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岩手発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

伊勢

2025-09-06 22:58:53 | 日記
 東北の伊勢ですか・・・。
 
 日本の歴史は嘘の気がするけど、戦国時代の福岡県には高橋氏がいて、高橋氏は高橋紹運と高橋元種の2つの家系に分かれたらしい。高橋紹運の息子の立花宗茂は柳川藩の初代藩主で、立花宗茂の兄弟の立花直次の息子の立花種次は三池藩の初代藩主らしい。高橋元種は宮崎県にあった延岡藩の初代藩主らしいけど、高橋元種は秋月氏から入った人らしい。秋月氏は戦国時代は福岡県朝倉市にいて、江戸時代は宮崎県にあった高鍋藩の藩主だったらしい。
 
 柳川藩の初代藩主の立花宗茂は福島県にあった棚倉藩の初代藩主ということになってるらしく、高橋元種は棚倉藩の預かりになって、棚倉町で亡くなったらしい。棚倉町にある常隆寺という曹洞宗の寺に高橋元種の墓があるみたいだけど、詳しいことがわからない。常隆寺の山号は寶田山らしい。 立花宗茂は、その後に柳川藩に戻ったことになってるらしい。
 
 棚倉藩は藩主の入れ替わりが激しかったらしいけど、棚倉藩には立花氏の後に丹羽氏が来て、高橋元種の子孫は丹羽氏に仕えたらしい。丹羽氏は福島県にあった二本松藩に移って、廃藩置県まで二本松藩の藩主だったらしい。
 
 二本松藩の最後の藩主の丹羽長裕は山形県にあった米沢藩の上杉氏から養子で入った人で、明治19年(1886年)に亡くなったらしい。次の丹羽氏の丹羽長保も上杉氏から養子で入った人で丹羽長裕の弟で、明治35年(1902年)に亡くなったらしい。次の丹羽氏の丹羽長国は丹羽長裕の前の藩主で、戊辰戦争の時の二本松藩の藩主らしい。丹羽長国は明治37年(1904年)に亡くなったらしい。次の丹羽氏の丹羽長徳は愛媛県にあった宇和島藩の最後の藩主の伊達宗徳の息子で、丹羽長徳の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 福島県郡山市にある開成山大神宮は東北のお伊勢さまといってるみたいだけど、開成山大神宮では天照大神と豊受大神と神武天皇を祀ってるらしい。郡山市の辺りは江戸時代は二本松藩だったんでしょうか?。伊勢神宮の分霊を祀りたいと神宮司庁に働きかけ、明治9年(1876年)に創建されたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2025-09-06 22:41:20 | 日記
 なんで、延岡藩の内藤氏と湯長谷藩の内藤氏の墓所が神奈川県鎌倉市にある寺にあるんでしょう?。
 
 江戸時代の藩も嘘の気がするけど、佐賀県にあった佐賀藩の藩主は鍋島氏で、佐賀藩の最後の藩主の鍋島直大の妻の栄子は広橋家の出身で、広橋賢光という人の妹らしい。広橋賢光は明治43年(1910年)に亡くなったらしい。広橋家は広橋賢光の息子の広橋真光が継いで、広橋真光の時に華族制度が廃止になったようだ。広橋真光は近衛内閣と東条内閣で総理大臣秘書官を務めたらしい。
 
 藤波家は明治時代の前まで伊勢神宮の祭主を務めていたらしいけど、本当か知らない。藤波言忠という人は広橋家から藤波家に養子に入った人で、広橋賢光と鍋島栄子の兄弟らしい。福井藩の最後の藩主の松平茂昭の妻は広橋家の人で広橋賢光と鍋島栄子と藤波言忠の兄弟で、松平茂昭の息子は藤波言忠の養子になって藤波茂時と名乗って藤波家を継いだようだ。
 
 清では1840年にアヘン戦争があって、1856年にアロー戦争があったらしい。アヘン戦争の後に上海が開港して、上海には租界という外国人居留地が作られて、その後の上海は東アジアで最大の西洋文明の発展した土地になったようだ。上海の租界は太平洋戦争の終戦前まで存続したようだ。
 
 上海にはジャーディン・マセソン商会の上海支店があったようだ。ジャーディン・マセソン商会というイギリス系の企業が今でもあるみたいだけど、ジャーディン・マセソン商会の設立当初の主な業務はアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出だったようだ。安政6年(1859年)に横浜にジャーディン・マセソン商会の横浜支店ができたらしい。
 
 日本では黒船来航は嘉永6年(1853年)で、嘉永7年(1854年)に日米和親条約が結ばれたらしい。 安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれ、その後にオランダとロシアとイギリスとフランスとも修好通商条約が結ばれたらしい。安政五カ国条約というらしい。
 
 吉田茂は太平洋戦争の後に日本の総理大臣になった人で、吉田茂は竹内綱という人の息子で、吉田健三という人の養子になったらしい。吉田健三は福井藩士の渡辺家の生まれで、渡辺家の一門の吉田家を再興したらしい。吉田健三は脱藩してイギリスに密航し、帰国後の明治元年(1868年)にジャーディン・マセソン商会の横浜支店の支店長に就任し、明治4年(1871年)に退社して独立したらしい。退社後は実業家として様々な事業に関わり、横浜有数の富豪になったらしい。明治14年(1881年)に吉田茂を養子にしたらしい。吉田健三は明治22年(1889年)に亡くなったらしい。
 
 横浜市南区に光明寺という浄土宗の寺があるらしく、HPがある。久保山光明寺と書いてある。明治11年(1878年)に念仏の道場として開かれ、明治21年(1888年)に吉田健三の勧めで現在地に移転し、明治32年(1899年)に役所から寺院建立が許可され、吉田健三と上郎幸八という人の名字から山号を吉上山として、鎌倉市にある光明寺の末寺の慈眼院から寺の名称を移し、吉上山慈眼院光明寺という寺になったらしい。ウィキペディアを見ると、鎌倉市の光明寺にいた正誉(宮下)舜達という僧が横浜市の光明寺に来たようだ。
 
 宮崎県にあった延岡藩は廃藩置県の頃は内藤氏が藩主で、延岡藩の内藤氏は延岡藩に来る前は福島県いわき市にあった磐城平藩にいて、いわき市にあった湯長谷藩の藩主も内藤氏だったらしい。
 
 延岡藩の内藤氏の墓所も湯長谷藩の内藤氏の墓所も、神奈川県鎌倉市にある光明寺という浄土宗の寺にあるらしい。光明寺の山号は天照山のようだ。天照山蓮華院光明寺とHPに書いてある。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2025-09-06 22:18:22 | 日記
 なんで、延岡藩の内藤氏と湯長谷藩の内藤氏の墓所が神奈川県鎌倉市にある寺にあるんでしょう?。
 
 江戸時代の藩も嘘の気がするけど、佐賀県にあった佐賀藩の藩主は鍋島氏で、佐賀藩の最後の藩主の鍋島直大の妻の栄子は広橋家の出身で、広橋賢光という人の妹らしい。広橋賢光は明治43年(1910年)に亡くなったらしい。広橋家は広橋賢光の息子の広橋真光が継いで、広橋真光の時に華族制度が廃止になったようだ。広橋真光は近衛内閣と東条内閣で総理大臣秘書官を務めたらしい。
 
 鍋島直大の娘の伊都子は梨本宮守正王の妻になって、梨本宮守正王と伊都子の娘の規子は広橋真光の妻になったらしい。梨本宮守正王は太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 日本の歴史は嘘の気がするけど、戦国時代の福岡県には高橋氏がいて、高橋氏は高橋紹運と高橋元種の2つの家系に分かれたらしい。高橋紹運の息子の立花宗茂は柳川藩の初代藩主で、立花宗茂の兄弟の立花直次の息子の立花種次は三池藩の初代藩主らしい。高橋元種は宮崎県にあった延岡藩の初代藩主らしいけど、高橋元種は秋月氏から入った人らしい。秋月氏は戦国時代は福岡県朝倉市にいて、江戸時代は宮崎県にあった高鍋藩の藩主だったらしい。
 
 宮崎県にあった延岡藩は廃藩置県の頃は内藤氏が藩主で、延岡藩の内藤氏は延岡藩に来る前は福島県いわき市にあった磐城平藩にいて、いわき市にあった湯長谷藩の藩主も内藤氏だったらしい。
 
 延岡藩の最後の藩主の内藤政挙は静岡県にあった掛川藩の太田氏から養子で入った人らしい。内藤政挙は昭和2年(1927年)に亡くなったようだ。次の内藤氏の内藤政道は内藤政挙の息子のようだけど、ウィキペディアを見ても、それ以上わからない。
 
 戊辰戦争の頃の湯長谷藩の藩主は内藤政養で、湯長谷藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府と戦って強制隠居させられ、明治44年(1911年)に亡くなったらしい。湯長谷藩の最後の藩主の内藤政憲は大炊御門家から養子で入った人で、内藤政憲は明治14年(1881年)に家督を譲って隠居して、大正8年(1919年)に亡くなったらしい。内藤政憲の息子の内藤政潔が継いだようだけど、それ以降、わからない。
 
 大炊御門家信という人が明治維新の頃の大炊御門家の人で、大炊御門師前と大炊御門幾麿は大炊御門家信の息子らしい。大炊御門家信は明治18年(1885年)に亡くなったらしい。大炊御門師前はいろいろと問題があって、大炊御門師前の弟の大炊御門幾麿が大炊御門家を継いだようだ。大炊御門幾麿は大正8年(1919年)に亡くなったらしい。次の大炊御門家の大炊御門経輝は大炊御門幾麿の息子で、大炊御門経輝の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 慶光院盈子という女性は伏見宮邦家親王の隠し子だったらしいけど、大炊御門家信の猶子になったらしい。本当か知らないけど・・・。三重県伊勢市に神護山慶光院という臨済宗の寺があったらしく、明治維新の後に廃寺になって今は神宮祭主の職舎になってるらしい。慶光院盈子は慶光院の最後の住持で、慶光院が廃寺になった後は宮橋盈子と名乗ったらしい。明治35年(1902年)に二条家から養子に迎えて明治36年(1903年)に家督を譲り、慶光院盈子と名前を戻したようだ。慶光院盈子は昭和9年(1934年)に亡くなったらしい。
 
 延岡藩の内藤氏の墓所も湯長谷藩の内藤氏の墓所も、神奈川県鎌倉市にある光明寺という浄土宗の寺にあるらしい。光明寺の山号は天照山のようだ。天照山蓮華院光明寺とHPに書いてある。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2025-09-06 20:16:24 | 日記
 皇族ですか・・・。
 
 江戸時代の藩も嘘の気がするけど、佐賀県にあった佐賀藩の藩主は鍋島氏で、佐賀藩の最後の藩主の鍋島直大の妻の栄子は広橋家の出身で、広橋賢光という人の妹らしい。広橋賢光は明治43年(1910年)に亡くなったらしい。広橋家は広橋賢光の息子の広橋真光が継いで、広橋真光の時に華族制度が廃止になったようだ。広橋真光は近衛内閣と東条内閣で総理大臣秘書官を務めたらしい。
 
 鍋島直大の娘の伊都子は梨本宮守正王の妻になって、梨本宮守正王と伊都子の娘の規子は広橋真光の妻になったらしい。梨本宮守正王は太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。太平洋戦争の後は天皇の娘が伊勢神宮の祭主を務めるようになって、今の伊勢神宮の祭主は上皇の娘の黒田清子らしい。
 
 藤波家は明治時代の前まで伊勢神宮の祭主を務めていたらしいけど、本当か知らない。藤波言忠という人は広橋家から藤波家に養子に入った人で、広橋賢光と鍋島栄子の兄弟らしい。福井藩の最後の藩主の松平茂昭の妻は広橋家の人で広橋賢光と鍋島栄子と藤波言忠の兄弟で、松平茂昭の息子は藤波言忠の養子になって藤波茂時と名乗って藤波家を継いだようだ。
 
 慶光院盈子という女性は伏見宮邦家親王の隠し子だったらしいけど、大炊御門家信の養子になったらしい。本当か知らないけど・・・。三重県伊勢市に神護山慶光院という臨済宗の寺があったらしく、明治維新の後に廃寺になって、今は神宮祭主の職舎になってるらしい。慶光院盈子は慶光院の最後の住持で、慶光院が廃寺になった後は宮橋盈子と名乗ったらしい。明治35年(1902年)に二条家から養子に迎えて明治36年(1903年)に家督を譲り、慶光院盈子と名前を戻したようだ。慶光院盈子は昭和9年(1934年)に亡くなったらしい。
 
 明治維新の話は嘘の気がするけど、明治維新の後に宮家が増えたらしく、太平洋戦争の後に昭和天皇の兄弟の宮家以外は皇籍離脱したらしい。この人たちを旧皇族というらしい。
 
 ウィキペディアで調べると、久邇宮朝彦親王には妻が何人もいたみたいだけど、本当か知らない。久邇宮邦彦王と賀陽宮邦憲王と多嘉王と梨本宮守正王と東久邇宮稔彦王と朝香宮鳩彦王は久邇宮朝彦親王の息子らしい。多嘉王は臣籍降下して華族にならず、宮家も創設しなかったので多嘉王らしい。
 
 久邇宮家は久邇宮邦彦王が継いだらしいけど、久邇宮邦彦王の娘が昭和天皇の皇后の香淳皇后らしい。久邇宮邦彦王は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。久邇宮邦彦王の息子の久邇宮朝融王が久邇宮家を継いだようだけど、久邇宮朝融王の時に皇籍離脱して久邇朝融を名乗ったらしい。 
 
 ウィキペディアで調べると、賀陽宮邦憲王は明治29年(1895年)から明治42年(1909年)まで祭主を務め、賀陽宮邦憲王の後は臨時祭主が置かれ、多嘉王と久邇宮邦彦王と鷹司煕通が臨時祭主に就いて、次の祭主は多嘉王で大正8年(1919年)から昭和12年(1937年)まで務め、次も臨時祭主が置かれ梨本宮守正王が昭和12年(1937年)から昭和20年(1945年)まで臨時祭主に就いて、梨本宮守正王が太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2025-09-06 19:57:22 | 日記
 佐賀県ですか・・・。
 
 東京に賢崇寺という曹洞宗の寺があるらしく、山号は興国山のようだ。ウィキペディアを見ると、賢崇寺は佐賀藩の鍋島氏の江戸の菩提寺らしい。賢崇寺には佐賀藩の藩主だった鍋島直正の墓もあったらしいけど、平成11年(1999年)に佐賀市にある春日山御墓所に移されたらしい。
 
 昭和11年(1936年)に2.26事件があって、2.26事件は陸軍の青年将校の人たちが引き起こしたようだ。賢崇寺には2.26事件で死刑になった人たちや自決した人たちの墓があるらしい。2.26事件の首謀者の1人に栗原安秀という人がいて、栗原安秀の父が賢崇寺に入り、住職だった藤田俊訓という僧と一緒に墓を建立したらしい。栗原安秀の父は佐賀県の出身で、陸軍の軍人だったようだ。藤田俊訓という僧も佐賀県の出身らしい。
 
 江戸時代の藩も嘘の気がするけど、佐賀県にあった佐賀藩の藩主は鍋島氏で、佐賀藩の最後の藩主の鍋島直大は前の藩主の鍋島直正の息子らしい。明治7年(1874年)に佐賀の乱があって、佐賀の乱があった時は鍋島直大はイギリスに留学していて日本にいなくて、明治11年(1878年)に帰国したらしい。本当か知らないけど・・・。鍋島直大は外務省に務め、明治13年(1880年)から明治15年(1882年)まで駐イタリア王国特命全権公使としてイタリアに住んでいたらしい。帰国した後は日本の近代化政策に関わったらしい。鍋島直大は明治44年(1911年)から大正7年(1918年)まで皇典講究所の所長に就き、大正7年(1918年)から大正10年(1921年)まで皇典講究所の副総裁に就いていたようだ。鍋島直大は大正10年(1921年)に亡くなったらしい。
 
 次の佐賀藩の鍋島氏の鍋島直映は鍋島直大の息子で、鍋島直映は昭和18年(1943年)に亡くなったらしい。次の佐賀藩の鍋島氏の鍋島直泰は鍋島直映の息子で、鍋島直泰の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 鍋島直大の妻の栄子は広橋家の出身で、広橋賢光という人の妹らしい。広橋賢光は明治43年(1910年)に亡くなったらしい。広橋家は広橋賢光の息子の広橋真光が継いで、広橋真光の時に華族制度が廃止になったようだ。広橋真光は近衛内閣と東条内閣で総理大臣秘書官を務めたらしい。
 
 鍋島直大の娘の伊都子は梨本宮守正王の妻になって、梨本宮守正王と伊都子の娘の規子は広橋真光の妻になったらしい。梨本宮守正王は太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。太平洋戦争の後は天皇の娘が伊勢神宮の祭主を務めるようになって、今の伊勢神宮の祭主は上皇の娘の黒田清子らしい。
 
 藤波家は明治時代の前まで伊勢神宮の祭主を務めていたらしいけど、本当か知らない。藤波言忠という人は広橋家から藤波家に養子に入った人で、広橋賢光と鍋島栄子の兄弟らしい。福井藩の最後の藩主の松平茂昭の妻は広橋家の人で広橋賢光と鍋島栄子と藤波言忠の兄弟で、松平茂昭の息子は藤波言忠の養子になって藤波茂時と名乗って藤波家を継いだようだ。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか