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沢村さんの沖縄通信・・・第4回ジョン万サミットin沖縄と講演会開く

2015-09-15 | ジョン万次郎に関する記事

第4回ジョン万サミットin沖縄と講演会開く

第4回ジョン万サミットin沖縄&第10回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月12日、豊見城市中央公民館で開かれた。新聞、テレビでお知らせしたこともあり、会場いっぱいの参加者で関心の高さを示した。
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歓迎アトラクションでフォレスト混声合唱団が「芭蕉布」などを披露した。団長は前夜祭でカチャーシーを演奏した高安勝利さんだった。「鼓衆しんか」は創作エイサーを勇壮に舞った。

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 講演会では、大城光盛沖縄ジョン万次郎会会長あいさつ(代読)、宜保晴毅豊見城市長の祝辞、万次郎直系、5代目の中浜京さん、土佐清水市の泥谷(ひじや)光信市長の来賓あいさつがあった。

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 京さんは、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをもって帰って来たことにふれ、「お互いに思いやる心があれば国家を超えた友情を持ち続けることができると思います」とのべた。 

  講演は、高知県で発行されている『土佐史談』の中浜万次郎特集号に沖縄から執筆したお二人が演壇に立った。とっても聞きごたえのある充実した講演だった。

 糸満市教育委員会総務部長で万次郎研究者の神谷良昌氏は「ジョン万次郎・琉球上陸の真実」と題して話した。

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 神谷氏は、万次郎が捕鯨船に救助された当時の捕鯨の実態やアメリカでの留学と帰国の準備にも触れながら、琉球に上陸した万次郎をなぜ那覇に入れず豊見城間切翁長村に滞在させたのかを詳述した。当時、英宣教師ベッテルハイムが那覇に滞在していることは幕府に秘密にしており、彼と会せることが危険と考え、遠い翁長村に戻したこと。王府の通事で万次郎の取り調べにあたった牧志朝忠が『ジョージ・ワシントン伝記』を借りて読み、大統領制度と民主国家の仕組みを理解した。2年後に琉球に来たペリー提督が那覇に石炭貯蔵庫を作りたいと申し出た際、「海岸に貯蔵庫をつくることはできない」と「ノー」と断った。万次郎の教えのおかげだと指摘した。琉球人が米軍に歴史上最初に「ノー」と言い切った瞬間だったとのべた。
                 

 沖縄電力元会長の當眞嗣吉(とうまつぎよし)さんは「『バジル・ホール館長の琉球』とジョン万次郎」と題して話した。有力企業の経営者がなぜ万次郎なのか。當眞さんは、小学生のとき「万次郎病」になり、この数年前から「万次郎病」が再発して研究してきたという。

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 万次郎が琉球上陸する前に、捕鯨船フランクリン号で訪れた琉球のマンビゴミレとはどこの小島だったのかをテーマに解明した。 

19世紀初頭に琉球に来航した英国海軍のアルセステ号、ライラ号の航海記録と海図を分析して、琉球島の海図には「マンビコミレ」とは一字違いの「マントゴミレ」が出ていること。当時ベストセラーとなったライラ号の航海記を万次郎は読んでいると思われることなどから、マンビゴミレは伊平屋(いへや)島であると結論づけた。ただ、琉球側の記録とは異なる面があり、久米島に「ウランダー・マンジラー」(ウランダーは外国人の総称)なる若者が上陸した伝承があり、上陸した小島は伊平屋島と久米島の2島と想定した。

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上陸目的は事前調査であり、琉球の人々は心暖かい人々であると確認したであろう。万次郎は、ライラ号など航海記を読み、マンビコミレ、久米島にも上陸してみて、「琉球に上陸して大丈夫だと考えて上陸したに違いない」とのべた。 

 このあと第4回ジョン万サミットin沖縄で土佐ジョン万会をはじめ各地で活動する団体から活動報告がされ、その後大交流会。13日はジョン万次郎宿道を辿るバスツアーがあったけれど、残念ながら私は別の用務と重なり参加できなかった。

 

前夜祭も盛大に

第4回ジョン万サミットin沖縄前夜祭が9月11日夜、豊見城市のJAおきなわホールで、高知県をはじめ県外からも大数参加して、盛大に開かれた。

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 会場には万次郎の出身地、土佐清水市の泥谷光信市長、土佐ジョン万会の内田泰史会長はじめ、高知からたくさんの方々が来ていた。懐かしい土佐弁が飛び交っていた。若い女性もたくさん参加していたのは頼もしい。 

 沖縄ジョン万次郎会の与那覇正文副会長の歓迎あいさつ、地元の宜保晴毅市長、泥谷光信土佐清水市長があいさつした。NHK大河ドラマに万次郎の採用をめざそうという両市長のあいさつに参加者も大きな拍手で応えていた。

 土佐ジョン万会の内田会長の音頭で乾杯した。  

 万次郎が半年間滞在した豊見城市翁長の高安家5代目当主、高安亀平さん、万次郎の子孫、5代目中浜京さん、高安6代目の方々も揃って記念撮影。

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 余興に入ると「あぁ万次郎」「とみぐすく万次郎音頭」など披露された。私にも歌三線で出てほしいというお誘いをいただいていた。未熟者だが、高知県出身で沖縄に移住し、沖縄ジョン万会のお仲間にさせていただき三線も楽しんでいるということで、厚かましいけれど出させていただいた。 

 「安里屋ユンタ」など3曲を歌った。高知からいらっしゃった88歳のおばあさんが、地元で「安里屋ユンタ」で踊っているといってとても喜んでくれた。

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 最後は高安勝利さんの三線で私もお手伝いして軽快なカチャーシー。会場は一つになってみんなが舞い踊った。 

 

ジョン万次郎 に関する記事 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

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島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1

2015-09-15 | ジョン万次郎に関する記事

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1

高知県出身で沖縄在住の沢村さん(沢村さんの沖縄通信・・・でおなじみ)より、下記の文章をいただきましたので、何回かに分けてご紹介させていただきます。

沢村さんより・・・この文章は、島袋良徳さんという方がもう30年ほど前に書かれたもので、出版もされないままになっていたものを、糸満市米須に在住する高知県出身の和田達雄さんが、手製の小冊子にまとめられて、それを頂いたので、その中から一部を抜粋してものです。

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」

   

               冊子の表紙

                  裏表紙

 「糸満市公報」に1990年4月号から1995年6月号まで5年2カ月、「ジョン万次郎物語」が26回にわたり連載された。糸満市文化財保護委員長をつとめた万次郎研究家の島袋良徳さんが執筆した。糸満市商工観光振興委員長の肩書である。

 島袋さんが万次郎研究にはずみをつけたのは、1966年に出された字米須の「要覧」だった。「口碑伝説」の項目に、万次郎の上陸地については、「その地点が摩文仁間切小渡浜といわれ」とあり「われわれはこのいわれをこの浜にむすんで永く記念したいものである」と記してある。「この結びの一節に強く心を動かされた」という。

 しかし、当時万次郎の小渡浜上陸は史実でないという意見もあり、万次郎のふるさと(土佐清水市中浜)を訪ねて多くの関係資料を見せてもらい、万次郎が1851年1月3日(旧暦)、摩文仁間切小渡浜に上陸したことを確かめて帰った。研究のかたわら、つとめて多くの方々と万次郎のことを語り合う機会をつくってきたという。

 「幕末から明治初期に至る日本の文明開化の夜明けに活躍したジョン万次郎は、帰国の時にこの地を選び、アメリカの文化を身体一ぱいに詰め込んで大度の浜に上陸しています。海の水は青々と澄み、風光明媚な浜辺には、明るい誇るべき真実の歴史があることを、より多くの市民に知っていただける機会になればと願いを込め」書き続けたと記している。以下、「ジョン万次郎物語」からの抜粋し要約して紹介する。

 

 捕鯨船に救われアメリカへ

万次郎は早く父を亡くし、貧乏な家に育ち、漁師になれば母に苦労をかけずに食べて行ける。そう決意してカツオ船に「かしき」(飯炊き)として乗り込んだ。船が遭難して5人が無人島に漂着した。

アメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救われ、船名から「ジョン・マン」と呼ばれるようになった。半年後にハワイのホノルル港に停泊し、5人はハワイにとどまることになった。しかし、万次郎だけホイットフィールド船長に付いて捕鯨船に戻り、1年4カ月航海し、母港のアメリカ・ニューベッドフォードに入港した。その間に万次郎は英語を覚え、日常の会話に不自由しないほどになっていた。

 船長の郷里、フェアヘーブンに着いた。土佐では寺子屋にさえ行けなかった万次郎は、船長の計らいで小学校に入学し、16歳で勉強するチャンスをつかんだ。勉強熱心な万次郎は、成績を認められ上級のパートレット専門学校に進学した。英語・数学・測量術・航海術など高度な内容の授業にも人一倍の努力で勉強した。

 彼の勤勉さは有名で、1916年の地元新聞に「いつもクラスのトップで、優秀な成績で卒業した」という同級生の談話が載っている。勉強のかたわら、桶屋に住み込んで鯨油樽を造る技術も習得した。19歳の時、万次郎を見込んで米国一流の捕鯨船フランクリン号の船長が乗船を頼み、船員となった。

 母港を出帆して10か月目にグアム島に寄港した。万次郎はホイットフィールド船長に手紙を書いた。手紙は、これから琉球に行くことを告げ、「琉球上陸のチャンスをつかみ、捕鯨船が琉球で水や食糧を補給できるように私は琉球の開港に努力したい」と結んでいる。

 フランクリン号は小笠原諸島を西に進み、琉球列島のある小島に万次郎は上陸した。島の役人から牛2頭を贈られ、お返しに綿布を贈った。この島を「マンピゴミレ」と呼んだが、現在の何島であるかはっきりしない。

 フランクリン号は航行中に、デービス船長が発病し、後任選出を全乗組員で行い、万次郎は普通9~12年ほどたたき上げなければなれない一等航海士と副船長にわずか3年余の航海歴で選ばれた。父親同様のホイットフィールド船長は「ジョン、お前は西洋式航海術で世界を回った最初の日本人だ」とほめたたえた。

 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

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