goo blog サービス終了のお知らせ 

日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

四王天信孝著『ユダヤ思想及運動』第六扁 近代のユダヤ運動 第五章 獨逸革命と猶太

2025-04-14 11:55:44 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン


 四王天信孝著『ユダヤ思想及運動』

    第六扁 近代のユダヤ運動 
 
  

第五章 獨逸革命と猶太 


ロシア革命後は獨逸はユダヤの御用済
 前既に説くけるが如く、ドイツに於てはカイザーのユダヤ利用論に災され、
ラテナウやバリンなどのユダヤ人が重用されて國政の要部や経済交通の重任に當り、
初めの間は實際ドイツの抗戰力を高め、ロシヤ崩壊の仕事に便益を與へて協力の實を示したが、
ロシヤ既に倒れて次はドイツ、オーストリアを屠って、
前世紀未からのユダヤ解放策を完成する段取となると、既にドイツに協力の必要は無くなり、
之よりは寧ろ物資の缺乏を招く様、ユダヤ式唯物経済統制を行って人民の窮乏を來し、
米國の参戰によって聯合國を強化し、ドイツの長期戰爭を不可能ならしめる策に出た。

〔プレスト・リトーフスクの露獨休戰〕
 ドイツの統帥部としては、かくて即決の必要に迫られレーニン等の政府とプレストリトーフスクに体戰條約締結の爲の會議を開き、未だその終了を見ざるに拘らす、ロシヤ領土内に止めた約九十師團の内僅か三十師團餘を止め主力を五條の鐡道によって西部戦線に送り、一擧に英米佛の聯合軍を撃破せようとした。

が 之より先きドイツ社會黨は恐らく國政に参加しカイゼルの信頼を受けたユダヤ同胞等の裏面的援助を受けて暗躍を續け、着々國内に革命工作を進めたのである。千九百十六年瑞西内にけるインターナナショナル會議の際の報告にも明なる如く、ロシヤよりは寧みドイツ國内の方が革命工作は進んで居た。

 加ふるに千九百十七年十一第十七日からのプレストリトーフスク体戰會議に於ては差し當り極めた覚書の中に、ロシヤから決してロシアヤ領内にあるドイツ軍に対して赤化宣傳は行はないと確約してあるに拘らず、翌年二月二十五日にはドイツ参謀本部からトロッキー事ブロンシテインと云ふユダヤ人に抗議書を提出しなければならぬ程赤化宣傳を始めた。

 トロッキー等は抗議は承ったらうけれども、本気に取る意志が無いのみか、益々之を強化したらしい。一たび西部戰線に向けて、送り出したドイツ軍を再びロシヤに逆送して来る気遣ひのない事は萬々承知の上であらう。


〔獨軍の思想悪化
 翌千九百十八年三月十二日には普魯西陸軍大臣は左の意味の秘密訓令を出すに至った。

 近来戰線から帰還する軍人が拳銃、手榴弾等を國内に持ち込むことが屡々發覺され治安維持上に多大の注意を拂はなければならなくなった。各軍に於ては目立たない方法によって此等違法を取締り、入浴、檢疫等の機會を利用して右武器弾薬等を没収するに努めよ。

 同年三月下旬よりドイツが英佛聯合軍に對する大規模の攻勢は最初の突破に成功したが一週間後には膠着状態に陥り、兵力の補強を要する爲、ロシヤに残した兵力の内から更に二、三師團を引抜き之を西方戦場に送らうとすると、其の或る師團ではロシヤのユダヤ宣傳が大に行き渡ってゐたと見えて、抗命、上官抵抗などの不軍紀行爲が行はれた事實がある。

同年九月頃には佛國軍正面では既に一大隊位の兵力が將校が會報の爲不在に乗じて、團隊降伏の擧に出たものがある。
 

〔ヒトラーの述懐〕
 之等軍隊内に於る不軍紀問題とユダヤ人との関係に就ては兵卒としてのヒットラーの左の體驗記は大に参考となる。即ち ”我が闘爭“第七章革命の中程に、 
 
 自分に十月七日に負傷し(中略)誕生日の頃であったベルリン附近のベーリツツ病院に後送された。ソンム戦場のの中から立派な建物に入り、眞白な寝臺にねかされた。何たる境遇の變化か、初めの間は何となく寝苦しい様であったが、次第に馴れた。併し此の環境の變りは不幸にして別の方面にも及んで居た。
 戰場に於ける軍隊精神は、ここでは幅が利かなかった。戰場では曾て無かったことが此処で始めて耳に這入った。即ち卑怯が却て褒められるのだ。戦場では臆病者はドコ迄も臆病者であって一般から軽蔑され、勇者は尊敬せられるのである。
 然るに病院では全く反対とも言ひ得る様であった。煽動者は大きな聲でまくしたてて、善良な兵隊を滑稽扱ひにし、卑怯者の意志の薄弱なことを模範的にした。つまらぬ奴ばかり奴らが會話を指導してゐたが、その一人は病院に這入りたいばかに、手に刺鐡條網で引き裂いたことを自慢してゐた。
 そんな見苦しい負傷に拘わらず彼は當富長期入院してみて退院しそうにも無い。そんな擦過傷が入院する時にも麗々しく病院列車で来た。こんな奴が宣傳して、戰場で散った有士以上の勇敢な意義ある行為かの様に喋り立てた。多数の者が之に聞入ってゐる、或る者は立去って行くが、中には之に賛成する奴もあった。

 自分は此等の話を聞いて胸が悪くなったが、何故か病院はそんな宣傳者をその儘にした。

歩行が出米る様になってから許可を得てベルリンに行ってると、窮乏は目立ってひどかった。あの大都市が食物難で苦んでゐた。不満は到る處に漲った。兵隊の足繁く行く家庭の空気は病院と同じ様であつた。怪しげな兵隊等に故意にそういふ處へ足を運んで宣傳をしたらしい。ミユンヘンに行ってると状況はモツトひどかった。(中略)
 
 補充隊に編入されて見ると、本部や事務室はユダヤ人が溢れてゐた。殪どん凡ての書記はユダヤ人で、凡てのユダヤ人に書記になってゐた。神の選民と称するユグヤ人が此くも多く後方勤務にしてゐるのに一驚し、戰線には極めて稀に見るユダヤ人と率を比較して見た。

 経済的に見ると状況は一層悪かった。此の方面ではユダヤ人は無くてならぬ人になって居た。縄を張ってゐた蜘蛛はおそらくドイツ民族の血を吸ひ始めた。
 戰争による社会の歪曲に乗じて國民の自由な生活に止めを刺す方式を見出した。即ち極端な中央集権、統制の必要を感じ、千九百十六年から十七年に互る冬から、殆ど几ての産業は、事實上はユダヤ財政の監督下に置かれてゐた。

 併し國民の怨嗟は誰に向けられたか? その頃自分に考へさせられた。適富に方向を變へないと間もなくドイツの崩壊が来るぞと。
 ユダヤ人にドイツ全國民の皮を剥ぎ、搾取しながら國民の怨りを普魯西人に向けて煽った。此の宣傳は戰線で判ってゐたが、後方には影響になかつた。
 人は普魯西内の崩壊がバイエルンに何か起すことも、又バイエルンの方が沒落すれば普魯西を深淵に引込むことも考へなかった。自分は此等のやり方にひどく心を痛めた。それはユダヤ人の天才的猾智が本目的達成の爲に一般の注意を他に向けさせる爲のものに過ぎなかったのた。
 普魯西とバイエルンが互いにロ汚なく論爭しあって居る間にユダヤ人は革命を仕組み、普魯西とバイエルンと双方共に骨抜きにして仕舞った。
  (中略)
 マルキシストの首領等と協調の手を差しべたドイツ皇帝はカイザー・ウイルヘルム二世を以て嚆矢とする。彼等は片手でカイザーと握手して居る時既に他の手は匕首を捜して居た云々  

〔物資の缺乏、銃後の弛緩〕
 又國内に於る物資の缺乏と銃後思想の大崩壊に就ては、同年夏フランス戰線で戰死しドイツ兵の中し母よりの左の如き手紙が立證した。 
 ベルリンでは今や無いものばかりだ、スープも一週間に一回位、それもバタ^-が無く悪質のヘツトだから不味くて咽喉を通らない。いつ迄戰爭が續くのか。進めと云はれても進むな、好機會があったらサッサと帰って来い。

 之はユダヤ人の家庭からであるかどうかは明かでないが、當時其の兵の心中を察したらば誠に暗涙を催うさせられた。ドイツ軍人としての良心は祖國の爲勇猛邁進を要求するであらうし、母からの手紙は退却逃亡を要求して来るのである。此の内部攪亂に就てはユダヤ人がその主る原因の物資欠乏を故意に引き起し、それに得意の宣傳を加へたとと思ふ。
 それはシュッツトガルトのインターナショナル會議以来正に大に計晝されて居たことで彼等としては當然である。

〔キール軍港暴動、皇帝蒙塵〕
 此の知、情勢下に於て十月未同盟の隣國墺太國に革命を見たることは、一響ドイツ革命を促進した事は疑なく、終に翌十一月五日キール軍港に水兵の暴動起こり、九日ベルリンに及び、カイザーの蒙塵を見るに至りドイツ革命成就し、二日後の十一月十一日世界大職の武力闘争はコムピエーニュの森に於て終熄の体戦ラッパとなった。

    ・・・・  ・・・・  ・・・・  ・・・・

〔革命後の獨大官にユダヤ人〕
 此くて革命成立後ユダヤ人が擡頭して要路に立つに至ったのは自然の勢である。當時ドイツ政府及び普魯西其の他の聯邦政府國務大臣の椅子を占めたユダヤ人を列擧すると、

獨逸政府 
  外務大臣   ハーゼ (キール軍港騒動指導者、獨立社會主義黨首領) 
  同 次官   カウッキー(同右黨員、元チエックの猶太人)
  新聞局長   コーヘン 
  司法次官   コーン  
  同      ヘルツエリト  
  大蔵大臣   シノフエル   
  同 次官   ベルンシュタイン 
  内務大臣   ブロスエ(共和國憲法案者) 
  同 次官   フロエント  

普魯西政府 
  司法大臣   ローゼンフェルト
  同 次官   ハイネマン 
  大蔵大臣   シモン 
  内務大臣   ヒルシュ 
  農商務大臣  ブラウン  
  文部次官   ブツシ (大成金で、猶太人メンデルスゾーン女婿) 

バイエルン共和国 
  大統領    アイスネル 
  大蔵大臣   ヤツフエ  
  商工大臣   ブレンタノ(半猶太人) 

ザクセン共和國 
  国務大臣   リビンスキー 
  同      シュワルツ 

ウユルテンベルグ共和國 
  國務大臣   ハイネマン  
  同      タールハイメル   

ヘッセン協和國

         ブルダー 
 
 前記にヒトラーの「我が闘争」中に述べた帰還軍人煽動の遣り口は、本篇第三章ロシヤ革命の部に於てフランス大使手記中に述べてある傷兵、病兵、休暇兵等がインテリやユグヤ人の所へ出入して思想の悪化を来したことと全く同様であることに注意すべきである。
   ・・・・・  ・・・・・  ・・・・・

〔大戰獨逸のユダヤ懷柔とその失敗〕
 獨逸革命を終るに先ち是非叙述しなけれはならぬことは、第一世界大戰間ドイツが猶太懐柔に力を盡したに拘わらず上述の如く、ユダヤ人の為に革命で倒された事實である。之は現日本に於てもユダヤ人懐柔を真剣に考へて居る人も朝野にある様だから参考の爲にユダヤ人の文献を借りて稍々詳説する。

 佛國ユダヤ人アンドレ・スビールは其著「猶太人と大戰」第九十六頁に、英國ユダヤ人イスラエ・ザングウイルの著「世界の爲の戰爭」の左の一節を引用してゐる。 

 

 然り近年のドイツにはロシアの如く露骨なユダヤ人虐待を行ってゐない。それはロシヤよりはユダヤ人の数が少くて脅威を感ぜないのと、又一つには波蘭及ロシヤからドイツを通り抜けて米國へ移住するユダヤが多数で、之がが独逸の汽船會社に金大の利を興へるからである。

 

又同書第百〇三貢には  
 猶太のイディシュ語は多数のドイツ語源を交へてゐること、猶太人がロシアで虐待され、波蘭でボイコットを受けてゐることから考へて、獨逸人に容易にユダヤ人の同情を集め獲ると信じた。

 尚其他数ヶ所に記載する所によれば、

 ドイツは波蘭の自治と共に猶太人の社会的地位を改良すべき約を與へた。又事實上獨軍の波蘭進入に當てはユダヤ解放者の立場に立った。即ち市街の爆弾攻撃を行ふ前にはユダヤ解放を約束したユダヤ文の宣傳ピラを飛行機から撒き、又は間諜を使って諸所に貼り出させユダヤ人をドイツ側に引き附けようとした。
 そして占領當初には愛想の限りを盡した。
 波蘭のロツジ市に人った時にはカイゼル自らユダヤ寺院に臨幸した事を全世界に宣傳させた。又ドイツの占領地守備軍はワルショウの市會議員に十五人のユダヤ人を加へることを評し且つ同市の秩序維持に任ずる民響には波蘭人と同様にユダヤ人を採用した(勿論高級の位置には波蘭人を用ゐた) 

 獨逸政府は波蘭の國家主義者が'波蘭語を以て唯一の國語と定められたしと請願したのを評さないで、ユダヤ人のイディッユ語又はヘブライ語を用ゆるのを許した。
又ワルショウに波蘭大學の開設をすと同様に、ユダヤ人の民間大學をウイルナに設けることを評した。

 ドイツの此等の懐柔策は初めは相當に成功したが、後になると、ユダヤ人は何者よりも目己の傳統と過去の追憶を固執することが判り、ユダヤ人に之を同化して掌中に収め得る民族でないことを了解して其方を變更することとなった。
 即ち、ユダヤとドイツの神聖同盟は極めて短命であつた。

 ベルリーナー・ターゲブラツトは波蘭及びロシヤから約三、四百萬のユダヤ人を土耳古に送るべく宣傳した。即ち前世紀末以来ユダヤ解放の為、露、墺、獨の東歐中歐対策上之に革命を行ふと決心したユダヤはアンドレ・スビールが述べた如く、一時の懷柔、傘下に集めるなどの方法でユダヤの意志を翻がヘさせ得るもので無い事を悟るべきである。
 重ねて、ユダヤ利用、ユグヤ懷柔の不得策を叫んで本章を終へる。


四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』第六扁 近代のユダヤ運動 第四章 墺匈国革命と猶太

2025-04-14 11:54:26 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン


 四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』
 

 

第四章 墺匈国革命と猶太

〔オーストロ・ハンガリヤは世界第三位のユダヤ人國〕
 1918年10月24日以後墺太利は全然敗退して其軍隊は崩壊を急いだ。 
 
 墺國内のチェッコ・スロワーキヤはその民族指者ユダヤ系マサリック博士がウイルソン大統領の良友で、
1918年1月8日ウイルソンの發した有名な十四ケ條の起案はマッサリック博士に負ふ所多しと稱せらるも程であるから、
同地方が逸早く平和提議に耳を貸し、
要すれはデモクラシー實実の爲革命に訴ふるの心構へを生ずるは自然である。

   

 又墺牙利に於いてユダヤ人多数を擁し、フリーメーソンも相當發達してゐるのであるから、
茲に革命の芽さしの現はれるも善く判る。


 その運動に就いて是年一人を指摘せなければならのは伯爵カーロリである。

 ユダヤの狙ひは
最初はブールジョア革命で行くが、國柄から言ふて貴族の中にユダヤの傀儡となれる人を求め、
之をおだて蹶起させ、之に権力を附けて革命に持って行かせることとし、
其の光榮ある選に當ったのがカーロリ伯爵である。

 伯爵は名門ではあるが、餘り頭は善くない。そしてユダヤ人の言ふ所に善く共鳴した。 

 それで伯爵の応接間は何時もユダヤ人の種子切れになった事が無いと評され位、親猶的であった。

〔伯爵カーロリが猶太の傀儡で新體制熱心〕 
 前述ウイルソンの十四ケ條に刺激されて、
革命の準備なり皇帝カロルに退位を迫る運動に取り掛かっることになった時、
其の實行係となり首都ウインに乗り込む役割はカーロイ伯
 (註 カーロイと書くがカーロリと記す)が引受けることになった。


 1918年10月26日彼伯爵は皇帝に謁を賜はり、
世界の情勢と墺太利の實情とを申し上げて退位を要請したが、
聞き入る所とならず、空しくブタペストに引き揚げた。


 列車が停車場に着く前、ハンガリヤの革命黨は、
予め豚や牛の血をバケツに入れ、自旗と共に駅前に携携へ、楽隊を併べて伯爵を待受けた。
     
 伯爵が列車から下りて来て、談判は不調に終わった時の予ての合図を待ち受けた。
革命黨員にするとソレと云ふて革命黨員は白旗をバケツの中に浸し、
伯爵を迎へるに佛國の歌マルセイエーズを奏でせしめ、
始めの部分の “流血の旗は立てられたり” と云ふ文句の所で、
文字通り鮮血淋漓たる赤旗をバケツの中から引き出して、之を掲揚した。


 10月30日ハンガリヤ革命黨の勝利に帰し、その数日後にはウインに於て協和政體が宣言された。

 カーロリ伯等の實行した革命はロシヤの三月革命に比較すべき桃色革命、政治革命であって、
到底ロシヤ人等の考へて居る赤色革命の企図を満足せしめるものでは無かつた。

 果然5カ月を間して本格的革命が行はれた。
今度は仮面を剥いでユダヤ人自身がに立って現れた。

 即ち翌年3月21日、ソヴエートロシヤで體験を重ねたユダヤ人べラ・クーン一派の共産黨員が
墺太利に政權を執り第二革命を實行した。

   

 當時カーロリ伯爵が辭職の宣言を書くべき處、
青年ユダヤ人ケケリとクンフイの2名が執筆し、之に処刑を求めると、伯は自ら筆を執らなかったが、
伯の秘書のユダヤ人シモニーとオスカーが居て、シモニーの方が伯に代って署名をした。



〔ユダヤ人ベラ・クーン等赤色革命に乗り込む〕
 ケリとクンフイの両ユダヤ人がその家を離れた頃、
伯は思い直し辭食宣言を撤回すると言ひ出したが、
此時遅し宣言書は既にラジオを以て全世界に放送されて仕まった。
一時間経つとレーニンの友ベラ・クーンび其の友人が愈獄中から出て来た。


 ベラ・クーンと言ふユダヤ人は戰争前には無名の新聞記者で、
頭の丸い、坊ャ頭で耳が廣く、先きが尖り、
眼は太きく飛び出しそうで、
唇は厚く、口は大きく裂け、
顎は無い様な形で蜥に似た人相であったと傳へられる。
カーロリ伯が臨時政府を造って数週間後に、べラ・クーンは少佐と称して首府に乗り込んできたのであった。


 彼はハンガリー・ソヴェートを作ると、
前の官吏達は唯戰争の終息と秩序の恢復を望むだけで、
将来の政治を如何にするかを考へる余裕は無かった連中であるから、
其等官吏やプールジョアは何等の抵抗を試みることなく、べラ・クーンの獨裁に服した。


 ベラ・クーンは大きな土地は國有にし、
生産物は生産組合の手によって處分せるべきものとの規定を出した。
性教育などに力を用ゐ、三四ケ月の間に首府には処女なるものは無くなったと取沙汰される迄に亂脉となった。


 反革命運動は起り、外國からの封鎖も行はれ、
農民の怠業も始まって益々生産の減退を来し、
遂に八月始め首府はルーマニア軍に占無され、
べラ・クーン等は辞職し僅か5ヶ月足らすにハンガリアを荒らして國外逃走の止むなきに至った。
 (
カン・イスラエル、エ・ロア105~198頁参照) 

 このベラ・クーンは数年前西班牙革命の渦中に於て活躍したと傳ヘられる。
フランコ政權確立後又々逃走したことであらうが、
旅券偽造に巧なる彼一味のことなれば、避難ユダヤに混入して日本に渡来しあらざれば幸である。




四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』 第六篇 近代のユダヤ運動 第三章 ロシャ革命と猶太(その2)

2025-04-14 11:49:34 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』
  第六篇 近代のユダヤ運動 
  

 第
三章 ロシャ革命と猶太(その2)

・・・・・・日本公債応募者シツフ再びロシア革命に盡力
・・・・・・革命直前の状況
・・・・・・革命勃發
・・・・・・ユダヤ人トーマの満悦 
・・・・・・ケレンスキー支持 
・・・・・・十一月革命では新政府の官吏よの82%がユダヤ人
・・・・・・ユダヤ人の凱歌
・・・・・・存続への努力
・・・・・・オムスク政府の崩壊とユダヤ
・・・・・・デニキン軍の敗戦とユダヤ 
・・・・・・ユダヤ言論機関の悲鳴

日本公債応募者シツフ再びロシア革命に盡力 
 1916年2月14日、
紐育のイースト・サイド(ユダヤ細民居住地)内に於て
新ロシア革命團隊の會会議を開き、62名の正式代表が顔を合せた。
その内の50名は日露職爭の時の革命運動に體驗あ
る闘士であつた。

 その中には永年紐育のユダヤ銀行團クーン・ロエプと連絡あるものも居た。
僅か12名位が新顔であつた。
各代表の多數は誰も考へる通りインテリで一部は暴力團ギャング式のものであつた。

 第一回會合には明治38年の時の計畫を踏襲することに傾いた。
當時集まって居た情報ではロシヤ人は既に18ヶ月続いた戰爭に倦いた。

 殊に禁酒令で政府の評判は頗る悪いし、
不用意に開いた議會は、政府反対の爲め如何なる武器を用いる準備が出来て居ると云ふ様に
形勢は革命に有利となった。
そこで再び煽動政策をやることに決した。

 茲に資金の問題が起った。
ロシヤから來ている者は貧乏だし、数百名の宣傳者をロシヤに送るには相當の金がいる。
幸なことには、ロシヤ革命に同情する金持が居るから心配は無用だ。
金は要る丈出ると發言したものがある。
 その金持とはクーン・レープの親方
ユダヤ人の日本勲二等ヤコブ・シツフ君だと判ったので、會衆は歡呼して喜んだ。

     

〔革命直前の状況〕
 数遇間の内に、より抜の宣傳員が工作に取かかった。
最初はロシヤの都會の郊外から始め、またバラックに居る豫備兵に働きかけた。
戰線に向ふのを拒んで帝政崩壊を促がしたのは之等の部隊の一つであった。

 1917年3月19日の革命完成の日に、
臨時政府外務大臣ミリウコフ(親英派のフリーメーソン結社員)の許に
右ユダヤ人ヤコブ・シッフから次の電報が來た。

 吾々の同族ユダヤ人に無慈悲な迫害者であった専制暴君に對する偉大なる成功に就て
貴下を通じてロシヤ國民諸君に祝意を表し、
貴下及同志諸君の新政府今後の御成功を祈る萬歳 
 
ヤコプ・シッフ氏自身の告白する所によれば、
この仕事の準備の爲宣傳員に渡した金が1200萬弗で
あったと云ふ。
 (英国パトリオット紙) 

 愈々3月革命勃發の前の3
月5日の前記佛國大使の手記を見ると、
軍から帰って來る傷兵、病浜、休暇兵報等は甚だ不穏な意見を述べる。
 彼等は信仰を失ひ無神論を吐く。
  (註 宗教破壊の努力参照)  
 段々不敬、背神まで来る。

 此れ等の連中はインテリやユダヤ人の所へ出入りしたことが判った。
田舍町の至る所に活動写真が設備され、そこで見せられる人浚らひ強盗、暗殺などの光景は、
単な百姓出の兵卒の頭に色々の影響を與へた。
  (テオフハーン僧正の言)
 それが即ち米國のユダヤ財閥ヤコブシツフ等の養つた宣傳員の働きの現はれである。

 又3月6日の手記には、
ペトログラードにはパンと焚き物がなくなり人民は困って来た。
リテーニーの街のパン屋の前に前夜から長い列を作った貧民の顔を見ると険悪な空気が漂ってゐた。

 但し、當時モーニングポストの特派員で露都に居た英人マースデンの發表には、
列の中にはユダヤ人の顔は見えないと記して居る。
併し列の中で宣傳を勤めるユダヤ人は居た事を他の情報から聞き及んで
居る。

 3
月8日の手記には、ペトログラードは騒がしかった。
群衆所々で叫んで居る。
『パンと平和を與へろ』
とあるが、
故意に組織した交通労働者の同盟罷業や鐡道の機関車の破裂などが、
吾々の米や木炭に相當するものの輸送を妨げ缺乏に拍車をかけたのである。

〔革命勃發〕
 3月12日終に革命は効發し、15日には議會側と革命黨たる労兵會とは妥協成立し、
皇帝の退位
等6ケ條の要求が生れたが、
この第1ケ條には早速、“法律の前には、人種の平等なることを宣言し“ 
とあってユダヤ解放のゴールに達した

 その日皇帝は退位した。
後とを混亂状態に陥れない爲の方法を講じたが、
議會側から出たユダヤ人青年辯護士ケレンスキーは司法大臣として猛威を振い、
直宮たる弟ミハエルその他帝室側が首班に立つを妨げ、
17日の協議の際の如きは席上で烈火の如く憤かり、
皇弟ミハエルが寸時考慮の時間を與へよとて別室に退かんとするや、
急遽行手を遮って、妻君に相談をせないで貰いたいと申入れ、

ミハエル陛下が歸り来って自分も退位に決したと宣言すると、
ユグヤ人ケレンスキーは他の人々の首を垂れて心配する中で
 “陛下は人間の中の最も尊い人である” と叫んだ。

 王等を下僕とせんとするユダヤ精神自然の發露か? 

  
 フランス革命に於いてルイ16世を終に斷頭臺に上ぼせ、
その遺骸を燒いた殘灰を風のまにまに四
散して所謂抹殺したると同じく、
ユーロースキー等の猶太人12名計りで、
廃帝ニコラスをウラる山下エカテレリンブルグに於いて一家族全部と共に塵殺し、
バラバラ死體として附近の山中に燒き之に硫酸を慮理して全然抹殺し去り、
復辟の心配を絶無にした。 

ユダヤ人トーマの満悦
 フリーメーソン結社員ミリュウコフ、同ルヴォフ等の臨時政府員は、
機會ある毎に舊軍隊の解散を策しては居たが、
一方英佛側聯合軍と共に戰爭を継続する意圜は捨てなかった。

 一部の将軍達はブルシ―ロフ
攻勢の如きことをやって軍隊の志気を保持することに成功をしてゐた。

 併しユダヤ人ケレンスキーは、革命を押し進めるには戰爭中止も止むを得ずとする意見を持し、
終にミリュコフなどと、意見の不一致を招いた。
 このユダヤ人ケレンスキーの意見を支持する為フランスから再び飛び込んで来たのは
軍需大臣アルベール・トーマであった。

 この状況は、革命とユダヤとの係を観察する好資料であるから、
之を前記フランス大使の手記から抄録する。

 1917年4月22日の夜11時、トーマ一行はフィンランドに着いた。
その列車には英、佛、瑞西の亡命から歸国する多数の有力者が乗ってゐた。
停車場には赤旗が立てられ、
群集で一杯になってゐたし各種代表者は眞紅の旗を樹てて入口に列をなし、
赤衛兵が警察に代ってゐた。
 プラットフォームには赤ネタタイや、赤襷の暴漢連が居並でゐる。
列単の姿が見えると歓呼の嵐が起ったが構内は薄暗い。
公式の挨拶宜しくあって大使はトーマを自分の自動車に乗せた。

 この光景は前年5月トーマの露都入りの當時と全然違ってゐるので、
いたく彼の革命の琴線を打った。

 彼は輝くまなざしで四隣に目をくばって、幾度となく
 誠に美事な、本格的な大革命た! と繰り返した。

 

ケレンスキー支持 
 ホテルに着いてから、咋年以来の状況を話し、
最近ケレンスキーとミリュコツの對立も物語って、
ミリュコフ外務大臣政策を支持することが聯合國の方計でなければならないことを主張した。

 するとトーマは、
併しロシアのデモタラシーを失望をさせてはいかん。
實に此等の状況を知る為に自分は此処に来たのだと反対した。 

 翌日アルべール・トーマは大使に本國外務大臣リポからの賜暇帰国命令書を手交した。
 翌々日英、伊大使とトーマと會食し、相變らずミリュコフ支持を説き、
聯合國の力でソウエートに對抗せなければ大なる錯誤に陥る事を述べ、

 ケレンスキーを支特すれば、
正にソウェートの勝利は確實となり、
軍は破壊し、国民の結束は崩れ、ロシア國家は経りを告ける旨結論したが、
アルベール・トーマは英國大使と共に極力ケレンスキー側に立って、
ロシアのデモクラシーの力は凡てその革命の熱意に存する、
ソヴィエトと共に吾々の信頼し得る政府を造るのはケレンスキーを措て外に無い、
と力説した。
 (註 ユダヤ人ユダヤ人を支持) 

 尚トーマは
 『聯合國作戦の関係は、ドウデモ宜しい。吾々は重りを捨て、立ち上らう』を繰り返した。

 要するに彼トーマは1911年の鐡道總罷業などの嘗ての革命家としての政策に對する過度の満足を捨てず、
この土地に来て民衆の嵐の様な人気に接して益々昔の過誤を否定しなくなったらしい。
  (パレオローグ著帝政露国第三巻309頁~314頁)

 第一革命に盡書力したる米國のユグヤ財間ヤコプ・シツフは、
臨時政府の歩み意に充たず、最早臨時政府は用なし、須く之を倒し、
もっと彼が完全に把握できる政権を以て之に代へようと決心した。

人間
はいくらも居るのである。
即ちロシア革命黨の最左翼の大部分はユダヤ人であった。

 之から十一月革命に及ぶのである。
上の如く世界のユダヤ人の盡力により成立しユダヤ人を擁立した臨時政府を誰が倒したかと言へば、
矢張りユダヤ人である。

 何故に第二段の革命をやったかと言へば、次の二つの観察が成立つ。
其の一は革命の二段性の現れである。
第一には政治革命を行ない、国體變革を行ひ、第二には経済革命であって、共産革命にした。
始めは挑色で次のは赤色である。
最初から共産革命をやらうとすると、ブルジョア―、インテリが附いて来ないで失敗するから、
先づ君主の退位から始めて政体破壊をやり、次に本當の経済革命を決行するのである。
1917年のは此の形式を取ったと観る。

 其の二は戰爭中止、敗戦主義の實行の爲と見るので、之にドイツ軍部も協力した。
即ち端西に頑張って終始一貫革命の遂行に盡力してゐたレーニン一派の極左派を、
有名な封印列車で人知れずドイツを通過させてロシアに送り込み、
レーニンが糸を引いてゐた労兵會の如き強烈な團隊を強化してドイツに対する戦爭を中止させるには、
戦爭継続の意志のある臨時政府を倒さなければならなかった。

 ドイツは之によって東部戰線の重荷を軽くして、
重点主義で西部戦線に力を専にすることになったのであるから、
レーニンによる革命は、ロシヤの過激派とドイツ軍部の合作とも見られるのである。
その酬いは翌年に至ってドイツ軍自身の崩壞に現はれて来た。

十一月革命では新政府の官吏の82%がユダヤ人
 1917年11月7日、レーニン一派の革命は成立し、
有名な命令第一號は發布され對獨戰爭は中止の形となり、
同月17日から波蘭のプレストリトーフスクに休戦會議が開かれるに至った。

 11月7日に出事た労農政府は三月のと違って、ユダヤ人を主體とし、
純露人アルメニヤ人等は極めて少数で恰もユダヤ政府が出来た観がある。

 英國モーニング・ポスト紙の通信員ヴィクトル・イー・マースデン著の
「露西亞にける猶太人及半血及改宗猶太人」に從へば、
ソウエート政府の官吏レーニン以下545人中にユダヤ人は447名を算し、
實に約82パーセントを占めてゐる。

ユダヤ人の凱歌〕 
 之等ユダヤ人の成功を誇り、簡單に之を自白せる文書は多々あるが、その二三を擧げると、
1919年4月12日露西亜のハリコフ發行のデル・コンムニスムと云ふ過激派の機関新聞に
「レーニン」と云ふユダヤ名前で次の記事が載ってゐた。

 ユダヤ人はロシア革命を準備し之を仕組んだ。
ユダヤ人に眞の無産階級、萬國主義者で国家を持たない。

 トロッキーを吾々の師とし君として立てることは、
ロシアの無産物級の義務であって又最も安全な途である。

 如何なる程度迄、過激主義とユダヤ主義とが一致するかを示す為に、
過激派は朱色の星を採用した。


 この星はユダヤの章であって又シオンの徽章でもある。
 勇敢なユダヤ人は社會主義の前衛である。
資本家に無産階級に頭を下げ、ユダヤ人の涙は血の汗となって、彼等の身體から流れるであらう。

 翌1920年4月30日、レーニン政府の陸軍省がキエフから
第12軍に下した命令の第八項に次の文句があった。

 ユダヤ民族に共産主義の爲に著しい熱心を現はし、
之に對して波蘭の奴輩は反ユダヤ精神を發揮しつゝある。
軍は須くユダヤ仲間に有らゆる援助を與ふべし。

 此等ユダヤ人の告白の断片的のものを通讀した丈でも、
労農政権の成立とユダヤ人との関係が判る。

 然るに日本には英文などを以てするユダヤの宣傳がはいり易いので、
労農政府の成立かユダヤの盡力によったことを知らない人が多い。
 尤もその後ユダヤ思想擡頭の爲目ぼしい位置からユダヤ人を退がらせ要路の實權丈を握らしてゐたり、
功勞者トロッキー事プロンシュテインを追放したり、
その他の有力ユダヤ人を処刑した事などは幾分事情が變ったやに見ゑるが、
立國の本義に變化はないことを確言し得る。


存続への努力
 今から、成立した勞農政府を存績せしめる爲如何にユダヤ人が努力を拂ったかを述べて前説を確める。
 戦勝國側でも健全なる分子は勞農政府の崩壊を希ったのである。
其の一例として聯合軍總司令官たりしフォッシュ元師が、
1927年8月21日ロンドンにて新聞記者との會見にて述べた所は次の如くであった。

 予はロシアが何時迄もポルシェウイキの方式をその儘存続せることは困難であると思ふ。
併し現在の政権そのものはまだ相當永く續くであらう。
それはロシア人が之を打倒するに餘り無関心であるからだ。
 (中略) 
1919年2月に予は大使會議の席上で、
若し労農ロシアを取巻く諸國が充分な弾薬や軍需品を手に入れ得るならば、
喜んでポルシェウイキの脅威を叩き潰したであらう。
然るに各國は既に戰争に倦いたと云ふ口實で予の提案を拒んだ。
 (
928年エキセルシオル號) 

 右フォッシュ元帥の所謂各國の口實の影には
實は聯合國の内部に猶太、マツソンの内応者があって、
各政府の政策を掣肘した爲であって、
我がシベリヤ出兵が虻蜂取らずに終わったのも其の影響で、
惜しみても尚餘りあることである。

 左記は當時関係のあった外交官等の語る所で眞相に触れて居り、
将来
政治史や戦史を研究する者の参考すべきことゝ信じ左に之を摘録する。

オムスク政府の崩壊とユダヤ
 ウラル方面から西進したコルチャッタ政府軍が、
1918年秋に於て、北露のムルマンスタ、アルハンゲリスク方面より南進した英佛軍や、
南露から北進したユデニッチ軍に呼応して、
ウラル戰線を西方に進めるとんとする計画がオムスクに居た英國罩事員委員長ノックスの耳に入るや、
その配下の一大尉ユダヤ人サンダーソンは事重大と見て急遽東極東に施工し、
上海、天津、哈爾濱其他ユダヤ人の多数居住する都市で、
ユダヤ人間に左の意味の秘密宣傳をした。
「吾人、
 ユダヤ人の義務に一方過激派にコルチャック軍の前進を掣肘するの策に出なければならぬ。
 然らざれば過激派ば崩壊してしまふ。
 従って當然起こるべきユダヤ人虐殺の為600萬のユダヤ同胞を失ひ、
 イスラエル民族が今日迄努力して来た使命を果たし得な結果になるであらう」

 此の如き宣傳の行われた結果、各地ユダヤ人の熱狂的秘密運動は功を奏し
英國先づコルチャック軍援助を打切りノックス将軍眞先に引上げ、各國も撤退し、
日本軍も交代するの止むなきに至り、之に因ってオムスク政府の崩壊を促すに至った。

デニキン軍の敗戦とユダヤ
 又南露のオデッサ附近、反過激軍デーニキン軍の敗退は、
フランスのユダヤ人に負ふ所多いとの左の説も参考すべきである。
  (出所同前)

 1919年2月初から、デーニキン軍の一部がオデッサ附近で赤衛軍に對し南から對抗してゐた時には、
フランス軍の一部隊が之と協同作戰をした。
 当時のフランス軍の参謀長フリーデンベルグは猶太人で、情報蒐集の爲と称して、
日々オデッサの一カッフェに出入して過激派の代表グリィーゴリエフ等と會合した。

 然るに赤衛軍の攻撃が愈々眞面目になると、
佛軍は戦車に至る迄戰に遺棄して第一線を退いたが、
終に3月21日俄然總撤兵を行ふこととなり、
その豫告をデーニキン軍に與へてから僅か価か48時間内に軍鑑にまで乗せて全部撤退した。

 之が爲めデーニキン軍は戰線に穴があき、士気は衰へ、
毅到した赤軍の包囲を受けて復すべからざる打撃を受けた。

 右フランス軍のユグヤ人参謀長は退却の際後衛を区処すると称して踏止まったが、
遂に赤衛車に移ってしまったと云ふ。

 尚オデッサの佛國領事エノ及其の妻は共にユダヤ人で、
右ユダヤ参謀長の政治的作戰に多大の貢献をしたそうである。


ユダヤ言論機関の悲鳴
 次はユダヤ自らが労農政府崩壊防止の爲め、
焦燥して、左の悲鳴を擧げた告白である。
 即ち1922
年7月28日發行、全世界猶太同盟の機関雑誌ユニヴェル・イスラエリットの社説に
「現下の
諸問題」と題してユダヤ人の立場を論じたが、
その末段の左の一節を議んでも、
如何に世界のユダヤ人
が勞農政権の崩壊を恐れてるたかを明かに認めることが出来る。

 又彼等が如何に労農政権の成立に努力したかを、ユダヤ人の筆を通して讀むことが出来る。


 吾人が一たび眼を東ヨーロッパに轉じて、
逆境に立つロシアを見るとを、吾々に一抹の不安を感せざるを得ない。
 飢餓に悩んでいる廣大な地域に何が起ってゐるか、
今日の幹部は結束が緩み、分裂の端を發しようとしてゐる。

 極左党たる吾々の純潔ユダヤ民族の一團は、赤軍の一部を確實に引付け得たが、
金と食物とは共に窮乏した。
重大なる變化の来るのは、餘りほど遠い将来のことではないと考へ得る。

 来るべき危機即ち政變に於ては、ロシアの猶太同胞は如何なる運命に逢着するであらうか。
如何なる救護を準備すべきか。
 過激派革命の生んだ惨禍を繰返してならぬか、如何なる強防法を講じ得るか、
如何なる救護を準備すべきか、然るに之に對處する吾々の行動能力は貧弱である。

 ドイツの反社會主義者を風靡しつつある反ユダヤ主義の猖獗なる勢力を無視し得るであらうか。
ドイツ前皇帝やルーデンドルフ将軍は熱烈に獨逸聯邦の失敗全部をユダヤ人の罪に帰しつつある。
萬一帝政主義者が普魯西を恢復ナるに至ったならばどうである。
 
 今日の時局は誠に懊悩の秋なる故 
 又1923年6月14日のロンドン・タイムス紙に「今日の露國」と云ふ記事が載ってゐるが、
その結論に左の文句がある。
 ソウェート政府内の惨殺者、撲殺者たるユダヤ人等は、
彼等自身不安の念に襲はれてゐるのであるから、
彼等が人民委員で陪審的にやって行くのは情状酌量すべをものがある。

 右の記事がタイムスに現はれると、
ユダヤ人は之が對策を講ずる必要を感じ、ユダヤ代議士協會がロンドンで會議を開いた。

 そこで猶太人ベトラム・ヤコプは、
ユダヤ民族は極力ソウエート政體を支特
して労農政権の崩壊から起る危險を避けねばならと主張した。
 すると彼は、ダヴィクトル・ゴールドスミスと云ふ首領から叱られ、
且つユダヤ字の諸新聞から、彼の不謹慎な動議は眞相を暴露する虞れがあると攻撃された。

 然るに6月21日のジューイッシュ・ワールド丈は大胆にも、
ロシア人は数百万人のユダヤ人を人
質として取って居る、
と告白し尚ほ次の様に附け加へた。

 此等のユダヤ人は勞農政権が崩壊したならば
眞實血の海に叩き込まれることは何等の疑ひは無いのである。

 以上の諸情報とユダヤ人の告白を綜合すると次の如き観測が下される。

 勞農政権の成立はユダヤ人の努力なること。
極左黨たるユダヤ人が赤軍を握れること。
勞農政権は内實非常なる危険に瀕した事。
之が崩壊を喰び止めて今日迄存続させて居るのはユダヤ人の努力であること。

 フォッツュ元師の述べた通り、
各國に(日本を含む)ユダヤの宜傳により口實を設けて過激派討伐軍を撤退したること。


 尚之を今日の時勢に就いて考へると、
色々理屈を並べて、
危険に頻したユダヤ、フーリーメーソンの支配する國々の肩を持つ事は、
丁度往年労農政権討減の好機を逸したのと同一徹を履むのではないかと云ふ事になる。


〔関連記事〕
 四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』 第六篇 近代のユダヤ運動 第三章 ロシヤ革命と猫太(その1)


四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』 第六篇 近代のユダヤ運動 第三章 ロシヤ革命と猫太(その1)

2025-04-14 11:46:21 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン


四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』

第六篇 近代のユダヤ運動


 

三章 ロシヤ革命と猶太(その1)


露人革命に適せず
・・・・・・ロシア区域にユダヤ人居住区限定の必要
・・・・・・那翁一世も反ユダヤ勅令を發布
・・・・・・チンメルワルト會議
・・・・・・キンタール會議
・・・・・・露國に於けるユダヤ人アルール・トーマの活躍 
・・・・・・露國殊に波蘭地方におけるユダヤの苦難
・・・・・・ブンドの通告
・・・・・・米國のユダヤデー 
・・・・・・イスラエルサングウイルの米國ユダヤへの飛檄
・・・・・・米国ユダヤ・コングレスの回答 
・・・・・・日本公債応募者シツフ再びロシア革命に盡力
・・・・・・革命直前の状況
・・・・・・革命勃發
・・・・・・ユダヤ人トーマの満悦 
・・・・・・ケレンスキー支持 
・・・・・・十一月革命では新政府の官吏よの82%がユダヤ人
・・・・・・ユダヤ人の凱歌
・・・・・・存続への努力
・・・・・・オムスク政府の崩壊とユダヤ
・・・・・・デニキン軍の敗戦とユダヤ 
・・・・・・ユダヤ言論機関の悲鳴
 

〔露人革命に適せず〕 
 前章に述べた所によって、
日露戦爭前からユダヤ、フリーメーソンはロシア革命に狂奔し
日露戰爭最中に其の第一矢を放った事を理解せられらと思ふ。

 ロシアには昔から幾度か反乱はあったが、大事に至らなかった。
それは一體純ロシア人は革命
と云ふ事には不向きであった。

それは教育の不徹底と云ふか、知らしめざる方針によってかは別問題として
文字を解しないのが大多載であって、
日露戰争の時などは日本軍では兵卒一人一人に郷里から新聞が追走された様だが、
ロシア軍では幹部が一新聞を読むと、兵卒はその周囲に寄って之を聞くのであった。

 のみならず性質は純粋のが多く、辛抱強く、諦めが宜しかった。
有名なニチエウオーと云ふ言葉があつて、
”構ひません”という意味だが凡そ一日に何回か此の言葉を發言するのであらう。

 筆者が嘗て露人と一緒に馬車を驅って雪融けの道を走った時、
行き逢ひの自動車の為に泥をズボンにかけられた。

 渋面を造って汚れを見守ってゐると、
傍らの露人が、ニチエウオー、暫くその儘にして置くと其の内に乾く、
其れから泥を落とすと容易におとれますぜと忠告した。 
   
其の時考えさせられたのは、露人のこの悠長な性質こそ、
帝政の圧迫にも、過激派の暴政にも堪え、
運を天に委せ神に信心して此の世を送る憐れむべき国民哉と感じた。
 であるから余程強烈な指導者がなければ革命は起こらないのである。

〔ロシア國内にユダヤ人居住区限定の必要〕
 此の如き純朴なるロシア人に向ては商売は極めて容易である。
悪辣なる方法を用ゐないで出来る。
某大學の露語教授K氏は世にも稀な善良なる紳士であったが、
ロシア人相手ならば自分でも商売は出来る。
嘗て在露中相當に儲けたと述懐した。 

 況や生馬の眼を抜く様な商売上手であり、
且経典の
公許によって如何なる方法を問はず、
他民族の財産を回収するを大命と心得るユダヤ人に取りては、
子の手を稔るよりも容易にロシヤ人の金を捲き揚上げるげられる。

 ロシア農村より東に流れて来た露人の實
際談を聞くに、
ユダヤ人に居仕の自由を評した地方では、村の中央で交通の使利の慮にユダヤ人は僅かに身を容れ、
商品の外には寝臺と食卓を置くに足る位の小店舗を開き、
日用必需の品物を考へて之を取揃へ、
而も同族の援助によって極めて安価に卸しを受け、他の店よりは格外の安売りをする。
 村人は忽ち之に殺到して見る見る小店舗は発展し数年ならずして相当の成功を見て他に移動する。

 中には日曜禮拜の準備の爲土曜日に蝋燭その他の買入れに行くと、
ユダヤ人は手をポケットに入れ、
今日はユダヤ教の安息日であるから仕事はせない、
必要丈特って行き、そばにある傳票に書いて置くことを講求する。
無學の農民は怪しげ筆跡で、例へは蝋燭一ダースと記入し去る。

 次に勘定に行くとマア餘り小額だから纏めてと言う。
 終に半歳一年になって請求を見ると
一ダースの1はいっしか6とか10に改書せられ金高は豫想外に嵩み抗議を申し入れても承知せず、
現金で拂へなけれは證書で可なりとして、金錢貸借の形式に替り、
往々現金の用立てにも応じ高利金融業者となり、
土地、不動産の抵当を要求して非猶太人の財産は加速度的にユダヤ人の手に移行する事が往々ある。

 即ち帝政時代からユグヤ人には居住
地域を指定し、
以て無知な農民を保護するの止むを得なかったのである云々 

 此はユダヤ人の露國に對する憤慨の種子であって
革命に訴へてもユダヤ人を露國の隔々まで解放せ
んとするに至った一原因である。

〔那翁一世も反ユダヤ勅令を發布〕  
 
此の農民搾取の方法に那翁一世當時フランスにても略同様のことが行はれたのであって、
ナポレオン一世は1806年5月30日に勅令を出して曰く、
 予の接手した報告によれば、
フランス帝國の北部諸州に於ては、ユダヤ人が高利貸を専業となし、
法外の利息を搾取蓄積して、地方の農民を困窮状態に陥れるものあり
由て吾等は彼等ユダヤ人の不正なる貪欲の為に憐れむべき窮場に陥った農民を救済せざる可らず。
  (ドリユモン著『ラ・フランスジュィーヴ』) 

 前述の如く露人は純朴で革命に不向きであり忍耐力が強く、
神を信じ、宗教上の権威を有する皇帝に
忠實にして容易に革命宣傳に煽り立てられないから、
終に第一世界大戦當時には食糧を製造し、
筆者が實見したる革命勃発に半年以前に於て
既にパン屋の店頭に「リヤード」と稱し何百人の民衆が一列縦隊を造って長舵陣となってゐた。

 ビールは飲ませず、日本の酒に比すべきウォッカも禁じ、
一面に於ては武器弾薬整備の資金も英國ユダヤ方面からの供給を中止して、不足を来し、
兵卒をして塹壕の中に立って何の爲に戦ふかを考へ出す様にさせ、
多数の宣傳員を送って軍を崩壊せしめた。

 その有力なる役割を勤めたのは
1920年頃より極東共和国の外務大臣を動めたるユーリン事、
本名霧ジバルトースキーと呼ぶユダヤ人であった。

チンメルワルト會議
 此の大戦間の之に至る革命準備も決してロシア國内からばかりではなく世界各國から来たのである。

 先づ擧げるのは國際的の努力である。
既述の如く第二インターナショナルとしては一応大戦勃發を以て機能を失った。
何となれは各國の社會黨戰爭を是認し、軍事予算の可決に参加したからである。
 併し、仔編に観察すると必ずしも然らずである。
   
開戦前の7月下旬露都ペトログラードに於ては同盟
罷業が起った。
之に対して領袖連は窃に之を慰撫して一先づ戰爭には参加せよ、
そして吾々の仕事は後とからだと云ふて罷業を終息せしめた。

 シュットガルトの決議が二段に分れ、
戰の罷業、平和運動と戦爭中の革命運動と二つを保存して居るが、
實行は正に此の如く形式を外れずに進んで居る。

 1914年の5ヶ月は終り、翌年になっても社會運動的には大なる變化もなかっが、
終にその9月9日から12日に亘り、十ケ國の社會主義の大物は
瑞西の首府ベルン郊外のチンメルワルドのささやかな宿屋に人目を避けて會合することが出来た。

 此の時も議論は二つに分れ、
レーニン及びその一派のものは、速やかに戰爭を中止することに努力し、
且之と同時に國内戰を開始することを民衆に通慫せねばならと主張したが、
大部分のものは、國内戦開始の可否は各國それぞれの事情に依って決せらるべきもので、
會表出席者の権眠外にあるものと第め、之に費成しなかつた。

 猛烈な討論を繰り返した数貢に亘る長い決議をなし“全世界の無産者、團結せよ“で結んで居る。

 右チンメルワルドの会議の宣言は期待に副う事が出来ず、
多くの国の社會民主主義は之を承認しな
かつた。
そこで翌1916年2月5日から8日にかけて、瑞西の首府ベルンで會議を催し、
露、
獨、墺、佛、伊等等9ケの代表が物加した。

 此際もロシアからはレーニンが参加し、他の五六名は悉くユダヤ人であった。
そして第二囘の大規模な會講を召集することを決議した。
尚5月1日のメーデーを期し各國一斉に反戰示威運動を行ふ申会せを決した。


〔キンタール會議〕 
 第二回目のチンメルワルトを國際社會黨會議は
今度は場所を一寸變へてキーンタールで、1916年4月24日から30日まで開い。
参列代表者は40名、
ロシヤ側からは相變わらずレーニン、
  ジノーウィエフ(ユダヤ)と
  トロッキー(ユダヤ)
  アクセルロド(ユダヤ)、
  マルトフ(ユダヤ)等の剛のものであり、
フランスからはユダヤ人軍需省大臣アルベール・トーマ(後に國際聯盟の労働事務局長)などが出て、
穏健派と目せられて居た。

 レーニンや獨乙のリープクネヒト等が穏健派の人々を罵った言葉の中には
 “君等は裏切者だ、王の僕だ”と云ふのがある。

 裏切者と云ふ言葉は誰にも判るが、王の僕だと云ふのが何故悪馬であるかは、
既に述べたユダヤの宗教の部にあるイザヤ書第六十章第十節の
「かれらの王等は汝に事へん」を想起しなければならぬ。
(日本譯の聖書にはそう譯してあるが、
 他の國語に譯したものの中には、
 「かれらの王等は汝の下僕とならん」とある。
 即ち王がユダヤの下僕となるべきなのに、
 ユダヤがいつまで王の下僕となって國家の爲に働くのは反對ではないかと云ふ悪罵である。

 諸代表の試みた報告演説に依って、
労働者の反政府的運動の最も廣く進展してゐる所は獨逸であることが判った。
    
決議文の作成に當り極端説を唱へたのは
  レーニン、
  ラヂック(ユダヤ)、
  ローザ・ルクセンブルク(ユダヤ女)
  及彼等一味の黨友連で、
彼等は總同盟罷工とか、怠業又は武裝的叛乱と云った斷然たる手段により、
戦爭中止のために戰ふべきことを提議した。

  

 然るに露西亞及獨乙から来た他の代表即ち敗北派メキシエウイキ等はそうした過激の手段に反対し、
唯當該地方に於ける勞働者等の承認する場合を限り同盟罷工を認容した。
若干の決議決定の後長文の宣言書を作成可決した。

 宣言は表題からが、”破産せしめられ、殺戮せられつつある諸國民に與ふ。萬國の無産者團結せよ“
と云ふので戦爭を葬れとか相當強烈なる文句があって、
大分伏せ字を用ゐざるを得ない様なのであるから之を省路する。

露國に於けるユダヤ人アルベル・トーマの活躍
 右アルベルト・トーマ(ユダヤ人)は開戦直前大続領と共に露西亞を訪間し
首相ヴィヴィアユ(フリーメーソン)と共にキーンタールの會議直後の5月5日には露都に達し、
翌日は皇帝ニコラス二世に謁見を賜ったが、
数日前迄の無産者團結の決議文を作って居ながら何喰わぬ顔で皇帝に謁見するので、
自らも運命の悪戯に感じてか微笑をたたえ、
次の様な獨言をしたことが、
當時兩名を宮廷に帯同したフランス大使バレオローグ氏の手記
(前掲)第一巻261貢に現はれて居る。

『あゝトーマ!今やお前は全露の専制ツアール陛下と差し向えになるのだ!
 宮廷に這入って若し驚くことがありとすれば、
 それはお前がそんな所に居ることそのことだ』と吾が身に申したそうである。 

(因に記す、同じアルベール・トーマが資格こそ異れ、
皇紀2588年(昭和13年、1938年)御
大典の後入京し、謁見を賜った時の感想果たして如何にであつたっか、
今は故人となった筆者の知人トーマに之を問ふの道はないが、
既に家族制度の盛んなる日本には失業者を出す効果少きに落胆して歐州に帰るった筈の彼は、
必ずや余程勉強しなければ日本に革命は起せいことを認めたこと思ふ)
〔参照〕初代ILO事務局長アルベール・トーマ(フランス・1919~32年)

 當時ヴィヴィアニ(フリーメーソン)及トーマ(ユダヤ)の齎した公式の任務は次の如ものであった。
(1)ロシアの軍事資源の調査及其の擴充を計ること
(2)ロシアから前年12月の約束通りフランスへ40萬の兵を派遣することを更に要請講すること、
   而してそれは4萬人宛ての梯團とすること
(3)参謀本部がルーマニアに對し一層便宜を與ふる様外務大臣に要請すること
(4)波蘭に對して厚意を示すべき精確な約束を露国政府から與へさせること 

 まだ他に労働問題、社會問題の實情調査に関する秘密の任務があるべきこと、
及びロシアのフリーメーソンとの秘密連絡任務のことは當然のことと思ふ。
即ち皇帝に謁見に行く車中でトーマが大使パレオローグとの對話中に、 
 

トーマ
 (沈思黙考の後)ベルグラードに居る間に遇ひたい人物が若干あるのだ。
  そしてれは極めて目立たな
い様に、
  それ等の人に遇はずにツランスへ帰っては僕に對して面目がなくなるのだ。
  その一人にプールツエフと云ふのだ。

大使 エー!
トーマ 
  彼は戰爭中、中々善くやって居る。
  露、佛の同志に對して愛國的の約を守って呉れた。
大使 
  それは知って居るが、彼は常に皇帝を暗殺しようと堅く決心していることも僕も知って居る。
  そこで今僕が君をお連れしようと云ふのは誰の所へか考へて見て呉れ給へ。
  僕は君がプールツエフに遇ふことには乗り出せない。


露國殊に波蘭地方におけるユダヤの苦難
 それは扨置き、前記公式任務の(4)項 ポーランド問題には、

多分にユダヤ問題を含むことを観破しなければならぬ。
前に述べたた如くロシアではユダヤ人の居住区域を定め任意に居住を許されなかつた。

 ロシアに600萬人ユダヤ人が居住し世界最大のユダヤ人口を擁したが
その過半数はポーランドに限定されて住まって居た。
そのポーランドが此の前の大戦の時には獨露兩軍の攻防進退の戦場になり、
而も免れ難きスパイ問題で全部落が或る時は獨軍から次は露軍から追放される。
其にはユダヤ人の結束の堅さが原因をなすものである。

 彼等は容易に同族の中から犯人を検擧させまとする。
之は平時に於ても紐育のイーストサイドの如く、
ユダヤ人の密集居住する所へ警察官が犯人を追跡して来て町の角で見失ったとして、
住民に此々々の風體のものが今ここを通った筈だがと聞くと、
同族の犯人が東へ逃げたのであるならば、
そんな男はこちらへ急き足で行ったと西の方を指して教へるそうであって、
ユダヤ窟へ迅げ込まれたら逮捕は至難だそうである。

 戰
爭になると刑は重いから同族は餘程庇護したくなる。
官憲は是非逮捕しようとする。
そこで昔からある部落の連帯責任組織にするの止むなきに至るのではないか。
兎も角犯人をツキ出さない事にユダヤ人の美點と缺點とあって
結果は非常な苦難を嘗めて居ることは事であらう。

 前記の佛國大使パレオローグ氏はユダヤ問題に就ては其の手記三巻を通じて、
是々非々主義で行って
る様であるが、
自分の駐在國であるロシアの波蘭方面ユダヤの惨状に就ては、
1915年3月30日の手記に次の様に書いてゐる。

 戰爭の當初から波蘭及リシュアニアのユダヤ人は惨憺たる苦難に遭った。
去る8月には國境地帶から集團を以て追ひ立てられ、
一物を携帯する暇もなく立退かなければならなかった。
暫くするとそこから又追放が始まって、
前と同様に不意に、急激に、簡単にやられ漸次東の方へ追ひやられた。

 グロドノ外8都市のユダヤ人全部が段々國の内物へ向け追ひやられた、
追放の景況は到る所官憲のにこやかな監規の下で、暴行、掠奪が伴ふのである。
全部では10萬人位に上る憐れむべきユダヤ群衆がコサック部隊に驅り立てられて
恰も家畜の様に雪の上を彷徨するのであった。

 停車場内に放置されたり、市街の人口に風に吹き晒されて囲まれたりして
飢餓と疲労と寒気で死にそう
になって居る。
    
 夫等の群衆の士気を引立てるものと言へば、道々遭遇する憎悪と軽蔑と間諜、叛逆の疑の眼丈である。
ユダヤの悲哀史の中を題して今回以上残忍な移動は無かったであらう。
そのくせ露軍の中には善く戰ふ24萬のユダヤが居るのだ。
 (パレオローグ大使手記第一巻第335、336頁)


ブンドの通告
 而して前世紀末にユダヤ解放三策の論議せられる後、
その第一論者の筋書に即応した勞働運動の本拠ブンドがポーランドのウイルナに設置せられありしことを回想するとき、
作戰の必要より急遽追立られ、
之にユダヤ人に対する平素の反感軽侮(神の選民と稱する民族に對する)が加はりて
常軌を逸しるユダヤの取扱をなすことが、
如何に革命的勞働隊ブンドを刺激せしやは察するに難からず。

 果せる哉ブンドは既に1915年初めより右波蘭ユダヤの惨状について、
細字を以てして5頁に亘る痛烈なる抗議的通告文を發して世界のユダヤ人間に奮起を求めた。

 其の全文は1915年1月22日、29
日のユニヴェル・イスラエリットに掲載せられて居るが、
前記大使の手記なぞと比較にならない強い文字を以て詳報したものであるが、
長きに過ぎ且つ誇張に見えるから之を掲げない。
 (スピール大使著大戦と猶太169~174頁)

米國のユダヤデー
 此等の事柄は全世界のユダヤをしてロシア政體を破壊して
ユダヤ解放を決行せざる可らざる如く與論を喚起したるや明かである。
 殊に
米國にてウイルソン大統領などの奔走は露國の革命に拍車をかけ事も確であろう。

  
 
 1916年2月7日のパリ發行ル・タン紙の所報によれは、
ウイルソン大統領は上院の決議に基き、
大戦に苦むユダヤ人の爲に、米國市民に次の様な通告を發した。

 現在戦争に参加している諸國の中には、
900萬人のユダヤ人が居て、
その大部に食料、住居、衣類に事を欠いてることに鑑み、
又その中の載百萬人は予告も受けずにその住居から追放され、
日常必需の品物を調建する能はずして、
飢餓、疾病と筆舌に盡し難い苦難に晒されて居るに鑑み、
又米國に多数の善良な市民を與へた人種に属する、
戰争犠牲者を救助するの意志を有することは確かなりと認るにより・・・云々  

 右告示の結果1月27日を以て米國民のユダヤーデーが設けられ、
それが大統領の要望した救助事業の爲に當てられ所、
1100萬フランの収入を擧げ得た。
  (同前270、271頁)  

 右ユダヤデーは億萬長者のカーネギーが發起人となってニューヨークに開催したもので、
各政黨及
國家的諸團隊の代表者が参加した。
 紐育市は500萬弗支出させられた。
米国の最も有力な名士が文書
肉筆を以て之に参加した。

 副大統領のトーマスとマルシャルは電報を寄せて、
自ら出席出来るならば
肉声を以て一國の代表者として演説する積りであった。
その一國とはユダヤ人が財産が没収されたり
する心配なく子も孫も、
思ふ存分商業界でも、社會事業でも政界でも息のつける國アメリカのことであると言ひ現はした。

 英國キリスト敎會のグリーア僧正は此の會合に顔を出し、
自分が感動を受けたのは感情からではなく、
キリスト教寺院がユダヤ人に對してした罪減ぼしを公然にする必要に驅られたのである。
 人類はユダヤ人に対して債務を負ふた。
 (中略)。
 予は米國人にこの人道的感情に就て訴へるのである。
米國人は由來人類の不幸に就ては、
それが如何なる世界の隅々からの聲でも之に同情して来たのである。
キリスト敎會の名に於て、米國人の人道的権威の名に於て、
予は太洋の彼方で苦難に遇って居るユダヤの老弱男女を救くうべきことを訴へる。
 (1916年2月10日 猶太解放36頁以下) 

〔註〕
 1938年未チェッコ事件の直後から米國では、
 之と同様にユダヤ僧とキリスト教の牧師とが一緒にラジオで欧羅巴ユダヤに同情する演説をし、
 新聞紙上に異教講演者兩方の写真を掲載したりしてゐたのは、
 前大戰當時からの同一筆法であることを目撃して帰って来た。
 但し宣傳の對象物が變って来た。
 
 前の大戰時はロシア猶太の惨状が種子であったが、
 今度はドイツ猶太がヒットラーに苦められる所が種子である。
 狙ひ所に宣傳の力で世界各国の同情をドイツから離しナチスを破壊しようとする事は
 前ロシアに對する場合と軌を一にすると見られる。
 日本の有識者間に現はれつつある盲目的ユダヤ同情は本運動の現れとも見られる。 

 此の會合で30分経たぬに出席者四名から、40萬弗が提供され、會合の終る迄には150萬弗集まった。
婦人達は宝石を外づして申込所に持って來た。
其の年の11月始めには米國合衆国は佛貨にして3000萬法を寄附した。
 
 ユダヤも協同の精神により馳せ惨じ、
1916年2月初め即ちウイルソン大統領の告示の一ヶ月後に、
ユダヤ犧牲者救護協會が告交を出して、35萬法を集めた。
之は誠に少額であって役には立たぬと、ユダヤ人スピールは書いた。
勿論ユダヤ富豪エドワード・ロスチャイルド男爵は個人でペトログラードの委員会に宛てて50萬法を送金した。
(註 之等の金の行衛は救済か革命資金か詳らかではない。

 此等人道的の運動と同時に、大きな勞働者、社會主義者の運動が米國に起った。
アメリカン・フェデレーション・オプ・レーボア及社曾党執行委員會の聯合組織によって、
米國政府をして速かにロシアの猶太人虐待を中止せしむること、
並に世界デモクラシーの最高峯に立っ米國政府として将来の永久平和の希望事項の中には、
ユダヤ人に對するあらゆる圧迫を廃棄することを挿入すべきであると主張した。

 尚右のフェデレーション・オブ・レーポアの方は各國の労働團體に向て右の努力を求め、
此の檄は各國勞働團隊の受納する所となった。

 英國勢働黨及英国トレードユニオン組合は英國政府が各連合國及中立國に或る壓力を加へて、
各國がユダヤ人に政治的、民族的、市民権を與へ
且つユダヤ人と同様に壓迫されてる他の少数民族にも之を及ぼす様盡力すべく要請した。


イスラエルサングウイルの米國ユダヤへの飛檄
 此の如く各國のユダヤ人、労働黨、社會主義者等が群起してロシアを攻撃した原動力には、
英國の有名な軟派文士で集産主義者なるイスラエ・ザングウイルが第一世界大戦の開戦後に、
米國を始め
世界各國のユダヤ人團隊に呼びかけた書簡とその效果とを黙殺することは出来ぬ。

 即ち其の要旨は
次の通りである。

 (前略)英國の外務大臣エドワード・グレー卿が予に對して、
露國のはユダヤ人解放を促すべき好機があったら必ず之を捉へることを忘れないとの保證を與へた事は、
露國ユダヤの歴史に一轉機を與へたもので、
従来唯風説であった事柄を、希望に充ち基礎堅固な政治的根拠に置き替へたものだ。
  
 グレー卿の保證は從来善く政治史に所の、苦しい時の気休め的の宣言でなく、
英國風の最も純眞な態度を現はしたものであることを確言して憚らない。

 故に予が米國及他の中立國のユダヤ人に希望して止まないのは、
諸君が此大戰に帝政ロシアが吾々側に参戦したことは前途に暗影を投げたと云ふので、
この不撓不屈の島国イギリスに對する同情を減却せられないことである。
  
 實に英帝國は現在に於いても、過去に於いても一再ならず人道の為に盡して来たが、
恐らく露國を開化し・・・・獨逸をも開化するであらう。
  (ザングウイル
著『世界の為の戰争』(320頁)

  

〔米國ユダヤ・コングレスの回答〕
 米國のユダヤ人はこの書簡を受けてコングレスを開き、
吾々中立國の立場にあるので仕事をするのに都合が宜しい、
事苟もユダヤ人解放と云ふ問題に属するならば、
吾々は政治上、経済上、財政上並びに社會問題上に責任を取る
と云ふ回答を
イスラエル・ザングウイルに與へ、
同時に世界各國のユダヤ同胞に同文通牒を出した。
  
 かくてそれ迄参戰に賛成しなかった労働團隊も
首領ゴムパースと云ふユダヤ人等の活躍により参戰に傾き始めたのである。

 筆者は1917年3月中旬頃は西部戰線のフランス中央軍司令部に居た。
15日夕情報部の食卓に集まると特別の料理と美酒が並べてある。

 何事かと尋ねると、参謀達が答へるには
ロシア革命は成立し皇帝譲位が出来た目度い事になったから祝杯を擧げるのだ。

筆者は甚だ不目出度いなと云ふと、
君は帝政日本の人だから革命を嫌ふのかと尋ねる。
否、共和の方が善い国はそれにするが善かろうが、今はその問題ではない。
聞く所によれは、来月は佛軍は大規模の攻勢を執る準備中である。
 其際には露軍は北方から陽攻でも行って、敵の兵力を北の方へ牽制せねばならぬ。
然るに今ロシアに革命を起せばそれが出来なくなる。
不詳なことを言ふが来月の攻勢は恐らく甘く行くまい。
之が不目出度いのだと答へると。

 尚も露國皇后が獨乙皇室出の関係で最も危険なる高等スパイであるとか
種々の議論か筆者と参謀達との間に交はされたが、
中央政府から特にその軍司令部に配属されて居た一外交官の消息通が口を筆者の耳朶に寄せ、
貴官の云ふ所に理があるのだが、
何故か今回英國がロシアの革命を急いだと囁いた。

 益迷路に入っ筆者は其の又理由はと問ひ返すと、
之より以上は聞いて呉れるなとの事で狐につままれた心地で謎としてゐたが、
後に至って、エドワード・グレー卿のユダヤ解放確約や
イスラエル・ザングウイルの露西亜開化豫言と米國の参戰準備完了の関係等を知悉するに及んで
疑問は初めて氷解することが出来た。  

 ロシア革命を起こす丈ならば時機はいくらも繰上げられるのだが、
米國参戰の準備が出來ないと戦場のバランスが狂ってしまふので、時機を窺って居たものであらう。
既に1915年中頃、ロシアの四大軍需工業家の一人、
超大富豪ブチロフが数人の要人と晩餐を共にし後語り出した時局談は、
その列席者の一人バレオローグ佛大使の手記に左の如く傳へられて居る。

プチロフ曰く
 ロシアの帝政も間も無く終りを告げるであらう。
最早亡びたも同然だ。
併し帝政はロシアの屋臺骨であり、國家結合の唯一の連接具である。
が革命は不可避になった。
唯爆發の機會の問題だ云々
 (バレオローグ著「帝政露西亜第一巻371頁」

 茲で此かる空気を益々革命の實行に導いたアメリカ方面のユダヤ人の努力を叙することは
英米ユダヤ合作の眞相を理解するに必要と考へる。


〔続〕
 四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』第六篇 近代のユダヤ運動 第三章 ロシヤ革命と猶太(その2)


四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』第六篇 近代のユダヤ運動 第二章 第一世界大戰

2025-04-14 11:45:25 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン


 四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』
 
  

第二章 第一世界大戰

  現大戰は第一世界大戰の第二幕 
・・・・・第一世界大戰の真の原因は大戰終わって猶不明と言はる
・・・・・墺國皇帝儲の暗殺は確かに薪に點火
・・・・・暗殺は實行の二年前フリーメーソンで決定
・・・・・セルピアの暗殺犯人訊問裁判記録
・・・・・フリーメーソンは殺人を許す
・・・・・第一世界大戦と猶太解放との関係文献
・・・・・ユダヤ人は世界征服の入口に立てり 


〔第一世界大戰の真の原因は大戰終わって猶不明と言はる〕
 第一世界大戦は20年終りを告げ、今や第二世界大戰の幕が開かれつつある際に、
第一世界大戦の原因や様相を研究するなどは閉人のやることなど、考へると錯誤に陥るので、
實は人類の實演する大連鎖劇の第一と第二幕の関係である。

 第一幕の精神が判らなければ、第二幕は判らぬ。
従って現今相手役の腹が判らずに舞臺に現はれてヘマばかりを演出することになる。
故に煩瑣を厭わず本章を精読せられることを希望する。

 右述べた第一幕の精神のことに就いて、今から13年前の英國議會に於いて、
ロバート・セシル卿と云う国際連盟に熱心な人が英國民のに警告して曰く、
先般の世界戦爭が終わって既に10年経ったが、未だその戰爭の本當の原因が判らぬではないか。
 本當の原因が判らぬとすれば、いつ何時再び大戦争が起こらぬとも限らぬ。
之が起こらぬと断言することが出来るか。
 誠に正直な議論である。

 普通に歴史家、評論家の説く、前大戦の原因といふのは、
英獨の海上争覇戦であるとか、
汎ゲルマニスムの東進と汎スラウイスムの南進の衝突であるとか、
1907年、07年の獨佛戦争の戦ひ直しとかが、善く擧げられる。

 此等は決して間違ひでは無く、其の何れもが原因の中にあると思う。
けれども此等の諸原因による闘争を我慢するものはさせ、
一擧に綜合してあれだけの大戦争に組み立てたのには天意ばかりだけでなく人爲的の努力が拂はれて居る。
それはユダヤ、フリーメーソンの人々の實際の活動とその告白である。

 先づその客観的事實から言へば、
既に述べたユダヤ解放の為欧羅巴殊にユをヤ人が虐待されてるロシア、ドイツ、オーストリア三國の政治状態變革である。
而し1907年第二インターナショナルシュットガルトで會議した通り、
此ゝる變革は戦爭によらなけれは不可能であるから、戦爭の起る種子を培養し之を宣傳しなければならぬ。
それで表面上の幾多の抗争の種子はフリーメーソンたる政治家の手で培養され、薪は積まれた。
之に火を附けたのはユグヤ人とフリーメーソンとであった。 

       
〔墺國皇帝儲の暗殺は確かに薪に點火〕
 薪を積み重ねる表面の仕事を叙するのは一巻の書物を要し、
又此の方のことは他に説く人が多いから、
茲には之を省略して火を附けた所から説くことにする。
 前述の如く今世紀の始めからバルカン方面の形勢は複雑化し、三國同盟と三國協商は對立したが、
特にオーストリアは1878年に占領したボスニア、ヘルツエゴビナを併合するに及んで
益々セルビヤとの関係は面倒になつて来た。
  
〔暗殺は實行の二年前フリーメーソンで決定〕
 1914年6月下旬、オーストリアの皇儲フェルジナンド大公は公妃と共に新領ボスニアに旅行し、
28日其首都サライエボに赴いた。
 サライエボは人口約6萬の小都会で、
その内約5千人はユダヤ人である所のユダヤ色濃厚の町である。
之が世界大戦爆發の火花の一閃した所である。

 その皇儲暗殺の経緯に就き、
フリーメーソン活躍の次第が墺國のウイヒテル博士の著
『フリーメーソンと世界革命』の中に詳報されてゐるから之を左に摘録する。

 1912年5月23日ベルグラードに創設せられたセルビ・フリーメーソンの最高会議が
1914年5月31日、フランクフルト・アン・マインに開催した
独逸フリーメーソン大組合の會合で承認を受けた。

 其の4週間後の6月28日、
墺國皇儲フランツ・フェルジナンド大公はサラエウオに於て、
セルビアのフリーメーソン社員の為に暗殺された。

 此社員等は大セルビア秘密結社ナロードナ・オドブラナ(國民軍)
 (セルビアのフリーメーソンは此の秘密結社との結合により其の力を増した)の援助を受けて之を實行した。
 爆弾投擲手に武器を交附し、
 その用法を教授したタンコシツ少佐も、
暗殺者にブローニングの拳銃及び爆弾を手交したチガトウイツも、
共にフリーメーソン社員であつた。


 此の両人はナロードナ・オドブラナの指導者でもたつた。
ベルグラード組合は大セルビア秘密
結社ナロードナ・オドプラナの本部のある家屋内で其の集會を催うした。
暗殺者中力プリノウイツは其の自白に依ると同じくフリーメーソン結社員であった。
 暗殺の爲の費用はフリーメーン結社員カジミロウィツが1914年4月中 佛・英兩国に旅行して調達した。
之等は凡て公文書に記録された事實である。

 最後にサラエウオの裁判の際、多数の證人は、
墺國皇儲の暗殺には既に1912年に佛國大組合が決定した事で、
實行者が居なかっ爲にまだ實行されずにあつた事が確められた。
今當時の訴訟調書中、フリーメーソンに関係ある部分を速記録から抜粋して見やう。

 

 當時の自由主義(フリーメーソン的)の新聞は此の訴訟に就いて全く記載しなかったり、
或いは記載しても、真相の分らない様に切り詰めて書いただけであった。
 此の暗殺事件に関する組合の代表者は、
セルピヤ人のカジミロウイツであった。
彼に就て被告爆弾投擲者物カブリノウイツは次の様に述べた。

「カプリノウイツ」 
 彼(カジミロウイツ)はフリーメーソン社員で、而も其の領袖株の一人だったと思ふ。
 彼は暗殺を決定した後、全世界に旅行した。
 彼はオーツエンベスト、露國、及び佛國にも行った。
 子がチガノウイツに、一件にどうなつて居るかと聞く毎に、
 彼は「カジミロウイツが帰って来たなら・・・・」と云ふのを常とした。

 當時チガノウイィツは又予に向ひ、
フリーメーソン社員に2年前(1912年)墺國皇儲に死刑の宣告
を與へたが、
此の判決の執行者が居なかったのだと語った。

 其の後彼が予にブローニングの拳銃と爆弾を渡した時に、
「彼の男は昨晩オーツエンベストから帰って来た」と云った。
 予は此の人が吾人の要件と関連して旅行し、
 且外國で或る一定の人々と商議したことを知って居る。
  
  
〔セルビアの暗殺犯人訊問裁判記録〕
裁判長 彼の話すことは作り話ではないか。

カプリノウイツ
  之は全くの事實でナロドナ・オドブラナに関する貴方の書類より百倍も本當である。
辨護人ブレムジツツ 
  汝はロジツの書を読んだことがあるか。
カプリノウイツ   
  予は彼のフリーメーソンに関する書を読んだ。
ブレムジツツ   
  其の書類はベルグラードに分配されたか。
カプリノウイツ  
  予は植字工として此の書の活字を組んだ。 
ブレムジツツ   
  汝は神或は何か或るものを信ずるか。
カプリノウイツ 
  否 
ブレムジツツ 
  汝はフリーメーソン社員か。 
カプリノウイツ 
  (狼狽して暫く沈黙す。次でブレムシツツに向ひ、彼を見て)
  彼方はなぜそれを予に聞くのか。予はそれに就いては答えることは出来ない。
ブレムジツツ
  タンコージツはフリーメーソン社員か。
カプリノウイツ 
  (再び狼狽して沈黙す)なぜ、それを尋ねるか。
  (暫く沈黙して後)そうです。
それからチガノウイツも・・・・・ 
裁判長  
    それで汝もフリーメーソン社員だと云ふことになる。
    何となれば、フリーメーソン社員は同結社員以外の者に對しては、
    決して自分がフリーメーソン社員なることは云はないから。 
カプリノウイツ  
    その事は聞いて下さるな、そことに就いては答へません。 
裁判長 
    問に答へぬ者は此の問に對し肯定するものである。
カプリノウイツ
   ・・・・・・・ 
裁判長
   動機に就いても少し述べよ。
   汝が殺意の決心をする前にタンコジツ及びチガノウイツが、
フリーメーソンだったと云ふことが分かったか。
   汝及び彼等がフリーメーソン社員だと云う事が、汝の決心に影響したか。 
カプリノウイツ
   然り。 
裁判長 
   汝は彼等から暗殺實行の任務を受けたか説明せよ。

〔フリーメーソンは殺人を許す〕
カプリノウイツ
   予は誰からも其の任務を受けなかった。
   フリーメーソンは、予の決心を強めたといふ點に於て予の行為と関係がある。
   フリーメーソンでは殺人は許されている。
   チガノウイツは予に、
フランツ・フェルナンド大公は既に一年前に死刑の宣告を受けたことを語った。

 

裁判長
   彼は其の事をすぐに汝に語ったか。
カプリノウイツ
   我々は其の以前に於て、フリーメーソンに就いて話したが、
   彼は彼等が確かに殺害の決心をする迄は、
   我等に對して死刑の判決に就てはちつとも話さなかった。
裁判長
   彼はチガノウイツとフリーメーソンに就いて話したことがあるか。
   
カプリロ・プリンチツプ(ユダヤ人、當の下手人)
   (大胆に)何故予にそれを尋ねるか。
裁判長 
   予はそれを知らんと欲する故に尋ねるのである。
   汝は彼と此事に就て話したか、否か。
プリンチプ
   話した。
   彼は彼がフリーメーソン社員だといふことも予に語った。 
裁判長
   彼がフリーメーソン社員だということを何時汝に話したか。
プリンチプ 
   予が殺害實行の費用に就いて彼に問うたと時に彼はそれを云うた。
   且彼は或る一定の人と話をして、其の費用を受けると語った。
   又他の機会に於て、
   彼は予に墺國皇儲はフリーメーソンの或る組合で死刑の宣告を受けたことを
語った。
裁判長
   そして汝は!汝も多分フリーメーソン社員だろうね。  
プリンチプ
   何の為にそんなことを尋ねられるか。
   (一寸間を置いて)予は社員ではない。
裁判長
   カプリノウイツはフリーメーソン社員か。 
プリンチプ
   予はそれを知らないが、或いはそうかも知れない。
   彼は話の序に或る組合に入会する筈だと予に語ったことがある。

 以上の裁判記録によっても、
暗殺計画はフリーメーソンから出て居ることは極めて明瞭である。
唯暗殺實行者を得られなかった為に、一年以上を経過してしまった。

 そこで不思議なる方法で、
カプリノウイツツ、プリンチツプ其の他の者に暗殺の考へを起させ、
彼等を使って、長らくの間準備した行為を實行させたのである。

 其の詳細に就ては茲に延べることが出来ぬが、
唯調書に基き暗殺者等にブローニング、弾薬、金子、爆弾を交附したチガノウイツは他の者等と同じく、
ボスニア生れで、ベルグラードの鐡道下級従業員であつたことを擧げるに止めよう。
 彼はフリーメーソン社員タンコシツ少佐から金を受け取った。
少佐は豊富に金を持って居て、自ら武器を購入した。


〔第一世界大戦と猶太解放との関係文献〕
 墺國のフリーメーソン新聞は皇儲暗殺の報を得ても、之に関し其の新聞紙上に何も掲載しなかつたが、
佛國フリーメーソン新聞アカシヤは、此の暗殺を以て英雄的事業だと賞賛した。
巴里に於ては既に1901年に、墺國皇室に近く凶變があると予言する者があつた。

 同時に獨乙のホーフェンツオルレ王朝も1910
年には終わりを告げると云はれた。
併し予言の時期は事實よりも5年早過ではあつたが、
之に依って此事實に對する努力の始まった時期をば大凡窺ひ知ることが出来る。

 巴里の有名な女予言者テーベ夫人(註タブイ?)は社會各方面の人士と交際して、
其の予言の資料を得て、毎年12月に予言書を發表した。

 1910年の發表で
『墺國皇儲は即位しない。
 其の代りに、今では皇位継承者ではない青年が即位することになる』と云った。

 而して墺國皇室の凶變が、予言した1913年に行わなかった時に、
此の予言夫人は、一向平気で、
 “今年はおこなわれなかつたが、来年(1914年)前半期には必ず實現する”と予言した。

 以上は「フリーメーソンと世界革命」邦訳の第88頁乃至96頁の摘載であるが、
誠に善くこの世界大戦爆發の點火とフリーメーソンの関係を説いて居る。

 戦後の1930年2月2日サラウエオ町には暗殺者を謳歌する様な記念碑が除幕されて居る。
當時世界に飛んだベルグラード發聯合通信の所報は次の様である。

 1914年6月28日サラウエオで時の墺國皇太子フランツ・フェルジナンド大公陛下を暗殺し、
遂に歐州大戦の直接原因を作った無名の一學生ガブリエル・プリンチブの記念碑が
サラエウオの丁度暗殺者を見下ろす家に作り付けられ、2日その除幕式を擧行した。

 碑面には
「この歴史的地點に於てプリンチプ自由を宣言す」と刻み込まれて居り
約500
名の人々が列席して盛大な除幕式を行ひ
「ダルマチヤの青年一同」よりとして立派な銀の花輪が捧げられた。
  (昭和5年2月4日東京日々新聞夕刊)
 此の除幕式には國際聯盟から事務總長イリツク・ドラモント氏
 (ユダヤ系、ロード・パースと改名)が列席したとの説がある。

 如何にフリーメーソン系からプリンチツプを賞賛し、
世界大戰を以て自由解放の大事業と目したかが伺われる。

 尚サラエウオ事件を終わる方り注意すべきは、
右諸報道中に、犯人の一人チガノウイツが鐡道下級従業員であり、
カプリノウイツが活版の植字工であり、
下手人プリンチプが無名の一學生となつてゐる。
   
此等の報道を見て、フリーメーソン結社が此の種の青年から成立するかの様な錯覚を起すと困るから一言する。

 思うにフリーメーソンの結社が1922年に墺國皇儲の暗殺を決議したが、
敢然下手人となる會員がない。
  
 以上の様なにわか仕立てメーソンを急造したのではないか、
フリーメーソン會費など相當高く學生や労働者の支弁出来るものでなく、
又入社迄に相當教養の出来上がった紳士が入會するのは多くは無いか、
最もロンドンの牛津(オックスホード)大學や
米国の大學などには外國から行って入會する若者もある様子だから一概には申せぬが、
サラエウオの人たるメーソンの犯人の多数に學生労働者のあることで誤解を起さない様に念の為述べて置く。
寧ろ各國の上層階級、大學教授などの中に多数の会員を有することに注意すべきであろう。

 

 扨右墺國皇儲及び同妃暗殺に就き墺國政府は7月23日セルビヤに對し要求を提出し、
40時間以内に回答等を求めた。

 此の最後通牒に對しセルビヤは25日に回答を送ったが、
他の要求は容れたが犯人の審問及反墺運動鎮圧に墺國代表者が参加することは拒絶したのであった。

 此に於て愈々7月28日墺、塞兩國は事實上戰爭状態に這入ったが、
是より先き、スラーヴ同族として後見役の形であったロシアは、
予てからセルヴィヤと親善関係を結んで君府をその手に収め黒海を経て地中海に進出せんとする
所謂汎スラウイスムから、セルヴィアを援助する為墺國抑圧の意味で動員令を發した。

 ドイツは三国同盟の義務で墺國援助の為動員した。
フランスは三國協商の義務上ロシアを援けドイツを抑へる為に動員した。

 茲に全く一触即発の危機に迫ったが、
ドイツのカイゼルは露国皇室と姻戚関係にあるので最初の努力として、
ニコラス二世に動員軍隊を復員すべく忠告したが、
最早およばず終にドイツはロシアの動員を理由として8月1日にロシアに宣戦し、
フランスは8
月3日、英國は8月4日参戦してあの大戦爭になつた。

 ロシアの態度變化の裏にはフランス大統領ボアンカレが首相ヴィヴィアニを伴ひ(兩名フリーメーソン結社員)
危機の最中7月20日速やかに軍艦フランス號に搭乗して露都に赴き露佛交歡を行ひ、
大觀兵式に臨み又23日出發前には人を退け兩元首のみ差向ひの話し合ひを行なひ
以て不退転の決意を固めたることが大なる力ありと見らる
  (佛國駐露大使パレオローグ『大戰間のロシア帝国』1-18参照)

 此の大戦の眼目の中に、
前世紀末以来の東欧羅巴のユダヤ人解放の問題か包蔵せられあることは既に
繰り返し説述した所であるが
今開戦後實現せる幾多の事實を列擧して、終にロシア革命を決行せる眞相の把握に資する。

〔ユダヤ人は世界征服の入口に立てり〕 
 1914年9月イスラエル・ザイングウイル
(註 最初解放第二論を持せし英國ユダヤの有力者)は英國外務省から、
英國は同情を以てユダヤ解放問題を注視しつつありとの保證を受領し、
尚ほ外務大臣エドワード・グレー個人よりも重ねて、
ユダヤ解放問題の重要性を完全に理解して居るから、
此の意味に於ける改革を援助すべき如何なる機會をも見逃すことは瀬ない。
との保證を得た。
  (猶太人スピール著『大戦とユダヤ人』126頁)  

 尚、サングウイル氏が米国ユダヤ同族に訴えた檄文の中にも此の点に触れ、
サー・エドワド・グレーンの予に與へて呉れた保證は決して、
政治家がよく苦しい時に出すものと同一視すべきでない、
之は眞剣に英國の考える所ある。
との意味を明らかにしている。

 次に1915年10月8日發行の世界ユダヤ同盟の機関紙、ユニヴェル・イスラエリットに、
フランス猶太中央協會の名前で、
世界各國の猶太同志に飛ばした檄の要点は、既にフランス革命の所で記述したが、
更にその文の中にある
今回大戰の起こりとその性質につき、
之が眞相を同族間に吹聴するの義務を課する。

 と述べ、更に 

 フランス大革命は西欧羅巴のユダヤ人を解放した。
聯合國側(註 今回の大戰の英佛側)の勝利は、欧羅巴の残りのユダヤ人を解放するのである。
 と明記して居る。(スピール著『大戰と猶太』第136頁)

 之に類するユダヤ側自身の戰争目的に関する告白は入手してゐるが、
ロシア革命と直接関係が多いから、後章に擧げることとし、
茲にユダヤ反對者自動車王ヘンリー・フォードの所見を發表してみる
と、
1921年2月17日のニューヨーク・ワールドにフォード氏と同誌記者との會見記が次の様に掲げられてゐる。

記者 所謂、国際的猶太組織に関し、
   米国公衆に示すべき事ありとの考えを持たれたのは何時頃からなりや。

フォード 数年前からであるが、特に深く之を感じたのは約五年前である。
 (中略)各方面から研究するに、
  戦争の為利益を占め今も尚利益を占めつつあるものは国際的金融業者たるユダヤ人と、
  之に関係する数人の外國人である。
  国際ユダヤ人と云うのは即ドイツ猶太人、英國ユダヤ人、米国ユダや人である

記者 国際的猶太人は如何にして世界戦争を起こさしめたと思はるるか。

フォード 國民的熱情を喚起せしめてである。
  詳しく言えば、宣傳によりて甲國民と乙國民とを争はせしめたのである。
  即ち戰争前には、軍需品の製造に依り、戰争中は国債により、
  戰後には今頃に行われて居る通り利権獲得闘争に於て、
  彼等危険團体は利益を収めつつある。

 又、ロンドンで發行するジューイッシュ・ワールドと云ふ雑誌の、
1922年1月5日號に、フォードの言として次の如く掲げられてゐる。

 国際的ユダヤ人と戰争との直接関係あることを自分に納得せしめたのは、ユダヤ人自身である。
自分は1915年の2月に此の戰爭を止めさせたいと云ふので、
米国から態々平和船と云ふものを造って欧羅巴やつたのであるが、その中に自分も乗って行った。

 所が最も名の知れたユダヤ人が二人乗り込んで居て、
海に出て200浬経たない内に、その二人のユダヤの力の強い事に就いて物語って居た。

 それは即ち、吾々ユダヤ人は、世界の金を支配して居る。
戦争を終局せしめ得るのは吾々でなければならぬ。
又何時迄も此の戰争を永引かせておくことも出来る。
如何なる他のものにも此の戦争を終息せしめることは出来ないと。
頻りにユダヤ人の力を宣傳して居た。
之に依って自分は戰争の製造者がユダヤ人だとの確信を得たのである云々。

 之は、ダヤ人の豪語に基き反ユダヤ主義のフォードが判断したのであるが、
更にユダヤ人の自白を掲げると、
1919
年1月16日(休戰條約成立後約2か月目)の同じ英國ユダヤ雑誌ジューイッシュ・ワールドに
ユダヤ民族が欧羅巴にあの戰争をやらせたのは、之で莫大な金を捲き上げる為ばかりではない。
その金を以て更に第二のユダヤ世界戦争を始めさせる為である。」

 次に1928年の初め、センチュイリー・マガジンと云う雑誌に
マルカス・ラヴェージと云うユダヤ人の寄稿で次の様な露骨な暴露をやって居る。

我々は戰時には愛國の義務を怠るのである。
 何となれば吾々は本来の性質から傳統から平和主義であるからだ。
 併し吾々は世界大戰の大立案設計者で、そして戰争の利益は一番余計に頂くのである。(中略)

 吾々は先般の世界大戰の楽屋に居たばかりでなく、
殆ど凡ての近代戰争の陰に働いた。
そしてロシア革命ばかりでなく君たちの歴史にある大きな革命の影には必ず吾々が居たのだ。
吾々は此くて君たちの公的私的の生活に互いの反目と混乱と失望とを與へて来た。
今まだそれをやつて居るのであるが、
おそらく何人も吾々がいつ迄それをやつて行くかを物語れないであらう。」

 次は英國オックスフォードに於てエム・ジー・ビット・リバスと云ふ人の發表した
「露西亜革命の世界的意義」と云ふ本の序文を、
ユダヤ人ノオスカー・レヴィ博士と云ふのが序文を書いたがその中に次の様な強烈な文句がある。

「ユダヤ人は神の選民と云ふ神話を以て、極めて偏狭な個人的な民族精神を作り出した。
ユダヤ人は世界大戰を仕出かした。
ユダヤ人は恰もヒュッシツト、ローラルド、ルーテルの新教とピューリタン清教などを鼓吹した様に、
社会主義、過激主義を鼓吹した。
ユダヤ人は師弟の関係、主従の関係を破壊し、之に代わるに俸給制度と云う横暴手段を造りだした。

(中略)ユダヤ人は世界の救主たる使命を持つて居ると称してゐるが、

今や世界の火附人足、腐敗破壊掛、撲殺掛に過ぎないのである。

 これはユダヤ人でありながら、随分思ひ切ったことを書いたので、
同族から責められ、
肉親の姉から絶縁するぞと脅迫された模様である。

 又1922年12月ナヌサと云ふユダヤの祭りの時に、
フランス國デイジオン市のユダヤ高僧アダム・ドレフュスと云ふ坊さんが説教して、

 吾々に祖父母などから、此の様な悲しむべき状態が永く續くものではない。
将来猶太王国が建設されて、エルルサレムが再び栄華を誇るに至るのだと、言ひ聞かされて居たが、
何となく夢を見る様な心地で、救世土の再来を特っ様な心許ない気がした。
然るに世界の状態は一變した。
それは世界大戰である。

 光輝ある勝利の暁光がまだ見えない中から、
既にドイツ流の圧迫は終わり告ぐべきであると云ふ事が吾々には見え透いてき来た。

 少し後とへ戻るが、1919年2月、
欧羅巴ロシアで内乱の際討死にした赤軍狙撃歩兵第11大隊長ユダヤ人ズルテンと云ふ少佐が、
左の意味の秘密文書を懐中して居たのが發見され原文はイディシュと云ふ猶太語で書いてあつた。


 ユダヤ民族大勝利の鐘は響き渡った。
今迄の夢は現実となり、吾人は世界征服の入り口に立つた。
世界戰争は吾等を強め、吾等に頭を擡げしめた。
吾等はロシア國民を征服し、彼等に頸枷を箝め終わった。
吾等は諸國の祭壇を壊し、諸國の帝冠を蹴落した。
さはあれ心を許すな。敵人は素より赤軍のつわもの等にも。


 之等の文書を通讀する時は、世界大戦はユダヤ人の眼から見て何の爲に始められたものか、
又その結
末は彼等に取って如何なる程度の成功であったか、
更にその未完成な部分を如何に完成すべく第二幕の仕事が残されたかを察することが出来る。

 1914年8月に始まり、1918年11月に体戦になったあの長期戰の間には色々の作戰も、
経済戰も、宣傳戰も、思想戰も、外交戰も行はれたのであるが、
本書の題とする研究からすると、
次の諸事件は大戰の主眼から見て是非共説述する必要がある。

 即ちロシアの第一、第二革命、パレスタインの復興、墺獨革命、國際聯盟の創立がそれである。
以下章を改めて之を述べる。


四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』第六篇 近代のユダヤ運動 第一章 概説

2025-04-14 11:43:53 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

      四王天延孝著『ユダヤ思想及び運動』
  
 

第一章 概説 

   日露戦争をロシア革命に利用
   ・・・・・・フリーメーソン公認を拒絶した首相を暗殺
   ・・・・・倫敦から会費百萬磅ロシアに送らる。

 全盛期の末年から今世紀初頭にかけて東に團匪事件有り、南に阿片戦争あり、
東西にわたって互って米西戦争あり、
再び東亞に日露戦爭が起って平和は攪乱され、
その間に多少ユダヤ人の活躍は傳へられたが、
最も目立ったのは日露戦争間に於けるユダヤの日本にする財政的援助とロシアに對する革命運動である。

 彼の紐育の金融財閥クーン・ロエプの巨頭ヤコブ・シッフが、
我が財務官高橋是清氏に對し2
億5千萬の戰債募集に応じたことは
厚意に感激する日本人の今以て忘るる能はざる所で、
日本政府は
シツフ氏を勲二等に叙したのである。
その応募の目的が那辺にあるに拘わらず、日本としては大に感謝
の意を表するが當然であった。

  
 唯、何が爲に蕞爾解たる島国日本に一方的に金を出しかを考へると、
そこに彼等がロシアを打ちまかし、革命を起させて600萬人のユダヤ同胞の解放をやりたいと云ふ
前世紀未以来の燃ゆる様なユダヤ解放第一論者の考へが動いたことは當然のことである。

 日露戦爭第
一年から既にそこの社會黨等は時節到来と喜んで各種の運動を始めたこと並に、
露骨にも既に説いた猶太労働團隊プンド迄乗り出した事は
スピリドウイッチ著「露国に於けるポルシェヴィズムの歴史發生より政権奪取迄、1883年~1903~1917年」と云ふ
書物の上巻に散見する。
 (スビリドーウィッチ氏は国家保安部及宮廷親衛隊の中で警視總監まで勤めた、
   所謂、革命運動と闘った人物である)。

 レーニン(本名ウリャーノフと云ふユダヤ系)や
ユダヤ人アクセルロッド(後、モスコー政府の新聞局長)
の名も1905年のロシア革命に出てゐるのである。

 クーン・ロエプ銀行團が世界大戦間に再びロシア革命の準備に奔走し、
1200萬弗の金を出したことは、後とに詳説するが、日露戦爭當時から目的は一貫してゐる。

 この1905年革命は失敗に終ったが、
ロシアの弱点は暴露し、世界大戰間決行した本革命の小手調べ、豫行演習となった事は爭はれない事實である。

 又日露戰爭間のロシア革命に就て、
フリーメーソンが各國から応援しことは當然であるが、世界大戰後に至り次の如く暴露された。 

 1905年4月發行のフランスのフリーメーソン新聞アカンシヤは、
『共和黨及佛國フリーメーソン会部はロシア革命が間もなく成功を収めることに就て多大の望みを嘱するものである。』

   

 又ドイツ猶太人ベルンシュタインは1906年の社會主義雑誌に
ロシア革命の為ユダヤ人が如何に活動したか、亦現に活動しつつあるかは世間周知の通りである。
と述べて居る。

 1905年のロシア革命は當時、まだロシア人が革命の洗礼を受ける程度に進んで居なかつな爲、
前記アカシア紙のを望は實現されなかった。
  
 其の代りフリーメーソンはロシア政府に対し、公然フリーメーソンを承認することを要求したが、
首相ストルイピンは頑として此要求を却けた。

 其の理由とする所は、
フリーメーソンの目的とする社会事業は、政府の監督下にある公然の結社でも十分目的を達成することが出来る。
然るにフリーメーソンの政治上の目的は、ロシアに於て19世紀の初め禁止された時以来今日迄、毫も変更されて居ない。
といふのであった。

 此のストルイピンは1911年9月10日、
ユダヤ人ヘルシュコウイッチ・ベグロフ(「通稱デミトリ・モーテル」によって暗殺された。
このユダヤ人は秘密警察の一員にもぐ込み、
或る劇場で皇帝の目前でストルイビンを射殺したのである。
    

 此の暗殺に因って誰が利益を得たかは特に書く必要がない。
 (以上三項、ウイヒテル博士著『フリーメーソンと世界革命』の邦語訳111頁、112頁)

 尚英國のモーニングポスト在露通信員であつたヴィクトル・マースデン著
  『露西亜に於ける猶太人 半血猶太人 改宗猶太人』にも、
 1905年に100萬磅の金が反乱費としてロンドンンから、ロシアに送られた。 
 ロシア政府は英國が送金したことを發表した一人の官吏の行為に就いて謝罪せざるを得なかつた。

 この金は全世界に亙るユグヤ人に檄を飛ばしてロンドンで集金し、
そこからロシアに送ったもので、英國が送ったのではない云々
と書かれてる。
  
 如何に前世紀未のユダヤ解放策の第一案に對する同士が世界に散在してゐるかが判る。

 其の後1907年頃からバルカンや支那大陸に革命とか一國對一國の戰争があり、
火薬の臭ひはして来たが終に1914年に世界大戰は勃發した。

 この第一世界大戦には世界革命が伴い啻に地圖の塗り替へが行はれたばかりでなく、
國際政局、経済、文化、思想の各方面に互って一大變革が齎らされ、
而もその治まりが無理をしてある爲に、今回の大戰を巻き起こしてゐのるのである。

 而て第一世界大戦にはユダヤ、フリーメーソンが陰にも陽にも大活第をして居るのであるから、
今世紀にける一大事件として特に一章を設けてユダヤ、フリーメーソンとの関係を説く。




『ユダヤ思想と運動』第七篇 現代のユタヤ運動 第一章 序論 第二章 フリーメーソンの東洋政策

2025-04-14 11:16:55 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

『ユダヤ思想と運動』
   第七篇 現代のユダヤ運動

第一章 序論 
 今や世界は大動亂の最中である。
此の渦の中で擧措を誤らず、天與の大使命に邁進するには地面、水面ばかりに現はれた現象を見詰めるのでなく、
地下、水中、上空の動きを知らなければならぬ。
 前
迄に説き來った處はその觀測の豫備作業であって、實際必要なのは之から説かんとする所である。

 以下述べる所は素より今世紀に入ってすぐ起った事件の直接延長であって因果關係に結ばれてゐが、
前篇は第一世界大戦を中心とし、その結末を説き、
本篇に於ては第二世界大戰の序幕から皇紀2600年(昭和15年、1940年)の終り迄、
即ちユダヤの5700年未つ方のユダヤ運動を叙するのである。

 生きた歴史であって新鮮な材料であるけれども、
現代活躍の人士の言行に關する事が多いので、
書物としては現はれないで精報の範圍に止るものが少くない。
併し之を除外するときは全貌が判らなくなるので之を取入れた。 
 後日補足修正を要するものもあると思ふから豫め之を諒とせられたい。


第二章 フリーメーソンの東洋政策
   露、支、印を一ブロック・・・・・・國際聯盟の支那開發調査・・・・・・ユダヤ人シムプソンの誘惑 

 世界大戰も片附き、國際聯盟も成立した後レーニンが支那に着眼し、
之が赤化を以て世界赤化の上に一大巨歩を占めんとする企圖を蔵した
事は屡々耳にした事であるが、
筆者が國際聯盟に使して居る間に、消息通であるフリーメーソン系の外人の口を通し、
更に今ではフランスの極右に立っ元共産運動者ドリオ氏の發表により、
支那人消息通(特に名を秘す)の發表等の中、一致する所を綜合すれば
フリーメーソンが第一世界大戰後東洋に対し執る政策は左の如く定められたものと認められる。 

 ロシアと支那とを打って一丸とする経済ブロックを造る。
次に之に印度を加へて露支印を一つのブロックとする

 その順序を誤ってロシアから印度へ先にしてはならぬ。
何となればロシアから印度へ向ふことには英國との關係で困るから、之は第二段の仕事とする。

 其の主旨とする所は、
かくてロシアの1億6千萬、支那の4億、印度の3億5千萬の大人口を包含するときは世界總人口の半ばに達し、
而も人類未開拓の寶庫を廣大なる地域に包蔵するのであるから、
このブロックを形成し得れは天下の事半ば成れりと言ふべきである。

 日本が僅か數十年の努力を以て大陸の東端に手をかけるに至った程度である。
今にして之を島國に送還せざれば将来に禍根を残すに至ると考へたのは彼等としては當然である。
 右の方針と日満支ブロック又は東亜共營圏を日本の肝入りで造ることなどは到底氷炭相容れざること明かである。
   
  
 フリーメーソンとユダヤの合作品たる國際聯盟が支那開發に力を入れ
奥地の調査に千萬元を使ひ、
最初人道上悪疫防止の援助をするとて衛生保健部長ライヒマン博士(ユダヤ人)を南京政府へ遣はし、
経済部長ソルター、交通部長ハースの如きユダヤ人を相次いで南京に送って文化開發の名義で工作を行ひ、
ソウエートロシアからはユダヤ人ボロージンやガロンなどを派遣して廣東の軍官學校を指導し、
支那の武力を涵養してフリーメーソン蒋介石の支那統一を助け、
日本排撃の準備工作に取かかった。
  

 第一世界大戰には吾邦には幾多の約束をして英國側に立たしめ、
東洋・南洋からドイツ勢力を驅逐せしめたのみならず、
艦隊を地中海迄出動せて危険な作戰を手傳はせ、
而てヴェルサイユ會議、ワシントン會議等に於て漸次に山東省などの皇國の権益を返納させ、
九ケ約條約を造って日本の大陸に
進出を掣肘し、
更に前の大政策に基づいて満洲からすら日本を排撃する手段を弄した。

 支那政府の顧問であった英系ユダヤ人レノックス、シンプソンが筆者と會談の際、
日支間に幾多の
懸案があるけれども、
貴國が大國の襟度を以て山東省を支那に返へしてやれば、他の諸懸案は一時に水解して、
明朗なる共榮状態になり得ると慫慂しから、
之に對して山東を還附すると直に旅順、大連返還を要求する腹が見えすいてゐるから、
日本政府もおいそれと山東は還附すまいと答へた。 

 其の
後日本はユダヤ人シムプソン等の考へ通り山東を還附したから、
日支親善の賞が擧がるかと思ったが、事志と違った。

 皇紀2589年(昭和4年、1929年)6月、濱口内閣成立の當初、
奉天にあった張學良は其の機關紙東三省日報を
して左の意味の排日記事を公表した。

  濱口内閣に要望す! 
  濱口若し眞面目に日支親善を希ひ、
  排日の種子を無くせようと思ふならば、
  須らく左に擧する諸條項を熱讀して速に之を實行に移せ   

  旅順大連租借地の返還 
  南満洲鐡道の還附  
  鐡道、商租其他目下交渉中の諸案件即時打切り 
  領事裁判權その他一切の不平等條約撤廃  
  朝鮮の獨立及び臺湾の返還  

 誠に實行不可能を承知の上の大膽な挑戰的、侮辱的論設てある。
之は學良一個の考へを超越した事柄で、フリーメーソン結社員蒋介石とも相通じ、
從って世界のフリーメーソンの意志を代表した發表と見られる
のである。
即ち皇國日本を大陸から驅逐する大政策の動きである。
   
 世界の有識者殊にユダヤ、フリーメーソンの研究を重ねる人の眼には、
日本を敵としてユダヤが
策謀を廻らしつつあることを警告したものがある。

 その一人は、ドイツの海軍少佐アルフレッド・シュトッスである。
 既に滿洲事變勃發に先っこと3年即ち皇紀2588年(昭和3年、21928年)御大典の年の3月、
ミュンヘンの“世界戰闘”と云ふ雑誌に“猶太と日本の戰ひ”と云ふ題で一文を寄せ、
ユダヤ人等は歐米を團結して日本を攻撃させようとして居る。


 そして其の動機は支那問題に端を發することを豫告し
たが、
更に皇紀2594年(昭和9年、1934年)即ち皇国が聯盟を脱退した後にて、
豊富な材料を以て之を補足し單
行本として發行し、
左の如き文句をも用て日本の立場を全面的に擁護して居る。
 
 世界は今やその基礎を揺り動かされ、貪慾なる策略に依って歪められて居る。
元来全く防禦のために生れた民族(日本)が、今「世界」(ユダヤ)の攻撃が自己に迫りつつあるのを見て、
他の民族の領土を占領するの止むなきに立至ったのは、實に世界の歪曲に依るのだ、
日本の眞意は東洋民族の自由回復にある。

 誠に世界大戰の渦中に投ぜんとする今日に於ても此の通りである。 


   
 
 


四王天延孝著『猶太思想及運動』 第五篇 猶太の運動 第七章 シオン長老會議 

2025-04-13 13:49:19 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

                四王天 延孝著『猶太思想及運動』 

             第五篇 猶太の運動(前記)



第七章 シオン長老會議
 

會議の要黠四項 
・・・・・議定書は當時の起案に非る可し
・・・・・ユダヤ側の議定書否定論 
・・・・・議定書は大英博物館に収蔵しあり 
・・・・・:偽文書問題に関するべルン裁判  
・・・・・偽文書に非ることをユダヤ人告白す。 

 此の會倉議は本篇第四章シオン運動の部にその一端を掲げた所である。
又前章ユダヤ解放問題に関聯するものであるが単なる會議でなく、
之に附帯する長老會議のプロトコールと言ふ議定書があったと傳られ、
その眞僞に就いて大論爭が起り裁判が幾度びかあった程の有名なものであるから
特に一章を設けて之を論述する。

〔會議の要黠四項〕 
 第一回シオニスト會議は1897年8月29日から3日間端西のバーゼルで開かれ、
有名なへルツ博士を議長とし、各國より多數の代表者を集めて盛大に行はれた。

 代表者は各国のシオニスト
(資格は18歳以上で25セントの税を納めるもの)400人に就て一名づゝの代表者(25歳以上)を出し
執行委員25人を選擧して事に當つた。
   
 へルツ博士生存中は此の第一會議で決定したプログラムを實現する方法を設ける事に主として盡力した。
そのプログラムとはパレスタインの中に公然認められ合法的に設定したユダヤ祖国を作ることであって、
其の目的を達成する爲に左の諸點を明にした。


一、有力な代表者を通じて、ユダヤの農、工、商業者をパレスタインに定住せしむることを促進す
二、目的達成に適し、且つ各國の法制に應ずる地方的、一般的制度に依り、ユダヤ民族を組織し且つ之を統合する。
三、ユダヤ人個人として又部落としての自覚を増強すること。
四、シオニストの目的達成の爲には彼等の向上を必要とするにより、互の協力を確實にすべく歩を進める
  (カーレン著ザイオニスムと世界政策第79,第80頁)

 比の決議文丈をすらりと見るときは、當然の決議で何等取立てゝ騒ぐことはない。
 殊に上記文獻にも會議は第二、第四項に主なる論點が置かれたと記されて居る。
併し又オデッサからの代表アハド・ハームが終始問題を起し、
反對派の位置に立つたことを報じてゐるのは注意すべきである。

 それは彼は本名をギンツベルグと呼び革命の實行家であり、
問題のプロトコールの起案者との説もあるからである。

 又第三項のユダヤ人の自覺のことを見てプロトコール全部を通讀すると、
あの文書は決議をした記録でなく、
第三頃の目的達成の為に豫め印刷したものを配布したかも知れぬ考へられる。

 之丈述べて愈々プロトコールの問題に移る。
 筆者が之を始めて手にしたのは皇紀2580年であった。
  〔注〕皇紀2600年が昭和15年(1926年)に相当する。
 一應再應讀んで、その構想の非凡に驚き、世界の現状にピタリと即應するのに胸を打たれた。

 

〔ユダヤ側の議定書否定論〕  
 併しユダヤ側から頻りに之を偽文書、怪文書として揉み消すしを行っゐるから、
次の様な立場を執ってユダヤ問題を取り扱った。
 即ちプロトコールを出發點とし、
之がユダヤ人の六韜三略で萬事は此の筋書からばかり割り出されるものとして論ずるときは、
論旨が不確定で動揺する場合があるかも知れぬ。

 之を演繹的に取扱はすして、帰納的に考へると、
幾多の現實から帰納して左様なプロトコールが有りそうになって来る。

 又その文書が確にユダヤ人の誰が書いたと白状をしても、
それに載ってゐる事柄が今日の現状と全然かけ離れて行くものならば
何等必要のない交書であるから焼却して然るべきものである。

 併しそれが假令所謂稗史小説であっても、
内容は現世界に参考すべきものであるならば、大に研究すべきである
と考へて来た。

 其の後眞偽問題に就いては論議は重ねられ、
裁判に於て告訴したユダヤ側が敗訴になった事などが明らかにされて来るから、
その文書を大前提的には扱はないが大なる参考資料とすることにした。
 既に本書に於いても数か所を引用してゐる。

 日本では近来迄ユダヤ問題とは
プロトコールのことだと誤認する人すら多数あった程だから比較的詳説する。

〔議定書は當時の起案に非る可し〕
 問題の文書の名鋼は「シオン長老の議定書(プロトコール)」と云ふので、
誤った出版物には「シオニストの議定書」とあって如何にも第一回シオニスト會議の参列者が決議した様に見えるのがあるけれども、
上述の會議の構成員から見ても、必ずしも長老が来た譯でなく、
3日間位で24章から成るユダヤの世界制覇を目的とする學問的、實際的の決議が出来る筈は無いから
「シオニスト議定書」とするのは誤りである。

 又第一回會議の2年前日露戰爭第2年にはロシアにその文獻があっ事實もあるから、
バーゼルではアハド・ハームか其の一派が之を朗讀したか、
印刷配附をしかも知れぬが、
あの會議で議決しものとは考へられない。

 
 比の文獻の執第者、年代、講述の場所、書き下ろした實際の日次等は
實は今以て明確では無い。

 執筆者に就てはアメり力の著者フライ氏はフォード翁が派遣した調査員の報告を基礎として、
オデッサで、ユダヤの著作家で民族指導者であるアハド・ハーム
(本名アツシャー・ギンスべルグ)であると認めてゐる。

 發表の場所はフランスのフリーメーソン會堂と認められる。
 實際フリーメーソンの政策は右議定書の筋書の線に實行されて居る。
 又之を外間に發表した本元の露人ニルース氏は1901年に手に入った一冊には 
“第三十三階級のシオン代表者等により署名す” 
と記されてあったと語ってゐる。

 ユダヤ人用の一般に流布する抹殺用の物語りは次の様になってゐる。
 あの議定書と云ふのは元とロシアの警察で書いものだ。
 特に参事官ラチコーフスキーがユダヤに對する反感を起させる爲に作ったものだ。 


 併し之は何等の論拠はない。
あれ程のことは餘程ユダヤの知識を持ち、
政治、経済、哲學迄亙った學識ある者でなければ書けるものではない。


 恐らく1897年バーゼルのユダヤ人丈のフリーメーソン結社ブナイ・ブリス兄弟の會合で
論議はされたろうと思はれるが、
書かれたのは1890年と95年の間であらうと思はれる。

 疑いもないことは議定書の原文フランス語のものを最初に手にしたのは
ロシアの少佐で宮内官であっアレキセイ・ニコラエウイッチ・スホーチン
であった。
 エス・アー・ニルース氏の著「小の中の大」にそのことを明らかにしてゐる。
 ニルース氏の息子エス・エス・ニルースは1936年に文書を以て
スホーチン少佐が故人となった父ニルースに議定書を渡すのを見たと發言した。

 又その年の12月3日にはスホーチン氏の親戚で
ロシアの提督の夫人となってユーゴスラーヴィアに住んでゐるアントーニア・マニコーフスカヤからも
若い時に度々スホーチン一家を訪れたが、
1895年頃行った時、スホーチンの妹と姪とで議定書の寫しを取って居るのを見たと書物で宣言した。 

 モスコーで元検事をしてゐたスラバーノフも1895年にスホーチンから写本を貰ったと言って居る。
即ちバーゼル會議の二年前に既にあつたことは確である。
 
 ニルース氏の子息の語る所では、
その父親が議定書を世に出したのは1902年から3年にかけての冬であった。
それは、モスコースキャ・ウエードモスチ誌上であった。
又、1903年8月28日及9月7日のズナーミヤーにも掲載された。

 ニルースが始めて
「小の内に大、そしてキリスト反對が将来政治上の可能性」と題する本の中に
議定書を入れたのが1905年である。1901年のにはまだ入れてなかった。

 1906年にジョージ・ブトミと云ふロシアの著述家が
「真實暴露、人類の敵」と云ふ本の中に議定書を公にした。

〔議定書は大英博物館に収蔵しあり〕
 歐州の他の諸國には全然知られなかったが
大戰後にロシヤの移民がニルースの本を北米とドイツに持って行った。
 ドイツでは1919年獨逸譯を發表しがフォン・ハウゼン氏は後難を虞れたか
ゴットフリートと云ふ變名で出した。
(議定書第二版が一冊英國に搬入され大英博物館に収蔵された。
此の書物の上には1906年8月1日の日附があり、其の収蔵番號は3926D27號である)

 之に対するユダヤ側の對抗手段は、1921年矢継ぎ早に3回現はれた。
同年2月25日に紐育のアメリカン・フェブリウは
ロシアノ亡命侯爵夫人カセリン・ラッジウイルのユダヤ記者イザック、ランドマンとの會見記を發表した。

 又同年5月12、13日にはフランスの伯爵アルマン・ドユ・シャイラが
巴里の露字新聞第ボスレードニエ・ノーウオスチ記者に與へたインターヴィウが現はれた。

 次はフィリップ・グレーヴスの筆になる記事で
1921年8月16、17、18の3日續きでロンドンタイムスに掲載された。
 
 ラッジウイル公爵夫人の言ふには、
議定書は日露戰爭及其の最中に起ったロシア革命の後に始めて書かれ、
執筆者は、ロシアの国務院参事官ペテル・イワノウイチ・ラチコースキーで、
巴里に來て秘密警察の長であつた。
 
 その協力者が彼の手先のマチウー・ゴロウインスキーである。
公爵夫人が巴里に居たときゴロウンインスキーは出来上ったばかりの寫本を見せて呉れた。

 それには表紙にインキのシミが出来て居た。
この本の目的は、之を發行して皇帝ニコラス二世を反ユダヤにしやうとするロシヤの現状維特派の策謀によったのだ。云々。

 シヤイラ伯爵は1909年にロシヤでニルースを訪問したところ、
表紙にインキのシミのある筆写本を見せられた。

 ニルースはその本は竹馬の親友ナタリヤ・アファナーシエウナから受取ったと語ったが、
アファナーシェウナは巴里でラチコーフスキーから受取っのである。
 (伯爵はその後アフハナーシエウナの名前はコマローフスカであったと訂正した)。

 英人フィリップ・グレーヴスは、
議定書はフランスの辯護士モーリス・ツョリーの書いた
「マキャヴェエル、モンテスキュー地獄對話」の助けによって書かれ、
一章、一句その儘引用した所もあっと書いた。
 地獄対話はプラッセルで1864年(第一版)、68年(第二版)に出版されたものである。

 ユダヤ側の論に對する批判は暫く措き、
議定書が地獄對話を大分多く使った事は唯一の眞實として認めなければならぬ。
 (それは無理が無いかも知れぬ。)

 マキャヴェルの素性は詳にしないが、
正義に見せた巧砂な僞瞞的な政治を唱導した人で或はフリーメーソンに加盟してゐたかも知れぬ、
世にマリャヴェリスムと云ふ言葉迄出来た有名な人で、
ユダヤ哲學者スビノーザが彼の主義を敷演した。

 一方のモンテスキューは、
フランスで發表されてゐるフリーメーソン人名鑑に名を載せて為る人だから、
ジョリーが描いた物語は正にユダヤ・プリーメーソンの本音を吐いたもので、
それをアハド・ハームが又善く承證知の上で気定書に取入れたかも知れぬ。
(ジョリー其れ自身がユダヤ人との説もある)。

 議定書にジョリーの著書の剽窃があったとて、
それが議定書の僞作だと云ふ證明にならないことは右の様な譯である。
 唯議定書の内そのものがユダヤの世界征服の計畫を載せ、
それがユダヤ民族の爲に一ユダヤ人の手で書かれたか否やが問題
である。

 剽窃は犯したかも知れぬが内容が僞作とは言へない。
議定書がユグヤを誣告する爲に反ユダヤ主義者が作ったことが事實なりやを證明しなければなぬ。 

 ユダヤ世界ではラッジウイル公爵夫人を引合に出して
ゴロウインスキーが作ったことにしようと試みて之は悉く失敗に終った。


〔偽文書問題に関するべルン裁判〕  
 之にも懲りず全世界各國別に幾種類かの言葉を用ゐて議定書否認の努力をしたが、
終に之を法定の解決に訴へることに決した。

  1933年(ヒットラー登場の年)の6月26日
端西國ユダヤ協會及ベルンのユダヤ人組合
は訴訟を提起し、
テオドル・フリッツ氏の發行した「シオン團の議定書」は文字通りの廃品であるから
爾今發行禁止の命令を發布することを請求した。

 訴へられたのは「端西國民戦線」及ハイマートウエールの5名である。
  ユダヤ側の専門家としてバーゼル大學の法學授バウムガルテンで、
被告側の専門家としてエーアフルトの「世界奉仕(ウエルト・デインスト)」の主幹フラ一シュハウワー中佐を法廷から指定した。

 専門委員長としては端西の著述家でユダヤ贔屓のシー・エー・ロースリが指名を受けた。
 1934年10月未迄に原告側の請求で證人が16人出廷した。

 1935年5月14日判決が下され、
議定書は僞作であり國民精神を惑亂する文書であると言ひ波された。
それ以上には何も判決は出來なかった。

 それはマルクシストである裁判官は、
侯爵夫人ラッジウイルや伯爵シャイラなどの僞證を眞實として取扱い、
従て僞證に基くバウムガルテンとロースリの専門意見丈を採用しからであり、
他方フライシュハウアー中佐が兩人の證言は眞實ならずと抗議したのを聞かずして判決したからである。

 のみならす裁判官等は議定書が僞作であると云ふ先入観に捕はれ、
ユダヤの露骨な壓迫の爲に客観的態度を失び端西民法の命ずる討議中の記録をも故意に中止させた。
 此くしてユダヤ原告個の請求した證人丈を喚問して、
被告團の請求にかかる人は唯の一人も召喚しなかった。

 それで記録は唯ユダヤ原告側のもの丈残ってゐる。
そして端西の法律では如何なる裁判でも法廷の公けの記録として大要を裁判所の役人が筆記することになって居るのに、
裁判官は此の規則に從はなかった。
 のみならずユダヤ原告側には2名の私設タイビストの入廷を許し
彼等の證人の陳述を公式記録として残すことにした。

 それで合法的の記録は一つも無くて裁判が行はれたのであるから、
裁判は判決に至るまで全部ゼロであって、無效と言はなければならぬ。  

 其の外にも各種の偏頗(ヘンパ、偏ったへんなやりかた)なやり方で、
フラインユ一クアー中佐には便宜を與へることを妨げた。
 即ち、ユダヤ側の端西専門委員には優に8ヶ月の準備期間を與へて置きながら、
フライシュハウアー中佐には6
週間で終る様に仕向けた。
 抗議の末漸く1ヶ月丈と云ふ不充分な日子を延期して呉れたのであった。

 被告は辯護士を通じて控訴した。
 2年半を過きて1937年10月27日ベルンの訴院第刑事部で裁判が再開された。
被告の辯
護士2名は第一審の判決は破棄し被告を無罪にすべく要請した。

 辯
護士は第一審の際の證人調書には署名がしてない事實があること
並びに證人達の證言には何等信を措けないことを指摘し、
又原告側のローシ専門委員の提出したロシア語の書類は原文に不正確なものがあり
且翻訳の際に多数の誤譯があることを指摘した。 

 最後に辯護士は問題の文書は政治上のもので道徳上のものでないから、
被告を瑞西の法律で慮罰することは出来ないと論じた。
 
 立會の検事は裁判記録の取扱いが第一審で正くなかった事
及び刑法の適用に多くの誤りのあることをも認めた。
1937年11月1日控訴院は次の如き判決を下した。

 被告シルヴィオシュネルの行爲は何等犯罪を構成せず、
由て無罪とし、何等の賠償を課せず。

 裁判は大要左りの如き説明を述べた。
 議定書が眞のものか、僞物かに就ての専門意見は餘計なことである。
シオンの議定書は政治上の議論に互るパンフレットでベルンの法律は之に適用すべきでない。

それで全面的無罪を宣告した。
 

 尚裁判長は第一審の裁判官が議定書の眞僞に就て調査する権限は無かった筈だ。
それは不徳義な公判であるか否かとは無関係であるからであると強く附加した。

 此くてユダヤ側は此の裁判に於て目的を達し得なかった。
 之にも拘わらず今以て第一審の判決が有效になって居て、
議定書は僞作と云ふことを主張して居るのは益々輿論を誤導することになるから之は明にせなければならぬ。

 第二審に於ては、
第一審の判決文並に其の誤れる判決の基礎も、
又僞物であることは掌を指すが如しと確言せることなどは悉く全面的に破棄せられたのである。
  
 公爵夫人等の僞證を簡単に明にすれば次の様である。

一、議定書が日露戰爭後に書かれた云ふが、
ステーパノフは既に1895年に之を持って居たしニルースは1901年に手にし、
1903年にはブナーミャー紙に掲載して居る。

二、議定書を巴里で書いたと言ふラチコーフスキー、ゴロウインスキーの兩名は
當時巴里には居らぬ。

 尚ラッジウイル公爵夫人と自称して1921年に米國新聞記者に倉見してゐる女は、
1914年には既に離婚となって公爵夫人ではない。

 其の後技師と結婚間もなく解消し、
新聞記者と會見當時は更にダンビンと結婚して居る有名な嘘つきであるから、
身分を僞ってゐるものの證言が當てにならぬけれども、
議定書を僞物として世間に信じさせるには、
公爵夫人と云ふ眞面目らしい名が附けたかったのであろう。

 第一審の裁判所はこの夫人の前身や職業につき調査することを拒絶し
その夫人は1900年頃阿弗利加へ行くときダイヤモンド王セシル・ローデスに喰っ附いた。

 虚栄の爲にグレート・ブリテーンと云ふ新聞を發刊して居たが、
南阿の政治情勢に就てサリスペリー卿との會見を仕組み、
この會見で卿はローデス氏を南阿の総理大臣にしてやると云ふ意向を述べた様に報じた。

 之を裏書する爲自稱公爵夫人は卿のステートメントに卿のサインを貰って之を發表することにし
ローデスの秘書に本文を見せた。
 夫人に面會したいと云ふ卿の電報も見せた。
所が實際はサりスベリー卿に面會もして居らず、電報も卿からは来て居ない。
秘書に見せ電報は自分が自分に打っ僞電であつた。

 1901年には彼女はセシル・ローデスの名前で二萬九千ポンドの手形を切った。
 それで遂に捕縛され、18ヶ月の重懲役に處せられた。
此等の罪状はまだ他にもあってセシル・ローデスの秘書等の公表した書物を繙どくとまだいくらもある。

 南阿を去ってからの此の女の生活様式は變らなかつた。
 1921年には紐育でホテルの食事傳票を誤魔化して立去ろうとして逮捕された。
 實に適當な證人が議定書の僞物を證明する爲に喚問されたものである。

 議定書が1905年の日露戰爭の後始めて書かれたと云ふ明白なを虚僞の申立は
首席専門委員ロースリとしては甚だまづいことになった。
そこで今度は自ら事實を曲げることに乗り出したた。

即ちラッジウイル夫人の申立を眞實らしくする爲に、
窃かに1905年と云ふのを1895年に書き直した。

 七ヶ月後に彼は法定で被告側専門委員フライシュハウアー中佐の爲に、
そのことを自白させられた。
それにも拘らずあの偏頗な裁判には何の影響を與へず議定書を僞物と判決して終った。

 恐らくラッジウイル夫人の出した申立と云ふのは、
瑞西の地元の人達が拵へて準備して置て、
それを夫人がいくらか自分の意見で直した位のものと思はれる節がある。

 尚あの婦人は米國ユダヤ界の指導者たるルイズ・マーシャルと云ふ
ブナイ・ブリス派のユダヤ・メーソンに面會して特に高給の月五百弗
で雇われたとの説もある。
 
 も一人のシャイラ伯爵と云ふのも相當恥を知らない人で唯自分の申立の眞實を言び張った。
後とで調べて見ると之も名前は違って居て、ウオロディメロツフが本名であった。
この人は未だ嘗てラチコーフスキーに面會したことは無い。

 ニルースの子息の話では父ニルースの持って居た議定書の表紙に
インクのシミなどは無かったとのことである。

 尚この伯爵は1921年にはウランゲル軍のドンコサック部隊の宣傳部長であった。
 その間に敵側の過激派の手先を勤めたが、發覚して逮捕され、反逆罪で死刑を宣告された。
然るにウランゲル將軍は友軍フランス軍の圧迫によって、宣告を取消し、
軍から追放した丈で終ったのてある。

 右の如く多数の人々の證言からすると、
 ラツヂウイル夫人やシャイラ伯爵の申立は毫も問題とならない虚構のことで、
ラチコフスキーも議定書と何等関係の無いことになって居る。

 此等の問題を離れ第れてプロトコールの眞の起因に就いて尚研究を進むべき點はあるが、
最も有効なるロシアの國内に捜索の行ひ得ざることが最も遺憾である、現政権が之を許すや否やは別問題として、

 1917年三月革命で臨時政府が出来た時、
その閣僚の一人フリーメーソン結社員ルウオフ等が
最も注意を加へて内務省及警視庁からユダヤ及フリーメーソンに関係ある一切の機密文書を運び出させて終まったから、
徹底的の調査が困難になったのである。

 此く執筆者及書いた時機などが今以て突き止められないけれども、
それは議定書が虚偽だと云ふ證拠にはならぬし、
内容が今日の現實と一致して居ること又数十年存在するがその価値が一向否定せられないで、
之を僞作と云った方が否定せられたのであるから之は實のものと見られ得るのである。

 

 ベルンの裁判は結局何れとも眞相を明にすること無く終ったが、
議定書の眞相が観破されると困ることがある人が、
ベルンで暴露した様な見苦しい窮策迄使って、
之を僞作として葬り去らうと考へることはハッキリした。

 

〔偽文書に非ることをユダヤ人告白す〕 
 之より更に進んで議定書が本物であることに就て
ユダヤ人の告白する所を發表してユダヤ人の宣傳
によりプロトコール研究の熱をさまさない事が必要である。

 1901年頃波蘭の都市ショッケン(今では之をスコキと呼ぶ)に
ルードルフ・フライシュマンと云ふ次席の猶太僧侶が居た。
その土地に勤務して居た検事ノスコーウイクツがそのラビと親しくなった。

 フライシュマンは上役の僧侶フハイルヒエンフエルドからいどく侮辱されたと云ふのは、
上役僧がフライシュマンの婚約者を殴打したからである。

 フラインユマンは友人たるキリスト敎徒の検事ノスコーウイクツに之を語った。
そのときユダヤ人の反キリスト文書に就て話が出て、つい話はシオンの議定書に及んだ。
 
 その頃、ロシヤの中にはあの本は知られて居た。
 フライシュマン曰く
 『議定書と云ふのは確に存在してゐた。
  そしてそれは決して僞物では無い。
  のみならず、あれは確にユダヤから出てゐるものだ。』
と説き、

 更にユダヤ禍に就て同宗の人々、同鄕の人々に警告を與へるのはキリスト教徒の義務だとまで述べた。

 ノスゴーウイクツは更に次の事を述べた。
 1908年波蘭で有名なユダヤ僧グルユンフェルト・シュワルツェッツに議定書の眞僞に就て直接聞いて見た。
すると、グルユンフェルトはにユダヤ式の答へ方で次の様に述べた。

 『親愛なる友よ、貴方は物好き過ぎる。
  餘り多くのことを知らうとする。
  此等の事に就て語ることは吾々に許されてゐない。
  自分は何事でも語ることを許されてゐる譯ではないし、
  貴方は何事でも知って善いとは思はれない。
  神かけて注意くおやらなされい。
  そうでないと貴方の命は危険に曝されるますぞ』

 如何にも含蓄ある答である。

 次には、ロシアの大尉(現職の爲絶對秘密)が
ユーゴ・スラーヴィアでユダヤ人のサウエリー・コン
スタンチノウイチ・エフロンを訪問したとき、
或る機會に議定書の眞僞の問題を持出して見た所、
エアフロン熱を見せて曰く 

 自分は永年善くその内容を知ってゐる。
あれが其の基督教徒の新聞に出るズット前からである。
尚エフロンは自分にプロトコールを通讀したかと聞ぐから、
然りと簽へると彼は
『あの議定書は元の原稿の儘ではない。
 同じ原本から圧縮し摘録したものである。
 自分は悶んで居るのだ。
 あの原本の秘密を語って仕まはうか否かに迷ってゐる、
 若し發表しても其の利益より害の方が多くはなかろうかを考へて居る。
(中略)
議定書の原本のあることに執て知って居るものは全世界を通じて十人しかない。 
 その一人は貴方の使用人ですよ。
 貴方屡々お出で下さるならばこの秘密を打空けられるでせう云々』
 (ベルゲマイスター著ぜ・ジューシュシュ・コンスピラシー参照)

   


四王天延孝著『猶太思想及運動』第五篇 猶太の運動 第六章 猶太解放の三策(第一世界大戰の眞因との関係)

2025-04-13 13:47:34 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

 
    四王天延孝著『猶太思想及運動』
     第
5篇 猶太の運動



 第六章 猶太解放の三策
   (第一世界大戰の眞因との関係)


   露、墺、獨への集中
 ・・・・・政治法律の變化
 ・・・・・阿弗利加等に土地を獲得す
 ・・・・・パレスタインへの復歸
 ・・・・・ユダヤ過激勞働團隊たるブンドの創立 

〔露、墺、獨への集中〕
  ユダヤ人にして法律、経済學者なるアルツール・ルツピン博士は、
今世紀の始め1904年伯林から「現今のユダヤ種族」と題する一書を公にし、
大戦開始直前迄に数版を重ねた。

 博士はその第十七章に於いて
猶太種族の地方的獨立と題して
ユダヤ人集團生活を以て、他民族への同化防止を唱導した。

 之は學者的立場から温健な文筆で書かれてあって、
その實際に触れていない憾みはあり、且つ冗長の嫌いはあるが
現在の戰爭後に於けるユダヤ問題解決の参考になることであるから
先づ基礎としてその全文を載せ、然る後實現した事柄と對比して之を批判することにする。 
(早稲田大日本文明協會「現今の猶太種族」354ページ以下)

一、従来如何なる土地に於て猶太人が堅密なる集團を爲して最もよく生活し
且つ其の中に於て一の確實なる猶太の経済的生活を建設し得るかてふ問題に對し、
三の答解ありき。
 此等は皆生活意志の相異れる表明、
即ち諸國民中に於ける獨立の實體として猶太人を保有せんとする要望の表明にして、
それぞれ眞面日に議論すべき価値あり。

 第一の答解は、
猶太人をして東方欧羅巴に集中し、
以て國民的基礎の上に自己を組織せしむべしと云ふにあり。

 第二は、――イスラエル・サングウイルの解答――
欧羅巴人の未だ触れざる阿弗利加乃至亜米利加の或地域を可となす。

 第三の回答は――猶太民族主義者の解答――
パレスタインを以って猶太新生活の為の唯一の可能的中心なりと為す。 


二、東方欧羅巴集中の豫想
〔政治法律の變化〕

 第一の解答は最も手近なり。
東方欧羅巴の或地域に於て、猶太人に既に人口の約五分分の一を構成す。
他地方より此等の地方へ獵太人の更に多数に流入する事は大なる困難にあらざらん、
蓋し其の距離は僅少にして、
社會上及風土上の状態は彼等が既に慣熟せる所のものと頗る似たるを以てなり。
一般通用語はイディッシュ語にて足らん。
 然れども其所に或る極めて大なる故障あり。

 第一今日の露西亜法律は猶太人の諸村落に定住するを禁じ、
之が為め實際、農業の望みは消滅す。
而して政府は其の國にある一切の少数國民を撲滅せんとの政策を以て、
猶太人の總ての地方的獨立にも烈しく反對すべきは明らかなり。

 然れども、こは或は消滅することあるべし。
法律や政策は時の経過と共に變化す。

 斯くして是等の困難は,墺地利に於て猶太人の平等と一切少数國民の權利とが、
少くも法律上承認せらるるを以て、之を排除するを得べし。

 而も二箇の障碍は尚残す。

 農業への復歸は東方欧羅巴に於ては成功せざるべく、
又猶太生活の培養は不断の故障と紛擾とを受くるならん。

 東方欧羅巴は實業主義の中途にあり、實業的社會は猶太人に無数の機會を掲供す。 
されば假令農業の試圖が成功するも、
而も常に極めて軽微なる失敗の暗示ある場合にすら、
猶太人は其の新活動を捨て、再び商業或は實業に立歸るの危険あらん。

 二千年の都市生活の後、猶太人が俄に農業に親しむとは思はれざるなり。

 新猶太文化創造の場合も亦之と甚だ相似たり。
東欧羅巴には欧羅巴文化の廣大なる分野に近きに過ぐ。

 猶太人自身の文化を発展せしむるには
猶太人が小期間他の文化より離れて生活せざるを得ぎるべし。

 彼等が文化の優越せる國民の間に残留する限り免るるべき同化の潮流に對して、
専ら獨得の國體と文化とを固持すること能はざ
るべし。

 彼等は恒に其の周囲に見る所のものを摸倣するの誘惑に陥り、
斯くして彼等の文明は猶太的ならずして
波蘭、獨逸若しくは露西亜文化の劣等なる出版となるべし。

 

 實際東欧羅巴に猶太人の中心を求めんとする意見に賛成する人は少く、
猶太人の「國家的自治」、
即ち立法部に於て、一國民として法律上の地位を確立し
且その数に比例して其の自治權を更に大ならしめん
(地方的獨立を行はすして)と言ふもの甚だ多し。

 國家的自治權は
ガリツイーンとブコヴィナとに於いて國民的大望を有する猶太人の一の主要なる要求なり。

 然れども斯かる國家的自治權は、
今日墺太利及ガリツイーンに於けるが如く猶太人が散在し以て農業に親しまざる限り、
同化に對する永続的の防護となり
或は一箇の國民的猶太文化を創造するとは思は
れざるなり。

 されど同化の過程は、恐らく法律上に於て國民的地位を保證することに依り遅滞せしめられて、
従ってガルツイーンとプコヴィナに於いて
猶太民族主義(其の理想はパレスティナにあり)が地方の國民的自治の為め働くはふべからざるなり。


〔阿弗利加等に土地を獲得す〕

三、植民地に於る獨立の豫想(領地主義)東方欧羅巴の猶太人の中心は諸種の困難を以って覆はる。
 發達せざる植民地は猶太人の定住のためよりよき分野を提供するや。
此の點に於て英國政府は、唯一の具體的提案を為しウガンダ
 (註 アフリカ州ナイル川の上流)を猶太の植民地に提供せんとしたるも、
そは猶太民族主義により拒絶せられたり。

 イスラエル・ザングウイルはウガンダの提供を受容すべしと主張したるも其の効なく、
其の後自ら「領地主義者」運動の頭目となれり。

 領地主義はパレスティナは實際の望みなきを以て
猶太人は或他の地域に集中せざる可らずと主張り。
即ちそは北阿弗利加の未開地方又は豪州かの何れか或いは適當なる土地の發見に努力す。

 然れどもそれは何等擧示すべき一定のものを有せす。
此等の一箇の土地の為の故國を捨つべき猶太人が同化より庇護せられ
又将来彼等自身の文化を発展すべきは明白なり。

 然れども問題は斯かる國土に猶太團體を定住せしむることが可能なりや否やかにあり。

 こは頗る重大なる疑問なり。
第一歐羅巴猶太人の植民に適合させる一地區が甚だ容易に發見せらるべしとは極めて信じ難し。
即ちウガンダは確に大殖民地に適せざりき。

 然れども斯かる國土が假に存在をすとするも、
人烟希薄なる未開の國の植民は勢力ある國家すら尚屡々打勝ち難き大なる困難を提起す。

〔パレスタインへの復歸〕
 所謂領地主義者が斯かる土地を可とするは、
唯パレステイナより困難を少かるべしと考ふるが為にして
彼等は其の困難を餘りに軽視するの嫌いがあり。

 パレステイナは事實殖民地に於ては
存せざる政治的障磚を提起するやも計るべからず。

 然れども其の社會的及経済的困難は之に比して軽徴なり。
最も好都合なる事情の下に於ても
外國の一地域に、今日既にパレステイナに定住させるだけの猶太人を定住せしむるには数多の年月を要するならん。
 而して其の時まで恐らく斯かる事業の無益なりしこと分明し
而して今日一大規模に於けるパレステイナの猶太移民を妨ぐる政治上の困難は最早存せざるに至るべし。

 されど未開植民地にあらすしてメソポタミア或いは小亜細亜に猶太人を定住せしめんとする場合には、
之と稍趣を異にすべし、
此處にパレステイナに比してより大なる経済上の困難はなかるべきも、
猶太人が古き郷國に對して感ずる熱誠
又パレステイナ殖民上に極めて価値ある熱誠は勿論此の場合に存在せざるべし。

 然れども土耳古政府がパレスナテイナよりもメソポタミア
或いは小亜細亜の猶太殖民を欣ぶの風は毫も之は奇なり。
さればこれは論議の必要なし。


四 パレスチナに於ける獨立の豫想(猶太民族主義)領地主義者が第一の論拠とする所は
東歐猶太人間の窮状――そは假令漠然たるものなるにもせよ――は実に惨憺たるものあり、
若し之を改善せんとするものあらば直に賛助者を得べしと云ふにあり。

 猶太民族主義は斯かる冒険的計画よりも更に以上のものなりや。
東方歐羅巴と植民諸國とに於てに實行せざれざる様に見ゆるものは、
パレステイナに於いて果て可能なりや。
吾人は直に然りと答ふる能はず。


 然れども吾人は直に先に列擧したる困難の多くは
パレステイナが獨立の為の土地として提起せらるるや否や消滅し、
或は然らざる迄も威力を減少すると言ひ得るなり。
其の気候は健康に宜く、且つ歐羅巴猶太人の居住を許容す。

 パレステイナは十分に開化し
又近代生活と密接に交渉するを以て、
新未開國に於て遭遇する如き植民の困難より免るゝを得るなり。

 されど之と同時に、
そは猶太人が非猶太人と結合せんとするの意を起す程までには開化せず。

 その文化の點に於て猶太人に必要なる環境を正確に提供す、
即ちそは彼等を阻碍するまでには遅滞せす、
彼等を他に轉移せしむる迄には進まざるなり。
 
 パレステイナは土耳古――幾多の小國民より成れる一國に――属し
又同時に猶太人を常に他國民と同等なる國民として取扱ふ唯一の國家なり。
パレステイナは一の農業國にして
又今後幾百年間農業國たるを失はざるべし。

 是を以てそは或は商業的職業を可として農業を委棄するやう農業移民を誘惑することなし。
今日パレスチイナには略十萬の猶太人あり
而して其所に植民事業は最近30年の間行はる。

 此等事實の重要なることを言ひ盡すは不可能なり。
此くして猶太團體の勘定と情操とは
總ての他の國よりも更に密接に猶太の古代の故國たるパレステイナと結合せらるゝなり。

 吾人にして若し此の一切に加ふるに、
農業生活への復歸並びに希伯来語(ヘブライ語)の復興の爲め、
パレスティナが特に好都合なりとせる以上の記述を記憶せんには、
吾人は猶太團體の定住と彼等自身の文化發展の為め
パレステイナは他の一切諸國に優るてう結論に到建せざる可らず。

 パレステイナに猶太居住地を提議せし最初の猶太人は、
パレステイナが宗教的に歴史的に重要なりとの意識が
甚た多數の猶太中に覺醒せしめたる感情の力より發せるものにして、
實際的動機より出でたるに非す。

 彼等の感情の正當なることは證明せられ、
且そは本能の歴史に尚一箇の例を添加するものにして本能は理性に先んじ、
後に至り理性に依りて證明せらるゝものなり。

 

 若し歐羅巴の猶太人の一部にしてパレスナイナに歸るべしとせば、
吾人はかの2500年以前に行はれたりしシオンへの復歸を再び目標することゝならん。

 當時猶太人の一部はバビロン追放後パレステイナに歸来せるなり。
 
 其の時バビロンは――今日の歐羅巴の如く――文化の中心にして
又同化の暖床なき。
 今日の歐羅巴猶太人に於けるが如く、僅に少数者のみが安楽なるバビロン生活を棄てゝ、
荒蕪なるパレステイナに行かんと決心するを得たるのみ。

 然れども少数なる一握の猶太人は再び發育して一の國家となり、
能く獨得の文明を確立し得たるなり。

 此の思想は現今の猶太人を岐舞するならん、
而して吾人が最後の一章に於て猶太民族主義
――パレステイナに於ける猶太種族の國家的存鑟を目的とする運動――
を論する寔(まこと)に至當のことたるなり。

 右ルツピンの告白は如何にも含蓄あり、
難解に見えるが(譯が原文に忠実過ぐ)前世紀末葉に、
ユダヤの今世紀に行ふべき解放策三つを赤裸々に示したことゝ、
ユダヤ民族が他民族に同化するのを危險として、
どこ迄も彼等自らを差別して、
自らの力によって行かふと云ふ猶太國民運動、
即ち第四章に述べたシオン運動の精神を充分観取することか出来る。


 之丈では彼等が世界一般に發表しない本心が掴み得ないから、
他の幾多の斷片的に諸交獻よりの材料を綜合して解剖すれば、
ルツピンも書いて居る通り、
ロシアはユダヤ人に對して法律を以て諸村落への定住を禁じて居るのは事實であって、

  “ロシア政府は其の國にある一切の少數國民を撲滅せんとの政策を以て
   ユダヤ人の総ての地方的獨立にも烈しく反對すべきは明らかなり。
   然れどもこは或は消滅することあるべし、
   法や政策は時の経過と共に變化す“ 

 と書いてある所が最も注意を要する點である。

 

 第二論者のイスラエル・ザングウイルは後年アメリカ同族に檄を飛ばして、
やがてロンアを開化させ・・・・ドイツをもと叫んだことなどと對照して、
消減云々はロシアの革命を婉曲に豫告したものと見るべきである。』

〔ユダヤ過激勞働團隊たるブンドの創立〕 
 1897年11月には波蘭の都市ウイルナに
ユダヤ勞働團隊が組織され露墺獨方面の革命運動の基礎を造った。

 其の名はドイツ語で附けてアルゲマイナー・ユディッシャー・アルバイター・ブント・イン・ルツスランド・ボーレン・ウント・リタウエンと云ふのであるが、
餘り長いので略して第にブンドと云ふてゐた。

 之がルッピン博士の區別した第一論者の主張を貫く役目に當り、
第三論者のユダヤ國民主義者即ちシオスト運動に反對をした。


 先年ハルピンでブンドの檄文を手にしが此の傾向が明瞭になってゐた。
 
即ち今日の社會にプールジョアとプロレアタリアの二階級に區分することが出来る。
 而してユダヤ國を復興し政府を樹てようとするものは
貧民擁護の假面を被った資本家の手先である。(中略) 

 パレスタインにユダヤ國政府を建てんと割策する
ロイド・ジョージ、バルフォーア・ミルラン(註 前記元佛國大統領、本名カーンと呼ぶユダヤ人)等は
ユダヤ人を盲人と認めてゐるのであらう。

 ユダヤ人に須らく赤旗を押立てゝ、資本主義と戰はなければならない。
   (中略)  

 ユダヤ勞働者を擁護するものはブンド以外にはない。
彼のシオン團なるものは唯英國の利益を主眼として、
ユダヤ人の利益を無視し勞働者を奴隷視しつゝある。
吾人は飽く迄彼等を排斥しなければならぬ。
 

 この第一論者の道具立たるブンドは
革命皮立し目的を達した後は、ロシアではポルシェヴィキーに加
盟して仕舞ったが、
波関では勢力を特ち
又ルーマニア、リスアニア、英國及米國合衆國内にも分散たれた同志を有して居のである。
 (エンサイクロペジア・ジューイッシュ、ノーレツジ87頁参照) 

 

 第二論者のイスラエル・ザングウイルの提案に共鳴して、
ウガンダを英國からユダヤに渡そうとした人は、
時の外務大臣ジョゼフ・チエムバーレン氏である。
(皇紀2600年未死去したネヴィル・チエムバーレン氏の先代)

 この第二論者のウガング建国に反對し人々の嘲笑は如何にユダヤ人が士地を要するからとは申せ、
ヴィクトリア湖の周圍の山奥で綿の産地に過きない、
すぐ隣りには今だに人猿の中間に位するホッテンドット族の居住する山奥へ追ひ込まれてまで建國をするのは善くない、
こんなことでユダヤ解放が一進展したなどと、
気の緩るむ様なことがあったら却て弊害が多いと強硬な反對をした。
 
 第三論のパレスインを是非共復興したいと云ふのは、
同地が神様から必ず返してやると云ふことになってゐる所謂 “約束の士地”であるから
建国の土地は必ずパレスタインに限ると云ふことである。

 而して後章説くごとく、
第一世界大戦の第四年11月2日に
英國バルフォアーア外相の宣言によって、
第三論者の宿願は成就し、
五日経った11月7日にモスコーに共産革命が成立し
プンド派が盡力したユダヤ政府とも稱すべき勞農政權が確立した
のであった。

 之が如何なる経過を取ったかは、後章に述べる。
本章には
このユダヤ解放問題が
第一世界大戰の蔭にひそむ大きな目的物であったことの示唆を與へて置くに止める。


四王天延孝著『猶太思想及運動』第五篇 猶太の運動 第五章 猶太の運動 第四節 第三インターナショナル・・・・国家 破壊が目的、宗教破壊・家庭破壊

2025-04-13 13:45:08 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

 
       四王天 延孝著『猶太思想及運動』  
   
 第
5篇 猶太の運動 


      第
5章 インターナショナル運動
      
第4節 第三インターナショナル
                               (共産インターナンヨナル) 

 

漸進主義、協調主義から急伸、非協調に變った丈
・・・・・共産理論は火附村料に過ぎず
・・・・・国家
破壊が目的、大衆獲得の好餌
・・・・・蘇聯との関係・・・・・イルミナチの綱領の流れを受く
・・・・・私有財産の廃止と逆戻り
・・・・・レーニンの述懐・・・・・宗教破壊、家庭破壊  

〔漸進主義、協調主義から急伸、非協調に變った丈〕
  後章に述ぶる如く第一世界大戦の最中に、
ロシヤに3月、十一月革命が起り、墺、獨兩帝國共に革命
によって敗北し、
戰爭は1918年11月に休戰となって幕を閉じた。

 その翌年3月2日から6日
モスコー政府のお膝元で其の庇護の下に9ケ國の代表者によって組織せられたもので、
共産インターナショナルは略してコミンテルンと云ふのである。

 之に参加したのは戦前の第二インターナショナルの左翼をなしてゐたロシヤのポルシエヴィキ、
ドイツ社會民主黨の左翼等で、
既に前記シュッツガルト大會の年から右翼に對抗する爲に一分派を作らうという企てをしてた。

 其の主張する所は第二インターナショナルの膿である日和見主義、妥協苟合主義より分離して
獨立し國内的、國際的政黨を組織して世界の大衆を指導しなければならと言ふのである。

 第二インターナショナルが社會主義インターナショナルで、
第三が共産主義インターナショナルで
あるからと云ふて、
全然達つものではないことは、漸進主義、協調主義を排して急進主義、非協調主義で行く丈である。

 この事に就て1919年2月8日ロンドンのアルバート・ホールと云ふ會館で過激派の會合があった時、
ユダヤ文士で共産主義者のイスラエル・ザングヴィルが出席して、次の様な大胆な告白をしてゐる。

 社會主義もボルシエヴイムも結局は同じ事になるのであって、
 社會主義の指導者も、ポルシエヴィムの指導者も共にユダヤ人
であのだ。

 第三インターナショナルの綱領としては、
ロシアからレーニンが持出し、ドイツからは,リープクネヒトが持出し、
双方を寄せ集めて15條から成るのである。

 その詳細は之を省略するが、
日本共産黨の13か条の綱領が皇紀2588年の三・一五事件後に發表されたが、
それがコンミンテルンのものを真似をしたのであるから、之より類推し得る。

 

 唯その中で15箇條を貫く根本指導精神と云ふものがあって、それは
 各國に於ける運動は之を全體として世界革命の一般的利益に從屬せしめる。 

 換言して判り易く云へば、各國に於る運動は之を各國そのものの利益の爲にするのではない。
世界革命と云ふ大目的を達成する爲にやるのであるから、
その國の爲には利益になるうと、不利にならうと、それは致方ないのだと云ふことである。

 従って共産革命をやって何等その國が改良されず、
益々窮迫になろうとも不平を述べてはならぬ、
世界革命が全部完成をした暁に始めて幸福が得られるのであるから、
それまでは犧牲になるのを忍べと云ふ意味も含まれてゐる譯である。

 現在の第三インターナショナル.の元締格たる蘇ウェト聯邦が、
世界革命主義を捨てたと云ふ様なことが時々放送されて來るが、
それは時の都合、掛け引きでそう云ふ事はあっても、
第三インターナショナルの根本精神が覆減せざるを限りは信用はおけない。


共産理論は火附村料に過ぎず〕
 次に綱領はかく述べてゐる。

 共産主義者の使命は、無産者の資本家に對する反抗を指導し、勞農民に政權を與へ、
彼等以外のものに何等の權力を與へない。

 併し此の勞農獨裁政治は一時の手段であって目的では無い。
眞の目的
は抑壓もなく階級もなき共産主義社會を樹立するにある。 

 此の未文は前に革兪的フリーメーソンの標語自由平等の矛盾を説く時述べた、
自由平等の社會を造ると云ふのであって、
ゲーテの所謂餘程の低能児か又は餘程のイカサマ師であると云ふ言葉を想起させられる。

 共産主義社會などが實現可なりや又は単なる理想なりやに就ては多く論議の必要を認めないから、
唯彼等個の告白を二三摘記して自白せしめるに止めた。

 即ち
今より、20年前西伯利事變中、
モスコーから来た經済學博士氏の來訪を受け、
共産主義實現の可能か不可能かに就て學者として忌憚なき所見を叩いて見ると、
蘇聯に於いては燒くべきものは全部燒き拂って仕舞ひ、
今や下から別の草の芽が出かかって居るのだ、

 此の際になってその火附の道具立てのことなど語りたくないと云ふ含蓄のある文句で、
共産社會は實現不可能で、それは唯火附の道具に過きないことを告白してゐる。

 又ブハーリンとプレオプラジェンスキーの共著「共産黨入門」
 (原名アーズブカ、コムミユニスマ)と云ふ
宣傳員養成の教科書を繙くと、その第21章に

 共産主義が此の世の中で行はれるには、
これから少くも二三代を要する、
即ち吾々の孫、曽孫、玄孫の時代にでもなったならば行はれるであらう。

 と云ふ意味の文句がある。

 之は最後に間び詰められた時の逃口上として答へよとの意味で書いてあ
る。


国家破壊が目的、大衆獲得の好餌〕
 右の如く彼等自らも共産主義の行はれるものでなく、破壞の爲の一手段として居る。
今頃皇國など
で共産主義を説き廻る馬鹿者もなからうが、
同じ目的である破壞を準備する爲に戰時共産的のことを考へる輩が仮面をかぶって居らぬとは申せぬ。

 前に述べたシュツツガルトの反戰決議などと、對照し注意すべきである。

 此の如き共産主義の眞目的を尋ねると、彼等が一般に發表しない綱領の第三節に
 コミンテルンの目的は、要すれば暴力をも用ゆる、あらゆる手段によって、
世界のプールジョア階級を倒し、國際ソヴェート共和國を造るにある。

 即ち之は完全に國家を破壞し去る一階梯に過ぎず。
 (註 暴力とは戰争手段を指す)

 之が本音であって共産主義社會を樹立するなどは終局目的では無い。
 大衆獲得の爲の一つの手段としてゐるのは明白々である。

 フランス革命の大立物で、フリーメーソン祕密結社員であった
ミラボーは次に意味の放言をしてゐる。
 「大衆は革命の爲の肉弾なり」 

 又後章に詳説するユダヤ人シオン議定書第三章の中程に
 「吾々ユダヤ人は勞働者の救済者、解放者として現れ出で、
  豫てフリーメーソン仲間として補助を與へてゐる
  社會主義者、無政府主義者、共産主義者の陣営に勞働者を引入れる」

 又皇紀2580年(大正9年、1920年)モスコーで行はれポルシエウイキ派の大會に於て左の如く決議し、
  吾人は須らく共産主義を前衛となし、
  世界の無産階級を味方に引入れ、
  以て有らゆる階級を打破し
資本主義を葬らんとす


 又皇紀2583年(大正12年、1923年)勞農ロシヤのユダヤ人ヨツフエ氏が日本に來たとき、
雑誌改造の5月號を通して、新經済政策に就て所謂彼等の暴露戦術による宣傳を行った。
その中に次の文句がある。

 勞農政府は平和の爲の戰爭、實は世界革命の爲の戰爭の火蓋を切ったものであった。
 労農政府はロシアに於ける最大多數の階級即ち小農民の利益を図り、
 彼等を革命の味方に引入れ、
 彼等と及びロシアの地主貴族とを永久に離間する爲のものであった。
 (註 永久に離聞とは即ち殺戮させることを柔かに表現したと思はれる) 

 茲で第三インターナショナるとソウェート政府との関係を述べる必要が生じる。
 前記文獻にも之を併
記したし、之から先述べる所にも第三インターナショナを説きながら、
ソヴェート聯邦の状況を述べる場合もあるから之を明にする。

〔蘇聯との関係〕
 ソウェート政府の言な分では第三インターナショナルと云ふのは國際機関であって、
之には英、米、獨、件、伊、日など世界中の人が寄り合って造って居るものである、
ソヴェートの國家の中に本部が常設してあるから人は誤りて之をソヴエートのものと混同するが之は迷惑なことである。
全く別物であると主張するのである。

 現に今から15年程前に巴里駐箚の蘇聯の大使ラコーフスキーの名が
フランス軍隊の赤化を圖った張本人名簿の中に見當ったので、フランス政府はソ聯政府に抗議すると、
ソ聯ではラコーフスキーは第三インタンナショナルの一員だから、
その関係で名を出したかも知れぬが、それは蘇聯の関するところでは無い。

 若し彼がソ聯大使として左様なことでもしたら責任を負ふが、
そうでないのだから抗議は受ける理由はないと強辨した。

 フランスでは然らば曩にアグレマンを與へて、大使として待遇して来たが
今後は大使として取扱へないから召喚せられないと疉みかけたので
結局ソ聯はラコーフスキーを呼戻さなければならなくなった事件があった。

 此の如く使ひ別けをすることは場合によっては外國に都合の善いこともある。
 例へばドイツでも日、伊でも國際共産黨には反対するが、
蘇聯邦とは親善関係を結ぶとか、國交調整をすると云ふことは出来ないことはない。

 但し事實はコンミンテルン成立の経緯、政府構成員の顔振れから見ても一體をなすのであるから、
使び分けをすることは言はば、耳を掩ふて鈴を盗むのであることは間達ない。

 右の理由で第三インターナショナを叙述する本章の中に勞農ロシアのことを擧げるのである。
 〔註 勞農ロシアと記す場合があるが、
   最早ロシアと云ふ國家は世界革命の第一段で亡び去り、
  本當の名前はソヴェート社會主義
共和國聯邦と云ふので国家ではない。
  日本では蘇聯と略称するが、自身はエ
ス、エス、エス、エルと略稱し
  外国ではユー、エス、えす、アールと呼ぶ〕


〔イルミナチの綱領の流れを受く〕 
 第二インターナショナルの目的が那邊にあるかは既に説いた所で明であるが、
この目的達成の方法と
して幾多の戦術があり、所謂テーゼを以て世界に指令を出しつつある。

 時々變化する戦法やテーゼを過
去に溯り記述することは之を避け、
従來の戦法の中で、吾々の最も參考となるもの、幾つかを述べ
る。

 之はメーデーの起原の所で説いた1776年に出来たイルミナチの綱領が確立し、
此丈は根本原則として中心になって居て、
第一、第二、第三の各インターナショナルを通じて狂はない様であるから先づ之を擧げると
  君主制及凡ての秩序ある政府の廢棄
  私有財産制の廃止
  相続權の廃止 
  愛國心の廃止  
  家庭の破壊(結婚及凡ての道徳竝に児童の家庭教育組織を含む)
  全宗敎の破壊 

 之は正に今日をの文明の破壊であるが、
このフリーメーソン結社員ワイズハウプトの立てた大原則第は場所により、
時に應じ緩急順序を計って進行したものである。

 右の秘密は1786年10月11日ババリア政府がワイズハウプトの同志ツワツクの家宅を捜索し、
巧砂なる仕掛を施し、強て開くと有毒
物の飛び出す様な金庫の中より欧州し得た書類から捗録したなのである。
 (ネスタ、ウエブスター女子著世界革命第22乃至第24頁) 

 尚ワイズハウブトの記する記によれば
 君主及 “國民” は地球上から消え失せるであらう
 然り人類には唯自然の書き物以外に他の法律の
なくなる時が来るであらう。
 此の變革が秘密結社の働きによるのであって、
 それが吾々の大秘密の一つである。
  (同上25頁)

  此等はユダヤ教を説くに方に方り、
イザヤ豫言書の第六十章の文句其の他で君主制度破壞を豫言せられあることと一致する。
共産インターナショナルの綱領に明かに之が述べられてゐることは世間周知
のことである。

 フランス大革命を始め第一世界大戦中にも露、墺、獨の三帝冠を叩き落したことなどその手始めである。
滿洲帝國の近年出現したことなどは彼等の眼から見れば原則に逆行することで、
是非共満州國をつぶさなければならぬと深く決心するのも彼等として當然のことであらう。

〔私有財産の廃止と逆戻り〕
 私有財産制廃止も亦共産インターナショナルがイルミナチより継承し、
宣傳し、實行して来た事で
あるが、
今その一部であるり而も重要な天與のものである土地を、
矢張生産機関と云ふ名目で機械か工場かの如くに
之を所有者の手から奪うのに小農民の力を借りて地主を葬らせ、
又其の小農民の手から之を捲き上げて
労農政權(即ちユダヤ政權の手)に移して来たことは餘りに有名な話であるが、

 筆者がロシア農民等の口から聞き得たことを一應を叙述するのは、
現代日本の直面している昭和維新の参考資料提供上無益でないと信じ之を左に概説する。

 革命當時に於ける宣傳では貧富の懸隔を絶無にする。
 革命成功の暁には長年苦んでまた小農民も土地の分配にあづかれるし、
将来自作農になれる様な画白い話で炊きつけられて革命に加担した。
 地主の土地を没収し一應土地國有をとなったのを分配されて耕した。
非常な満足と喜びを以て耕しやした。

 然るに収穫をする前になると、
官憲が廻って来て、その穀物は農民のものでは無いぞ、
大凡天より降るもの地より産するもの是悉く人類の共有なりと云ふ天測に従ひ、
之は全體のものである。

 農民は遺家族が一年間に食料として必要な最少額
及家家畜用飼料並びに種子は自分の倉庫に収穫することを差許す、
残りの収穫物は来る何月何日迄にお前たちの運搬力を以て郡の何農會の所へ運搬せよと云ふ申付けである。

 驚いたのは吾々農民である。
 折角一年間櫛風沐雨、努力に努力を重ねて出来た結晶たる此穀物を
天下萬人のものだと言って只で持って行かれ、
それが如何に分配されるのか判らん様では困る、
と言ふて命に服さなかったが、
勞農官憲は場合により軍隊迄派遣して無理に徴収して行った。

 そこで農民達は考へた。
穀物を耕作地全部に作って収穫物を出さなければ殺される。
また来年からは自家用を一生懸命に作るが、
一般用は馬鹿々々しいと云ふので本気に作らなくなったので、
農産物は著しい減産になった。
之に加へて大旱魃に襲はれて悲惨な飢餓になった。
隣村同志で互に融通の問題で爭が起り鐡条網迄張った様な見苦しい場面まで起った。 

〔レーニンの述懐〕
 レーニンが漸く無明の夢から醒めたのは其の頃である、曰く
 『自分は随分長年考へ抜いて革命に成功したと思ったが、
  極めて大事なことを一つ打算の外に置いて来た、
  それは制度の變革さへやれば世の中は改まると思って居たが大した間違ひであった。
  急激な制度の變革をやつても、
  そこに住んで居る人間は變革前と少しも變らない人間である。
  これから人聞の頭から變へて行かなければ駄目である』
 と述懐したと傳へられてゐる。

 勞農政権は茲に於て自家用以外の農産物を作るのに精を出す農民に
勤勉特別褒賞などを制定して見たが中々その位の事では及ばずして
耕作面積は戰前の半分近く迄に低落した。

 終に政府は1921年新経政政策と稱して農村から農産物を徴収することを止め、
一定の租税を徴収することに改める迄
に退却した。

 其の後又々富農や中農が出来たりコルホーズと云ふ共同収穫法を以て穀物を取上げつゝあるが、
之は吾邦の米穀管理法に基づく、
共同収穫法などの範囲を遥かに超え農民の強制的移動及勞働を要求するものである。
穀物の行へは又々神の選民のみ知る所であるらしい。  

宗教破壊、家庭破壊
 次に一貫してやって居るのは宗教の破壊である。
共産黨入門と云ふ教科書には、宗教破壊の方法を大乗小乗の二様に別けて教へてある。

 即ち
知識階級に對しては科學萬能主義を説いて宗教を否認すること
無智識階級に對しては奇跡の否認を以てすること。

 1897年の第一回シオニスト會議から有名になった議定書第四章に 
 「かるが故に凡ての宗教を転覆し、
  神と聖霊とに開する基礎観念を非猶太人の魂から抜き去って、
  之に代ふるに算数的打算と物質の欲求を以てせなければならない。
」 

 但し断って置くべきことは、
彼等の考える宗教破壊の中にはユダヤ敎は除外されて居ることである。

 
ユダヤ人マルクスの有名な語
  ”宗教は人民の阿片なり“  は、モスコー目抜き所へ金交字で掲げてあるけれども、
ユダヤ教の寺院の破壊されたものは極めて稀である。
 
 革命後数年を経た後に於て唯ノヴゴーロド=セーウエルスクの一ケ寺で
而もそれは軍隊が革命で崩壊する際のことである。

之に反しキリスト教の寺院は至る所破壊され又は徴發され活動写真や事務室に使用されてゐるので、
この點誤りなき観察をせなけれはならぬ。

 扨科學を以て宗教破壊を智識階級に向けることは有り得べきことであるが、
現實吾人はこの手に乗せられつゝあるか否かは静かに検討の要がある。
 大政翼賛會の実践要綱の中に盛に科學のことが盛られ


又在来日本語に無かった“科學する”など云ふ言葉が出来た。
科學は大に發達させねばならぬが、之は宗敎破壊の道具に使はれるのではなく、
寧ろ宗敎の足が地に附かない所を補ふ位にせなけれはなぬ。

 無知識階級に奇蹟の否認をすることなどは相當悪辣な手段を講じた實例がある。
 即ちロシアの純朴な農民の戰死者遺族の家へユダヤ系の才気ある宣傳員が休ませて貰ひ、
 家人に向て戰爭から革命が続き嘸(さぞ)かし犠牲者も出たらうと話しかけ、
 誰々が出征して戰死し、負傷したと答へると正教の發行するお守札を持て出征したかと尋ね、
 然りと答えれば、お守も役に立たぬではないか、
 それが宗教は迷信である何よりの証拠だと辯じ立て終に信仰の動揺を與へると云ふ風なやり方をし、

 又小學校の授業の際、特に昼食時間を過ぎてまで之を継続して、
児童が空腹を訴えると、キリストの新約全書の文句の、
“人はパンのみにて生くるものに非ず”を引用して、
精神の緊張で忍耐せよと要求する。

 暫くすると空腹に耐えないものが先生に又要求をする、
そこで又別の文句“求めよさらば與へるれん”
“誰かその子がパンを求めんに石を與へんや”と云ふのを読んで聞かせ
神様は必ず求めるパンを賜る筈だと長く長く祈祷させ精魂尽きた頃、

 祈祷を止めさせパンを賜はっものは手を擧げと命じ、
一人も神様から頂かないことを認め、
それよりキリスト敎の教へなどは此の如く嘘であると教育し、
小使に命じて豫め準備したパンを與へさせ、

之はソヴェート政權から賜はるもので神様より偉いと教へ込む様な方法を取り、
子供の内から宗教心を根ざさない様に努力した。

 又酒好きの男に服を僧服を着けさせ之を旅行させ泥酔の揚句に市街を練り歩かせ、
市井の人の物笑ひになる時、跡をつけて歩く宣傳員が
盛に群衆に向て宗教の頽廃と僧侶の堕落を憤慨ると言ふ芝居まで仕組んで
宗教破壊に努め
唯物主義の眞面日なる新しい宗教
即ち共産主義が陳腐なものに代るべきを宣伝した事實もある。

 1923年の8ケ月丈に
第三インターナショナルからコーカサス州の回教徒攪乱の爲送った宣傳員は
實に3792名に達したと云ふ。

 又道徳破壊に就いては、人倫の根本たる夫婦関係を打壞す事に共産黨は非常な努力を拂った。
  労農ロシアで總ての自由は失はれたが一つ残った否新に出来た自由は結婦離婚の自由である。
結婚の時には男女連れ立ち官憲の前に行って届出を要する。

手続きが済み手数料を納付すれば宗教上の儀禧も要らず、其の場から晴れて夫婦になる。
翌日でも構わずその結婚を取消すことが出来る、
其の際は一方が官憲へ届け出に來ればそれで済む。

 此ゝる軽易の結婚離婚の弊害としては、子供の認知問題である。
 頻繁なる相手方の交代の爲の子か不明になる。
 民事裁判の8割は子供の認知訴訟であった時代もある。

 裁判官の怪しげなる判定によって押付けられ
之を引取った親とその子の間に情愛の起る理由はないから、
自然孝道などの成立する筈もない。 

 平等論の部で述べた、時の媒介する因果の関係は消減し、
かくてユダヤ人が吾々を遇する獣類と大差なく、
刹那の文明に低下する虞は頗る大きくなる。

 第三インターナショナルに對する一般文明社會の反抗は誠に理由のあることである。 


第五節 第四インターナショナル
 西暦1921年3月の共産インターナショナる第三大會は
ドイツ共産勞働者黨に對して從來兎角別派を立てそうであっが
、此際態度を明にすることを要求した。

 そこで、1921年9月の大會に於てドイツ共産勞働黨は第三インターナショナルと全く絶縁し、
別に第四インターナショナルの組織に努力することを決議した。

 その理由は第三インターナンヨナるが農民に屈伏してプロレタリアト政府たることを失った 


(註 新経済政策を採用して一部の所有權を認めたことを指すか)
 そして新ロシア政府の道具となり終わったから、
眞のプロレタリアのインターナショナルを組織すると云ふのであった。
  (が實際は餘り振はない) 

 第四インターナショナルの運動には此外に、
第三インターナショナルに不平を持ち、
それから除名された極左翼のものによって企てられこともあったが、
みな失敗に歸した。
 (社会科学辞典687頁)

 レーニンと共に事を起したトロッキー事本名をブロンシテーン
  (本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン)と呼ぶユダヤ人も
この後者に属し、志を得ず、墨西哥に亡命中であつたが、
皇紀2600年(昭和15年、1940年)亡命地に於いて刺客の為に斃された。 
    
第六節 第二半インターナショナル
  (ウイン・インターナショナル)

 西暦1921年2月ウインに於て設立しこのインターナショナルは
戰前の第二インターナショナルの中間派で、
英、佛、獨、墺、端西の社會黨及びロシアのメニシエーウイキ、左翼社會革命黨其の他歐洲7小國の社會黨から集まった。

 そしてこの成員は第二、第三何れのインターナショナルにも加盟することを禁じ、
兩方共に攻撃していたが、
内部の離合によら終に1923年5月ハンブルクにて第二インターナンヨナをと合併して終った。

 第三インターナショナるは之を批判して曰く、
中間派は勞働大衆の革命的要求に押され、
口に革命的言辭を弄し、
行は改良主義的範囲を出でないで、誤巖化していて、
大衆の革命的進出を喰い止めめてゐたが、
革命的潮流の引くと共に名實共に本來の改良主義的立場に歸ったのである。


四王天延孝著『猶太思想及運動』第五篇 猶太の運動 第五章 第3節 第二インターナショナル (社會主義インターナショナル)

2025-04-13 13:40:46 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン


 四王天 延孝著『猶太思想及運動』
         第5篇 猶太の運動  

 
   第
5
章 インターナショナル運動 
 
        第三節 第二インターナショナル
                           (社會主義インターナショナル)

仏蘭西革命百年祭に創立
・・・・・各回の重要決議・・・・・メーデー
・・・・・シュッツトガルトの決議(戰爭を革命へ)

〔仏蘭西革命百年祭に創立〕
 第一インターナンヨナをが決裂して15年間之に代るべきものはなかったが、
インターナショナル
運動が永久に死減したものではない。

 その精神は依然として存在し
 且つ之と関係の深い全世界ユダヤ同盟は厳として巴里に控へて居る。
やりかけたインターナショナルが芽を吹き出さずに終ふ筈はない。

 果然16年目に當る1889年7月14日に
世界ユダヤ同盟の所在地たる巴里で第二インターナショナルが生れた。
比の日は前世紀のフランス大革命の百年祭に當るのである。

 即ち、バスチューユの監獄を襲って政治犯人を解放し、
守備隊長の首を梟しものにして槍の先に刺し、巴里を練り歩いた流血の記念日である。
革命家にとって誠に目出度い日である。

 之丈見ても第二インターナショナルは生ぬるいなど批評されても
目的が那辺にあるかは想像される。

 尤も此ゝる國際的の團結が、お祭に集った人の出来心で出来たものではなく
準備があったことは勿論である。
既に1782年巴里の國際會議でその下話しは成立し、その後幾回か準備會議はあっのである。

その間、英、佛、獨のトレードユニオン派とマルクス派の間に意見の対立があって、
結局ドイツの社會主義者がマルクス派を牛耳り
英国のトレードユニオンニストが他の派を率いた。

 第二インターナショナをは始めから此の如混乱の情勢の下に生れた。
此の成立した7月14日から2日後の16日と17日には巴里で世界のフリーメーソン大會が開かれてゐる。
又此の創立関係者は、英、佛、獨共他の有力な人物から成るのであるか、
どうしても一人丈は人名を指摘する必要がある。

 それは地元巴里の法律家でフリーメーソンの結社員であるミルラン氏である。
氏は後に大統領を勤めたが、フランスの研究家の調査によると、
本名をカーンと云ふユダヤ人である。

 このインターナショナルの特色は第一インターナショナルと違って、
無政府主義者を入れない方針と、インターナショナルを運動とは言ふが、
先づ之を國家的に一つに纏めて、然る後その國家と他の國家とを纏めて行くと云ふ風で、
一足飛びに國家社會主義と行かないと云ふ、

 所謂國家社會主義の階段を踏まふとしたこと、
それからプールジョア等とも相諒解の下に進うとすることで、
即ち漸進主義である。
 そして知らず識らずの間にデモクラシー的革命を成功せしめようとするのである。

〔各回の重要決議・・・・・メーデー〕
 成立後第一世界大戰勃發迄に九回の會合を重てゐる。

即ち
第一囘は、巴里で1889年7月14日に。
第二回は、プラッセルで1891年に。
第三回は、チューリッヒで1893年に開いた。

 第三回合の特色に、無政府主義と暴力革傘を耕撃すること
及極左に對する一般的反感を表明したことにある。
特に人類世界の自然則として、多くの人を結束させるのに最も力あるものは
共同の敵を有することだとの建前を明にした。

第四回は、ロンドンで1896年に開いた。
第五回は、巴里で1900年に開いた。

 第四回迄のは、會合者も漸次増加して来たが、確とした組織もなく、
極めて散漫なやり方で進んだが、
第五回には基礎を確立し、目標を餘程ハッキリした。
 (シャドウエル著ソシアリストムーブメント第一部144頁)

 此の會議の取扱った事項中の主なるものは
一、常備軍の廃止、及國際平和の實現 
二、普通選擧 
三、メーデーの示威運動 
四、勞働時間及勞働賃銀の規定 
五、無産者の團結組織 
六、海上勞働者の團結組嶽 
七、總同盟罷業及トラストに對する態度 

その内若干のものにつき説明を加へると、
一、に就て行にれた全會一致の決議の中には次のことがある。
 各國の社會主義者は軍国主義及殖民擴張に對してに益々強硬なる反對をなし、
又國際連帯の如き空疎の示威運動のみでなく、
熱誠なる國際的行動によって、
平和の恒久的維持に向て全世界の無産者の同盟を要求すること。 

 之が爲執るべを具體的手段としては、次の諸項を必要とす。
(1)次の時代の人々には軍國主義反對の教育を施すこと。
(2)各國の社會主義の議會人は常に陸、海、殖民地用の軍費に反對投票を行ふこと。
(3)執行委員は必要なる場合には必ず各國同時に同形式の抗議の呈出を取計ふこと。

 右決議に見る如く、
軍備の徹底的抑圧を國際平和の思想を基として實現せんとするもので、
ユダヤ民族の金科玉條である、
イザヤの豫言書第二章の


 エホバはもろもろの國のあひだを鞠き、
おほくの民をせめたまはん、
斯てかれらはその剣をうちかへ鋤となし、
その槍をうちかへて鎌となし、
國は國にむかびて剣をあげず、
戰闘のことを再びまなばざるべし。

に基くものである。

 先年國際聯盟成立後数年、聯盟はやかなり時代、
ゼネバの聯盟の内外に於いて、右の剣、槍をうちかへて鎌となす文句が幾びか宣傳せられた。

 (之は後に述べる第三インターナンヨナル迄一貫して口に唱導されたのである。
  即ち1928年のゼネバの軍縮會議にモスコーから派遣されたユダヤ人リトヴィーノフが、
  四ケ年の猶豫を以て各國の陸、海、空軍を全廃する空想案を提出し、
  而て自國の軍備を大懭張したことと対照するとき,思半に過ぐるものあらん)

二、の普通選擧に就ては
フリーメーソンの條項にて平等論の批判中に詳述したから之を省略するが、
前項の軍備反對と云ひ、普選の實行と言ひ、
いつしか日本も此の指令に従ひたる次第である。

三、のメーデーの指令は
一説には第一大會のあった1889年フランス革命百年祭の時に出たとの説もあり、
又1906年英佛獨三國語を以て指令したと説くものもあるが 茲に之を併記する。

 インターナショナルが取り上げた以前からこの運動はあったので、
既にオーストラリアでに1856年4月21日に勞働祭をやり、
アメリカでは全土の勞働者が1884年から5月1日に8時間勞働制の實現を目的として運動をしてゐた。

 その二年後のメーデーには米國ではシカゴで大運動を實行して多数の死傷者を出し、
捕へられた9名
の首謀者の内4人は死刑あと4名が重懲役1名は前夜自役と云ふ慘劇を演じた。

 之は単に穏健な勞働状態の改善と云ふ様なものでなく、
階級闘爭の豫行演習とも見なすべをものである。

 日本の勞働運動者も本當のことを知らない様だが、
實際の起原は1776年の5月1日に、
ドイツでフリーメーソン結社員ワイズハウブトが
最も強烈なるイルミナチと云ふ過激派の本元たる秘密結社を造ったのに端を發する。

 日本にも誤りて かくの如きものを大正9年5月1日に始めて許した。
恐らく本當の目的を知らなかったのであらう。

 愛國者不撓の努力も酬ひられ日支事變以来之を許さなくなったが、
事變なくとも許す可らざるものであり、事變終わって永久に廃止すべをものである。
 勞働者の体日に他に適当な國際日がいくらもある。

第六回に、アムステルダムで1904年(明治37年日露戰爭中)に開かれ、
日本社會主義者を代表して片山潜が出席し、
ロシアから来たプレハーノフと會議の席上で握手をして、勞働者に國境なしと云ふ身振をした。

〔シュッツトガルトの決議(戰爭を革命へ)〕
  第七回は、ドイツのシュッツトガルトで1907年に開かれ、反軍國主義、反戰運動が主題であった。
之は戰爭の臭ひが始まった頃であり眞剣に論議せられた。

 そしてこの會議の決議を携へて第一次世界大戰に臨んたので重要なものであり、
第三インターナショナルも之を継承した形跡があり、
過去の歴史ではなく、今日にて直面する問題でもあるから、聊(いささ)か之を詳説する。

 シュッツトガルトの議題は、
勞働運動者に戰爭に對して如何なる態度を執るべきやといふ事であった、
之に對する意見に二つに分れた。

 一方は、
「勞働運動者は世界の勞働者結束せよ」を以て何処迄も標語としなければならなぬ、
然るに戰爭を是認するといふことになれば、
其一部分の勞働者と他の部分の勞働者と叩を合ひをすることになるのであるから、
勞働者の團結を破ることになる。
 故に戰爭には眞向から反對すべきであると論ずるが、

 他の一方は、レーニンやリープクネヒト等の一派で、
それは理論から言へばその通りでなければならぬが、
物は實際方面からも観察しなければならぬ、
抑々インターナショナル運動といふのは何が故に起り、何が爲に存在して居るかと言へば、
發生の當初から資本主義制度を倒すのにある。

 然るに平時に左様な革命を起すことが出来るかと云へば至難なことであるが
戰爭の際には容易である。

 故に餘り眞面目に戰爭防止にばかり沒頭して、
本當に戰爭が起らぬことになれば、
どうして吾々の目的が達せられるかと云ふ風な議論が起り大に論爭の結果、
次の決議案に達した。

 戰争は資本主義の骨髄である。
それは資本主義制度が撤廃されて始めてなくなるものである、
或は又人命と戰費との犠牲が戰争技術の發達によって莫大なものになり、
人民がその制度を拠たなければならぬことになって始て止むのである。

 此の故に大會け全勞働者及その代表たる議會人が全力を以て
海、陸の罩備に反對しその政策に財政的援助を拒否することを義務であると思ふ。
(之にはプールジョア社會の階級性と、國際對立を餘儀なくする理由とを誇張する必要がある)

 インターナショナルは豫め行動の確定的計畫を樹てゝ置くことは出来ない。
それに必要に應じ、時と情況に從ひ國情を考へて種々に變化しなければならぬ。
唯勢力すべきことは軍國主義と戰爭に反對する勞働階級の努力を出來得る限り強烈にし
且つ之を一致さをる義務がある。

 大會は宣言する。
 戰爭勃發の危険がある時は開係國の勞働階級及之を代表する議會人は
インターナショナルの援助を受け一致の行動を執り
階級闘爭の熾烈と一般政情とに鑑み最も適切なる一切の方法を講じ
以て戰爭防止の為に力を尽す義務がある。

 若し戰爭勃發するに至らば之を終熄せしむべく干渉を試み 
且つ戰爭の齎したる政治的、経済的危機を利用し全力を學けて
最下屑民を煽動し以て資本主義制度の転覆を促進する
の義務がある。
(註 此の最後の敢行はレーニン、ローザ・ルクセンブルグ派の主張によりて附け加へたものである)

第八回は、デンマークのコッペンハーゲンで1910年に行はれ、
そこで又、前の議論が繰返され、
フランスの有名な社會主義者ジャン・ジョーレスの取纏めにより議案の確定を見た。

第九回に、スイスのバーゼルで1912年に行はれ、887名の参加者が集まる程の盛會であった。
それは之が最後の機會になること歐州情勢から一般に察知せられたからである。

 果して之が最後の第二インターナショナルの會合となり、その2年後に世界大戦は始まってしまった。

 之から後にも第二インターナンヨナをと云ふのがあるが、
之は組織の上に全然別であるから世界戰爭を説く内に之を述べることにする。


四王天 延孝著『猶太思想及運動』第五篇 猶太の運動 第五章 インターナショナル運動 第一節・第二節 創立大會にユダヤ・メーソン

2025-04-13 13:39:41 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

     四王天 延孝著『猶太思想及運動』
 
 第五篇 猶太の運動 
  第五章 インターナショナル運動 
 

第一節 緒論 

全世界猶太同盟の設立・・・・・創立相談會
 フランス革命はヨーロッパ人一部の自由を解放し、平等を與へた事は事實であるけれども、
民權自由の解放に極端になって個人主義の偏重となり、
社會の改革と云ふ大目的の達成には大部距離があった。

 此の個人主義的傾向を正する爲多数の社會主義的學者が各地に小規模の新しい村の如きことを試みた。
ロバート・オーエンの理想の村の如きもその一例だが、
此の實験室的企画は難物餘り成功を見ず、遂に大規模の社會主義的革命が勃發した。
 即ち1848年の歐州に於ける二月革命三月革命なぞである。

 それにも革命の起る種は無論前年の不作とか、恐慌とかあったけれども、
それを燃え易くする様なガソリンを注いだのは、
その前年カルル・マルクス事ユダヤ人モルデカイが其同志エンゲルスと共に出した共産党宣言である。

 その未文の “萬國の無産者結束せよ!” と云ふ標語は
確かにフランス、ドイツ
等の各國に火を附けるに役立った筈である。

 此の革命は最初2月24日巴里に勃發し、
ベルギーに及び、その延燒として3月14日ウインに飛火し 
18日にはベルリン及ケルンが中心となつた。

 久しく各國に亡命して時の至るを待てゐたマルクスやエンゲルス其の他の共産黨員は続々歸國し
「ドイツ共産黨の諸要求」の主旨に從って各地に活動し、
5月にはケルンに「新ライン新聞」が公けにされ、マルクスが主筆となり、
ドイツに於けるプールジョアデモクランーの勝利を一先づ歓迎し、
それによって間接にプロレタリアートの擡頭への礎石を築かんと企てた。

 然るに一度利を得たプールジョアジイは漸次にプレタリアートは結局自己階級に不利なことを洞察し、
之と訣別して封建的勢力と妥協する様になり、
かくて11月1日にはウイン、 同9日にはべルリンが反動派の手に奪還せられ、
翌1849年に至りドレスデン其の他の暴動失敗に歸し、
プロレタリアートの獨立行動は鎮壓せられた。
  (社会科學大辞典412、413頁参照)

 此の革命はマルクスの属したユダヤ民族の解放には一歩を進めたが大體に於て大失敗に終った。
 
 此の革命にフランス方面で活躍した有名なユダヤ人はアドルフ・クレミウーと云ふ法律家であって
革命の際司法大臣になったフリーメーソンの大立物である。
その他にも大小多数のユダヤ人がこの革命に参加したのである。

 此等の革命専門家達は考へさせられた。
折角あれ丈強烈な油をかけ、火を附けて見ても枯葉を集め
て燃やす様なもので、
間もなく鎮火して仕舞う。

 どうしても各國に恒久的の火種を置き機を造って同時に火の手を擧げるのでなければ、
到底社會革命は成立しない。

 此の火種を各國に置く運動が即ちインターナショナル運動であって、
之には今日までその發生の順序に番號を打った第一、第二、第三、第四あり第二半迄出来た。
今から願を逐ふて之を概設する。 

 

第二節 第一インターナショナル

 全世界猶太同盟の成立

・・・・・・インターナショナル創立相談會、創立大會にユダヤ・メーソン
・・・・・・第四回大会から分裂の端 

〔全世界猶太同盟の成立〕
 前節に述べたたマルクス(本名モルデカイ)や
クレミウー等のユダヤ人が歐州革命に狂奔した當時に於ては
彼等の民族的結束は必ずしも十分ではなくて遺憾の點があったろうと思ふ。
    
 然るに各國に恒久的
革命運動の根拠を置く爲には
國際民族ユダヤ人の結合を一層強固にする事を考へるのは自然である。

 右革命家のユダヤ人クレミウーは同志の僧侶、詩人、大學の役人と相謀り、
1860年5月に巴里で、全世界ユダヤ同盟
(アリアンス、イスラリット、ユニヴェルセールが本名で、AIUを略號とする)を設立した。
 當時クレミウーの出した宣言の要旨は次の通りである。 

  吾々が造らうとする同盟は、フランスのでもなく、
 英國、愛蘭や瑞西、獨逸のものでもなく、
 實に猶太人の全世界同盟である。
 他の國民達が國家を形作り互いに分立してゐるが、
 我を猶太人は然らす、唯同じユダヤ教徒である丈だ。

 ユダヤ人は唯一理性宗教たるユダヤ教の光が、
全世界を照すやうになる迄は、
決てキリスト秋徒又は囘敎徒の友となり得ないのである。

 記憶も出米ない昔から地球上に離散せしめられ、
諸國民から反對を受けてまた吾々ユダヤ人は、
将来に於ても堅忍不抜のコダヤ人として生存せなければならぬ。
吾々の國籍は組先傳来の宗敬である、
吾々に其の他の如何なる国籍も限中にない。


 
猶太は全世界を支配しなくてならぬ。
ユダヤ人は、運命が吾等を何處へ導かうとも、
如何に世界に散亂してゐようとも、
吾等は常に選ばれた民の一員であることを忘れてはならぬ、・・・・・・。

 今やユダヤの投げた網は地上に張られ、日に日に広まりつつある。
我等の聖書の予言が遠からず實現するのである。
あらゆる機會を利用ナることを忘るるな、何物を恐れる必要があるか、
地上のあらゆる富と財宝とがイスラエルの手に歸するの日は遠いことではないぞよ。

 若し、前の方にユダヤの宗敎や、民族の特性に就てくどくどしく説くことなしに、
いきなり此の全世
界ユダヤ同盟の宣言丈を書いならば、
恐らく読者は之を荒唐無稽の反ユダヤ文書位にしか受取らなかったであろう。

 又は誇大妄想的ユダヤ人クレミウーの御託としか見なかったであろう。
    
 併し之はユダヤ経典の精神に基く眞の聲であることは、
トーラーとタムルードに就て述べた所を参照すれば充分點づかれる所である。

 即ちユダヤの世界統一、金権支配を遺憾なく豫告したものである。

 フランスの猶太研究家ロジェ・ランブラン著『イスラエルの帝国主義』第17、18貢には
 『-クレミウー等はかくて此の宣言を以てユダヤの政治的インターナショナルの基礎を造ったものであるが、
  やがてそれは勞働インターナンヨナル及金融インターナショナルの活動と結合することになった。」 
と書いたのは至當の観察である。 

インターナショナル創立相談會、
      創立大會にユダヤ・メーソン〕

 此の世界ユダヤ同盟が結成すると、
2年後の1862年夏にはイギリスのロンドンに大博覽會が開催され、
當時世界の勞働者が集って、インターナショナル創立相談會を開いた。

 其の席に於て、又2
年を間して1864年を以て創立大會をロンドンで開くことに決定した。

 1864年9月28日(註恰もユダヤの正月?) 
ロンドンのセント・マルチンホールでロンドンの勞働組合員は
當時ロンドンに亡命してゐた各國のお尋ねものを招待した。

 之に出席したのはイタリーのフリーメーソン結社員マッチ=ー、
ポーランドの革命家ユダヤ人ウオルフ、
フランスの秘密結社員や、舊共産主義同盟會員の一團などで、
マルクスことモルデカイも顔を出してゐた。

 彼は1849年来ロンドンに来て大英博物館に通ひ、有名な資本論を書く準備に忙しくて、
自ら各種の委員になることが出來ず、ただ平會員として出席した。

 所が宣言起草委員たる人達のマッチニー敎授等
が起草したものを聞いて居ると、
如何にも徴温的であって、
到底インターナンヨナを運動は成功しな
いと見て、マルクスは自ら志願して起草委員になり、
マッチニーの書いた草稿を一行残らず消して、
新に筆を執って書き下らしたのは次のやうな文句であった。


 1848年以来産業は發達して資本階級は繁榮し来ったが、
勞働者階級の悲惨貧困は少しも軽減しない。
機械の完成、科學の応用、市場の拡張、殖民移民のやうな人工的政策も自由貿易も、
何等勞働者階級の窮状を救び得るものにない。
之を救ひ得るものは勞働者の国際的團結に依る外ない。
 
併し資本家階級は政治的特權を利用して自己の利益を防護するから、
勞働者は先づ政權を獲得しなけれにならぬ。

 即ち経済的解放が目的で政治運動は之に随伴するものでなければならぬ。
今日迄の失敗は、各國勞働者の間の團結力が缺けて居ったからである。
此の種の運動は断じて一地方的又は一國的のものであってはならない。
是非共國際的組織の下に團緒しなければならない。  

 マルクスのこの提案は採用されてインターナショナルの宣言となった。

 それより又2年経って1866年の9月3日から8日に亘り
ゼネヴァで第一回勞働インターナシナル大會が開かれたが、
出席會員は僅かに60名位、それも大部分スイスからの出席で、議事も冗漫なものであった。
 担しマルクス起草の規約を承認し、8時間勞働制、婦人の夜業禁止等を決議した。

〔第四回大会から分裂の端〕
 其の第二回を翌1867年9月2日から8日端西のローザンヌで、
第三回を白耳義のプラッセルで、1868年の矢張9月の5日から11日の間に開催して、
其の礎は益々確實になったと見えたが、
第四回を1869年9月に端西のバーゼルで開いた時から、
露西亞の無政府主義者バクーニンが參加することになって分裂の一原因を萌した。
 
 何故に最初のインターナショナルが数年ならずして分裂することになったかと云へば、
中心が二つになった事はその大原因である。
即ち一方の中心が共産系の大立物、他方の中心が無政府系のもので兩々固く執て下らなかつた。

 マルクスの方ではバクニーンを目して「え體の知れない破壞専門の彼れ此れ屋」と名づけたが、
バクーニンの方では次の様な手紙を人に書いてゐる。

      

 
彼マルクスの自尊心と云ふものには際限が無いほど迄自尊心があるのか分らない。
其の自尊心は正に是れユダヤ人通有の自尊心である。
 其の自尊心を焚き付けるものは彼の友人と弟子である。

彼は非常に個人的で而して非常に猜疑心の強い非常に感情的な男で、
恰も彼のユダヤ民族の神エホバが己以外の神を崇めてはいかぬと十誡の中に述べた如く、
彼マルクスは自分以外の人を尊敬してはならんといふ風な具合にまで自尊心の強い男であった。

 又思想の上から云ふとバクーニンは絶對自由を唱導する無政主義であり、
マルクスは絶對平等を主張する共産主義であるからだ。
 (此の自由、平等の矛盾に就ては前既に詳説した)」 

 此ゝる内部分裂の原因もあつたが、
1870年には戰爭が起り、萬國の無産者の結束を叫んで居たのに、
一應戰爭反對の気勢は上げたが實際は普魯西の勞働者は普魯西の爲に、
佛蘭西の勞働者
佛蘭西の爲にと銃を執て戦ふことになり、
又71年フランスが敗けて巴里にコンミューン暴動が起り
インターナショナをのフランス支部のものは終始その中で重要な役割を演じたが、
マルクスが之を是認し文書を以て推稱すると、之が爲英國の勞働組合道動者を離反させて了った。
   
  
 こんな風で1872年9月に勞働インターナショナをはゼネバに於て極めて短命で決裂した。
併し表面は米國紐育へ移轉と云ふ形を収た。

(囚に70年程を經た今日
 國際聯盟の勞働事務局が又米國へ移轉の形式で姿を消すことになったのは古今軌を一にするか) 
 
 このインターナショナをは當時は勞働インターナーショナると稱してたが、
次節に述べる第二インターナショナルが起り、
之を區別する爲第一インターナショナルを後とから謚號にし々ものである。

 以上叙述する所を通観すれば創立の當初よりユダヤ人、
フリーメーソン結社員の盡力に成っこどが明である。

 之を要するに此く短命に終った第一インターナショナは
ゾムバート敎授の評した如くマルクシズム宣傳の第一陣であって、
創立の時からその積りであったらう
  (ザ・ソシアリスト・ムープメント第一巻139頁)

 この辺でユダヤ人の抗議を挿むのも無益でなからうと思ふ。
1935年ロンドン発行の “インターナショナル社會主義の50年“  の百三頁に、
著者波関生れのユダヤ人ビーア氏は
「1840年から1850年、
 1864年から1871年の間
 及1876年の社会主義復興からドレフュス事件の間に起った一切の革命から
 ユダヤ人に手を引てゐた。
 但しサンシモン派この限りでない、(中略) 
 1848年の二月革命に参加した唯一人のユダヤ人は司法大臣アドルフ・ミウーであるが
 彼は王黨でそして自由主義者であった。
   (中略)
 マルクスの名が初めから出てゐるのは本當であったが、
 唯彼はドイツの代表としてロンドンの記念會に出席して為たばかりである云々」

 如何にユダヤ人が同族擁護の爲に堅白異同の辨を弄するかを之でも察知せられたい。
そのくせ、同頁の先きの方には、又別のことが書かれてゐる。
即ち
「中歐及東歐のドイツ、オーストリヤ、ポーランド、ロシヤに於ては
 ユダヤの男も女も凡ての革命運動に参加した。
 而も第一線に立ち、思想、金錢と犠牲者とを提供した。
之は如何に説明すべきであるか? 
 40年間各國を遍歴しての研究によれば、
ユダヤ人と云ふものに、
そのユダヤ教と二千年の大な苦難とによって、
社會主義の観念を養はれ深く頭に頭に浸み込まれてゐる
のだ。(中略)

 マシウー、アーノルドが達べた言葉に、
「アデンは自由主義の揺籃であり、
 エルサレムは社會主義の揺籃であった」と云ふのがあることを記憶する云々」
之が本音であらう。
 此等ユダヤ人の語るに落ちる言説の間に彼等の思想を把握出来る。



四王天 延孝著『猶太思想及運動』 第五篇 猶太の運動 第四章 シオン運動(シオニスム)

2025-04-13 13:37:58 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

        四王天 延孝 著『猶太思想及運動』



第四章 
シオ
ン運動(シオニスム)

 ユダヤ人他民族への同化を憂ふ
・・・・・・・ヘルツル博士の進出  

〔ユダヤ人他民族への同化を憂ふ〕
 猶太人が五千七百年の古い歴史を持ち、
今猶ほ其の信ずる所を改めずに、
外部からの壓追が彌々甚だしければ其の結束彌々強固になつなことは、
世界の謎として驚嘆に値する。

 然るに近世に至りユダヤ人の一部に
多少思想の動搖を生ずるに至ったのは物質的文化、科學發達の爲である。

 從来ユダヤ人は聖典に教へられた通りに、救世主は降臨する、
そして其の完全な人格を備へた救世主でパレスタインを復興し、
茲に祖先傳來の民族的生活が出来る様になると確信し、
現在の放浪生活難行苦行は、自分等の祖先が犯した罪の償いで致方はない。
之に堪え得れば則ち、
神は積年の希望を叶へて下さるものと信じてゐた。

 然るに西欧の文化殊に科學の發達はキ,スト教徒中に懷疑派を生じたと同様に、
ユダヤ教徒中にも不信の徒を生じ無神論者迄出るに至った。
無神論とまで行かなくとも、救世主とは人格を備へた人でなくて、
他の神秘的のものであろう。

 自分等の放浪は全く他民族からの壓迫虐待等人爲的の事柄で、神の試練では無い。
既に放浪が人爲的である以上は之を矯正するのにも人爲的の方法が無い筈は無い。
即ちユダヤ人は自己の努力によってパレスタインを復興し、
そこに民
族生活を営むと云ふのがシオン運動である。

 即ち前のは神秘的の他力本願であり、後者即ちシオン運動は現賞的の自力本願である。
此の兩者をして始めて人事を盡して天命を待つ所の本格的のものになるので、
恐らくユダヤの有識シオニストは左様に考へているのであろう。

 右の如くシオニスムの主とする所は、
何時迄も茫漠たる夢の様な豫言ばかり頼って、時を空費して
ゐると、
其の間に外界の悪風は、ユダヤ人の信仰を破壊し、
民族的結合を破る虞があるから、
兎も角何
れかに結合の中心を目に見える所に形造らなければならぬ。 

 而てそれには祖先傳來の聖地パレスタイン
の復興を以て最も適當とすると考へた。
 
 此の事業を唱へ初めたのは西暦1818年米国のユダヤ人モルデカイ・マヌエル・ノアであった。

 そして實際に小規模ながらも殖民をパレスタインに行ひ、
ノアの理想を實現したのは降って1870年のことで、
ムクヴェー・イスラエルに於る農學校内のユニオン、イスラエリットと云ふユダヤ協會の手に依ってである。

 其の後十年除を経過して1884年にコヴェヴェー・シオン即ち、
「シオンの敬愛者」と云ふ協會は尚一層大規模の殖民を行ふことになった。
之にはロスチャイルド男爵も補助を與へた。

 尚1882年頃に露国にも此の種の運動が起り、
ユダヤ學生及ユダヤの愛國者等はパレスタインに祖国の旗を翻さうと謀り、
率先殖民を試みたものもある

 此等の開拓先者は古代ヘブライ語を復活させ、
之を以て新パレスタインの國語たらしめると宣言した。

 彼等の千辛萬苦し力事は勿論であるが
露国シオン後援會は陰に陽に彼等を援助したので彼等の希望は漸時叶って来た。

 又西欧に於て平等權を獲得したユダヤ人が隨所に頭角を露はし、
商工業、政治、経済並に學述諸方面に牛耳を執る様になっので、
茲に再び反ユダヤ思想が勃興し、
ドイツから始まりフランスに威を振ひ、墺恟國、羅馬尼及ロンアに廣がり、
特にロシアで猛烈になった。
その反動としてユダヤ人の愛國熱も亦著く勃興して來た。

    

〔ヘルツル博士の進出〕
 時にウイン生れでノイエ・フライエ・プレッスの文學部長をして居たへルツル博士と云ふユダヤ人が、
新聞通信員として巴里にあった時、
彼の同族で、エミール・ゾラの友人であるフランス参謀本部員砲兵大尉ドレフュースと云ふユダヤ人が
軍の機密をドイツ洩らしたと云ふ免罪を蒙り、處刑されたことに憤慨し、
民族解放の爲に一生を犧牲にしょうと決心するに至った。

 彼テオドル・へルツル博士は「ユダヤ國家」と云ふ本を著はし1896年に獨英佛に出したが、
飛ぶ様に売れ、20ケ國の言葉に翻譯され、到る所で読まれた。

 ヘ
ルツル博士の與へた影響に就てはウィツクハム・スチード氏の
著「パフスブルグ家の帝政」と云ふ書物に次に様な文字で現はされた。

 ノイエ・フライエ・ブレツスの文學部長テオドル・ヘルツルがシオン運動の初動を與へた當時は、
墺匈國の知識階級に属するユダヤ青年は全く岐路に立たしめられてゐた。

 外界との接触により父組の信仰は薄らぎ、
タルムード
が結んだ束縛の鐡鎖に除かれ、
而て之に代るべきものは懷疑哲學の外何者も無く、
而て其の懐疑は日を追ふて破廉恥的に進んだ。

 多くのユダヤ青年はその本来の自然を離れ 
滔々として、ゲルマニスムに合流する傾向を持つに至った。
それで政治上思想上、心の中から獨逸人と成り済したものも少くなかつた。 

 然るにそんな中から一人のユダヤ青年が自殺を遂げた。
 それはその青年の多年の経験から割り出すと、
ユダヤ人に終にチュートン人には成り得ない、
エチオピヤ人に其の皮膚を取り替へ得ない事にも
恰も豹が其の斑点を取り去り得ないと同じであることをつくづく自覚して煩悶の結果自殺したのである。

 此の如き薄志弱行の輩に取っては、
ヘルツルの打った警鐘は眞に天来の福音と響いたのである。

 ユダヤ青年等は之によって自尊心を得、
民族過去の誉れと其の金剛心、
傳統、勝利、艱難、迫害、抵抗力とを以って誇りとするに至った。

 之からは世界を正視し精神上、智識上豊富なる眞理を取り、
キリスト教に多数の聖人を與へ、
世界人類の半数に一神教を傳へ、
永久的に其の思想で世界の文明を養ひ、
近世商業取引の遣り方を割り出し、
優秀なる芸術家、俳優、歌妓、文學者を
他の民族よりも多く文明世界に供給したユダヤ民族に属することを誇りとするに至った。

 シオニスムの火花を以て點火した導火薬の燃焼は以上の如き状態となった。
右點火の効果はウイン大學々生中に最も迅速に、最も的確に及ぼした。

 其當時にユダヤ大學生に軽侮され、時には虐待された。
職業に就くには膝を屈し主義の鉾鋩を現わさす、
極めて程よく振舞ひ、
或は又特別の保護引立がなけれは就職不成功に終わったのである。
時に他民族の學生から打擲され又は面に唾を吐きかけられても
鐡拳や嘲罵を以て抗争することすら極めて稀であった。

 然るにシオニスムは彼等に勇気を與へ、
彼等は協會を作り、體育を興し剣術をも修めるに至り、
之からは罵詈を以て答へ、
やがて獨逸の剣士もユダヤ青年がチウトン青年と決闘して對手を傷け得ることを悟り、
又ユダヤ學生が大學の最良射手となったことに気付き始めた。

 今日に於てはシオニスト學生の特別な赤頭巾は
他の大學生組合のものと同様に尊敬を受くるに至つた。

 此の如く勢力を得たのは獨り大學生に止ら
す、他のユダヤ青年も亦正面を直視し、
頭を新直にして歩、彼等の祖先を顧み民族の將来を考へ得るに至った。

 右へルツル博士はユダヤ的熱血男児であって、
土耳古の帝政下に於て、パレスタイン共和國を建設しようと考へ、
盛にパレスタイン行を同族に慫慂した。

 此の関係に就てイスラエル・コーヘン博士は近世猶太生活第329頁に
 宗敎的人道的運動は一の民族的、政治的運動となり、
コヴエー・シオニスムが一の政治的シオニスムになった。
と記して居る。

 へルツル博士の絶叫は忽ち世界的となり、
翌1897年には端西のバーゼルに全世界ユダヤ人の第一回代表會議が開催され、
ヘルツル博士之が議長となった。
 此の際政治的シオン團は愈々ユダヤ人の爲にパレスタイン國を建諟すべしとの目的を公表した。 

 へルツルの宣傳は世界各地に廣がったが露国、波関及羅馬尼は
ユグヤ人が多いのと宜憲のユダヤ壓迫が盛である丈に、
白熱の度が特に甚だしかった。
 
(ヘルツル博士は土耳古其帝、羅馬法王及英露兩國公使と會見したが、
パレスタインを土耳古其から分離
してユダヤ人自治下に置くことには失敗した。

 此に於て英國政府はユダヤの殖民地として東亞弗利加の一部を提供し同博士は之を諒としたが、
東欧シオン團員半数を占めて之に反對した爲、此問題は不成立に了った。(後章に再説す)

 然るに又1904年へルツル博士は永眠し、鼓にシオン運動は一時混乱中絶のとなった。
但しパレスタインには逐次小規模の基磑固まり、ヘブライ語の新聞雑誌は發刊された。

 從來シオンの總本部々る世界シオニスト協會は唱導者へルツル博士の関係から、
ウインにあったが、博士の沒後ロンドンに移り又ベルリンに移っこともあるが、
 其の後英、米、佛、土、露、羅馬尼、埃及、南亜、及びアルゼンチンの諸国にはシオニスト協倉の支部を、
又更に各地方には又その支部を置くに至り、漸次統一的に赴く傾向を生じつつあった。

 そこに世界大戦は勃発して、シンオニストの總本部は中立國和蘭のヘーグに移った。

 此の後パレスタイン復興の経過に就ては後章世界大戦の部に於て、
又バーゼルに於る第一回會議の件に就ては特に章を改めて説く所あらんとす。
    

  
  
   
  



四王天延孝著『猶太思想及運動』第五篇 猶太の運動 第三章 米國獨立革命に於けるユダヤ 、フリーメーソンの努力

2025-04-13 13:32:32 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン

   
四王天延孝著『猶太思想及運動』

 


 第三章 米國獨立革命に於けるユダヤ  
     フリーメーソンの努力 

ワシントンはフリーメーソン 
・・・・・・佛國から援助に赴いたラファイエット将軍もメーソン
・・・・・・佛國飛行基地にラファイエット中隊
・・・・・・ユダヤ人モーリスの盡力 

〔ワシントンはフリーメーソン〕
 西暦1775年から同83年に亘る米國獨立革命には幾多の原因伏在せるも、
其の思想には
“人権”を基本とし、
即ちフリーメーソンの主張が重きをなして居ることは否認することが出来ない。

 之に盡力した主要人物を見れば、
第一に指を屈するはジョージ・ワシントンで第三十三階級に屬するフリーメーソンの大物と稱せらる。

 1776年7月獨立宣言が發せられると、選はれて總督となり各所に轉戰して、功を立てた。
が武力戦に於いて容易に英本國軍を屈服させ得なかった。

  

〔佛國から援助に赴いたラファイエット将軍もメーソン〕
 そこへフランス貴族で、軍人で政治家でフリーメーソンの第十九階級と稱せられる
ラファイエット將軍が多数の軍事専問家を連れて、
ワシントンを援け英軍と戦って大功をて、
遂にアメリカ軍の師團長となり同82年にはヨークタウンに進み、
そこでワシントンから公然と多大の感謝を受けた。

〔佛國飛行基地にラファイエット中隊〕
 彼
は共和に熱心なのはフリーメーソンが共和主義であるからである。
 1824年には米國議會は彼に英大な金と財産とを贈った。

 1916年の第一世界大戦中にはフランスのアミアンの傍らにあつた
カッシーのフランス飛行基地の中には米國の義勇飛行隊が一隊星條旗を翻して参加して居り。

 其頃中立國でありながら米國からかかる罩隊を参加させる所以を質問すると、
佛國の一参謀は、米國は獨立革命以来佛を徳として居た。

 所が今度フランス共和国が帝政ドイツ國の侵略を受けて居るから之を座視す
るに忍びない。
 併しまた参戰に國論が統一されないので、
取り敢えず米國を代表して飛行機操縦に適した大學生が応援に来たので、
飛行隊の名前もラファイエット部隊と名つけたのだと答へた。

 又1917年未米國が遂に参戰し、遠征軍を率ゐいてフランスに上陸した。

  フリーメーソンの高級幹部パーシング将軍は巴里に於いて先づラファイエット将軍の墓に詣で、
我れフリーメーソン茲に馳せ参じたと厳かに報告し、
生きたメーソンが精神界のメーツンに心から誠意を披歴した。
 (米國フリーメーソン機関紙ゼ・ニューエージ1920年第10號54頁及第474頁)

 之程フリーメーソンは米佛の間を革命、共和で結び附けて居たのである。

〔ユダヤ人モーリスの盡力〕
 尚米國獨立革命はユダヤ人の活動に大なる機會を與へ、
ユダヤ人ロバート・モーリスは獨立戰争の蔵相として大手腕を揮ひ、
共和國建設の殊勲者であった。
 即ち彼は佛國から私債を起して之を米國に提供して、
1781年ワシントンの軍隊をドウヴァ波止場からヨークタウンに輸送することを得させた。 
 (レーヴィン著新復興民族パレスタインの部) 
 
 

 ユダヤ人口分布の部に於て説いた如く、
米國合衆國が世界に於ける最大のユダヤ人居住國となり、
同時に世界のフリーメーソンの大部分が米國合衆國に居るのは、
他に理由もあろうが獨立革命當時から此の如き因縁のあった爲ではないか。 


四王天信孝著『ユダヤ思想及運動』第五篇 猶太の運動(前紀)第一章 概説、第二章 フランス革命、フランス革命はユダヤ人を解放

2025-04-13 13:29:32 | 英帝国ユダヤ・フリーメイソン


    四王天 延孝 著『猶太思想及運動』



第五篇 猶太の運動(前紀)

第一章 概説

      フランス革命以後を主とす
・・・・・デモクラシーはユダヤのもの 

〔フランス革命以後を主とす〕 
 既に述べたる如きユダヤ人は頗る保守的にして、
3000年以上も古い理想を一貫しようと努めて居る
のである。
故に彼等の將来をトせんとするには、その古典も研究しなければならぬのである。
人によってはフランス革命以後の動きさへ見て行けば宜しいと云ふが
筆者は必ずしも然らずと考へたが故に舊約聖書に遡り、之を論じ来つたのである。

 併しながら、現今の時勢に應じ對策を考へる必要から筆を執る現状に於ては、
ユダヤ運動としてはその古いことから述べる餘裕が無い爲に
止むを得ずフランス革命前から連続して居る運きを叙するのである。

 而て18世紀初から起った秘密結社運動は他民族をも加へた大運動化し、
現に之が世界の政治掲載を動かし、戰亂の勃發から、處理終結に至るまでに関係するから、
紙数の許す程度に之を詳説した。

 尚之と共にユダヤの世界政策であって、
而も國民運動の面を被ぶったシオン蓮動のことも承知して置かないと、
現代のユダヤ運動の眞相を深く理解し得られないから、比較的詳説した。

 以下各章を通観すると革命のことが比較的多い。
 そして革命には必ず民衆運動が必要であり、
從て
デモクラシー(民主々義)を皷吹しなけれは出來ないのである。
ユダヤ人等は之を隠さず告白してゐるのが時々現れてゐる。左にその一二を拾ひ擧げる。

 故人となつなウインの首席ユダヤ僧正ダヴィット・フオヒトウェアング博士は左のく如く述べた。

 『ユダヤ的でないデモクラシーと云ふものは一つも無い筈だ。
  何となればデモックラシーは全部ユダヤから出たものであるからだ。』

 又今から10年前上海の猶太月報の主幹エヅラは『猶太社會の將來』と云ふ論説の中に、
イスラエルのビアリック演説集の左の文句を引用してゐる。

 『現代に於ける反自由主義、反デモクラチック及反社會主義其の他凡ての現代自由思潮反對運動戰線は、
  ユダヤ主義の教義に反對する世界的攻撃である。
  最善最高の形式にける社會主義はユダヤ精神の發露であって、
  世界の將来を洞察したものと予は確信する。
  之が首唱者は自由、平等を説いた最初の社會主義者である。
  今や世界的猶太壓迫が起り重大なる危機は迫って来た・・・・』 

 右の文献を讀んでから次章以下の革命蓮動を読破するときは思半ばに過ぐるものがあろう。

第二章 フランス革命
   フリーメーソンの告白
・・・・・フランス革命はユダヤ人を解放
・・・・・獨逸の将軍八百長戰を交ふ
・・・・・憲法制定會議はフリーメイソンの會議 

〔フリーメーソンの告白〕
 西暦1789年7月14日に巴里のバスチュー監獄破りに端を發しフランス革命の表面にはユダヤ人は立たなかった。
主としてその傀儡なるフリーメーソンを働かせた。

 フリーメーソンの敎科書ば誇りがに左の如く記述してゐる
(革命前)1778八年に、
ヴォルテールを引入れたことが勝利であった之に参加した有力な同志の名前を列記することが的當と思ふ。

 即ち 
  ヘルベチェス
  ミラボー  
  ガラー  
  プリツソー 
  カミーユ
  デスムーラン
  コンドルセー(欧羅巴聯合衆國論者)
  シャンツオール  
  ダントン  (果敢! 果敢! そして果敢にと激励した人)
  ドンジエルル
  ラボー  
  サンテチェンヌ
  ペチオン 
  パングレー

 此等は何れも後に革命の時立役者になったが、
 右のヴォルテールを引入れ會議に参加したもの以外に最も有名なのは
  ダランべール 
  デイドロ  
  ラハルプ  
  ロベスビエール  
  ラファイエット
 (1776年の米国独立革命、1789年のフランス大革命。1830年のフランス革命に参加)

等であるが、特にヴォルテールは次の意見を述べて居る。
 『陰密に行動し・・・・:叩け、そして手を匿して仕舞はなければいかぬ』


 抑フランス革命は貴族、宗呂の横暴、農民の苦難などに端を發したことはその通りであみうが、
之を指導して勃發せしめたのはフリーメーソンの力である。 

 前記の敎科書は、ルイプランの著書フランス革命史(神秘革命)37頁から引用して、次の如く論じてゐる。
 『ルイプランは如何に旧体制の沒落がフリーメーソン結社によって準備されたかを描き出しているが、
  直接の陰謀はやらなかったと書いてゐる。
  當時のフリーメーソン等は特権者に対して無用な宣言を發したりはしないで、
  唯集會所の中で自由、平等、友愛の思想を實行していた』と修飾的に記してゐる。
  (今日に於いてもメーソンは直接手は下さない、之が却て注意を要する點である) 
    



〔フランス革命はユダヤ人を解放〕
 結果に於いてはフランス革命はユダヤ人の解放になったのである。
 先づ端的にユダヤ側の告白から述べて見ると、
第一世界大戦の最中である1915年10月8日の全世界ユダヤ同盟の機関紙ユニヴェルイスラエリットと云ふのに、
フランス猶太中央協會と云ふ名前で、世界各國のユダヤ同士に飛ばした左の檄がある。

 『中立國民たる諸君が、
  第18世紀以来革命とユダヤ解放の淵源であつたフランスの防禦に直接参加するのは、
  國際公法の慣例上不可能であることは吾々もよく知ってゐる。
  併し諸君がフランスに對する
感謝の念は諸君に課するに、
  今回の大戰の起りと、其性質とに就き、之が眞相を同族間に吹聽するの義務を以てする』

 次に左の如く述べて居る。之が要點である。
 『佛蘭西大革命は西欧羅巴のユダヤ人を解放し、
  聯合國側の勝利は欧羅巴の殘りのユダヤ人を解放するのである。』
 之を以て見た丈でもフランス革命とユダヤ解放の関係が伺われる。

 尚1901年4月の「アカシヤ」と云ふ前記大陸フリーメーソン大東社の機關紙にも
 『1789年のフランス大革命はフリーメーソン結社の敎義を具體化せんとする試みであった』
 と書いてゐる。
   (フリーメーソンと世界革命邦訳80頁) 

 又フランス革命の經過中の1792年9月22日議會は共和政治の確立を宣言し
後に恐怖政治の首脳となったビロー・ヴァレンタの發言で、年號を改め共和第一年とすることを決議した。
 之は先にユダヤ民族の暦の部に於いて述べた所で、之が彼等の正月元日にあたり、
正月のことをヴァンデミエール、即ち葡萄月としたのである。
 之を以て基督紀元を廃止して、新體制に移らんとした。

 尤も之を
新暦と確定したのは翌1793年10月5日であるが、
其の際もて前年9月22日の秋分からを年の始めとした。
之を見てもユダヤの手がプランス革命を蔭から動かしかが分る。

獨逸の将軍八百長戰を交ふ〕 
 尚一つフランス革命とフリーメーソンの関係に於て看過し得ぬことは、
プロシヤ軍等の同盟軍が、
1792
年何故ヴェルダンを陷れシャンパーニュの一角ヴァルミー高地の所まで進第し、
今一押しで巴里迄攻め込み得るのに、空しく軍を囘へしたかである。

 筆者は第一世界大戦當時あの邊を視察し、
ヴァルミー高地に案内されて佛軍將校から戰勝紀念碑の説明迄受けが、
該高地は左程の価値あるものでもないし、合點が行かなかった。

 普通のフランス革命史を讀むと、天候が悪かったとか、
シャムパー=ュ地方の葡萄の不熟のをプロシア軍隊が食べ過きて悪疫が流行し々事などで
取繕った説明になってゐて物足りなかった。

 所がフリーメーソン第十五階級まで昇ったアルバン・セリー氏の『隠密戰爭』を讀んで見て判った。
 プロシア軍の大將ブロンスウイング將軍が元々フリーメーソン結社員で、
彼等仲間がフランスで起した革命をつぶす様な出兵をすることには反對であった。
命令で止むなく進軍しが、相常の戰績は申譯の爲に擧げて、
之からは進んでは大變なので口實を設けて退陣をしたのである。

 又之に對した佛軍の方には有名なダントンと云うフリーメーソンの幹部が居て、
佛軍の追陣を押へプロシヤ軍の自由退却に任せ、
プロンスウイク軍が安全に國境を越えて歸還することを得せしめのである。 

 フリーメーソンの都市とも呼ばれゼネバに行って湖畔の一角「平和ホテル」の傍に立っ六角堂の中に、
ユダヤの六角星を彫り篏めた大井の下に安置された棺の中で、
傳統的の武装衛士人形と、四つ獅子
の石像とに守られて靜かに
永遠の眠りに就いて居るのは誰であらう右の八百長戰の軍司令官ブロスウィック公である。
 

 かかる光榮を與へられてゐる譯は公が全財産を由緒ある。

このゼネバに寄附した爲との文献も見たが、
フリーメーソン世界からは、従来輝かして来た武名を曇らせるのも厭はず、
善くダントンと話し合って、フランス革命を潰さず退却を全うし所の殊勲による事と思ふ。
 (因に記す先年西伯林出兵の際、北海、黒海西比利亞よりモスコーに向け出兵し、
  もう一押しでモスコーの危くなるペルム迄先頭が達して居ながら、
  急遽出兵を止めることにしてオムスクから引返へした英國のノック將軍はブロンスウイックの再現か)

 1936年巴里発行のアアンチルナショナル.・マッソニックの三月特別號第7貢に報ずる所によれば
『フリーメーソンが仏蘭西革命に参加した事確かなことだ。

 大東社は1791年6月30日にその管下の組合に通牒を發して
1789年から同91年迄に起った大事變に於て引受けた任務を明にした。

 此の通帳の中に注目すべきは
フリーメーソンの行動で今回の如き著しい實績を残したことは曾て無かった。
 『吾々のフリーメーソン組合は
  人類が自然からび奪ひ取った“自由”を返へしてやることに協力した今日程、
  將来に向ての光琿と堅實さとを約束される時代は無かろう。』

〔憲法制定會議はフリーメイソンの會議〕
 憲法制定會議と云ふのはフリーメーソンの會議であった。
 それはフリーメーソンの一員ラモーが1790年に高らかに宣傳して居る。
 その文句は
 『国民の代表者諸君は吾々の習慣を採用して呉れた。
  アア自分は幹部諸君の執務を見、發言の要求し方、
  静肅を命じ方、投票のやり方、演壇、地方議員の懸賞を見る時、
  殊に人權が確立されたことを見るとき、
  吾々の代表者はフリーメーソンであることを認めざるを得なかった』

 1904年大東社の總會にてフリーメーソンの一員ポンネは
 『フランス革命當時の憲法制定會議の仕事はフリーメーソン・ラアアイエットの仕事であって、
  これが會議の採用する所となったのである。
  而してその倉議の議員中300人がフリーメーソンであっ力』とまで述べてゐる。
  (秘密結社と其の潜行運動式163頁) 


 此の位フランス革命とフリーメーソンの交渉を述べ、
而てフリーメーソンとユダヤとの開係を考へて見れば、
佛蘭西革命がユダヤ人の深謀に基づき備され實行されかは想像に難くないと思ふ。

 最後にフランス革命に盡力したことを自白し左のフリーメーソンの文献を掲げて本章を終る。
 (1922年10月フランスのグランド・ロッジと云ふ結社の決議録第281頁所載)

 “ 曾て1789年のフランス大革命に最も大なる役割を演じたフリーメーソン
   いつ何時にても来るべき革命に幹部を供給する準備が無くてはならぬ。”