東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

岩手

2024-07-17 12:59:41 | 日記
 桂園時代って時代が怪しいんだけど、この頃に岩手県で何かあったんすかね?。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 岩手県の紫波町と紫波町の隣で花巻市に合併した石鳥谷町が南部杜氏の発祥の地といわれてるらしいけど、南部杜氏は日本最大規模の杜氏集団で、組織的になったのは明治時代になってかららしい。明治36年(1903年)に岩手県酒造組合ができたみたいだけど、酒造組合を作って政府が管理することで酒造税の増税に対する酒造家の反対を抑えようとするのが狙いだったようだ。大正3年(1913年)に酒造りをする人たちによって南部杜氏組合ができたらしい。
 
 南部杜氏の始まりには小野組という近江商人の系統の豪商が関わってるらしい。小野家の人が村井権兵衛と名乗ったらしく、村井権兵衛が江戸時代に盛岡で清酒を造ったのが南部杜氏の始まりらしい。小野組は明治時代の初めに破綻したらしい。本当か知らないけど・・・。小野組の破綻のことはウィキペディアに載ってる。
 
 ウィキペディアを見ると、小野慶蔵という人は小野組の支流の芳野屋に生まれた人で、明治22年(1889年)から明治45年(1912年)まで盛岡市議会議員を務め、明治23年(1890年)に第九十国立銀行の取締役に就任し、筆頭株主になり、第九十国立銀行の筆頭株主でありながら明治40年(1907年)に岩手銀行を設立したらしい。この岩手銀行は今の岩手銀行とは違う岩手銀行で、昭和13年(1938年)に第九十国立銀行と第八十八国立銀行と合併して陸中銀行になり、昭和16年(1941年)に岩手殖産銀行に買収されたらしい。
 
 盛岡にある、もりおか啄木賢治青春館は、もともとは第九十国立銀行の本店本館だったらしく、明治43年(1910年)に完成したらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。
 
 盛岡にある岩手銀行赤レンガ館はもともとは盛岡銀行の本店だったらしく、明治44年(1911年)に完成したらしい。昭和8年(1933年)に盛岡銀行が営業免許取り消しになり、昭和11年(1936年)に岩手殖産銀行が買い受けて岩手殖産銀行の本店になり、昭和35年(1960年)に岩手殖産銀行が岩手銀行になり、昭和58年(1983年)に別の場所に本社ビルが建てられて岩手銀行中ノ橋支店になったらしい。岩手銀行中ノ橋支店は2012年に隣に移ったらしく、2016年から岩手銀行赤レンガ館になったらしい。
 
 盛岡銀行は明治29年(1896年)に盛岡の経済界の人たちによって設立され、村井弥兵衛という人が初代頭取に就いたらしい。ウィキペディアを見ると、村井弥兵衛という人は明治44年(1911年)に亡くなったらしい。
 
 ウィキペディアを見ると、当時の岩手県知事だった北条元利という人が岩手県酒造組合の組合長に就任したらしい。北条元利は山形県にあった米沢藩の藩士の息子で、旧名は河村徳次というらしく、河村家から北条家に養子に入ったらしい。北条元利は明治33年(1900年)から明治37年(1904年)まで岩手県知事を務めたようだ。北条元利は明治38年(1905年)に亡くなったようだ。
 
 ウィキペディアに歴代岩手県知事が載ってる。押川則吉という人は明治37年(1904年)から明治40年(1907年)まで岩手県知事を務めたようだ。次の岩手県知事は笠井信一という人で、明治40年(1907年)から大正2年(1913年)まで務めたようだ。次の岩手県知事は堤定次郎という人で、大正2年(1913年)から大正3年(1914年)まで務めたようだ。次の岩手県知事は大津麟平という人で、大正3年(1914年)から大正8年(1919年)まで務めたようだ。その後も載ってる。
 
 岩手県ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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