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澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「国際広報官 張超英」

2009年11月09日 18時14分44秒 | 



「国際広報官 張超英~台北・宮前町九十番地を出て」(張超英 口述著 まどか出版 2008.6)を読む。



日本統治時代の台湾に裕福な家庭に育ち、香港や日本に学んだ著者は、戦後も米国、日本を舞台にして、さまざまな活動を行った。
中華民国政府(国民党政府)に仕えながらも、台湾人(本島人)としての誇りを忘れることなく、祖国・台湾の利益のために、あるときは通訳、広報官、また、あるときは、政治の裏面のフィクサーとして活躍した。

李登輝氏の著作である「台湾の主張」出版に際しては、李登輝氏がノーベル平和賞を受賞されるべく、いろいろな工作を行った。
日台関係の裏面には、こういう知日派の人物がいたのだと知らされた。



国際広報官 張超英―台北・宮前町九十番地を出て
陳 柔縉,張 超英
まどか出版

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「日本統治下の台湾」を読む

2009年10月18日 05時04分26秒 | 
「日本統治下の台湾~抵抗と弾圧」(許世楷著 東大出版会 1972年)を読む。台湾史を知るための必読文献とされているのだが、何十年も経ってようやく手にしたことになる。

("Formosa under the Japanese rule" by Koh Se-kai)

許世楷氏は、私が学生時代にすでに津田塾大学助教授として活躍されていた。当時、私の大学に兼任講師として来ていたはずだが、他学部科目だったので聴講できなかったことを思い出す。もっとも、当時、私が台湾史を理解できたかどうか、はなはだ疑問だが…。
周知のとおり、許氏は長らく台湾独立運動に関わり、蒋介石時代(中国国民党独裁政権時代)においては、祖国・台湾に帰国することさえ許されなかった。ようやく陳水扁総統時代になって、駐日代表(=大使)を勤め、政治家として活躍されている。

本書の構成は、次のとおり。
第1部 統治確立過程における抗日運動(1895-1902年)
 第1章 日本領有に対する阻止運動
 第2章 北部における清国への復帰運動
 第3章 中南部における抗日運動の割拠
第2部 統治確立後の政治運動(1913-1937年)
 第1章 政治運動の台頭
 第2章 統一戦線の時代
 第3章 分裂の時代
 第4章 諸団体の凋落
 
私が特に関心を持ったのは、第1部第1章。その理由は、NHKが放送した「Japanデビュー アジアの”一等国”」(2009年4月5日放送)において、「日台戦争」と名付けられた部分であるから。
同番組では、日本の台湾接収に際して台湾人による抵抗運動が起こり、1万数千人の犠牲者が出たことについて、「日台戦争」という言葉を使用した。これを見た視聴者からは「そんな用語は聞いたことがない」という抗議が殺到した。
この点について、本書ではどう書かれているのかを見ると、当然のことながら「日台戦争」などという言葉は一切使われていない。NHKディレクター・濱崎某は、番組を制作する前に果たして本書を読んだのだろうか?と思った。

台湾映画「一八九五乙未」(2008年)の中に、台湾接収を行った近衛師団・北白川宮親王が次のようにつぶやく言葉がある。「…我々は敵を甘く見ていた。これは接収ではなく戦争である」(台詞は日本語)
客家人で科挙の秀才でもあった呉湯興が率いる抗日運動を描いた映画だが、決して「反日」映画ではない。戦火の拡大を憂う北白川宮親王の心の葛藤や、医務官として同行した森鴎外の心情を描いていて、日本人が見ても心打たれる映画だ。(下記映像参照) 北白川宮が語る「戦争」という言葉は、単なる比喩として使われているに過ぎない。

わずか100年余り前の史実が、NHK・TVでは「日台戦争」と名付けられ、自国である日本を断罪する道具と化してしまった。一方、この台湾映画では、日本の台湾接収を”悪”として描かず、むしろ当時の歴史、国際環境のなかでやむをえなかった出来事として捉えているように見える。

許世楷氏の本書は、多くの史料を駆使して客観的に当時の状況を描き出している。たとえば、日本の台湾領有を否定するために清朝政府の役人によって「台湾民主国」が宣言されるが、形勢不利と見た官僚達は戦わずして大陸に逃亡してしまう。このように常に外来政権に翻弄されてきた台湾人の視点から見れば、日本統治も中共(=中国共産党)政権も国民党政権(=蒋介石政権)も”同じ穴のムジナ”に過ぎないことがよく分かる。本書の前書きには、次のような言葉がある。
『本書を いまなお虐げられているわが同胞にささげる』
これは、本書が上梓された1972年当時台湾では、蒋介石政権の「白色テロ」によって多くの台湾人が政治犯として死に追いやられていたことを示している。

本書は、台湾史を理解する基本的文献として、多くの人に読まれるべきだろう。まず真っ先に読むべきは、NHKディレクター・濱崎憲一だが。


1895電影預告片



「二・二八事件~『台湾人』形成のエスノポリティクス」

2009年03月12日 16時53分10秒 | 
何義麟著「二・二八事件~『台湾人』形成のエスノポリティクス」(東京大学出版会 2003年)を読む。

本書の冒頭で著者は、次のように言う。
「平野健一郎の新エスニシティ・モデルを使えば、…二・二八事件を通じて台湾人は、ネイションとしての「中国人」になることなく、むしろ「台湾人」というエスニック・アイデンティティが強化された。さらに、ここにおいて戦前における植民地の差別体験が繰り返されることにより、台湾人は中国の国家機構と適合せず、分裂傾向を持つ集団になったのである。つまり、「台湾人」の形成という政治過程が展開したと考えられる。」(p.7)


二・二八事件―「台湾人」形成のエスノポリティクス
何 義麟
東京大学出版会

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本書の要旨はここにあると考えるのだが、「エスニシティ」「エスノポリティクス」などという仰々しい専門用語にはやや違和感を覚える。だが、本書は学術論文として書かれたのだから、仕方ないのだろう。
1945年以前の日本統治時代を台湾人の側から見た前半部分、そして1945年から1947年の「二・二八事件」に至るまでの、陳儀政府による「訓政政治」に対する台湾人の反発、1949年以降「中華民国」の台湾への移転から現在の民主主義体制に至るまでの政治が、具体的な資料に基づき詳しく記されている。

本書に記された「台湾人」の概念を念頭に置けば、何故いま映画「海角七号」が大ヒットしているか、その理由を理解することができる。この映画の監督である魏徳聖氏がインタビューの中で、台湾のエスニシティについて語っているのも示唆的である。

国際政治の場では、台湾はすでに中国によって土俵際まで追いつめられている状態だ。馬英九政権の登場で、中台の一体化はさらに進められるだろう。こういう状況を好転させるためには、「台湾人」というエスニシティの概念が有効に働くと考えられる。「台湾人」の概念が確立していれば、それは「チベット人」「ウィグル人」と同列に位置するのだから、中国共産党による「大中国」「ひとつの中国」の幻想に対抗する武器ともなりうるのだ。

使用言語の区分でエスニシティを解説した台湾の論文では、日本語もそのひとつとして数えられている。そう、日本統治時代の遺産も彼らはきちんとプラスに取り入れているのだ。



「知られざる東台湾~湾生が綴るもう一つの台湾史」

2009年02月26日 16時01分56秒 | 
「知られざる東台湾~湾生が綴るもう一つの台湾史」(山口政治著 展転社 平成19年)を読む。
大正13年、台湾の花蓮に移民の家族として生まれた著者は、今なお現地の人々と親密な交流を持つ。表題の「湾生」とは、台湾生まれのことである。


知られざる東台湾―湾生が綴るもう一つの台湾史
山口 政治
展転社

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台湾では現在、映画「海角7号」が大ヒットしているが、この映画は60年前、敗戦によって日本人が台湾を去る帰還船の光景から始まる。そこでは今なお、日本との”絆”が肯定的に描かれているのだ。

何故、これほどまでに台湾人が「親日的」であり続けるのか。私自身、花蓮を2回訪れ、ガイドさんや土地の人々にとてもよくしてもらった思い出がある。花蓮市内には、市の指定史跡として旧・日本人住居や駅舎がきちんと保存されている。説明文には、日本統治時代の記録が正確に記されていた。

(旧・日本人住居;花蓮市の文化財として保存されている)
(花蓮鉄道博物館:日本統治時代の鉄道資料を展示している)  (花蓮の公園に展示されている日本時代のSL)


日本統治時代の台湾については、さまざまな本が出されているが、本著のように「東台湾」、すなわち太平洋に面した台湾の東部分に光を当てた著作は珍しいはずだ。花蓮を中心とする「東台湾」は、台北から高雄まで新幹線が走るようになった西部と比べて、今なお開発が遅れている。太平洋岸を縦断する鉄道が全線開通したのが、実に李登輝時代の1992年になってからなのだ。「東台湾」の自然・地理的条件がいかに厳しいか分かるだろう。

   (花蓮地方の地図)   (海岸の絶景:昭和初期の写真)      (台湾先住民族の地理分布)

台湾には、九つの先住民族が居住していて、大正時代に至るまで「首狩り」の風習が残っていた。特に「東台湾」は大陸中国の歴代王朝が支配を及ぼしたことはなく、ずっと「化外の地」として扱われきた。先住民族の「平定」、保健衛生、教育の普及、産業振興などは、すべて日本統治時代になってから行われたことに注目したい。

李登輝氏は「もし清朝・中国が台湾を領有していたら、今の台湾はありえず、海南島と同じだったろう」と言ったことがある。台湾の近代化に日本が果たした役割は我々が思う以上に大きかったのだ。

本著では、使命感に燃えて台湾を「日本」に一体化させようとした先人の事例が数多く採り上げられている。それらは「公の精神」と「情熱」にあふれていて、思わず胸にこみ上げるものがある。「植民地支配は悪」というようなステレオ・タイプの認識では割り切れない、圧倒的な台湾への「思い」をそこに感じる。

現地に居住していた方々が記した数々の回顧録や写真からの引用は、具体的な迫力で読者に迫ってくる。振り返れば、「ひとつの中国」を巡る不毛な「中国論」「日中友好運動」が跋扈する中で、ひたすら時は流れ、『台湾』は置き去りにされた。本著のような体験を持つ世代は、もはや80歳を越えるに年齢となった。残された時間は少ない…。

本著を読み「台湾は台湾である」という事実を再認識する。何故台湾人が「親日的」であるかという疑問も読み解くことができた。
経済的野心や歪んだイデオロギーによって「大陸中国」に肩入れし、これ以上台湾を見捨てるようなことがあってはならない…と心から思うのだ。


(花蓮近郊;日本人が開拓した吉野村:著者の生まれ故郷)

※ 日本統治時代の写真および地図については、上掲「知られざる東台湾」より引用させていただきました。




「果し得ていない約束~三島由紀夫が遺せしもの」を読む

2009年01月29日 01時54分06秒 | 
「果し得ていない約束~三島由紀夫が遺せしもの」(井上豊夫著 ㈱コスモの本 2006年)を読む。




この本を読んでみようと思ったきっかけは、youtubeで3年ほど前のこのニュースを見たからだ。




三島由紀夫が組織した「楯の会」に属していた井上豊夫氏が、三島の「檄」を未だ果たさざる約束として捉え、これまでの生き方を綴った本である。

「東京大学では、大学当局が警察力の導入に消極的だったために、状況が泥沼化しました。1969年(昭和44年)1月には安田講堂に立てこもった全共闘と機動隊が激しい攻防を繰り広げた結果、学生全員は逮捕されたものの、安田講堂はいたるところが破壊され、東京大学は1969年の入試中止を発表しました。…東京大学の入試中止でこの年の大学入試は史上最難関となり、受験生たちは志望校を変更せざるを得ませんでした。私も国立一期は一橋大学から神戸大学に志望校を変えましたが、あえなく失敗。合格したのは上智大学と関西学院大学だけでした。」(同書14-15ページ)

今はもう語られることもないが、1969年の大学入試は、東大、東京教育大学(現・筑波大学)の入試が中止となり、弱小の東京外国語大学では「暴力学生」が入試を妨害するからという名目で1科目30分という「変則入試」が行われた。4科目で120分だけ、あとは「内申書」で選抜という前代未聞の「奇策」だった。

こうした状況に受験生は狼狽し、志望校のレベルを下げた者も多くいた。私自身も友人が持っていた志願書を1枚もらい、それまで一度も受けたことのないある私立大学を受験した。創始者が紙幣の肖像にもなっている「名門」K大学とこの大学の二つに合格したのだが、入学金の払い込み時期の関係で後者の大学になってしまった。これが人生の岐路だったと感じたのは、入学してすぐのことだった…。「入試のような人生の節目ではカネをケチってはならない」という、惨めな教訓をそこで学んだわけだ。その教訓は、我が子供たちのときには十分に活かされたが…。

ともあれ、1969年の時点では、井上氏と私は、同じような境遇で、同じ場所・出発点にいた。当時の著者は、髪の毛もふさふさしており、眼光の鋭い青年だった。しかしながら、彼自身が「楯の会」の会員であることを広言していたので、親交を結ぶことはなかった。この大学には、こんな「右翼」が跋扈しているのかというのが率直な印象で、そこにいる自分自身にますます嫌悪感を募らせたことを思い出す。

井上氏が「楯の会」に熱中していたとき、私はアルバイトと市井の「中国語講習会」に精を出していた。この中国語講習会には様々な人がいた。三里塚闘争で空港司令塔に立てこもったMさん、のちに某市の市長選にも立候補したOさん、共同通信記者となったTさんどは今でも忘れられない。みんな「新中国」に希望を求め、「思想」を理解する手段として中国語を学んでいた。中国語を「チャイ語」と呼ぶ今の学生からすれば、信じられないことだろうが…。
外国語を学ぶということは、ある目的を達成するための手段に過ぎない。だが当時、「ひとつの中国」というイデオロギーが持ち込まれ、中国語学習は毛沢東の著作などを教材とすることも多かった。「中華民国」(=台湾)という言葉を使うだけで、「反中国的」だと本気で騒ぐ連中がいた時代だ。当然、まともな日常会話など教わっていない。今考えれば噴飯ものの話だった。

この本で井上氏の個人史の空白部分を知ることができたのだが、これまでの彼我の人生は、全くの平行線だったと思い知らされた。「楯の会」から家業(?)の「会社社長」へと優雅に転身した井上氏の人生は、ずっと順風満帆であったかはともかく、華麗な生き方であったことは間違いない。翻って、私はどうだったのか…? ここで触れたくはないが、まさに「人生さまざま」というほかはない。

三島由起夫の「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう」という予言は、まさに今日の日本を言い当てている。これらの形容詞に付け加えるべきものは何もない。今となっては、三島の先見性にただただ脱帽するばかりだ。
日本人であること」「自分の国を守るということ」を忘れたツケは、限りなく大きい。そのことを考えると、絶望的な気分にさえなる。
この点で、初めて著者の生き方と交差したように思えてくる。


(同書より引用)







戦後思想グラフィティ~小熊英二「〈民主〉と〈愛国〉」

2007年09月27日 08時29分06秒 | 

先日、読みかけのこの本について、次のように書いた。

 

小熊英二「〈(民主〉と〈愛国〉~戦後日本のナショナリズムと公共性~」(新曜社 2002)を読み始めた。300ページほど読んだが、まだ3分の1にも届かない。全文で964ページという大著だ。 大著と言っても、本著に書かれている同時代を過ごした記憶がある私にとっては、結構すらすらと読めてしまう本である。
著者は1962年生まれなので、戦後の混乱期はもとより、60年代の安保紛争も体験はしていない。丹念に資料を分析し、分かりやすく記述した点が評価される。 かなり年上の私は、たった1度だけだが竹内好の講義を聴いた記憶がある。次章がその竹内好を採り上げているので、楽しみだ。

 

ようやく、読了したのだが、率直に言って長すぎると思った。竹内好あたりまでは真剣に読んだが、それ以降は、自分自身が同時代を体験しているという”既知感”があって、かなり読み飛ばした。
全体の印象としては、「戦後思想グラフィティ」ということか。「グラフィティ」(Graffitti)とは、いたずら書きの意味だが、著者がそういう意図で書いたという意味ではない。異なる世代の著者が、戦後思想を総括した結果が、我々には「戦後思想グラフィティ」に映るということだ。

この本はかなり高価(6,300円)だ。どのような読まれ方をしているのだろうか。教科書としては散漫に過ぎる印象だし、だいたい今時の学生が読み通すことが出来るのだろうかと思う。「思想史」なんて、最も人気のない分野だろうから…。

結局、研究のための研究という印象を強く受けた。時が移り、「同時代」が「歴史」に変わっていく時、こういう本が出るのだなと思った。

 

 

 

 


「アジア主義」を読む

2007年08月03日 03時00分36秒 | 
ベトナム・フエの王宮の廃墟に立って、ふと思い出したのが「大東亜共栄圏」という言葉だった。ベトナム人にとって、フランスの植民地支配は、忌まわしい記憶に違いないのだが、その影響は各所に残っている。フエの白人観光客の多くはフランス人だったし、ホテルで食べるフランスパンはとても美味しかった。
そのフランス人を、いったんはベトナムから駆逐したのが日本人だった。そのときのイデオロギーが「大東亜共栄圏」というわけだが、戦後、これに触れるのはタブーとなってしまう。右翼以外は使わない言葉となってしまったのだ。

そこで、「アジア主義」関係の本を再読しようと思った。まず、廣松渉「<近代の超克>論~昭和思想史への一視角」(講談社学術文庫)を読み始めた。この著者の名前は、団塊の世代前後の人なら聞き覚えがあるはず。「東大紛争」のときに、全共闘を支持して有名になった東大の先生だ。現実を必要以上に、深刻ぶって考える人だったようだ。

読み始めて感じたのは、「哲学」や「思想史」にも「賞味期限」があるのだなぁということ。大仰な表現や古色蒼然とした文章展開が、なんとも時代を感じさせてしまう。若い人なら、多分投げ出してしまうだろう。「問題意識」自体が、この情報化時代・コンピュータ時代には、全くそぐわないのだ。

これを読んだら、次は「竹内好」にとりかかる。「竹内好全集」を持っていたことも忘れていたのだが、どうせ古本屋では二束三文だろうから、鉛筆で線をを引きまくって読もうかと思っている。「本」は財産なんて、昔、誰かから聞いたが、全くでたらめですね。

石原莞爾や大川周明も読もうと思う。この夏は「アジア主義」のロマンを追究するつもりだ。