東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

秘密結社

2024-06-19 23:04:22 | 日記
 堀田氏ですか・・・。
 
 岩手県奥州市の江刺には光明寺という曹洞宗の寺があって、山号は大蔵山だ。HPがある。光明寺は江戸時代に江刺にいた岩谷堂伊達氏の岩城氏の菩提寺だそうだ。たぶんだけど・・・。岩城氏は明治維新の後に伊達氏から岩城氏に戻したらしいけど、その後がわからない。岩城氏は戦国時代は福島県いわき市にいて、秋田県由利本荘市にあった亀田藩の岩城氏は同族らしい。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 第一次西園寺内閣では山縣伊三郎と原敬と堀田正養と逓信大臣が三回変わったようだ。山縣伊三郎という人は山縣有朋の姉の息子で、山縣有朋の養子になって山縣有朋の跡を継いだようだ。逓信省は交通や通信や電気など幅広く管轄してたらしい。
 
 原敬は岩手県盛岡市の出身ということになってるけど、本当か知らない。原敬は第四次伊藤内閣で逓信大臣に就き、第一次西園寺内閣で内務大臣と逓信大臣を兼務し、第二次西園寺内閣では内務大臣と鉄道員総裁を兼務し、第一次山本内閣でも内務大臣に就き、大正7年(1918年)に総理大臣になって司法大臣を兼務し、大正10年(1921年)に暗殺されたらしい。
 
 原敬の最初の妻は貞子という女性らしく、明治38年(1906年)に離婚したようだけど、原敬の後妻の浅という女性は奥州市の江刺の出身らしく、東京で芸者をしていて原敬の妾だったらしいけど、明治41年(1908年)に結婚したらしい。浅は菅野弥太郎という人の娘らしい。
 
 堀田正養という人は滋賀県にあった宮川藩の最後の藩主で、秋田県由利本荘市にあった亀田藩の岩城氏から養子で入ったことになってるらしい。堀田正養は明治44年(1911年)に亡くなったらしい。次の堀田氏の堀田正亨という人は大阪府にあった丹南藩の高木氏から養子で入った人らしいけど、ウィキペディアを見ても、それ以上わからない。
 
 本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど、後藤新平は第二次桂内閣で逓信大臣と初代鉄道院総裁、第三次桂内閣で逓信大臣、寺内内閣で内務大臣と外務大臣、第二次山本内閣で内務大臣に就いたようだ。後藤新平は東京市長にも就任したようだ。後藤新平は関東大震災の後に帝都復興院総裁に就き、東京の復興計画を立案したらしい。後藤新平は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。後藤新平はフリーメイソンらしい。
 
 明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたみたいだけど、林董という人は日英同盟の調印の時の日本の代表だったようだ。林董は駐英公使だったようだけど、明治36年(1903年)にフリーメイソンに入会し、次の年には日本人初のロッジ・マスターになったらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。林董は第一次西園寺内閣で外務大臣、第二次西園寺内閣では逓信大臣を務め、外務大臣も一時兼任したようだ。林董は千葉県にあった佐倉藩の出身ということになってるらしい。
 
 千葉県にあった佐倉藩の藩主は堀田氏で、佐倉藩の最後の藩主の堀田正倫は明治44年(1911年)に亡くなったらしい。次の堀田氏の堀田正恒は佐賀県にあった蓮池藩の鍋島氏から養子で入った人で、堀田正恒の時に太平洋戦争の終戦を迎えて華族制度が廃止になったようだ。
 
 フリーメイソンですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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