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消えゆく昭和の東京を撮ってきた

2018年01月28日 17時55分49秒 | 社会・文化・政治・経済
小学校の4年生ころからカメラで写真を撮ってきた。
友だちを写したり、雲の写真、花などを写してきた。
それらの写真は一枚も手元に残っていない。
三脚を使用して友人たちと並んで写してきたもあったが、風景写真や東京の街を写したものはあったのか?
東京に生まれ、育った写真家の加藤嶺夫さん(1929~2004)は消えゆく昭和の東京を撮ってきた。
評論家川本三郎さんが指摘するように、東京は変化の激しい都市だ。
大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲で大きな被害を受けた。
昭和39年(1964)の東京オリンピックの際には高速道路が作られ、新幹線やモノレールが開通するんど東京の風景・町並みは大きく変わった。
さらにバブル経済期に地上げなどで騒然と都市改造があり、また二度目のオリンピックを控え改造が進んでいる。
かつて森鴎外は東京はいつも「普請中」(工事中)と言ったそうだ。
都電も次々と消えた。
いま目の前にる当たり前の風景も近い将来、消えてしまう。
加藤さんは、それに危機感を持って都内のすみずみまで散策し、変化する日常風景にカメラを向けた。
表通りだけでなく裏通りや路地にも入ってゆく。
愛惜の念が強かったのだろう。
過去を懐かしむことは、きわめて大事な感情。
学生時代に文学散歩をした「現代文学研究会」のメンバーたちとの交歓が懐かしい。
文学散歩の先導役の恩師・窪川鶴次郎先生(文芸評論家)は当時、読売新聞の夕刊に「文学散歩」を連載していた。
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窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 - 1974年6月15日)は、日本の文芸評論家。
静岡県菊川市出身。掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)から金沢の第四高等学校に進学し、中野重治と知り合う。
そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。
文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。
大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。そのころ、田島いね子と知り合い、結婚する。
いね子は彼や中野のすすめで小説「キャラメル工場から」を発表し、小説家窪川稲子としてプロレタリア文学の新進作家として登場するが、鶴次郎はなかなか陽の目をみなかった。ただし、1930年11月号の『ナップ』に掲載された詩「里子にやられたおけい」は、作曲されて広く歌われるようになった。
評論家として窪川が認められたのは、1931年頃からのことである。
1932年1月には共産党に入党し、そのために3月24日に検挙され、5月4日に起訴された。翌1933年、獄中で結核が再発し、政治活動をしないという条件で11月に保釈となった。
その後、1934年に作家同盟が解散してからは総合雑誌や文芸雑誌にも活躍の場を広げた。このころの主要な著作として1939年に中央公論社から出版された『現代文学論』などがある。
これらの評論集で、鶴次郎は、戦争へと傾斜する文学に警鐘を鳴らし、現実社会を描く文学のありかたを追究した。
しかし1938年には、19歳年上の田村俊子との情事が発覚、夫婦仲が悪化し、1945年二人は離婚、稲子は筆名を佐多稲子と改める。
そして、ふたりの関係に取材した小説をいくつか書いた(『くれない』など)。
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田村 俊子 (たむら としこ、1884年(明治17年)4月25日 - 1945年(昭和20年)4月16日)は、日本の小説家。
別名、佐藤露英、佐藤俊子、本名、佐藤とし。
東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生れ。
東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退。
代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。
官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。
没後、田村俊子賞が創設された。
佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ上海に渡り、中国語婦人雑誌『女声』を主宰した。
1945年4月13日、友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒し、搬送された上海の病院で4月16日、脳溢血により客死した[2]。享年62。墓所は鎌倉の東慶寺にある。

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