君を中心とせる敵黨圍繞せられて居られる。

 此の敵黨は王妃の手腕を憎み、勢力を憎み、重要の大官に妃殿下が自己の親族を挙げ国政を縦まにせしめるのを憎み切ってるではないか。王妃の生活は寝ても起きても戦である。王妃は国王陛下と皇太子の尊厳と安全を保障し、大院君を一蹴し去らんが爲めに愛嬌と機敏と、聡明とを以て、巧みに勢力を維持せられた。

 王妃は已を得ず多くの人の生命を奪った。けれども人を毅すにも舊慣を破り傅説に反く様な事はせぬ。王妃の生活は正に朱唇に毒を含み玉手に刃を隔せる振舞である。女としてあるまじき事だが人或いは之を弁護してこんな實例を挙げる。それは陛下即位後間もない時であった。大院君は王妃の兄様の家に麗はしき箱を贈った。家族の人々は尊き贈物を打寄りて眺めて之を開いた。中には何があったか誰も知らぬ。轟然たる音は近隣の人を驚した。煙の下には王妃の母君、兄君及姪の方と其他幾人かの死屍が横って居た。事来王紀は一変して妖姫となった。陰謀家となり、大院君との間には火焔の如き情悪の念が消へぬさうである。 

〔陛下の弱行国を危うくす〕
 李朝の礎は動き出した。陛下は誠に愛すべく敬すべき御方であるが、性來意思弱く渡らせられ、侍臣の言ふが儘に政を行ひ、特に王妃入内後は王妃の言の儘になられた。私は陛下の意中は民を憐み国を憂ひて居られるものと信ずる。陛下は国政の改革を志して改革を給はぬのは一に陛下の意思の悪しきに非ず意思の弱きが為である。
 朝鮮では綸言は直ちに国法である。然るに陛下の綸言は奏聞する人ある毎に動揺し、朝に変わり、タに改まる有様である。人民は殆ど適従する所に迷ふて居る。實に国家の不幸である。陛下に一片の硬骨があつたら、主張を固辞することが出たら、今迄に試みられた改革改善の良法が斯くも敢なく水泡に帰すが如きことはなかったらう。
 

〔大院君と陛下〕
 陛下実算今年四十有三、王妃は少しく年上である。而して陛下幼少の頃、未た支那式の漢學数育を受けさせられる間、陛下の後見として政を摂すること十年に及びし大院君は随分乱暴な我儘をした。人民は大院君を鐵腸石心の暴君として恐れに懼れた。千八百六十六年〈慶応元年〉には舊教徒二千人を惨殺した程の剛の者である。實際被は無遠慮に横車を押す所の手腕家であり、彼の手を擧くる所人命害はれ、足踏む所碧血流れた。彼は自分の子すらも殺すに躊躇しなかった。 

 彼の摂政時代以後王妃暗殺に至る数年間の朝鮮史は大院君と王妃及王妃の一族閔妃氏の暗闘明闘の記録に外ならなかった。私は宮中に於て只一度大院君に拝謁した。老人とは言ひ條総て活動的で、言薬に力籠り、眠光閃々、動作亦元気溌剌として居た。之に反し皇帝陛下は物腰総て軟かで、現代よりも将来よりよ、過去の歴史に趣味を有って居られる。宮中で何か故實を知る必要がある場合に之を陛下に質せば陛下は直ちに史實を挙げ出所を明にして明快なる解決を与へられるさうだ。従て圖書頭は決して楽な役目ではない。又た景福宮の書庫は其の結構形式共に有数の建物の内に数へられ、蔵書から尠からずと聞いた。而して陛下は父君に反し決して排外的思想を有せず、却って近年の国難の苦楚を甞め益々外国に信頼する念を萠し、我々外国人には懇切叮嚀に応対せられる。

 私が二度日に参内する節は日本の勢力宮廷の内外を風靡して居たが陛下及王妃は欧州人に対しては殊遇を給はり池中にスケート大會を開き外人全部を招待せられた。陛下が又た基督教会に心を寄せられれるのも正に父君大院君と丸反対である。陛下及王妃の侍医は亞米科加人で外国人と宮廷の間に立って忠實に働いて居る。此等事情を省みて見ても人民は必しも王家に不服を抱くのでは無い、単に閣僚に対して反抗するのだと私は思って居る。
 

〔陛下の御軫念〕
 私は陛下の御一身に関して書き過ぎた。然し乍ら朝鮮では陛下は直ちに政府夫れ自身である。陛下に就て書くのは朝鮮政府を説明すると同然である。朝鮮には未だ成文の憲法も無ければ曾て不文の憲法も無い。代議士有らざれば從って国會も無い。勅語を離れて法律も無い有様である。實に朝鮮国王は統治すると共に行政もする。内閣各省の事務に精通し、報告を受け、命令をし、政府の名を以てする一切の事件に関渉せればならぬ。真面目に国王の仕事を爲しなら到底一人の身の能くする所で無かろう。況んや大綱を総攬するに長ぜざる陛下には御無理と申上ぐる外は無い。陛下は自ら無能を嘆じ精力.の不足を悔しいがって居ながら小人の言を聞きては国政を通り、意思弱くして愈々国難を滋くされるばかりである。
 私が従来拝謁した折々陛下の御言葉より察すれば、陛下は充分に改革の実を擧げ度い御志望のみならず、日本が進言する改革にも頗る敬意を払て居られる。
 陛下は私に日本及西比米利亜の鉄道状況、一哩の建設費用、支那の内物、日本の戦爭気分等細かな點も御質問になった。尚ほ英国に於ける官吏登用法、貴族以外の有為の材を起用する方法、特権貴族階級の地位及其の勢力失墜応ずる貴族の態度等も御質間になった。

 或る日のこと陛下及王妃殿下は熱心に英国王室と内閣の関係、特に皇室費に就て御質問があり、其の御質問たるや細日に亘り徴を穿ち私は殆ど応に窮して仕舞った。尤も陛下の御心配は若し大蔵大臣が勝手に皇室の御内帑或に容喙したり、或いは王妃の御費用は王妃自身の財布から出さねばならなかったり。或いはそんな些細な費用すら国庫の手を潜ったりしなければならぬなら面倒だと思召して居られる様だ。

 尚は国務大臣の事務権限に就ても種々御下問があった。宮務大臣の権義、総理大臣の地位、各大臣及王室に対する関係を御訊問あり、更に大臣の任免に就き皇后の意見が行はるるべきかものか、最も耳を傾けて在らせられた。けれども英国憲法にて少しの観念もなき御方に就いて其等を徹底して説明申し上ることは不可能であった。
 

〔暇乞の参内〕
 長い間京城に滞在したが最早京城を去らねばなられ。私は御暇乞の爲めに参内した。例の通り八人襜ぎの輿に乗り、例の通り軍隊から捧げ銃の礼を受け、例の通り王宮に参進した。數名の宦官及士官の出迎により私は輿から助け下ろされた時、恰も陛下は親ら障子を開いて曾釋を賜り、復た御手づから御閉めになった。御居室は方六呎を超えす、内謁見の間に続き、室の一隅には床を置いてあった。

 而も今日は何時もと異ってウヨウヨする待従、宦官・女官等を遠け室内に陛下と王妃と公使館から伴った通譯と私:のみであった。通譯は街立に距てられ、王妃を拝することは出来ぬ所に立ち、頭を垂れ眼を擧ぐるを許されす、聲を立つるを許されず、只囁くが如く通譯申上げた。勿論これは対話の外に洩るるを防ぐ用心であったが、用心が用心にならなかった。私は戸の透間からチラッと人影を認めた。
 通譯も亦ハッと気が付くや俄かに語るを止めた。果然其の人影は陛下が外国人に如何なる秘密を語るやを竊み聞に来たので、而も閣僚の一人、平生陛下の信任を得る能はず遂に国外に亡命した男であった。私は此の日陛下と如何なる対話をしたか其の内容を記し兼ねるが兎も角一時間に亘り興味ある話題が続いた。 

〔王妃と英国女王〕
 王妃は英国のヴィクトリヤ女王に就て種々の御物語あらせられ、こんな御話があった。ヴィクトリヤ女王陛下は大を欲して大を得、富を欲して富を得、力を欲して力を得られた。王子も王孫も共に或いは王たり或いは帝たり、王女は総て王妃たり皇后たり、美しいお方だ。女王は恐らく貧弱なる朝鮮の如きを考へられた事もあるまい。女王は善に忠実にして世界に多大なる貢献を遊ばされた。女王の御在世そのものが既に善事である。自分等は女王陛下の萬歳と御隆昌を祈らざるを得ないと。
 陛下は王妃の語に継いで英国は朕が最善の友邦なりと仰せられた。王統古けれども動揺常なき国の元首が英国の王家を羨望せられる時私は一種の感に打たれざるを得なかった。 

〔握手を賜う〕
 私が暇乞申上る時に陛下は立って礼を受け、王妃は手を伸べて握手の礼を賜ひ再び朝鮮に歸り来たって更に詳しく観光する様に誘って下すった。私は九箇月後に王妃のお言葉通りに京城に帰って来たが、此の時は哀れ、王妃は既に在されず陛下は幽囚同様の身となって居られた。

 


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)11 清兵南下    

2019-07-23 10:32:12 | 朝鮮・朝鮮人 

 「三十年前の朝鮮」 
     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯

 

11 清兵南下

 

〔頼母敷は故国の人〕
 肥後丸で仁川を逃れ出で汐れ衣の着のみ着のまま、芝罘に上陸した。木蔭さへ八十四度を超ゆ暑気に苦しみながら嚢中僅かに四銭、勿論傅も雇へ疲れた足を引き摺り丘の上の英国領事館へと志した。旅券も公人私人よりの紹介状も京城に遺した儘に持参して居らぬ。国籍を証明するにも其の方法が無い。衣は薄穢く汚れて見る影も無い。果して心より私を領事館に受付けて呉れるか心もとない話であるが領事館の門前に停んだ其の瞬間は実際堪えがたき不快に襲われた、気後れしてはならぬと思ひ、勇気を鼓して訪なった。

 残れる只一枚の名刺は破れている。現れた支那人は受け取る名刺と私を見較べて怪しみつつ蔑しつつ取り次いで呉れた。

 やがて領事クレメント・アレン氏が現れた。嬉しや同君は温き手を延べて国籍の証明も何もいらぬとて誠の限りを盡して勞はつて呉れた。実にや旅に居て恋しく頼母しきは故国の人、アレン氏は我々を保護する英国の領事である。私が一文無しの憂き目を見ていることを聞いた同氏は、早速ファーガソン会社に伴って入用の金子幾らでも貸して呉れる様に話して呉れられた。会社から帰るや直ぐにお茶に招かれた。当時同館滞在中の北京駐在スペイン公使夫人に夏服一襲ねを慎重して下された。哀れなる仁川からの落ち人は人の情に恵まれて思はぬ衣更への心嬉しく見るから豊かな人になりおふせた。

 

〔牛莊上陸〕
 女乞食の様子して上陸して思はぬ人の厚き温情により見違ふばかりの姿して肥後丸に帰った。肥後丸は一度白河口に赴き、舳を回らして遼河口牛莊に来た。仁川出發後五日にして船と別れ満州に足跡を印した。遼河は流れ速く、折からの雨に水嵩増して泥を巻き上げ濁りに濁って居た。上げ潮の時は何処が岸やら見分けぬ程、左手遥かに水に浮くが如く見ゆる砦は守り厳しき砲臺とやら、数々のクルップ砲があると聞いた。

 遼河口より遡ること三十哩にして人口六萬の牛莊がある。牛莊は千八百六十年の開港以来年々急速なる發達を遂げ、中流には幾隻かの英国汽船か碇を降ろし、兩岸には色とりどりに塗り立てた無数のジャンクが目白押しに浮んで居る。

 これ等の船は大豆と豆粕とを積載して南清へ仕向け砂糖と麥の肥料にするのだそうな何処が牛荘かと見れども見えず、泥の上衛門の反りを打たせた屋根と寺の塔だけが聳へて居る。欧州人の居留民約四十、海關の建物に鑟く事務員の官舎、其他ニ三の商館洋行及び英国領事館の建物が居留地で特に眼を惹く。茲の領事館でも私は親切に飮待せられた。晴れたる空に吹く凉風の心地よさ、牛荘も忘れ難なの土地である。然し乍ら首を回せば濁流滔々として泥の岸を噛み、噛みては渦に流し行く様、他日は此の家も野も蠺蝕し盡すかと思へば氛持が悪い。幅狭く、細長きに蓆の屋根、一枚帆の太きを風に孕ませて河を下るは奥地より大豆を積み来れる苫舟である。夜と晝との分ちなく豆油を搾るは名物の油房、牛莊は豆に培はれ、豆に育つと言はねばならぬ。


〔満州入り〕
満洲は支那本部とは被の萬里長域を以て接しつつも、風土を異にし、人種を異にし、露国とは特殊の関係に居り、ターター族、ギリャーク族、ツングス、ソロン、ドウル族に漢民族を雑へ、更に朝鮮人の三萬戸も其の中に居住して居る。朝鮮人は半島の政治的動揺と官吏の苛斂誅求に堪え兼ねて、千八百六十八年以後に逃れ来た者が多い。私は此の満洲に二月を過して親しく彼これと見物することが出来た。

 

〔日清の関係〕
 私が奉天に出た頃は日清載爭の噂とりどり、住民は頗る昻奮して居た。既に記した通り東學党は勢ひ侮り難く官兵屡々破れ、韓廷は遂に助を清国に求めた。清国は天津修約の修項に基き千八百九十四年(明治二十七年)六月七日兵を韓国に入れる旨を日本に通知した。之に対し日本も亦出兵の意思を清に申送った。清将は兵三千を率ひて牙山に上陸した。而して日本軍は仁川及京城を占領した。最早戦争は避けられぬ。

 抑も支那は朝鮮を其の属国と看做しし、其の旨を繰りしれ日本に声明した。日本は之を認めぬ。朝鮮は純然たる独立国だと主張した。朝鮮の財政の監督、中央及地方政府の刷新及国防の為めにする軍隊の教練を日清協同に行ふべきを提議した。清国はそれは内政干渉だ、朝鮮内の改革は朝鮮事態に任すべきだと答へた。七月十七日に至り日本は清国に対し清国が出兵を増加するのは日本に対する敵対行為だと咎め、韓国皇帝に対しては宜しく清兵を退去せしめよ、然からざれば日本は己を得ず最後の手段に出なければならぬと警告した。斯くして日清間の関係は刻々険悪に赴いた。

 締盟国は勧告皇帝の依頼を受け平和の維持に努め、日清両国に同時撤兵を勧告した。此の勧告に清国は応じたけれども日本は耳を傾けなかった。七月二十三日に至り日本軍は所謂己を得ざるの手段に出た。則兵を王宮に進めて工程を警護することとなり、皇帝は監視付き同様の身の上となった。大院君の方寸に出たと称するが、日本が糸を引張って居るのかも知れぬ。

 

〔遂に兵火相交ゆ〕
 七月二十五日清国輸送船甲陞號は清兵一千に百を乗せ英国旗を掲げ航行中日本巡洋艦浪速の為めに撃沈せられ、四日後には牙山戦となり清兵散々敗北した事件は急転直下外交上の手を離れた。

 七月三十日には韓国皇帝は清周條約の破棄を聲明した。此の聲明は清国の宗主權の否認である。八月一日には宣戦布告があった。尤も奉天に在る私達は此等の事件に就ては殆んと知る所が無かった。

 七月半に至るも差し迫った場合にあるとは思って居なかった。

 

〔私は安全であった〕
 總體支那は排外的色彩か濃厚だが、満洲は決して外国人に敵意を挟んでは居なかった。欧州の婦人の身にして奉天城内に足を入れたのは恐らく私を以て嚆矢とするが、私は一度も妨害された事も無く、奇異の眼を瞠つて集り來る群集を寫真に損影してさへ無難であった。英国のスコッチ敎會は、最早当地に布数すること二十二年、其の名は人に親しまれ、交際は深くなって居ることが私の安全だった原因かも知れない。
 餘談は偖て措いて、七月末になったら血醒き風聞が次から次に広がった。朝鮮に向けて進出する清兵の行軍は益風聞を裏書した。私もウカウカ見物に出歩るく譯にいかなくなるし、写真器は魔法の箱で其の巨眼に影が映ったら人は一年内に死し、家減び、城璧すら崩れ落ちると信せられ、爾來撮影も出來なくなった。

 

〔支那出兵の模様〕
 宣戦布告後は諸事益々險悪となり、制海権は日本か掌握した結果朝鮮へ出征する清兵は悉く満洲を通過せざるを得ざる事となり、吉林其他北部諸市から募集せられた不規律な軍隊は日に千人の割を以て奉天に流れ込んだ。其等の軍隊たるや左右民家の品物は手当たり次第に撩奪し、宿屋の亭主をブッ叩いた上に無錢宿泊の乱暴、基督教禮拝堂を無暗に打ち壞はす狼藉さ加減、彼等は耶蘇教を搾斥するに非ず外国人と見ればこれを憎むのださうだ。
 奉天を距る四十理の遼陽では禮拜堂破壞ばかりスコットランド教會のウヰキーリー氏を死に至らしめた。奉天の排外熱も日に高まり外人の雇ふ使用人も、病院の助手ですらも、無援孤立の姿となり何時殺害せられる判らなくなって仕舞った。幸に官憲は外人庇護に努め旅行は患かウカウカ城円に入ったら域外に出たりするのを謹んで呉れと注意して來た
次で城内の禮拜堂は閉鎖した。

 會員は少からぬ数に登るが、可愛想に毛唐の片割れ倭奴の一味と邪推せられ、身邊には危険が刻々迫って来た。軍隊の侵入以来路上車一つ大一匹も姿を見せなくなり、客棧の大きなるは閉鎖して其の窓は釘付けされ、村に人影なく田園荒蕪に帰した。通る通る、医車が通る、先輓き後押し群る兵士の噪わぐが中に兵車はガタピシ進むか知く止るか如く動く。十人に一人は旗を憺いで行く。現代式の武器を持参して居るのは減多に見当たらぬ。隊伍堂々たる隊も通過したが一人も銃を持たぬ。砲隊か來る、ニ人で憺く程の砲だ。質も鏽も鏽たる舊式先込の鐵胞火繩銃、朱塗りの長柄の槍長刀、言ひ合した様に雨傘一本扇子一張を身に付けたるは軍の門出に振るって居る。此の有様で日本軍と相見ゆるとは情ない。全く殺されに行く樣なものだ。彼等はこれを知るや知らすや。逃走すれは直ちに銃殺されるから澁々從軍するのだと兵士の一人は呟いた。

 實際彼等の大部隊が奉天将軍の権門を通る時に射殺される者があった。兵士等は叫んだそうな。「行けば朝鮮に屍を曝し、退けば此処で殺されるのだ」と。

 

〔清兵の服装〕
 軍隊の給與は苦力の勞働よも高かった。それも牙山に大負した噂が傳って從軍希望者が無くなる惧があるから支給額を引上けたのだ。面して堂々たる国家の千域の制報のダラジなさ加減たらない。道化役者の村芝居にでも着て出そうな、ダプグプの身中、ダプダプの釉付けたる上着には黒天鵞絨の縁をとり、これもダブダブの淺黄色の股引、黒木に綿に縫模様入りの長靴、如何にも戦場を往来する服とは思はれぬ。況や馬手に鏽銃を持ち、弓手に撞木形の棲り木に雲雀かあらぬが小島を鎛ぎて楽しめる、思ふが儘に列を亂して物買ひ喰ひ、或いは煙草を喫し、或いは齒をむき出して談笑する、武士の所作とは受け取れない。
 唯斯の如きふしだらな隊伍をして幾分の生彩めらしむるのは風に飜る茜染の數々の流れ旗と、黒貂の毛の飾毛したる帽子を載き、黄金色したる上着をつけ馬上豊かに打たせ行く将校とである。

 

〔軍隊の乱暴〕
 不統一の限りを盡せる軍隊の中には医療機関の設備も無けれは衛生隊も居らのぬ。聞けば戦死者は最早無用の代物と心得て、着物迄も剥ぎ取り、丸裸で捨てるさうだ。軍需品は平時之を備へざるにあらざれども密かに売却して懷を肥やすから倉庫裡に在るべき品は見え。糧秣固より不足も不足、到底部第行軍の役には立たぬ。
 彼等は久しからずして盗賊に化した。竊まざれば身が立たぬ。彼等は軍馬を穀し喰った。殺さざれば餓が醫せられぬ。軍紀無く軍律なき軍隊は公認不逞団に過ぎぬ。市民が彼等を恐れる無理からぬ事である。

 満州騎兵五千騎が先づ菶天を出発した。同隊の將軍は剛毅果断を以て聞えたる名將左寳貴である。同將軍の威令は能く行はれ、部下の尊信を受くること厚く、平壊役に陣沒するや清兵の意気一時に阻軣し、日本兵亦彼を葬むるに禮を以てした程の名將である。さればこそ部隊に訓練あり、號令厳明、武道格段の譽があった。
 

〔左将軍〕
 左将軍は出發第一日に於て瓜泥棒の科によりて六名の部下をに斬に処し、其の翌日は逃亡者十四名を捕らへて其の頸を刎ねた程である。

 左將軍の奉天を去りて後は、軍隊の乱暴は愈烈しくなった。そし満州軍と漢人部隊との反目軋轢は清罩の大なる弱點となったのみならず将校の身邊甚だしく不安となった。間も無く不穩な風評毎に擾乱が加わる計りであった。北京朝廷からは「今次の戦は一に反逆者倭人を誅するにあるのみ、諸外人と親睦を守り、危害を加ふることなかれ」と勅語が公布せられたが勿論何の役にも立たなかった。

 乞食、浮浪人、苦力の類は見当たり次第軍に收容せられ、三週間の訓練の後悉く戦地に送られ、奉天附近の馬車は皆撩奪せられ、全て軍馬料理の薪となって仕舞った。日数も除り立たぬ中に奉天城内の商店は閉鎖し、商人は何処かに避難する者が多く、残る者は早く日本軍が奉天を占領して秩序を維持して呉れる様に心から祈った。諸物価は瞬く間に騰貴し、有るものは略奪せられ、無い物は仕入れる方法か無かった。

 クヰーリー氏が虐殺された後、八月の末っ方となったら此の上滞在する外国人の生命は支那官憲も保障されなくなつて来たから、外国人は全部奉天を引上げて仕舞ひ、ドクター、ロッス氏とドクター、クリスチー氏とが道尹の懇願により暫時逗留することになった。私は八月二十日危に危険だと友達が皆で忠告してれたが、独り旅して牛荘に引き上げた。


イザベラ・バード・ビショップ『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」)10 日清戦争    

2019-07-22 12:09:29 | 朝鮮・朝鮮人 


 「三十年前の朝鮮」 

     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯

 

 

10 日清戦争

 

〔東学裳の噂〕
 ホントに長い間旅行をした。此の長い旅行中東学党と官兵と衝突した話は田舎の話として聞いた位に過ぎぬ。世の中に如何なる事件が登生して居るか、国際関係が如何に緊張して行くか等は全然知る由も無かった。東學党は大勝利を得て官兵からガットリング砲を奪取したとか、官兵が東學党を散々に叩きつけて同党の首領を補へ斬首したとか、有勢な軍隊は目下釜山に向け進行中だとか、の話を或る日耳にした。兎角風聞は種々にあるが、反乱者の宣伝する所より察すれば被等は国王に対して反旗を飜せるに非ずして君側の奸を除き腐敵せる官吏を誅せんとするのである。然り若し朝鮮に忠君報国の赤誠ありとこすれは必ずや下級農民の心臓に波打つ血汐の中になければならぬ。被等が党を組んで立ったのは飽くなき官吏の苛斂誅求より免れん爲めである。罪無くして徒らに刑場に鮮血を流す動き如きより脱せんが爲めである。期せずして外国の同情が却て反乱の徒党に集ったのも朝鮮の悪政其極に達して居ることを直視したからである。面して被等が其の目的を達せんと希ふならば、勿論百姓一授では不可能である。宜しく大規模に組織し、武器を以て対抗せねばならぬことを承知して事を起し、且つ今や其の時機到来せることを考へたればこそである。

 

〔釜山の平成仁川の緊張〕
 私は元山で右のようなことを考へもし話もしたが、未だ一種の坐談に過ぎなかった。然し斯く座談位に心得て居る瞬間にも、時局は別々発展して世界の視線はこの朝鮮半島に集注されつつあった。私は六月十七日に元山を汽船で立って十九日に釜山に着いた。日本軍官が停泊して居た。今朝肥後丸より上陸したと云ふ日本の軍隊約二百人二十人は丘にある佛寺に屯して居た。反徒は京釜間の電信線を切断したさうである。
 斯の如く一見して戦争気分が濃厚に漂ふて居るにも拘わらず、在留欧米人は一向平気であるし、日本商人も不断と何等異る所なく、日本軍仁川上陸の噂も全く関せず焉の様子であった。然し乍ら六月二十一日に私が仁川に到着して見にら萬事甚敷緊張興奮して居た。 
 先づ外港には六隻より成る日本艦隊の外に亜米利加の旗艦一隻、仏蘭西軍艦及露西亜軍艦各一隻、志那軍艦が二隻投錨して居た。内港の限られた設備は全能力を挙げ、日本の運送船は軍隊、軍馬及軍需品を小蒸気船を驅りて陸揚げし、米其他の糧秣は兵站部い向けジャンクを以て輸送し、沢山の苦力は彼れ此れの荷物を積上げて居た。海も陸も一言活躍を以て評することが出來る。私達外来の観光客は種々雑多な險悪な風評を聞かされて肝を冷や,したり当惑したりしたが、結局暗中模素一も真相を掴むことは出来なかった。

 

〔日本軍の上陸〕
 上陸する哉否や私は仁川か曩日に較べて著しく変化したのを見出した。市街は隊伍の重き靴音に地響がして居るし、馬糧の縦列は道も狭しと列を作り、日本人町の大通りは兵営と化し、銃剣は戸毎に閃き、兵卒は到る所に充満して居た。而も朝鮮人なるかな。己が国の港が今しも外国人の陣地となりつつあることを珍らし相に、ブラブラ歩いたり、アグラをかいたり、呆然として空しく見詰めて居る。
 第一部隊が上陸して僅かニ時間足らざるに最早一千二百名の軍隊は幕舍を作り、藁を布き、一幕舍二十名宛の兵卒が晝食を認めて居た。厩も出来上り、騎兵及山砲兵が其の間に屯し、馬は一粒撰りの逸物、馬装は印皮兵最新式に則りてキチンと整って居た。二百人の兵卒と百匹の軍馬は日本領事館より京城に向け砲弾を輸送して居た。軍に規律あり、仕事に秩序あり、各人各々其の目的を了解し、粛然として義務に服し、厳乎として警戒に任し、而も倨傲不遜の振舞なく、誠に見上げた日本軍であった。

 

〔東学党の目的と実力〕
 然らば日本は何故に期のく兵を動かすのか。其の目的は何か。東學党の反乱勃発以後在留日本人の危険に陥れるを保護する爲だとせられるが果して真實なのか。南鮮地方の反乱は中央を愕然たらしむること夥しかったけれども、本來朝鮮半島に在りては官吏の虐政に反する百姓一揆は毎春年中行事の知く起こり敢て珍らしからぬ。暴徒か起れは官兵を差し向けて之を鎮定し、而も之を法に問ひ刑に慮することは稀である。国王は單に官吏を交迭せしむる位で事は済んで仕舞ふ。

 新任の官吏たるや前任者に劣らさる壓制強制を敢てし、暴徒は遂に泣き寢入りとなるのが常である。然るに今回の東學党は尋常一様の百姓一揆と同一視するに訳にかなかったから政府が驚愕するのも無理はない。彼等の反乱行為は廣い基礎の上に組織せられ、之に加盟する者は京城其他の都市にも尠からず散在し、其の主張は合理的であり公明正大であり、反乱と称するよりも寧ろ武装的国政改革者と稱するを適当ろする程である。被等は王権に向って何等指を染めんとする者に非ず行政官吏の奸佞を除かんことを目的として居る。

 

〔宣言書〕
 東學党の宣言書は冐頭国王に忠順ならんことを誓ひ、徐らに穩健なる惜辭を用ひて彼等の悲痛を訴えて居る。彼等は言ふ「抑も朝鮮の官吏は私利私欲を充たさんが爲めに故意に国王の聡明を蔽ひ悪政盛に行はれるを知らしめない。彼等は上は大臣より下国司郡司に至る迄自己の懷を肥す外に少しも国家の安寧幸福を顧みない。本來官吏登用試験は何か。牧民官としての適格適材を知るの方使ではないか。然るにも拘らす暮夜權門を潜る者、苞査.の盛なる者のみ独り登用せられるでは無いか。斯くの如くにして登用せられたる官吏が因帑窮乏し国歩艱難に陥るのも意とせぬは当り前だ。彼等官吏は傲慢である。浮薄である。好佞である。強欲である。被等は地方官たる任命を受けても其の任に赴かず、縦に京城に偃臥して居る。彼等は困難に処して甚しく怯儒であるが、無事に際しは只管に上司の髯の塵を拂ふことのみを心得て居る輩である」ど。

 

〔東學党の首領〕
 東學党の首領は何人であるかは明かでないが、超人的勢力を有し、日本語を語り、支那語を話し得ると信られて居る。少なくとも彼れの計劃、識見、性格等より察すれば近世の戦略戦術を幾分なり飲み込んでで居る人物に相違あるまい。

 彼れの部下は、最初旧式の刀槍を所持するに過ぎなかったが、或は兵器庫を襲ひ或いは官兵を撃碎して銃器を手にするに至った。流言蜚語は次から次に取り止めがない。国王は東學党討伐の爲めに一人の武將を選び、其の武將は行く行く、兵三百を募り、彼らの根拠地の襲撃を試み、却て一敗地に塗れたのは事実らしい。此の事実は忽ち京城に喧伝せられ、打ち合わせ幾多の有司も之を証言した結果、朝廷狼狽し、国王は蒙塵の用意さへされたと傳へられる。

 

〔何故の日本出兵
 東學黨の領袖が維であらうと官兵が敗北しやうとそれが日本軍上陸と何等かの因果関係があるのか。日本の目的は何か。侵略するのでは無いか。日本は韓国の敵か味方か。此等は即今の外交上の山々敷大間題である。最三ケ月間に準備せられた日本兵六千は既に上陸した。日本郵船會社所有の十五隻の郵船は運送船として徴発せられた。京仁間の要路及京城々外の河港麻浦は、日本兵の占領する所となった。京城を俯瞰する南山には砲烈が布かれ、有力なる部隊の占拠する所となった。南山に登れば王宮も全市街も共に脚下にある。此処に在れば京城の死活は意の儘である。而も能此等の行動は突如と!して起り、急速に行はれた。何等の抗議も防碍も挾む暇を与へなかった。迅雷耳を蔽ふ暇なく軍事行動としては實に賞賛に置する。

 

〔日本の心事〕
 多少なりとも極東の外交関係を研究した人ならば、今次の日本の目覺しき行動は必しもに仁川、京城に於ける日本人居留地保護の目的でも無ければ、朝鮮に敵意を有つものでも無い事は判るであらう。或る人は言ふ。日本政府は出兵するに迄に餘程煩悶した。進んで外戦を起すか、退いて国運の衰微を我慢するか、何れも擇ぶかに就ては頗る躊躇したと。
 然し乍ら私はさうは思はぬ。日本は多年事の避く可らざるを知り、研究もし、用意もした。彼は精確なる朝鮮地図を作製し、糧秣に獲得量を調査し、河津の深浅、広狭を測量し、特に最近三月間に朝鮮内の米を買収して居た。一方支那内地に在りては假装したる将校が多数入ら込んで支那の弱点を探り、支那の軍人は張子の虎の如く、支那の大砲案山子の弓の如く、舊式の鉄砲は玩具の如きを疾くの昔に調べ上げて居た。彼等は西蔵境迄も踏査した、地方別に壮丁の数、動員し得べき兵数、軍隊の調練状況を支那人自身よりもよく承知して居た。

 日本は支那軍隊の忠義観念乏しく腐敗し切って居ること、帳簿上の軍需品は影も形も無いこと、一且開戦となるも充分なる兵力を戦場に輸送し得ざること等は一々に明かにして居たではないか。

 

〔支那人の狼狽〕
 如何なる點より見るも朝鮮に於て日本は支那の機先を制して居た。支那人間には既に一種の恐怖を惹起し領事其他駐在官吏家族約三十名は日本人の見る眠の前で京城を逃れ漢江を舟で下った。私か仁川に到着した日に仁川居留支那人八百名歸還の途に着いた。イヤハヤ支那人の仰天たら無い。野菜作り迄も逃げ出した。

 私は從來支那人が猿狽した事を見た事が無い。常に冷静で、打算的で、決して思慮を失なわぬものと思って居たが、今日こそは彼等は分別を失ひ、銭を損し、徒らに奔走し、號叫し、全く錯亂して仕舞った。私が宿った支那旅館も面喰った人々の集合所となって居る。私が散歩から歸るか、外国人が訪問して来るかすれば其度毎にいつも物静かな無口な使用人がドャドヤと私の部屋に這入り込み心配気な顔付で、何か聞き込んだ事は無いか、世の中は何んなになって行くのか、どうして支那兵は來ないのか、英国艦隊が加勢に來て呉れるのぢゃないか、などと聞いた。私の賢い忠質な下男さへも全く意気阻喪して仕舞って歯の根も合はず「自分は吃度殺されるんだ、屹度そうだ、毅されるんだ」と英語で叫んだ。

 

〔京城の外交界〕
 日本人は全体小柄だ。此の小柄な日本軍隊は姿勢正しく軍規厳粛、堂々として京城に向け出発する。当時朝鮮国王は禁裏奥深く隠れ、朝鮮政府は態度船名を欠き、全く方に暮れたらしい。英国總領事惹くエール氏は帰国中にして留守、代理總領事ガードナー氏は駐箚後未だ三ヶ月に過ぎぬ。亞米利加公使亦新米の人、佛獨領事は居留民尠くして時局に利害関係は無いと言って宜しい。
 此の間に在りて独り露國公使ウエーバー氏はに京城に駐まるこ前後九年、細心有能の外交官にして厚く外国人の信頼を受けて居たから此際米人の代表者に選ばれ前週北京に向け出立して仕舞った。こんな工合で日本の全権辨理公使の大島サンと清国皇帝の代表者袁サン、呉越の使臣が京城に頑張って顔突き合はして居た。袁サンは清国皇帝の厚き信任を受け、勢力あり、手腕あり「朝鮮国王の背後に国王あり」と稱せられた其の本人である。

 

〔大島公使の爲人〕
 私は数月前大島サンには屡々逢った。大島ナンは常に洋報を着用し、英語を能く語り、中肉中白髯の好々爺、婦人客に邪気な話をする是ぞと言う特徴を有たぬ人であった。北京でも恐らぐば尋常平凡の人と信せられて居たのであらう。

 然し乍ら日清間の事情切迫し、東京から何等かの電命を受取るやガラリ変わって仕舞った。好々爺然として居たのは假面であった。大島サンは鐵腕の人、剛毅、果断聡明の人、難局に処して愆らす、常に袁氏の機先を制して行った。袁氏に對してのみならず誰にもさうであった。

 

〔芝罘落ち〕
 私にとりては記憶すべき日の午後、副領事から今夜の地を立ち去る様に親切なる勧告を受けた。副領事の真摯なる態度を見て私は事態容易ならず、同氏は何か秘密の報告を手にして居るもの覚った。私は實は此の秋の旅行の用意として私の衣服諸道具は皆元山に殘して居る。これから日本に行く豫定、其の前に二週間計りで京城に出で、金を受け取ったり、必要の品物を手に入れたりする心組であった。今夜中に立退けとは頗る当惑した相談であった。

 或る人は「何の立退く必要があるものか、無理に立﨤けと言ふのならソリャ追放だ」と憤慨した。けれども私は旅行中の自戒として何処に行くも英国官憲の迷感になる様な事を仕出來すまいと竊かに心に期して居る。而も国際聞の雲行隱かならざる今日、副領事の
勧告に從ひ其夜肥後丸に便乗して仁川を去った。ホントの着のみ着のまま、芝罘迄の刧符を買ったら後嚢中餘す所銅貨四銭に過ぎなかった。


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』(「三十年前の朝鮮」) 5 漢江上り    

2019-07-19 17:16:23 | 朝鮮・朝鮮人 


 「三十年前の朝鮮」 

     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯  

 

5 漢江上り

〔雪の水花の山瑠璃の空〕
一葉の傳馬舟を己が宿ど定めて漢江の流にし、夜明けて談み日暮れて眠り、極めて簡單なる五週間を過したけれども眠前に展開する山容水態は中々に捨て難き趣があって旅の徒然を慰めて呉れた。数日の後は、周囲の光景は瀬く雄大荘厳を加へ、舟を仙境に乗り入るる心地がする。緑樹蔭濃かにして春事は池搪に生じ 柳絮は飛で花は野に滿つ。
 雪を溶かした水は潺湲として溪谷に私語き、空は碧深かくして西蔵のそれに似て居る。而も棹す漢江の水は河底の眞砂を数ふる程に澄みきって、舟に当たって碎ける沫は七色の日の光を現はし又となき美しさである。

 栗の林の打ち続くあたり、墻を匝らす農家の點在するなど、飽かぬ挑めである。

 

〔樹木の数々〕
仁川京城間の禿げて乾いて趣なきに引き換へ、野あれば芳草妻々、山あれば林木森々、ピーヌス、シネンシス。アビュエス。ミクロスペルマ。プラタスス。ソフオラ、ジャポニか。ユーオニムス、アラツス。ツツジ。オリエンタリスなどの松柏属、其他種々の樹種が繁り合ひ、花奔類にしてはヘリオトロープ、挑色緋色の躑躅など今を盛りと妍を竸ひ、クレマチスやらアクチニジアやらは又た白に黄に其粧ひを凝らし、見渡す限り花の山花の野邊、私は未だ曾て公園でも植物園でも期の如く麗はしく飾られたる自然を見たことが無い。アンべロプシス、ヴエチァナは若緑りに聊か紅を加へたる美しき葉を以て木の幹を裏み、枝を巻き、時に懸崖の危きに茂り、野薔薇は人間の毒手を逃れて思ふに儘に咲き乱れ、花慕ふ蜂を集めて芳香を風に漂はして居る。

 

〔江上の鴨汀辺の鶴〕
斯の如き自然美の中を分け行く私は起き臥しに幾分の不自由を感じたけれども非常に楽しい日を過した。蝶々が舞へば蜻蛉も飛ぶ。江上の鴨、汀邊の鶴、折々見ゆる鷺の風情、猛鷲の勢ひ、共に眠を樂ましめることかりである。今迄の経験によれば曾て野獣の走れるを見ず、家畜も亦多く無い樣である。 

羊も山羊も飼育せられず、只倭小なる黒豚と牛馬か目に觸れるのみである。犬は各戸に飼はれて居るが、見かけによらぬ怯懦な犬で、吠ゆる外には能も無い野良大である。

 

〔虎害頻々〕
朝鮮の野獸中指を屈す可きは先つ虎である。私は最初此の平和な世の中に虎が姿を隱して折を見ては人畜に危害を及ぼすとは何にも信するこが出來なかった。けれども行く先々に虎に就て屢話を聞かされ、面も私が元山に着いた其夜虎に子供が攫はれ、無慘にも小さき骨と肉が後らの丘に残されたのを見ては最早疑ふには譯には行かなくなった。漢江を遡ると幾十哩、ここは河床平にして或いは湖水かと思はれる所、昔は中和なの住民が往来せし所、炊煙棚引いて雞犬の声も遥か遠く迄聞へたとかや、今は八重葎繁るに任かせてあるが虎の爲めに減んだ村の遣跡だとこされる。

 

〔虎狩り〕
初めは虎の存在すら疑ったが、虎は果して居るどころか虎狩を職業とする者すら尠からざるを發見した。彼等は平生山間を跋渉して、恰も古の武者修行者が行く行く、無頼の徒を退治したるが如く、虎の在り家を尋ねて天晴れな手並を現はして居る。

面も一旦緩急あれば禁裏守護の任に当たる一種の軍隊となる。虎狩よりも面白きは鷹野であらう。或る人が私に話した所によると其人は折々に鷹野に出ては二三十羽の雉を一日に補へるさうだ。私も其節は百里も駆け廻るのであると健脚を誇って脛を叩いて見せた。成る程そんな事もあるかも知れない。雉狩りも過ぎた此頃であるのに一羽三四片(ペンス)で買入れることこが出來る。英国で雉一羽三片で候と触れ歩いたって誰も嘘にして取り合はぬだらうと思ふ。

 

〔金砂河の価値〕
舟足は遅くとも私は最早餘程航した様に思ふ。茲に於て再び漢江の説明をしたい。抑も澳江は其源を江原道金剛山に發し、幾十の支流を合せて京畿道にて仁川に注ぐ朝鮮切っての大江である。高瀬舟を用ふれば其の可航水路百七十哩に及ぶ。水は軟かに清淨なる白沙の上を流れ、白砂は金砂子を交へて一段ど麗はしく、流れば時々岩にせかれて奔湍となり波に泡立つ所もあれば、時には廣き浅瀬となり中に小島の洲を抱く所もある。

 

〔四十六の浅瀬〕
金剛の濁らぬ山水を湛へて此の沙原の上を走る水に格好な金砂河と假りの名を付けて見た。偖て私は永春に-達する迄に四十六個所の浅瀬を通ったが悉くな剣呑な思ひをした。盖し漢江の水運の発達を妨ぐるは此等数々の浅瀬であらう。この障碍が除かれたら澳江の利用は甚大なりと断じても差支あるまい。

〔重要な交通路〕
 今日でも二十五嚬積の舟が天気さへ好ければ丹陽迄上下して居る位である。斯くして漢江は忠清北道及江原道京畿道の動脈となり上流地方の除剰貨物を京城に下し、下流地方及仁川港に輸入せられたる商品は之を遡って奥地に賣捌かれるのである。私が實験した所によれば此の河を上下する舟は一日平均七十五隻以上に上る。不思議にも橋は只の一つも架せられて居らぬ。此の欠陥を補ふ爲めに四十七ヶ所に渡し場を設け両岸の交通に供してある。

 

〔人口の密度〕
 国貧くして社會的設備を缺けば必す其の人口は減少するもの、京仁間の哀れなる生活状態を見、且つは京城の様子を見て私は田舎は定めし人口稀薄にして無人の地域を通ることも少くなからう想像した。然るに想像に反して田合と雖も人口稠密なる天地であると悟った。舷立って手を翳せは耕されざる土地なく、人家を見ざる所なし。
 漢江里より永春に至る迄百七十六を舟の中より数ふる事が出來た。耕す田園は肥料も与へぬと云ふに作物は満足に發育せるは本來餘程豊穣なる土地と見える。尤も湊江の流域は全鮮中最も土地肥え人口稠密の所に違い無い。由來欧州人は人口を過小視する傾向がある様に思はれるが、私は旅行中任意に七十戸の家を続計して一家平均約八人と云ふ結果を得た。

 此の平均數は欧米米諸国の夫れと非常な懸隔がある。朝鮮の家庭は單に夫鵁と子供とのみならず家族にもあらす、使用人にもあらず、食客にもあらざる準家族とも称すべき居候が居るから斯の如き高き平均数を見るのである。 

 欧米人が人口を過小に見積る傾向あることは朝鮮に七年間も居住して旅行したモフエト君も気が付いて居られる。

 

〔田舎家の有様〕
 緻密なる研究をした譯でも無いが今迄観察した所によると朝鮮人は概して強壯で〇(不鮮明で不明)鑠たる老人が多い。病氣で衰弱した蹌踉蹣跚たる人には出逢はぬ。而も子供が多いのには驚くばかりである。試に此等田舎の百姓屋を覗いて見る。京城に於ける貧乏人の家とさして異る所も無いが、家の周囲は必す高さ六呎の土塀を繞らし、部屋は悉く土の床である。床の上に並ぶ甕には米、麥共他の雜穀と水を盛る。

 而して此の甕の部屋は女房の部屋ときめてあるらしい。亭主の部屋は稍々狭いが、土床には藁を敷き、財産中最も貴重なる帽子函を厳然と飾り付けてあるのが面白い。若し夫れ紙張りの障子があったら其処は中流以上の門閥間と心得てよい。更に豚小屋が母屋よりも上等な材料を使って堅国な建築をして居るのは人と豚とが主從の位置を願倒した有様だ。

 

〔田舎の経済〕
 皆無とは言へぬが工業ど商業は田舎には減多に見当たらなぬ。偶々之れ有っても徴々たるもので住民の大部分は小作農である。彼等は土地所有者たる両班から春に蒔く種子さへも借り入れるさうな。貨幣は稀に流通するのみで、物々交換が主として行はれ、場合によりては労働を以て債務の弁済に充てて層る。従って消費の尠きは勿論で、昔ながらの獨立經済を続け、貨幤は流通させ樣と思っても其の場所とど機會が無く、私の實見した所では贅澤品と目せられる舶来木綿丈けは貨幤を以て購ひ、二十吋につき青錢三十文を拂って居た。

 

〔獺怠の風と其の原因〕
 京城に於ても田舍にても朝鮮人が仕事嫌ひな點は弟たり難く兄たり難しで、誠に一生を夢の如く無意義に過して行く。何故に彼等は期く迄も勞働の尊きを悟らないのか。彼等の容貌は決して働くことの有難さを知らぬ程愚で無い。形式だけどは言へ支那の儒教は人生の何物るかを数へて居る。而も相隣して居る支那人も日本人も営々管々として働き自己の運命を開拓してす生きた手本を示して居るにも拘らず、死せる者の如く其の刺載を感受せぬ不思義な国民である。

 私は社曾制度が居候を許すから自然指頭を動かすことすら懶くなって仕舞って獨立自主の精神が消滅したものかとも思った。安ぞ知らんそれは誤り国民の保護者たり指導者たるべき官吏が朝鮮の産業を毒して居る張本人たることが判った。彼等あ
る爲めに人民は自己の計算によって確実なる営業を營み難く、労働のの機曾は全然奪はれ、貯蓄は出來す、資本は成らず、安価な真鍮製の器具すら贅澤だと官吏仲間に睨まれ、経済學で云ふ悠望の滿足は皆頑頑迷貪慾なる両班から暴力を以て妨げられ、漸次卑屈な無智な希望なき性格となって仕舞ったのである。

 

〔見聞の二三〕
 朝鮮人は一般に大食で労働者の平均食量よりも澤山にたべる。女は世の習ひとして亭主の喰ひ殘したるものを摂取することになって居る。高さ一尺の丸膳に偉大なる椀を供へ、それに飯を山と盛り上げて口昔高く食事するのは壯観である。

副食物としては一律に唐辛子人りの漬物ばかり、其他に料理法が進歩したと思はれるものもない。

 

〔學校〕
 過ぐる村々には學校があった。但し其の學校たるや公立の學校にあらす、多くはささやかなる私塾に過ぎぬ。課業は漢文の素読に限られて居る。相體儒教には射御禮楽など數課目を授くるものと物識りに聞いて居たが、そんな授業はさらに無かった。田合と言へ諺文の輕んせられるのは京城同様で、支那文学を識るは即ち其の人の社曾的地位を向上せしめ、登龍門の鑰を握るものとされて居る。それかあらぬか漢江畔の在民は概ね自己の名前を漢字で書き得るさうである。 

 宗教は田舍にても頗る振はぬ。今迄に漢江沿岸地方で僅かに二ケ寺の佛閣を見たばかり、共他には何等精神界を支配する設備を認めなかった。耶蘇散の礼拝堂の如きも無論存在して居らぬ。

 

〔金鍾以外にはない〕
 今迄見聞した所では、此の地方はさして鑛物に物んて居ない。私の取調へた地層から推断すれは石炭が或いは存在する筈だが、未だ燃へる石とか石炭樽を推定せしむべき傅説を耳にせぬ。

 漢江の上流地方では若干の鉄と銅とを産して居るやに聞けども、それも多量に採掘して居ないのだから要するに鑛物としては金鍾を除けば有望なのは無さそうに思はれる。

 

〔旅行は安全である〕
 京城出る時奧地旅行の危險を繰返し設明されて旅行中止の忠告さへ受けた程で私も實は内々幾分の危儉の虞れは無いでも無かったが案ずるよりも産むが易きもの、今迄に一度も危いよ思ったためしが無い。朝鮮人は皆親切で敵意なぞある者は居なかった。只欧洲人を初めて見る事とて少からす彼等の注意を惹いたのは無理からぬ事と諦めねばならぬ。

 

〔物珍しい下に見らるる異国人〕
 好奇心は誰しも有する。私が朝鮮の奥地を探るのも、朝鮮人が私を見物に出懸けて一日でも一一日でも岸に腰を下して私を挑め暮すのも其に同一の心理状態と見ねばならぬ。私が動けは群がる見物人は蛛の子を散すが如く逃け去って容易に私と語を交へぬ。物買はふと思っても一人も寄付いて呉れなかった。其の時私は例の青錢の一買を振って見せたが何慮の里も金次第と雖も金は萬事にすらすらと解決をつけて呉れた。要するに朝鮮内地旅行は外国人と雖も決して危險な事は無い。若し金を用意して居たら尚ほ安全である。

 顧みれば久しく小舟生活をした、私はこれから尚ほ此の舟に厄介になって奥へ奥へと分け行くつもりである。今迄に舟が通はぬ瀬に幾度も出逢ったが、其時は私は岸を辿って歩いた。世話してれる人も健在で持参の晴雨計は尚ほ晴天を指して居る。天朗かに気は清し、漢江上りの記事はこれで止めて更に別途の観療を試みませう。


イザベラ・バード・ビショップ『朝鮮紀行』「三十年前の朝鮮」4 傳馬旅行    

2019-07-19 09:42:18 | 朝鮮・朝鮮人 


 「三十年前の朝鮮」
 

     イザベラ・バード・ビショップ女史 
     法學士 工蔭重雄抄譯  

 

4 傳馬旅行  

〔通訳生の人選難〕
 英国を立つ時からして私は朝鮮内地旅行の難な事は手紙で承知して居た。道路、旅館、食物など、就中信用す可き下男と通訳を得ることは最も困難だと聞た。

 私は京城に到着して以來最早数週間を夢と過ごした。英国敎會の住持カープ和尚、其他誰れ彼の方には通訳生雇い入れに就て一方ならず世話をして下されたが今日では殆んど絶望の姿であ。英語を解する朝鮮人と云へば大底官立學校卒業生かメソジスト教會の附屬學校を出た者で夫れ等の多くの人と私は逢って直接話を進めた。

  所が彼等は悉く不健康で、怯懦で、意思の弱い輩ばかりであった。隅々私と同行の約束をした者も翌日になると虎が居るかるいやだとか、三月も半年もの長い旅行はいやだとか云って皆約束を反古にして仕舞った。
 或る者は鼻持ちならぬ程気障で私のに這入るや否や安楽椅子に腰を下ろして前後に揺れながら親父さんが質問でもする様に種々な事を聞いた。そして最後に旅行には一所に行って上げるから馬を二、三頭用意して呉れ、一頭は自分の乗馬として、一頭は手廻り小荷物の馬して、尚ほ一頭は着更へ九着を積むんですからと言った。

 

〔とうとう支那人を使ふ〕
 オヤオヤ九着も十着もの着更か必要ですかど訊ねたら朝鮮人は英国人の様に不潔でないからと空嘯いた。これでは朝鮮人通訳を使用するのは断念する外ない。にカーフ和尚が自分で使って居た支那人元某と云ふものを貸して呉れた。比の男昔は芝罘の船頭であったそうだが、英語も解るし、忠實で、能く働らいて、少しも不服のない、感心な人物である。私は此の男を伴れて暫く旅をすることになった。

 

〔朝鮮の通貨〕
  岸野の春の桜狩一夜を明かす程だにも旅とあれは物憂きに、まして朝鮮内地旅行は英国あたりで思ひ設けぬ苦勞が伴ふもの、而も早速困るのは通貨である。京域と開港場には日本の圓銀及補助通貨が通用して便利だが、一歩踏み出せば青錢に非れば通用しない。共の靑錢たるや三千二百枚が一弗に相当するからやりきれの。であるが故に旅行家は通貨を自身に持当することは勿論出來難いことで、人か馬かで運搬する外はない。例へば百圓即十磅を運ふには六人の苦力か一匹の馬を使用せなければならぬから驚く。

 

〔旅行具一式〕
 偖てこれから愈々支那人元を引具して傳馬旅行に出掛ける。先つ船に積み込んるは青綫一山と、日本銀貨一袋及其他旅行要具、この旅行具も中々に崇ばみ面倒を顧みす、一々書き上て讀者の笑覧に供して見やう。即ち乗馬鞍一顧、組立式寝臺一組、夜具布団、蚊張、垂布、疊み椅子、水嚢、線茶、カレー粉、小麥粉、七輸・フライパン及其他の臺所用具、湯吞、ナイフ、スプーン、フォーク等並べ立てると裏店の轉宅かと怪しまれるにだらう。此の外に種々食料をと思ったが實は其の必要は無く、田舎に行けば鶏卵あり、小鳥あり、胡挑もあれば米もある。

 

〔愈々出立〕
 田舎に行けば欧州からは元より京城からの音信も社絶すべくは覚悟の前である。日本製地図をたよりにして南漢江の上地方へど志す。目的地は山国で急も多いと聞た。このあたり未に曾て外国人が足を入れたことのない地方で、特に女人の私が先を着けるのは淋しくもあるが心が勇み立つのを覺える。

 

〔獨旅も危険ではない〕
 多くの人は婦人の身としてかかる冒險は迚も叶わぬ願ひ故、中止しては如何と親切に忠告して下された。然し未開国の旅行は其實人の言ふ程に危険なものではなくて、怖ろしい話などは宜しく五割の割引して聞くべきもの。殘る五割は漢江の水に流して仕舞ヘと思ひ定めて京城を出立した。

 

〔用意の小馬に乗る〕
 時は維れ千八百九十四年(明治二十七年)四月十日、京城の郊外は楊柳煙り、春霞棚引く、梅挑妍を競ひ、ヘリオトロープもやがて紅唇を開かんとどする時、私は豫ねて用意の小馬に跨った。
 曾て京城入りの節に出迎へて呉れた方々に見送られて南大門を抜け、軍神關帝の廟前を過ぎり、木覔山麓の並木道、琴の調も松風や、旅の衣を吹かせつつ、漢江畔に辿り着いた。其処で私は舟に乗った。舟は舳より艫に至る二十八呎、幅は四呎十吋に過ぎない。

 今後幾日かの我宿と定めて見れば狭きこと夥しい。

 

〔舟に移る〕
 而も携帯行糧を容れた袋の数々と、椅子寢具と着更の着物を堆高く積み上げたから僅かに膝を容るるの餘地があるばかりである。舳の七呎四吋の板子はミラー君と葵君の天地である。
 船頭は船主を兼ねたる金老人と其の使用人たる酒好きの男と、都合六人の大勢が乗り込むことになった。金老人は痩軀鶴の如く、挙動野卑ならず、貴族的風貌をそなへた好人物であるが飛び切りの惰け者である。

 

〔船頭金老人〕
 凡そ世の中に怠惰なる者多しと雖も、金老人は彼等慴報せしめて物臭国の王たるべき資格を充分に具備して居る。起きるこく遅く、寝ること早く、準備の時間を無暗に長く費して、仕事は瞬間に中止する。如何に春の日の長きも金老人の手にかかれば苦も無く空費し盡される。1時間棹さしては眠り、醒れば煙管の長きに勝りて長々ご喫煙する。牛の多みは悠々として遅きも我等の舟足に較ぶれは疾風のし如しと評し度い位である。

 押籠に逢ひたる如く、或いは函詰にされたるが如くして、私は其日の正午舟出の波を漢江の流に擧げた。峯には見送る人の姿か繪になる程に美しい。舟は案外に無持が悪くない。只た鮮人の放つ悪臭と煙草の煙が困る丈けである。


〔続〕
イザベラ・バード・ビショップ 「三十年前の朝鮮」 5 漢江上り 


イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』「三十年前の朝鮮」3「京城入り」    

2019-07-18 15:03:43 | 朝鮮・朝鮮人 


  「三十年前の朝鮮」 

     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯  

 

3 京城入り 

〔麻浦迄の船路〕
 仁川より漢江を遡ること五十六哩、京城の咽喉朝鮮第一の河口と呼ばるる麻浦迄の船路、思へば難儀な事であった。抑もま漢江は汀原、忠清両道の水を萃め、京城を横切て黄海に注ぐ半島第一の大江なれども、惜哉水淺くして巨船を通せず、而も千潮の折には急流となって船を押戻す勢ひ、便乗の小蒸汽船は遅々して進まぬ。隅々船は擱座と云へば物々しいが浅瀬に乗り上けた時たらない。附近のサンパンを呼んで援助を求むれは、集まる面々の怒號〇(不明)喚非常な噪わぎである。

豫定の時間より遥かに後れて麻浦に着いた時は、飢しさと、疲れと、そして不愉快な記憶が容易に消えなかった。

 

〔京城迄の悪道路〕
 麻浦には英国総領事ガードナー君が親切にも出迎へて呉れられた。偖て愈々上陸して見ると、驚いた事には道路が又たひどいーー厳密に云へはこれは未だ道路とは云へない。

 この道路を輿に乗せられて進んだ。領事は護衛の格で朝鮮馬に鞭継を上げる。イヤハヤ賑やかな事だ。六人の輿丁か大声で笑ふやら、喋るやら、叱るやら、旅人を驚殺する覚悟と見える。曾て築造せられる事なく又た曾て修繕せられたる事なき道路は尺地も平坦を好まざるが如く、デコボコして居る。
 幅員は或いは馬鹿に広く或いは馬鹿に廣く、或いは馬鹿に狭く、一間の間も単調を好まぬが如き感がある。僅かに人馬を通する程の隘路かと思へば、廣場を見る如く場所もある。若し路上濘があれば人は之を避けて畑中を遠慮なく踏み固めて其処に自ら新道路が成立するのである。誠に屈伸自在の道と云はねばならぬ。

 

〔風光頗る面白い〕
 然し乍ら六人の輿丁が如何にに騒げばとて天地は悠々として旅情を慰める。白き砂原、なだらかな峰、緑の松、墓所の石人、悉く静かである。折々見ゆる茅屋の家かと疑ふ時に白衣の人が浮ぶが如く出て来るも面白い。太くもない鋤を四五人して使ふ音頭の声も長閉で誠に穏やかである。暫くして領事夫人と御息女は輿で、其他ヒビショップ、コープ氏、税務総弁プラオン氏などは馬で来られるのに逢った。

 

〔出迎えの人〕
 此処は最早京城の城外である。高く石を築き上げた城壁は毀れては居るものの蜒々として眼前に展開する。二層樓の門がある。門を潜れば即ち京城の市街である。市街は不規則にに縦横に走って居る。輿は右曲し左折して漸く英国公使館に辿り着いた。

 

〔京城大観〕
英国公使館に続く丘には更に高く露公使館が聳へ、市街を挟んで向ふの山の中腹には日本公使館が人の目を惹く。市街の中央に高く天空を摩するは働蘭西教會堂である。此の殿堂は曾て大院君が政権を握っていた頃ほひ耶蘇教徒を虐殺した事があって、其の節の殉教者の為に建てられたと傳へられる。

 

〔私は色々のものを見た〕
 私は宮殿も、乃至裏町も、貧弱な不細工な建築又は装飾も、無為無能の群集も稀に見る行列も――それが又た珍妙無類の行列である――不潔な生活状態も、其の他種々な風俗習慣を見た。

 人口二十五萬を包容し世界有数の都市の一と迄も想像せらるる京城、而して其の誇りを私は今正に見且つ聞きつつある。京城は海抜百二十尺、北緯三十七度三十四分、東経百二十七度六分に位し、周囲は丘を繞らし、其の丘の上には城壁が走って居る。城壁外は虎狼の来襲することがあるさうだ。

 眼を放てば四山禿山として半空に鋭き線を劃いて眼界を遮ぎっている。然し太陽が西天の雲を紅に染めて今日の名残を惜しむ頃は、此等の不気持な山々は赤色を帯へる紫の水晶の如く、影はコバルトに緑に見えて誠に麗しいと思った。

 

〔城壁は長蛇の如し〕
 高きに登りて此の大市街を望む時、眼は自ら城壁を追うことになる。南山の嶺、北漢の峰、谷を亘り森を超え、或いは隠れ、或いは現れ、長蛇の状をして中世的の此の都市を取り巻いて居る。其の高さ二十三乃至四十呎、延長十四哩(フオックス氏調査)矢狭間を置き銃眼を穿ち、要所要所に關門を設く。

 關門は其数八個、一層又は二層三層のを櫓を門上に建て、円扉は鉄鋲の太きを叩き込み、偉大なる門を以て固め、日出でて、之を開き、日沒して之を鎖す誠に用心堅固に出来て居る。
 關門に名を附す、或いは崇禮と云ひ、或いは敦義と云ひ、興亡と云ひ、悉く道徳上の箴言を選んだものである。

 

〔市街一端〕
 穢きこと臭きこと世界一の都京城乎。二階建ての家は之を造ることを許されず況や三階四階の家は夢にすら見られぬ有様である。故に二十五萬の間胞は地上に瓦叉は藁を並へ其の下に潜り込んで生活――否不潔な道路に蠢動して居ると形容しゃうか。その道路は廣くとも二頭の馬を並ふること能はす。狭きは一人の憺軍が徃來を塞ぐ程である。

 

〔悪臭紛々〕
 路傍には悪臭紛々たる溝を控へ、路面は飽迄垢付いた半裸体の子供と、獰悪な犬とによりて占領せられて居る。溝の上にささやかな棚を組んで物買入れる人に時々遇ふことかあるが、棚の上には種々の小間物やら、毒々しく染め上げた葉子を並べて稀に來る客を待って居る。買占めた所で高々一圓そこそこの代物であらう。

 

〔温突(おんどる)家屋〕
 家屋は低く廂を突き出し、璧は泥を粗末に塗り立て一向に市街に美観を添へて居らぬ。地上三四尺の所に紙張りの窓がある。温突の煙に燻ばれて憺、柱、壁と共に頗る汚れて居る。温突とは朝鮮特有の暖房装置で、四方の門より入る数百の牛の背に山なす松葉は悉く温突に焼かれるものであるさうな。

イヤ煙る程に燻る程に日暮るる頃此等の町を散歩しやうものなら松の香り高き濃霧に襲はれた感じがある。

〔小さな商店と商品〕
 商店と称すべきものもを見るには相違ないが、多くは店頭十圓内外の品物を羅列するに過ぎぬ。若し京城の商店の特長を求めたら貧弱無価値の一言を以て盡すこと出来る。所謂大商人は鍾路の十字街を中心として集って居るが、それすら店中立って南腕を伸べたら一切の商品を掴み得る位に小さな販賣所に過ぎぬ。
 試に商
品の数々を数え上げて見れば、綿、草鞋、竹の笠、劣等なる陶磁器、蝋燭、櫛、硝子製念球、煙管、煙草入れ、啖壹、骨橡眼鏡、紙類、枕、扇、硯、鞍、洗濯棒、千柿、毒々しく染め上げた菓子、十銭洋燈、懷中鏡の如き安価の船來品等を重なるものとする。

 此外高價品と看做すべきは、銀象眠入鉄製小箱、真鍮製食器又は其他の器具、青貝摺りの漆器、刺繍を施せる絹織物(但し此等の意匠及技術は共に幼稚採るに足らぬ)等がある。

 

〔箪笥町の製作所〕
 外国人が箪笥町(現今の武橋町)と名けた町がある。其の町では箪笥手箱等のみを製作して居る。此処の製作品は見た所餘り大きな物は無いが誠に奇麗で、或いは胡挑材を、或るいは楓材を、或いは挑材を用ひ、真鍮の金具、真鍮の錠前如何にも面白い。

 朝鮮人の家庭を覗いて眼に触るるものは、先ず長い煙管と煙草入れ、椀に小鉢、米櫃、水甕、燐寸箱、金人れ、染粉、食料品として松の實、米、黍、玉蜀黍、豌豆、大豆其他草鞋、布製馬毛製又は竹製の帽子、及び朝鮮国有の綿花等である。

 

〔日本の居留地〕
 南山の中腹に木造白塗の建物とこしては餘り感心出来ない日本公使館がある。其の麓は即ち日本人居留地で約五千の日本人が小なる天地を~作って居る。料理店もあれば、劇場もある。朝鮮人町と反對に清潔で能く整って気持ちがよい。例の日本風に帯締めて、男も女も下駄をはいて、カラコロと誠に忙がしさうである。憲兵が居留地を護衛して居る。海外駐箚軍隊も居る。細身のサーベルを佩いたるは即ち士官である。
 但し此等日本留民は朝鮮人の憎しみを受けること甚だしく、明治十五年以来ニ度も暴民の襲撃を喰らって公使館員は身を以す海に逃れた程であった。現在の.公使館は私の最初に朝鮮に来た節即も大島公使の時代に出来たものである。

 大鳥公使は自髯を胸に垂れて能く京城の交際社会に出入りされる。寡言恭儉にして物柔かな老人で迚も鋼鉄の如き意思を抱いて居る方とは思はれぬ。尚ほ日本人街には銀行あり、郵便局あり、深く外人の信用を受けて居る。

 支那人町は其人口日本人町と伯仲の間に在って、外国人は需要品を多く此処に求める。支那人町と関聯して特記すへきは其の衙門の主人公袁世凱氏である。袁氏に即ち「王権ノ上ニ王権アリ」と称せられる支那の宗主権を代表して朝鮮に臨めるものであって、国王の前に勝手に出て勝手に振舞って居ると云ふ話である。支那公使館は言はゞ袁氏一人の衛門である。

 

〔虎の威をかる〕
 大門堅く鎖し、屋上守護神の像を書き門内には大厦擔を接し、物々しく武裝したる兵士は常に王宮と衛門との間を住來して警戒の任に当たり、朝鮮人をして清国の尊厳と袁世凱氏自身の勢力とを感ぜし

めて居る。然れども袁氏は私一個の愚見によれは唯単に虎の威をかる一介の支那人に過ぎぬと思ふ。彼は事實上支那人の生殺与奪の権を掌握し、曾々刑罰を加ふる際の如き實に野蛮を極め、清韓人共に彼を恐るること夥しい。

 

〔清渓川〕
 市街の中心を西より東に流るる下水道は市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄して居る。其の為めに下水直の泥は眞黒に幾世も昔からの濁水に染められ悪臭を空中に放散して旅人を惱して居る。然し乍ら此の下水道が如何に不潔だとて強ちに斥け難きは京城の婦人を此処にして初めて見ることが出来るからだ。

〔婦人の洗濯場〕
 生活に倦んで生気を失った男ばかりの都と思ひきや、此処は又幾百の女房ばかり、淺緑りの衣打らかつぎつつ、洗濯にいそしむ樣は湖北の野に花見る心地がして嬉しい。

 下水道の洗灌とて静り笑ふ可らず。洗濯棒を振り上りげ振り下ろす風情餘り優美とは云えないにしろ、甲斐甲斐しと讃めてよかろう。特に夜は砧の音京城内に充ちて。東洋の詩人これに涙を搾るさうだ。

〔南山から見た京城〕
 京城は四面環らすに山を以てすることは既に記した。其の四山の麓がなだらかに傾斜して長さ五哩幅三哩の盆地を作り人口二十五萬の都が建設されて居る。南山に登って見ると十五平方哩の野は正に暗灰色の屋根の海である。樹木なし、況や森林もなく廣場も無ければ公園も無い。單調手凡只一面の死殀の如き姿して居る。

 此の平原の隅々二層樓の大厦と見るは即ら市を限る關門である。石垣あって地を匝るは宮殿である。東西に道と見ゆるは鍾路である。南するは南大門を通する道である。

 動けるは男子。吠ゆるは犬、此の外にしては天地聞として聲なく、無人の野に立つも同然である。

〔鍾路の鍾の音〕
 既に記したな鍾路の大鍾が夜八時頃を期して其の重々しき響を傅へると、今迄辻々を占領して居た男子は逃くるが如く影を潜め市中は全く女の都と早変わりをする。往くも来るも女ばかり、彼等は初めて一日の束縛を逃れ、宇宙の廣きを楽しみ、友情の熱きを酌み交はすのである。
 此際男子にして交通を許さるるは盲人と、官吏と、外国人の奴僕と、輿丁ばかりである。十二時になれば鍾は再び響く。女は家に帰って男は更に享楽を求めに出懸ける。此社會制度は堅く守られて一人も之に背かない。世界に珍しき慣習だと思ふ。


〔続〕
イザベラ・バード・ビショップ 「三十年前の朝鮮」4 傳馬旅行