日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

勝 海舟「旗本移転後の始末」       

2022-10-21 11:55:33 | 勝海舟

  
 旗本移転後の始末    

   勝 海舟  

 維新の際、旧旗本の人々を静岡に移したのは凡そ八万人もあったが、
政府では10日の間に移してしまへと注文したけれども、
それは到底出来ないから20日の猶予を願って汽船2艘で以て運搬した。

 併しその困難は非常なもので、1万2千戸より外にない静岡へ、
一時に8万人も入り込むのだから、
おれは自分で農家の間を奔走して、とにかく一まず皆の者に尻を据えさせた。 
  
 この時、沼津の山間で家作も随分大きい旧家があったがそこへ50人ばかり宿らせて、おれも共に一泊した、
その家の主人は、今一寸名を忘れたが、70あまりの老人で、
おれに挨拶していふには、拙者の家は当地での旧家だが、貴人を宿させたのはこれで2度目だといふから、
2度とは何時々々と問ふたら、昔、本多佐渡守様を泊めたのと、今夜勝安房守様を泊めるのだといふ。
 

 本多佐渡守を泊めたことについては、何か記録でもあるかと尋ねたら、
記録はないけれども、口碑に伝はって居るといふ。

 然らば、その仔細を聞かせよといったら、老人が話すには、
それは太閣様小田原征伐の1年前で、明年ここへ10万の兵が来るから、
予め糧米や馬秣を用意する為に小吏では事の運ばぬを恐れてか、
本多様は自分でここえ御出になったのだといふ。  

 然らば明年になって糧米馬秣は如何にしたかと問ふたら、
答へるには10万の兵が来た為に米は却って安くなった。
これは去年から皆の人が沢山貯へて置いたからだ。

 且つ又上様(家康)の御仕合には、沼津の海岸は常に浪が荒くって、
糧米などを大船から陸揚げすることは難しいのに、
この当時には丁度天気がよくって浪も穏やかであった為に、
他国からも糧米を容易に輸入することが出来たからだ。


 それからといふものは、
此地方では風波の平穏なのを、「上様日和」と称すると答えた。
古人の意を用ゐたのは昔はこの通りだ。


 さて、彼の8万人を静岡へ移してから、三四日経つと沢庵漬はなくなり、
四五日経つと塵紙が無くなりおれも実に狼狽したよ。 

  



勝海舟「猟官運動」     

2022-10-21 11:14:13 | 勝海舟

      

『猟官運動』
  勝 海舟     

 併し、何にせよ今度の政変は、第二維新だ。
猟官の噂もだんだん聞くが、考へて見れば、是れも無理はない話しさ。
それは御一新の際には、武士が皆な家禄を持って居たから遊んで居ても十分食へたのだ。

   
 尤も脱藩の浪士などの間には、不平家も少しはあったが、
大抵な人は所謂恒の産があったから、そんなに騒がなくってもよかったのだ。

  
 西郷などは、固より例外だが、それは流石に立派なもので、
幕府が倒れた時に、最早平生の志を遂げたのだからこれから山林にでも引き籠って、
悠々自適、風月でも楽んで、余生を送らうと云ひ出した位だ。

  
 処が今の政党員は、多くは無職業の徒だから役人にでもならなければ食へないのさ。

 だからそれは猟官もやるがよいが、
併し中には何んの抱負もない癖に、
つまり財政なり外交なり、自分の主張を実行するために、就官を望むのではなくて、
何でも善いから月給に有り就きさえすればよいといふ風な猟官連は、
それは見っともないよ。


  


勝海舟「黙々静観」

2022-10-21 10:49:47 | 勝海舟


     黙々静観

       勝 海舟

 一個人の百年は、ちやうど国家の一年位に当るものだ。
それ故に、個人の短い了見を以て、余り国家の事を急ぎ立てるのはよくないよ。
徳川幕府でも、もうとても駄目だと諦めてから、まだ十年も続いたではないか。


 時に古今の差なく、国に東西の別はない、。
観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。
生麦、東禅寺、御殿山。
 
 これ等の事件は、皆維新前の蛮風だと云ふけれども、
明治の代になっても、矢張り、湖南事件や、馬関騒動や、京城事変があったではないか。
今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはないサ。

 此頃元勲とか何とか、自分でもえらがる人達に、かういふ歌を詠んで遣ったよ。

     時ぞとて咲きいでそめしかへり咲 
        咲くと見しまにはやも散なん

 あれ等に分るか知らん、自分で豪傑がるのは、
実に見られないよ、おれ等はもう年が寄った。

   
     たをやめの玉手さしかへ一夜ねん
      夢の中なる夢を見んとて

 政治家も、理窟ばかり云ふやうになっては、いけない、
徳川家康公は、理窟はいはなかったが、
それでも三百年続いたよ。
それに、今の内閣は、僅か卅年の間に幾度代ったやら。


 全体、今の大臣等は、維新の風雨に養成せられたなどと大きな事をいふけれども、
実際剣光砲火の下を潜って、死生の間に出入して、心胆を練り上げた人は少ない、
だから一国の危機に処して惑はず、
外交の難局に当って恐れないといふほどの大人物がないのだ。

 先輩の尻馬に乗って、そして先輩も及ばないほどの富貴栄華を極めて、
独りで天狗になるとは恐れ入った次第だ。
先輩が命がけで成就した仕事を譲り受けて、やれ伯爵だとか、侯爵だとかいふ様な事では仕方がない。

 世間の人には、もすこし大胆であって貰ひたいものだ。
政治家とか、何んとかいっても、実際骨のあるものは幾らもありはしない。
大きく見積っても六百位のものサ。
 
 然るに、今の大臣などは、この六百人ばかりを相手にわいわい騒いで居るではないか。
この弱虫のおれでさえ、昔は三百諸侯を相手に、角力を取ったこともある位だのにナ。

 政治をするには、学問や智識は、二番めで、至誠奉公の精神が、一番肝腎だ。
と云ふことは、屡、話す通りであるが、
旧幕時代でも、田沼といふ人は、世間では彼是いふけれども、矢張り人物サ。
兎に角政治の方針が一定して居ったよ。
  
 この時分について、面白い話があるが、
この頃、聖堂がひどく壊れて居たから、林大学頭から修理の事を申し出たが、
その書面の中に、「文宣公の廟云々」といふことがあった。


 すると右筆等は集まって、
文宣公とは、どんな神様であらうかと色々評議をしたけれども、
時の智者を集めた右筆仲間で、文宣公を知って居るものがなかつた。

そこで、文宣公とは何処の神だ、と附箋をして書面を返却した。
大学頭は直ぐに文宣公とは、唐土の仲尼の事だといってやったけれども、
それでもまだ分らない。

 そこで大学頭もたまらず、仲尼とは、子曰はくの孔夫子の事だといった。
それで右筆もやうやく合点が行たといふことだ。

   
 この話は旧平戸藩で明君と聞えた静山公が、儒者を集めて、種々の話をさせて、
それを筆記した『甲子夜話』といふ随筆で見たが、なかなか面白い。

 全体その時分の真面目な正史よりも、却ってこんな飾り気のない随筆などで分るものだ。

 この話は、実に面白いではないか、右筆といえば、今の秘書官だが、
宰相の片腕ともなるべきこの右筆が、孔子の名さえ知らないといえば、その人の学問も大抵は知れる。
之に較べると、今の秘書官などは、外国の語も二つや三つは読めるし、
やれ法律とか、やれ経済とか、何一つとして知らないものはない。

 然るに、不思議のことは、孔子の名さえ知らない右筆を使った時の政治より、
万能膏の秘書官を使ふ時の政治が、格別優っても居ないといふ事だ。

畢竟これも政治の根本たる、至誠奉公といふ精神の関係だらうよ。
   
       

  


勝海舟「大勢順応」

2022-10-21 10:20:54 | 勝海舟

                              
    

   
 大勢順応
     勝 海舟
 憲政党が、伊藤さんに代つて、内閣を組織した当時、頻りに反対して騒ぎまはった連中も、己れは知つて居るよ。
だが随分見透しの付かない議論だと思って、己れなどは、独りで笑って居たのさ。

 御一新の際に、薩摩や、長州や、土州が政権を執れたとて、なに彼等の腕前で、迚も遣り切れるものかと、榎本や、大鳥などは、向きになって怒ったり、冷やかしたりした連中だ。
 所がどうだ、暫くすると、自分から始めて薩長の伴食になってではないか。何も大勢さ。
   

 併し今度の内閣も、最早そろそろ評判が悪くなって来たが、あれでは、内輪もめがして到底永くは続くまいよ。
全体、肝腎の御大将たる大隈と板垣との性質が丸で違って居る。
板垣はあんな御人よし、大隈は、ああ云ふ抜目のない人だもの、とても始終仲よくして居られるものか、早晩必ず喧嘩するに極って居るよ。 
 

 大隈でも板垣でも、民間に居た頃には、人の遣って居るのを冷評して、自分が出たらうまくやってのけるなどどと思って居たであらうが、さあ引き渡されて見ると、存外さうは問屋が卸さないよ。  

 所謂岡目八目で、他人の打つ手は批評が出来るが、さて自分で打って見ると、なかばか傍で見て居た様には行かないものさ。
   


勝海舟  詠詩 南洲手抄言志録

2022-01-06 21:38:32 | 勝海舟

   南洲手抄言志録

 

      勝海舟

    
 
    
       詠詩 
  
        亡友南洲氏。
    風雲定大是。    
    拂故山
    胸襟淡クシテ。 
    悠然事トス躬耕
    嗚呼一高士。
    只ルト
    豈ハンルヲ國紀。  
    不リキ世變。       
    甘ジテントハ賊名※(「此/言」、第4水準2-88-57)。  
    笑殘骸
    以數弟子
    毀譽皆皮相。
    誰セン微旨
    唯精靈
    千載存知己

      右詠南洲翁御話
        海舟散人 

 

   





吉本襄『校訂 海舟先生 氷川清談 全』 萬延元年五月、先生米國より歸り、船、浦賀に入る。

2021-03-07 20:49:41 | 勝海舟

『勝海舟 氷川政談 全』 


萬延元年五月、先生米國より歸り、船、浦賀に入る。 
 人あり。井伊大老の變死を傳ふ。先生愕然また奮然。叫んで曰く。
これ幕府将に仆れんとするの兆しなり、と。衆以て無禮の妄言と為す。
而も先生の言は遂に當れり。

 

 維新の際、先生の自ら品川に赴きて、西郷隆盛を訪ふや、官軍の兵士開門を擁して先生を入れず。
先生、乃ち故らに傲然大喝して曰く、西郷何處にあるか。兵士忽ち唯々として之を入る。

 

維新の際、浪士頗る先生が開國論を持するを忌む。
一日、千葉千太郎、坂本龍馬、剌を通じて諾を請ふ。
先生首肯、自ら戸端に出で、之に請ふて曰はく。吾は勝麟太郎なり、子等刺客に非ざるを得んや。
二人遽(にわか)に答へず。先生、曰はく、我もし非ならば、即ち討つべしと。
従容二人を客殿に延き、細かに攘夷論の行ふべからざるを説き、又た海外各國の形勢を論ず。
二人大に後悔し、改心して之に師事せんと請ふ。
先生、之を聴す。ス後ち先生、龍馬の膽氣用ふべきを知り、擢(にき)んでてその塾頭と為す。

 

戊辰の春、先生の官軍と和するや、 中に同志五百人の一團あり。 
 其重なる者數十人、一日先生の邸に到る。蓋し先生を殺して後事を處せんと欲するなり。
先生固よりその意を知るも、平然として動かず。
徐に曰く、卿等の風貌太だ逼(せま)れり、抑も如何の事かある。請う之を語れ。

 客、先生が従容、更に意を用ふる所泣きを見て、心少しく躊躇する所あり。
答へて曰く、時勢既に此に至る。我輩また何おかいはん、ただそれ我輩年来徳川氏の粟を食む。
豈、主家の滅亡を座視するに忍びんや。

 同志五百人、中に就いて主たるもの一百人、今日茲に西城に屠服して、従容義に就かんと欲す。
君それ之を許せと。悲憤の情、言外に溢る。先生曰はく、卿等の哀情、余固より之を諒とす。
而かし余の見る所は、大に卿等と異なり、今や天下新に定るといふと雖、各藩の動静、人心の趨勢、未だ測られざるものあり。

 他日或は再び事なきを保せず、卿等今空しく自刃すると、豈、少しく早計に非ざらんや。
余窃かに卿等の為に計るに、卿等且つ駿州久能山に據れ。
久能山は、海道第一の勝、昔しは油井正雪が一朝事敗れば、據りて以て天下の兵に當らんとせし所。
卿等暫く此處にその英氣を養へよ、と。客大に悟る所あり。
相顧みて先生の説に従ふ。

 其後歳あり。天下の形勢漸く静穏に赴くに従うて、彼の志士また先生および南洲等の精神が、實は甚だ公平なりしを悟り、心中大に感得する所あり。
再び先生を訪ひ告げて曰はく、今や天下また我輩の力を用ふべきの地なし。
空しく徒食するは、我輩の本位に非ず、聞く、遠州金谷原、古来磽确不毛の地として民捨てて顧みざるも茲に數百年、且つ頗る灌漑の便乏し、と。
今若し卿の力によりて、此地を我輩に賜はば、我輩死を以て之が開拓に従事し、以て我輩自活の資に供せんと。

 先生之を聞いて、その志の厚きに感じ、自ら資を投じて、その開拓を行はしむ。


 志士は固より幕府旗下の士、
 耕転の業の如きは、その能とする所に非ざるや勿論なり。
 而かもその久能山を出でて一度び金谷原に移るや、木を伐り土を掘り、純乎たる農民と化して刻苦黽勉、毫も怠らざりしかば、未だ數年を経ずして、既に人家炊煙の地となれり。
聖上嘗て北陸を巡狩したまい、還幸の途次、静岡を過ぎらせたまふや、志士中の總代を召して賞詞をたまひ、且つ金千圓を下したまふ。志士皆今昔の感に堪へず。
 聖恩の無窮に泣き、また先生の高誼を謝せざるはなし。

 

 先生、志士の為に子孫に傳へんと欲して、自から金谷原開墾地の来歴を記して贈る。中に曰ふ。

 嗚呼、君等一死の盟、三變して今日に及び、能く小を捨て大に移り、國家有益の大業を為せしものは、其始め確乎たる精神、至誠に出るにあらずんば、何ぞ如此ならん哉。
然りといへども今後其賞に誇り、勸を抦て怠に流れ、終に聖天子の知遇を辱むるなかれ。
爰に開墾淵源あるを記し、君等の子孫に傳へ、其祖先の勉励困苦、終に此盛典あるを知らしむ。
 先生が情を以て制し、義を以て義に導くもの、概ね此の如し。

富田鐡之介は、仙台藩士なり。
 幕府の末年、先生其の人と為りを愛し、藩に乞ふて米國に學ばしむ。
居ること暫時、偶々維新の兵亂あり。仙台藩亦その帥を出し、鐡之助の父兄共にその中にあり。
鐡之助遥かに之を聞き、蒼皇行李を納めて歸朝し、直に先生を訪ふ。

 先生叱して曰く、咄汝何が故に歸り来る。
鐡之助答へて曰く、今や故國兵亂あり、藩主の存亡、父兄の安危、豈これを雲烟眼視することを得んや。
先生嚴然として曰く、今日の事、豫じめ期する所汝を渡米せしめしは、亂后の用に應ぜしめん為なり。
何ぞ今更狼狽することを要せんや。汝の父兄若し魯鈍にして事理に通ぜんば、或は兵馬の間に斃れるゝなきを保せず。而も藩主の安危に至りては一點の介意を須ひざることを、余の悎に保證する所なり。
汝、書を讀むと茲に多年、未だ這般の道理を辨ふるを能はざるか。
宜しく今より直ちに米國に歸りて刻苦勉励すべし。然らずんば余復た汝を見じと。

 鐡之助やむことを得ず、命に従うて再び留學の途に就き、後數年、業成りて歸る。

 先生、その子鹿報をして海軍の技を米國に學ばしむ。
 未だ幾ばくもなくして先生病に罹り殆ど起たざらんとす。子鹿報を得て蒼皇歸省す。

 此時先生病既に少しく癒、机に凭りて烟を喫す。
母大に喜び、直ちに小鹿をして先生の病室に至らしむ。
先生黙然たるもの少時、忽ち起ちて小鹿の頭を打つ。
小鹿之を避けんとして、誤りて鐡拳を鼻梁に受け、流血淋漓たり、先生罵りて曰く、汝未だ業成らざるに、何の顔ありてか能く我を見ると。
即日小鹿を逐うて再び米國に航せしむ。小鹿遂に業を卒し、韙朝して海軍少佐となる。

 萬延元年五月、先生米國より歸り、船、浦賀に入る。人あり。井伊大老の變死を傳ふ。
先生愕然また奮然。叫んで曰く。これ幕府将に仆れんとするの兆しなり、と。
衆以て無禮の妄言と為す。而も先生の言は遂に當れり。

維新の際、先生の自ら品川に赴きて、西郷隆盛を訪ふや、
 官軍の兵士開門を擁して先生を入れず。先生、乃ち故らに傲然大喝して曰く、西郷何處にあるか。
兵士忽ち唯々として之を入る。

 

 維新の際、浪士頗る先生が開國論を持するを忌む。一日、千葉千太郎、坂本龍馬、剌を通じて諾を請ふ。
先生首肯、自ら戸端に出で、之に請ふて曰はく。吾は勝麟太郎なり、子等刺客に非ざるを得んや。

 二人遽(にわか)に答へず。先生、曰はく、我もし非ならば、即ち討つべしと。
従容二人を客殿に延き、細かに攘夷論の行ふべからざるを説き、又た海外各國の形勢を論ず。
 二人大に後悔し、改心して之に師事せんと請ふ。
先生、之を聴す。ス後ち先生、龍馬の膽氣用ふべきを知り、擢(にき)んでてその塾頭と為す。

 

戊辰の春、先生の官軍と和するや、
 中に同志五百人の一團あり。
 其重なる者數十人、一日先生の邸に到る。蓋し先生を殺して後事を處せんと欲するなり。
先生固よりその意を知るも、平然として動かず。
徐に曰く、卿等の風貌太だ逼(せま)れり、抑も如何の事かある。

 請う之を語れ。客、先生が従容、更に意を用ふる所泣きを見て、心少しく躊躇する所あり。答へて曰く、時勢既に此に至る。我輩また何おかいはん、ただそれ我輩年来徳川氏の粟を食む。
豈、主家の滅亡を座視するに忍びんや。

 同志五百人、中に就いて主たるもの一百人、今日茲に西城に屠服して、従容義に就かんと欲す。
 君それ之を許せと。悲憤の情、言外に溢る。
先生曰はく、卿等の哀情、余固より之を諒とす。
 而かし余の見る所は、大に卿等と異なり、今や天下新に定るといふと雖、各藩の動静、人心の趨勢、未だ測られざるものあり。他日或は再び事なきを保せず、卿等今空しく自刃すると、豈、少しく早計に非ざらんや。

 余窃かに卿等の為に計るに、卿等且つ駿州久能山に據れ。
 久能山は、海道第一の勝、昔しは油井正雪が一朝事敗れば、據りて以て天下の兵に當らんとせし所。
 卿等暫く此處にその英氣を養へよ、と。客大に悟る所あり。
相顧みて先生の説に従ふ。

 其後歳あり。天下の形勢漸く静穏に赴くに従うて、彼の志士また先生および南洲等の精神が、實は甚だ公平なりしを悟り、心中大に感得する所あり。

 再び先生を訪ひ告げて曰はく、今や天下また我輩の力を用ふべきの地なし。
空しく徒食するは、我輩の本位に非ず、聞く、遠州金谷原、古来磽确不毛の地として民捨てて顧みざるも茲に數百年、且つ頗る灌漑の便乏し、と。
 今若し卿の力によりて、此地を我輩に賜はば、我輩死を以て之が開拓に従事し、以て我輩自活の資に供せんと。

 先生之を聞いて、その志の厚きに感じ、自ら資を投じて、その開拓を行はしむ。

志士は固より幕府旗下の士、耕転の業の如きは、その能とする所に非ざるや勿論なり。
而かもその久能山を出でて一度び金谷原に移るや、木を伐り土を掘り、純乎たる農民と化して刻苦黽勉、毫も怠らざりしかば、未だ數年を経ずして、既に人家炊煙の地となれり。

 聖上嘗て北陸を巡狩したまい、還幸の途次、静岡を過ぎらせたまふや、志士中の總代を召して賞詞をたまひ、且つ金千圓を下したまふ。
 志士皆今昔の感に堪へず。聖恩の無窮に泣き、また先生の高誼を謝せざるはなし。

 

 先生、志士の為に子孫に傳へんと欲して、自から金谷原開墾地の来歴を記して贈る。

中に曰ふ。

 嗚呼、君等一死の盟、三變して今日に及び、能く小を捨て大に移り、國家有益の大業を為せしものは、其始め確乎たる精神、至誠に出るにあらずんば、何ぞ如此ならん哉。
 然りといへども今後其賞に誇り、勸を抦て怠に流れ、終に聖天子の知遇を辱むるなかれ。
 爰に開墾淵源あるを記し、君等の子孫に傳へ、其祖先の勉励困苦、終に此盛典あるを知らしむ。

 先生が情を以て制し、義を以て義に導くもの、概ね此の如し。

 富田鐡之介は、仙台藩士なり。
 幕府の末年、先生其の人と為りを愛し、藩に乞ふて米國に學ばしむ。
 居ること暫時、偶々維新の兵亂あり。
仙台藩亦その帥を出し、鐡之助の父兄共にその中にあり。

 鐡之助遥かに之を聞き、蒼皇行李を納めて歸朝し、直に先生を訪ふ。
 先生叱して曰く、咄汝何が故に歸り来る。
鐡之助答へて曰く、今や故國兵亂あり、藩主の存亡、父兄の安危、豈これを雲烟眼視することを得んや。
 先生嚴然として曰く、今日の事、豫じめ期する所汝を渡米せしめしは、亂后の用に應ぜしめん為なり。

 何ぞ今更狼狽することを要せんや。
 汝の父兄若し魯鈍にして事理に通ぜんば、或は兵馬の間に斃れるゝなきを保せず。
 而も藩主の安危に至りては一點の介意を須ひざることを、余の悎に保證する所なり。

 汝、書を讀むと茲に多年、未だ這般の道理を辨ふるを能はざるか。
 宜しく今より直ちに米國に歸りて刻苦勉励すべし。然らずんば余復た汝を見じと。

 鐡之助やむことを得ず、命に従うて再び留學の途に就き、後數年、業成りて歸る。

 

 先生、その子鹿報をして海軍の技を米國に學ばしむ。
未だ幾ばくもなくして先生病に罹り殆ど起たざらんとす。
子鹿報を得て蒼皇歸省す。
 此時先生病既に少しく癒、机に凭りて烟を喫す。
母大に喜び、直ちに小鹿をして先生の病室に至らしむ。
先生黙然たるもの少時、忽ち起ちて小鹿の頭を打つ。
小鹿之を避けんとして、誤りて鐡拳を鼻梁に受け、流血淋漓たり、先生罵りて曰く、汝未だ業成らざるに、何の顔ありてか能く我を見ると。
 即日小鹿を逐うて再び米國に航せしむ。小鹿遂に業を卒し、韙朝して海軍少佐となる。


吉本襄『校訂 海舟先生 氷川清談 全』先生蘭書翻訳御用を命ぜられる

2021-03-04 12:29:23 | 勝海舟



吉本襄『校訂
海舟先生 氷川清談
全』

 安政二年正月、先生蘭書翻訳御用を命ぜられる。
蓋し大久保忠寛の薦擧にかかる、當時海防掛御目付役は、身分低くけれども、
その事要路に在るを以て、人の之を望むもの頗る多し、
閣老阿部伊勢守更に先生をこの職に任ぜんと欲し、
大久保及び岩瀬忠震をして内旨を先生に傳へしむ。

  先生、平然として曰く、
余の翻訳は、拙なりと雖も、卿等の力は余にすら及ばざるべし。
 余は、多く新刊の蘭書を覧るを得て、
一身の修行ちもなるべければ、強ひて現職に留まるべし。
卿等の部下に属して、俗務に鞅掌するが如きは、余の欲せざる所、
その伊勢守の内旨に出づると、否とは、余の關せざること也、と。

 二人また如何ともするなし。
その秋長崎表海軍傳習所御用を命ぜられる。
發するに先だちて小十人組を命ぜられる。

 當時論あり。
曰はく、身分につきて云々の現あらば、傳習の事また破れんと。
より先生も唯々として奉命せしなりとぞ。


 江川太郎左衛門、下曽根金三郎は、共に高島四郎太夫の高足なり。
旗下、諸藩の子弟を集めて、盛んに銃陣の調練を行ふ。
當時、先生は蘭書を本とせしかば、その式やや二人に異なり、
且つ門人の數未だ甚だ多からず。

 三人鼎立といふと雖、先生は蓋し二人に敵するに足らざりしなり。
時に阿部閣老、小普請組支配奥田主馬をして、先生の銃弾を觀んことを求めしむ。
 先生情を陳して之を謝す。
主馬大に苦しむ。組頭依田五郎八郎 先生に勸めて強ひて之れを諾せしむ。
且つ閣老へは日延を請求し、小普請組二三百人を悉く先生の門人と為す。
土岐丹波守また大に先生を援け、是より日々赤坂桐畑の空地に練兵を行ふ。
竹腰藩士また先生の門に加はる。

 かくて期旦に至り、丹後守指揮にて閣老觀兵のこと無事結了す。
但し先生は、此日既に長崎にありしなり。

 大久保一翁の日記にこの日の事を記す。

 曰く
 安政三辰年十一月十三日勝麟太郎門人觀練御召置に付、
伊勢守殿、大和守殿、但馬守殿、右京亮殿、御越相成しに付、
修理殿。自分、五時前出宅、七時半歸宅。

 高野長英 幕府の探索甚だ急なるを以て、一夜先生を訪うて救を乞ふ。
先生曰く、余は幕臣なり。義、足下の請を容るる能はず。
然れども、足下も國士なり。

 縲絏の辱をせしむるは、余の欲せざる所、去りて他處に潜めよ。
余嘗て足下が今夕の来訪を秘せん、と、長英、先生の高誼を謝して去る。 

一夜、門下の壮士、潜に先生の寝室に抵り、
請うて曰く、實は土藩の廣井磐之助なり。    

僕が父大六、嘗て同藩の土棚橋三郎の為めに非命に斃る。
僕、願くは父の為めに讎を復せんと欲す。
先生能く僕の為めに之を計れ、と。

先生之を壮として一書を附す。
曰く、
廣井磐之助者。吾門下也。慾為父報讎。踪邂逅於之。輙可殺傷。萬須照法規焉。 
                     軍艦奉行 勝 麟太郎  
  全国明府各位

 時に、三郎潜みて紀伊にあり。先生之を探知し、百方周旋す。磐之助遂にその意を達するを得たり。


吉本襄『校訂 海舟先生 氷川清談 全』先生の出身の緒は、蓋し茲に開けたり 

2021-03-03 12:02:13 | 勝海舟




吉本襄『校訂 海舟先生 氷川清談 全』 

〔都甲市郎左衛門を訪うて頗る益を得たり〕
 先生が青崖の門に學ぶ當時、狸穴に一老翁あり。
都甲市郎左衛門といふ、元幕府の馬役たり。
 蘭書を繙いて馬医の術を究め、
従来不治の難症と定まりたる馬脾風、石痳等をも医するの術を得て、
廣く諸藩の雇聘に應ず、
小人の嫉妬を受け、終に職を辞して世を避け、爾来蘭書翻譯を事とせり。
 當時既に六十餘歳、白髪方面、時には大机に凴り、
時には●(註、印字不明)中に臥し、以て客に接す。

 先生屢々 を訪うて頗る益を得たりといふ。
(市郎左衛門が當時先生に教し状は、
なほ今日先生が余輩に教ふる状の如かりきとぞ。)
 その後先生公務を帯びて長崎に至り、
年を経て江戸に歸りしに、
その人既に逝き、家族また行く所を詳にせず。


〔蘭書容易に之を得べくもあらず謄写〕
 當時蘭書を研究するに、
辞書の世に印行せられたるもの當時僅に一種、
而も大部にして、その價は六十兩といふ。
少身の士人は、容易に之を得べくもあらず。

されど、先生は如何にもして之を得んと百方盡力し、
漸く蘭医赤城某が秘蔵せしを、一ケ年十両の謝料にて借り受け、
それより昼夜之が謄写に従事し漸くにして一部を了りしも、
 謝料及び用紙等の諸費を辨ずる能はざるより更に一部を写し、
之を他に蕒却して、その費に充てたり。

 その後、
先生、縈達して辞書は、久しく塵底に埋り、
蠹魚の蝕する所となりしを、ある人大いに惜み、
先生に勸めて表装を加へ、今は先生の座右にありて、その手澤の一とはなれり。

 辞書大冊五六巻、巻末に、先生が當年手書せし記あり、
以て先生が壮時苦學の状を推想すべく、
又、以て英雄の行事細大兼ね至らざるなきを知るべし。

 記に曰く
 弘化四丁末秋葉に就き翌仲秋二日終業
予此の時貧骨に至り夏夜無幮無衾唯夜机に倚て眠る
加之大母病氣に在り
諸妹幼不弱解事自がら櫲を破り柱を割て炊ぐ
困難至千爰又感激を生じ
一歳中二部の謄写成る
其の一部は他に●(註、一字印字不明)ぎ其の諸費を辨ず
嗚呼此の後の學業その成否の如き不可知不可期也   
     勝 義 邦 記  

〔苦辛半歳にして兵書を写本〕
 この前后のことなりけん。先生また洋式の兵術を學ぶ。
 當時舶載の兵書極めて少なく、價また頗る廉からず。
先生嘗て坊問の一書肆を過ぎり新刊の兵書を見る。
實に得易からざるの珍本なり。其の價實に五十金よいふ。
先生、健羨に堪へず。
百方奔走、十數日にして漸く金を調へ、走りて書肆に赴けば、
その書既に他人の購ふ所となる。

先生、望を失ひ、その人を問へば、四ツ谷大番町の與力某なりといふ。
直ちにその家を訪ひ、情を陳べて切に其書を請ふ。
某、聴かず、先生よつて借覧を請ふ。なほ聴かず。
先生、乃ち曰はく、昼間は足下に入用なるべけれど、
夜間は敢へてその要なからん。請ふ。

足下が寝に就くの後を以て、余に借覧を許せ、と。
某の執念に驚き、答へて曰く、四ツ時を選れば之を割愛せん、
然れども、之を戸外に携ふることあるべからずと。

是に於いて、先生、翌夜よりその家に至りて之を手写す。
先生の家は、當時本所の錦絲堀にあり、
某の家を距ること、凡一里半、雨夜風霄(みぞれ)、曾て怠らず、
又、嘗て時を違へず、苦辛半歳にして業成る。

乃ち某に面してその厚意を謝し、且つ二三不審の點を擧げて之を質す。
某愕然として曰く、僕に謄写の勞なくして、
而かも未だ足下の如く全部を通讀するに及ばず、
僕窃に慚愧に堪ず、野人玉を抱くも益なし。
請ふ今日此の書を以て足下に呈せんと、先生固辞再三、某肯せず、
乃ち之を受け、写本と共に珍蔵すること十數年、後故ありて写本を賣る。
一部八巻、價實に三十圓成り帰途いふ。前項と一對の佳話といふべし。


〔先生の出身の緒は、蓋し茲に開けたり〕
 先生嘗て赤坂田町中通りの宅に於いて、
鍛冶工を雇ひ、蘭書に基づき小銃を製作す。
また唐津等の諸藩に嘱せられ、川口の鋳物師に命じ野戰砲を作らしむ。

鋳物師狡猾、或は壓銅の量を減し、或は填鍋を用ひて巧に人目を瞞ます。
先生やや之を覺る。

一日鋳物師来りて神酒料と称して五百兩を先生に棒ぐ。
曰く、鋳砲の無事を祝せんが為めに、謹んで先生に之を呈す。
諸先生皆之を受く、先生請ふまた之を受けよ、と。

先生叱して之を斥け、
且つ曰く、汝この金を以て壓銅の量を増し、
努めて精好の砲を作りて、苟も余の名を汚すこと勿れ、と。
鋳物師畏懼して退く、この事偶々世に傳はるや、
大久保忠寛(後一翁と改む)以て凡人に非ずとなし、
自から面談せんことを求む。

先生の出身の緒は、蓋し茲に開けたり。


吉本襄『校訂 海舟先生 氷川清談 全』 先生、少時 蘭學を修めんの志を生ぜり

2021-03-02 12:13:34 | 勝海舟

  
  
吉本襄『校訂 海舟先生 氷川清談 全』

 

〔先生、七歳の時〕 
 先生、少時家甚だ貧し。
七歳の時、縁類呉服之間勤おちやに従ひ、本丸の御庭を拝観す。
先生、擧止活溌、衆人と共に巡りて御椽近くに出づるや、
臆する色なくづかづかと進みて之に立寄る。

 将軍、侍者を顧みてその誰が子なるを問ふ。
侍者答ふるにおもちゃの族なるを以てす。
将軍、おもちゃに、初之丞(将軍の孫、家慶の第五子)の相手として、
この児を汝が部屋に上げ置くべきかと問ふ。
おもちゃ、御思召は謹みて之を謝す。
而もこの児甚だ貧しくて、今日着する所の衣服も實は他の縁類より借りたるなり。
されば殿中に居ることの如きは、到底その及ばざる所、と答ふ。

 将軍曰はく敢て不可なしと、
是において、先生おもちゃの部屋に上り、日々初之丞の側に候す。
衣服等の物を賜はること多し、
然れども瀾漫たる先生の天眞は、殿中に於いても決してその光を失わず。
擧止頗る亂暴なりしかば、女中の為に灸を點ぜられたることすらあり。
ただおみつの方(本壽院)のみは先生を愛撫して、
菓子の類を賜ぎしことも屡々なりきとぞ。

 かくて先生が十二歳の頃、一旦その家に歸りしが、
天保八年(五月四日)初之丞入りて一橋家の嗣となるに及び、
復た先生を召してその側に侍せしめんとす。

 先生暫く猶豫を請ひ、家督を相續せんと欲して、
嚴君酔夢氏隠居の願を出す。
九年五月(十四日)事いまだ了らざるに初之丞病みて卒す。

 

〔卜筮者關川讃岐は奇人なり〕 
 卜筮者關川讃岐は、奇人なり。
日々賣卜して、斗酒の銭を得、獨酌徹昑、童戯を見て楽みと為す。
先生時に年十三四、亦この童中に遊戯せり。

讃岐、観相して熟思し、傍人に向ひて曰はく、
此童容貌端美、婦女子の如しと雖、左眼重瞳、烱々として微射し、超凡の概あり。

他日もしその志を得は、必ず天下を亂さんか、
或は攪亂の世に逢はば、百折不撓、國家の大事に任ぜん。
嗚呼、碌々たる瓦石に非ざるなり、と。

傍人之を聞いて信ぜず、以て盲と為す。
後ち、先生に向ひ、此の言を以て、笑顔戯弄の具と為したりといふ。

 

〔蘭學を修めんの志を生ぜり〕 
 先生、少時城中において、阿蘭陀より献納せし大砲を見る。
以為らく、這般の器に非ずば、以て國防の用に供するに足らず、と。

 また砲身の文字を見ては、切に之を理解せんことを思ふ。
よつて直ちに時の蘭學者蓑作玄甫を訪ひ、決然と蘭學を修めんの志を生ぜり。

 先生初めて蓑作玄甫を訪ふや、
玄甫その亂髪弊袍、長刀を帯して、僅かに金百疋疋を包みたるを束修とし、
唐突、入門を許さんことを請う。

 玄甫その風采に驚き、
座に延きて先づその嘗て蘭學を學びたることありや否やを問ふ。
先生なしと答ふ。
玄甫また生國を問ふ。
先生答ふるに、その幕臣なるを以てす。
玄甫頭を掠つて曰く、請ふ之を措け、
蘭学は、性急なる江戸人の決して學び得る所にあらず。

 且つ余や事多し。以て足下を教ふる時なきを奈何せん。
余、誠心、足下の為に計るに、蘭学の事は再び之を志すべからず、と。
先生憤然として辞し歸り、復た之を訪はず。

 

〔永井青崖の門に遊ぶ〕
先生、蓑作玄甫に入門を拒まれて、更に永井青崖の門に遊ぶ。
青崖は筑前の幕臣、赤坂溜池の邸に居る。
藩候黒田夙に洋書を愛し、新刊の蘭書を蔵すること頗る多し。
而して青崖はその翻譯の事を司る。

故に先生もまた大に新書閲覧を便を得たり。
加之ならず、青崖の推擧に依りて、藩候より特別の待遇を受け、
玄関又は中の口によらず、直ちに家臣の出入り口より往来し、
屢々謁見を許されたりとぞ。



勝海舟『氷川清話』(30) 處世の秘訣は誠の一字だ 以上語録

2020-01-02 22:16:42 | 勝海舟

勝海舟『氷川清話』(28) 處世の秘訣は誠の一字だ

先年(三十一年三月二日)徳川慶喜公が参内せられたのは、
  公に故有梄川宮の御息所と御親戚の間柄であるから、威仁観王が非常に御尽力になったのだ。
 これについては徳川家からおれへも相談があったから、おれも豫て望む所だによって内々奔走した。

 参内の翌日に慶喜公はわざわざおれの所に来られて、天皇陛下に拝謁の際には、
非常に御鄭重な御待遇に預り、又皇后陛下の時にも、陛下からいろいろな御談があって、
その上美事な銀の花瓶一対と、紅白の縮緬と金の御章を附した銀盆と、
その外にも種々な品を下された事を申されたから、
おれも生きて居る甲斐があつた思つて、覚わず嬉し涙がこぼれた。


 この時、おれは公に、
今後も何処までも品位をお保ちにおなつて、
昔の小大名などとは余り御交際なさるな、それは費用も入るし、
また自ら品位を墜す本である、三位様(家達公)へはお気の毒だけれども

これから巣鴨の邸に御永住になっても、
馬車などには乗らず、一人曳の車で何慮へでもお出でなさい。

 また時々は徒徒歩で以て市中の有様でも御覽なさるがよろしいと申上げたら、
公も御示教は難有い、その通りにする。

 どこまでも天恩の優渥なるを記し奉って、租宗の祀を絶たないやうにする。

 就いてはにの絖へ『楽天理』と書いてくれよと頼まれたから、
おれは余りの嬉しさに、涙の落ちるのを押さへて快く承諾したが、
流石は水戸家で養育せられたお方だけあるとおもって、おれは今更感心したよ。

   鎌倉にもとゐ開きしその末を
        まろかにむすぶ今日にもあるかな

   結ぶうへにいやはりつめし厚氷
        春のめぐみに融けて跡なき

 おれの役目も、もうこれで終わったのだから、
明日よりの事は、若い人に頼むよ。

 

曾て宮内省から頼まて、江戸の歴史を調べて、
 一部の書物を作ったが、
城郭の遠隔は勿論、法律、風俗、寺社、共の外すべて漏れなく載せてある。

 之を調べる時に、一つ不審であったのは、
江戸城が扇ケ谷の執事太田道灌の居城にしては、余り大き過ぎるといふことだ。

 何の記録を見ても江戸域の門は、三十六とあって、
全体の結構がなかなか、大きさうだ。

 全体この時分の記録では、漆桶萬里軒のが一番確からしい。
 この人は、もと京都相国寺の僧で、後に道灌の客分になって顧問をして居たので、
江戸名所図絵などにも、沢山この人の記録から引いてあるが、
この記録にも矢表り城門三十六と書いてある。

 そこで、色々考へて行って、到頭その訳が分かった。

 當時扇ケ谷は、関東の管領で、その居城は、今の川越であったが、
平生は鎌倉に住んで居て、川越へは一年に一二度も行くばかりであった。

 それ故に、
万一八州の野に不意の兵乱でもあると、
鎌倉と居城との連絡は忽ち断たれる心配がある。

 そこで、之に対する予備として、
八王子を始め、その外諸処に繫ぎの砦を置いたので、
江戸もまたその一つであるといふことが分かった。

 その頃の鎌倉街道といふものは、
高輪の台から赤坂離宮の中を通つて居たと見ゑて、
あの離宮が紀州の屋敷であった時分には、現に鎌倉街道の一里塚か残って居た。

 鎌倉と川越とのつなぎの城を置くには、
この江戸は、実に屈強な処だから、當時管領の威光で以て、
城門が三十六もある様な大きな城をここヘ築いて、
八州の壓へにしたのだ。

 そして道灌は即ちその城代であったのだ。

 道灌もこの城を築くについては、
場所の撰懌に随分骨を折ったものと見えて、
諸々方々に縄張りなどしれ跡が残って居る。
 今の道灌山なども畢竟その一つだ。

 それで諸方を檢分した末、
今、江戸城の立って居る所が、一番よいといふことになったのだ。

 この頃、江戸城の外に、今の山城町や、伊皿子にも小さい砦があったといふことだ。

 道灌といふ男は、
あの時代にしては、随分品の高い人物で、八州の人心も大に帰服した。
そこで、その伊皿子に居つた某の讒言によって、終にあの災難にかかったのだ。

 『窓ハ西嶺千秋ノ雪、門ニ泊ス東呉れ万里ノ船』といふ額が掛けてあつた静勝軒は、
今にたつた一つ宮城の内に残って居る。

 彼の櫓の所にあつたのだ。
 今では富士の雪ぐらゐは見えるかも知れないけれど、海も何も見えはしない。
  
 併し、道灌の頃には、
八重洲橋の外は、みんな海であつなそうだから、
或いは東呉万里の船を門前に泊する景色も実際あったかも知れない。

 それから桜田門外より霞ケ関へかけても、
ずつと諸屋敷があったらしいが、
兎も角随分規模が大きかったに相違ない。

 

東京都遷都三十年祭について
 先日岡部府知事などから、
おれも發起委員になれといって來たから、
おれは斯ういふ風な返事を出さうと思ったけれど、
折角人が骨を折って居るのに邪魔をするも気の毒だと思って、
まあ止にしたが、一寸この草稿を読んで御覧。


 戊辰之變匆々已に過ぐ三十一年、
今や遷都の奠を挙げんと、
我を以て其委員中に加へんと聞く。
 我豈是に當らむ。

 府下無事に今日ある、其の初め西郷氏の力なり。
 後區割盡力遷都の擧に及びし
ものは大久保氏の功なり。
 今尚氏あらば其殊功に可報なり。
 然して両氏泉下の人と化す。
 我獨存在前人の功に居て委員たるは其志に非す。
 又知者の耻る所。

 甞て明治二十五年懷舊に不堪、
(不鮮明、文字不明)に蕪詩を作り 感慨の情を述ぶ。
 廣く人に示さずと、雖、是我が素志。
 今に及で益老朽不便の身體を以て、衆人の後に附き空奔せむ哉。
 北情を察し、我れを以て委員と成すなかれ。
 又思ふ、其の奠たる舊に泥す。
 東都三十年上下其居を安んじ、業を楽むものは聖恩の厚に出づ。
 衆民爰に感銘せば、其擧止浮華に流れず、謹で以て祝賀すべし。
 是我素題也。
    三十一年三月

 おれの精神は、この末の段にあるのだ。

下々のものは、南京米を喰って居る様な今日だから、
餘り金の入るやうな騒ぎなどはしないでよい。
委員などもここの所へ注意しなくては可けない。
そこでこんな腰折が出來たよ。

  咲く花を散らさで祝へ田舍人。

 又、こう云ふ発句と歌が出來た。

  上野飛島都の花となりにけり
   たちかへる我が古里の墨田川
      昔忘れぬ花の色かな  

 おしまひの歌は、
昔し江戸から靜岡へ引拂ふ時に、
おれが『つねだにも住ままくほしき墨田川わが古郷となりにけるかな』と詠んだのと前後照應して居るのだ。
 どうだ面白いだらう。

 

先に見せた草稿にもある通りに、
 この東京が何事もなく、
百萬の市民が殺されもせずに濟んだのは實に西鄕の力で、
その後を引受けて、この通り繁昌する基を開いれのは、
實に大久保の功だ。

 それ故にこの二人のことをわれわれは决して忘れてはならない。

 あの時、おれはこの罪もない百萬の生霊を何せうかといふことに、
一番苦心しにのだが、併し、
最早 斯うしなっては仕方がない。

 ただ至臧を以て利害を官軍に説くばかりだ。
 官軍が若しそれを●(不鮮明、読めず)いてくれねば、
それは官軍が悪いので、おれの方には少しも曲った所がないのだから、
その場合には、花々しく最後の一戦をやるばかりだと、
かう決心した。

 それで山岡鉄太郎が靜岡へ行って、西鄕に會ふといふから、
おれは一通の手紙を托けて西郷へ送った。

 山岡といふ男は、名前ばかりは豫て聞いてが、會ったのはこの時が一初めてだつた。

 それも大久保などが、
山岡はおれを殺す考だから用心せよとい
って、一寸も会はせなかったのだ。
 この時の面会は、その後十數年間莫逆の交りを結ぶ本になった。

 さて山岡に托けた手紙で、
まづおれの精神を西鄕へ通じて置いて、
それから彼が品川に來るのを待って、更に手紙をやって、
今日の場合、决して兄弟●
(不鮮明、不明)(不鮮明、不明)べきでないことを論じた所が、
向ふから會ひたいといって來た。

 そこでいよいよ、官軍と談を開くことになったが、
最初に、西郷と會合したのは、丁度三月の十三日で、
この日は何も外の事は言はすに、
只だ和宮の事について一言いつばかりだ。

 全体、和宮の事については、
豫て京都からおれの所へ勅旨が下って、宮も據ない事情で、
関東へ御嫁になった所へ、図らずも今度の事が起ったについては、
陛下も頗る宸襟を惱まして居られるから、
お前が宜しく忠誠を勵まして、
宮の御身の上に萬一の事のない様にせよとの事であった。

 それ故、おれも最初にこの事を談したのだ。

 和宮の事は、
定めて貴君も御承知であらうが、
拙者も一旦御引受け申した上は、
決して別條のあるやうな事は致さぬ。

 皇女一人を人質に取り奉るというが如き卑劣な根性は微塵も御座らぬ。
此段は何卒御安心下されい。
その外の御談は、何れも明日罷り出て、ゆるゆる致さうから、
それまで貴君も篤と御勘考あれと言ひ捨てて、
その日は直ぐ帰宅した。
 

 翌日即ち十四日に、
また品川へ行って西郷と談判した所が、
西郷がいふには、委細承知致した。

 然しないら、これは描者の一存にも計らい難いから、
今より総督へ出掛けて相談した上で、何分の御返答を致さう。
が、其れ迄の所、兎も角も明日の進撃だけは、中止させて置きませうといって、
傍に居た桐野や村田に進撃中止の命令を伝えたまま、
後はこの事にて何もいはず昔話などして、
從客として大事の前に横はるを知らない有様には、
おれもほとほと、感心した。

 この時の談判の詳しいことは、何時か話した通りだが、
それから西郷に別れて帰りかけたのに、
この頃江戸の物騒な事といったら、中々話にもならない程で、
何処からともなく鉄砲丸が始終頭の上を撩めて通るので、
おれもこんな中を馬に乗って行くのは險呑だと思ったから馬をば別當に率かせて、
おれは後からぽとぽと歩いて行った。

 そして暫らく城門まで帰ると、
一翁を始めとして皆々がおれの事を気遣って、
そこまで迎へに出て居ったが、
おれの顔を見ると直ぐに、
まづまづ無事に帰ったのは目出度いが、
談判の模様はどうであつたかと尋ねるから、
その顛末を話して聞かせた所が、皆も大層喜んで、
今し方まで城中から四方の模様を眺望して居たのに、
初めは官軍が諸方から繰込んで來るから、
これは必定明日進撃する積りだらうと気遣って居たが、
先刻からはまだ反対にどんどん繰出して行く様なので、
如何したのかと不審に思って居たに、
君のお談であれば西郷が進撃中止の命令を發した譯と知れた。

 といふのでおれはこの瞬間の西郷の働きが行き渡って居るのに実際感服した。

 談判が済んでから、
仮令歩いてとはいふものの城まで帰るに時間は幾らもかからないが、
その短い間に号令がちゃんと諸方へ行き渡って、
一度繰込んだ兵隊をまた後へ引き戻すといふ働きを見ては、
西郷はなかなか凡の男でない、といよいよ感心した。

 畢竟、江戸百萬の人民が命も助かり、家も焼かれないで、
今日の様に繁昌して居るのは、
みんな西郷
が諾といってくれたお陰だ。

 おれは始終この事を思って居るから、
世間が奠都祭などと騒ぎ出さな内に、
ちゃんと心ばかりの事はしていた。
 これを読んで見なさい。

  明治廿五年四月十一日、即慶応三年辰三月十五日、経年質廿五年矣。
回想當時情形、全都鼎沸殆如亂麻。
此日余到品川牙營。就参謀諸士有所論焉。
而西郷村田中村數氏、皆既泉下之人、余獨以無用老朽之身、瓦全至干今。
人事之不可思議者如此。
不勝悵奮驢之情。
因賦絶句。
  皇國一大府。 此中無辜民。 如何為焦土。 思之獨傷神
  八萬幕府士。 罵我為大奸。 知否奉天策。 今見全都安 
  義軍勿嗜殺  々々全都空。 我有清野術。 傚魯挫那翁。
  官兵迫城日。 知我獨南州。 一朝誤機事。 百萬化髑髏。  

 
 おれの精神はこの四首の中に晝きて居るのだ。
 澤山な事を言はないでも、わかる人にはわかるらね。

さて西鄕の一諾で、一まづ事は治まつたが、
 茲に今一つの困難ざいふのは、
これから、先江戸の人民を何う始末せうかとざいふ問題だ。

 併しおれの方では、
徳川の城さへ明渡せば、後は皆官軍の方で適宜に始末するだらうと思って、
始めは黙って見て居た。
其の處はおれも人がわるいからネ。

 然る所、
これには向ふでも困ったと見て西鄕も相応には人がわるいサ。

 府下の事は何も彼も勝さんが御承知だから、
宜しくお願ひ申すといって、
この六ケしい仕事をおれの肩へ投げかけて置いて、
自分にはそのまま奥州の方へ行ってしまった。

 おれも忌々しかったけれ、
仕様もないからどうかかうか手を付けかけた所が、
大村益次郎などいふ男がおれを悪んで、
兵隊なんか差向けて酷く意地めるので、
あまり馬鹿々々しいから家へ引込んで、
それなり打ち遣って置いた。

 すると大久保利通が來て、是非々々と懇ろに頼むものだから、
それではとて、おれもいよいよ、
本気に肩を入れる様になっのだ。

 

この江戸の市中の事は、
 おれは豫て精密に調べて置いたのだが、
當時の人口はざっと百五十万ばかりあつた。

 その内、徳川氏から抉持を貰って居ったものは勿論、
その外諸大名の屋敷へ出入りする職人や商人などは
、皆な直接間接に幕府のお蔭で食うて居たのだから、
幕府の瓦解と共に、こんな人たちは忽ち暮らしが立たなくなる道理だ。

 全体江戸は大坂などとは違って、
商賣が盛なのでもなく、物産が豊なのでもなく、
ただただ政治の中心といふので、
人が多く集るか繁昌して居たばかりなのだ。
 それ故に、暮府が倒れると、斯うなるのは固より知れきって居る事サ。

 就てはこの人たちに、
何か新な職業を與へなければならないのだが、
何にしろ百五十万といふ多数の人民が食ふたけの仕事といふものは
そう容昜に得られない。

 そこでおれは、
この事情を精しく大久保に談したら、流石は大久保だ

 それでは断然遷都の事に决せうと、
かういった。即ちこれが東京今日の繁昌の本だ。

 丁度この事の决する時には、
大久保と吉井(友實)とおれと三人同席して居ったのだが、
大久保も吉井も巳に死んでしまって、
おればかり老いぼれながらも生き殘って居るので、
まことに今昔の感に堪へないよ。

 先に見せた草稿の中に、
江戸が無事に終ったのは、西郷の力で、
東京が今日繁昌して居るのは、大久保の力と書いて置いたのは、
まづこんな譯サ。

 

世間の人は動もすると
芳を千載に遺すとか、
臭を万世に流すとかいって、
それを出処進退の標準にするが、
そんなケチな了見で何が出来るものか。

 男児世に処する、
だだ誠意正心を以て現在に応ずるだけの事サ。

 あてにならない後世の歴史が、
狂といはふが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。

 要するに
   處世の秘訣は誠の一字だ

      以上語録


勝海舟『氷川清話』(29) 死を懼れる人間は、勿論談すに足らないけれども

2020-01-02 21:53:48 | 勝海舟

 勝海舟『氷川清話』(29) 死を急ぐ人も、また决し誉められないヨ


死を急ぐ人も、また决し誉められないヨ。
 日本人は、一体に神経過敏だから、
必す死を急ぐか又は、死を懼れるものばかりだ。
こんな人間は、共に天下の大事を語るに足らない。


 元龜天正の間は、實に日本武士の花だった。
併し當時に、ただ死を輕んするばかりを、
武士の本領とするやうな一種の数育が行はれて、
遂には一般の風が、
事に臨んで死を急ぎ、
とにかくに一身を潔うするのを以て、
人間の能事が丁ったとするやうになつたのは、
実に惜しいものだ。

 

 萬般の責任を一人で引き受けて、
非常な艱難にも堪へ忍び、
そして綽々として餘裕があると云うことは、
大人物でなくては出來ない。
 こんな境遇に居っては、
その胸中の煩悶は、
死ぬるよりも苦しいヨ。

 併しそれが苦しいといって、
事局の知何をも顧みず、
自分の責任をも顧みず、
自殺でもして當座の苦しみを恐れようしとするのは、
必竟、その人の腕が鈍くて、
愛国愛民の誠がないのだ。
 即ち所謂屑々たる小人だ。

 かういふ風な潔癖と短気とが、
日本人の精神を支配したものだから、
この五百年が間の歴史上に逆境に処して、
平気で始末をつけるだけの腕のあるものを求めても、
おれの気にはいるものは、一人もない、
併し強いて求めると、
まあ大石良雄と山中鹿之助との二人サ。

 山中鹿之助が、貧弱の小国を以て、
凡庸の主人を奉じ、屢々失敗して、
ますます奮発し斃れるまでは己めなかつたことや、
大石良雄が、若い者の議論を壓へて、
容易に城を明け渡し、
山科の月を眺めたり、
祇園の花に酔うたりなどして、
復讐の念は、何処へか忘れたやうであつたけれども、
遂には四十七士を糾合して、
見事に目的を達した事などは、
かの世間の少しの事に失望してにて自殺したり、
又は歳月と宴安とに志気を失ってしまつたりする奴とは、
大した違ひだ。


支那は、流石に大国だ。
 その国民に一種気長く大きな所があるのは、
なかなか、知気な日本人なども及ばないヨ。
 たとへば、日清戦争の時分に、
丁汝昌が、死に処して従容迫らなかったことなどは、
実に支那人の美風だ。

 

 この美風は、萬事の上に願はれて居る。
 例の日清千艘の時に、
北洋艦隊は、全滅せられ、
旅順口や、偉海衛などの要害の地は、
悉く日本人の手に落ちても、
彼の国民は一向中平気で、
少しも驚かなかったが、
人はその無神経なのを笑ふけれども、
大国民の気風は、
却ってこの中に認められるのだ。

 

 丁汝昌も、何時かおれに謂ったことがあった。
 我が国は、貴国に較べると、
萬事につけて進歩は鈍いけれど、
その代わり一度動き始めると、
決して退歩はしないといつたが、
支那の恐るべき処は、
実にこの辺にある。

 こなひだの戦争には、
うまく勝つたけれども、
彼是の長所短所を考へ合はして見ると、
おれは将来の事を案じるヨ。

 顧みれば、幕末の風雲に乗じて起こり、
死生の境に出入りして、
その心坦を練り、
窮厄の域に浮き沈みして、
その清節を磨き、
つひに王政維新の大業を仕遂げた元勲は、
既に土になつて、
今はその子分ど共が、政治を執つて居るけれども、
今十年も後の国政を料理する責任は、
現在学校などに居る書生の肩にあるのだ。

 どうだ、今の書生の中にこの大責任に堪へるだけの者があるか。

 

おれの見た所では、今の書生輩は、
ただ一科の學問を修めて、多少智慧がつけは、
それで滿足してしまって、
更に進んで世間の風霜に打れ、
人生の酸味を嘗めると云ふ程の勇気を以て居るものは、
少ない様だ。

 こんな人間では、
とても十年後の難局に當って、
さばきを付けるだけのことは出来まい。
 おれはこんな事を思ふと心配でならないヨ。

 

 天下は、大活物だ。
 区々たる殆歿學問や、小智識では、
とても治めて行くこは出來ない。

 世間の風霜に打たれ、
人生の酸味を嘗め、
世帯の妙を穿ち、
人情の機微を究めて、
然る後、共に経世の要務を談ずることが出來るのだ。
 小學問や小智識を鼻に掛けるやうな天狗先生は、
仕方がない。

 それ故に、後進の書生等は、
机上の上の學間ばかりに疑らず、
更に人間萬事に就いて學ぶ、
その中に存ずる一種のいふべからざる妙味を噛みしめて、
然る後に、机上の學間を活用する方法を考へ、
又た一方には、心坦を練って、
確に不抜の大節を立てるやに心掛けるがよい。
 かくしてこそ、始めて十年の難局に処して、
誤らないだけの人物となれるのだ。

 かへすかへす、後進の書生に望むのは、
奮ってその身を世間の風浪に投じて、
浮かぶか沈むか、
生るか死ぬるかの処まで泳いで見ることだ。

 この試験に落第するやうなものは、
到底仕方がないサ。

 

天保の大飢饉の時には、
 おれは毎日仏暁に起きて、
剣術の稽古に行く前に徳利搗(つく)といふことをやつたヨ。
 これは、徳利の中へ玄米五合ばかりを入れて、
その口へはいる程に削った樫の棒で、
こつこつ搗のサ。
 おれは毎朝掌に豆の出来るほど搗いてこれを篩でおろし、
自ずから炊いて父母に供したことがあるヨ。

 これは、白米は高くて
『とても買われず、
且は玄米にすると、
糠や粉米が出来るから、
小身者の皆することだ。
 世間には、また、
かういふ風にした米の研げ汁を貰ひに来る細民もあつたヨ。

 

 當時幕府では、
上野広小路へ救小屋を設けて、
貧民を救助したが、
餓孚路に横はるといふことは此時実際にあつたヨ。

 又、幕府は浅草の米倉を開いて、
籾を貧民に頒けたが、
その時、最も古いのは、六十年前の籾で、
其の色が真っ赤だつたヨ。
 これより下りて五十年前位のは、
随分沢山あつたツケ。

 赤土一升を、水三升で溶いて、
これを布の上に厚く敷いて、
天日に曝し、
乾いてから、生の粉などを入れて団子を作り、
又た松の樹の薄皮を剥がいで、
鰑のやうにして、
食物にしたのも此時だ。

 おれもこの土団子を喰って見たが、
随分喰へば喰はれたヨ。
 併し、余り沢山食うと黄疸の様な顔色になるといふことだつた。

 又さし搗といふこともやつたことがある。
これは一番米が減らないよ。
 元来おれは貧乏だつたから、
自分で玄米を買つて来て、
そしてこのさし搗きをやつたのサ。

 この頃は妻と二人暮しだったから、
妻が病気でもした時には、
おれは味噌漉を下げて、
自分で魚や香の物を買ひに行つたこともあるヨ。

 今の若い者等が、
時にはおれの処へ来て、
無心を云ふから、
その時はおれの昔話をして聞かせるとノ、
それでは飯が食へませんといふヨ。
 まあ呆れるではないか。


人間生きて居るほど、
 面倒臭いものはない。
それならといって、
真逆首をくくつて死ぬる訳にも行かず、
伯爵の華族様が、
縊死したとでも新聞に出されると恥だからノー。
 

 無為にして閑寂たるといふことは、
大に為すあつて、
然る後に遣るべきものか、
おれは少し惑ふが、
併し、今の人は、
何故こんなに擾々として、
自ずから事を為さうとするものが多いだらう。
 

 何事も知らい風をして、
独り局外に超然として居りながら、
而かも能く大局を制する手段のあつたのは、
近代では只だ西郷一人だ。

 

末路に処するといふことは、
 実にむづかしいものだ。
 大久保(甲東)でも生きて居たなら、
藩閥政府の末路も、今少しは活気があるだらうヨ。
 大久保の時から見ると、
世は非常に進歩したから、
昔しの大久保も、
今日の我輩には迚も及ぶまいなと思ふ天狗先生も居るが、
困ったものサ。

 

 先年(三十一年三月二日)徳川慶喜公が参内せられたのは、


勝海舟『氷川清話』(28) )由比正雪でも西郷南州でも、自分の仕事が

2020-01-02 21:52:04 | 勝海舟

勝海舟『氷川清話』(28)由比正雪でも西郷南州でも、

 

由比正雪でも西郷南州でも、
自分の仕事が成就せぬといふことは、知って居たのだヨ。
 おれも天保前後に随分正雪の様な人物に出遇ったが、
この消息は、
俗骨には分らない。

 つまり彼等には自然に権力が附き纏うて來るので、
何かしなくては堪へられない樣になるのだ。
 併し西鄕は、正雪の様には賢くない。

 ただ感情が激しいので、
三千の子弟の血管を湧した以上は、
自分獨り華族樣などになって済まし込むことが出來なかったのだ。
 それを、小刀細工の勤王論などで以て攻撃するのは野暮の骨頂だ。
 賢くないとはいふものゝ、
勤王論ぐらゐは西郷も知って居る。

 だから戦爭中も自分では一度も号令を掛けなかったといふではないか。
 おれは、前からそれを察して居たから、
あの時岩倉さんが聞きに來たのに、
大丈夫だ、西郷は決して野心などはない、
と受け合ったり又佐野などにも西郷の心事をくはしく説明してやつたが、
その為めに一時に飛んでもない疑ひを受けたこともあった。

 併し何にしてもあれ程の人物を、
弟子の為に情死させたのは、
惜しいものだ。

 部下にも棡野とか、
村田とかいふのは、
なかなか俊才であった。

 西郷も、もしあの弟子がなかつたら、
あんな事はあるまいに、
おれなどは弟子がないから、
この通り今まで生き延びて華族様になって居るのだが、
もしこれでも、西郷のやうに弟子が大勢あつたら、
獨りでよい顔もして居られないから、
何とかしてやったであらう。

 併し、おれは西鄕の様に、
之れと情死するだけの親切はないから、
何か別の手段を取るヨ。

 兎に角西郷の人物を知るには、
西郷くらゐな人物でなくてはいけない。
 俗物には到底分らない。
 あれは、政治家やお役人ではなくて、
一個の高士だものを。

 

 おれは幕末から明治の初年へかけて、
自分に當局者でもなく、
また成るべく避けては居たけれど始終外交談判などを手傳はせられた。
 長州征伐の時にもあまり出過ぎた為にお上から叱られ、
オロシヤが來た時にも荷蘭と交渉し、
列國か下の関砲撃をした時にも長崎で談判を開き、
薩長軋轢の時にも中に立ちなどして、
長らくの間、天下の安危を一身に引き負うたが、
そのうちには色々の人物に接した。

 そして日本人の間では憎まれ者になったけれども、
是でも大院君や、季鴻章には、隨分持てるのだ。

 先般斃去せられた島津公の如きも、
三代以前から懇意である。
 おれはこれ程の古物だけれども、
併し今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。
 どうしても西郷は大きい。 

 妙な処で隠れたりなでして、
一向その奧行が知れない。
 厚顔しくしくも元勲などと済まして居る奴とは、
とても較べものにならない。

 今年の二月に鹿見島へ南州の碑が建つについて徳川公も下向せられるといふから、
おれは詩を書いて送って置いた。

  俯七十六 嘯傲大江東 知否九泉下 海内亦濛々 

 この知否と云ふのは、後から改めたのだ。

 

世の中の事は、時々刻々変遷極まらないもので、
 機來り機去り、その間 実に髮を容れない。
 かういふ世界に処して、
萬事小理窟を以て、
之れに應せうとしても、
それはとても及ばない。

 世間は活きて居る。理窟は死んで居る。
 此の問の消息を看破するだけの眠識があったのは、
まつ横井小楠木、
この間に処して所謂気合いを制するだけの胆識があったのは、
まづ西郷南州だ。

 おれが知人の中で、
殊にこの二人に推服するのは、
つまりこれが為めである。

 

是迄民間に潜んで居た若手も、
 おひおひ天下の実務に當るやうになって來たのは、
如何にも結搆だが、
今の若い人は、どうも餘り才気があって、
肝督な胆力といふものが抜けて居るからいけない、
幾ら才気があっても、
肝心な胆力がと無かつた日には何が出来るものか。

 天下の事は、口頭や筆端ではなかなか運ばない。
 何にしろ今の世の中は、
胆力のある人が一番必要だ。

 

武士的氛風は、
 日を逐ふて頽れて來る。
 是は固より困った事には相違ないが、
併しおれは今更のやうに驚かない。

 それは封建制度が破れれば、
期うなるといふことは、
ちゃんと前から分って居たのだ。
 今でもおれが非常な大金持であったら、
四五年の内には屹度この風を挽回して見せる。

 それは外でもない。
 全体封建時代の武士といふものは、
田を耕すことも要らねば、
物を売買することも要らず。

 そんな事は百姓や町人にさせておいて、
自分等はお上から祿を貰って、
朝から晩まで遊んで居ても、
决して喰うことに困るなどといふ心配はないのだ。
 
 それ故に厭でも応でも是非に書物でも読んで、
忠義とか廉恥とか騒がなければ仕方がなかったのだ。

 それだから封建制度が破れて、
武士の常禄といふものがなくなれば、
随って武士気質も段々衰へるのは當り前のことさ。
 
その証拠には、今もし彼等に金を呉れてやって、
昔の如く気楽なことばかり言はれるやうにしてさへやれば
屹度武士道も挽回することが出来るに相違ない。

 

おれ程苦しんだものはあるまい。
 維新の際には僅か五十万圓の金を以て十五万人の大勢を養ったが、
人間といふものは飯を食はせなければならないから、
おれも実に閉口した。

 その時露西亜から金を貸さうと申し出たけれども、
おれは断然謝絶したのだ。

 何に、あの時札幌をでも抵当に入れれば、
五百万圓位は喜んで貸したのだから、
その内を百万圓も着服すれば、

おれは一生安楽に隠居が出来たのだ。
 併しおれはそんな悪漢ではないから、
本當と思ってはいけないヨ。

 

田舍へ行て見ると、
 金持の屋敷のまはりに植えてある樹木なども、
身代が左前になる、
どんな大木でも何となく勢いがなくなって見える。

 人間もその通りで
元気の盛んな時には、
頭の上から陽炎の様に焔が立つて居るものだ。

 然るにこの頃往来を歩いて見ると、
どうも人間に元気が無くて、
みんな悄然として居るらしい。
 これは国家の為に決して喜ぶべき現象ではない。

 

何時かおれは、紀州候の御屋敷へ上った帰り途に
 裏棚社会へ立寄って、
不景気の実情を聞いたが、
此の先四五日の生活が績かうか心配して居るものが諸方にあったよ。
 畢竟社会問題と云ふものは、
重もにこの辺から起るのだから、
為政家は、始終裏棚社會に注意して居なければいけないヨ。

  新米や玉を炊ぐのもおもひあり
  落栗やしうとと孫の糧二日 
  唐茄子に一日は餓をいやしけり

 

今とは違って、昔は世の中は物騒で、
 坂本も廣澤も斬られてしまひ、
おれも廔々危いめにあつた。
 

 けれどもおれは、常に丸腰で以て刺客に応対した。

 ある時長刀を二本差して來た奴があるので、
おれは、お前の刀は抜くと天井につかへるぞいって遣ったら、
その奴は直ぐ歸ってしまった事があった。

 またある時は既に刀を抜きかけた奴もあったが、
そんな時にはおれは、
斬るなら美事に斬れ、
勝は大人しく居てやる。

 といふと、大抵な奴は向ふから止めてしまふ。
 かふいう風におれは一度も逃げもしないで、
とうとう斬られずに済んだ。
 人間は胆力の修養がどうしても肝腎だ。

 

幕府には、
 三河気士の美風を受けた正直な善い士があったヨ。
 岩淵肥後、小栗上野、河村對馬、
戸川播磨などはよい人物だったが、
惜しいことには皆死んでしまった。

 

近頃世間で時々西郷が居たらとか
 大久保が居たらとかいふものがあるが、
あれは畢竟自分の責任を免れる為の口実だ。
 西鄕でも大久保でも、
假令生きて居るとしても、
今では最早老耄爺だ。
 人を當てにしては駄目だから、
自分で西郷や大久保の代りを遣ればよいではないか。

 併し今困るのは、
差當り、世間を承知さするだけの勲功と経歴を持って居る人才が居ないことだ。

 けれども人才だってさう誂へ向きのものばかりは何処にもないサ。
 太公望は国会議員でも、
演説家でも、
著述家でも、
新聞記者でもなく、
只だ朝から晩まで釣ばかりして居た男だ。

 人才などは騒がなくても、
眠玉一つで何処にでも居るヨ。

 天下の事に任ずる位のものは、
今日朝野に何んな人物があるかといふことは、
常に知って居なくて
困る。
 おれなどは予めそのを辺を調べて、
手帳に留めて置いた。

 すると瓦解の際におれの向ふに立つた奴は、
西郷を始め皆な手悵の中の人物に洩れなかったヨ。
 天下に人物の居るか居ないか位の事は、
座ながらにして知れる様でなくては、
とても天下の大事に任ずことは出来ない。

 

主義といひ、道といって、
 必ず是れのみと断定するのは、
おれは昔から好まない。
 單に道といっても、
道には大小厚薄濃淡の差がある。

 然るにその一を揚げて他を排斥するのは、
おれの取らない所だ。
 人が来て●(不鮮明、読めず)々とおれを責める時には、
おれは,さうだらうと答え置いて争わない。
 そして後から精密に考へてその大小を比較し、
この上にも更に上があるだらうと想ふと、
実に愉快で堪えられない。
 
 もし我が守る所が大道であるなら、
他の小道は小道として放って置けばよいではないか。
 智慧の研究は、棺の蓋をするときに終わるのだ。
 かういふ考を始終持っていると実に面白いヨ。

 

世の気運が一轉するには自から時機ある。
 昔し西洋人は七の数を以て之を論すると聞いたが、これは眞だらう。
 何時か、おれはかういふ文を作った。

  人心移転潮せんとする前先づその機動くの兆顕然として生す。
  機先轉じて漸く顕著ならんとす。
  此際人心穏やかならず、
  論爭紛々、
  彼我得失を争ひ、
  誹謗百出、
  舊主改良を論ずるもの三四年、
  或いは五六年究極なきを、
  或いは有力者あれば其説に附和雷同して団結の勢を生す。

 

気運といふものは、実に恐るべきものだ。
 西郷でも、木戸でも、大久保でも、個人としては、
別に驚く程の人物でもなかったけれど、
彼等は、王政維新といふ気運に乗じてきたから、
おれも到頭閉口したのヨ。

 併し気運の潮勢が、
次第に静まるにつれて、
人物の値も通常に復し、
非常にえらくみえた人も、
案外小さくなるものサ。
 

人はどんなものでも決して捨つべきものではない
 如何に役に立たぬと云っても、
必ずか何か一得はあ
るものだ。
 おれはこれまで何十年間の経験によって、
この事のいよいよ間違ひないのを悟つたヨ。

 人を集めて党を作るのは
、一つの私ではないかと、
おれは早くより疑っているヨ。
 人は皆さまざまにその長ずる所、
信ずる所を行へばよいのサ。
 社會は大きいから、
あらゆみものを包容しても毫も不都合はない。
 卑近の例だが、
酒屋も餅屋も芸術家も高利貸も、
差別なく貸家に住まはせてよいと同じだ。
 大屋はただ家賃を取り、
適當に監督すれば、それでよいのサ。

 世の中の事でも、ただ機会と着手と、

この二つをさへ誤らなければ、なに物でも放任して置いて差支はない。

 

おれは一体日本の名勝や絶景は嫌ひだ。
 皆規模が小さくてよくない。
 試に支那へ行って揚子江河口に臨むと、
實に大灘のやうに思はれる、
また、米国へ行って金門にはいっても氣分清々する。

 国が小さけれは景色も小さく、人間の心も小さい。

 舊時代でも、御改革か御倹約とかいふと、
一番早く結果の顕れるのは、小大名だ。

 大々名ほど手間がとれる。
 支那などは、何時何をするのか、
別に目にはつかないけれど、
何かやって居るに相違ないのだ。

 この日本は、全体誰が背負うかといふに、まづ国会だらう。
 而してこの国会は、少しの金で如何やうにもなるではないか。

 寝とぼけて居る時勢後れの実業家にすら、左右せられるではないか。
 そん小さい胆玉では、仕方がないワイ。

 併し日光は稍々な規模が大きから、
欧米の土地を踏んで來た人に見せても决して耻かしくない。
 将来屹度繁昌するだらうヨ。
土地の人も、繁昌すれば火事の恐れがあると思って、
先年数萬坪の公園を作ったが、
石碑はその公園の真中にあるのだ。
 文も字も皆なおれの手際だ。
 字体は竹添など調べてくれたが、
書き慣れぬ字だから、中々骨が折れたヨ。
 石は石の巻の産だが、
こんな大きな石は決して他にないさうだ。
 特別の汽車で送つたのだが、
建立までには確かに七千人も人夫を使ったであらう。
 人間の力も集めると大しものサ。
(かくて碑面の石摺を示さる。その大さ十畳の座敷に溢る。)

 

世の中に不足といふものや、
 不平といふものが始終絶えぬのは、
一概にわるくもないヨ。
 定見深睡といふ諺がある、
これは西洋の翻訳語だが、
人間は、とにかく今日の是は、
明日の非、
明日の非は明後日の是といふ風に、
一時も体ます進歩すべきものだ。

 苟くも之で澤山といふ考でも起つたらそれは所謂深睡で、
進歩と言ふことは、
忽ち止まると戒めたのだ。

 實にこの通りで、
世の中は、平穏無事ばかりではいけない。
 少しは不平とか、
不足とか騒ぐもののある方がよいヨ。

 是れも世間進歩の一助だ。
 一個人についても、その通りだヨ。
 おれなども、終始徒らに暮らすといふことは決してない。
 併し世間の人の様に、
内閣でも乘り取らうといふ風な野心はないヨ。

 だが折角人間に生れたからは、
その義務として、臨むべき所までは進まうと思って、
始終研究して居るのサ。

 

世の中は議論ばかりでは行かない、
 実行が第一だ。
 国が乱れて来たら、誰がこの日本を背負ふだらふ。
 国が乱れると、金が入用から、
今の内に金を貯へるのが大切だヨ。
 併し除り急ると邪魔が出るから
何時松を橋ゑたか、杉を稙ゑたか、
目立ないやうに百年の大計を立てるが必要サ。

 

凡そ一家の風波といふものは、金から起るのだ。
 五六年前の相馬家だって、
もし無産の家ならば、
あんな大騷も起らなかったであらうに、
金があったが悪るかったのサ。

 舊華族の失敗は、大抵家令家扶が本になり、
新華族の失敗は、主人自から之を招くのが多いヨ。
 そこへ持て行くと、流石は徳川氏だ。
 門葉殆ど天下に遍しといふ程だけれども、
宗家をはじめ、
分家のに至るまで未だ甚しき風波のないのはまづ目出度いのサ。

 

には、すべての事が真面目で、
 本気で、そして一生懸分であったヨ。
 なかなか今の様に、首先ばかりで、
 智慧の出しくらべするのと違って居たヨ。
 何人も萬一罷り違ったら、
自分の身體を投げ出す覚悟で仕事をしたヨ。

 功労など、人のものまで自分のだといひ、
過失なら、自分のものまで人のだといふ様な事は、
流行らなかったのサ。

 

躬から手を下さずと人がするままに任し、
 自から我が功を立てすど、
人に功を立てさする程、
気楽な事はまたと天下にあるまいヨ。

 一身の榮辱を忘れ、世間の毀誉を願みなくって、
そして自から信ずら所を断行する人があるなら、
世の中では、たとへその人を大悪人といはうが、
大奸物といはうが、おれはその人にするヨ。
 
 つまり大事を仕遂げる位の人は、
却って世間からは悪くいはれるものサ。
 おれなども。
 一時は大悪人とか、大奸物とかいはれたッケ。
 併しこの間の消息が分かる人は甚だ少ないヨ。

 

死を懼(おそ)れる人間は、勿論談すに足らないけれども、


勝海舟『氷川清話』(27) 然し人間の精根には限りがあるから

2020-01-02 21:02:22 | 勝海舟

勝海舟『氷川清話』(27) 然し人間の精根には限りがあるから

然し人間の精根には限りがあるから
 餘り多く読書や學問に力を用ひると、
勢ひ實務の方には疎くなる筈だ。
 學者必すしも迂闊なのではない。
 その迂闊なのは、力が及ばないからた。

おれは何時か中村敬宇にいったことがあるヨ。
 お前等の大切にするのは、
失敬の比喩だが、
ちゃうど金箔の附いた書物を大切にすると全じだ。

 塵を着けず、下にも置かず、
随分尊重はするけれども、
さて実際の場合には、
おれほ决してお前等の教えを受けうとは思はないヨ。

 憚りながら實務のことは、
おれの見る所あるから、
必ずしも古人に法らす、
必すしも書籍に質さず、
事に應じ変に處して、
筴開いて豆墜ち、
水流れて渠成る的の作用があるのだ。
 さいった事いあったツケ。

 

先きにも話した通り、
 人には餘裕といふものが無くては、
とても大事は出來ないヨ。
 昔から兎も角も一方の大将とか、
一番の功名者とかいふ者は、
假分どんな風に見へてもその裏の方から覗いて見ると、
ちゃんと分相応に餘を備へてゐた者だヨ。

 今の人達に、この餘を持っているも
のが何處にあるか。
 人には随分澤山ある樣に見る世の中だけれども、
おれの眠には、頓と見ゑないヨ。
皆無だヨ。それを思ふと西郷が偲はれるのサ。
 彼れは常に謂っていたヨ。

『人間一人前の仕事といふものは高が知れる』といっていたヨ。

 幾ら物事に齷齪して働いても、
仕事の成就するものではいヨ。
 功名を為うと云ふ者には、
とても功名は出来ない、
 屹度戦に勝たうと云ふものには。
 
 中々勝戦は出来ない、
これ等はつまり無理かあるからいけないのだ。
 詮じつめれば、餘裕がないからの事ヨ。


 君等には見ゐないか。
大きな体をして、
小さい事に心配して、
あげくの果に煩悶して居るものが、
世の中に隨分多いではない。
駄目だヨ。

 彼等には、とても天下の大事は出來ない。
 つまり、物事を餘り大きく見るからいけないのだ。
 物事を自分の思慮の裡に畳みこむ事が出來ないから、
あの通り心配した果てが煩悶となって、
壽命も何も縮めてしまふのだ。

 全体自分が物事を呑み込まなければならないのに、
却って物事の方から呑まれてしまふから仕方がない。
 これも矢張り餘裕がないからの事だ。

 何事をするにも、無我の境に入らなければいけないヨ。
 悟道徹底の極は、唯だ無我のニ字に外ならずサ。
 幾ら禅で練り上げても、なかなかさうは行かないヨ。
 いざといふと、大低の者が紊れて仕舞ふものだヨ。

 切りむすふ太刀の下こそ地獄なれ
         踏みこみ行けば後は極樂

とは昔し劍客のいった事だ。

 歌の文句は、まづいけれど
も、
無我の妙諦は、つまり、この裡に潜んで居るのだヨ。

 餘裕、思慮、胆力などいっても、
併しこれはその人の天分だヨ。
 天分といふものは、争はれないものだ。

 おれも十七、十八、十九、
血氣盛りのこの三年の間、
撃劍の修業を爲た時に、
いろいろ禅で錬って見たがの、
おれの修業は、大役に立った。

 

人間の元氣を減らすのに、
 一番力のあるものは、内輪の世話や心配だ。
 外部の困難なら、
大抵な人が辛棒もするし、
また之が爲にますます、
元気が出るといふこともあるが、
親兄弟とか妻子かいふやうな内部の世話には、
みんな元気を無くしてしまふものた。

 どんな大悪人でも、
恩愛の情には流石に脆いもので、
この情とふ雨露に打たれるさ、
忽ち元気が袞へて、
善人になりかはるものが多い。
 そしてこれが凡て年齢の加減に関わる様た。

 五十で善人、六十で菩薩、
こゝらがまあ人間一生の段階だ。

 おれでも若し親や妻子が無かったら、
今頃は強盗の頭にでもたって居っかも知れないよ。

 人間は年が寄ると駄目だ。
 やれ伜が何うの、やれ孫がかうのと、
始終是等の妄念に駆られるから、
忽ち耄碌してしまふ此虐の工夫は、
餘程六つかしいもので、
何人も胸に少の塵もなく、
淡然として世を波るといふことは出來難い。

 若いものも仝樣だ。
やれ物知りになりたいとか、
やれ名譽を得たいとか、
始終色々の妄念にられて居る。
この點に至っては、年寄も若い者も同じことだ。

 

 人間の事業も實に淺はかなもので、
その人が死ぬると共に、
その事業も世間から忘られてしまふの
が多い。

 彼の百年論定るといふ人は、滅多にありはしない。
 殊に今日の人は、皆な眼前の事ばかりに齷齪して、
百年は愚か十年の計を立てる人さへない。
 そんな事で何うして千古不滅の大業を仕遂げることが出來うか。

 

困苦艱難に際會すると、
 誰でもここが大切の開門だと思って、
一生懸分になるけれど、これが一番の毒だ。

 世間に始格有勝ちの困難が、
一々頭腦に徹へるやうでは、
兎ても大事業は出來ない。
 ここは支那流義に平気で澄まし込むだけの餘裕がなくてはいけない。
 さう一懸命になっては、兎ても根気が績かん。
 世路の險悪観來って坦坦たる大道の如くなる錬磨と餘裕が肝要だ。

 

 人間は、難局に當ってびくとも動かぬ度胸が無くては、
さても大事を負擔することは出来ない。

 今の奴等は、動もすれば、智慧を以て、
一時逃れに難関を切り抜けうとするけれども、
智慧には尽きる時があるから、
それは到底無益だ。

 今の奴等は、あまり柔弱でいけない。
 冬が來ればやれ避寒だとか、
夏が來ればやれ避署だとか騒ぎまはるが。
 まだ若いのに贅沢過ぎるヨ。

 昔しにはこの位の暑さや寒さに避易する様な人問はなかったヨ。
 そんな意気地なしが何で国事改良など出來るか。

 

昔の人は根気が強くて確かであつた。
 免職などが怖くてびくびくする様な奴は居なかった、
その代り、もし免職の理由が不面目のことであったら、
潔く割腹して罪を謝する。
 决して今の奴のやうに○○(2文字不明)としては居ない。

 もしまた自分の遣り方がよいと信じたなら、
免職せられた後までも十分責任を負ふ、

後は野となれ山となれ主義のものは居なかった。
 またその根気の強いことといったら日蓮や頼朝や秀吉を見ても分かる。
 彼等はどうしても弱らない、
どんな難局をでも切りぬける。

 然るに今の奴等はその根気の弱いこと、
その魂のすわらぬこと、
寳に驚く入るばかりだ。
 而もその癖、いや君国の為とか何の為とか、
太平楽を並べて居るが、あれはた、口先ばかりだ。

 何時かおれが作った詩がある。
   世事都児戯  閉戸独黙思
   濛々六合裏  独對舊山河

 先日もある役人が來たから、
おれはお前ももう止めては何うだといったら、
これも国家の為めだから・・・いやいやながら、
止す訳にいかないといった。

 そこでおれは、
それはいけない、
みづから欺くにも程がある。

 昔にも、
お家の為だから生きるとか死るとか騒ぐ奴がよくあったが、
それは皆自負心だ。

 己愡だ。己惚を除けれは、
国家の為に盡すといふ正味の処は少しもないのだ。
 それ故にもしそんな自負心が起った時には、
おれは必死になって之を押へつけた。

 維新の際にも、
大鳥とか榎本とかいふ英物は、
例のお家の為だといって箱館の方へ逃げて行ったが、
おれは、愚物は到底話をしても分らず。

 英物は自から悟る時があるだらう思って打ちゃって置いた。
 所が、彼等は果して後悔する時が來た。

 お前も今日政府の役人であるから、
天晴れ国家の為に尽して居るのだと己愡れて居るが、
試にその己惚を除けて平気に考へて見るがよい。

 車夫や馬丁がその主人に仕へる外に、
なほ国家に尽す所があるとすれば、
お前のはそれに較べて何うだらうと、
いって聞かせたら、
お役人殿、成る程と感服して行ったヨ。

 

人は誰でも、自省自修の工夫が大切だ

 全林政治の善悪は、
みんを人に在るので、
決して法にあるのではない。

 それから人物が出なければ、
世の中は到底治まらない。

 併し人物は、勝手に拵へうといっても、
それは行けない。
 世間では、よく人材養成なとさいって居るが、
神武天皇以來、
果して誰が英雄を拵へ上げたか。

 誰が豪傑を作出したか。
 人材といふものが、
さう勝手に製造せられるものなら造作はないが、
世の中の事は、
さうはいかない、
人物になると、
ならないとのとは、
畢竟自己の修養如何にあるのだ。

 夬して他人の世話によるものではない。
試みに野菜を植ゑ手見なさい。

 それは肥をすれば、
一尺位づつは揃って生長する。
 併しながら、
それ以上に生長させることは、
幾ら肥をしたって駄目だ。

 つまり野菜は、
野菜だけしか生長することが出來ないのさ。
 文部省がやる仕事も、
大抵功能は知れて居る。

 近頃或る若いものが遣って來て。
 『私は財産もなし、
門地も賤しいから、
自分獨りで豪傑のつもりになって居ます。』といふから、
 おれは心して、
『その積りで十年も遣れ。』といって励まして置いたよ。

 

世の中に無神経ほど強いものはない。
 あの庭前の蟐蛉を御覧。
 尻尾を切って放しても、
平気で飛んで行くではないか。
 おれななどもまあ蜥蛉くらゐの處で、
とても人間の仲間入は出來ないかも知れない。

 無に神経を使って、矢鱈に世間の事を苦に病み、
朝から晩まで頼みもしいことに走して、
それが為に頭が禿げ鬚(ヒゲ、あごひげ)が白くなってまだ年も取らないのに
耄碌してしまふといふやうな憂国家とかいふものには、
おれなどはとてもなれない。
 

 凡そ仕事をあせるものに、
大事業が出家たといふ例がない。

 こせこせと働きさへすれば、
儲かるなどといふのは、
日傭人足や、素町人や、土百姓のことだ。

 天下の大事が、そんなけちな了見で出來るものか。

誰でも責任をおはせられなければ、
 仕事の出來るものではない。
 おれが維新の際に、
江戸域引渡し
の談判をしたのも、
つまり將軍家から至大の権力を興へられ、
維新の責任を負はせられので、
思ふ存分手を振ふことが出来たから、
あの通り事もなく済んだのだ。

 それに官軍の参謀は、
例の老西郷であったから、
ちゃんとおれの腹を見ぬいて居てくれたので、
大きによかった。

 全体、これは別の話だが、
敵に味方あり味方に敵ありといつって、
互いに腹を知りあった日には、
敵味方の別はないので、
所謂肝胆相照らすちとはつまり此処のことだ。

 明治十年の役の時に、
岩倉公が、三條公の旨を受けて、
おれに『西郷がこの度鹿見島で兵を挙げたについては、
お前急いて鹿見島ヘ下向し、
西郷に説諭して、早く兵を鎭めて來い』といはれた。

 そこで、おれは、
『當路の人さへ大決断をなさるなら、
私は直ぐに鹿見島へ行って、
十分使命を果たして御覧に人れませう。』といったら、
岩倉公は『お前の大決断といふのは、
大方 大久保と木戸とを免職しろといふことであらう。』いはれたから、
おれは『如何にも左樣で御座る。』といったら、
『それは難題に。大久保と木戸とは、国家の柱石だから、
この二人は、どうしても免職するこざは出來ない。』といはれたので
『それでは折角の御命令であのるけれども、
とてもお受けを致すことが出來ない。』といって、
おれは断ってしまった。

 処が後で聞けば、
この時鹿児島では桐野が旗挙げのことが政府へ知れたら、
『今に勝麟が誰かの密旨を受けて、やって來るであらう』と西鄕に話したら、
西郷は『馬鹿をいへ、勝が出掛けてくるものか。』といって笑ったさうだ。

 どうだ、西郷はこの通りちゃんとおれの胸を見ぬ居たのだ。
 最早二十年の昔話であるけれど、
是等が所謂真正の肝胆相照らすといふことの好適例だ。

おれが長崎に居た頃に、教師から教へられ事がある
 それは時間さへあれば、
市中を散歩して、
何事なく見覚へて置け、
何時かは必ず用がある。

 医學をする人は勿論、政事家にも、
之れは大切な事だ。
 と斯ふ教へられたのだ。

 そこで、おれは調練の暇さへあると、
必ず長崎の市中をぶらついた。
 ステッキの頭へ磁石をつけて、
これで方角を取っては歩いた。

 それだから、
勿論今日では全く変わってるだらうけれど、
その頃米屋が何處の横町にあるとか、
豆腐屋が何處の角にあるとかいふことまで、
ちゃんとおれは番呑み込んで居たよ。

 この時の事が習慣になって、その後何處へ行っても、
暇さへあれば獨りでぶらついた。
 それ故、東京の市中でも大抵知らない處はない。

 日本橋、京橋の目貫の處、
芝や下谷の貧民窟、
本所、深川の場末まで、
ちゃんと知って居る。
 そしてこれが維新前後に非常の爲めになつたのだ。

 

後進の青年を導くにはなるべく卑屈にせぬ様、
 氣ぐらいを高尚に持っ様にして遣らねばいけない。
 おれが役をして居た時に、
會て十名ばかりの従者と共に同じやうに粗末な小倉袴の扮装(いでたち)で、佐久間象山を訪ねたら、
先生玄関まで出迎へて、
貴下の仕度は餘りではないか從者同し身なりではお役目に対して済むまいがといふから、
拙者の從者をさう輕く見られるけれど、
彼等は皆天下の書生である。

 今でこそ、あなたも先生だけれど、
元は矢張り彼等同じ書生であった。

 数育によっては、
彼等も或いは他日あなたの様に出世するかも知れない。
 故に拙者は、彼等を兄弟として待遇して居るので、
決して全くの従者と思っては居ない。

 といったら彼れも到頭うなづいたが、
象山は、まあこんな風に一体が厳格な今であった。

 併し、この厳格があまり度を過しのが禍となって、
あまり小言をいひ過ぎたあげくに、
河上彦斎に刺された。

 この玄齋といふ男は、
実に險呑な人物で、
おれもたびたび用心せよと人から忠告せられたことがあつたが、
象山を刺したのも、
つまり幕府が當時俄に浪人を捕縛したのは、
象山の計らひに相違ないと疑ったのが原因だ。

 

丁度この浪人捕縛の時であったが。
 おれの家に居た吉太郎といふ男は、
逃げるのは耻ださいって、
門の前で腹を切って死んでしまった。

 昔の人は、皆元気なものサ。
 もし逃げたとか、裏切したとか、
いふ奴があるなら、
他から指をさされない前に、
ちゃんと仲間の者で畳んでしまふか、
さもなければ、
金を附けて田舍の豪家へでも隠して置いて、
時を見て再び連れて帰るのが例だ。

 今の奴等が、逃げても負けても耻とも思はず、
虚言をついても、裏切をしても、一向平気で、
それで以て有志者だとか政治家だとか威張って居るのみか、
世間の者も之を咎めないのは、
實に呆れてしまうヨ。

 どうしてこんなに人間が意気地なくなったか知らん。

 何でも人間は乾皃のない方が善いのだ。見なさい。
 西郷も乾皃のために骨を秋風に曝したではないか。

 己れの目で見ると、
大隈も板垣も始終自分の定見をやり通すことが出来ないで、
乾皃に担ぎ上げられて、殆ど身動きも出来ないではないか。

 凡そ天上に乾皃のないものは、
恐らくこの勝安芳一人だらうよ。
 それだから、おれは、
起きやうが、
寝やうが、
喋らうが、
黙らうが、
自由自在気随気儘だヨ。

 

由比正雪でも西郷南州でも、自分の仕事が成就せぬといふことは


勝海舟『氷川清話』(26) おれの処へは、幇間や、遊人や、藝人が沢山やって来る

2020-01-02 20:38:36 | 勝海舟

勝海舟『氷川清話』(26)
   おれの処へは、幇間や、遊人や、藝人が沢山やって来る



おれの処へは、

 幇間や、遊人や、藝人が沢山やって来るヨ。
 藝人などが沢山来るヨ。
無心で熟慮した結果、一道の悟りを得たものが多い。
併し自分では、その事を覺ゐないけれども、
おれがそれを推して説明して聞かすと、
彼等は何れも驚いて、おれをひどく 烱眼だといふヨ。
 近頃の人は、皆自分でゑらがり、
議論ばかりしてうるさくて仕方がない。
それゆゑ、理屈を書いたものをむと癇癪に障るから、
ただ人情本や、古書などを読んでゐるヨ。
 何時か作った文がある。

   先哲の書を見る詞

 元和偃武以來國内の趨勢漸く文化に向ひ、豪傑英俊の士等文學に從事す。
 元祿前後に到て、殊に傑出の輩不少。
或は經綸の才誠を具せし者、或は高踏超几なる者、
或は往昔の古調を脩むる者、或は印度の古義を明解する者、
共他みな不撓の精神を以て、
其道を自得し、有為の學者たるは不耻。
我が殊に賞賛數輩、今にしてその人不可見といへども、
其の手譯の存する者あるを以て、幽爵無聊の時に於てて展覧、
古人の境遇如何を追懐すれば、不言中胸懐の快然たるを覺ゆる也、

 

(明治三十一年)の七月であつたか餘り久しく雨が降らなかったから、
おれはかういふ歌を詠んで、三圍(みめぐり)の神へ奉納させた所が、
丁度その日雨が降ったよ。
實に不思議ではないか。
おれの歌も天地を助かし鬼神を哭かしむる程の妙がある。
小野小町や實井其角にも決して負けない。

 七月十九日より雨なく暑さ烈しけれは詠みて奉る 
                        物部安芳
 三圍の社に續くひわれ田を
        神はあはれど見そなはさすや

 歌詞などはまづくっても、誠さへあれは、鬼神は感動するよ。
今の世の中は、實にこの誠といふものが欠けて居る。
政治とか経済とかいつて騷いで居る連中も、
真に国家を憂ふるの誠から出たものは少ない。


 多くは私の利益や、名誉を求める為めだ。
 世間のものは勝の老ばれめがといって嘲るか知らないが、
実際おれは国家の前途を憂へるよ。

 

おれは何時もつらつら思ふのだ、
 凡そ世の中に歴史といふものほど六ケしいことない。
 元来人間智慧は未来の事まで見透すことが出來ないから、
過去のことを書いに歴史といふものに鑒(=鑑)みて將來をも推測せいといふのだが、
然る所この肝腎の歴史が容易に信用せられないとは、
実に困った次第ではないか、
見なさい、幕府が倒れてからかに三十年しか經たないのに、
この幕末の歴史をすら完全に伝えるものが一人もないではないか。

 それは當時の有様を目撃した故老も未だ生きて居るだらう。
併しながら、さういふ先生は、
大抵當時にあってでさへ、
局面の内外表裏が理解なかった連中だ。
それがどうして三十年の後からその頃の事情を書き伝へることが出来やうか。

 況やこれが今から十年も貳十年も経て、
その故老までが死んでしまった日には、
どんな誤りを後生に伝得へるかも知れない。
歴史と云ふものは、實に六ケしいものさ 

  * * * * * 

書生だの浪人だのと云ふ連中は、
 昔から絶えず己れの所へやって来るが、
時には五月蠅いと思ふこともあるけれど、
併しよく考へて見ると、
彼等が無用意に話す言葉の内には社会の形況や、
時勢の変遷が、自然に解って、
なかなか味ふべきことがあるよ。
 匹夫匹婦の言も、
虚心平気で之を聞けば皆天籟だ。

 

若い時の遣り損ひは、
 大概色慾から来るので孔子も『之を戒むること色に在り。』と云はれたが、
實にその通だ。
  併し乍ら、若い時には、この色慾を無理に抑へやうとしたって、
それはなかなか抑へ付けられるものではない。

 處が又、若い時分に一番盛んなのは、功名心であるから、
この功名心と云ふ火の手を利用して、
一方の色慾を焼き尽すことが出来れば甚だ妙だ、
そこで、情慾が盛に発動して来た時に、
ぢつと気を静めて、英雄豪傑の伝を見る。

 さうすると何時の間にやら、
段々功名心は驅られて、
専心一意、外の事は考へないやうになって来る。
かうなって来れば、もらしめたものだ。
 今の書生連中も、試みに遣って見るが善い。
 决して損はないよ。

 

昔し本府に、
 きせん院といふ一個の行者があって。
 其の頃流行した富籤の祈祷がよく云ふので、
非常な評判であつたが、己れの老父が。
 夫れと親しかったものだから、
おれも度々行ったとがある。
處で越前守が出て来て、
矢ケ間敷富などの取締をせられてからは忽ら、
流行らなくなつた。

 

 それから段々とおちぶれて、
後には汚い長屋に住んで居たが、
誰れも末路といふものは、
憐れなもので気の毒だから、
昔ななじみのものは時々野菜などを持って行ってやった。

 

 この行者も元は中々のもので、
肉食妻帯は愚か、
間男なんか平気なもんで、
一種太い所を持って居たが。
斯う落魄してからは、
身體も氣分も段々と弱り込んで来た。

 或る日のこと。
 己れは例の如く何か持って見舞ひに行ったが、
彼れはおれに向ひ、
『貴下は末だ若いが、
中々根気が強くって末頼母しい方だによって、
私が一言御話をして置さますから、
是非覚えて居て下さい。
必ず思ひ當ることがあります。

 一体私の祈祷が當らなくなつたに就いては、二つ理由があります。
 一つの理由は、或日一人の婦人が、富籤の祈祷を頼みに遣って來ました。
 所がそれが素敵な美人であったから、
覺ゑ煩悩驅られて、それを口き落し、
それから祈祷をして遺りました。

  所が四五日すると、其祈祷に効驗があって、
當籤をしたといって禮に来ましれから、
それ口説き掛けると彼の美人は恐ろしい眼で睨み附け、
『亭主のある身で不義を事をしたのも、
亭主に富籤を取らせたい切な心があつたばかりだ。
それに又候不義を仕掛けるなどとは、
不屈千万な坊主めが。』と叱った。

 その眼玉と叱声とがしみじみ、身にこたへた。

 それから今一つは、
難行苦行をする身であるから、
常に何か生分のある物を喰って、慈養を取って居ましたが、
或る日の事、両国で大きなすっぽんを買って來た。

 所が誰も怖がって料理をする者がないから、
私が自分で料理をせうすると、
彼のすっぽんめが首を持ち上げて、
大きな眠王をして私を睨んだ、
私はなー!と云ひつつ、
首を打ち落して料理して喰って見たが、
併し何となく気にかかつた。

 此の二つの事が、始終私の気にかかつて居て、
祈祷も何時となく次第に當らなくなつたのです。
 夫れと云って、
何も此の二つが『たたるいふ訳でもあるまいが、
つまり自分の心に咎める所があれば、
何時なく気が緩んで来る。
すると鬼神と共に働く所の至誠が乏しくなって來るのです。
そこで、人間は平生踏む処の筋が大切ですよ。』と云って聞かせた。

 

 是の話を聞いて、己れも豁然として悟る所があら、
爾来今日に至るまで、常に此心得を失はなかった。
全体己れがこの歳をして居りながら、
身心共にまだ壯健であるといふのも、
畢竟自分の経歴に顧みて、
聊かたりとも人間の筋道を路み違へた覺ゑがなく、
胸中に始終此の強味があるからだ。
此の一個の行者こそ、
おれが一生の御師匠樣だ。

 

人間長壽の法と云ふも外にはない。
 俗物には、伏食を摂して、
適度の運動を務めなさいと云へば、それで善いが、
併し大人物にはさうはいかない。
見なさい、己れなどは何程寒くっても、
こんな薄つべらな着物を着て、
こんな煎餅のやうな蒲団の上に坐わって居るばかりで。

 別段運動と云ふことをするでもない、
それでも気血は、
ちゃんと規則正しく循環して若い者も及ばない程達者ではないか、
さあ此所が所誚思慮の転換法といふもので、
即ち養生の第一義である。

 詰り綽々たる餘裕を存して、物事に執着せす拘泥せず、
圓轉豁達の妙境に入りさへすれば、
運動も食物もあったものではないのさ。

何にしろ人間は、身体壮健でなくてはいけない。
 精神の勇ましいのと、根気の強いのとは、
天下の仕事をする上にどうしてもなくてはならないものだ。
 そして身体が弱ければ、此の精神と此の根気とを有することが出來ない。
つまり此の二つのものは大丈夫の身体でなければ宿らないのだ。

 処が日本人は、五十になると、
もうぢきに隠居だとか何だとか云って、
世の中を逃げ去る考を起すが、
どうもあれでは仕方がないではないか。

 

 併し島国の人間は、何所も同じことで、
兎に角其の日のことよりほかは、
目が付かなくなって、
五年十年の先きはまるで黒暗同様だ。

それも畢竟、局量が狹くって、
思量に餘裕がないからのことだよ。

 もしこの餘裕といふものさへあったなら、
仮令五十になっても六十になっても、
まだ勿々血氣の若武者であるから、
此の面白い世の中を逃げるなどと云ふやうな、
考へなどは决して出ないものだ。

 それであるから、昔の武士は、
身体を鍛へることには、餘程骨を折ったものだよ。
 弓馬槍劍、扨は柔術などと云って、
色々の武武芸を修業して鍛へたものだから、
そこで己のやうに年は取っても身体が衰へず、
精神も根氛もなかなか今の人たちの及ぶ所でないのだ。

 

尤も昔の武士は、こんなに身体を鍛へることには、
 余程骨を折ったが、併し學間はその割にはしなかったよ。
それだから、今の人のやうに、
小理窟を云ふものは居なかったけれども、
その代り、一旦国家に観九急あるは、
命を君の御馬前に奉げることなどは平生ちゃんと承知して居たよ。

所謂君辱しめらるれば、臣死といふ教えが、
深く頭の中に染み込んで居たから、いざといふ場合になると、
腹一文字は搔き切ることを何とも思わなかったのだ。

 然るに、學問に疑り魄まって居る今の人は、
聲ばかりは無暗に大きくて、
胆玉の小さきことは実に豆の如しで、
成張りには成張るけれども、
まさかの場合に役に立つものは始ん稀だ。
 みんな縮み込んで了ふ先生ばかりだよ。

 

全体何事によらず氣合云ふことが大切だ。
 この呼吸さへよくみ込んで居れば、
仮令死生の間に出入しても、决して迷ふことはない、
併し是れは單に文字の學問では出來ない。

 王陽明の所謂事上磨練、即ち屢々萬死一生の困難を經て始めて解る。
 戦争などは、何よりよい磨練だ。

 この氣を制するどいふことはゑらいもので、
例へば関ケ原の戦争を御覧、
三成もなかなかの英物で、志麻といふ参謀が扣へて居り、
其の上、将校にも東軍に譲らない程の豪傑が揃て居った。

 それで遂に勝たなかったといいふのはつまり家康に其の気合を制せられて、
頭から呑み込まれて了って居たからである。

 また、明智左馬之介といふ男は、實にとらい人物で、
本能寺の變の時、流石の光秀も最初は幾らか遅疑逡巡する所があって、
腹心の者二三を集めて議をした。
 するご左馬之介は、
『評議も何もない、明日直ぐにやるがよい。』と云った。
 此の一言で、光秀も直ちに决心しのだが、
時の英雄信長が、光秀に遣られたのも、ただ此の決断の力だ。 

 所で気合と呼吸といっても、
口ではいはれないが、凡そう世間の事には、
自づから順潮ど逆潮とがある。
 随って気合も、人にかかってる時と、
自分にかかって來る時とがある。

 そこで、気合が人にかかったと見たら、
すらりと横にかはすのだ。
 もし自分にかかって來たら、
油新なくづんづん推して行くのだ。
 併し此の呼吸が、所謂活學問で、
とても書物や口頭の理窟ではわからない。

 

活學問にも種々仕方があるが、
 まづ横に寢て居て、自分のこれまでの經歴を顧み、
之を古来の實例に照して、
徐かにその利害得失を講究するのが一番近路だ。

 さうすれば、屹度何萬の書を讀破するにも勝る功能があるに相違ない。
 區々たる小理窟は、
誰れか學者先生を執へて一寸聞けばすぐ解るこどだ。
 箇中の妙味は、又一種格別のもので、
おれの學間と云ふのは、大概此寢學問だ。

 然し俗物には、この並味が解らないて、
理窟づめに世の中の事を處置せうきするから、
何時も失敗の仕績けで、
さうして後では大騷ぎをして居る。

 實に馬鹿気た話ではないか。
 己れなどは、理窟以上の所謂呼吸といふものでやるから、
容昜に失敗もせね、
 
萵一さういふ逆鏡にでも陥った場合には、
じっと騒がずに寢ころんで居て、
又後の機曾が來るのを待って居る。

 そしてその機曾が來たならば、
透さずそれを執まへて、
事に應じ物に接して之を活用するのだ。
 つまり、是が真箇の學間と云ふものさ。

人は何事によらず、

 胸の中から忘れ切るといふことが出來ないで、
始絡それが気にかかるといふやうでは
勿々溜まったものではない。
 所謂座忘とって、何事も総て忘れて了って、
胸中濶然して一物を留めざる境界に至って、
始めて萬事萬境に應じて、
横縦自在の判断が出るのだ。

 然るに始終気掛りになるものがあって、
あれの、これのと、心配ばかりして居ては、
自然と気が餒ゑ神が疲れて、
とても電光石火に起り來る事物の応接は出來ない。

 全躰、事の起らない前から、ああせうのと、
かうせうのと心配する程馬鹿気た話はない、
時と場合に応じてそれぞれの思慮分別は出るものだ。

 第一自分の身の上に就いて考へて見るがよい。
 誰でも始め立てた方針通りに、
きちんとゆく事ことなどが出來るか、
出来れば楽はしない。

 元來人間は、明日の事さへ解らないと云ふではないか。

 それに十年も五十年も先きの事を、
畫一の方針でもって遣らうと云ふのは、
抑も間違の骨頂だ。

 それであるから、
人間に必要なのは平生の工夫で精神の修養といふことが何より大切だ。
 所謂心を明鏡止水の如く磨き澄まして置きさへすれば、
何時如何なる事が襲うて來ても、
其れに処する方法は、
自然と胸に浮んで来る、
所謂物来りて順應するのだ。

 おれは昔から此の流義で以て、
種々の難局を切り抜けて来たのだ。 

 それ故に人は、平生の修行さへ積んで置けば、
事に臨んで决して不覚を取るものでない。
 劍術の奥意に達した人は、
決して人に斬られることがないと云ふことは、
さきにも云った宮本武蔵の話しにて合點であらうが、
實にその通りだ。
 己れも昔し親父から此の事を聞いて、
窃かに物かに疑って居たが戊辰の前後、
屢々萬死の途に出入して、
始めての此の呼吸が解った。
 かの廣島や品川の談判も、
必竟此の不用意の用で遣り通したのさ。

それから又、世に處するには、
 何んな難事に出っても臆病ではいけない。
 さあ何程でも来い。
 己れの身躰が、
ねぢれるならば、ねぢって見ろ、と云ふ了簡で、
事を捌いて行く時は、
難事が到來すればする程面白味がいて居て、
物事は雑作もなく落着して了ふものだ。
 何んでも大胆に、無用意に、打ちかからなければいけない。

 どうせうか、かうせうか、
と思案してかかる日には、もういけない。
 六ケしからうが、昜からうが、そんな事は考へずに、
所謂無我といふ境地に入って無用意で打ちかって行くのだ。
 もし成功しなければ、成功する所まで働き続けて、
决して間があってはいけない、
世の中の人は、大抵事業の成功するまでに、
はや気が尽きて疲れて了ふから、
大事が出来ないのだ。


 

根気が強ければ
 敵も逐には閉口して、味方になって仕舞ふものだ。
確乎たる方針を立て、
决然たる自信によって、
知己を千載の下に求める覚悟で進んで行けば、
何時かは、わが赤心の貫徹する機会が来て、
從來敵視して居た人の中にも、
互に肝胆を吐露しあふ程の知巳が出來るものだ。
 区々たる世間の毀貶を気に懸けるやうでは、到底仕方がない。

 其処へ行くと、西鄕などは、どれ程大きかったか分らない。
高輪の一談引で、おれの意見を通してくれたのみならす、
江戸鎮撫の大任までを一切おれに任せておいて少しも疑はない。
 その外六ケしい事件でも持ち上がると、
直ぐにおれの処へ負せかけて、
勝さんが萬事くはしいから、
宜しく頼みますなどと澄まし込んで、
咋日まで敵味方であったといふ考は、
何へか忘れでしまったやうだつた。

 その度胸の大きいには、おれもほどほど感心したよ。
あんな人物に出曾ふと、
大抵なものが、知らす識らずその人に使はれてしまふものだ。
 小刀細工や、口頭の小理窟では、
世の中はどうしても承知しない。

 

然し人間の精根には限りがあるから