2012年11 月 9日 (金曜日)
金沢紀夫には、筋ジストロフィーを発症し18歳で死んだ長男と同じ病で16歳で死んだ次男の他に、2人の娘がいた。
この娘たちは宗教の布教活動にのめり込み、非正規従業員として働いていた。
娘たちが結婚しないのは、母のより子の遺伝子の異常が自分の産んだ子に現れることを恐れたからだ。
一番、そのことで悲しんだのは母親であった。
長女の花梨はケーキ屋で働いていた。
また、次女の美咲は週に3日だけ介護施設で働いていた。
紀夫が経営していたコンビ店は、大きな交差点の角の立地であり、車が入りやすいことから順調に売上げを伸ばした。
開業して5年目に、店から徒歩5分の場所に土地を購入し、紀夫自身の好みで2階建てのログハウスを建設した。
だが娘2人は両親とは住まず、そのままコンビニ店の2階に住み続けていた。
長女も次女も父親の贔屓目にも美人であった。
そして2人は気持ちが優しかった。
また、長女の声は心地よい響きのソプラノで、話す相手に控えめな性格を感じさせた。
息子が生存している間、息子の身体の介護が、生活のなかに時計の刻みのように組み込まれていた。
その分、2人の娘たちには「手をかけられなかった」ことが両親にとっては負い目があった。
だが、娘たちからは不満の声は一度も聞かれなかった。
兄たちが2人を信仰に導いていたので、娘たちはむしろ感謝の思いを込めて祈りを捧げていた。
「おにいちゃんは、私たちに信仰へ導くための使命を持って生まれてきたのね」
長女の花梨は長男常雄の通夜の席で言っていた。
常雄の死に顔は実に穏やかであり、母親似の端正な顔立ちが一層、哀れであった。
「18年の生は何であったのだろうか?」紀夫は虚しさややるせなさに抗していた。
そのから2年後に次男の実るも後を追うように逝ってしまった。
16歳で逝った実は父親の紀夫に似の顔立ちでハンサムとは言えなかったが、安らかな顔立ちで、仏教で言われている「成仏している良い顔の相」と例えられる「半眼半口」の死に顔であった。
2012年11 月 8日 (木曜日)
創作欄 過酷な日々 2)
金沢紀夫は取手駅前の大手スーパーで働いていた。
その前は、デパートの商品本部の仕入担当者であった。
父親が東京・秋葉原で自転車屋をしていたので、紀夫は商人の息子である。
何時か自分の店を持ちたいと願っていた。
息子二人が相次ぐように筋ジストロフィーを発症したのを期に、24時間営業のコンビニ店を始めた。
歩けなくなった息子を自動車に乗せ、小学校へ送って行く。
車を校舎の外階段の側に置き、息子を背負って3階の教室まで登って行く。
息子の教室が外階段の近くにあったので助かった。
雨の日は雨合羽を着た。
長男の息子常雄が突然声「あ~」と声を上げ背中で泣いた。
「弟の実は歩けるのに、僕、死にたいよ」
紀夫は言葉を失った。
背中の息子は体を震わせるようにして泣いている。
大粒の雨の雫が外階段で跳ねるのを見ながら、切ない気持ちで一歩一歩登って行く。
ずっしりと息子が重く感じた。
2年生の次男の実はまだ、何とか自分で歩いて教室へ行けたが、4年生の長男は自分の足では歩くことができず、もどかしくなっていた。
仏教で宿業というが、これは宿業であろうか?
父親としての自分の業、母親のとしての妻の業が息子二人に出たのだろうか?
そもそも業とは何であるのか?
自宅兼コンビニ店へ戻る車の中で、紀夫は考え続けた。
考えてもどうにもなる問題ではなかったのであるが、頭に錯綜するものが鉛の塊のように浮かんできた。
2012年11 月 8日 (木曜日)
創作欄 過酷な日々 1)
どうすれば最少の日本語で最大の世界を見せられるか?
金沢紀夫は短歌、俳句の世界に高校生のころから遊んでいた。
石川啄木は短歌を「悲しみの玩具」と表現した。
だが、次第に虚無的な気持ちから、それらの玩具から距離を置きたいと思った。
長男の常雄が筋ジストロフィーを発症したのは、4歳の時であった。
同じく次男の実も5歳で筋ジストロフィーを発症した。
筋ジストロフィーとは、筋肉自体に遺伝性の異常が存在し進行性に筋肉の破壊が生じる様々な疾患を総称。
筋力低下や 筋萎縮して行く。
3~6歳で発症し、歩行障害が初発症状であった。
初期には、ふくらはぎに筋肥大が生じるのが特徴。
歩き方がおかしい、転びやすいなどの症状で発症が確認されることが多数である。
治療法が確立していない過酷な難病であり、30歳くらいが平均寿命。
遺伝子の異常で進行性の筋力低下を示す筋原性疾患であり、検査の結果妻が遺伝子を持っていたことが判明した。
妻のより子は3人姉妹の長女であったが、次女、三女には遺伝子の異常がなかった。
夫婦は思い余って信仰にすがった。
結局、長男は18歳で逝き、次男は16歳で天に召された。
思い返せば過酷な日々であり、息子二人の介護が夫婦の生活のリズムを大きく変えた。
妻は午前3時まで息子の身体介護をし、紀夫が午前3時に起きて面倒をみた。
夕食の時には酒を2合飲み、午後7時30分にはベッドに入り寝た。
動かずにいると筋力低下や筋肉の萎縮、関節の拘縮にも拍車がかかって、病気の進行が早まるという側面もあった。
寝たきりの息子二人は寝返りが打てないので、体を動かしてやるのだ。
金沢紀夫には、筋ジストロフィーを発症し18歳で死んだ長男と同じ病で16歳で死んだ次男の他に、2人の娘がいた。
この娘たちは宗教の布教活動にのめり込み、非正規従業員として働いていた。
娘たちが結婚しないのは、母のより子の遺伝子の異常が自分の産んだ子に現れることを恐れたからだ。
一番、そのことで悲しんだのは母親であった。
長女の花梨はケーキ屋で働いていた。
また、次女の美咲は週に3日だけ介護施設で働いていた。
紀夫が経営していたコンビ店は、大きな交差点の角の立地であり、車が入りやすいことから順調に売上げを伸ばした。
開業して5年目に、店から徒歩5分の場所に土地を購入し、紀夫自身の好みで2階建てのログハウスを建設した。
だが娘2人は両親とは住まず、そのままコンビニ店の2階に住み続けていた。
長女も次女も父親の贔屓目にも美人であった。
そして2人は気持ちが優しかった。
また、長女の声は心地よい響きのソプラノで、話す相手に控えめな性格を感じさせた。
息子が生存している間、息子の身体の介護が、生活のなかに時計の刻みのように組み込まれていた。
その分、2人の娘たちには「手をかけられなかった」ことが両親にとっては負い目があった。
だが、娘たちからは不満の声は一度も聞かれなかった。
兄たちが2人を信仰に導いていたので、娘たちはむしろ感謝の思いを込めて祈りを捧げていた。
「おにいちゃんは、私たちに信仰へ導くための使命を持って生まれてきたのね」
長女の花梨は長男常雄の通夜の席で言っていた。
常雄の死に顔は実に穏やかであり、母親似の端正な顔立ちが一層、哀れであった。
「18年の生は何であったのだろうか?」紀夫は虚しさややるせなさに抗していた。
そのから2年後に次男の実るも後を追うように逝ってしまった。
16歳で逝った実は父親の紀夫に似の顔立ちでハンサムとは言えなかったが、安らかな顔立ちで、仏教で言われている「成仏している良い顔の相」と例えられる「半眼半口」の死に顔であった。
2012年11 月 8日 (木曜日)
創作欄 過酷な日々 2)
金沢紀夫は取手駅前の大手スーパーで働いていた。
その前は、デパートの商品本部の仕入担当者であった。
父親が東京・秋葉原で自転車屋をしていたので、紀夫は商人の息子である。
何時か自分の店を持ちたいと願っていた。
息子二人が相次ぐように筋ジストロフィーを発症したのを期に、24時間営業のコンビニ店を始めた。
歩けなくなった息子を自動車に乗せ、小学校へ送って行く。
車を校舎の外階段の側に置き、息子を背負って3階の教室まで登って行く。
息子の教室が外階段の近くにあったので助かった。
雨の日は雨合羽を着た。
長男の息子常雄が突然声「あ~」と声を上げ背中で泣いた。
「弟の実は歩けるのに、僕、死にたいよ」
紀夫は言葉を失った。
背中の息子は体を震わせるようにして泣いている。
大粒の雨の雫が外階段で跳ねるのを見ながら、切ない気持ちで一歩一歩登って行く。
ずっしりと息子が重く感じた。
2年生の次男の実はまだ、何とか自分で歩いて教室へ行けたが、4年生の長男は自分の足では歩くことができず、もどかしくなっていた。
仏教で宿業というが、これは宿業であろうか?
父親としての自分の業、母親のとしての妻の業が息子二人に出たのだろうか?
そもそも業とは何であるのか?
自宅兼コンビニ店へ戻る車の中で、紀夫は考え続けた。
考えてもどうにもなる問題ではなかったのであるが、頭に錯綜するものが鉛の塊のように浮かんできた。
2012年11 月 8日 (木曜日)
創作欄 過酷な日々 1)
どうすれば最少の日本語で最大の世界を見せられるか?
金沢紀夫は短歌、俳句の世界に高校生のころから遊んでいた。
石川啄木は短歌を「悲しみの玩具」と表現した。
だが、次第に虚無的な気持ちから、それらの玩具から距離を置きたいと思った。
長男の常雄が筋ジストロフィーを発症したのは、4歳の時であった。
同じく次男の実も5歳で筋ジストロフィーを発症した。
筋ジストロフィーとは、筋肉自体に遺伝性の異常が存在し進行性に筋肉の破壊が生じる様々な疾患を総称。
筋力低下や 筋萎縮して行く。
3~6歳で発症し、歩行障害が初発症状であった。
初期には、ふくらはぎに筋肥大が生じるのが特徴。
歩き方がおかしい、転びやすいなどの症状で発症が確認されることが多数である。
治療法が確立していない過酷な難病であり、30歳くらいが平均寿命。
遺伝子の異常で進行性の筋力低下を示す筋原性疾患であり、検査の結果妻が遺伝子を持っていたことが判明した。
妻のより子は3人姉妹の長女であったが、次女、三女には遺伝子の異常がなかった。
夫婦は思い余って信仰にすがった。
結局、長男は18歳で逝き、次男は16歳で天に召された。
思い返せば過酷な日々であり、息子二人の介護が夫婦の生活のリズムを大きく変えた。
妻は午前3時まで息子の身体介護をし、紀夫が午前3時に起きて面倒をみた。
夕食の時には酒を2合飲み、午後7時30分にはベッドに入り寝た。
動かずにいると筋力低下や筋肉の萎縮、関節の拘縮にも拍車がかかって、病気の進行が早まるという側面もあった。
寝たきりの息子二人は寝返りが打てないので、体を動かしてやるのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます