goo blog サービス終了のお知らせ 

日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』第六扁 近代のユダヤ運動 第四章 墺匈国革命と猶太

2025-04-14 11:54:26 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン


 四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』
 

 

第四章 墺匈国革命と猶太

〔オーストロ・ハンガリヤは世界第三位のユダヤ人國〕
 1918年10月24日以後墺太利は全然敗退して其軍隊は崩壊を急いだ。 
 
 墺國内のチェッコ・スロワーキヤはその民族指者ユダヤ系マサリック博士がウイルソン大統領の良友で、
1918年1月8日ウイルソンの發した有名な十四ケ條の起案はマッサリック博士に負ふ所多しと稱せらるも程であるから、
同地方が逸早く平和提議に耳を貸し、
要すれはデモクラシー實実の爲革命に訴ふるの心構へを生ずるは自然である。

   

 又墺牙利に於いてユダヤ人多数を擁し、フリーメーソンも相當發達してゐるのであるから、
茲に革命の芽さしの現はれるも善く判る。


 その運動に就いて是年一人を指摘せなければならのは伯爵カーロリである。

 ユダヤの狙ひは
最初はブールジョア革命で行くが、國柄から言ふて貴族の中にユダヤの傀儡となれる人を求め、
之をおだて蹶起させ、之に権力を附けて革命に持って行かせることとし、
其の光榮ある選に當ったのがカーロリ伯爵である。

 伯爵は名門ではあるが、餘り頭は善くない。そしてユダヤ人の言ふ所に善く共鳴した。 

 それで伯爵の応接間は何時もユダヤ人の種子切れになった事が無いと評され位、親猶的であった。

〔伯爵カーロリが猶太の傀儡で新體制熱心〕 
 前述ウイルソンの十四ケ條に刺激されて、
革命の準備なり皇帝カロルに退位を迫る運動に取り掛かっることになった時、
其の實行係となり首都ウインに乗り込む役割はカーロイ伯
 (註 カーロイと書くがカーロリと記す)が引受けることになった。


 1918年10月26日彼伯爵は皇帝に謁を賜はり、
世界の情勢と墺太利の實情とを申し上げて退位を要請したが、
聞き入る所とならず、空しくブタペストに引き揚げた。


 列車が停車場に着く前、ハンガリヤの革命黨は、
予め豚や牛の血をバケツに入れ、自旗と共に駅前に携携へ、楽隊を併べて伯爵を待受けた。
     
 伯爵が列車から下りて来て、談判は不調に終わった時の予ての合図を待ち受けた。
革命黨員にするとソレと云ふて革命黨員は白旗をバケツの中に浸し、
伯爵を迎へるに佛國の歌マルセイエーズを奏でせしめ、
始めの部分の “流血の旗は立てられたり” と云ふ文句の所で、
文字通り鮮血淋漓たる赤旗をバケツの中から引き出して、之を掲揚した。


 10月30日ハンガリヤ革命黨の勝利に帰し、その数日後にはウインに於て協和政體が宣言された。

 カーロリ伯等の實行した革命はロシヤの三月革命に比較すべき桃色革命、政治革命であって、
到底ロシヤ人等の考へて居る赤色革命の企図を満足せしめるものでは無かつた。

 果然5カ月を間して本格的革命が行はれた。
今度は仮面を剥いでユダヤ人自身がに立って現れた。

 即ち翌年3月21日、ソヴエートロシヤで體験を重ねたユダヤ人べラ・クーン一派の共産黨員が
墺太利に政權を執り第二革命を實行した。

   

 當時カーロリ伯爵が辭職の宣言を書くべき處、
青年ユダヤ人ケケリとクンフイの2名が執筆し、之に処刑を求めると、伯は自ら筆を執らなかったが、
伯の秘書のユダヤ人シモニーとオスカーが居て、シモニーの方が伯に代って署名をした。



〔ユダヤ人ベラ・クーン等赤色革命に乗り込む〕
 ケリとクンフイの両ユダヤ人がその家を離れた頃、
伯は思い直し辭食宣言を撤回すると言ひ出したが、
此時遅し宣言書は既にラジオを以て全世界に放送されて仕まった。
一時間経つとレーニンの友ベラ・クーンび其の友人が愈獄中から出て来た。


 ベラ・クーンと言ふユダヤ人は戰争前には無名の新聞記者で、
頭の丸い、坊ャ頭で耳が廣く、先きが尖り、
眼は太きく飛び出しそうで、
唇は厚く、口は大きく裂け、
顎は無い様な形で蜥に似た人相であったと傳へられる。
カーロリ伯が臨時政府を造って数週間後に、べラ・クーンは少佐と称して首府に乗り込んできたのであった。


 彼はハンガリー・ソヴェートを作ると、
前の官吏達は唯戰争の終息と秩序の恢復を望むだけで、
将来の政治を如何にするかを考へる余裕は無かった連中であるから、
其等官吏やプールジョアは何等の抵抗を試みることなく、べラ・クーンの獨裁に服した。


 ベラ・クーンは大きな土地は國有にし、
生産物は生産組合の手によって處分せるべきものとの規定を出した。
性教育などに力を用ゐ、三四ケ月の間に首府には処女なるものは無くなったと取沙汰される迄に亂脉となった。


 反革命運動は起り、外國からの封鎖も行はれ、
農民の怠業も始まって益々生産の減退を来し、
遂に八月始め首府はルーマニア軍に占無され、
べラ・クーン等は辞職し僅か5ヶ月足らすにハンガリアを荒らして國外逃走の止むなきに至った。
 (
カン・イスラエル、エ・ロア105~198頁参照) 

 このベラ・クーンは数年前西班牙革命の渦中に於て活躍したと傳ヘられる。
フランコ政權確立後又々逃走したことであらうが、
旅券偽造に巧なる彼一味のことなれば、避難ユダヤに混入して日本に渡来しあらざれば幸である。




この記事についてブログを書く
« 四王天延孝著『ユダヤ思想及... | トップ | 四王天信孝著『ユダヤ思想及... »
最新の画像もっと見る

英帝国ユダヤ・フリーメイソン」カテゴリの最新記事