東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

京都

2024-06-26 10:18:43 | 日記
 日本の歴史は嘘の気がするし、明治天皇の前に天皇が日本にいたと思えないって何度も書いてるんだけどなあ。
 
 今の天皇がイギリスに行ってるらしいけど、あんなのパフォーマンスの一環だと思うよ?。イギリスもグルなんでしょ?、もちろん。イギリスってヤバいよね?。
 
 江戸時代の秋田県由利本荘市には本荘藩と亀田藩と矢島藩があって、本荘藩の藩主は六郷氏で、亀田藩の藩主は岩城氏で、矢島藩の藩主は生駒氏だったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 本荘藩の最後の藩主は六郷政鑑で、明治40年(1907年)に亡くなったらしい。次の六郷氏の六郷政賢は六郷政鑑の息子で、大正15年(1926年)に亡くなったらしい。次の六郷氏の六郷政貞は六郷政賢の息子で、昭和16年(1941年)に爵位を返上したらしい。
 
 秋田県にかほ市象潟に蚶満寺という曹洞宗の寺があって、山号は皇宮山だ。象潟は小島がたくさん浮かぶ景勝地だったみたいだけど、文化元年(1804年)の地震で土地が隆起して陸地になったらしい。陸地になった土地を本荘藩は開拓しようとしたみたいだけど、蚶満寺の僧が蚶満寺を閑院宮家の祈願所にして土地開発に反対したらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 光格天皇は閑院宮家から天皇家に養子に入ったらしいけど、光格天皇と仁孝天皇と孝明天皇と続いて、孝明天皇の次の天皇が明治天皇らしい。本当か知らないけど・・・。
 
 閑院宮家は江戸時代の後半に途絶え、伏見宮家から閑院宮載仁親王が入って継いだことになってるようだ。閑院宮載仁親王は陸軍の軍人で、昭和6年(1931年)から昭和15年(1940年)まで参謀総長を務め、陸軍の重鎮のような存在だったようだ。閑院宮載仁親王は太平洋戦争の終戦前の昭和20年(1945年)に亡くなったらしい。
 
 閑院宮載仁親王は米内内閣の陸軍大臣だった畑俊六に辞表を提出するように指示して、米内内閣の崩壊の要因を作ったらしい。第一次近衛内閣と第二次近衛内閣の間に平沼内閣と阿部内閣と米内内閣があって、ウィキペディアを見ると、昭和天皇は米内内閣が続けば太平洋戦争はなかったかもしれないみたいなことを話していたようだ。
 
 光格天皇は閑院宮典仁親王の息子らしいけど、本当か知らない。閑院宮典仁親王には明治時代に慶光天皇の諡号と太上天皇の尊号が送られたらしい。京都にある天台宗の寺の廬山寺に慶光天皇の墓所があるらしく、ウィキペディアを見ると、廬山寺には皇族の人や閑院宮家の人の墓所があるらしい。明治天皇は中山慶子という女性の息子らしいけど、中山家の墓所も廬山寺にあるらしい。
 
 廬山寺は元三大師といわれる良源の創建ということになってるらしく、廬山寺には元三大師堂があるらしい。良源は鬼大師や角大師や豆大師や厄除け大師ともいわれるようだ。廬山寺の節分会は追儺式鬼法楽といって、鬼おどりともいわれるようだ。
 
 廬山寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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