「日華事変と山西省」というウェブサイトに興味深い記事を見つけた。
このHPの筆者は、中国・山西省と関わりのある人らしく、日中戦争期のかくされたエピソードを採り上げている。
その中で興味をひいたのが、次の記事である。全文に近くなってしまうが、引用をさせていただく。
孫東元さんの人物像―安藤彦太郎『虹の墓標』批判
安藤は孫さんを、1937年(昭和12年)の廬溝橋事件を機に帰国していった愛国学生の一人として描いている。安藤は「孫君はひたすら事変の不拡大をねがい、医学を身につけるまでは、と頑張っていた。だが、ついに七月末に孫君も引き揚げることになった」(64頁)とし、留学生活を三週間で切り上げ、博多から船に乗って天津経由で帰国したという。しかし孫さんは官費支給がうち切られた後も日本に残り、1940年(昭和15年)まで九州医専で私費の留学生活を続けている。廬溝橋事件の時に帰国した事実はない。
安藤にとって孫さんは愛すべき祖国のために生きようとする立派な愛国学生として記憶されており、その思いは次のようなエピソードに込められている。
孫君は熱烈な愛国者で、こう言った。「僕は日本に来て良い日本人をたくさん識った。君はその一人で、僕の心の友と言っていい。でも君は、日本の兵士として召集されて中国に来るかもしれない。僕は帰国して抗戦に参加する。そして戦場で君に逢ったら断固として君を刺し殺す」。そのとき、マルクス・ボーイであった私は「いや、そういう考えかたは小児病的ではないかな」と、利いたふうな答えをした。するとかれは眉を揚げて、「でも僕は君を刺し殺す以外にないのだ」と言い切った。(64-65頁)そして7月30日頃に東京駅で安藤は孫さんを見送り、乗船の直前によこした手紙を最後に消息が絶えたとする。安藤は「気性は激しいが快活で、ときおり皮肉な笑いを浮かべるおもしろい青年だったが、抗戦のなかで死んだにちがいない」(67頁)とし、あくまでも抗日に命をささげた愛国学生と記憶しているようだ。しかし孫さんは抗日どころか、一時帰郷中は傀儡政権が設立した医学専門学校で教壇に立っていた。たとえ"心の友"であっても、日本人=敵である以上"刺し殺す"と涙を浮かべて主張するほどの愛国心に固まった青年像。安藤が著書で描くその姿と、傀儡政権に職を得た事実から受ける印象には大きな隔たりがある。
安藤は著書の中で、当時の日本では反中・嫌中の嵐が吹き荒れ、孫さんをはじめ中国人が肩身の狭い思いや身の危険を感じていたという印象を与える書き方をしている。しかし、違和感がある。孫さんは、保証人を引き受けた布施先生をはじめ学友たちも皆が戦争前と全く変わらず接してくれたとし、むしろ戦火の広がる祖国を心配してくれた彼らへの感謝を今でも忘れないと語っている。安藤の日本人と中国人との関係についての見方は、もうひとつのエピソードでも違和感を与える。安藤は孫さんが"帰国"したあとに父親の達生さんから手紙が届いたとしてその内容を紹介しているが、それは父が日本留学時の自分の経験からして「日本人は中国人を軽蔑し、戦時はとくにひどいと思われるから、途中できるだけ日本人を装って帰るように」と指示したとする(67頁)。もちろん、彼はその手紙を自分が受け取って孫さんには渡していないと書いているから、たとえ孫さんが父親からそのような指示を受けた記憶がないと言っても不自然ではない。しかし孫さんは反対に戦火が迫りつつある太原に居る家族に対して当時なんら心配はしなかったという。日本の大学を卒業した知日家の父なら、日本軍が来ても全く心配ないと思っていたからだ。日本人を警戒して息子を帰国させようとする父親が、日本軍が攻めてくる太原に家族と一緒にそのまま居続けるだろうか。
安藤の書く孫さんとの思い出は、孫さんが自ら筆者に話してくれたものと比較して事実関係で大きな開きがあり、性格描写は正しい印象を与えるものの、人物像という点では正反対に近い。安藤が話を脚色しているのか、"愛国者"の振りをして孫さんが彼を騙したのか。すでに70年も前の話で、しかも当事者の一方である孫さんが既に他界している今、それを第三者が判断することは難しい。しかし少なくとも安藤が古き良き思い出として書いたこのエッセイは、次の事実によって痛烈な歴史の皮肉として彼自身に跳ね返ってくる。
安藤が評したように"気性は激しい"孫さんは、中共治下の集団狂気にも怯むことなく自己主張を続け、反動のレッテルを貼られて三角帽をかぶらされることとなった。安藤が中国共産党の治世と文化大革命を賞賛していたとき、孫さんは1950年代の反右派闘争から1970年代の文革終結までの20年もの間、政治的迫害を受けていた。現地の人は皆一様に、孫さんは「投獄されていた」という。判決を受け、罪人として獄につながれた。良く言われる労働矯正よりも深刻だったのだ。安藤はエッセイの中で「太原には一九六四年、北京シンポジウムの旅行で一晩立ち寄ったとき以外、行っていないが、いちど達生医院のことを訊ねたいと思う」(67頁)と呑気に書いているが、1964年に彼が太原を訪れたとき、父親の達生さんは毛沢東の失政で中国全土を空前の飢餓が襲っていた二年前に他界しており、孫さん自身は長治市の郊外に設けられた強制収容所にいたようだ。
戦後に孫さんが受けた迫害については詳しく聞き取りをしていない。精神的に限界までいったトラウマに触れることを恐れたからだ。孫さんの自宅には、部屋中に周恩来の写真(毛沢東ではない)が貼られ、一種異様な雰囲気を醸し出していたのを憶えている。足腰が弱くなり、移動には車椅子を使っていたが、迫害を生き抜いた老人は、同行していた省政府の歴史研究員を前にして「閻錫山の治世は素晴らしかった」「中共はスローガンばかりだった」と大きな声で堂々と話した。これぐらいの内容でも彼らのような戦前世代が口にするには相当の覚悟が今でもいるのだ。布施先生のご子息をはじめ、数年前に連絡がとれるようになった日本の同窓生からは学術誌が定期的に届いていたが、80歳を過ぎたその時も医学論文に目を通すことを楽しみにしていた。私が取材した数ヶ月後に他界した。現地の人たちは皆一様に彼の気質を「すごい」と評する。何度も復活を遂げた小平になぞらえて「不倒爺」とも呼ばれた。親日と反骨に生きた83年の人生だった。
(「日華事変と山西省」より引用)
疑問符を付けられた著作は、安藤彦太郎著「虹の墓標ー私の日中関係史」(頸草書房 1995年)である。
著者である安藤氏は、元・早大政経学部教授(中国語・中国経済論)で、中国の文化大革命を賛美した「進歩的文化人」でもある。日本共産党員であったが、「日中友好」運動の分裂を巡って、共産党を除名され、「親中国派」文化人となった。文革期に「北京留学」という「恩恵」を中国から授かり、文革がいかに素晴らしいかというレポート(「中国通信」)を書き続けた。それは、当時の学生等に大きな影響を与えた。同僚で「文革礼賛派」でもあった故・新島淳良が、文革終結後、早大教授を辞して、「ヤマギシ会」に入ったのとは対照的に、安藤は早大教授のポストに座り続けた。
この人の変わり身の早さはすごかった。文革が収束すると、「文革礼賛」をすぐに引っ込め、新しい中国指導部のお追従を始めた。「学者」として文革を総括することもなく、その後は「中国語と近代日本」(岩波新書)というような、中国の威光を借りて日本を批判する本ばかりを出版した。
そういう安藤氏は知っていたが、上記の引用文献を見て、「そこまで不誠実な人だったのか」と改めて驚いた。
そういえば、安藤氏が育てた学者、研究者は皆無に等しい。自身の学問的業績も「満鉄ー日本帝国主義と中国」(お茶の水書房)くらいしかなく、早大以外の場所では評価もされていない。おそらく、早大内部の「日中友好運動」家として幅を利かせ、教授にまで登り詰めた人なのだろう。それはそれであの大学内部の問題なので文句を付けることではないが、自己の都合のため真実をねじ曲げる態度は、到底許されないことだ。
孫東元氏と安藤氏がどちらが真実を語っているのか、それは言うまでもないことだろう。安藤氏もいよいよ人生の最期を迎え、毛沢東と会う年齢となっているのだから、不誠実な自己弁護は止めるべきなのだが、「日華事変と山西省」の著者の問い合わせには次のように答えたという。
追記:安藤彦太郎氏からの手紙
安藤氏に手紙で事実関係を質問したところ、著書での記述はフィクションではないとの返事を頂きました。安藤氏は孫さんの談話内容との乖離について、「対日協力者の複雑な心境ではないか」と評しています。そもそも"対日協力者"であるのは私からの手紙で初めて知ったはずで、しかもその談話の内容は、(中共治下では)自らに不利な内容で、かつ嘘をつく必要のないものです。
安藤氏からの手紙を読んで、孫さんが雑談のなかで話していたことを思い出しました。「ある日本の古い友人が、戦前の私のことを本に書いているが、事実が違っているので訂正を求める手紙を出した」というものです。その本が安藤氏の著作がどうかは、孫さんが亡くなった今では確認できません。
「文革」が「魂に触れる革命」などではなく、「世紀の大厄災」であったことは、今や明らかだ。当時、日本でも「文革」を礼賛した「知識人」「大学教授」が何人も出た。その多くは、後に自らの不明を恥じるのだが、安藤に限っては、全くそういうそぶりも見せず、「中国当局」へのお追従を貫いた。早大退職後も、「日中学院院長」として中国との太いパイプを持ち続けた。
「文革」期に安藤の言説に欺かれた若者は、今や疲れ切った還暦世代となった。彼らが孫東元氏のエピソードを知れば、「安藤のようなやつが、うちの会社にもいるなあ~」と嘆息することだろう。その「安藤のようなやつ」は、きっとしっかり会社の中枢に収まっているのだ…。
「進歩的文化人」の悪しき典型がここにある。「人の評価は棺を覆ったとき定まる」という言葉があるが、上記のような疑念に何ら応えることなく、安藤氏は「上帝にまみえる」というのだろうか。そこに毛沢東が待っているかどうか、それははなはだ疑問だが…。