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岩手発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

伊勢

2025-09-06 23:45:50 | 日記
 明治天皇は久邇宮朝彦親王の息子なんだろうか?。自信が無いけど、それが一番納得がいくなあ。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。太平洋戦争の後は天皇の娘が伊勢神宮の祭主を務めるようになって、今の伊勢神宮の祭主は上皇の娘の黒田清子らしい。
 
 明治維新の話は嘘の気がするけど、明治維新の後に宮家が増えたらしく、太平洋戦争の後に昭和天皇の兄弟の宮家以外は皇籍離脱したらしい。この人たちを旧皇族というらしい。
 
 ウィキペディアで調べると、久邇宮朝彦親王には妻が何人もいたみたいだけど、本当か知らない。久邇宮邦彦王と賀陽宮邦憲王と多嘉王と梨本宮守正王と東久邇宮稔彦王と朝香宮鳩彦王は久邇宮朝彦親王の息子らしい。多嘉王は臣籍降下して華族にならず、宮家も創設しなかったので多嘉王らしい。
 
 久邇宮家は久邇宮邦彦王が継いだらしいけど、久邇宮邦彦王の娘が昭和天皇の皇后の香淳皇后らしい。久邇宮邦彦王は昭和4年(1929年)に亡くなったらしい。久邇宮邦彦王の息子の久邇宮朝融王が久邇宮家を継いだようだけど、久邇宮朝融王の時に皇籍離脱して久邇朝融を名乗ったらしい。 
 
 ウィキペディアで調べると、賀陽宮邦憲王は明治29年(1895年)から明治42年(1909年)まで祭主を務め、賀陽宮邦憲王の後は臨時祭主が置かれ、多嘉王と久邇宮邦彦王と鷹司煕通が臨時祭主に就いて、次の祭主は多嘉王で大正8年(1919年)から昭和12年(1937年)まで務め、次も臨時祭主が置かれ梨本宮守正王が昭和12年(1937年)から昭和20年(1945年)まで臨時祭主に就いて、梨本宮守正王が太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2025-09-06 23:40:53 | 日記
 一条ですか・・・。
 
 明治天皇の皇后の昭憲皇太后は一条家の出身で、一条忠香という人の娘らしい。一条忠香の息子の一条実良が一条家を継いだらしいけど、一条実良は明治時代の前に亡くなったらしい。次の一条家の一条忠貞は醍醐家の人で、一条忠貞が明治維新の頃の一条家の人らしい。一条忠貞は一条実良の娘を妻にして一条家に婿養子に入ったらしいけど、離婚問題で訴訟事件になり、明治15年(1882年)に離縁になり、醍醐家に戻ったらしい。醍醐忠貞という名前になったらしいけど、醍醐忠貞は昭和6年(1931年)に亡くなったらしい。
 
 次の一条家の一条実輝は四条家から養子で入った人で、四条隆平という人の息子らしいけど、四条隆平の兄の四条隆謌の息子として育てられたらしい。四条隆謌の四条家が本家らしい。一条実輝は明治16年(1883年)に一条家を継いだようだ。一条実輝は海軍の軍人で、大正9年(1920年)に明治神宮の初代宮司に就き、亡くなるまで務めたようだ。一条実輝は大正13年(1924年)に亡くなったらしい。
  
 次の一条家の一条実孝は大炊御門家から養子で入った人で、大炊御門師前の息子らしい。一条実孝の時に華族制度が廃止になったようだ。一条実孝も海軍の軍人だったようだ。
 
 醍醐忠貞は醍醐忠順という人の息子で、賀陽宮邦憲王の妻になった好子は妹らしい。醍醐忠順の長男の醍醐忠告は病弱ということで次男の醍醐忠敬が醍醐家を継いだらしいけど、家督相続問題で醍醐忠敬は醍醐忠告の息子に射殺されたらしい。醍醐忠順が再び家督を継いだらしいけど、醍醐忠順は明治33年(1900年)に亡くなったらしい。次の醍醐家の醍醐忠重は醍醐忠敬の息子で、醍醐忠重は一条家に引き取られて育ったらしい。醍醐忠重は海軍の軍人で、太平洋戦争の終戦後の昭和22年(1947年)にオランダ領だったインドネシアで戦犯として死刑になったらしい。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。太平洋戦争の後は天皇の娘が伊勢神宮の祭主を務めるようになって、今の伊勢神宮の祭主は上皇の娘の黒田清子らしい。
 
 ウィキペディアで調べると、賀陽宮邦憲王は明治29年(1895年)から明治42年(1909年)まで祭主を務め、賀陽宮邦憲王の後は臨時祭主が置かれ、多嘉王と久邇宮邦彦王と鷹司煕通が臨時祭主に就いて、次の祭主は多嘉王で大正8年(1919年)から昭和12年(1937年)まで務め、次も臨時祭主が置かれ梨本宮守正王が昭和12年(1937年)から昭和20年(1945年)まで臨時祭主に就いて、梨本宮守正王が太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2025-09-06 23:35:36 | 日記
 一条ですか・・・。
 
 江戸時代の藩も嘘の気がするけど、南部藩の最後の藩主は南部利恭で、南部利恭は明治36年(1903年)に亡くなったらしい。次の南部氏の南部利祥は南部利恭の息子で、南部利祥は陸軍の軍人で、明治38年(1905年)に日露戦争で戦死したらしい。
 
 次の南部氏の南部利淳も南部利恭の息子で、南部利淳は昭和5年(1930年)に亡くなったらしい。次の南部氏の南部利英は一条家から養子で入った人で一条実輝の息子で、南部家に婿養子で入ったらしい。南部利英の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 一条実輝という人は四条家から一条家に養子で入った人で、四条隆平という人の息子らしいけど、四条隆平の兄の四条隆謌の息子として育てられたらしい。四条隆謌の四条家が本家らしい。一条実輝は海軍の軍人で、大正9年(1920年)に明治神宮の初代宮司に就き、亡くなるまで務めたようだ。一条実輝は大正13年(1924年)に亡くなったらしい。
 
 次の一条家の一条実孝は大炊御門家から養子で入った人で、大炊御門師前の息子らしい。一条実孝の時に華族制度が廃止になったようだ。一条実孝も海軍の軍人だったようだ。
 
 大炊御門家信という人が明治維新の頃の大炊御門家の人で、大炊御門師前と大炊御門幾麿は大炊御門家信の息子らしい。大炊御門家信は明治18年(1885年)に亡くなったらしい。大炊御門師前はいろいろと問題があって、大炊御門師前の弟の大炊御門幾麿が大炊御門家を継いだようだ。大炊御門幾麿は大正8年(1919年)に亡くなったらしい。次の大炊御門家の大炊御門経輝は大炊御門幾麿の息子で、大炊御門経輝の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 慶光院盈子という女性は伏見宮邦家親王の隠し子だったらしいけど、大炊御門家信の養子になったらしい。本当か知らないけど・・・。三重県伊勢市に神護山慶光院という臨済宗の寺があったらしく、明治維新の後に廃寺になって、今は神宮祭主の職舎になってるらしい。慶光院盈子は慶光院の最後の住持で、慶光院が廃寺になった後は宮橋盈子と名乗ったらしい。明治35年(1902年)に二条家から養子に迎えて明治36年(1903年)に家督を譲り、慶光院盈子と名前を戻したようだ。慶光院盈子は昭和9年(1934年)に亡くなったらしい。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。太平洋戦争の後は天皇の娘が伊勢神宮の祭主を務めるようになって、今の伊勢神宮の祭主は上皇の娘の黒田清子らしい。
 
 ウィキペディアで調べると、賀陽宮邦憲王は明治29年(1895年)から明治42年(1909年)まで祭主を務め、賀陽宮邦憲王の後は臨時祭主が置かれ、多嘉王と久邇宮邦彦王と鷹司煕通が臨時祭主に就いて、次の祭主は多嘉王で大正8年(1919年)から昭和12年(1937年)まで務め、次も臨時祭主が置かれ梨本宮守正王が昭和12年(1937年)から昭和20年(1945年)まで臨時祭主に就いて、梨本宮守正王が太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、天皇を信じてる人たちは地獄に落ちればいいのに・・・。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

お祓い

2025-09-06 23:11:54 | 日記

伊勢

2025-09-06 23:06:28 | 日記

 

 

 

 

 
 岩手県北上市に全明寺という曹洞宗の寺があって、山号は日月山だ。日月山全明寺。全明寺の本堂の屋根や門には徳川家の紋の三つ葉葵がある。全明寺の由緒は不明のようだけど、江戸時代の初め頃に南部藩士の人が北上市の辺りの和賀郡を開拓した時に全明寺の僧が協力して、徳川家の紋の入った袈裟をもらったらしい。本当か知らないけど・・・。全明寺は地域の普通の寺というかんじの寺で、回りに民家や田んぼがあるけど、近くに南部藩と伊達藩の藩境塚がある。
 
 北上市にある天照御祖神社は東北のお伊勢さんといってる。インターネットで調べると、北上市の天照御祖神社は寛文5年(1665年)に南部藩士の人が北上市のあたりの和賀郡の開拓を始め、延宝6年(1678年)に伊勢神宮から勧請して創建したらしい。元禄2年(1689年)に今の場所に新宮を建てたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 江戸時代は全明寺に天照御祖神社の元宮があったらしく、祭りの時に全明寺と天照御祖神社の間を神輿が歩いたらしい。その時に全明寺の僧は徳川家の紋の入った袈裟を着たらしい。岩手県の寺の本に、そのようなことが書いてある。全明寺と天照御祖神社の間は車でも15分か20分かかるぐらい距離が離れてる。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、呪われた人生だったなあ、俺の人生は。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか