東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

長崎

2021-05-19 22:53:30 | 日記
 長崎市は戦国時代の終わり頃にイエズス会の教会領になったらしいけど、どうなんだろうなあ?。
 
 戦国時代に長崎県にいた有馬氏は南蛮貿易で大きな利益を上げていたようだ。有馬義貞の兄弟の大村純忠は日本初のキリシタン大名で、有馬義貞もキリスト教の洗礼を受けたみたいです。大村純忠は有馬氏から大村氏に来たみたいです。
 
 有馬義貞の息子が有馬晴信で、大友宗麟と大村純忠と有馬晴信が中心になって天正遣欧少年使節を送ったみたいです。戦国時代の大分県には大友氏がいたみたいです。
 
 島原半島の辺りは江戸時代の初めは日野江藩で、日野江藩が島原藩になったようだけど、日野江藩の初代藩主は有馬晴信で、有馬晴信の息子の有馬直純の時に宮崎県にあった延岡藩に移ったみたいです。
 
 延岡藩にいた有馬氏と久留米藩の有馬氏は違う有馬氏らしい。日本のキリスト教の歴史は嘘の気がするけど、わけがわからない。
 
 長崎県長崎市にある大浦天主堂は元治元年(1864年)に建てられ、次の年に隠れキリシタンの人が大浦天主堂を訪れたようだ。信徒発見というみたいです。明治維新の後も、日本では、しばらくキリスト教は禁教だったようだけど、明治6年(1873年)にキリスト教の禁教が解かれたみたいです。
 
 島原の乱は寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にあって、島原の乱から200年以上経って、元治2年(1865年)に隠れキリシタンの人が大浦天主堂を訪れて信徒発見ということになってるみたいです。
 
 文久2年(1862年)に豊臣秀吉のキリシタンの取り締まりで処刑された日本二十六聖人がローマ教皇によって聖人に列せられたみたいです。大浦天主堂は正式には日本二十六聖殉教者聖堂というらしく、日本二十六聖人に捧げられた教会のようです。この頃のローマ教皇はピウス9世だったようだ。
 
 日本にはカトリックの中のパリ外国宣教会というところが来てたみたいけど、ウィキペディアで調べると、日本でのカトリックの布教は明治維新の後もパリ外国宣教会の独占状態だったらしく、日露戦争の後の明治38年(1905年)にローマ教皇から明治天皇に文書が送られ、他の修道会も日本に来るようになったみたいです。本当か知りませんけど・・・。
 
 大浦天主堂ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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