内容(「BOOK」データベースより)
本書は、60年以上前の当時の日本国民がヒトラー・ユーゲントをどのように見、どのように迎えたのか、主として、当時の新聞記事や外交文書、青少年団資料を手がかりに、ヒトラー・ユーゲントの巡歴した全国各地の対応を明らかに、その熱狂と興奮の背後で進行した青少年団の統合化・一元化の意味を問うてみた。
訪日を歓呼の群衆が迎え、3か月にわたってブームを巻き起こしたドイツの青少年団。
10代からナチズムを徹底する統一組織だった。
1938年8月から11月にかけ、30人の代表団は北海道から九州まで回り、交歓の催しを重ねた。
ユーゲント訪日の目的は、親善を深め、その青少年運動をアピールする目的であった。
東京駅頭の歓迎式典で日本側の役人や軍人をまず驚かしたのは、団員の体格のよさと、眼鏡をかけた者が一人もいなかったことだ。
制服が美しい。
行進、敬礼など動きに乱れがなく、迎える日本側の不そろいが目立ったいう。
ユーゲントの人気は高く行く先々で数千、数万の人々を集め、通過駅でさえホームを埋めた。
女生徒からサイン攻めする光景も。
規律正しい彼らに日本も見習えという意見も相次いだが、異論を唱えた外務省の役人がいた。
「良い青年たちだが、ナチ的考えしか知らない。自分というものがない」。
号令で一斉に動く体操のような存在。
「号令をかけなければ、何も出来ぬものになりはしないか」と懸念された。
訪日の翌年9月、ドイツはポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まった。
ユーゲントも戦争に巻き込まれた。
ヒトラーユーゲント(独: Hitlerjugend, 英: Hitler Youth)は、1926年に設けられたドイツのナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳される
ヒトラーユーゲント隊旗
ヒトラーユーゲントにおいては、同世代の指導者から肉体の鍛練、準軍事訓練、祖国愛が、民族共同体の一員である青少年に集団活動を通じて教え込まれた。1936年ヒトラーユーゲント法により青少年(女も10歳〜21歳、女子グループは「ドイツ少女団」と呼ばれた)の参加が義務づけられ、1939年には、800万人を擁する集団へと成長した。
戦局の悪化とともに1944年に国民突撃隊に併合された。茶色の開襟シャツが制服(なお支給はなく、自費で用意を求められた)。
1943年以降、戦局が悪化するとユーゲント隊員は兵として動員されたが、十分な装備や訓練を受けない彼らは多くの死傷者を出した。ヒトラーユーゲントはベルリンの戦いにおいても戦闘に参加し、多くの戦死者を出した。その後、ドイツの降伏により解体消滅した。
1936年(昭和11年)11月25日の日独防共協定の締結によりヒトラーユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハが日独の青少年相互訪問を提案。日本政府がこれを受け入れた結果、1938年(昭和13年)8月から11月にかけてヒトラーユーゲントの訪日が行われた[1]。
滞在中は、明治神宮及び靖国神社を参拝した他、東京陸軍幼年学校も訪問した。
朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント:獨逸青少年團歡迎の歌』が作られ、1938年(昭和13年)10月には日本ビクターからレコードが販売されるなど日本国民を挙げての大歓迎を受け、親独気運の醸成に大きく寄与した。
同時期に日本からは各地の学生、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」(現在の日本青年団協議会)の訪独団がドイツに派遣され、ナチス党大会の参観、ヒトラーと会見して同盟国のドイツの見聞を広めた。
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