牛田家の長男善兵衛の突然の死は、信子はじめ家族を深い悲哀や悔恨で心を覆った。
下女の真紀も3畳間で泣いていた。
「お前たち何時までも、メソメソするのでない」おお奥様である照子は叱咤する。
照子は和服の胸の帯に守り刀を秘める武士の孫娘として慄然と振舞う。
亡くなった善兵衛は下女、下男に対しても「さん」付けで呼んでいた。
「真紀さん、いつもありがとう」善兵衛は身の回りを世話してくれる下女に優しく声をかけていた。
そして、小作人たちの労苦にも理解を示していた。
彼は大正ロマンの白樺派の人道主義を体現したのである。
兄の死が契機となり、信子は吉屋信子の小説の世界へ誘われてゆく。
例えば、屋根裏の二処女 吉屋信子著
著寄宿舎を舞台に章子と環という二人の〈処女〉が永遠の愛を追い求める孤独と苦悩の日々。
信子が弱冠二十三歳で書き上げた重厚なる半自伝的長篇。
長らく秘かに読み継がれてきた清く美しい物語。
参考
武家社会は男性優位の世界で、女性は弱い者とされてきました。
武家で子女が生まれた際に、魔除け、邪気払い、様々な病気などから身を守るためのお守りとして短刀を与えていました。これを守り刀と言います。
また、娘を嫁に出す際に、新しい人生の門出として、花嫁を様々な災難から守るためのお守りとして短刀を持たせたこともありました。
これら守り刀は通常、5~6寸(約15~18cm)の短い物で、女性の帯から少し出る程度の長さです。戦国時代に主君が死んだあとに、正室である女性が自害する場合も、親から贈られた守り刀を使用したようです。
時代が明治になると廃刀令が施行され、刀剣類の所持は規制されました。現在は銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)による規制があるため、守り刀の風習は次第に風化していったようです。
参考
小作制度(こさくせいど)とは、農民が生産手段としての土地をもたず、その土地の所有者や占有者から土地の使用権を得て農作物の生産に従事する制度。
小作制度は土地の性格あるいは所有権や占有権の性格に差異がある。
主として田畑など土地の所有者である地主が小作人(こさくにん、単に小作と呼ばれることもある)と呼ばれる奴隷に土地を耕作させ、租税分に上乗せして成果物である米や麦などの農作物に小作料(こさくりょう)と呼ばれる地代を課す、土地形態、身分体系を指す。
地主は奴隷の労働に因る小作料で肥太った。
小作料は封建的身分制度をベースとして経済的合理性を無視した高額で、農村に富裕な地主身分と貧困な小作人という搾取構造を固定し貧富と身分の格差を拡大させた。
わが国の戦後農地改革は,敗戦直後,農林官僚の手によって作成され,昭和20年12月28日に公布された農地調整法改正法律(1日法は昭和13年制定)をもって開始された。
戦後、農地改革によって急迫した食糧鰐題の解決を図るとともに,苛酷な小作制度の下で小作人の不満が高まり,農村が過激な思想の温床となることを坊ごうとした。
一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す]。
元々、日本の官僚の間には農村の疲弊を打開するために地主制度を解体する案はあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く、実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。
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