天然知能

2019年06月25日 16時13分44秒 | 社会・文化・政治・経済
[郡司ペギオ幸夫]の天然知能 (講談社選書メチエ)
 
 
「考えるな、感じろ」とブルース・リーは言った。計算を間違い、マニュアルを守れず、ふと何かが降りてくる。すべて知性の賜物である。今こそ天然知能を解放しよう。人工知能と対立するのではなく、想像もつかない「外部」と邂逅するために。

商品の説明

内容紹介

「考えるな、感じろ」とブルース・リーは言った。計算を間違い、マニュアルを守れず、ふと何かが降りてくる。すべて知性の賜物である。今こそ天然知能を解放しよう。人工知能と対立するのではなく、想像もつかない「外部」と邂逅するために。
 

内容(「BOOK」データベースより)

「考えるな、感じろ」とブルース・リーは言った。計算を間違い、マニュアルを守れず、ふと何かが降りてくる。それらはすべて知性の賜物である。今こそ天然知能を解放しよう。人工知能と対立するのではなく、想像もつかない「外部」と邂逅するために。
 

著者について

郡司ペギオ幸夫
1959年生まれ。東北大学理学部卒業。東北大学大学院理学研究博士後期課程修了(理学博士)。早稲田大学理工学術院基幹理工学部表現工学科教授。著書に『時間の正体』『生きていることの科学』『群れは意識をもつ』ほか多数。伝説多数。
 

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

郡司/ペギオ幸夫
1959年生まれ。東北大学理学部卒業。同大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士。現在、早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
天然知能という独自の表現の中に、意識問題や哲学的な切り口で人間とは何かに迫っていく。親しみやすい文章で、とても読みやすいが、帯に記されいるように内容はとても深い。
人間のある種の不確実、不完全さが、無から有を創造し、あたかも完全なる世界を生きているように感じた。
 
冒頭10%を読んだところで、概ね理解しました。そう!ベイトソンのイルカさんが、豊かな知識=三人称的知能からいみじくも指摘されたように、一人称と三人称を区別しない、もしくは内部と外部を区別しないところに「天然」があるからだと思います。

すなわち、区別しないという事は未分化の状況を指していて、それは幼児の思考と重なります。幼児期は一人称も三人称もありません。内部も外部もありません。全ては包括的な受動とその反応によるインタラクティブな状況(ことば化することはできない動的な状況)なのでしょう。

そのインタラクティブなフィードバック状況をチクセントミハイがフロー状態として定義しましたが、その状況にも似ていますが、その定義も三人称的に捉えようとする世界観ですから、ここで捉えようとしている「天然」よりも固いです。

想像と創造を合わせて「想造」もしくは「創像」とでもしておきましょう。(私の勝手な解釈です)

元々著者も「人口知能」がまださほど注目されてなかった頃には沸き起こらなかったであろう概念が、最近のAIブームによって相対的に心の中に沸き起こった思い、アイデアを「天然知能」と呼称し、AIなんぞに侵食できない人智の領域を定義してみた!といったところでしょうか。そしてそんな思いを日頃から感じ考えている人々に、表明してみたかった。のだろうと思います。かく言う私もその表明「天然」という言葉に惹かれ、そのアイデアをチェックしたことで、

著者が述べようとしていることは例えば、アートは訳のわからない意味不明な、みんなから承認されない芸術だつたが、それを、受け入れられる知能が弱くなっていないだろうかと訴えたかったのだろうか。最近のモダンアートは、例えば、みんなが大好きな漫画のキャラやキレイな景色のリミックスで多数承認されたものだと思い込んでいないだろうかと。科学研究や技術開発は既存の路線を延長線を辿っているだけになっていないだろうか。意味不明なものは削ぎ落とす、カッコいいものになっていないか。天然知能は既定路線の外側を存在ありと認められる知能で人工知能も自然知能も所詮、既定路線のなかで、斬新な何かが生まれないだろう。人間の人工知能化に陥つていないだろうかと警告を鳴らしたかっただろう。
ただ、本筋から大きく外れるのかも知れないのか量子論についての記述はあまり深堀りされてなかった軽く述べ流された感じはありますし、局所性の意味をもっと深く知ってから述べてほしい感じはありましたし、
決定論に対する非決定論や局所性に対する非局所性が述べられて欲しかった感じはあります。
 

 
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿