社会格差と健康―社会疫学からのアプローチ 単行本 – 2006/8
川上 憲人 (編集), 橋本 英樹 (編集), 小林 廉毅 (編集)
不景気になると、学歴や所得・資産、職業といった社会経済面で弱い立場にある人たち
の健康が脅かされる可能性が高まります。
実際、不景気中には健康格差が広がること
が諸外国から報告されています。
イチロー・カワチ教授の人気講義 "Society and Health" の指定教科書 待望の邦訳!
「上流」にある健康の社会的決定要因に挑む
健康格差,ソーシャル・キャピタル,行動介入,子どもの貧困,働き方改革,
日本が直面する課題解決のヒントがここに
命の格差は止められるか
社会疫学が解明する「健康格差」とその対策
ソーシャル・キャピタルが健康を守る
近藤 克則氏(千葉大学予防医学センター社会予防医学研究部門教授/同大大学院医学研究院公衆衛生学教授/国立長寿医療研究センター老年学・社会科学 研究センター老年学評価研究部長)
イチロー・カワチ氏(米国ハーバード公衆衛生大学院 社会・行動科学部長/社会疫学教授)
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“健康の社会的決定要因”を研究する学問「社会疫学」の進歩により,日本でも健康格差の問題が脚光を浴びている。健康格差の縮小に向けて医療者は何ができるのか,興味を持つ人も増えてきているのではないだろうか。
本紙では,社会疫学研究の第一人者であるイチロー・カワチ氏と,このたび『健康格差社会への処方箋』(医学書院)を刊行した近藤克則氏に,健康格差社会の解消に向けた社会疫学の最新知見をお話しいただいた。
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近藤 カワチ先生との対談は2004年以来です(本紙第2566号『「社会疫学(Social Epidemiology)」とは何か?』)。
当時の日本では社会疫学という学問はまだあまり知られておらず,「健康格差があること」を知ってもらうところからのスタートでした。それから13年,社会疫学の進歩により「健康格差」の存在が浮き彫りになってきました。
カワチ そうですね。今では広く認識され,研究面でも「健康の社会的決定要因(SDH)の探索」だけでなく,「機序の解明」が進みました。そしてさらに,科学的知見を応用した「対策」へと向かっています。
近藤 この十数年でのエビデンスの増加は,カワチ先生が編者の一人である『Social Epidemiology』第2版のページ数が,初版の1.5倍以上になったことからもわかります。2009年のWHO総会決議や日本の「健康日本21(第二次)」(2013~22年度)などの政策目標に「健康格差の縮小」が掲げられ,臨床医の間でも関心が高まっています。2016年には日本プライマリ・ケア連合学会に「健康の社会的決定要因検討委員会」が設置され,日本小児科学会の特別講演では五十嵐隆先生(国立成育医療研究センター)が子どもの貧困問題を正面から取り上げました。NHKスペシャルやビジネス誌でも健康格差特集が組まれるなど,社会的にも注目を浴びています。
最も効果的な政策は,早期教育,雇用環境,保険制度整備
近藤 健康格差とは,「地域や社会経済状況の違いによる集団における健康状態の差」と定義されます。
「健康は自己責任」「格差は必要悪」という考えが根強くありますが,個人の責任を超えた社会的要因の影響が明らかになってきています。
まず,これまでに蓄積された社会疫学の知見から,健康に影響する社会的要因にはどのようなものがあるのかを教えてください。
カワチ さまざまな要因がありますが,対策のエビデンスが明確に出ているのは,教育と雇用環境,そして医療保障制度です。
教育では,特に早期教育が重要です。一般に「教育への投資」と言うと,高卒・大卒率の向上や教育内容の話になりがちですが,一番効果があるのは幼年期(4か月から3歳まで)への介入だということがわかっています。
近藤 米国では,就学前教育への介入を行い,その後数十年にわたって追跡した研究がいくつかありますね。
カワチ その一つはAbecedarianプロジェクトです。実験開始時の年齢が生後4か月から5歳までの子ども111人を対象に,早期教育を行う群と全く行わない群にランダムに割り分けました。30年間の追跡研究の結果,教育を行った群では,10代の妊娠,高校中退率,喫煙率,薬物依存などを含む犯罪率,肥満率などが有意に低下し,大学進学率や収入が上昇しました。
近藤 義務教育前の介入でそんなにもさまざまな影響があるとは驚きです。
カワチ 8歳でピタッと介入をやめても,その後何十年もの間,影響し続けることが示されました。非常に興味深い研究です。
また,義務教育の年数についても影響が研究されています。米国では州ごとに義務教育年数が異なるため,自然実験的なデータを活用できるのです。例えば,50年前にマサチューセッツ州で生まれた子どもの義務教育は最低でも10年,一方テキサス州は5年でした。全50州を対象とした分析から,義務教育年数が長いほど全教育期間も平均して長く,かつ全教育期間が長いほど,老後の認知症率が低いことが明らかになりました。
近藤 日本においても,子ども時代の影響を示す疫学研究が報告されています。私たちが取り組むJAGES(Japan Gerontological Evaluation Study;日本老年学的評価研究)プロジェクトでも,教育歴が短い,15歳時に貧困にさらされた,子ども時代に虐待に遭ったといった方ほど,高齢期のうつ,残存歯数,認知症リスク,要介護認定などの多くの健康指標が悪いという関連がみられます。
カワチ 幼年期教育には莫大な予算が必要なこともあり,どの国でもまだしっかりとした取り組みは始まっていません。しかし,ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマンの分析では,幼年期教育のコスト効率は1.17,つまり教育のための投資100円に対して,117円の経済効果があることが明らかになっています2)。
近藤 『Science』誌に掲載された論文では,より早期の教育ほど効果が大きいことが示されましたね3)。あれはインパクトがありました。
カワチ 成果が出るまでに1世代(30年)かかるかかるため,短期的な成果を重視する政治家はなかなか動きたがらない傾向がありましたが,各地で働き掛けが進んでいます。ニューヨークではビル・デブラシオ市長が,貧しい子どもたちの早期教育プログラムを開始しました。幼年期は「本人の責任」が問えない段階であるため,介入を行うことに対する社会からの不満も少なく,長期的視点で見れば費用対効果が高いというエビデンスが出ているので,絶対に実行すべき政策だと思います。
このままでは日本が長寿大国でいられるのはあとわずか
カワチ 米国は今,健康格差という面では将来が不安な状況です。オバマケアにより米国民に占める無保険者の割合は2015年には9.1%(2900万人)にまで減少しましたが,今後もそれが維持されるかはわからないからです。オバマケア以前の米国においては,個人の破産理由の1位は,なんと医療でした。急病で高額な医療費を請求されたり,療養中に仕事ができず所得が減ったりすることが原因です。オバマケア導入前にマサチューセッツ州で行われた検証実験では死亡率が有意に下がりました4)。オバマケアが廃止されたら,全米で年間3万人死亡者が増えると予測されています。
近藤 オバマケア施行後の調査で,オレゴン州ではメンタルヘルスなどの主観的指標の改善が報告されています。観察期間が延びれば,客観的指標にも改善があるかもしれません。
一方,日本の懸念材料は不安定雇用です。総務省の2015年労働力調査によると,非正規労働者は1980万人になり,全就業者の3分の1を超えました。
カワチ 日本は終身の正規雇用が一般的なイメージでしたが,それはもはや過去のことになっているのですね。
近藤 はい。ある程度の経済格差は労働者のモチベーションになるかもしれませんが,格差が大きすぎると,経済的に豊かな国であっても,高所得者を含めた国民全体の健康水準が悪化することがメタアナリシスで示されています5)。所得格差を表すジニ係数が0.3を超えると,0.05増えるごとに死亡率が8%高まります。厚労省の2014年所得再分配調査報告書によると,日本は0.38(所得再配分後)で,社会騒乱多発の警戒ラインとされる0.4よりは低いものの,高齢者層だけでなく青年層でもジニ係数と死亡率の上昇が見られているそうです6)。
カワチ 米ワシントン大保健指標評価研究所が行った疾病負担研究によると,長寿大国と言われてきた日本の寿命延伸は頭打ちで,近いうちに他の先進国に追い抜かれる見込みです7)。
近藤 雇用環境は,経済的安定だけではなく,潜在的能力開発の機会,衣食住,家庭環境,犯罪率などにも影響を及ぼし,健康状態に直結します。生涯未婚率の上昇や相対的貧困児童の増加といった問題の背景要因でもあり,このまま放置することには危機感があります。
日本で進む,世界最先端の社会疫学研究
近藤 健康格差対策の重要性はわかっても,政策を動かすのは簡単ではありません。合意を得やすい介入策の1つとして,人々のつながりやそこから得られる信頼,助け合いを意味する「ソーシャル・キャピタル」に可能性を感じ,研究をしてきました。
カワチ 近藤先生が代表を務めるJAGESと私が共同で取り組む2つのプロジェクトから,そのヒントが得られると思います。
1つは,米国立衛生研究所(NIH)からの研究助成も受けている岩沼プロジェクト。これは,JAGESが全国31市町村の高齢者を対象に,2010年時点の健康状態とSDHを調査していたことで可能となった自然実験デザインの研究です。調査7か月後の2011年3月に起きた東日本大震災の被害を受けた宮城県岩沼市において,震災前のソーシャル・キャピタルなどが被災後の健康にどのような影響をもたらしているかを研究しています。
近藤 被災者の健康状態についての研究は昔からありましたが,震災前のデータがないものがほとんどでした。そのため,ソーシャル・キャピタルとの関連がみられても,「人とのつながりがあることで健康を保てた」のか,「健康を保てたからコミュニティに出て人とのつながりがある」のか,因果関係の向きの検証が困難でした。しかし本研究では,ソーシャル・キャピタルが健康を守るという因果関係が示されました。
さらに,家の全壊などの物理的被害は,近親者の死亡など以上に健康への顕著な悪影響をもたらすことといった,予想外の知見も得られています8)。
カワチ 経済的に不安な生活を強いられることの影響もあると考えられます。PTSDやうつだけでなく,高齢者の場合は認知症の発症リスクとも相関がある点も驚きでした9)。
近藤 もう1つの共同研究プロジェクトが武豊プロジェクトです。介護予防事業として,高齢者が集い,楽しみ,交流できる「憩いのサロン」を愛知県武豊町のあちこちに開設する地域介入研究を2007年度から行っています。
カワチ これもJAGESによる調査データがあったからこそ,介入前や非参加者のデータが得られて効果が実証されました。人々の交流や社会参加が要介護認定率を半分に減らし,認知症の発症を3割抑制する効果が得られています10,11)。
近藤 武豊プロジェクトで特に重要なのは,意図的な介入によってソーシャル・キャピタルを豊かにできたことと,それによる健康効果まで認められたことという2点です。高齢者の医療費が無料化されたころ,診療所や病院の待合室がサロン化していると批判がありましたが,もしかしたら社会的なつながりを生むという面では健康効果があったのかもしれません(笑)。
カワチ そうした患者交流もあるのですね。米国の待合室ではそうした様子は見たことがなかったので,横林賢一先生(広島大病院)が「医療者と一般市民がつながるカフェをつくった」と言うのを聞いたときにピンときませんでした。それは日本ならでは特徴かもしれません。
近藤 2012年に広島大の後援で取り組まれたJaroカフェですね。他にも,同じ医師の手術を受けた患者会などもあります。私も患者会をつくって旅行に同行していたのですが,ある患者さんに「脳卒中になり,旅行なんてもう二度と行けないと思っていたけど,生きる希望が湧きました」と言ってもらえたことがあります。医療現場でソーシャル・キャピタルを生かせば,健康づくりだけでなく患者さんの社会復帰にも効果があるのではないかと考えています。
困難を抱える人を見いだし,社会資源につなぐ
カワチ 医師の役割は,まずは目の前の患者さんを治療することです。しかし,疾患の治療をするだけでは根本的解決には至らない場合もあります。そのことは,臨床医であれば皆さん感じていると思います。
近藤 世界医師会長になった社会疫学者のマイケル・マーモット氏は著書『The Health Gap』の中で,研修医時代に出会った患者さんのことを書いています。夫は酒飲みで暴力を振るい,息子は刑務所,娘は10代で妊娠,経済的にも追い込まれて,うつで受診した女性がいた。それに対して,指導医が「青い錠剤でなく赤い錠剤を試すように」と言ったとき,「たったそれだけ?」と感じたそうです。うつになった原因である社会的状況が変わらなくては,“絆創膏を貼る”ような,その場しのぎの医療しかできません。
カワチ 米国では特に,小児科医や家庭医が健康格差の問題に強い興味を持っています。患者さんが最初にアクセスする医師なので,SDHに介入する必要性に気付きやすいのだと思います。
近藤 英国では診療所医師(GP)を中心に,「ソーシャル・プリスクリプション(社会的処方)」が広まり,医学教育にも取り入れられていると聞いています。社会的処方とは,健康に良くない社会的要因を持つ患者さんを,非医療的なサポート資源につなぎ社会的状況を変えることです。例えば孤立であれば,地域のスポーツ施設や地域活動といった,適切な「外出先や頻度」を処方して,実際につなぐ。経済的な問題があれば,ソーシャルワーカーに紹介するそうです。
カワチ 英国のGPは,診ている家族の子どもが生まれたときも,誰かが死ぬときも,時には訪問までして家族全体の状態を把握しているので,社会的処方との親和性も高いのでしょうね。
近藤 具体的な行き先を紹介することは重要で,ただ「運動しなさい」と指導するだけのアプローチと,実際に運動するための事業やプログラムの担当者にまでつなぐアプローチでは,後者のほうが1週間あたりの運動時間が有意に長くなることがランダム化比較試験(RCT)で明らかになっています12)。対象となる貧困や社会的孤立を発見するための問診票もいくつか開発されています。
カワチ ボストンのChildren’s Hospitalでは,メディカル・リーガル・パートナーシップというモデルが数十年間続けられています。貧困の患者さんが来院すると,診察後,州の法律に詳しい法律家が生活支援の相談にも乗るというものです。貧困者に向けた制度はフードスタンプなどさまざまなものがありますが,その存在を知らない方も多く,受給資格のある貧困者のうち15%は受給できていません。
近藤 日本にも,子どものいる世帯の所得が生活保護受給水準の1.1倍未満の場合,学用品代や給食代などを補助する就学援助制度があります。この制度の対象児童生徒数は,2012年までの10年間で35%も増え,都市部では全体の3割に迫る勢いです。少子化で子どもの数が減っているにもかかわらず,生活保護費以下の収入で暮らす子育て世帯は20年間で倍増しました。
カワチ OECDの2009年の調査で,日本の相対的貧困率は先進7か国の中で米国に次いで2番目に高い現状が明らかになりましたね。貧困は物質だけでなく,将来展望,教育や励まし,時間や愛情,ケアなど,多くの欠乏を生みます。小児期に低所得世帯で育った人の死亡リスクは,成人期に低所得を脱しても最大2.3倍高いなど,成人期の健康にまで影響を及ぼします。健康格差の拡大を防ぐためにも,子どもの貧困の増加は放置できません。
近藤 しかし,日本の患者さんには「見るからに貧困」という方はあまりいません。2016年の「貧困と子どもの健康シンポジウム」で,小児科医の和田浩先生(健和会病院)が「貧困な子どもが16%もいるというが,自分の患者にはそんなにいるとは思えない。一体どこにいるのだろうと思っていた」と言っていました。
カワチ 貧困は相対的に判断されるものです。日本のような豊かな国では,発展途上国の貧困層のような,誰が見てもわかるような貧困者は多くありません。しかし,それは困難が存在しないという意味ではありません。
近藤 そうなのです。和田先生も「そういう子どもは必ずいるはずだと注意して診るようになると,子どもの貧困が見えてきた」と言っていました。受診を勝手に中断したり,時間外にばかり来たりする「困った患者」の中に,実は生活に追われている人たちがいたそうです。診察室で経済的な苦しさを自ら訴える患者さんはあまりいません。「経済的に困っていて,発作が起きたときは仕方なく来るが,定期的に通院して治療費を払うことは難しい」,「二つの仕事を掛け持ちしていて,夜間の救急でしか来られない」。そんな事情は,医師が質問して初めて打ち明けてくれます。
カワチ 見えにくいからこそ,医師が注意して見つけてあげないと支援できませんね。
健康格差対策の7原則
近藤 社会的要因が健康に大きな影響を与えることは明らかです。しかし,「エビデンスが蓄積されるだけでは現実は変わらない」「重要性はわかるが対策は難しい」といった指摘もあります。医療職の仕事の枠を超えていると感じる方もいるかもしれません。
カワチ そうですね。個人や組織で取り組めることもありますが,やはり最終的には政策を動かす必要があります。政策を動かすには,2つの条件が必要です。1つは,行政を説得できるだけのエビデンスをそろえること,そしてもう1つは,「健康格差」に着目する政治・社会的な流れをつくることです。健康格差を縮小させるべきだと国民が声を上げなければ,行政は動きません。データと研究の蓄積とともに,臨床医だからこそ感じられる問題を世間に訴えていくことが,国民に問題を知ってもらうために重要です。
近藤 健康格差と似て,多くの人がかかわる地球温暖化問題も,1992年の「リオ宣言」あたりをきっかけに,人々の意識が徐々に変わり,やがて社会が動き出しました。それを参考に,書籍『健康格差社会への処方箋』では,実際の取り組みを進めるための視点を「健康格差対策の7原則」として紹介しました(表)。
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真に対策すべきは,医療が必要になる前の段階だ
こんどう・かつのり氏
1983年千葉大医学部卒。船橋二和病院リハビリテーション科科長などを経て,97年日本福祉大助教授,2000年英ケント大カンタベリー校客員研究員,03年日本福祉大教授。14年より現職。国立長寿医療研究センター老年学評価研究部長,日本福祉大健康社会研究センター長,客員教授併任。JAGESプロジェクト代表。『健康格差社会への処方箋』(医学書院)他,著書多数。
今後の課題は, 社会的決定要因を評価し,介入や政策に応用すること
Ichiro・Kawachi氏
1961年生まれ。12歳でニュージーランドに移住。85年ニュージーランドオタゴ大医学部卒。91年同大大学院にて医学博士号を取得。内科医としての臨床経験後,92年より米ハーバード大研究員,2008年より現職。社会疫学研究の第一人者として高い評価を得ている。『Social Epidemiology』『Behavioral Economics and Public Health』(ともにOxford University Press)他,編著書多数。
川上 憲人 (編集), 橋本 英樹 (編集), 小林 廉毅 (編集)
不景気になると、学歴や所得・資産、職業といった社会経済面で弱い立場にある人たち
の健康が脅かされる可能性が高まります。
実際、不景気中には健康格差が広がること
が諸外国から報告されています。
イチロー・カワチ教授の人気講義 "Society and Health" の指定教科書 待望の邦訳!
「上流」にある健康の社会的決定要因に挑む
健康格差,ソーシャル・キャピタル,行動介入,子どもの貧困,働き方改革,
日本が直面する課題解決のヒントがここに
命の格差は止められるか
社会疫学が解明する「健康格差」とその対策
ソーシャル・キャピタルが健康を守る
近藤 克則氏(千葉大学予防医学センター社会予防医学研究部門教授/同大大学院医学研究院公衆衛生学教授/国立長寿医療研究センター老年学・社会科学 研究センター老年学評価研究部長)
イチロー・カワチ氏(米国ハーバード公衆衛生大学院 社会・行動科学部長/社会疫学教授)
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“健康の社会的決定要因”を研究する学問「社会疫学」の進歩により,日本でも健康格差の問題が脚光を浴びている。健康格差の縮小に向けて医療者は何ができるのか,興味を持つ人も増えてきているのではないだろうか。
本紙では,社会疫学研究の第一人者であるイチロー・カワチ氏と,このたび『健康格差社会への処方箋』(医学書院)を刊行した近藤克則氏に,健康格差社会の解消に向けた社会疫学の最新知見をお話しいただいた。
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近藤 カワチ先生との対談は2004年以来です(本紙第2566号『「社会疫学(Social Epidemiology)」とは何か?』)。
当時の日本では社会疫学という学問はまだあまり知られておらず,「健康格差があること」を知ってもらうところからのスタートでした。それから13年,社会疫学の進歩により「健康格差」の存在が浮き彫りになってきました。
カワチ そうですね。今では広く認識され,研究面でも「健康の社会的決定要因(SDH)の探索」だけでなく,「機序の解明」が進みました。そしてさらに,科学的知見を応用した「対策」へと向かっています。
近藤 この十数年でのエビデンスの増加は,カワチ先生が編者の一人である『Social Epidemiology』第2版のページ数が,初版の1.5倍以上になったことからもわかります。2009年のWHO総会決議や日本の「健康日本21(第二次)」(2013~22年度)などの政策目標に「健康格差の縮小」が掲げられ,臨床医の間でも関心が高まっています。2016年には日本プライマリ・ケア連合学会に「健康の社会的決定要因検討委員会」が設置され,日本小児科学会の特別講演では五十嵐隆先生(国立成育医療研究センター)が子どもの貧困問題を正面から取り上げました。NHKスペシャルやビジネス誌でも健康格差特集が組まれるなど,社会的にも注目を浴びています。
最も効果的な政策は,早期教育,雇用環境,保険制度整備
近藤 健康格差とは,「地域や社会経済状況の違いによる集団における健康状態の差」と定義されます。
「健康は自己責任」「格差は必要悪」という考えが根強くありますが,個人の責任を超えた社会的要因の影響が明らかになってきています。
まず,これまでに蓄積された社会疫学の知見から,健康に影響する社会的要因にはどのようなものがあるのかを教えてください。
カワチ さまざまな要因がありますが,対策のエビデンスが明確に出ているのは,教育と雇用環境,そして医療保障制度です。
教育では,特に早期教育が重要です。一般に「教育への投資」と言うと,高卒・大卒率の向上や教育内容の話になりがちですが,一番効果があるのは幼年期(4か月から3歳まで)への介入だということがわかっています。
近藤 米国では,就学前教育への介入を行い,その後数十年にわたって追跡した研究がいくつかありますね。
カワチ その一つはAbecedarianプロジェクトです。実験開始時の年齢が生後4か月から5歳までの子ども111人を対象に,早期教育を行う群と全く行わない群にランダムに割り分けました。30年間の追跡研究の結果,教育を行った群では,10代の妊娠,高校中退率,喫煙率,薬物依存などを含む犯罪率,肥満率などが有意に低下し,大学進学率や収入が上昇しました。
近藤 義務教育前の介入でそんなにもさまざまな影響があるとは驚きです。
カワチ 8歳でピタッと介入をやめても,その後何十年もの間,影響し続けることが示されました。非常に興味深い研究です。
また,義務教育の年数についても影響が研究されています。米国では州ごとに義務教育年数が異なるため,自然実験的なデータを活用できるのです。例えば,50年前にマサチューセッツ州で生まれた子どもの義務教育は最低でも10年,一方テキサス州は5年でした。全50州を対象とした分析から,義務教育年数が長いほど全教育期間も平均して長く,かつ全教育期間が長いほど,老後の認知症率が低いことが明らかになりました。
近藤 日本においても,子ども時代の影響を示す疫学研究が報告されています。私たちが取り組むJAGES(Japan Gerontological Evaluation Study;日本老年学的評価研究)プロジェクトでも,教育歴が短い,15歳時に貧困にさらされた,子ども時代に虐待に遭ったといった方ほど,高齢期のうつ,残存歯数,認知症リスク,要介護認定などの多くの健康指標が悪いという関連がみられます。
カワチ 幼年期教育には莫大な予算が必要なこともあり,どの国でもまだしっかりとした取り組みは始まっていません。しかし,ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマンの分析では,幼年期教育のコスト効率は1.17,つまり教育のための投資100円に対して,117円の経済効果があることが明らかになっています2)。
近藤 『Science』誌に掲載された論文では,より早期の教育ほど効果が大きいことが示されましたね3)。あれはインパクトがありました。
カワチ 成果が出るまでに1世代(30年)かかるかかるため,短期的な成果を重視する政治家はなかなか動きたがらない傾向がありましたが,各地で働き掛けが進んでいます。ニューヨークではビル・デブラシオ市長が,貧しい子どもたちの早期教育プログラムを開始しました。幼年期は「本人の責任」が問えない段階であるため,介入を行うことに対する社会からの不満も少なく,長期的視点で見れば費用対効果が高いというエビデンスが出ているので,絶対に実行すべき政策だと思います。
このままでは日本が長寿大国でいられるのはあとわずか
カワチ 米国は今,健康格差という面では将来が不安な状況です。オバマケアにより米国民に占める無保険者の割合は2015年には9.1%(2900万人)にまで減少しましたが,今後もそれが維持されるかはわからないからです。オバマケア以前の米国においては,個人の破産理由の1位は,なんと医療でした。急病で高額な医療費を請求されたり,療養中に仕事ができず所得が減ったりすることが原因です。オバマケア導入前にマサチューセッツ州で行われた検証実験では死亡率が有意に下がりました4)。オバマケアが廃止されたら,全米で年間3万人死亡者が増えると予測されています。
近藤 オバマケア施行後の調査で,オレゴン州ではメンタルヘルスなどの主観的指標の改善が報告されています。観察期間が延びれば,客観的指標にも改善があるかもしれません。
一方,日本の懸念材料は不安定雇用です。総務省の2015年労働力調査によると,非正規労働者は1980万人になり,全就業者の3分の1を超えました。
カワチ 日本は終身の正規雇用が一般的なイメージでしたが,それはもはや過去のことになっているのですね。
近藤 はい。ある程度の経済格差は労働者のモチベーションになるかもしれませんが,格差が大きすぎると,経済的に豊かな国であっても,高所得者を含めた国民全体の健康水準が悪化することがメタアナリシスで示されています5)。所得格差を表すジニ係数が0.3を超えると,0.05増えるごとに死亡率が8%高まります。厚労省の2014年所得再分配調査報告書によると,日本は0.38(所得再配分後)で,社会騒乱多発の警戒ラインとされる0.4よりは低いものの,高齢者層だけでなく青年層でもジニ係数と死亡率の上昇が見られているそうです6)。
カワチ 米ワシントン大保健指標評価研究所が行った疾病負担研究によると,長寿大国と言われてきた日本の寿命延伸は頭打ちで,近いうちに他の先進国に追い抜かれる見込みです7)。
近藤 雇用環境は,経済的安定だけではなく,潜在的能力開発の機会,衣食住,家庭環境,犯罪率などにも影響を及ぼし,健康状態に直結します。生涯未婚率の上昇や相対的貧困児童の増加といった問題の背景要因でもあり,このまま放置することには危機感があります。
日本で進む,世界最先端の社会疫学研究
近藤 健康格差対策の重要性はわかっても,政策を動かすのは簡単ではありません。合意を得やすい介入策の1つとして,人々のつながりやそこから得られる信頼,助け合いを意味する「ソーシャル・キャピタル」に可能性を感じ,研究をしてきました。
カワチ 近藤先生が代表を務めるJAGESと私が共同で取り組む2つのプロジェクトから,そのヒントが得られると思います。
1つは,米国立衛生研究所(NIH)からの研究助成も受けている岩沼プロジェクト。これは,JAGESが全国31市町村の高齢者を対象に,2010年時点の健康状態とSDHを調査していたことで可能となった自然実験デザインの研究です。調査7か月後の2011年3月に起きた東日本大震災の被害を受けた宮城県岩沼市において,震災前のソーシャル・キャピタルなどが被災後の健康にどのような影響をもたらしているかを研究しています。
近藤 被災者の健康状態についての研究は昔からありましたが,震災前のデータがないものがほとんどでした。そのため,ソーシャル・キャピタルとの関連がみられても,「人とのつながりがあることで健康を保てた」のか,「健康を保てたからコミュニティに出て人とのつながりがある」のか,因果関係の向きの検証が困難でした。しかし本研究では,ソーシャル・キャピタルが健康を守るという因果関係が示されました。
さらに,家の全壊などの物理的被害は,近親者の死亡など以上に健康への顕著な悪影響をもたらすことといった,予想外の知見も得られています8)。
カワチ 経済的に不安な生活を強いられることの影響もあると考えられます。PTSDやうつだけでなく,高齢者の場合は認知症の発症リスクとも相関がある点も驚きでした9)。
近藤 もう1つの共同研究プロジェクトが武豊プロジェクトです。介護予防事業として,高齢者が集い,楽しみ,交流できる「憩いのサロン」を愛知県武豊町のあちこちに開設する地域介入研究を2007年度から行っています。
カワチ これもJAGESによる調査データがあったからこそ,介入前や非参加者のデータが得られて効果が実証されました。人々の交流や社会参加が要介護認定率を半分に減らし,認知症の発症を3割抑制する効果が得られています10,11)。
近藤 武豊プロジェクトで特に重要なのは,意図的な介入によってソーシャル・キャピタルを豊かにできたことと,それによる健康効果まで認められたことという2点です。高齢者の医療費が無料化されたころ,診療所や病院の待合室がサロン化していると批判がありましたが,もしかしたら社会的なつながりを生むという面では健康効果があったのかもしれません(笑)。
カワチ そうした患者交流もあるのですね。米国の待合室ではそうした様子は見たことがなかったので,横林賢一先生(広島大病院)が「医療者と一般市民がつながるカフェをつくった」と言うのを聞いたときにピンときませんでした。それは日本ならでは特徴かもしれません。
近藤 2012年に広島大の後援で取り組まれたJaroカフェですね。他にも,同じ医師の手術を受けた患者会などもあります。私も患者会をつくって旅行に同行していたのですが,ある患者さんに「脳卒中になり,旅行なんてもう二度と行けないと思っていたけど,生きる希望が湧きました」と言ってもらえたことがあります。医療現場でソーシャル・キャピタルを生かせば,健康づくりだけでなく患者さんの社会復帰にも効果があるのではないかと考えています。
困難を抱える人を見いだし,社会資源につなぐ
カワチ 医師の役割は,まずは目の前の患者さんを治療することです。しかし,疾患の治療をするだけでは根本的解決には至らない場合もあります。そのことは,臨床医であれば皆さん感じていると思います。
近藤 世界医師会長になった社会疫学者のマイケル・マーモット氏は著書『The Health Gap』の中で,研修医時代に出会った患者さんのことを書いています。夫は酒飲みで暴力を振るい,息子は刑務所,娘は10代で妊娠,経済的にも追い込まれて,うつで受診した女性がいた。それに対して,指導医が「青い錠剤でなく赤い錠剤を試すように」と言ったとき,「たったそれだけ?」と感じたそうです。うつになった原因である社会的状況が変わらなくては,“絆創膏を貼る”ような,その場しのぎの医療しかできません。
カワチ 米国では特に,小児科医や家庭医が健康格差の問題に強い興味を持っています。患者さんが最初にアクセスする医師なので,SDHに介入する必要性に気付きやすいのだと思います。
近藤 英国では診療所医師(GP)を中心に,「ソーシャル・プリスクリプション(社会的処方)」が広まり,医学教育にも取り入れられていると聞いています。社会的処方とは,健康に良くない社会的要因を持つ患者さんを,非医療的なサポート資源につなぎ社会的状況を変えることです。例えば孤立であれば,地域のスポーツ施設や地域活動といった,適切な「外出先や頻度」を処方して,実際につなぐ。経済的な問題があれば,ソーシャルワーカーに紹介するそうです。
カワチ 英国のGPは,診ている家族の子どもが生まれたときも,誰かが死ぬときも,時には訪問までして家族全体の状態を把握しているので,社会的処方との親和性も高いのでしょうね。
近藤 具体的な行き先を紹介することは重要で,ただ「運動しなさい」と指導するだけのアプローチと,実際に運動するための事業やプログラムの担当者にまでつなぐアプローチでは,後者のほうが1週間あたりの運動時間が有意に長くなることがランダム化比較試験(RCT)で明らかになっています12)。対象となる貧困や社会的孤立を発見するための問診票もいくつか開発されています。
カワチ ボストンのChildren’s Hospitalでは,メディカル・リーガル・パートナーシップというモデルが数十年間続けられています。貧困の患者さんが来院すると,診察後,州の法律に詳しい法律家が生活支援の相談にも乗るというものです。貧困者に向けた制度はフードスタンプなどさまざまなものがありますが,その存在を知らない方も多く,受給資格のある貧困者のうち15%は受給できていません。
近藤 日本にも,子どものいる世帯の所得が生活保護受給水準の1.1倍未満の場合,学用品代や給食代などを補助する就学援助制度があります。この制度の対象児童生徒数は,2012年までの10年間で35%も増え,都市部では全体の3割に迫る勢いです。少子化で子どもの数が減っているにもかかわらず,生活保護費以下の収入で暮らす子育て世帯は20年間で倍増しました。
カワチ OECDの2009年の調査で,日本の相対的貧困率は先進7か国の中で米国に次いで2番目に高い現状が明らかになりましたね。貧困は物質だけでなく,将来展望,教育や励まし,時間や愛情,ケアなど,多くの欠乏を生みます。小児期に低所得世帯で育った人の死亡リスクは,成人期に低所得を脱しても最大2.3倍高いなど,成人期の健康にまで影響を及ぼします。健康格差の拡大を防ぐためにも,子どもの貧困の増加は放置できません。
近藤 しかし,日本の患者さんには「見るからに貧困」という方はあまりいません。2016年の「貧困と子どもの健康シンポジウム」で,小児科医の和田浩先生(健和会病院)が「貧困な子どもが16%もいるというが,自分の患者にはそんなにいるとは思えない。一体どこにいるのだろうと思っていた」と言っていました。
カワチ 貧困は相対的に判断されるものです。日本のような豊かな国では,発展途上国の貧困層のような,誰が見てもわかるような貧困者は多くありません。しかし,それは困難が存在しないという意味ではありません。
近藤 そうなのです。和田先生も「そういう子どもは必ずいるはずだと注意して診るようになると,子どもの貧困が見えてきた」と言っていました。受診を勝手に中断したり,時間外にばかり来たりする「困った患者」の中に,実は生活に追われている人たちがいたそうです。診察室で経済的な苦しさを自ら訴える患者さんはあまりいません。「経済的に困っていて,発作が起きたときは仕方なく来るが,定期的に通院して治療費を払うことは難しい」,「二つの仕事を掛け持ちしていて,夜間の救急でしか来られない」。そんな事情は,医師が質問して初めて打ち明けてくれます。
カワチ 見えにくいからこそ,医師が注意して見つけてあげないと支援できませんね。
健康格差対策の7原則
近藤 社会的要因が健康に大きな影響を与えることは明らかです。しかし,「エビデンスが蓄積されるだけでは現実は変わらない」「重要性はわかるが対策は難しい」といった指摘もあります。医療職の仕事の枠を超えていると感じる方もいるかもしれません。
カワチ そうですね。個人や組織で取り組めることもありますが,やはり最終的には政策を動かす必要があります。政策を動かすには,2つの条件が必要です。1つは,行政を説得できるだけのエビデンスをそろえること,そしてもう1つは,「健康格差」に着目する政治・社会的な流れをつくることです。健康格差を縮小させるべきだと国民が声を上げなければ,行政は動きません。データと研究の蓄積とともに,臨床医だからこそ感じられる問題を世間に訴えていくことが,国民に問題を知ってもらうために重要です。
近藤 健康格差と似て,多くの人がかかわる地球温暖化問題も,1992年の「リオ宣言」あたりをきっかけに,人々の意識が徐々に変わり,やがて社会が動き出しました。それを参考に,書籍『健康格差社会への処方箋』では,実際の取り組みを進めるための視点を「健康格差対策の7原則」として紹介しました(表)。
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真に対策すべきは,医療が必要になる前の段階だ
こんどう・かつのり氏
1983年千葉大医学部卒。船橋二和病院リハビリテーション科科長などを経て,97年日本福祉大助教授,2000年英ケント大カンタベリー校客員研究員,03年日本福祉大教授。14年より現職。国立長寿医療研究センター老年学評価研究部長,日本福祉大健康社会研究センター長,客員教授併任。JAGESプロジェクト代表。『健康格差社会への処方箋』(医学書院)他,著書多数。
今後の課題は, 社会的決定要因を評価し,介入や政策に応用すること
Ichiro・Kawachi氏
1961年生まれ。12歳でニュージーランドに移住。85年ニュージーランドオタゴ大医学部卒。91年同大大学院にて医学博士号を取得。内科医としての臨床経験後,92年より米ハーバード大研究員,2008年より現職。社会疫学研究の第一人者として高い評価を得ている。『Social Epidemiology』『Behavioral Economics and Public Health』(ともにOxford University Press)他,編著書多数。