
四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』
第六篇 近代のユダヤ運動
第三章 ロシヤ革命と猶太(その1)
露人革命に適せず
・・・・・・ロシア区域にユダヤ人居住区限定の必要
・・・・・・那翁一世も反ユダヤ勅令を發布
・・・・・・チンメルワルト會議
・・・・・・キンタール會議
・・・・・・露國に於けるユダヤ人アルール・トーマの活躍
・・・・・・露國殊に波蘭地方におけるユダヤの苦難
・・・・・・ブンドの通告
・・・・・・米國のユダヤデー
・・・・・・イスラエルサングウイルの米國ユダヤへの飛檄
・・・・・・米国ユダヤ・コングレスの回答
・・・・・・日本公債応募者シツフ再びロシア革命に盡力
・・・・・・革命直前の状況
・・・・・・革命勃發
・・・・・・ユダヤ人トーマの満悦
・・・・・・ケレンスキー支持
・・・・・・十一月革命では新政府の官吏よの82%がユダヤ人
・・・・・・ユダヤ人の凱歌
・・・・・・存続への努力
・・・・・・オムスク政府の崩壊とユダヤ
・・・・・・デニキン軍の敗戦とユダヤ
・・・・・・ユダヤ言論機関の悲鳴
〔露人革命に適せず〕
前章に述べた所によって、
日露戦爭前からユダヤ、フリーメーソンはロシア革命に狂奔し
日露戰爭最中に其の第一矢を放った事を理解せられらと思ふ。
ロシアには昔から幾度か反乱はあったが、大事に至らなかった。
それは一體純ロシア人は革命と云ふ事には不向きであった。
それは教育の不徹底と云ふか、知らしめざる方針によってかは別問題として
文字を解しないのが大多載であって、
日露戰争の時などは日本軍では兵卒一人一人に郷里から新聞が追走された様だが、
ロシア軍では幹部が一新聞を読むと、兵卒はその周囲に寄って之を聞くのであった。
のみならず性質は純粋のが多く、辛抱強く、諦めが宜しかった。
有名なニチエウオーと云ふ言葉があつて、
”構ひません”という意味だが凡そ一日に何回か此の言葉を發言するのであらう。
筆者が嘗て露人と一緒に馬車を驅って雪融けの道を走った時、
行き逢ひの自動車の為に泥をズボンにかけられた。
渋面を造って汚れを見守ってゐると、
傍らの露人が、ニチエウオー、暫くその儘にして置くと其の内に乾く、
其れから泥を落とすと容易におとれますぜと忠告した。
其の時考えさせられたのは、露人のこの悠長な性質こそ、
帝政の圧迫にも、過激派の暴政にも堪え、
運を天に委せ神に信心して此の世を送る憐れむべき国民哉と感じた。
であるから余程強烈な指導者がなければ革命は起こらないのである。
〔ロシア國内にユダヤ人居住区限定の必要〕
此の如き純朴なるロシア人に向ては商売は極めて容易である。
悪辣なる方法を用ゐないで出来る。
某大學の露語教授K氏は世にも稀な善良なる紳士であったが、
ロシア人相手ならば自分でも商売は出来る。
嘗て在露中相當に儲けたと述懐した。
況や生馬の眼を抜く様な商売上手であり、
且経典の公許によって如何なる方法を問はず、
他民族の財産を回収するを大命と心得るユダヤ人に取りては、
赤子の手を稔るよりも容易にロシヤ人の金を捲き揚上げるげられる。
ロシア農村より東に流れて来た露人の實際談を聞くに、
ユダヤ人に居仕の自由を評した地方では、村の中央で交通の使利の慮にユダヤ人は僅かに身を容れ、
商品の外には寝臺と食卓を置くに足る位の小店舗を開き、
日用必需の品物を考へて之を取揃へ、
而も同族の援助によって極めて安価に卸しを受け、他の店よりは格外の安売りをする。
村人は忽ち之に殺到して見る見る小店舗は発展し数年ならずして相当の成功を見て他に移動する。
中には日曜禮拜の準備の爲土曜日に蝋燭その他の買入れに行くと、
ユダヤ人は手をポケットに入れ、
今日はユダヤ教の安息日であるから仕事はせない、
必要丈特って行き、そばにある傳票に書いて置くことを講求する。
無學の農民は怪しげ筆跡で、例へは蝋燭一ダースと記入し去る。
次に勘定に行くとマア餘り小額だから纏めてと言う。
終に半歳一年になって請求を見ると
一ダースの1はいっしか6とか10に改書せられ金高は豫想外に嵩み抗議を申し入れても承知せず、
現金で拂へなけれは證書で可なりとして、金錢貸借の形式に替り、
往々現金の用立てにも応じ高利金融業者となり、
土地、不動産の抵当を要求して非猶太人の財産は加速度的にユダヤ人の手に移行する事が往々ある。
即ち帝政時代からユグヤ人には居住地域を指定し、
以て無知な農民を保護するの止むを得なかったのである云々
此はユダヤ人の露國に對する憤慨の種子であって
革命に訴へてもユダヤ人を露國の隔々まで解放せんとするに至った一原因である。
〔那翁一世も反ユダヤ勅令を發布〕
此の農民搾取の方法に那翁一世當時フランスにても略同様のことが行はれたのであって、
ナポレオン一世は1806年5月30日に勅令を出して曰く、
予の接手した報告によれば、
フランス帝國の北部諸州に於ては、ユダヤ人が高利貸を専業となし、
法外の利息を搾取蓄積して、地方の農民を困窮状態に陥れるものあり。
由て吾等は彼等ユダヤ人の不正なる貪欲の為に憐れむべき窮場に陥った農民を救済せざる可らず。
(ドリユモン著『ラ・フランスジュィーヴ』)
前述の如く露人は純朴で革命に不向きであり忍耐力が強く、
神を信じ、宗教上の権威を有する皇帝に忠實にして容易に革命宣傳に煽り立てられないから、
終に第一世界大戦當時には食糧を製造し、
筆者が實見したる革命勃発に半年以前に於て
既にパン屋の店頭に「リヤード」と稱し何百人の民衆が一列縦隊を造って長舵陣となってゐた。
ビールは飲ませず、日本の酒に比すべきウォッカも禁じ、
一面に於ては武器弾薬整備の資金も英國ユダヤ方面からの供給を中止して、不足を来し、
兵卒をして塹壕の中に立って何の爲に戦ふかを考へ出す様にさせ、
多数の宣傳員を送って軍を崩壊せしめた。
その有力なる役割を勤めたのは
1920年頃より極東共和国の外務大臣を動めたるユーリン事、
本名霧ジバルトースキーと呼ぶユダヤ人であった。
〔チンメルワルト會議〕
此の大戦間の之に至る革命準備も決してロシア國内からばかりではなく世界各國から来たのである。
先づ擧げるのは國際的の努力である。
既述の如く第二インターナショナルとしては一応大戦勃發を以て機能を失った。
何となれは各國の社會黨戰爭を是認し、軍事予算の可決に参加したからである。
併し、仔編に観察すると必ずしも然らずである。
開戦前の7月下旬露都ペトログラードに於ては同盟罷業が起った。
之に対して領袖連は窃に之を慰撫して一先づ戰爭には参加せよ、
そして吾々の仕事は後とからだと云ふて罷業を終息せしめた。
シュットガルトの決議が二段に分れ、
戰の罷業、平和運動と戦爭中の革命運動と二つを保存して居るが、
實行は正に此の如く形式を外れずに進んで居る。
1914年の5ヶ月は終り、翌年になっても社會運動的には大なる變化もなかっが、
終にその9月9日から12日に亘り、十ケ國の社會主義の大物は
瑞西の首府ベルン郊外のチンメルワルドのささやかな宿屋に人目を避けて會合することが出来た。
此の時も議論は二つに分れ、
レーニン及びその一派のものは、速やかに戰爭を中止することに努力し、
且之と同時に國内戰を開始することを民衆に通慫せねばならと主張したが、
大部分のものは、國内戦開始の可否は各國それぞれの事情に依って決せらるべきもので、
會表出席者の権眠外にあるものと第め、之に費成しなかつた。
猛烈な討論を繰り返した数貢に亘る長い決議をなし“全世界の無産者、團結せよ“で結んで居る。
右チンメルワルドの会議の宣言は期待に副う事が出来ず、
多くの国の社會民主主義は之を承認しなかつた。
そこで翌1916年2月5日から8日にかけて、瑞西の首府ベルンで會議を催し、
露、獨、墺、佛、伊等等9ケの代表が物加した。
此際もロシアからはレーニンが参加し、他の五六名は悉くユダヤ人であった。
そして第二囘の大規模な會講を召集することを決議した。
尚5月1日のメーデーを期し各國一斉に反戰示威運動を行ふ申会せを決した。
〔キンタール會議〕
第二回目のチンメルワルトを國際社會黨會議は
今度は場所を一寸變へてキーンタールで、1916年4月24日から30日まで開い。
参列代表者は40名、
ロシヤ側からは相變わらずレーニン、
ジノーウィエフ(ユダヤ)と
トロッキー(ユダヤ)
アクセルロド(ユダヤ)、
マルトフ(ユダヤ)等の剛のものであり、
フランスからはユダヤ人軍需省大臣アルベール・トーマ(後に國際聯盟の労働事務局長)などが出て、
穏健派と目せられて居た。
レーニンや獨乙のリープクネヒト等が穏健派の人々を罵った言葉の中には
“君等は裏切者だ、王の僕だ”と云ふのがある。
裏切者と云ふ言葉は誰にも判るが、王の僕だと云ふのが何故悪馬であるかは、
既に述べたユダヤの宗教の部にあるイザヤ書第六十章第十節の
「かれらの王等は汝に事へん」を想起しなければならぬ。
(日本譯の聖書にはそう譯してあるが、
他の國語に譯したものの中には、
「かれらの王等は汝の下僕とならん」とある。
即ち王がユダヤの下僕となるべきなのに、
ユダヤがいつまで王の下僕となって國家の爲に働くのは反對ではないかと云ふ悪罵である。
諸代表の試みた報告演説に依って、
労働者の反政府的運動の最も廣く進展してゐる所は獨逸であることが判った。
決議文の作成に當り極端説を唱へたのは
レーニン、
ラヂック(ユダヤ)、
ローザ・ルクセンブルク(ユダヤ女)
及彼等一味の黨友連で、
彼等は總同盟罷工とか、怠業又は武裝的叛乱と云った斷然たる手段により、
戦爭中止のために戰ふべきことを提議した。
然るに露西亞及獨乙から来た他の代表即ち敗北派メキシエウイキ等はそうした過激の手段に反対し、
唯當該地方に於ける勞働者等の承認する場合を限り同盟罷工を認容した。
若干の決議決定の後長文の宣言書を作成可決した。
宣言は表題からが、”破産せしめられ、殺戮せられつつある諸國民に與ふ。萬國の無産者團結せよ“
と云ふので戦爭を葬れとか相當強烈なる文句があって、
大分伏せ字を用ゐざるを得ない様なのであるから之を省路する。
〔露國に於けるユダヤ人アルベル・トーマの活躍〕
右アルベルト・トーマ(ユダヤ人)は開戦直前大続領と共に露西亞を訪間し
首相ヴィヴィアユ(フリーメーソン)と共にキーンタールの會議直後の5月5日には露都に達し、
翌日は皇帝ニコラス二世に謁見を賜ったが、
数日前迄の無産者團結の決議文を作って居ながら何喰わぬ顔で皇帝に謁見するので、
自らも運命の悪戯に感じてか微笑をたたえ、
次の様な獨言をしたことが、
當時兩名を宮廷に帯同したフランス大使バレオローグ氏の手記
(前掲)第一巻261貢に現はれて居る。
『あゝトーマ!今やお前は全露の専制ツアール陛下と差し向えになるのだ!
宮廷に這入って若し驚くことがありとすれば、
それはお前がそんな所に居ることそのことだ』と吾が身に申したそうである。
(因に記す、同じアルベール・トーマが資格こそ異れ、
皇紀2588年(昭和13年、1938年)御大典の後入京し、謁見を賜った時の感想果たして如何にであつたっか、
今は故人となった筆者の知人トーマに之を問ふの道はないが、
既に家族制度の盛んなる日本には失業者を出す効果少きに落胆して歐州に帰るった筈の彼は、
必ずや余程勉強しなければ日本に革命は起せいことを認めたこと思ふ)
〔参照〕初代ILO事務局長アルベール・トーマ(フランス・1919~32年)
當時ヴィヴィアニ(フリーメーソン)及トーマ(ユダヤ)の齎した公式の任務は次の如ものであった。
(1)ロシアの軍事資源の調査及其の擴充を計ること
(2)ロシアから前年12月の約束通りフランスへ40萬の兵を派遣することを更に要請講すること、
而してそれは4萬人宛ての梯團とすること
(3)参謀本部がルーマニアに對し一層便宜を與ふる様外務大臣に要請すること
(4)波蘭に對して厚意を示すべき精確な約束を露国政府から與へさせること
まだ他に労働問題、社會問題の實情調査に関する秘密の任務があるべきこと、
及びロシアのフリーメーソンとの秘密連絡任務のことは當然のことと思ふ。
即ち皇帝に謁見に行く車中でトーマが大使パレオローグとの對話中に、
トーマ
(沈思黙考の後)ベルグラードに居る間に遇ひたい人物が若干あるのだ。
そしてれは極めて目立たない様に、
それ等の人に遇はずにツランスへ帰っては僕に對して面目がなくなるのだ。
その一人にプールツエフと云ふのだ。
大使 エー!
トーマ
彼は戰爭中、中々善くやって居る。
露、佛の同志に對して愛國的の約を守って呉れた。
大使
それは知って居るが、彼は常に皇帝を暗殺しようと堅く決心していることも僕も知って居る。
そこで今僕が君をお連れしようと云ふのは誰の所へか考へて見て呉れ給へ。
僕は君がプールツエフに遇ふことには乗り出せない。
〔露國殊に波蘭地方におけるユダヤの苦難〕
それは扨置き、前記公式任務の(4)項 ポーランド問題には、
多分にユダヤ問題を含むことを観破しなければならぬ。
前に述べたた如くロシアではユダヤ人の居住区域を定め任意に居住を許されなかつた。
ロシアに600萬人ユダヤ人が居住し世界最大のユダヤ人口を擁したが
その過半数はポーランドに限定されて住まって居た。
そのポーランドが此の前の大戦の時には獨露兩軍の攻防進退の戦場になり、
而も免れ難きスパイ問題で全部落が或る時は獨軍から次は露軍から追放される。
其にはユダヤ人の結束の堅さが原因をなすものである。
彼等は容易に同族の中から犯人を検擧させまとする。
之は平時に於ても紐育のイーストサイドの如く、
ユダヤ人の密集居住する所へ警察官が犯人を追跡して来て町の角で見失ったとして、
住民に此々々の風體のものが今ここを通った筈だがと聞くと、
同族の犯人が東へ逃げたのであるならば、
そんな男はこちらへ急き足で行ったと西の方を指して教へるそうであって、
ユダヤ窟へ迅げ込まれたら逮捕は至難だそうである。
戰爭になると刑は重いから同族は餘程庇護したくなる。
官憲は是非逮捕しようとする。
そこで昔からある部落の連帯責任組織にするの止むなきに至るのではないか。
兎も角犯人をツキ出さない事にユダヤ人の美點と缺點とあって
結果は非常な苦難を嘗めて居ることは事であらう。
前記の佛國大使パレオローグ氏はユダヤ問題に就ては其の手記三巻を通じて、
是々非々主義で行ってる様であるが、
自分の駐在國であるロシアの波蘭方面ユダヤの惨状に就ては、
1915年3月30日の手記に次の様に書いてゐる。
戰爭の當初から波蘭及リシュアニアのユダヤ人は惨憺たる苦難に遭った。
去る8月には國境地帶から集團を以て追ひ立てられ、
一物を携帯する暇もなく立退かなければならなかった。
暫くするとそこから又追放が始まって、
前と同様に不意に、急激に、簡単にやられ漸次東の方へ追ひやられた。
グロドノ外8都市のユダヤ人全部が段々國の内物へ向け追ひやられた、
追放の景況は到る所官憲のにこやかな監規の下で、暴行、掠奪が伴ふのである。
全部では10萬人位に上る憐れむべきユダヤ群衆がコサック部隊に驅り立てられて
恰も家畜の様に雪の上を彷徨するのであった。
停車場内に放置されたり、市街の人口に風に吹き晒されて囲まれたりして
飢餓と疲労と寒気で死にそうになって居る。
夫等の群衆の士気を引立てるものと言へば、道々遭遇する憎悪と軽蔑と間諜、叛逆の疑の眼丈である。
ユダヤの悲哀史の中を題して今回以上残忍な移動は無かったであらう。
そのくせ露軍の中には善く戰ふ24萬のユダヤが居るのだ。
(パレオローグ大使手記第一巻第335、336頁)
〔ブンドの通告〕
而して前世紀末にユダヤ解放三策の論議せられる後、
その第一論者の筋書に即応した勞働運動の本拠ブンドがポーランドのウイルナに設置せられありしことを回想するとき、
作戰の必要より急遽追立られ、
之にユダヤ人に対する平素の反感軽侮(神の選民と稱する民族に對する)が加はりて
常軌を逸しるユダヤの取扱をなすことが、
如何に革命的勞働隊ブンドを刺激せしやは察するに難からず。
果せる哉ブンドは既に1915年初めより右波蘭ユダヤの惨状について、
細字を以てして5頁に亘る痛烈なる抗議的通告文を發して世界のユダヤ人間に奮起を求めた。
其の全文は1915年1月22日、29日のユニヴェル・イスラエリットに掲載せられて居るが、
前記大使の手記なぞと比較にならない強い文字を以て詳報したものであるが、
長きに過ぎ且つ誇張に見えるから之を掲げない。
(スピール大使著大戦と猶太169~174頁)
〔米國のユダヤデー〕
此等の事柄は全世界のユダヤをしてロシア政體を破壊して
ユダヤ解放を決行せざる可らざる如く與論を喚起したるや明かである。
殊に米國にてウイルソン大統領などの奔走は露國の革命に拍車をかけ事も確であろう。
1916年2月7日のパリ發行ル・タン紙の所報によれは、
ウイルソン大統領は上院の決議に基き、
大戦に苦むユダヤ人の爲に、米國市民に次の様な通告を發した。
現在戦争に参加している諸國の中には、
900萬人のユダヤ人が居て、
その大部に食料、住居、衣類に事を欠いてることに鑑み、
又その中の載百萬人は予告も受けずにその住居から追放され、
日常必需の品物を調建する能はずして、
飢餓、疾病と筆舌に盡し難い苦難に晒されて居るに鑑み、
又米國に多数の善良な市民を與へた人種に属する、
戰争犠牲者を救助するの意志を有することは確かなりと認るにより・・・云々
右告示の結果1月27日を以て米國民のユダヤーデーが設けられ、
それが大統領の要望した救助事業の爲に當てられ所、
1100萬フランの収入を擧げ得た。
(同前270、271頁)
右ユダヤデーは億萬長者のカーネギーが發起人となってニューヨークに開催したもので、
各政黨及國家的諸團隊の代表者が参加した。
紐育市は500萬弗支出させられた。
米国の最も有力な名士が文書肉筆を以て之に参加した。
副大統領のトーマスとマルシャルは電報を寄せて、
自ら出席出来るならば肉声を以て一國の代表者として演説する積りであった。
その一國とはユダヤ人が財産が没収されたりする心配なく子も孫も、
思ふ存分商業界でも、社會事業でも政界でも息のつける國アメリカのことであると言ひ現はした。
英國キリスト敎會のグリーア僧正は此の會合に顔を出し、
自分が感動を受けたのは感情からではなく、
キリスト教寺院がユダヤ人に對してした罪減ぼしを公然にする必要に驅られたのである。
人類はユダヤ人に対して債務を負ふた。
(中略)。
予は米國人にこの人道的感情に就て訴へるのである。
米國人は由來人類の不幸に就ては、
それが如何なる世界の隅々からの聲でも之に同情して来たのである。
キリスト敎會の名に於て、米國人の人道的権威の名に於て、
予は太洋の彼方で苦難に遇って居るユダヤの老弱男女を救くうべきことを訴へる。
(1916年2月10日 猶太解放36頁以下)
〔註〕
1938年未チェッコ事件の直後から米國では、
之と同様にユダヤ僧とキリスト教の牧師とが一緒にラジオで欧羅巴ユダヤに同情する演説をし、
新聞紙上に異教講演者兩方の写真を掲載したりしてゐたのは、
前大戰當時からの同一筆法であることを目撃して帰って来た。
但し宣傳の對象物が變って来た。
前の大戰時はロシア猶太の惨状が種子であったが、
今度はドイツ猶太がヒットラーに苦められる所が種子である。
狙ひ所に宣傳の力で世界各国の同情をドイツから離しナチスを破壊しようとする事は
前ロシアに對する場合と軌を一にすると見られる。
日本の有識者間に現はれつつある盲目的ユダヤ同情は本運動の現れとも見られる。
此の會合で30分経たぬに出席者四名から、40萬弗が提供され、會合の終る迄には150萬弗集まった。
婦人達は宝石を外づして申込所に持って來た。
其の年の11月始めには米國合衆国は佛貨にして3000萬法を寄附した。
ユダヤも協同の精神により馳せ惨じ、
1916年2月初め即ちウイルソン大統領の告示の一ヶ月後に、
ユダヤ犧牲者救護協會が告交を出して、35萬法を集めた。
之は誠に少額であって役には立たぬと、ユダヤ人スピールは書いた。
勿論ユダヤ富豪エドワード・ロスチャイルド男爵は個人でペトログラードの委員会に宛てて50萬法を送金した。
(註 之等の金の行衛は救済か革命資金か詳らかではない。)
此等人道的の運動と同時に、大きな勞働者、社會主義者の運動が米國に起った。
アメリカン・フェデレーション・オプ・レーボア及社曾党執行委員會の聯合組織によって、
米國政府をして速かにロシアの猶太人虐待を中止せしむること、
並に世界デモクラシーの最高峯に立っ米國政府として将来の永久平和の希望事項の中には、
ユダヤ人に對するあらゆる圧迫を廃棄することを挿入すべきであると主張した。
尚右のフェデレーション・オブ・レーポアの方は各國の労働團體に向て右の努力を求め、
此の檄は各國勞働團隊の受納する所となった。
英國勢働黨及英国トレードユニオン組合は英國政府が各連合國及中立國に或る壓力を加へて、
各國がユダヤ人に政治的、民族的、市民権を與へ
且つユダヤ人と同様に壓迫されてる他の少数民族にも之を及ぼす様盡力すべく要請した。
〔イスラエルサングウイルの米國ユダヤへの飛檄〕
此の如く各國のユダヤ人、労働黨、社會主義者等が群起してロシアを攻撃した原動力には、
英國の有名な軟派文士で集産主義者なるイスラエ・ザングウイルが第一世界大戦の開戦後に、
米國を始め世界各國のユダヤ人團隊に呼びかけた書簡とその效果とを黙殺することは出来ぬ。
即ち其の要旨は次の通りである。
(前略)英國の外務大臣エドワード・グレー卿が予に對して、
露國のはユダヤ人解放を促すべき好機があったら必ず之を捉へることを忘れないとの保證を與へた事は、
露國ユダヤの歴史に一轉機を與へたもので、
従来唯風説であった事柄を、希望に充ち基礎堅固な政治的根拠に置き替へたものだ。
グレー卿の保證は從来善く政治史に所の、苦しい時の気休め的の宣言でなく、
英國風の最も純眞な態度を現はしたものであることを確言して憚らない。
故に予が米國及他の中立國のユダヤ人に希望して止まないのは、
諸君が此大戰に帝政ロシアが吾々側に参戦したことは前途に暗影を投げたと云ふので、
この不撓不屈の島国イギリスに對する同情を減却せられないことである。
實に英帝國は現在に於いても、過去に於いても一再ならず人道の為に盡して来たが、
恐らく露國を開化し・・・・獨逸をも開化するであらう。
(ザングウイル著『世界の為の戰争』(320頁)
〔米國ユダヤ・コングレスの回答〕
米國のユダヤ人はこの書簡を受けてコングレスを開き、
吾々中立國の立場にあるので仕事をするのに都合が宜しい、
事苟もユダヤ人解放と云ふ問題に属するならば、
吾々は政治上、経済上、財政上並びに社會問題上に責任を取ると云ふ回答を
イスラエル・ザングウイルに與へ、
同時に世界各國のユダヤ同胞に同文通牒を出した。
かくてそれ迄参戰に賛成しなかった労働團隊も
首領ゴムパースと云ふユダヤ人等の活躍により参戰に傾き始めたのである。
筆者は1917年3月中旬頃は西部戰線のフランス中央軍司令部に居た。
15日夕情報部の食卓に集まると特別の料理と美酒が並べてある。
何事かと尋ねると、参謀達が答へるには
ロシア革命は成立し皇帝譲位が出来た目度い事になったから祝杯を擧げるのだ。
筆者は甚だ不目出度いなと云ふと、
君は帝政日本の人だから革命を嫌ふのかと尋ねる。
否、共和の方が善い国はそれにするが善かろうが、今はその問題ではない。
聞く所によれは、来月は佛軍は大規模の攻勢を執る準備中である。
其際には露軍は北方から陽攻でも行って、敵の兵力を北の方へ牽制せねばならぬ。
然るに今ロシアに革命を起せばそれが出来なくなる。
不詳なことを言ふが来月の攻勢は恐らく甘く行くまい。
之が不目出度いのだと答へると。
尚も露國皇后が獨乙皇室出の関係で最も危険なる高等スパイであるとか
種々の議論か筆者と参謀達との間に交はされたが、
中央政府から特にその軍司令部に配属されて居た一外交官の消息通が口を筆者の耳朶に寄せ、
貴官の云ふ所に理があるのだが、
何故か今回英國がロシアの革命を急いだと囁いた。
益迷路に入っ筆者は其の又理由はと問ひ返すと、
之より以上は聞いて呉れるなとの事で狐につままれた心地で謎としてゐたが、
後に至って、エドワード・グレー卿のユダヤ解放確約や
イスラエル・ザングウイルの露西亜開化豫言と米國の参戰準備完了の関係等を知悉するに及んで
疑問は初めて氷解することが出来た。
ロシア革命を起こす丈ならば時機はいくらも繰上げられるのだが、
米國参戰の準備が出來ないと戦場のバランスが狂ってしまふので、時機を窺って居たものであらう。
既に1915年中頃、ロシアの四大軍需工業家の一人、
超大富豪ブチロフが数人の要人と晩餐を共にし後語り出した時局談は、
その列席者の一人バレオローグ佛大使の手記に左の如く傳へられて居る。
プチロフ曰く
ロシアの帝政も間も無く終りを告げるであらう。
最早亡びたも同然だ。
併し帝政はロシアの屋臺骨であり、國家結合の唯一の連接具である。
が革命は不可避になった。
唯爆發の機會の問題だ云々
(バレオローグ著「帝政露西亜第一巻371頁」
茲で此かる空気を益々革命の實行に導いたアメリカ方面のユダヤ人の努力を叙することは
英米ユダヤ合作の眞相を理解するに必要と考へる。