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なりきり先生。

2006年10月14日 22時38分51秒 | 司書日記
今日はニュース記事の引用から。

「なれ合い型」学級崩壊が急増 「反抗型」影潜め 一見和やか 先生は友達…

子供の教師への反発が広がって学級運営が立ち行かなくなる「反抗型」の学級崩壊が影を潜める一方で、友達感覚の優しい先生とのなれ合いの末に秩序が崩れる「なれ合い型」の学級崩壊が都市部の小中学校を中心に急増していることが、都留文科大学の河村茂雄教授(心理学)の調査研究で分かった。こうしたケースは、表面上は和やかな雰囲気の教室に崩壊の兆候が潜むだけに、教師の落胆も大きく、立て直しのための処方箋(せん)も見つけにくいという。

 河村教授は集団心理研究の立場から学級崩壊の兆候を探る「学級集団アセスメント(QU)」と呼ばれる手法を提唱。依頼を受けた全国延べ約5万学級の全児童生徒を対象に心理テストを実施し、学級崩壊の予防策についてアドバイスを続けている。

 河村教授によると、学級崩壊は平均で10校に1校の割合で起きており、そのプロセスは(1)管理重視で指導好きの教師に一部の子供が反発、それが広がっていく「反抗型」(2)優しい教師による友達感覚の学級運営が瓦解を招く「なれ合い型」-の2つに大別できるという。

 学級崩壊の広がりが問題化した平成9年当時は、「反抗型」が主流だったが、最近は地方の学校で散見されるだけ。16年の大規模調査では、なれ合い型のケースが特に小学校で急増。首都圏の小学校で崩壊した学級の60~70%がなれ合い型だったほか、地方でも、県庁所在地や人口密度が高い新興ベッドタウンなどの学校で増えているという。

 教授によると、なれ合い型の学級崩壊は、こんなプロセスをたどる-。

 年度当初、保護者は「自分の子供は受けいれられている」と感じ、教師との信頼関係が築かれる。だが、内実は先生と個々の子供の関係ばかりが大切にされ、集団としてのまとまりに欠けている。教師は友達口調で子供に接し、子供に善悪を理解させず、曖昧(あいまい)な態度を取ることが多い。

 学級のルールが守れなくても「今日は仕方がない」などと特例を設けたり、私語を許すなどルール作りがおろそかになり、子供側には「ルールは先生の気分次第」という空気が生まれる。やがて教室内には、教師の気を引く言動が無秩序に生まれ、「あの子がほめられて面白くない」「先生は私と仲良くしてくれない」などの不満が噴出。告げ口が横行し、学級の統制が取れなくなる。

 河村教授は「反抗型はかつて中学校で問題となった『荒れる学校』に近いパターン。問題を抱えた子供をしっかりマークして指導方針を変えるなど処方箋が比較的打ち出しやすいが、なれ合い型の崩壊は学級のどこから崩れるかわかりにくい問題がある」と指摘。

 「最近の学校は個性重視が説かれ、個に寄り添える教師が増えた。その半面で教師も子供も集団形成や統制が苦手で、学級は集団というより群衆に近い状態になっている」と語っている。


全文引用とかはしたくないので、とりあえずはここまで。
ニュース記事はいつまで見れるかわからないので、少しは記事中に引用しておかないと、後から何について書いているのかわからなくなってしまうので…。



「なるほどねぇ…」
とか言いながら、気楽に読めるほど、私はそこから遠い立場にはいません。

実際に、すぐそこで起こっていても不思議のない問題です。
図書館だけの立場で言わせてもらえば、すでにこれは現実化し、そこで行われている問題。

なんせ、本棚の上を飛び回るのですから…。
まあ、それは、ものすごく限定された状況でのことですが。

しかし、それこそ、それを「特例」として認めてしまえば、そこから連鎖と崩壊を引き起こしてしまうでしょう。

もしかしたら、すでにそれを引き起こしてしまっているかもしれない。

図書館から崩壊が始まるなんてことは、考えたくもありません。
ですが、考えない訳にも行かないのです。


やはり、私が「先生」…「教師」ではないことが、ものすごく大きなことなのかもしれません。
私には、「教育」なんて分かりません。
「生徒指導」なんて、どうしていいのか分かりません。

本物の教師がやって、それでも崩壊してしまうものを、素人がやってどうしようと言うのか。

しかし、そんなことは言い訳でしかない。
実際私はそこにいて、「先生」と呼ばれている。
そして、「生徒指導」を行い、「教育」の一端を担う存在とされている…のかどうかは分かりませんが、実際そうなっている。


はぁ。責任重いよ。


先生は「先生」であって、「友達」ではない。

それは、生徒側だけに当てはまる問題ではない。
つまり、逆から見ると…

生徒は「生徒」であって、「友達」ではない。

のである。

そんなこと分かってるつもりなんだけど…。
「つもり」だけなのかもしれないなぁ。

やはり、自分の中に、「私は先生じゃない」という気持ちがいつもあって、それが行動に出てしまっているのかもしれない。


行動が伴わなくては仕方がない。
例え教師でないとしても、実際にそれに似た立場にいるのなら、それになりきるより仕方がない。


一線を画す。

自らの立場にふさわしい行動を。

それでもダメなら、本物の力を借りよう。
本物の教師は近くにたくさんいるのだから。


嗚呼。
学校司書とはなんと難しい職業か。