小峰徹は病院新聞社時代、「病院経営研究所」の川田良三さんと出会った。
川田さんは「モデル病院の設計・設備&収支」「病院経営の新しい鍵:私立病院」の著者であり、病院関係者から「川田先生」と呼ばれていたが、元は読売新聞記者と自称していた。
経歴が定かでない人のように徹には思われた。
彼は徹を「トロッコ」と呼ぶ。
「まだ、汽車(記者)ではないな」と揶揄するのである。
徹は24歳であった。
わずか2年で病院新聞社を退社して、日本薬業新聞社に移った。
紹介してくれたのは国保新聞の水野一郎さんであった。
元病院新聞に居たので彼は言わば先輩。
速記ができたので彼のメモは完璧。
メモが良くとれない徹は記者として半人前。
日本薬業新聞社には6年ほどいたが、酒田支社長に暴力を振るったことから退社。
労働組合運動の挫折が原因だった。
約2年、協同農業新聞社で営業として働く。
この時の営業ノウハウが次の日本歯科新聞社で活かされた。
徹の営業手腕で倒産寸前の状態から建て直しのである。
当時、社長であった横田慎次郎さんは元産業経済新聞社の満州総局長。
戦後の公職追放で下野したのである。
徹は営業上、歯科界・歯科業界の新春の横浜デンタルショーを利用した。
そのイベントのおかげで、広告が一番取れたのだ。
しかも、全来場者に配布する袋に日本歯科新聞を入れてもらう。
その道筋を徹が付けたのだ。
それは北海道、東北、中部日本、九州の各デンタルショーでも踏襲された。
当然、購読者も伸びた。
それはある時期までは徹が1人でやってきたことだ。
「小峰さんの姿は前進、また前進だね」と同じ営業の米岡健次郎さんは称賛していた。
昭和50年代~60年代は歯科業界の最盛期でもあった。
一番良かったのは40年代ともされていたが・・・
横浜デンタルショーの入場者を増やしたとい自負が徹にあり、神奈川県歯科用品商組合からは、徹は別格の扱いにされた。
それを当り前だと慣れきる。
徹は新年会には来賓として招かれていた。
箱根のホテルに全出展メーカーが揃って列席、徹は来賓として一言挨拶もした。
川田さんは「モデル病院の設計・設備&収支」「病院経営の新しい鍵:私立病院」の著者であり、病院関係者から「川田先生」と呼ばれていたが、元は読売新聞記者と自称していた。
経歴が定かでない人のように徹には思われた。
彼は徹を「トロッコ」と呼ぶ。
「まだ、汽車(記者)ではないな」と揶揄するのである。
徹は24歳であった。
わずか2年で病院新聞社を退社して、日本薬業新聞社に移った。
紹介してくれたのは国保新聞の水野一郎さんであった。
元病院新聞に居たので彼は言わば先輩。
速記ができたので彼のメモは完璧。
メモが良くとれない徹は記者として半人前。
日本薬業新聞社には6年ほどいたが、酒田支社長に暴力を振るったことから退社。
労働組合運動の挫折が原因だった。
約2年、協同農業新聞社で営業として働く。
この時の営業ノウハウが次の日本歯科新聞社で活かされた。
徹の営業手腕で倒産寸前の状態から建て直しのである。
当時、社長であった横田慎次郎さんは元産業経済新聞社の満州総局長。
戦後の公職追放で下野したのである。
徹は営業上、歯科界・歯科業界の新春の横浜デンタルショーを利用した。
そのイベントのおかげで、広告が一番取れたのだ。
しかも、全来場者に配布する袋に日本歯科新聞を入れてもらう。
その道筋を徹が付けたのだ。
それは北海道、東北、中部日本、九州の各デンタルショーでも踏襲された。
当然、購読者も伸びた。
それはある時期までは徹が1人でやってきたことだ。
「小峰さんの姿は前進、また前進だね」と同じ営業の米岡健次郎さんは称賛していた。
昭和50年代~60年代は歯科業界の最盛期でもあった。
一番良かったのは40年代ともされていたが・・・
横浜デンタルショーの入場者を増やしたとい自負が徹にあり、神奈川県歯科用品商組合からは、徹は別格の扱いにされた。
それを当り前だと慣れきる。
徹は新年会には来賓として招かれていた。
箱根のホテルに全出展メーカーが揃って列席、徹は来賓として一言挨拶もした。
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