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澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

台北の歴史的建造物~日本統治時代の遺産

2010年01月09日 14時53分06秒 | 歴史
毎日新聞社刊行の「台湾ノスタルジア」は、日本統治時代の建築物を数多く採り上げている。通常の旅行ガイドブックは、あたかもこれらの建築物について触れることを避けているかのような印象を受ける。だが、故宮博物院を訪れるだけでは、台湾の歴史は分からない。故宮博物院は、蒋介石が大陸から移転させた文物の保管所に過ぎないからだ。彼にとっては、南方の島に過ぎない台湾は、仮の住所に過ぎず、故宮博物院は、彼の権力の正統性を示す象徴だった。
われわれ日本人にとっては、旧・台湾総督府(総統府)、台北帝国大学医学部病院(台湾大学病院)をはじめとする日本時代の建築物を訪ねることで、身近に歴史を感じることができる。

(旧・台北博物館 現・国立台湾博物館) (博物館の1階フロアー)(博物館の天井ステンドグラス)

(旧・専売局庁舎)(旧・専売局庁舎)(旧・台北放送局 現・二二八記念館)(現・国立中正中学校)

 (旧・台湾総督府 現・総統府)

 (北投温泉博物館)

(旧・台北帝国大学病院 現・国立台湾大学病院)(病院の内部)


台湾ノスタルジア―懐かしい日本に出会う旅 (毎日ムック)

毎日新聞社

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台湾・澎湖諸島に残る日本統治時代の建築物

2010年01月08日 11時41分00秒 | 歴史



先日、毎日新聞社から「台湾ノスタルジア」というムック本が出た。この本の中には、台湾に今も残る日本統治時代の建築物を採り上げ、詳しく説明している。私自身、台北にある台湾博物館、旧・専売局庁舎などの美しいフォルムに目を奪われた。
ただ、「台湾ノスタルジア」には、澎湖諸島の建築物は紹介されていない。台湾本島から遠く離れた島々なので、日本との関わりが少ないように思われるが、決してそうではない。日清戦争終結後の下関条約で「台湾及び澎湖諸島を日本に割譲する」と決められたように、澎湖諸島はその地政学的位置のため、日本海軍の4大重要港のひとつとなったほどだ。
中国国民党独裁時代は「滅共」の最前線となり、外国人が立ち入るような地域ではなかったが、近年、観光リゾート地として注目されるようになった。昨年、政府が提案した「カジノ化構想」について、住民投票が行われ、住民は「NO」の意思表示を示した。

日本人観光客はまだまだ少ないようだが、観光スポットには日本語の表示・解説が記され、日本語のパンフレットまで備えられている。澎湖県庁の庁舎は、今なお日本統治時代の澎湖庁舎を使用し、後藤新平が建てたと言われる澎湖病院は今も現役である。
75歳以上の老人は、日本語を話す。小学校の途中まで、日本語教育を受けたからだ。古い台湾の街並みが残り、日本統治時代の主要建築物もきちんと保存されている。ぜひ、訪れてみたい街だ。

   (馬公港)(旧・馬公税関)(税関裏庭の百年古木) (ライトアップされた旧・馬公税関) (澎湖病院) (澎湖病院とメインストリート) (澎湖記念館~皇室来賓用に建てられた旧・迎賓館) (澎湖記念館の内部~純和風のインテリア) (旧・専売局庁舎~現在も専売局として使用)(現・澎湖県庁舎 )(現・澎湖県庁舎) (旧・馬公警察署 現在は記念館)











台湾ノスタルジア―懐かしい日本に出会う旅 (毎日ムック)

毎日新聞社

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NHK「日本と朝鮮半島2000年」の歪んだ歴史観

2009年12月29日 10時06分00秒 | 歴史

NHK教育TVで「日本と朝鮮半島2000年」というシリーズ番組が続いている。「プロジェクトJapan」という企画のひとつだそうで、あの「アジアの”一等国”」もこの企画のひとつだった。周知のとおり、「アジアの”一等国”」は日本の台湾統治を採り上げたが、その偏向ぶりが問題となり、視聴者による訴訟問題にまで発展している。

「日本と朝鮮半島2000年」については、教育TVで放送されているためか、その内容が話題になることは少ないようだ。だが、私が見たところでは、「アジアの”一等国”」と同様な偏向、歪んだ歴史観が見え隠れする。

前々回の放送では、いつものおどろおどろしいタイトルバックに「東アジア国際戦争」という文字が踊り、メインタイトルである「豊臣秀吉の朝鮮侵略」が現れる。「アジアの”一等国”」においても、NHKは、学界の通説にはなっていない「日台戦争」という言葉を使用して、日本の台湾統治の非道さを強調した。この「日本と朝鮮の2000年」でも、「東アジア国際戦争」という造語を使用しているのだが、どう考えても異様ではないか? 
まず、豊臣秀吉の時代は、近代国民国家間の戦争ではないにもかかわらず、あたかも「太平洋戦争」「朝鮮戦争」と同様の戦争であるかのように、戦争の概念を拡散させ、ごまかしている。この造語の後に「豊臣秀吉の朝鮮侵略」というメイン・タイトルが来るのだから、何も知らない視聴者に「日本は朝鮮に悪いことばかりしてきた」「これからは仲良くしなければいけないんだ」と思わせる意図が透けて見える。
「豊臣秀吉の朝鮮侵略」は、かつて「朝鮮出兵」と呼ばれていた史実だが、いつから「朝鮮侵略」となったのだろうか? 教科書裁判をもじって言えば、「朝鮮出兵」が不適当なら「朝鮮進駐」「朝鮮進出」では何故だめなのだろうか。
NHKの論法に従えば、「元寇」は「中国の日本侵略」と言うべきではないのか?

この番組に出演していた大桃美代子が、自分のブログにこの番組のことを書いている。
http://yaplog.jp/o-momo/archive/1246

彼女によれば、歴史にはいろいろな見方があるので、いろいろ知り考えていきたい…こういうような当たり障りの無いことを書いている。だがそもそも、「東アジア国際戦争」「豊臣秀吉の朝鮮侵略」という用語自体が、歴史学の常識から見て不公平な表現であり、自虐史観に呪縛されたものなのだ。

近隣諸国の現在の歴史観に擦り寄り、「仲良くすれば平和が続く」と説教する番組。これがNHKの「日本と朝鮮の2000年」ではないのか? もし、現在の中共(中国共産党)政権に代わって、中国に民主的政権が誕生し、現在の「反日史観」「反日教育」を引っ込めたら、NHKはどうこれに対応するのか。これは、決して架空の話ではない。台湾では、およそ20年前、李登輝氏の民主政権が誕生して、それまでの中国国民党中心の歴史教育が改められ、「認識台湾」という教科書を使って、台湾の歴史を教え始めた。その結果、日本統治時代が決して暗黒の時代などではなく、近代化の礎となった時代であることが、台湾人の若者に伝わった。これが台湾では老若男女を問わず「親日的」であると言われる理由のひとつなのだ。要するに、歴史認識は相手国の事情によっても変わり、世代の移り変わりによっても変化するのである。

数週間前のNHK「金曜バラエティ」では、中孝介が「海角七号」で歌った「野バラ」(シューベルト作曲)を歌ったが、NHKのアナウンサーは、台湾映画「海角七号」の話題には全く触れなかった。「台湾は中国の一部である」という放送内規があり、中国の気に障る情報は一切流さないと決めているとしか、私には思えなかった。
こんなNHKが、仰々しく歴史観を説く番組など作るべきではないのだ。視聴者に誤った歴史観を植え付ける作業を進めているNHK職員とは、いったいどんな連中なのだろうか。聞くところではNHKには政治がらみの職員採用が多く、その一部は在日朝鮮人枠だという。道理で、姜尚中が本職を放り出して、NHKで美術館のアルバイトをするのかよく分かった。


天皇誕生日に思うこと

2009年12月23日 13時31分37秒 | 歴史

今日は、天皇陛下の76歳のお誕生日。
産経新聞ニュースによると、天皇誕生日の一般参賀に過去最高の人手があったそうだ。

 23日行われた天皇誕生日一般参賀には、午前中だけで平成で過去最高となる2万3928人が訪れた 宮内庁によると、平成に入ってからの天皇誕生日の最高参賀者数は、昨年の2万2655人だった。午後からは宮殿で、鳩山由紀夫首相を含む国会議員らが出席する宴会の儀が開かれる

小沢一郎・民主党幹事長が、習近平・中国国家副主席の来日に当たって、”1ヶ月ルール”を無視して天皇陛下の接見を要求したことが問題になっている。小沢は張り付きの記者対して「君は憲法を読んだことがあるか?天皇の国事行為は、内閣の助言によって行われる。内閣が決めるのだから問題はない」「(宮内庁長官の意見に対して)何とかという役人は、辞めてから発言しろ」と放言した。

最近、我が国の右翼、左翼はどうなっているのかよく分からないが、昔だったら、この小沢発言には右翼陣営が激怒したはずだ。まるで、「平和憲法」を宗教とする旧・日本社会党(現・社民党)のような発言だったからだ。小沢がこれだけ無神経に天皇制や官僚制度に対して暴言を吐くのを聞いて、民主党とはいったい何なのだろうかと思った人も多いはずだ。

台湾独立運動を主宰する林建良氏(医師・日本在住)は、日本が明治維新に成功し、欧米列強の植民地化を免れたのは、天皇制という日本人の”核”があったからだと指摘する。台湾には、台湾を”国”とならしめる”核”がなかったから、独立できなかったのだと…。
小沢の天皇観は、意外にも社民党並みの薄っぺらなものだった。議会で多数をとれば、すべての権力はこちらのものだという浅薄な発想は、天皇の歴史的位置づけ、権威というものに思い至ることはないのだろうか。

三島由紀夫が「私利私欲が渦巻く東京の中に、皇居が静寂の空間としてあることに意義がある」旨語ったことがある。
かつて天皇制には懐疑的だった私だが、小沢一郎の妄言を聞いて、目が覚める思いがする。”世襲議員”ばかりの麻生太郎自民党には愛想が尽きたので、自民党にも全く期待しないが、民主党がこれほどまでに自分たちの国を甘く軽く見ているとは思わなかった。ポピュリズムここに極まれり…という印象だ。


 


閔妃殺害(乙未事変)事件を何故いま謝罪するのか

2009年08月25日 00時02分54秒 | 歴史

テレビ朝日系列「報道ステーション」で奇妙な映像を見た。114年前の朝鮮王朝・閔妃(ビンピ)を殺害した当事者の子孫が、韓国に謝罪に行くというドキュメントだ。  

                    (台湾映画「一八九五 乙未」)

たまたま、台湾で同じ年に起きた抗日闘争を描いたのが、上記の台湾映画「一八九五 乙未」だ。このDVDは未見だが、日本人の立場にも理解を示し、極めて客観的に史実を描いていると評価されている。

 一方、閔妃殺害に関しては、犯人の子孫であるという八七歳の老人医師が、和解を求めて韓国へ謝罪の旅に出る。しかしながら、閔妃の子孫とされる韓国人は、日本人の老医師に土下座して謝罪を求める。周囲には、謝罪に来た日本人が土下座する映像を撮ろうとする韓国のマスコミ陣が取り囲む。

これはいったい何なのか? 「南京大虐殺」が問題になったときも同じような光景を見た記憶がある。その昔、サヨクの日本人は中国にでかけ、「日本帝国主義」の犯罪を糾弾し、中国人民との連帯をうたった。当時の中国側は、加害者は「日本帝国主義」であり、「日本人民」はその被害者だという理解だった。
ところが、今や「南京大虐殺」は、残虐な日本人の戦争犯罪だということになっている。「民族の犯罪」という訳だ。
歴史認識というものは、先方の都合でかくもころりと変わる代物なのだ。

もちろん、日本が企てたという暗殺の陰謀は、決して肯定できるものではない。老医師の気持ちも分からぬではない。
だが何故、総選挙間近のこの時期、こういうタイミングで、このニュースが流されるのか。テレビ朝日の本音がどこにあるのか考える必要があるだろう。はっきり言えば、外国人参政権を認めようとする民主党をバックアップするためではないか。日本はこんなに悪いことをしたのだから、参政権くらいあげてもいいじゃないか…というキャンペーンなのか?

一方的な懺悔など、日本人同士でもなかなか理解されないのに、文化が異なる韓国人に果たして通じるのだろうか。これが素朴な疑問だ。

【番組の概要】
1895年に起きた閔妃(日本での呼称:びんぴ)殺害事件の全ぼうや、実行犯たちの子孫が110年ぶりに韓国を訪れ謝罪する場面を盛り込んだ特集が、24日夜10時からのテレビ朝日のニュース番組で放送される。  日本の地上波テレビ局のニュース番組のうち、最も高い視聴率(20%)を誇るテレビ朝日の『報道ステーション』は24日、明成皇后殺害事件に関する14分間の特集を放送する。今回の特集は、韓国を代表するドキュメンタリー演出家であり、韓中日3国放送プロデューサー・フォーラムの常任組織委員長を務めるチョン・スウン監督が、2005年に制作したドキュメンタリー『110年ぶりの追跡 明成皇后殺害事件』を基にしている。テレビ朝日の関係者は「日本人があまりよく知らない歴史的事実という観点から、特集番組を放送することを決めた」と説明している。  明成皇后殺害事件は、日本ではほとんど知られていない「恥ずべき歴史」だ。チョン監督のドキュメンタリーは、朝鮮駐在の日本公使だった三浦梧楼が、48人の刺客を動員し、景福宮に乱入して明成皇后を暗殺したという歴史的事実のみならず、実行犯の一人である国友重章の孫に当たる河野龍巳さん(88)、家入嘉吉の孫の嫁に当たる家入恵子さん(76)などが初めて韓国を訪れ謝罪したことにも触れている。  テレビ朝日のニュース番組は05年以降、毎年韓国を訪れ、しょく罪を続ける子孫たちの姿を取材している。


歴史の真実を見分ける「眼識」

2009年07月27日 08時22分16秒 | 歴史

「産経新聞」に平川祐弘氏が「歴史の真実を見分ける”眼識”」という一文を寄せている。

私がYouTubeに載せた「米国から見た日本の台湾統治」(http://www.youtube.com/watch?v=YG9HvrgwmaM)には、さまざまなコメントが書き込まれているが、その中には「日本の台湾統治は正しかった」「台湾は植民地などではなかった」等々、単純化された、極端な意見が数多く見られる。

私は「知られざる台湾」という約5時間のTV番組の中から、日本を肯定的に描き出している部分(約7分間)を取り出してYouTubeにUPした。だが実は、当該番組の中には日本に対して批判的な内容もある。たとえば「金瓜石」の特集では、シンガポールで捕虜になった英国人兵士を、日本軍が金瓜石の鉱山で酷使・虐待したというエピソードが長々と語られ、とても「親日的」とは言い難い番組づくりとなっている。
私がそれを意図的に取り出せば、「反日的な番組映像」と批判されるのだろうか?という疑問も生じる。

私は、NHK「アジアの”一等国”」があまりにひどい番組であったと感じたので、それに対抗する意味で、あの映像をUPした。そこには「NHKへの反論」という主観的な意図がある。その主観に基づいて、映像を取捨選択したというわけだ。

要するに、歴史認識などというものは、かくも主観的であるということ。「正しい歴史」など存在するはずがないということだ。

平川氏の論文は、そのことをはっきりと教えてくれる。NHKが意図的にぶちこわそうとした、「親日的な台湾」というイメージもまた、普遍的な認識などではないことも…・。

【正論】比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘 2009.7.27 02:53 このニュースのトピックス:正論 

■歴史の真実を見分ける「眼識」  
≪孫子の教えで相手知る≫
 私は華人の学生は留学生や大陸だけでなくシンガポールや台湾でも教えた。日本とシナといおうか我国と漢民族の関係も様々な視角から眺めると、日本の大新聞の社説で正解と目されているのとは違った歴史も見えてくる。私は共通1次試験の正解程度の歴史解釈は信用しない比較研究者だ。複数の言葉を習い、複眼で眺めようとしてきた。日本至上主義も取らないがさりとて研究対象国にのめりこむチャイナ・スクールのような中国一辺倒も取らない。孫子が教えるように相手を知り己を知ることが大切だ。
 そう考える私は1985年、台湾へ出かけた。まだ貧しくて大学生協のチョコレートの不味(まず)さに驚いた。台北で日本語を教えていた大学は当時は僅(わず)か四つで台湾人創設の私立だった。蒋介石軍は日本が創(つく)った国立学校を掌握した。旧宗主国の影響を排除したい。国立には日本語系はない。実は私も表向きは東方語名義で教えた。共通1次の成績で学生は私大入学も割当てられる。教室へ出て初めて東方語が日本語と知った者もいた。

  ≪文明開化と植民地化≫
 しかし1988年李登輝が総統となるや雰囲気が一変した。それまで御法度(ごはっと)だった政治の話も自由となり映画『悲情城市』が公開された。1947年2月28日の大陸渡来の中国軍による台湾エリートの虐殺が取り上げられたのである。日本警察に取って代わった国民党支配を台湾人は「犬去って豚来たる」といった。国民党は台湾支配の最初の500日間に50年間の日本統治よりも多い台湾人を処刑した。そんなであってみれば台湾人が日本帝国支配の方がまだましと感じたとしても不思議はない。新聞も変わる。本省人の『自由時報』の投書欄が賑(にぎ)わう。逮捕の怖れがなくなれば人間次々と話し出す。日本の先人の努力が台湾でどのように評価されているか私にも聞えてくる。
 私は職業柄日本語教育の歴史に関心がある。日本が台湾で教え始めたのは日清戦争直後、台北士林近くの芝山巌に伊澤修二が学堂を開いた。治安が悪い。1896年教員六名全員が惨殺された。土匪の仕業だろうが、国民党政府は1958年その仕業を義民の義挙とし芝山巌事件碑を建てた。そればかりか六氏の墓を壊し学務官僚遭難碑を倒した。私が見に行った時はベンチの下にその伊藤博文筆の碑が転がっていた。植民地支配を悪と断罪する側に立てば当然の報いを受けたということになるのだろうか。だが土地の人の日本人教師に対する気持は違う。士林小学校の卒業生が遭難百年に際し倒された墓も碑もきちんと建て直してくれた。2000年私は芝山巌に登りその様変わりを目撃し、感動した。
 国民党独裁の頃でも戦前の日本を知る台湾人学者の間では河合栄治郎や矢内原忠雄の評判は良かった。矢内原『帝国主義下の台湾』は植民地支配弾劾の書物ではない。事実に密着した明晰(めいせき)な分析で、台湾人教授が大学でこの台湾論を教科書に授業していた。第二次大戦まで西洋では植民地化はキリスト教化・文明開化とほぼ同義と見られていた。日本も台湾植民地化を文明開化の事業として構想した。ただし宗教を広めて死後の命を救う代わりに衛生を広めて人の命を救おうとした。後藤新平のその植民地経営は今も台湾人に高く評価されている。大陸と異なり、台湾の地下鉄や新幹線のトイレが清潔なのも日本の遺産といえないこともない。ただ私は日本が衛生を重んじたのは、皆意識しないが、日本人の広義の宗教心の現れで、清らかさを尊ぶ神道の心が衛生を尊ぶ思想の背後にあるからだと考える。
 ≪西洋支配は肯定する偏り≫
 教育、生活、経済面で善政を布(し)いたとしても、植民地化は植民者という一級市民と被植民者という二級市民を生み出すがゆえに悪である。しかしそうと認めない国もある。チベット支配を続ける中国は王道楽土を建設中と言い張る。サッチャー英国首相は1988年「西洋人が世界の多くの土地を植民地化したのはすばらしい勇気と才覚の物語でした」と肯定した。コータッツィ元駐日大使も「白人の責務」という発想を支持した。世間には西洋の植民地支配は肯定するが日本のそれは非難する者がいる。偏した見方だ。ライシャワーは歴史教科書『東アジア-近代の変革』で台湾統治を否定的に記述した。そんな歴史教育を受けた世代の米国人は現地で「台湾人は日本が大好きだぜ」と驚く。
 問題は日本が台湾統治に成功したことだ。実はそれが朝鮮における失敗となった。化外(けがい)の地の台湾と違って、朝鮮は一つの文明の国である。その朝鮮全体を奪うことは朝鮮民族の誇りをも奪うことになったからである。歴史の真実はそんな相違を見分ける眼識(がんしき)にある。日本植民地支配は悪という「始めに結論ありき」のイデオロギー的史観に合うよう材料を恣意(しい)的に並べただけのNHKテレビ番組は安直な制作で史実を歪(ゆが)めた。受信料を払うに値しない。
                        (ひらかわ すけひろ)


金美齢氏の靖国参拝とは

2009年03月15日 14時11分28秒 | 歴史

youtubeで興味深い映像を見つけた。
5年前、靖国神社で行われた追悼式典の映像で、金美齢氏が何故、靖国神社に参拝するのかを語っている。

http://www.youtube.com/watch?v=ALfu0RWGG84&feature=related  (youtube映像)

終戦時、11歳だった金氏は、そのときまで「日本人」であり、日本の勝利を疑わない「軍国少女」だった。台湾にいた「兵隊さん」は、いつも金少女にやさしくしてくれ、台湾人を守ってくれた。「靖国で会おう」と言い残し、国のために散っていった彼らを、そのとおり靖国に奉るのは当然のことであり、それにとやかく言う日本人は「恥知らず」である。これに反対する外国人には「not your business!」(あなたの知ったことか!)と言えばいい、と喝破する。

私個人としては、学徒出陣を経験した親族が戦後二度と靖国神社に行かなかったことや、恩師である相沢久先生の著作(「現代国家における宗教と政治」)に親しんだ経験から、靖国問題については、いろいろな想いが交差する。だが、それらはこの金氏の発言の前にはかすんでしまうかのようだ。

会場からは、英語で靖国反対を叫ぶ声が起きるが、これに対して金氏は「Americans, get out of Japan and Yasukuni!」と言い返す。
この当時、金氏は民進党・陳水扁総統の政策顧問だった。その後、陳水扁総統は選挙に敗れ、不正蓄財の疑いで投獄されて現在に至っている。陳水扁氏を破った馬英九総統(中国国民党)は、中台関係をさらに強化しようとしており、徴兵制度の廃止を掲げている。まさに台湾の政治的自立さえ危ない状況になっているのだ。

台湾独立派」のリーダーとみなされていた金氏は、李登輝氏が登場する以前の台湾には入国さえできなかった。ようやく、李登輝総統になってから、長年の思いを祖国の人々に伝えられるようになったのだ。その意味で、金氏の靖国への思いは、普通の日本人よりも何倍、何十倍と重いに違いない。

台湾人が民主選挙で馬英九を選択したとき、金美齢氏は「不満の春にも花は咲く」※という一文を「産経新聞」に寄せた。議会制民主主義の選挙によって馬英九氏が選ばれた以上、これまでの努力は水泡に帰したかも知れないが、それはそれで仕方がない…と記されていた。

※ http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/d1188229980ca7c03f0d89162da34b95

あれから1年、民主化された台湾はどこに漂流していくのか?


きょうは「台湾二 二八事件」記念日

2009年02月28日 19時13分31秒 | 歴史

今日は、1947年、台湾に逃れてきた中国国民党・蒋介石政権によって引き起こされた台湾人の大量惨殺事件「二 二八事件」の記念日。
中国寄りと批判されている馬英九総統(中国国民党)に対しては、追悼式典で激しい罵倒が浴びせられたと伝えられている。

台湾総統、罵声の中で追悼 2・28事件式典で 2月28日(土) 18時44分  【高雄(台湾南部)28日共同】

蒋介石の国民党政権が台湾全土で台湾人の抵抗運動を弾圧した「2・28事件」から62年目の28日、同党の馬英九総統は高雄で野党系団体主催の追悼式典に出席し、「あのような悲劇が二度と起こらないよう願う」と述べた。式典には馬政権の対中政策などに不満を持つ野党や台湾独立派が出席。「馬英九やめろ」などと罵声が飛び、総統の声はかき消され会場は一時騒然となった

台湾二二八の真実―消えた父を探して
阮 美妹
まどか出版

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帝国海軍兵士が残した絵

2008年12月02日 18時15分58秒 | 歴史
田母神・元航空幕僚長は、相変わらず自説を曲げないで頑張っておられるようで、ご同慶の至りだ。



これは、かつて学徒出陣した父が残したスケッチ。



これは海軍の爆撃機らしい?




これを書いた父は、もういない。
ただ、似顔絵は残っている。



誰のために何のために戦ったのか? 我が国は、中国や韓国に罵倒されるようなことばかり本当にしたのだろうか?
何も答えぬまま、父は黙って逝ったが、その問いは私の胸に突き刺さったままだ。

歴史を知らない子供たち

2008年11月27日 14時39分50秒 | 歴史
田母神・元航空幕僚長の「日本は侵略国家などではない」という発言が、マスコミの集中砲火を浴びている。「朝日新聞」を筆頭とする”良心的な”マスコミは「村山談話」を政府の統一見解だとして、日本の近現代史を呪縛する愚を犯しているのだが、自ら反省する気配は全くない。

中韓両国は、ことあるごとに日本の「歴史認識」を問題にする。「村山談話」に呪縛された日本は、中韓の「歴史カード」には太刀打ちできず、常に「謝罪が足りない」と言われ放しだ。こんな状況がどれほど子供たちや若者たちに悪影響を与えるのか?

最近、娘に訊いてみた。
「第2次大戦前、アジアの独立国は、どのくらいあったと思う? アフリカの国が独立したのはいつ頃だと思う?」
娘からは、はっきりとした答えはなかった。特に、アフリカ諸国が独立したのが、1960年代だというとびっくりしたようだった。

第2次世界大戦前、インドは英国の植民地であり、現在のインド、パキスタン、バングラデシュを含んでいた。インド独立のときには、宗教の違いからインド各地で凄惨な虐殺が行われた。
「大東亜共栄圏」を掲げる日本が、東南アジアを植民地にしていた欧米列強(米英仏蘭)を駆逐したことによって、東南アジア各国には独立の機運が芽生えた。村山談話では「日本軍国主義がアジアの人々に多大の損害をおかけしたことを謝罪する」と言っているが、それは歴史の一断面に過ぎない。白色人種である欧米列強を駆逐した日本は、植民地化されたアジア諸国民の希望の星だったという、もうひとつの語られない側面があるのだ。

宗教や人種がどれほど歴史を動かす要素になることか、今の若者たちは教えられていない。歴史教育においては「平和」や「国際協力」などといった抽象的な概念ばかりを植え付けるばかりなのだ。
もっと極端に言うと、マイカーもコンビニもなかったつい最近の日本の姿さえも、今の子供たちには思い浮かばないのかもしれない。45年ほど前、夜の町は真っ暗で、冬にアイスクリームを食べることなど夢だったことを思い出した。隣町に行くのが”冒険”のような気分だったのも、その頃だ。

今は何もかも満ち足りて、歴史を思い至ることもない。見知らぬ世界へのあこがれもないので、地理的な座標軸での知識もない。こんな人たちが、大量に育っているのだと実感した。

ゆとり教育の弊害が指摘され、再び理数教育に力を入れようという気運が高まっているが、地理や歴史もびっしりと教えないと、この国はダメになるんじゃないか…。



昭和初期の朝鮮・台湾・中国録音 国立民族学博物館で公開

2008年10月26日 12時36分32秒 | 歴史
きょうも「産経新聞」の記事から。
産経は、こういうトピックには滅法強いようだ。




「戦前は暗黒時代」だったと教え込まれてきた若い世代には理解できないかも知れないが、この記事からは、様々な音楽が録音され、人々が楽しんだ様子がうかがわれる。
戦前の日本統治下の台湾、朝鮮、さらには満州の歴史に最も目が向けられるべきだろうと感じる。

ネパールの「共和制」は歴史の進歩なのか?

2008年05月28日 13時23分51秒 | 歴史

今日からネパールが「王国」から「共和国」に移行するという。


 【カトマンズ=永田和男】ネパール制憲議会は28日招集され、冒頭、新たな政体を連邦共和制と宣言して、正式に240年続いた王制に終止符を打つ。

 王室に近い筋によると、ギャネンドラ国王(60)は宣言採択後、国民向けの声明を発表して所感を明らかにする。国王は宣言採択で一市民となり、ネパール国内に住むことを認められるものの、国有資産である王宮からの立ち退きを求められる。これまで王制廃止決定の場合の身の振り方について自身の考えを明らかにしておらず、ただちに王宮明け渡しに応じるか、憶測を呼んでいる。

 一方、首都カトマンズでは、制憲議会会場となる国際会議場などで26日起きた爆弾騒ぎに続いて、27日も共和制を祝うコンサートの会場で爆弾が破裂する事件があり、少なくとも1人が負傷した。王制廃止に反対する勢力の関与が疑われており、市内では警官1万人以上が動員されて厳戒態勢を敷いている。


かつて東欧の最貧国といわれたアルバニアは、社会主義の崩壊に伴い、王政復古を試みたことがある。遙か昔に亡命していた王家の末裔をアルバニア国王に迎え入れて、混乱の極にある国内の求心力を高めようとしたのだ。
アルバニアを支配したエンベル・ホッジャという独裁者は、ミニ・スターリンと言うべき人物であった。相次ぐ粛正で敵対者を葬り、何十年も鎖国に近い国内体制を維持した結果、アルバニアは世界の最貧国の一つとなっていた。国土に鉄道はなく、首都チラナに続く交通網は、未舗装の道路に不定期なおんぼろバスというありさまだった。病院に薬はなく、国民には何の娯楽もなかった。「ヨーロッパの社会主義の灯台」と自ら豪語したアルバニア労働党(=共産党)だが、その首都チラナでは、夏の夜、車も通らない街路に人々が出て”散歩”するのが唯一の娯楽だったという。


何故こんなことを書くのかというと、ネパールが「共和国」になったからといって、何かが進歩したと思うのは誤りだということ。上述のアルバニアは、「社会主義革命」で「王政」を倒し、自称「ヨーロッパの社会主義の灯台」にまでなった、大層ご立派な国家だった。だが、社会主義崩壊後は、一気に王政復古まで戻ろうとしたのだ。社会主義→資本主義→王政という「歴史の発展段階」を一気にを歩もうとしたわけだ。


われわれは無意識のうちに「歴史は進歩する」という概念を植え付けられている。マルクス主義理論では、王政→ブルジョア共和制→社会主義へと歴史は”発展”するのだが、これはもはや時代遅れのイデオロギーとなった。社会主義の幻想は潰えたとしても、王政は歴史的に”遅れた”体制だという認識は、依然として一般的ではないか。だが、アルバニアの例を見ても分かるように、経済の発展も言論の自由も何もない自称「社会主義」国家では、王政よりもはるかに残虐な粛正、人権無視が横行していたのだ。

要するにネパールの「共和制」を手放しで喜んではならないということだ。井沢元彦氏の例にならえば、「共和制」という「言霊」を信じてはならないのだ。

 


ホイアン~世界が恋した熱帯の港町

2007年10月28日 23時04分40秒 | 歴史
昨日、NHK・TVで放送された「探検ロマン世界遺産~世界が恋した熱帯の港町ホイアン」は素晴らしかった。

歴史的に日本と深い繋がりをもつ港町だが、「名古屋コーチン」というニワトリの名前がホイアンに由来することは初めて知った。「コーチン」とはホイアンのことだったのだ。また、現地の名物麺料理「カオラウ」は、日本商人が当地に持ち込んだ「うどん」に由来するそうだ。さらに、現在のベトナム通貨「ドン Dong」は、日本の「銅」貨から来た呼び名なのだ。

ベトナム戦争によって、ホイアンの伝統文化は大きく破壊された。絹織物の伝統が途絶えてしまったり、住民同士が政治的対立によって引き裂かれたりした。
「ベトナム戦争当時のことを教えて下さい」と老人に尋ねても「言葉では言い表せない」と応えていた。心の傷は、今なお癒えていないのだ。

今年の7月、2日間だけ現地に行った私は、今回の番組を見て、さらにホイアンに魅せられた一人となった。
 
                  (写真は、ホイアンの旧家の内部)

福州琉球館とアジア主義

2007年09月16日 20時30分42秒 | 歴史
一昨日、たまたま「放送大学」(TV)で「福州琉球館」と題する特別講義を聴いた。講師は、西里琉球大学教授だった。
http://pub.maruzen.co.jp/videosoft/houso/search/1271232.html

伝統的中国の国際関係は「冊封制度」と呼ばれ、近隣諸国は中国に対して朝貢貿易をすることによって、経済・文化的利益を享受していた。日本はこの「冊封制度」に組み入れられることはなく独自性を維持していたが、朝鮮、ベトナムなどの近隣諸国はすべてこのシステムに組み入れられていた。琉球国も例外ではなく、毎年のように中国に特使を派遣して、朝貢貿易を行っていた。
琉球特使の行き先は、福建省の省都・福州だった。福州には「琉球館」と呼ばれる施設があり、琉球の大使館の役割を果たしていたという。

先般、私はベトナム中部の古都、ホイアンを訪れた。そこには、「日本橋」と呼ばれる橋があり、海のシルクロードと呼ばれた時代の交流の歴史が残されていた。

ここには、今は忘れ去られたアジアの民族交流の歴史がある。東京中心、西欧中心の世界観からは、浮かび上がってこない歴史だ。

西欧列強が強制した「近代」とは、アジアの人々にとって、災厄以外の何者でもなかった。軽薄な欧米追随、欧米崇拝の悪癖を打破して、アジア人として考えること-これがいま一番大事なことだ。

来月、那覇の博物館に行き、福州琉球館の歴史に触れてみるつもりだ.

「世界から見たニッポン~幻に終わったアジア連帯の夢」

2007年08月16日 12時29分41秒 | 歴史
終戦記念日のNHK・BSでは、「幻に終わったアジア連帯の夢」が放送された。前半は「孫文」、後半を「チャンドラ・ボース」を採り上げられた。

2006年11月、北京の人民大会堂では、「孫中山先生生誕140周年記念式典」が開かれ、愛国者・孫文の功績が称えられた。その際、二人の日本人が国賓として招かれていたという。ひとりは、梅屋庄吉の孫、もうひとりは宮崎滔天の孫であった。日本では、もう顧みられることもなくなった「アジア主義者」の末裔を中国では決して忘れず、胡錦濤首席自らが接見をしていた。「井戸の水を掘った人は忘れない」という中国人の美点が感じられて、久しぶりに好感を覚えた。

欧米による過酷な植民地支配を目の前にして、アジア人同士が連帯して白人の支配をうち破ろうとする思想が芽生えた。これが「アジア主義」である。数々の民間人が大陸に渡り、この夢を実現しようとしたが、結局、それは失敗に終わった。
その理由は、日本政府が欧米列強と同一の国家利害を追求したからである。民間人による「アジア主義」実現の夢は、現実政治の前で裏切られたのだ。

東京の「白山神社」(文京区)には、孫文と宮崎滔天が座ったという記念碑がのこされている。縁日には夜店が立ちならぶこの神社に、どれだけの人が記念碑の前で足を止めるのだろうか。

最近、中国・中国人については、良い印象を受けないという人が増えているという。
だが、この番組の映像を通して「アジア主義」を振り返ると、中国人の複雑な心境も十分理解できる。

タブーに触れることになるが、「アジア主義」は人種差別の問題とも関連する。何故、米国は日本に原爆を投下したのか、無防備な都市に対して大空襲を行ったのかという問題(東京大空襲)を考えざるをえないのだ。米国がドイツに対して原爆を落とせるはずはない…というのが私の実感である。
米国の人種差別的な暴虐行為は、ベトナム戦争でも遺憾なく発揮された。

日中が連携して、欧米の人種主義に対抗すべきだと考える人がいても不思議ではないと思うのだが、いかがだろうか。
                         (写真は、宮崎滔天)