
四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』
第六篇 近代のユダヤ運動
第三章 ロシャ革命と猶太(その2)
・・・・・・日本公債応募者シツフ再びロシア革命に盡力
・・・・・・革命直前の状況
・・・・・・革命勃發
・・・・・・ユダヤ人トーマの満悦
・・・・・・ケレンスキー支持
・・・・・・十一月革命では新政府の官吏よの82%がユダヤ人
・・・・・・ユダヤ人の凱歌
・・・・・・存続への努力
・・・・・・オムスク政府の崩壊とユダヤ
・・・・・・デニキン軍の敗戦とユダヤ
・・・・・・ユダヤ言論機関の悲鳴
〔日本公債応募者シツフ再びロシア革命に盡力〕
1916年2月14日、紐育のイースト・サイド(ユダヤ細民居住地)内に於て
新ロシア革命團隊の會会議を開き、62名の正式代表が顔を合せた。
その内の50名は日露職爭の時の革命運動に體驗ある闘士であつた。
その中には永年紐育のユダヤ銀行團クーン・ロエプと連絡あるものも居た。
僅か12名位が新顔であつた。
各代表の多數は誰も考へる通りインテリで一部は暴力團ギャング式のものであつた。
第一回會合には明治38年の時の計畫を踏襲することに傾いた。
當時集まって居た情報ではロシヤ人は既に18ヶ月続いた戰爭に倦いた。
殊に禁酒令で政府の評判は頗る悪いし、
不用意に開いた議會は、政府反対の爲め如何なる武器を用いる準備が出来て居ると云ふ様に
形勢は革命に有利となった。
そこで再び煽動政策をやることに決した。
茲に資金の問題が起った。
ロシヤから來ている者は貧乏だし、数百名の宣傳者をロシヤに送るには相當の金がいる。
幸なことには、ロシヤ革命に同情する金持が居るから心配は無用だ。
金は要る丈出ると發言したものがある。
その金持とはクーン・レープの親方
ユダヤ人の日本勲二等ヤコブ・シツフ君だと判ったので、會衆は歡呼して喜んだ。
〔革命直前の状況〕
数遇間の内に、より抜の宣傳員が工作に取かかった。
最初はロシヤの都會の郊外から始め、またバラックに居る豫備兵に働きかけた。
戰線に向ふのを拒んで帝政崩壊を促がしたのは之等の部隊の一つであった。
1917年3月19日の革命完成の日に、
臨時政府外務大臣ミリウコフ(親英派のフリーメーソン結社員)の許に
右ユダヤ人ヤコブ・シッフから次の電報が來た。
吾々の同族ユダヤ人に無慈悲な迫害者であった専制暴君に對する偉大なる成功に就て
貴下を通じてロシヤ國民諸君に祝意を表し、
貴下及同志諸君の新政府今後の御成功を祈る萬歳
ヤコプ・シッフ氏自身の告白する所によれば、
この仕事の準備の爲宣傳員に渡した金が1200萬弗であったと云ふ。
(英国パトリオット紙)
愈々3月革命勃發の前の3月5日の前記佛國大使の手記を見ると、
軍から帰って來る傷兵、病浜、休暇兵報等は甚だ不穏な意見を述べる。
彼等は信仰を失ひ無神論を吐く。
(註 宗教破壊の努力参照)
段々不敬、背神まで来る。
此れ等の連中はインテリやユダヤ人の所へ出入りしたことが判った。
田舍町の至る所に活動写真が設備され、そこで見せられる人浚らひ強盗、暗殺などの光景は、
単な百姓出の兵卒の頭に色々の影響を與へた。
(テオフハーン僧正の言)
それが即ち米國のユダヤ財閥ヤコブシツフ等の養つた宣傳員の働きの現はれである。
又3月6日の手記には、ペトログラードにはパンと焚き物がなくなり人民は困って来た。
リテーニーの街のパン屋の前に前夜から長い列を作った貧民の顔を見ると険悪な空気が漂ってゐた。
但し、當時モーニングポストの特派員で露都に居た英人マースデンの發表には、
列の中にはユダヤ人の顔は見えないと記して居る。
併し列の中で宣傳を勤めるユダヤ人は居た事を他の情報から聞き及んで居る。
3月8日の手記には、ペトログラードは騒がしかった。
群衆所々で叫んで居る。
『パンと平和を與へろ』とあるが、
故意に組織した交通労働者の同盟罷業や鐡道の機関車の破裂などが、
吾々の米や木炭に相當するものの輸送を妨げ缺乏に拍車をかけたのである。
〔革命勃發〕
3月12日終に革命は効發し、15日には議會側と革命黨たる労兵會とは妥協成立し、
皇帝の退位等6ケ條の要求が生れたが、
この第1ケ條には早速、“法律の前には、人種の平等なることを宣言し“
とあってユダヤ解放のゴールに達した。
その日皇帝は退位した。
後とを混亂状態に陥れない爲の方法を講じたが、
議會側から出たユダヤ人青年辯護士ケレンスキーは司法大臣として猛威を振い、
直宮たる弟ミハエルその他帝室側が首班に立つを妨げ、
17日の協議の際の如きは席上で烈火の如く憤かり、
皇弟ミハエルが寸時考慮の時間を與へよとて別室に退かんとするや、
急遽行手を遮って、妻君に相談をせないで貰いたいと申入れ、
ミハエル陛下が歸り来って自分も退位に決したと宣言すると、
ユグヤ人ケレンスキーは他の人々の首を垂れて心配する中で
“陛下は人間の中の最も尊い人である” と叫んだ。
王等を下僕とせんとするユダヤ精神自然の發露か?
フランス革命に於いてルイ16世を終に斷頭臺に上ぼせ、
その遺骸を燒いた殘灰を風のまにまに四散して所謂抹殺したると同じく、
ユーロースキー等の猶太人12名計りで、
廃帝ニコラスをウラる山下エカテレリンブルグに於いて一家族全部と共に塵殺し、
バラバラ死體として附近の山中に燒き之に硫酸を慮理して全然抹殺し去り、
復辟の心配を絶無にした。
〔ユダヤ人トーマの満悦〕
フリーメーソン結社員ミリュウコフ、同ルヴォフ等の臨時政府員は、
機會ある毎に舊軍隊の解散を策しては居たが、
一方英佛側聯合軍と共に戰爭を継続する意圜は捨てなかった。
一部の将軍達はブルシ―ロフ攻勢の如きことをやって軍隊の志気を保持することに成功をしてゐた。
併しユダヤ人ケレンスキーは、革命を押し進めるには戰爭中止も止むを得ずとする意見を持し、
終にミリュコフなどと、意見の不一致を招いた。
このユダヤ人ケレンスキーの意見を支持する為フランスから再び飛び込んで来たのは
軍需大臣アルベール・トーマであった。
この状況は、革命とユダヤとの係を観察する好資料であるから、
之を前記フランス大使の手記から抄録する。
1917年4月22日の夜11時、トーマ一行はフィンランドに着いた。
その列車には英、佛、瑞西の亡命から歸国する多数の有力者が乗ってゐた。
停車場には赤旗が立てられ、
群集で一杯になってゐたし各種代表者は眞紅の旗を樹てて入口に列をなし、
赤衛兵が警察に代ってゐた。
プラットフォームには赤ネタタイや、赤襷の暴漢連が居並でゐる。
列単の姿が見えると歓呼の嵐が起ったが構内は薄暗い。
公式の挨拶宜しくあって大使はトーマを自分の自動車に乗せた。
この光景は前年5月トーマの露都入りの當時と全然違ってゐるので、
いたく彼の革命の琴線を打った。
彼は輝くまなざしで四隣に目をくばって、幾度となく
誠に美事な、本格的な大革命た! と繰り返した。
〔ケレンスキー支持〕
ホテルに着いてから、咋年以来の状況を話し、
最近ケレンスキーとミリュコツの對立も物語って、
ミリュコフ外務大臣政策を支持することが聯合國の方計でなければならないことを主張した。
するとトーマは、併しロシアのデモタラシーを失望をさせてはいかん。
實に此等の状況を知る為に自分は此処に来たのだと反対した。
翌日アルべール・トーマは大使に本國外務大臣リポからの賜暇帰国命令書を手交した。
翌々日英、伊大使とトーマと會食し、相變らずミリュコフ支持を説き、
聯合國の力でソウエートに對抗せなければ大なる錯誤に陥る事を述べ、
ケレンスキーを支特すれば、
正にソウェートの勝利は確實となり、
軍は破壊し、国民の結束は崩れ、ロシア國家は経りを告ける旨結論したが、
アルベール・トーマは英國大使と共に極力ケレンスキー側に立って、
ロシアのデモクラシーの力は凡てその革命の熱意に存する、
ソヴィエトと共に吾々の信頼し得る政府を造るのはケレンスキーを措て外に無い、と力説した。
(註 ユダヤ人ユダヤ人を支持)
尚トーマは
『聯合國作戦の関係は、ドウデモ宜しい。吾々は重りを捨て、立ち上らう』を繰り返した。
要するに彼トーマは1911年の鐡道總罷業などの嘗ての革命家としての政策に對する過度の満足を捨てず、
この土地に来て民衆の嵐の様な人気に接して益々昔の過誤を否定しなくなったらしい。
(パレオローグ著帝政露国第三巻309頁~314頁)
第一革命に盡書力したる米國のユグヤ財間ヤコプ・シツフは、
臨時政府の歩み意に充たず、最早臨時政府は用なし、須く之を倒し、
もっと彼が完全に把握できる政権を以て之に代へようと決心した。
人間はいくらも居るのである。
即ちロシア革命黨の最左翼の大部分はユダヤ人であった。
之から十一月革命に及ぶのである。
上の如く世界のユダヤ人の盡力により成立しユダヤ人を擁立した臨時政府を誰が倒したかと言へば、
矢張りユダヤ人である。
何故に第二段の革命をやったかと言へば、次の二つの観察が成立つ。
其の一は革命の二段性の現れである。
第一には政治革命を行ない、国體變革を行ひ、第二には経済革命であって、共産革命にした。
始めは挑色で次のは赤色である。
最初から共産革命をやらうとすると、ブルジョア―、インテリが附いて来ないで失敗するから、
先づ君主の退位から始めて政体破壊をやり、次に本當の経済革命を決行するのである。
1917年のは此の形式を取ったと観る。
其の二は戰爭中止、敗戦主義の實行の爲と見るので、之にドイツ軍部も協力した。
即ち端西に頑張って終始一貫革命の遂行に盡力してゐたレーニン一派の極左派を、
有名な封印列車で人知れずドイツを通過させてロシアに送り込み、
レーニンが糸を引いてゐた労兵會の如き強烈な團隊を強化してドイツに対する戦爭を中止させるには、
戦爭継続の意志のある臨時政府を倒さなければならなかった。
ドイツは之によって東部戰線の重荷を軽くして、
重点主義で西部戦線に力を専にすることになったのであるから、
レーニンによる革命は、ロシヤの過激派とドイツ軍部の合作とも見られるのである。
その酬いは翌年に至ってドイツ軍自身の崩壞に現はれて来た。
〔十一月革命では新政府の官吏の82%がユダヤ人〕
1917年11月7日、レーニン一派の革命は成立し、
有名な命令第一號は發布され對獨戰爭は中止の形となり、
同月17日から波蘭のプレストリトーフスクに休戦會議が開かれるに至った。
11月7日に出事た労農政府は三月のと違って、ユダヤ人を主體とし、
純露人アルメニヤ人等は極めて少数で恰もユダヤ政府が出来た観がある。
英國モーニング・ポスト紙の通信員ヴィクトル・イー・マースデン著の
「露西亞にける猶太人及半血及改宗猶太人」に從へば、
ソウエート政府の官吏レーニン以下545人中にユダヤ人は447名を算し、
實に約82パーセントを占めてゐる。
〔ユダヤ人の凱歌〕
之等ユダヤ人の成功を誇り、簡單に之を自白せる文書は多々あるが、その二三を擧げると、
1919年4月12日露西亜のハリコフ發行のデル・コンムニスムと云ふ過激派の機関新聞に
「レーニン」と云ふユダヤ名前で次の記事が載ってゐた。
ユダヤ人はロシア革命を準備し之を仕組んだ。
ユダヤ人に眞の無産階級、萬國主義者で国家を持たない。
トロッキーを吾々の師とし君として立てることは、
ロシアの無産物級の義務であって又最も安全な途である。
如何なる程度迄、過激主義とユダヤ主義とが一致するかを示す為に、
過激派は朱色の星を採用した。
この星はユダヤの章であって又シオンの徽章でもある。
勇敢なユダヤ人は社會主義の前衛である。
資本家に無産階級に頭を下げ、ユダヤ人の涙は血の汗となって、彼等の身體から流れるであらう。
翌1920年4月30日、レーニン政府の陸軍省がキエフから
第12軍に下した命令の第八項に次の文句があった。
ユダヤ民族に共産主義の爲に著しい熱心を現はし、
之に對して波蘭の奴輩は反ユダヤ精神を發揮しつゝある。
軍は須くユダヤ仲間に有らゆる援助を與ふべし。
此等ユダヤ人の告白の断片的のものを通讀した丈でも、
労農政権の成立とユダヤ人との関係が判る。
然るに日本には英文などを以てするユダヤの宣傳がはいり易いので、
労農政府の成立かユダヤの盡力によったことを知らない人が多い。
尤もその後ユダヤ思想擡頭の爲目ぼしい位置からユダヤ人を退がらせ要路の實權丈を握らしてゐたり、
功勞者トロッキー事プロンシュテインを追放したり、
その他の有力ユダヤ人を処刑した事などは幾分事情が變ったやに見ゑるが、
立國の本義に變化はないことを確言し得る。
〔存続への努力〕
今から、成立した勞農政府を存績せしめる爲如何にユダヤ人が努力を拂ったかを述べて前説を確める。
戦勝國側でも健全なる分子は勞農政府の崩壊を希ったのである。
其の一例として聯合軍總司令官たりしフォッシュ元師が、
1927年8月21日ロンドンにて新聞記者との會見にて述べた所は次の如くであった。
予はロシアが何時迄もポルシェウイキの方式をその儘存続せることは困難であると思ふ。
併し現在の政権そのものはまだ相當永く續くであらう。
それはロシア人が之を打倒するに餘り無関心であるからだ。
(中略)
1919年2月に予は大使會議の席上で、
若し労農ロシアを取巻く諸國が充分な弾薬や軍需品を手に入れ得るならば、
喜んでポルシェウイキの脅威を叩き潰したであらう。
然るに各國は既に戰争に倦いたと云ふ口實で予の提案を拒んだ。
(928年エキセルシオル號)
右フォッシュ元帥の所謂各國の口實の影には
實は聯合國の内部に猶太、マツソンの内応者があって、
各政府の政策を掣肘した爲であって、
我がシベリヤ出兵が虻蜂取らずに終わったのも其の影響で、
惜しみても尚餘りあることである。
左記は當時関係のあった外交官等の語る所で眞相に触れて居り、
将来政治史や戦史を研究する者の参考すべきことゝ信じ左に之を摘録する。
〔オムスク政府の崩壊とユダヤ〕
ウラル方面から西進したコルチャッタ政府軍が、
1918年秋に於て、北露のムルマンスタ、アルハンゲリスク方面より南進した英佛軍や、
南露から北進したユデニッチ軍に呼応して、
ウラル戰線を西方に進めるとんとする計画がオムスクに居た英國罩事員委員長ノックスの耳に入るや、
その配下の一大尉ユダヤ人サンダーソンは事重大と見て急遽東極東に施工し、
上海、天津、哈爾濱其他ユダヤ人の多数居住する都市で、
ユダヤ人間に左の意味の秘密宣傳をした。
「吾人、
ユダヤ人の義務に一方過激派にコルチャック軍の前進を掣肘するの策に出なければならぬ。
然らざれば過激派ば崩壊してしまふ。
従って當然起こるべきユダヤ人虐殺の為600萬のユダヤ同胞を失ひ、
イスラエル民族が今日迄努力して来た使命を果たし得な結果になるであらう」
此の如き宣傳の行われた結果、各地ユダヤ人の熱狂的秘密運動は功を奏し、
英國先づコルチャック軍援助を打切りノックス将軍眞先に引上げ、各國も撤退し、
日本軍も交代するの止むなきに至り、之に因ってオムスク政府の崩壊を促すに至った。
〔デニキン軍の敗戦とユダヤ〕
又南露のオデッサ附近、反過激軍デーニキン軍の敗退は、
フランスのユダヤ人に負ふ所多いとの左の説も参考すべきである。
(出所同前)
1919年2月初から、デーニキン軍の一部がオデッサ附近で赤衛軍に對し南から對抗してゐた時には、
フランス軍の一部隊が之と協同作戰をした。
当時のフランス軍の参謀長フリーデンベルグは猶太人で、情報蒐集の爲と称して、
日々オデッサの一カッフェに出入して過激派の代表グリィーゴリエフ等と會合した。
然るに赤衛軍の攻撃が愈々眞面目になると、
佛軍は戦車に至る迄戰に遺棄して第一線を退いたが、
終に3月21日俄然總撤兵を行ふこととなり、
その豫告をデーニキン軍に與へてから僅か価か48時間内に軍鑑にまで乗せて全部撤退した。
之が爲めデーニキン軍は戰線に穴があき、士気は衰へ、
毅到した赤軍の包囲を受けて復すべからざる打撃を受けた。
右フランス軍のユグヤ人参謀長は退却の際後衛を区処すると称して踏止まったが、
遂に赤衛車に移ってしまったと云ふ。
尚オデッサの佛國領事エノ及其の妻は共にユダヤ人で、
右ユダヤ参謀長の政治的作戰に多大の貢献をしたそうである。
〔ユダヤ言論機関の悲鳴〕
次はユダヤ自らが労農政府崩壊防止の爲め、
焦燥して、左の悲鳴を擧げた告白である。
即ち1922年7月28日發行、全世界猶太同盟の機関雑誌ユニヴェル・イスラエリットの社説に
「現下の諸問題」と題してユダヤ人の立場を論じたが、
その末段の左の一節を議んでも、
如何に世界のユダヤ人が勞農政権の崩壊を恐れてるたかを明かに認めることが出来る。
又彼等が如何に労農政権の成立に努力したかを、ユダヤ人の筆を通して讀むことが出来る。
吾人が一たび眼を東ヨーロッパに轉じて、
逆境に立つロシアを見るとを、吾々に一抹の不安を感せざるを得ない。
飢餓に悩んでいる廣大な地域に何が起ってゐるか、
今日の幹部は結束が緩み、分裂の端を發しようとしてゐる。
極左党たる吾々の純潔ユダヤ民族の一團は、赤軍の一部を確實に引付け得たが、
金と食物とは共に窮乏した。
重大なる變化の来るのは、餘りほど遠い将来のことではないと考へ得る。
来るべき危機即ち政變に於ては、ロシアの猶太同胞は如何なる運命に逢着するであらうか。
如何なる救護を準備すべきか。
過激派革命の生んだ惨禍を繰返してならぬか、如何なる強防法を講じ得るか、
如何なる救護を準備すべきか、然るに之に對處する吾々の行動能力は貧弱である。
ドイツの反社會主義者を風靡しつつある反ユダヤ主義の猖獗なる勢力を無視し得るであらうか。
ドイツ前皇帝やルーデンドルフ将軍は熱烈に獨逸聯邦の失敗全部をユダヤ人の罪に帰しつつある。
萬一帝政主義者が普魯西を恢復ナるに至ったならばどうである。
今日の時局は誠に懊悩の秋なる故
又1923年6月14日のロンドン・タイムス紙に「今日の露國」と云ふ記事が載ってゐるが、
その結論に左の文句がある。
ソウェート政府内の惨殺者、撲殺者たるユダヤ人等は、
彼等自身不安の念に襲はれてゐるのであるから、
彼等が人民委員で陪審的にやって行くのは情状酌量すべをものがある。
右の記事がタイムスに現はれると、
ユダヤ人は之が對策を講ずる必要を感じ、ユダヤ代議士協會がロンドンで會議を開いた。
そこで猶太人ベトラム・ヤコプは、
ユダヤ民族は極力ソウエート政體を支特して労農政権の崩壊から起る危險を避けねばならと主張した。
すると彼は、ダヴィクトル・ゴールドスミスと云ふ首領から叱られ、
且つユダヤ字の諸新聞から、彼の不謹慎な動議は眞相を暴露する虞れがあると攻撃された。
然るに6月21日のジューイッシュ・ワールド丈は大胆にも、
ロシア人は数百万人のユダヤ人を人質として取って居る、
と告白し尚ほ次の様に附け加へた。
此等のユダヤ人は勞農政権が崩壊したならば
眞實血の海に叩き込まれることは何等の疑ひは無いのである。
以上の諸情報とユダヤ人の告白を綜合すると次の如き観測が下される。
勞農政権の成立はユダヤ人の努力なること。
極左黨たるユダヤ人が赤軍を握れること。
勞農政権は内實非常なる危険に瀕した事。
之が崩壊を喰び止めて今日迄存続させて居るのはユダヤ人の努力であること。
フォッツュ元師の述べた通り、
各國に(日本を含む)ユダヤの宜傳により口實を設けて過激派討伐軍を撤退したること。
尚之を今日の時勢に就いて考へると、
色々理屈を並べて、
危険に頻したユダヤ、フーリーメーソンの支配する國々の肩を持つ事は、
丁度往年労農政権討減の好機を逸したのと同一徹を履むのではないかと云ふ事になる。
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