本当にあった封印事件②
長江 俊和映像作家
小説家
我々人間は、「禁じられたもの」に魅力を感じてしまう習性がある。あまりにも残虐なため封印された事件があると聞くと、どうしても気になってしまう。禁じられているのだが、「見たい」「知りたい」という欲求が生じるのが、人間の性(さが)なのだ。
だから人々は物語を生み出したのだと思う。神話や小説、映画などのフィクションのなかに、本当にあった禁忌を潜めて、渇望を満たしたのである。次に紹介する事件もその事例の一つだ。あの『進撃の巨人』(諌山創「少年マガジン」掲載、講談社)の元ネタになったとも言われている。
ソニー・ビーン事件
15世紀はじめのスコットランドの荒野で、旅人たちの行方が、次々と途絶えてしまという事件が起きた。失踪事件は20年間も続き、消えた旅人は1000人以上にも上ったという。この事態を深刻視した国王は、手当たり次第に疑わしい者を捕らえては処刑を繰り返した。しかし、一向に失踪者の数は減ることはなかった。
ある日、街に馬に乗った一人の男が現れる。男は命からがら、逃げ延びてきたという。そして彼の証言により、謎に満ちた大量失踪事件の真相が明らかとなった。
男は妻と二人、一頭の馬にまたがり、村祭りから帰る途中だったという。海に近い岩場の道を走っている時、物陰から何者かが現れた。次々と姿を現す異形の者たち。彼らは普通の人間とは違っていた。体の大きさもまちまちの、野蛮人のような風体だったという。男は剣を抜いて応戦するが、妻が捕まり、馬から引きずり下ろされた。
彼らは一斉に、妻の身体に群がってゆく。彼女の喉元を刃物で切り裂き、一人が鮮血をすすり始めた。腹を裂いて、内臓を取り出している者もいる。男は必死に抵抗するが、やがて力尽きてしまった。覚悟を決めたその時である。祭り帰りの集団が、こっちに向かって歩いてきた。彼らは慌てて、妻の死体を引きずりながら、その場から逃げ去っていったという。
男の証言をもとに、国王が軍隊を率いて一帯を捜索する。そして、彼らの住処とおぼしき、海岸沿いの洞窟を発見したのである。
すさまじい臭気が漂う洞窟内。天井には、人間の腕や足、胴体が吊されている。樽に詰められ塩漬けされた人肉もあった。獣のようなうなり声がして、奇怪な集団が襲いかかってくる。だが武装した捜索隊の敵ではなかった。彼らはたちまちのうちに制圧されたのである。
次々と旅人たちと襲い、その人肉を食糧にしていた奇怪な集団。洞窟に住み着いていた異形の者は48人。驚くべきことに、その集団は全員、血のつながった家族であることが分かった。彼らの父親の名はソニー・ビーンという。
生垣作りや溝掘りの一家に生まれたソニー・ビーン。だがある日、あくせく働くことに嫌気がさして、家を飛び出してしまう。そして、一人の女と知り合い、洞窟で暮らすようになった。町や村へは出向かず、洞窟の中だけで生活し、女と性を貪り合う日々。二人は一向に働こうとはせず、常に飢えに苛まれていた。
そこでビーンは、ある方法を思いついた。道行く旅人を襲い、金品を奪い去るのだ。その金で食糧を買えばいい。こうして、殺戮を繰り返すことになった二人。
襲った相手の命は必ず奪い、遺体は必ず洞窟まで持ち帰った。自分たちの犯行が、絶対にばれないようするためである。最初は強奪した金品で食糧を買っていたのだが、やがてそれもすぐに底を尽きてしまった。
そこで二人は、襲撃した旅人の人肉を食べることにしたのだ。一度に食べきれない分は干物にしたり、海水につけて貯蔵した。
近親相姦繰
そんな生活が、25年も続けられたのだ。性欲が旺盛だったという二人は、8人の息子と6人の娘を儲けた。さらに子供たちが近親相姦を繰り返し、孫息子が18人、孫娘が14人と、ビーンの一家の数は25年の間に、計48人の家族となっていた。
家族の人数が増加するにつれ、人殺しの回数も増えてゆく。空腹の子供たちの、腹を満たしてやらなければならないからだ。一家が25年間で殺害した被害者の数は、1500人以上にも及んだという。
捕らわれたビーンら一家は、全員に死刑が宣告された。殺された旅人たちの報復のため、彼らは残虐な方法で刑に処されることになった。女たちはこれを見るよう強制され、その後、生きたまま火に炙られ、焼き殺された。ソニー・ビーンとその家族たちは、命果てるまで、呪いの言葉を吐き続けたという。
ソニー・ビーン事件は、当時の公文書などに記録が残されていない。歴史家の中には、この事件は現実に起こった出来事ではないと考える者もいる。だが記録が残っていないのは、あまりにも残虐な事件だったため、当時のスコットランド王朝が全ての記録を削除し、封印したという説もある。
バニシェフスキー事件
この事件も、ソニー・ビーン事件に負けず劣らず、胸くその悪くなる事件である。アメリカの作家ジャック・ケッチャムが、この事件をもとに、『隣の家の少女』という恐怖小説を上梓している。
1965年9月、アメリカ・インディアナ州で暮らすバニシェフスキーは、シルヴィア(当時16歳)とジェニー(当時15歳)の姉妹を預かることになった。バニシェフスキーは7人の子供を育てる、35歳のシングルマザーである。
当初姉妹は、バニシェフスキーらと友好的な関係を築いていたのだが、ある日その状況は一変する。姉妹の養育費の支払いが、期日までに振り込まれなかったのだ。「性根をたたき直してやる」。そう言うと、バニシェフスキーは姉妹を殴打した。
二人の養育費は1日遅れて振り込まれたのだが、姉妹への虐待は終わることはなかった。彼女は自分の7人の子供たちにも、二人に制裁を与えるよう指示する。子供らは母に従い、姉妹の身体をコンクリートの壁に打ち付けたり、階段から突き落とすなどの行為を加えるようになった。
ある日、シルヴィアにボーイフレンドがいると知ると、バニシェフスキーは烈火の如く怒り出した。妊娠していると決めつけ、性器を何度も蹴りつけた。淫売と罵り、何時間も説教が続いたという。そのうち、近所の子供も面白がって、シルヴィアの虐待に参加するようになった。さらに、妹のジェニーにまで姉の虐待に参加するように強要した。
バニシェスフスキーの虐待は、さらにエスカレートしてゆく。シルヴィアの服と下着を脱がせ、ストリップを踊らせた。全裸の身体に煙草の火を何度も押しつけたこともあった。彼女の身体は傷だらけで、目も当てられないような姿となる。
バニシェフスキーは、彼女を地下室に閉じ込めることにした。入浴と称して、熱湯をかけて、火傷した箇所に塩を塗り込んだ。食事をほとんど与えず、排泄物を食べるように命令したこともあったという。
妹のジェニーは、バニシェフスキーの目を盗んで、もう一人の姉のダイアナに助けを請う手紙を書いた。手紙を読んだダイアナは、バニシェフスキーの家を訪れる。だが、家中探しても、シルヴィアの姿が見当たらない。不審に思いバニシェフスキーに聞くと、「シルヴィアは悪い子だった。叱ったら家を飛び出して、どこかへ行ってしまったんだ」と言う。
ダイアナは、ソーシャルワーカーに相談することにした。依頼を受けたソーシャルワーカーは、バニシェフスキーの家を訪問する。ジェニーに姉の行方を尋ねるが、彼女は「バニシュエフスキーの言うとおりだ。姉は叱られて、家を出て行った」と言う。
もちろんジェニーの証言は真実ではなかった。「本当のことを言うと、姉のようになる」と、バニシェフスキーから脅迫されていたのだ。だが、ソーシャルワーカーはそのことが見抜けず、調査を終了させて帰ってしまった。
「私は淫売です」
私をここから連れ出して
姉妹が下宿を初めて、3ヵ月以上が経過。バニシェフスキーは、シルヴィアがベッドで失禁したことに激怒する。腹に真っ赤に熱した針を押し当て、『私は淫売です。そのことを誇りに思っている』との文字を焼き付けた。
さらに両親に宛てた手紙を書かせた。手紙の内容は、「セックスや盗みを繰り返す、自分の悪行を懺悔する……。悪い少年たちに連れ去られ、幾度も殴られ、顔や身体に字が残り、腹部に焼き文字も入れられた」。もちろん、その内容はでたらめである。
数日後、シルヴィアは息を引き取った。すぐにバニシェフスキーは通報し、警官が駆けつけた。シルヴィアの書かせた手紙を、これ見よがしに差し出して言う。「この子は淫売なんだよ。悪い男に連れ回され、ひどい目にあって帰ってきた。こうなることは自業自得だったんだ」。
だがその時、ジェニーが勇気を振り絞って、警官に告白した。「私をここから連れ出して。何でも話すから」。
ガートルード・バニシェフスキーは殺人容疑で逮捕された。その後裁判が開かれ、無期懲役の判決が下される。それから5年後、バニシェフスキーは控訴し、減刑が認められ、1985年に出所。事件から25年後の1990年に肺ガンにより死亡した。
彼女の訃報を新聞記事で知ったジェニーは、満面の笑みを浮かべて言ったという。「いいニュースだ。忌々しいバニシェフスキーの婆さんが死んだ。私は満足だよ」
『小作人とアザラシ女――スコットランドのいいつたえ』ジュディ・ハミルトン 先川暢郎・橋本修一訳(春風社)
『殺人百科(新装版)』コリン・ウイルソン パトリッシア・ピットマン 大庭忠男訳(彌生書房)
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