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岩手発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

日光

2025-06-16 20:14:00 | 日記
 明治維新の話は嘘の気がするし、江戸時代の藩も嘘の気がするけど、大政奉還って本当にあったの?。
 
 明治時代は明治元年(1868年)の9月8日から明治45年(1912年)の7月30日までで、大正時代は大正元年(1912年)の7月30日から大正15年(1926年)の12月25日までで、昭和は昭和元年(1926年)の12月25日から昭和64年(1989年)の1月7日までで、平成は平成元年(1989年)の1月8日から平成31年(2019年)の4月30日までで、令和は令和元年(2019年)の5月1日かららしい。
 
 明治18年(1885年)に日本では内閣制度が始まり、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したようだ。明治23年(1890年)には第一回衆議院選挙が行われ、衆議院と貴族院の二院制で国会が始まったようだ。太平洋戦争の後に貴族院に代わって今の参議院ができたらしい。
 
 明治維新の後の徳川家は田安徳川家の人が継いでいて、徳川家達という人が継いだらしい。徳川家達は貴族院の議員になって、明治36年(1903年)から昭和8年(1933年)まで貴族院の議長を務めていたらしい。徳川家達は昭和15年(1940年)に亡くなったらしい。次の徳川家の徳川家正は徳川家達の息子で、徳川家正も昭和21年(1946年)に貴族院の議長になり、徳川家正の時に華族制度が廃止になり、貴族院も廃止になったようだ。
 
 江戸時代の藩も嘘の気がするけど、福島県にあった会津藩の藩主は松平氏で、戊辰戦争の頃の会津藩の藩主の松平容保は岐阜県にあった高須藩の松平氏から養子で入った人らしい。会津藩は戊辰戦争の後に領地を没収されて青森県の下北半島の斗南藩に移されたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 会津藩は戊辰戦争の後に藩主が代わって、松平容保の息子の松平容大が藩主になったらしい。松平容大は陸軍の軍人で、松平容大は明治43年(1910年)に亡くなったらしい。次の会津藩の松平氏の松平保男は松平容大の弟で、松平保男は海軍の軍人で、松平保男は昭和19年(1944年)に亡くなったらしい。次の会津藩の松平氏の松平保定は松平保男の息子で、松平保定の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 松平恒雄という人は松平容保の息子で松平容大の弟らしいけど、本当か知らない。松平恒雄は外務省に入り、外務次官や駐英大使や駐米大使に就き、ロンドン軍縮会議やジュネーブ軍縮会議で全権を務めたらしい。松平恒雄は昭和11年(1936年)に宮内大臣に就き、昭和20年(1945年)まで務めたようだ。戦後は昭和22年(1947年)の第一回参議院選挙に出馬して当選して、初代参議院議長を務めたらしい。松平恒雄は昭和24年(1949年)に亡くなったらしい。松平恒雄の妻は鍋島直大の娘で、松平恒雄の娘は秩父宮雍仁親王の妻になったらしい。
 
 松平恒雄の息子の松平一郎の妻は徳川家正の娘で、松平一郎の息子が徳川家を継いで徳川恒孝と名乗ったようだ。今は徳川恒孝の息子の徳川家広が徳川家の当主らしい。
 
 栃木県日光市にある日光東照宮と日光二荒山神社と輪王寺は江戸時代は一緒になってたらしいけど、本当か知らない。輪王寺の山号は日光山のようだ。輪王寺には徳川幕府の3代目の将軍の徳川家光の墓所の大猷院があるらしいけど、ここが明治天皇の墓所の気がするんだけど、自信が無いなあ。
 
 輪王寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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